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<歌を捧げて> 冬の名残の寒さが続く中、「春はまだか」と思い過ごした春休み。そんな頃、また例によって今年も突然暖気が流れ込み『あっと言う間』に春の陽気が訪れて、数日のうちに桜満開に。でも開花が遅れたおかげで今年は桜絨毯を踏みしめ迎えた入園式・始業式となりました。もっとも前日までは桜を見上げ「今年は桜満開の入園式になるねぇ」ともひとつ喜んでいたのですが、日が明けてみると「警報になるのでは?」と危ぶむほどに吹きすさぶ嵐となってびっくらこ。『満開の桜はみんな花びらの絨毯になってしまいました・・・』と言ったシチュエーションで迎えた式当日となりました。この春風を恨めしく思いながらもよくよく考えてみたならば、「これが警報だったら入園式は出来なかったねぇ」と実はまたもや危うかった式執行が予定通り出来たことを、感謝して受け止めたものでありました。神様の御心とは本当に不思議なもの。あれやこれやありながらもちゃんと丸く収まるように導かれ、その中にきちんと気付きと学びも備えてくださるおまけ付き。そう言うことがなければ『幸せボケ』で感性が愚鈍になっている僕などは、神様の御心や自分の幸せにきっと気付きもしないでしょう。『僕らのことを神様は、いつも守っていてくださるんだよね』と言う大切なことを、思い出させてくれた入園式当日の春の嵐でありました。 もっとも今年は『春の嵐』は天候ばかりではありませんでした。最近はその保育を評価していただける一部方々からの信頼と絶大なる支持を得て、たんぽぽからの入園者を多く与えられるようになった日土幼稚園。前年の園生活を経てばらになって迎える入園式は比較的落ち着いたものになるのですが、今年は久しぶりに賑やかな門出となりました。ひよこクラブではお母さんと言う安全地帯から出たり入ったりしながら、自分のタイミングで大冒険に繰り出していたこの子達。その日だって遊びに来たつもりが遊ぶ間もなく、式の準備のためにお母さんから離されて、「なに?聞いていないよ!」とその状況を拒絶したくなるのも頷けます。そんな彼らの想いを察しながらも、入園式用に組み立てた『園長の話』の長さを僕自身うらやみながら、この子達に申し訳なく思いながらお話をさせてもらったものでありました。あれでも前日の推敲で「長いなぁ」と原稿を半分に削ったのですが、『はじめの一歩』に力と想いが入り過ぎてしまったのはこの子達ばかりでなかったみたい。この少子化の時代にあって、便利なものが色々ある世の中にあって、この日土幼稚園を選んでくださった皆さんに感謝の想いと僕らが大切にしているものについて言葉にして伝えたくって、ついつい長くなってしまいました。そんな時間になんとかかんとか耐えながら式に参列してくれた子ども達。それは新人さんばかりでなく、他の子達にとってもやっぱり長かったみたいです。最初のうちは僕の言葉の投げかけにがんばって応えてくれていたすみれさんも、段々と気はそぞろ・目の向く先は外の景色ばかりとなってゆくのが分かります。それは本当にいた仕方ないこと。そうなって来るとこちらもそれが気になって、原稿があるのにシドロモドロになって来て、「早く終わって!」と自分自身がそんな気に。自分が書いた原稿を自分で読んでいて「早く終わって!」ではしょうがありません。本当に人前が不向きな園長です。溺れかけそうなスピーチでしたがなんとかゴールまでたどり着き、最後に紹介として讃美歌『主イエスと共に』を歌う段になりました。「こんな長かったのにまだ歌うの?って思われてるんじゃない?」と思いながら弾き出したギターに、ノリよく反応してくれたのは最前列に座っていた男の子。曲に合わせて足をバタバタさせリズムを刻んでくれました。「そう!これってそう言う讃美歌なんだよ!」って彼のリアクションを心の中で嬉しく思いながら、声高らかに讃美歌を歌った僕。「主イエスとともに、歩きましょう、どこまでも。