園庭の石段からみた情景〜園だより7月号より〜 2023.7.5
ほろにがカエル青春狂走曲
 結果としてそれぞれの成長とスキルアップにつながっているのだから。『自分らしく・自分にとって最もやりやすいやり方』でチャレンジし、アウトプットが得られる成功体験を積み重ねて行けたなら、その子にとっての『がんばれる糧』がそこに蓄えられてゆくでしょう。そしてそれを大人が評価してくれたなら、その喜びも何倍にも膨れ上がります。兎角大人は『言った通りにしなさい』と自分のやり方を押し付けてしまいがちですが、それに固執し過ぎればただの自己満足になってしまいます。『言った通り』『思った通り』に子ども達が動いてくれたらそれは嬉しいものですが、その『道のり』や『やり方』は子ども達に選ばせてあげてもいいと思うのです。まずは彼らの「出来た!」と言う想いを満たしてあげることが肝要。それから効率の良いやり方や社会が求める道筋や作法をバイパスとして、折を見ながら一緒に開発して行ってあげたならそれで良いと思うのです。そう言う意味で言ったなら6人のたんぽぽさん、見事に6人6様のやり方で『幼稚園』と言うものを自分の中に受け入れようとしてくれています。今はその姿をただただ見つめながら、「がんばってるね!」と一緒に喜んであげたいと思う僕なのです。

 4月の終りに『松岡いでご』にて捕って来たオタマジャクシ。その後、むかし魚を飼っていた時に使った金魚砂利で浅瀬と丘を作り、飼育ケースの水をぐぐっと減らしもしまして、溺死事故防止のための施策を徹底して行なって来た僕ら。その甲斐あって、溺死したカエルは6月末の時点で一匹に留めることが出来ました。例年、おたまから変態する過程で溺れてしまうカエルが多く出るのですが、『カエルが溺れる』って意外でしょう。でもよくよく考えてみればおたまの時はエラ呼吸をしていたのが、カエルになるために肺呼吸に切り替えてゆくのです。『それがいつなのか』についてカエル君に教えてくれる者はありませんし、カエル自身が自分の体に聞きながら・変化を自ら感じながら『その事実』を受け入れてゆくしかないのです。両手両足の生えそろったカエルがまだ尻尾を残したまま、飼育ケースの壁に貼り付いてじっとしている姿を良く見かけます。その時が正に肺呼吸を会得している真っ最中。自分の体の組成が変わってゆく時とは一体どんな感じなのでしょう。子どもが成長痛で体の痛みを訴えることがありますが、エラが消えて肺が出来てゆくカエル君と、小さな体を内側からアップデートしてゆく子ども達、「どちらもがんばっているんだよね」と思ったもの。カエルも子ども達も偉い。今までの自分と違うものになろうとがんばっているのですから。このカエル達を見つめているうちに、子ども達の成長期における体の変化と心の不安について改めて想いを馳せたものでした。
 そうしてカエルになったおたま達。例年ですとここで『お別れの季節』。オタマジャクシの頃は鰹節や炒り子・金魚のエサなどなんでも食べてくれるのですが、カエルになると生きたエサ・動くものしか食べなくなるのです。大人のカエルならばミミズや昆虫を食べてくれるのでかつては冬眠明けまで飼ったこともあるのですが、カエルになりたてのこの子達は本当に小さなちびっ子達。与える適当なエサがないことから、カエルになったらお別れをしていたのでありました。そんな時に幼稚園のプランターにこれまた孵りたてのジョロウグモを見つけた美香先生。それを飼育ケースに入れたなら、すぐさまカエルが跳びつきパクっと一口で食べたのです。これは僕にとって衝撃の出来事でありました。毎年秋になるとあちらこちらに大きな巣を張り巡らせるジョロウグモを見つめつつ「今年は蜘蛛が多いねぇ」なんて言っていたのですが、今のこの時期にこんなに沢山の蜘蛛がいることに気がついていなかった僕。よくよく考えれば当たり前なのですが、蜘蛛だって小さい姿で生まれて来て、あんなに大きくなって獲物を捕るようになるまでには、相当厳しい自然の中を生き抜いてゆかなければなりません。そのためには今時分、このような小さな蜘蛛が沢山いてしかるべきはずなのに、その姿に気付かなかった自分の体たらく。まだまだ僕にはこの地にて気付くべきこと・学ぶべきことが沢山あることに気付かされた出来事でありました。こうして子蜘蛛がカエル達の主食となり、子ども達も蜘蛛を捕まえてはせっせとカエル君の元へと運んでくれるようになりました。
