園庭の石段からみた情景〜園だより9月号より〜 2023.9.11
残暑の中に見つけた『秋の気配』
 今年は夏の終りにも猛暑が続き、暑さを引き連れたまま新学期が始まりました。「この分じゃぁ、子ども達も僕らもグッタリかな?」とも思ったのですが、世間が言うほどヘロヘロではない自分に意外な感じ。「これは恒常的に数人の子ども達と過ごした預かり保育のおかげかな…」と言う気がしています。預かり保育の担当日は勿論、他の日も事務業務と電話番のために毎日幼稚園に足を運んだこの夏休み。そのルーティーンを保ちつつ、ちょっと遅い出勤や当番外の『半OFF』の日もあると言う良い塩梅の夏休みが僕をリフレッシュさせてくれたのでしょう。
 『ON/OFF』の二元スイッチでパッタリOFFに入ってしまうと、次のONに入る時にそれまで普通に出来ていたことが出来なくなってしまうことがあります。朝、決まった時間に起きること。普通に朝の準備をすること。そして普通に幼稚園にやって来ること。一学期には普通に出来ていたことの数々が『久しぶりの登園』となった時に、「できるかな?」「できなかったらどうしよう…」と負の連鎖に陥って、出来なくなってしまうのです。そうすると幼稚園までやって来たものの、自らも訳も分からず涙がこぼれたり、「幼稚園イヤ!」って心が頑なになってしまったり、毎年夏休み明けにはそんな光景を目にします。でもそれは子ども達ばかりでなく僕らも同じ。今年の僕は夏休みを程よく過ごせたからこそ、出だしの心と身体が少し軽い気がするのかもしれません。いずれにしても、人間、心も体も休養が必要です。
 夏休みは本当にありがたいお休みです。この『OFF』があるからこそ、普段は自分の実力以上の物事に挑戦し、自らを高めてゆけるのだと僕はそう信じています。これが365日同じように繰り返してゆく課程であったなら、怠け者の僕などは力の入れ加減が6割程のものとなっているかも。でも幼稚園は学期ごとのコールラインを目指して走る中距離走。与えられた時間の中で『出来ることを出来る限りがんばれる』と言う恵まれた環境の中で、日々の務めと学びを得ています。言ってみれば僕らは『ON/OFF』の最たる現場で暮らしているのかもしれません。その恩恵に感謝しつつ過ごした夏休み。でも毎年その上で『休み明けのスタートで中々スイッチが入らない』と言う僕の自身の課題もありました。それが今年は思いがけず実践出来た『半OFF生活』のおかげもあってか、いつもより心も体も楽に入ることの出来た新学期。全てのものを備え整えてくださった神様に心より感謝です。

 それと同じことが子ども達にも言えるようでして、夏休みに一杯遊んで来た子達は新学期が始まっても元気元気。物理的・精神的な負荷から解放された日々の中、自らの想いを満たすために遊び・挑戦して来た足跡がびっしり記されていた夏休み帳。そのミッションも自己研鑽なので達成出来なくてもプレッシャーもダメージもありません。また体を一杯に使って遊んだ子ども達は、その良く焼けた真っ黒笑顔が夏の大冒険の数を教えてくれます。そんな彼らは体力もしっかりと保たれて、復帰後の幼稚園でも暑さにも負けず元気に走り回っています。一方、猛暑負けしてダラダラゴロゴロ過ごしていた感のある子達は、復帰にちょっと手こずっています。体力の切れて来るお昼からは、もう体も心も動かなくって「トホホホホ…」。体力があればモチベーションもキープされ、『幼稚園モード』でがんばれることを見せてくれた一学期を知っているだけに、僕らも「あらら…」と思ってしまいます。でもまあ夏休みを挟んでの新学期は、多かれ少なかれそう言うことがみんなあるもの。僕も丸々ひと月お休みしていた執筆活動に四苦八苦しながらこの文章を書いています。またちょっとゆっくりの慣らし期間を過ごしながら、みんなの勘とリズムと体力を取り戻してゆきたいと思っている学期始めです。

