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<めぐる季節> 前回、モズの高鳴きのお話をしたのですが、やはりそれからすぐ季節が動きまして、朝晩寒さを感じるようになって来ました。そんな11月初めの夕方のことでした。桜の木に陣取って、「ちょぴちょぴ」鳴いている鳥を見つけました。僕のいる所からは逆光でシルエットしか分からないのですが、その「ちょぴちょぴ」がどんどん変遷してゆくことに違和感を覚えた僕。「この季節にこんな鳴き方をする鳥っていたっけ?」といぶかしく思っていると、それがだんだんと「ケチョケチョ」なんて鳴き始め、最後には「ホーちょけちょ」などと言い出すものだから「あんた、だれ?」。そのシルエットを凝視したものでありました。「ホーホケキョ」はご存じウグイスですが、背格好が全然違います。梢に停まった影が背筋を伸ばした縦長に見えるその様に「ホオジロ?」とも思いましたが、尻尾が長く見えるのが気になります。そこで思い出したのがモズ。このモズと言う鳥、高鳴きの他に特技がありまして、それが他の鳥の鳴き真似なのです。そのことを本で読んで知ってはいたのですが、実際目の前に見つめながら拝聴させてもらったのは初めてのことでした。 この地で何年暮らしていても、まだまだ新たな学びを得させてくれる日土の里での田舎生活。その感動と新たな気付き・そして物事を知ること&感じることの喜びが、「こんな想いをこの子達にも伝えてゆきたい」と言う僕のモチベーションに昇華されてゆくのです。『同じことが同じように行なわれてゆく安心感』を好み心地良く感じる内向的思考の僕。人からしてみれば何も変わらぬ田舎暮らしは退屈で、すぐ飽きると思われるかもしれません。でも同じようにめぐりゆく季節の中にあっても、毎年違う発見や感動に出会う『奇跡の営み』があったなら、それを感じることの出来る感受性とその機会を与えられていることに感謝したくなります。言語化や映像化がなされ、更には演出も加えられたエンターテイメント性に満ち満ちた現代のネット情報やコンテンツを自分の中にお腹一杯詰め込んだとしても、決して得られない感動と充実感がそこにはあるのです。さらにそれは『自分も何かを生み出したい』『子ども達に伝えたい』と言う想いを励起して、子ども達との関りや保育の業に影響を与えてくれると言う好循環を形作っています。それらは全て自分が意図したことではないけれど、『何をしようと言う訳でもない僕』に対して神様の御心が働き、気付きや状況が与えられ、それに過去の体験やこれまで培って来た知識やスキルが活かされて、新たなアクションを生み出しているこの不思議。何事に対しても基本的に気力の薄い僕なのですが、幼稚園で子ども達の前に立てば『なにかしよう』と言う気になれる自分自身に、やはり『用いられている』と感じてしまうのです。 そんな僕らに学びと感動を与えてくれる日土の自然なのですが、今年は猛暑が長かったせいか、例年秋になると顔を見せてくれるカマキリ・ショウリョウバッタ・エンマコオロギ等の昆虫との出会いがほとんどありませんでした。それでも「虫!虫!」言っててんこを振り回している子ども達。それに対して虫達は、アゲハ蝶どころかモンシロチョウさえも飛んで来てくれませんで、幼稚園の山は開店休業状態。そんな中で幼稚園のあちこちで陣取り栄華を極めているのは巣を張る蜘蛛ばかりなり。山にどんぐりを拾いに行っても子ども達は難なくくぐり抜けてゆくのですが、丁度大人の顔の高さにジョロウグモの巣が張り巡らされていて、かなりの確率でひっかけられてしまう僕。最初は「わっ!」とびっくりするのですが、そこで暴れたらその巣に絡め取られてしまうので、そう言う時は引っ掛かった所から後ずさりしながら進んで来た方へと後退するのです。すると顔に引っ掛かった蜘蛛の糸がきれいにペリペリとはがれて行ってくれるので、皆さんも一度お試しあれ。これも毎日幼稚園に通う山路で幾度も蜘蛛の巣に引っ掛かり、その対処法として編み出した裏技。経験は貴重且つ大いなる学びを与えてくれることを、身をもって教えられて来た僕なのです。