 そうやって気付きを得させられたなら、色々と見えて来る景色が違って来ます。幼稚園下の橋・大正橋から日土小学校へ向かう川っぷちの遊歩道。川側に15cmピッチで格子のフェンスが続いています。そこにそのピッチごとに隣り合って張り巡らされている蜘蛛の巣群を発見。子蜘蛛達にとっては巣をかけるのに丁度良い間隔だったのでしょう。そんな蜘蛛の巣が延々と続き、そこには一匹ずつ小さな蜘蛛がいるのです。子ガエルのエサに子蜘蛛はやりやすいものであったのですが、いかんせん数が捕れなかったのがネックでした。園庭を探しても一度に5匹がいいところ。それを6匹のカエルが入っている飼育ケースに入れても、満足に行き渡るものではありません。そんな時に見つけたこの『蜘蛛の巣マンション』。下からビニール袋でそっとしゃくれば、そこで発生する気流に乗って蜘蛛は袋の奥に流れ込んでゆきます。中にはワンピッチの格子に『上下二世帯』で蜘蛛が暮らしているようなところもありまして、5mほどゆく間に20〜30匹捕獲することが出来ました。そのビニール袋を飼育ケースの中でひっくり返すように蜘蛛を送り込んだなら、降って来た瞬間に跳びつきほおばるカエル達。一生懸命エサを捕って来てくれた子ども達の想いは嬉しかったのですが、やっぱりまだちょっと腹ペコだったよう。先ほど食べたばかりだと言うのに次々と蜘蛛を平らげてゆくカエル達。食べた量に比例して身体も大きくなってゆくようで、子ども達と一緒に嬉しく見つめたものでした。

 一つうまくゆくと次なる課題が生まれて来るのは世の常です。最初はカエル君の口に丁度良い大きさだった蜘蛛達ですが、捕られず残ったものは段々と大きくなってゆく訳です。すると今度はカエルの身の丈ほどの大きさの蜘蛛ばかりが『蜘蛛の巣マンション』に残されて…と言う問題に。このジョロウグモが繁殖するのは一年に一度。ここから先は残された大きな蜘蛛しか捕れないことになる訳です。時より空き家になったところに他所からやって来たと思われる小さな蜘蛛が見つかることもあるのですが、全体としてはやり巨大化しています。背に腹は代えられないので大きめの蜘蛛を入れたなら、最初は無反応だったカエル達。入れたその日は『子ガエルなんてどこ吹く風』と我が物顔で飼育ケースの中を闊歩していた蜘蛛達でありました。それが一日二日と置いておいたなら、蜘蛛が減っているではありませんか。カエルの方も『背に腹は代えられない』と言うことでしょう。食べたばかりでお腹が満たされている時には見向きもしなかったちょっと大きな蜘蛛達に、お腹がすいた頃、意を決して果敢に挑んで行ったのでありましょう。ここに成長の糧があるのです。生き物は取捨選択のうちに生きています。大物に挑んでゆくリスクと腹ペコで餓死が迫り来るリスク、この二つを天秤にかけてやはり今を・そして未来を生きるために彼らは『挑む』ことを選んだのでありました。
 でもそれは決して無謀な挑戦ではありませんでした。そんなしてがんばっているカエル君を改めて見てみれば、カエルになりたての頃は線の細い細い子達だったのに、今では体が一回りも二回りも大きくなり、それもパン!と張っているような力強ささえ感じます。その度合いには個体差があるのですが、それは「きっと食べた量に比例しているのだろう」と想像に難くありません。蜘蛛が入って来ると体の大きなカエル達は躊躇することなく真っ先に跳びついて捕食してしまい、小さなカエルにエサが回って来る確率が低くなり、これにより更に体格の優劣に差が出てしまうと言うことが実感として伝わって来た情景でありました。でもこれが本来の自然の姿。強くて体の大きいものが生き残り子孫をつないでゆくのが常套手段で、それにより種全体が栄えるのです。そこには淘汰や競争が存在するものであり、蜘蛛にしてもカエルにしてもワンシーズンのうちにこれだけの数が生まれて消えてゆくからこそ、健全な自然のサイクルが保たれ受け継がれてゆくのでしょう。
 昔、宮崎駿氏が自身の描いた漫画『風の谷のナウシカ』の中で、王蟲(おうむ:ダンゴムシの王様みたいな巨大な虫)に『我が一族は個にして全、全にして個』と言わしめています。個々の生体がテレパシーのようなもので想いを共有し合っている王蟲の世界。故に個々の想いが一族の総意として集約され、それがまた個々の生体にフィードバックされると言う共同体が形成されているのです。例え個の命が潰えようとも、それを『自己犠牲』と言う悲観的な想いで受け止めることさえしていない彼ら。でも自然とはそう言うもの。自分に与えられた状況をありのままに受け止めながら、なすべきことをなす。その上で種が滅びないように沢山の命を紡いでゆくのが彼らの作戦・『全の総意』。それを全ての個体が本能として共有出来ているので、『また、我らは全にして個』と言えるのでしょう。
 一方の人間は、僕がここで『自己犠牲』と呼んだように擬人化した自然の事象から摂理を学ぼうとしたり、自分の身に置き換えて考える能力を駆使することで、外界のものを自分の中に取り込む力を高めています。言わばその『共感力』が利害関係の複雑に絡み合った人間同士の想いを『あるひとつのベクトル』へと集約してゆくのです。我々の利害とは個人レベルにおいて全く異なる複雑なもの。であるがゆえにそれを満たす最大公約数を求めるのは難しい。『お互いに相入れないところは切り捨てる』、それが公約数の定理。そうしたならばお互いに、ほとんど自らの想いを満たすファクターは残らないかもしれません。つまり『解なし』。逆にそれが全てで一致した時、それは『個が全』になる時です。しかし人間と言う生物にとってそれが良いものとは限らない。特異性を持った『個の個性』にこそ物事を打開し切り開く可能性が宿っているから。同じ営みを続けてゆくには『個が全になる方向』に傾いた方がやりやすい、言い換えれば『効率的』である場合が多いでしょう。人と違うために求められる修正や補正は、個にとっても全にとっても効率面から見たなら『非効率的』。しかし全ての人がみな画一化されてしまったなら、一つの外乱で・一つのウイルスで・一つの事故で全人類が絶滅してしまうこともあり得ます。そんな時の為に『人と違うこと』を許容することが『人類の財産』となるのです。そのためにも『多様性』は必要不可欠。一人の存在が・アイディアが・その個性が、人類を救うカギとなるかもしれないのです。