 そんな今年は相変わらず季節の巡りが早いよう。去年はこれから熟し出した花桃の実が、この秋ははや完熟してヤギ達の御馳走になっています。食べても食べてもお腹一杯にならない葉っぱに比べてこの桃の実は『食べで』があるみたい。子ども達が運んで来てくれる熟した桃を嬉しそうに食べながらも、「もっと沢山食べたいの」と言わんばかりに口からピッと種を飛ばしてすぐさま次にかぶりつく技を見せた黒ヤギの『ハートちゃん』。「早く食べないと茶ヤギの『さくらチョコちゃん』に取られちゃうから!」とそんな想いで編み出した彼女の技をおかしく見つめたものでした。ヤギの世界でもその関わり合いから派生する『自己研鑽』があるんだな…と思う一方、「課題が生じるからこそ自らを進化させてゆくこの構図は、動物も僕らも同じなんだね」と子ども達の成長に重ねて想いを馳せたものでした。
 またもうひとつ、ここ数年で沢山の実をつけるようになった栗の木の話。去年の今頃は収穫するには時期尚早で、「早く食べられるようにならないかな?」と思いつつ見上げていたら運動会練習が始まって、ある日吹いた大風で落っこちて山の仲間にみんな食べられてしまいました。それが今年は新学期明けからいい感じ。木の上にたわわに実りはぜ始めた栗の実が生り下がっているのを見つけたある日のこと、「栗拾いに行こう!」と子ども達に声をかけました。夏休み明けでそれぞれに自分の遊びに夢中に勤しんでいた子ども達。『栗』の魅力も『栗拾い』が何たるものかもあまり伝わらなかったようなのですが。「栗!」と聞いて勇み付いて来てくれた少数精鋭の『第一次栗拾い隊』によりまして、僕らは栗拾いに出かけたのでありました。
 大きな栗の木の下までやって来るとすでに毬(いが)栗が落ちていたのですが、どれも中身は空っぽ。僕らより自然を良く知っている山の仲間が夜のうちにやって来て、上手に毬から栗を外して持って行ったよう。でもまずは拾って中身を確かめることから始めます。それが『栗拾いの作法』だから。熟した栗が風によってゆすられて、『良い頃合い』に落ちて来るのをありがたくいただくのが『栗拾い』。そんな体験をしてもらいたくて、そこから始めてみました。今の時代は何でも『早い結果』が求められるもの。でもそれが本当に良いこととは思えない僕。確かに便利でスピーディーに事が運びはするのですが、『物事の過程』と言う大切にすべきものがみんなブラックボックスの中に押し込められて、本当の理解や知恵の習得につながらないような気がするのです。僕らが子ども達に伝えたいのは、『目の前にあるもの』から自分で情報を切り出して、感じ・考え・そしてまた現物に立ち戻る『学びのループ』。そこにそのものがある限り、何度でも現場に立ち帰り・考え・考察し直せるリアリズム。それこそが本物の『学び』だと思うのです。そんな想いで子ども達と毬栗を拾っていたならば、ちゃんと中身の入っているものも出て来まして、みんなで大喜びしたものでした。それに続いて頭の上に生っているハゼ始めの毬栗を高枝ばさみで取ってあげれば、「ちょうだい!ちょうだい!」とその下に群がる子ども達。そんな彼らの姿が視界に入って来るのですが、「何かの拍子に子どもの上に落としては大変」と気を使いつつ、誰もいないところへ毬栗を投げる僕。なぜか『さるかに合戦』の一場面を思い出しながら、「当てるなよ、当てるなよ」と自分に言い聞かせつつ、そんな自分をおかしく思いつつ、せっせと毬栗を収穫した僕でした。
 さて、そうして手に入れた毬栗を囲みながら、『毬外し』に挑戦し始めた子ども達。でも毬の中からどのようにしたら栗が取り出せるか分からず四苦八苦。それぞれ手に手にトングや火ばさみを持って格好だけはイッチョマエなのですが、とげに触れればチクッと痛いし、火ばさみは思うように働いてくれないし…。そんな子ども達に美香先生が『毬外し』の手ほどきをしてくれました。するとすぐにコツを掴んで上手に毬を外し出したこの子達。二人でペアになって協力し合い『押さえている子と取り出す子のコンビネーション』をもってすれば取りやすいことや、一人でも足で踏んづけて押さえながら毬を開いたら栗が取れると言うことなど、一言二言のアドバイスと先生の実践から学びを得、「あとは任せて!」と言った風に自信に満ちた顔で次々と毬を外していた子ども達でありました。中にはペッチャンコの栗もあったのですが、「製作に使うから取っておいて」と言う先生の言葉を受けまして、「ぺらぐり!ぺらぐり!」と喜びながらそれ専門に取って集める男の子も現れて、今年の栗取りは色んな学びと体験を僕らに提供してくれたのでありました。