そうは言ってもそんな蜘蛛の巣にも引っ掛からないに越したことはないので、折を見て蜘蛛の巣退治をしているのですが、その時の得物はジャンボ向日葵用の2m支柱。それならば高い所から掛けられた蜘蛛の巣にも届きます。でもそれで蜘蛛の巣を絡め取っていると、巣の主までくっついて来ることがあります。大きなジョロウグモがそこから脱出を試みて尾から長い糸を伸ばすものだから、長い釣り竿から釣り糸を垂れたように「びよーん!」と蜘蛛がぶら下がることに。そんなアクロバットを行なう蜘蛛達は、子ども達の頭上を「びよーん!」「ぶらーん!」で行ったり来たり。その妙技に「あーあー!」「わーわー!」言いながら大喜びする子ども達なのですが、でもそれが自分の頭上に飛んで来ると「ひゃー!」とグランドエスケープ。イリュージョン&お笑い面白演芸大会のようになっています。 最初こそ「ひゃー!ひゃー!」言っていた子ども達。段々と慣れて来たのでありましょう、「僕も持ちたい!」「欲しい!」と言い出す子も出て来まして、「へー」と感心してしまいます。「じゃあどうぞ!」とその『ヨーヨー蜘蛛』を差し向けると、やっぱり「ひゃー!」と逃げ出すコントのようなやり取りが繰り広げられます。結局は『欲しいけれど手が出せない』の子ども達。すると「しんせんせいがいれて!」と虫籠をこちらに差し出して来るので、籠の口を開けてそこに『ヨーヨー蜘蛛』を着地させたなら、ここぞとばかりに口を閉めて意気揚々とその虫籠を持ち去る男の子。生の蜘蛛が怖いと言う気持ちは変わらないのですが、虫籠に入れてしまえば『出て来れない』『怖くない』と言う心理的優位になれる子ども達。画面の向こうにいる生物には慣れているからなのでしょうか。同じように現実世界にもフィルタリングすることによって、自分のテリトリーを広げて行く子ども達でありました。 人間にとって『慣れる』と言うことは本当に大きな能力であり本能だと言うことをその身をもって示してくれた子ども達。そうやりながら蜘蛛を自分の世界に置くことが出来るようになると、次は自分で捕獲しようとし始めました。蜘蛛の巣に手を突っ込むのにはまだ抵抗があるのですが、巣から離れた蜘蛛を虫籠に追い込み捕らえることは出来るようになって来た男の子。棒やスコップを上手に使いながら、蜘蛛を虫籠へと押し込んで、満足そうに籠の中の蜘蛛を眺めています。その一途さはこれらの体験を通して彼を強くたくましくしてゆきました。そこまでは微笑ましく見つめていた僕だったのですが、また困ったことが発生。「蜘蛛を持って帰る!」と彼が言い出したのです。子ども達とのやり取りの中で虫や生き物を扱うことは学びにつながり、彼らの成長に寄与してくれると信じている僕ですが、それでも適切・不適切はあるものです。子どもの頃にこんな自然体験を満喫し『虫愛ずる姫』のように『異形のモノ』も愛せるようになる大人もありますが、いかんせん相手はジョロウグモ。お母さん達は「いやぁ!」って言うのは目に見えています。子ども達の想いも大切ですが、お母さんも同じように大事にされてこそ本当の『神の前の平等』。それによって初めて『想い想われ譲り合える子育て』が体現出来ると言うのが僕の信条。『蜘蛛レク』は日土幼稚園と言う桃源郷でのみ通じる学習体験にして、蜘蛛は置いて帰るように諭すのですが、意志の固い彼は頑としてその言葉を受け入れません。導入は良かったのですが、やはり子ども達は僕らの思うようにはならないものだと、自らの驕りを省みた僕でありました。 丁度その日は個人面談の日でした。面談を終えた先生とお母さんが出て来てそんな彼の様子を見つめまして、あれこれ説得をしてくれました。それでも頑なに自分の想いを主張する男の子。そんな彼の姿を受け止めて、「かあちゃんは蜘蛛お世話できんから、○○君がちゃんとするんよ。ごはんも取ってあげんといけんけど出来る?」と言うお母さんの言葉に「できる!」と応えた男の子。その情景とやり取りをまばゆく見つめた僕でした。蜘蛛を教育課程の中に取り込んで、この子の意識や行動をひとつ高みにいざなおうと試みた僕ですが、思惑は途中で頓挫し袋小路の迷宮で迷子になりかけてしまいました。