園庭の石段からみた情景〜園だより1月号より〜 2024.12.31
自由と愛(寛容)に満たされて
 終業式を終え、日曜学校のクリスマスもやり遂げて、「クリスマスも終わったなぁ」とちょっとほっとしていた頃。TVから「今日はクリスマス・イブ!」のアナウンスが聞こえて来ました。「そうだよな、本当は今日がクリスマスなんだよな」と改めてクリスマスを感じた時となりました。いつもは先に先にと行き急ぐ世間を「まあまあ」とたしなめている僕ら。でもこのクリスマスばかりはどうも逆の立場になってしまいます。2日のひよこクラブから始まって、1213日の幼稚園クリスマス、19日教会クリスマス、そして22日の日曜学校と、これだけクリスマスをやって来たら「終わったぁ」と言う気にもなるもの。「でもそれって僕らの都合だね」と思いながら、クリスマスの物語を思いつつ静かに深まりゆく聖夜を過ごしたものでした。

丁度そんな頃、前回書いた園だよりを思い返していた僕。『佐和子先生が書いた羊飼いの歌』と紹介をした劇中歌について考察を綴ったのですが、「あれってもしかして讃美歌だった?」と気になり出したのです。日土幼稚園で歌われている歌の数々を作詞作曲して来た佐和子先生ですが、ページェントに用いられている歌の中には『子ども讃美歌』から引用されたものも結構入っています。早速確かめてみるとやはりそうでした。『佐和子先生の聖劇』と言う想いがあまりに強かったが故の僕の早とちり。『私は小さい羊飼い』は子ども讃美歌の楽曲でした。お詫びして訂正させていただきます。教会音楽や讃美歌に幼い頃より触れ親しんで来た佐和子先生の作る楽曲は、『子ども讃美歌』の曲調や節回しと大きく変わらないことも勘違いの要因だったよう。「そう言えば『主(しゅ)』とか『イエ・ス』など12音の上に複数の言葉を乗せている讃美歌って結構あるよね…」と礼拝の中で思ったこともあったのですが、それが教会音楽の文化と言うものなのでしょう。英語で言えば『主』は『lord』、『イエス』は『jesus(ジーザス)』、日本語と発音は全く違います。しかし『一音に複数音の言葉を乗せる』と言う文化は英語讃美歌から派生したものなのでしょう。英語の讃美歌を歌いながら、「これが日本語だったらもっと多くの人に伝わるのに」と思った先人も多かったはず。一方で洋楽における節回しの自由さはそれも魅力的だったことでしょう。明治以前、この国の歌は『ヨナヌキ音階』と『文語詞』で構成されていたので、西洋音階で紡がれ話し言葉がそのまま歌詞になると言う今の僕らにとっては当たり前すぎることがとても魅力的に思えたはず。そんな洋楽や讃美歌に対するリスペクトが草創期から行われ、日本語讃美歌が一般の音楽文化に先んじて洋風化して行ったのかもしれません。そんな讃美歌文化の洗礼を受けながら、でもその歌と真正面から向き合った羊飼いの男の子。今ではクラスの礼拝でも自信を持って讃美歌を歌えるようになったと言う嬉しい話も聞こえて来ています。

 僕もそうなのですが、幼稚園の子ども達は『替え歌』が大好き。「厳粛な讃美歌を、歌詞を替えて歌うなんてけしからん」と偉い人に怒られるかもしれませんが、元々讃美歌は人が神を賛美するために作った歌。そこには『こうしなければならない』と言う決まりごとはなく、神に対する讃美の想いを自由にメロディーに乗せて歌えばいいのです。教会幼稚園で讃美歌を用いるのは、子ども達に「神様はいつも僕らの生活の中で共にいてくださるんだよ」と言う想いを伝えるため。聖書の言葉を読み聞かせてもまだ難しい子ども達のために、咀嚼したり誇張したりしながら『神様を感じてもらうこと』を旨としています。子ども達の日常は調子の良い時ばかりではありません。幼稚園に来たら『おりこうさんでがんばろう』と家とは全く違う顔でがんばっているこの子達ですが、それが出来ない時もある。そんな時に讃美歌『主イエスと共に』を彼らと一緒に歌ったなら、『出来ない時にも、イエス様は一緒に寄り添い、大丈夫だよって言ってくださるんだよ』と伝えることが出来るのです。讃美歌は傾向として『こんな子どもになったら神様は喜んでくださいます』って歌が多いので、調子の上がらない時にはちょっとプレッシャー。そこで「朝からお母さんと喧嘩しちゃった時も」「先生に叱られちゃった人も」とラップ並みの言葉数を詰め込みながら『今の自分の姿や想い』を歌ってみれば、子ども達は大喜び。ズッコケながら大笑いしてくれます。叱られちゃうようなことをしちゃった時、「それはダメだよ!」と何度もダメ押しされるのと「そんな時もあるよね」と笑ってもらうのとどちらが気分を上げてくれるかと言えば明らかに後者。人間なら自らの感情を御することが出来ず一緒に笑ってあげられないそんな時も、イエス様は共に寄り添い笑いかけてくれるから大丈夫。原曲では『嬉しい時も、悲しい時も』とそれだけの歌詞ですが、そんな抽象的な言葉では救われない子ども達の想いを具体的な言葉に替えて歌ってみれば、『それってぼくのこと!』と感じることも出来るのです。『叱られたこと=ダメな自分』ではなく、『自分の行為が正しくなかったその時に、自らを省みどう修正したら良いのか考え体現しながら、また歩き出せばいいんだよ』と言うメッセージを伝えたくて、そんな風にこの讃美歌を彼らに投げかけている僕なのです。そんな子ども達に対する想いの投げかけ方は、先生によって・大人によって人それぞれ。でもそれでいい・それがいいと思うのです。子どもが十人いればその数だけ想いやインターフェイスも異なります。僕らの側もひととなりや経験値がみんな違う者ばかり。そんな個性と個性の交わりの中で子ども達を導いてゆくのがキリスト教保育。そこに自由さとフレキシブル性がなければ『双方の想い』を生かした保育をすることは出来ません。故にキリスト教保育は『リベラル精神』を掲げつつ、讃美歌や諭しの言葉を自由と愛(寛容)に満ちたものとして子ども達に投げかけてゆくべき保育なのだと、自らの省みと共にそう思った年の瀬でありました。



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