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前回の『ひきがたり』に対して多くの温かなお声をいただき、感謝でありました。本当は講演会のようにちゃんと筋立てて子育てについて語れればいいのですが、自分の口を飛び立った瞬間から「あ、これはなんか違う」とそんなことばかり頭の中を巡って、自分の言葉がぐだぐだになってゆく僕。話し上手な人はそう言うところはさりげなくスルーして、違う言葉を重ねて自分の想いを伝えることが出来るのでしょうが、なかなかそのように上手に言葉を操れません。一字一句の正当性よりも、伝えたいのは自分の想い。分かっていながらそれが出来ない僕は、一足飛びに『誰かの言葉を借りて想いを伝える』と言う『ひきがたり』に想いを寄せてしまうのです。言葉が字面だけで伝えられるのは情報だけ。言葉で想いを伝えるためには、そこに込められた息遣いや語気・『間』そしてリズムなど、やはり『音』につながるものが大切になって来るんだと思うのです。子ども達への言葉掛けも同じ。想いを伝えるには『通り一遍』でない音楽を奏でるように、相手の想いを慮りながら言葉を投げかけることが出来たなら、お互いの想いを分かち受け入れ合えることもあるのではないかと思うのです。音楽を楽しむ時は、歌い手の足りない言葉を自分の想いと想像力で補い聞くことの出来る私達なのだから。 今回は11月27日(水)13:00〜13:50幼稚園ホールでお願いします。ちっちゃい子達も大歓迎です。時間の兼ね合いもありますが、リスト以外も準備しておきます。また皆さんのお声を聞かせていただく時も持てたら…とも思っています。 〇<Sweet Memories> 若かりし頃の松田聖子の楽曲でちょっと音色の違う曲。当時、サントリーの『ペンギンズバー』と言うビールのCMで流れた曲なのですが、松田聖子名を伏せて放映したため、「あれ、誰が歌っているの?」と話題になった曲。今では彼女の定番となったこの曲ですが、コード譜のキーがE♭と扱いにくいものだったので「いいな」と思いながらもこれまでやって来ませんでした。でも今年久しぶりにさらってみた際、「半音上げてEにしてみたらどう?」とやってみたら最後まで弾けるではありませんか。と言うことで今回のリストに入れてみました。こう言う「こうしたら出来るんじゃない?」ってアレンジ、子ども達への投げかけでも有効なブレイクスルーとなり得ます。『楽譜通り』ではないけれど、「できた!」の喜びが次の自分を支えてくれるものとなってくれたなら、それがなによりと思うのです。 ○<夏の終り〜秋の気配〜冬が来る前に> 「今度は静かな曲を」と言う感想があったので、オフコースの巡りゆく季節を歌う曲を選んでみました。僕の価値観の基軸はこう言うところにあるのですが、煮えきらなさや押しの弱さに園長としての物足りなさを感じている方は多くおられることでしょう。今の世の中、『自己実現』や『自分らしさ』の体現をススメることがとても多くなりました。でもそれが『革新』や『変革』に偏っているように感じてしまう僕。全てが全て『自分らしさ』=『現状へのレジスタンス』ではないはず。『自分らしさ』とは外に向けて発信するモノである前に、自分の背骨を内側から支えてくれるもの。人は色々と言って来ます。情報過多の時代にあって、そんな言葉に流されてしまいそうになるその時に、自分について考えるためにはさほど多くの情報は必要なく、却ってそのようなものから自分を遠ざけた方が良いと思うことさえあるものです。『季節のうつろい』と言う自然の摂理を歌いながら、そこに投影し顕される自分の心を謳っているのがこれらの歌達。皆さんに「〇〇してください」と言うのではなく、それぞれがそれぞれの心に何かを感じてもらい、それがいつか何かにつながってくれたなら、それでいいと思う僕なのです。 〇<主イエスとともに> 今年の年間讃美歌に選んだこの曲。合同礼拝の最後にいつも子ども達に向けて歌っています。「〇〇な時も〜」と言うところにアドリブを入れて歌いかける僕の歌がお気に入りの子ども達。「お母さんと喧嘩しちゃった時も〜」「朝から幼稚園行きたくないよ!うえーん!の時も」と歌うと大ウケ。でもそんな状況が日常の中に一杯あると感じているからでしょう。それが「歩きましょう、いつも」と歌い終えるとそこに湧き上がって来るのは自己肯定感。喧嘩しちゃっても・叱られちゃっても『だからダメな子』とされるのではなく、「大丈夫だよ。イエス様が一緒に歩いてくださるから。元気を出して一緒に歩き出そう!」と謳うこの讃美歌。『面白い』が先行してのことではありますが、どんな時にも「大丈夫」と言える、叱っておきながら「でも大丈夫だよ。大好きだよ」と言ってあげられる、この関係性と距離感が子ども達との間には必要なんだと思うのです。 〇<言葉にできない> 今回はオフコース・小田和正シフトで組んだセットリストとしてしまいました。聞いたことのない歌ばかりだったと思いますが、共通してそこに息づいているのは『言葉にできない想い』を謳うのが歌だと言うこと。その想いを顕すのに季節のうつろいをそこに現し描いたり、一人佇む公園から遠くの港を眺めつつ心に浮かんで来る想いをかみしめたり。一度聞いただけでは何を歌っているのか分からない歌達ですが、でもそのような想い・場面はそれぞれの人生の中に・思い出の中に必ずあるもの。そこに必要なのは随筆にしたためられるような事実の記述ではなく、「そんな想い、私もあった」と思える共感。故にこれらの歌達は、抽象的に描かれた情景の中に佇む自分に向かって吹いて来る風のように、目には見えない不確かさを帯びた『なにか』を感じてもらえたなら、それでいいと思うのです。 |