主イエスとともに、歩きましょう、いつも。嬉しい時も、悲しい時も、歩きましょう、どこまでも。嬉しい時も、悲しい時も、歩きましょう、いつも」と言う讃美歌なのですが、初めて聞いたであろうこの男の子が、歌詞の意味も分からないであろう彼が、『あるく』と言うパフォーマンスを示してくれたことに大感動してしまった僕でした。もっとも今時の子は聞いていないようでしっかり大人の言葉尻を追いかけているおませさんぞろい。歌の中で「歩きましょう、どこまでも」と言う歌詞が聞こえて来たから、それに乗ってくれたのかもしれません。でもそれでいいのです。それがいいのです。ジャ!ジャ!ジャ!ジャ!とカッティングの一拍子でギターの弦をはじいて奏でる伴奏を弾き出せば、なんか歩き出したくなるリズムに聞こえて来たのでしょう。そこに「歩きましょう」なんて言葉が聞こえて来たから足が動き出した…ってそんな情景だったのかもしれません。僕にとってなんともまばゆい今年度の『はじめの一歩』となりました。 僕らの人生・そして幼子の日常の中には、「もう歩けない」ってシチュエーションは一杯あるものです。頭で考えれば考えるほど「もうダメ」って自分で自分の心をカタクナにしてしまい、ますます『できない!』ってなってしまうことがあるもの。そんな時は無理に歩こうとするのでなく、誰かの促しや誘いを待って、時が満ちるのを待って、その潮の満ち干に促されることによって動き出せばいいんじゃないかと思うのです。でも促す側になった時、そうやって子ども達に寄り添うのって本当に難しいこと。どなたも「ああしたらいい」「こうしたらいい」と言う言葉掛けはされていることと思います。でもカタクナになった子ども達の心は『直接的なその言葉』に対して防衛線を張ってしまいます。「また、アアシロ!コウシロ!言ってる」と。それに対して大人も「ちゃんと私の言葉を聞きなさい」「こっちを見て返事なさい」と感情的になってしまうもの。それが出来るならとっくにやっているのに、大人の心も段々とカタクナになってゆきます。そうなったらもう我慢比べ。解決の糸口もなかなか掴めません。こんなぼぉーっとした僕でもそうなのですが、他人が自分に向かってしゃべった言葉ってなんか反感を感じてしまうことが多いもの。『こうしたらいいよ』と言う言葉が素直に受け止められずに、『これじゃあダメだよ』と言う否定の言葉に聞こえてしまうから。自己防衛のためにその言葉に対して心をカタクナにし、自分を守ろうとしてしまうもののようなのです。でも同じことを言っているのでも、人の失敗話って素直に聞けることってあるでしょう。「馬鹿だなぁ」って笑いながら「こうしたらいいに決まっている!」って肯定出来る事って多いと思うのですが、それが僕にとっての聖書の御言葉なのです。 聖書にはイエス様の御言葉が沢山散りばめられています。その中でも多いのが例え話とお弟子さんの失敗談。『ある人がこんなことをしたら、こんなことになってしまった。あなたならどうする?』と言うようなお話が数多く散りばめられているのです。結果として失敗話だと言うことが分かっているので、「そんなバカなことをしなければいいのに」と僕らは思ってしまうのですが、その選択肢の分岐点に立っている当人には分かり得ないことでもあるのです。そしてまたこれは時を越えて私達に語り掛けられている御言葉でもあります。「あなたならどうしますか?」と。自分自身の自尊心を傷つけられることなく語り掛けられている聖書の御言葉。そうした言葉なら私達は受け入れられるところがあるもの。優越感なのか偽善なのか分からない不思議な感覚なのですが、『自分の心の感じ方』に従って受け入れ・受け止めて、『自分の想い』をもって自らの行動や行いに昇華してゆく聖書の教え。他者の強制力や支配力が及ばない中で、自らが選び取った『なすべきこと』の方向付けとその実行、僕らはそれを『気付き』と呼んでいます。「アアシロ!コウシロ!」