その状況を受け止めて、この子の想いを建設的に受け入れようとしてくれたお母さんに心より感謝でした。自らの想いを受け止め・受け入れてもらった男の子は、今度は自分に出来ることを一生懸命することで、自分を肯定してくれたお母さんの想いに応えようとしてくれるはず。一見ほわんほわんしているように見えてその想いには芯があり、僕らの言葉もちゃんと聞き受け止めてくれる男の子。そんな彼を動かし、自らの行動につなげてくれるものはやはりモチベーションなのです。そう言う意味で彼のお母さんは上手に彼との間の落し処を探し求め、彼の背中を押してくれました。結果として家に連れ帰ったそのジョロウグモ。家の飼育ケースに移し替える際に逃げてしまったこと、それが室内ではなく庭での出来事だったと言うことを後日その子から聞きまして、それはみんなにとって『まあ、よかったね』の結果になったらしいとほっと胸を撫で下ろした僕でありました。自分の想いを押し通し、自分の手で虫籠から移そうとして逃げられたのであれば、それは彼も納得のところでしょう。それが室内ではなく屋外であったのも、お母さんにとってはほっとしたところであったはず。結果としてどれも誰の思った通りにもならなかった訳ですが、でもみんなが納得出来る答えが与えられたこと、神様の御心の深さと大きさは僕らの想いを超えると言うことを改めて感じさせられたものでありました。一連の蜘蛛との触れ合いを通して、気にはなるもののただワイワイ言うだけだった男の子が、自分に向き合い『ここまでなら出来る』と言う自分自身の力に気付かされました。残念な結果に対してもこれまでならばただ泣きじゃくるだけだったのが、物事を納得し受け止める術を手に入れて、自分の『大丈夫の範囲』をまたひとつ広げることも出来たと思うのです。『買ってもらったものを無くして…』とはまた一味違う『ホロ苦スイートメモリー』。幼稚園の山に繰り出せば、いくらでもジョロウグモは巣を張っています。それまでは「しんせんせいがとってよ」と他力本願だった彼が、今では自分のチャレンジで蜘蛛に挑めるようになりました。多少のおっかなびっくりはあるものの、こちらにはてんこと虫籠があるので大丈夫。この武器があれば自分でも十分に渡り合えると言う自信を、この成功体験によって得た男の子。そればかりか何時でも自分で戦える・捕獲も出来ると言う想いが彼を『この蜘蛛!』と言う執着からも解き放ち、『お片付け』の際には「バイバイ!」と放してやれるようにもなりました。「遊んでくれてありがとう」「楽しませてくれてありがとう」「また遊ぼうね」と言う想いが彼の中に宿ってくれたに違いありません。なんとかかんとか先生に頼み込んで手に入れた蜘蛛、『それを逃がしたらもう次はないかも…』と言う想いが「放さない!」「持って帰る!」と心を頑なにさせたのが、『いつでも会える』『捕まえられる』と言う想いが彼を執着と煩悩から解き放ってくれたのです。それが田舎保育・自然遊びの良い所。日頃の経済活動の中で『お父さんお母さんが働いて買ってくれた物は大切にしないと』と教えている僕らですが、それがこの子達の心を頑なにしてしまうこともあります。でもそうしなければ大量生産・大量消費の社会にあって、『ものを大事にする心』を守り真っすぐ育ててゆくことは出来ません。一方、自然の論理は違います。拾ったどんぐり・葉っぱ一つ、それらを無くしてしまったとしても、その実から芽を出した若木がまた新たな大樹へと育ってゆき若い杜を作ります。地面に降り積もった葉っぱ達は豊かな大地の土壌となります。そして逃がした蜘蛛も自らの命が果てる前に、新たな命をつないで来年ここに帰って来てくれるはず。全てのものがつながり合ってこの『めぐる季節』の中で循環し、僕らの保育を支えてくれているのです。そんな自然からの恵みを受けて僕らは、子ども達の心と体が豊かに育まれてゆくことを祈り願って、自らの想いをこの子達に投げかけ続けているのです 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