子育て講座2月『24ひきがたりV』レジメ              2025.1.24
 先週は『キリスト教保育講演会』に多くの方々がお越しくださり、本当に感謝でありました。小見先生のお話を聞きながら、色々な事々に想いを馳せていた皆さんの横顔をまばゆく見つめた至福の時となりました。限られた時間内でのことであったので、もう少し分かち合いたい話題もありながら終わりとなってしまったことが少々心残り。そこで今年度三回目の子育て講座は先生のメッセージを思い返しながら、また皆さんと想いを分かち合う時を持てたらと思っています。
 今回は219日(水)13:00〜幼稚園ホールでお願いします。ちっちゃい子達も大歓迎、一緒に楽しく歌いましょう。どうぞよろしくお願いいたします。

〇<大丈夫>斉藤和義
 小見先生のお話を聞いていると「やっぱりお話上手だな」と思う一方、ただただ「だいじょうぶ」と言ってくださる先生の言葉が印象的でありました。
 僕らは『〇〇だから大丈夫』と根拠を絶えず求めてしまう者。でもそれって『では〇〇でなかったらダメなのか?』と言うことの裏返し。判断をする際の礎として『根拠』は頼りになるものですが、でも違った道・違ったやり方でそこにたどり着いてもいいのです。でも『それでなければダメ』と言う自分がいる。だからしんどい、苦しくなる。その根拠だって時と場合により・また時代によって移り変わる実に危ういもの。だから私達は何を信じたら良いか分からなくなるのです。絶対に代わらないもの、それが神の存在。自分ではなく、他人でもないものを恐れ委ね依り頼む心。自分の自己肯定感を大切にしつつ、でも自らのエゴに飲み込まれてしまうのでもない。他人の言葉に振り回されるのではなく、でも隣人のことを想い慮る心。それが神様の御心。神様を想う時、僕らは自分を含めた『誰かの為』ではない、『皆が幸せになれるように』『神様に喜んでいただけるように』との祈りをいだきつつ自らの進むべき道を選び歩んでゆくことが出来るのです。
 この歌の中で『だいじょう、なるようになるのさ』と歌っている歌詞に「そんないいかげんな」と思われる方もあるかもしれません。そうですよね。僕はこの詩を『なるべきものに、なれるのさ』と解釈しています。自分の想いとは違うかもしれないけれど、そこで与えられた課題に向き合い、それに対して尽力し、その結果与えられたものが今の『現状』であると。その時々において、すごくがんばれる時もあれば、それほど打ち込めないこともある。でもその『現状』が終わりではない。その先も続いてゆくものなのだと。その現状を受けてまた自分と向き合うことにより、自分と言うものを形づくってゆくのだと。そんな次の一歩につながる想いを紡ぎ、人生の螺旋階段を一歩一歩登ってゆければいいのではないかと、そんな風に思うのです。だいじょうぶ、だいじょうぶ。

○<月ひとしずく>小泉今日子
 『人にまかせて僕らは行こう…何を言う何も言うな、今夜も月は綺麗だね』と歌うこの曲。『人にまかせて』と言うのはあると思います。全部が全部、自分の想い通りを通そうとするのは逆にしんどいし、また全てを自分で決めようとすればそれはそれでプレッシャー。こだわらない所に関しては『人が決めたもの』を受け入れると言うのも、エコな生き方であるように思うのです。B型の僕の思考回路はそう。でも『人のせいにして責任を転嫁するのは、それは違うよ』とこの歌は歌っています。そうして流される時もあり、一方で『ここは譲れない』と言うところで我を張ることも必要。ただそれが『全部が全部ではないでしょう』と言うこと。そうやって譲れるところは譲り合って、この世に多くの人の想いと嬉しいが満たされてくれたなら、それは素敵なことだと思うのです。

〇<手引きのようなもの>奥田民生・井上陽水
 子どもと向き合う時の想いに通ずるこの歌。魚釣りの作法を例えに『子どもの想いを感じ受け入れながらも、竿のしなりとたわみによって相手に合わせつつ手元に手繰り寄せる極意』を教えてくれています。絆と言う糸でしっかりつながりながら、その糸を引いたり緩めたり、お互いの想いを出したり受けたりして確かめ合いながら、その懐の中で心地良く泳がせてあげる関係。それが出来たなら子育てはもっと楽に・自然なものになるのではないでしょうか。がむしゃらになることなく・支配しようとするのでもない、言いなりでもなく・無視するのでもない、お互いに自分らしく心地良くいられる関わり合い・譲り合いの心を、そこに感じてもらえたら…と思うのです。『相手のタイミングを待つこと』『そんな間合いで向き合うこと』を。 

〇<MOTHER>パフィー
 ここで歌っているのは親として空気のような存在であることのススメ。『何々をしてあげる』ことに自己実現の喜びや自分の存在意義を抱いている親御さんは沢山あるはず。でも段々と子どもが大きくなってゆき、『してもらう』ことよりも『自分でする・出来るようになる』ことの喜びを感じられるようになって来ると、大人の奉仕が子ども達の自己研鑽に影響を及ぼすようになって来ることもあります。僕らがなすべきはただただ『制約しない』こと。子ども達のすることを見守り、ちょっと離れたところから見守ってあげること。『私は誰なの?』を子ども達が知るためには『自分で私をやってみる』しかない。そうしながら「こっちの方がいいなぁ」「こう言う方が自分らしくいられるなぁ」とフィードバックを繰り返し、自我を形成してゆけば良いのです。『こうしなさい』『こうなりなさい』ではなしに、その道を照らしてあげられたらそれでいい。道に迷った時・足を踏み出す勇気を無くしてしまった時、背中を照らし出してくれる太陽のように。



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