 それから中二日三日空けながら、僕らの栗拾いは『第2次』『第3次』…と回を重ねてゆきました。その度に代わるがわる色んな子達が参加してくれて、継続的に学びの場を与えてくれた今年の栗取り。子ども達のスキルと僕との『栗取りコミュニケーション』の練度もどんどん上がってゆきまして、ナイスなプレイが見られるようにもなって来ました。あの『さるかに危機』を何とかしたくて高枝ばさみのハンドリングに磨きをかけた僕と、火ばさみを思うように操れるようになって来た子ども達。僕が毬栗を高枝ばさみで切り取り掴んだままで差し出せば、子ども達が火ばさみで空中キャッチで受け取って、と言った高度な『美技』も出来るようになりました。これによって『毬栗被弾』の心配もなくなり、山のおさるの大将はほっと胸をなでおろしたもの。めでたしめでたし。また『毬外し』の方も先生無しの子どもだけでどんどん出来るようになりました。時々小さい子が思うようにならない火ばさみに業を煮やし、ついつい手が先に出て「いたっ!」ってなるのはご愛敬。「そうやって学びを得てゆくんだよね」と実体験に基づくこの子達の成長の姿を嬉しく見つめたものでありました。そうは言いながらもこの短期間のうちにこんなことも出来るようになってくれたこの子達。その顔ぶれを見るとやはり毎回栗取りに志願してやって来るいつものメンバーの姿が目につきます。ここでも子ども達の好奇心に基づくモチベーションが成長の糧となっているんだなぁと感心してしまう僕。その日の栗取りが終わるとすぐ、まだまだ木の上に生っている青い毬栗を見上げながら、「また取りに来ようね」と嬉しそうに笑ってくれる子ども達なのでありました。

 それで終わらないのが今年の栗フィーバー。毎回10〜20粒ほどの栗が収穫され園まで持ち帰って来るのですが、それをゆっくり時間をかけながら美味しくゆがいてくれる美香先生。ゆで栗は皮をむこうとするとボロボロバラバラになってしまうので、殻ごと半分に切ってスプーンですくっていただきます。おそらくこんなにして栗を食べるのは初めてであろうこの子達。ぎこちない手付きながらも栗をスプーンですくっては口に運び「おいしい!」と言っておりました。中には最初は「栗嫌い!」と手を出さなかった子もあったのですが、お友達のあまりの美味しそうな食べっぷりに、自分も食べてみたら「あ、おいしい!」。『食育』とはそう言うものなのです。何がトリガーになるか分かりませんが、自分にとっての非日常から不意に飛び込んで来たシグナルが、自分の中のかたくなさと化学変化を起こし、そこで生じる感動が何よりの隠し味となるのです。それは『自分で育てた』『自分で取った』と言う自負であったり、友達や先生のまばゆいばかりのリアクションだったり、更にはちょっとがんばってチャレンジしてみた自分に対する周りからの感嘆の声やリスペクトと言ったものだったり。それぞれにとってのその時々に心に刺さった感動のつぶてが子ども達の想いを動かしてくれるのです。『食欲の…』と言われる秋もこれからが本番。こんなこの子達の心を揺り動かす可能性を秘めた体験の場が一杯一杯転がっているはず。僕らは神様が与えてくださったこの豊かな自然に感謝しながら、この子達の成長の一歩一歩を見守ってゆきたいと思っています。残暑の中に僕らが見つけた小さな小さな『秋の気配』。それらが子ども達の心をゆっくりそっと育んでくれている秋の始めです。


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