 『多様性』について生物学的にはこのように述べることが出来るのですが、もう一つ私達にとって最も重要なことは『神様が私達の個性・多様性を愛してくださっている』と言うことです。『人類にとって有用だから』だけでは『私と言う人間の生きる意味』にはなり得ない。だってそれは確率の問題で『違う私でもいい』と言うことになってしまうから。神様は天地における全てのものを創造された時に、全てを「きわめて良いもの」とおっしゃって下さいました。神様が自らお創りになり、それをもって『良いもの』と言ってくださったのです。他人は私に関して『良し悪し』や『優劣』をとやかく言うでしょう。自分自身もそう。『出来る自分』を誇り、『美しい自分』を愛するもの。それは自分にとって『有用』であるから。人間の価値観ではそれが限界。だって自分自身がそんな自分しか愛せないのだから。出来る時はいい、美しい時はいい。しかしそうでない時に、そうでなくなってしまった時に、『誰にも愛されない自分』『自分自身も愛せない自分』そんな自分を救ってくれるものがあるとするならば、それは神様の愛しかないのです。その保証が『私達を創ってくださったのは神様だから』と言うことと、『自らお創りになった私達のことを「良し」と認めてくださったこと』、それ以外には何もないのです。そんな神様の愛に包まれながら、私達は神様の『良いもの』とおっしゃってくださった御言葉を体現すべく、『より良く生きたい』と願いつつ精一杯生きてゆけば良いと思うのです。

 カエル君達と共に暮らす中で、今年は色んなことに想いを馳せることが出来た年となりました。カエルを生かすために沢山の蜘蛛を捕まえ与えたこと、これは僕らの都合と正義でしかありません。蜘蛛にとっては災難だったに違いありません。しかしカエルを生かすためにはこれだけの命による補填が必要であり、そんなにしてまで育ててもカエルが死んでしまうこともあることを子ども達は知ることが出来ました。7月に入り飼っていたカエルが突如2匹死んで、残りのカエルを逃がすことにしたすみれ組。逃がし終えた後、飼育ケースに残されたカエルの遺骸に誰も想いを馳せることなく散り散りにその場からいなくなろうとした彼ら。それを柄にもなく大きな声で呼び戻した僕。「それで終わりじゃないんじゃない!」と言う僕に、いつもと違う気配を感じたのでありましょう。実祐先生を交えてどうしたら良いのか話し合いを始めました。実祐先生や僕の介添えもあったのですが、死んでしまったカエルのためにお墓を作って埋めてあげることに。最後に「どうやってお別れしたらいい?」と問いかけると「お祈りしてあげる」と答えた男の子。「じゃあ、お祈りしてあげて」と言うと「どうやったらいいかわからん」と返す彼。「カエルが死んじゃってどう思った?それをお祈りにしてあげたらいいんよ」と言ってもなかなか思い切れない男の子。「じゃあ実祐先生にしてもらおう」と突如先生に振った僕。突然のことにも関わらず精一杯自分達の言葉でお祈りをしてくれた実祐先生。「きっと先生の想いもこの子達に伝わったよね」と思いながらその情景を見守った僕でありました。そう、この子達は経験不足。命と向き合うこと、お世話に対する一生懸命さや、死んでしまった命に対する想いと敬意、そしてお別れの作法など、もっと教えて来なければいけなかったことが沢山あったのでしょう。虫捕りは大好きで『てんこ』では捕まえられるのに、その生体に素手ではなかなか触ることが出来なかったこの子達。最近になってようやく虫やカニにも触れるようになって来たのですが、本当のふれあいについて学びも感受性も足りなかったのでありましょう。大量の蜘蛛をエサにカエルを育てたことが命の軽視につながったのなら、それは僕らの落ち度・配慮不足。『命をつなぐために他の命をいただくことも必要だけれど、だからこそ与えられた命は尊いもの』と言うことを伝えるところまで行けなった僕の力不足。でも今回、色んなことを知り、命との向き合い方を学んだこの子達。彼らにとってこれが次につながる体験となってくれるよう、この僕らの失態を用いて神様がこの子達を成長させてくれるよう、心から祈っている僕なのです。多くの命に支えられつつ多くの教えと学びを賜った、『ちょっとほろ苦い青春』の思い出です。


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