と言われてはカタクナになってしまう私達の心も、過去の体験や他人の失敗事例を一歩引いた想いで見つめ返してみたならば、「やっぱりこうした方がいいんじゃん!」と言う答えを自ら手にすることが出来ることもあります。子ども達に対してもそんな言葉を投げかけつつ、最終的な判断は彼らに委ねる・そしてその答えが出るまで辛抱強く待ち続けてあげること、それが私達のキリスト教保育であり、その中で大切にしている『寄り添う』と言う所作なのです。私達は限りある時間の中で色々な事を成し遂げようと、効率を求め・無駄を省こうとやっきになって生きています。子どもと一緒に日々を過ごしている中ではそれがやむを得ない時もあります。でも待ってあげられる時にも『私の想いと違う』と言う理由で子どもの言葉や想いを否定してしまっていることもあるはず。ここは譲れるはずなのに。ここは「いいよ」と言ってあげられるはずなのに。人間の関りは譲り合いと赦し合い。『自分の思い通り』を諦めてでも子どもの想いを満たしてあげることがあっても良いはず。自分は受け入れられていると感じて初めて、自分の心が満たされて初めて、子ども達・そして私達は『自分もより良く生きよう』と思えるものなのです。全部が全部、『子どもの言いなり』となるのはまたそれとは違うと思うのですが、『大人と子ども』であっても何かを譲ったなら次は譲ってもらうことがあってもいいはず。イエス様が私達に与えてくださった『無償の愛』と言う行為は僕には実践出来そうにないのですが、お互いに支え赦し合う間柄で我が子に・そして子ども達に向き合うことは出来るような気がするのです。それが僕の精一杯。そんな僕でもイエス様は受け入れ認めてくださる方。だから僕はそんなイエス様と共に歩く意志を心の中に高く掲げながら、出来るだけのことを精一杯やってゆく者でありたいと思うのです。子ども達のことを受け入れ・受け止めようとして日々励んでいる僕ですが、そんな僕の言うことを子ども達は全然聞いてくれません。僕の言葉は全部『お笑い』だと思っているみたい。それは僕の徳のなさなので仕方ありません。でもふとした拍子に足元に目をやると、いつの間に誰かが膝の上にちょこんと座っていたり、シャツの裾を引っ張りくっついて来たり、「おいで!」と僕を遊びに誘ってくれる子がいたり。そんな関わりを求めて来た子達に投げ返した言葉には意外な力があるもので、その時は同意してくれる確率が高いのが不思議なところ。やっぱり彼らの『求め』にこちらが真摯に応じているのが伝わるからなのか、そんな時はとっても素直な子ども達。「普段は聞いてくれないくせに…」と可笑しく思いながらも、「でもそんな関係も悪くないよね…」とまんざらでない僕なのです。 入園式での一件があってから、そんな不思議な子ども達との関係と、『言葉にならない言葉の力』についてあれこれ考えるようになった僕。その中でも『歌の力』はやはり偉大。歌には何の拘束力も支配力もありません。だから流れて来たメロディーや歌詞は聞き流されてしかるべきもの。でも時より人の心を動かす力を与えてくれることがあるのです。一緒に歩き出そうと心を開いてくれたあの男の子のように。それまで「幼稚園イヤ!」「こんな式もイヤ!」って想いであったろうこの子が、その場に留まり自分の想いをリズムに乗せて歩き出してくれたこと、そのことがお互いにとってとても嬉しい体験でありました。そう、僕らの言葉はそう言うものでいいのです。人に何かを感じさせて初めて・人に感動してもらって初めて、相手が自らの想いを持って歩き出そうとしてくれるもの。正しいとか間違っているとか述べる正論や理屈ではなく、「一緒に歩きましょう、どこまでも」と歌い、「いつも僕は君のそばにいるよ。歩けなかったらここで待っていてあげる。時が満ちたらまた一緒に歩き出そうね」と励ませたなら、後は神様がより良き時をもって導いてくれると信じている僕。今年はこの想いを『言葉にならない言葉』にして、つたない歌に想いを込めて、皆さんに投げかけて行けたいなと思っている今日この頃です。 |