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<『自己肯定感』に関するディスカッション2> ○「『自分が大事にされている』と感じることで、自己肯定感がすり減らず大切に保たれてゆく」と言う文になるほどなぁと思いました。ネットやテレビなど、「子どもの自己肯定感を高めよう育てよう」とよく聞くけれど、結局私は何をしたらいいんだろうと考えていました。日々忙しい中で時間に追われて、つい子どもの話をさえぎってきちんと聞いてあげられなかった、少しでも絵本を読んだり遊んであげれば良かったと、寝かしつけた後の反省会は止まりませんが、ささいなことでもいいから子どもに「大事だよ」のメッセージを届けれる言動が出来たらなぁと思いました。 <新>一言で『子育て』と言っても色々な場面・側面があると思います。そんな中で誰しもが想うのは『この子のためになることをしたい・させたい・学ばせたい』と言うこと。それはとても抽象的かつ『何がその子のためになると考えるか』と言う主観的なもの。ですからその投げかけは十人十色でケースバイケース。『塾で物事を教える』ような教授形態であるならば、ロジックに基づくカリキュラムを作成し、順序だてて教えてゆくことも出来ます。しかし子育ては連続する日常の中で生じた気付きを元に、子ども達に『自分を通して出て来るもの』を投げかけてゆくわざ。我々の目から見て気になった事象を取り上げると言っても、その発生背景を始めとして、その子の理解度・感受性・その時の心理状況など様々な条件によって『適切な投げかけ』は変わって来ます。それを私達は自分の経験値から『一つの解』を選択し、それを子ども達に投げかけているのです。でも『万能の力や英知』を持つ訳でもない私達が選んだ一つの解が『正解』かどうかは、とても怪しいところ。僕が自分を信用していないのはそれ故。『正しい解』を得るためには自らの経験値だけでは心もとないので、本を読んだりネットで情報を得たり、『主観』に偏っている判断材料を『客観』に寄せてゆこうとはするのですが、それらの情報もその時代の統計や学術理論に基づくものであり、時が経てば謝罪もなしに更新されてしまうもの。なにより統計に基づく一般論であるので、目の前の我が子の個性は加味されておらず、その最も大事な情報は排除されているのです。判断を導く材料としては有効なものでありますが、それが『絶対的なもの』であるとは僕には到底思えないのです。 でもそんなことを言っていたら『子育て』や『子どもへの投げかけ』など出来なくなってしまいます。その時々の大人の対応や物事の教授・そして想いの投げかけなしに、子どもは育つことは出来ません。であるならば『自分は正しくないもの』であることを前提に子どもに向き合う心構えが必要になって来ます。『完璧ではない自分』が子ども達に投げかける言葉や想い。それを叩き台に大人も子どもも新たな気付きを得て成長してゆければいいと思うのです。だから『親の言うことを聞かない』と子どもに腹を立ててはいけません。聞かない方が正しい場合もあるから。自分が間違っている時もあるのだから。そこで思い出されるのが前号でもご紹介した『父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。』と言う御言葉。この聖句にある『怒らせない』『諭す』と言う言葉。これは子どもに向けてそうしなさいと言っていると同時に次のようにも読むことが出来ます。『子どもを怒らせないためには、まず自分が怒ってはならない。冷静であることを心掛けなさい。お互いに感情的になってしまった時にはひとたびそのやり取りを切り上げて、自分と子ども双方の心を落ち着かせるところから始めなさい。』と僕には読めるのです。また『諭す』ことについては、自分のロジックを押しの一手で有無を言わさず押しつけるのではなく、『こう考えたらどう?』『こう考えたらいいんじゃない?』と相手が受け止めやすい形に咀嚼して投げかけたら如何かと言うこと。そうやって多面的に考えながら、自分のロジックも本当に正しいのかその過程で検証を並行して進めてゆけたなら、子どもへの投げかけも自然に変わってゆくはず。そこで大人の意地やプライド・そして感情論で自分の心を縛り上げてしまったなら、そのことは叶わないでありましょうから、そこでも自分の心を見つめ・我が子の心を見つめ・お互いの想いを分かち合うことが大事になって来ると思うのです。 そうやって『あなたは違う』『私の言うことを聞きなさい』と言う一方通行のメッセージを送ってしまっている自分に気付いたなら、その高みから自らを子どもの目線・心まで引き下げてあげればいい。『ドジっ子母ちゃん』でもいい、だらしない『のび太父ちゃん』でもいいのです。そんな自分を認めた上で、子ども達の言葉に耳を傾けること、それが大事。口が上手く、どんな言葉にも『違う次元の理屈』を後付けしてやり込めてしまう大人に対して、子ども達は段々と口と心を開かなくなってゆくもの。思春期の我が子に「全然口をきかないんだから」と怒るお母さんが世の中に一杯あるのですが、それはそれだけ一方通行のやり取りで子ども達の自己肯定感を薄めて来てしまったからかもしれません。自分の想いを受け止めてくれる相手なら、自分の言葉を聞いてくれる親ならば、そしてそんな自分の言葉に対して建設的な言葉と想いを投げ返して来てくれる大人ならば、子ども達は「いっぱいおしゃべりしたい」と思うことでしょう。毎回言っているように、時間や余裕の問題でそれが出来ない時もあり、それは仕方のないこと。でもそれが『通り一遍』になってしまえば、子ども達は私達に自分を顕さなくなってしまいます。子ども達に対する「大事だよ」のメッセージに定型はありませんが、それを感じさせてあげることが出来る『受け応え』の形を親子で探して行けたなら、素敵なことだと思うのです。お互いに譲り合い、『嬉しい』の想いを分かち合えるそんな『落し処』を。 |