園庭の石段からみた情景〜園だより5月号より〜 2024.4.28
自然に育つ子ども達
 遅れてやって来た春はそれをどこかで取り戻そうと、季節は一気に初夏の風情まで駆け上がって参りました。『まだ4月』でありながら、一足早い五月晴れの空の下、幼稚園の杜から聞きなれない美しい声が聞こえて来ました。このあたりでいつもきれいな声で鳴いているのはイソヒヨドリ。ヒヨドリよりも一回り小さいちょっとふっくら体形の小鳥です。海辺でよく見られ、見た目がヒヨドリに似ていると言うことでこの和名がついたそうなのですが、実はヒタキ科の鳥でヒヨドリとは何の縁も言われもないとのこと。ヒヨドリはこの辺で大きな声で泣きまくっている鳥なのですが、その声は少々ヒステリック。それに対してイソヒヨドリは歌うように・管楽器を奏でるように鳴く鳥で、さすが『ヒタキ科』と言ったところ。でもこの歌の名手の声とはまた違う声、それももひとつ澄んだ響きであるにも拘わらずとても良く通る美声が杜の中から聞こえて来たのです。「これはもしかして…」と山の木々を見上げつつの声の主を探します。すると杜の木陰の中に黄色の横線が見え隠れ。やはりキビタキです。蔭に溶け込む黒い背中に相反して、眉毛とお腹は鮮やかな黄色をしている小鳥。でもそれが故に薄暗い木陰の中ではその色がよく目立ち、今回もそれで視認することが出来ました。キビタキはこの季節、東南アジアから渡って来て幼稚園の周りでも見かけることがあるのですが、しばらくするとすぐに姿を見せなくなってしまいます。昔アジサイを見るために登った出石寺で6月の終り頃にキビタキを見かけたことがあるのですが、幼稚園あたりは旅の途中に通りかかるだけで繁殖と子育ては人影少ない静かな山奥で行うのかもしれません。メジロやホオジロなどの留鳥(一年を通してそこにいる鳥)はこの辺でも子育てをしており、若鳥や子育てをし終えた空の巣を見かけることがあるのですが、普段東南アジアの大自然で暮らしているキビタキにとってはこんな寒村でも人の気配を感じ子育てをするには騒がしく思うのでありましょう。その一因が珍しい鳥を見つけたら一人こうして大喜びしている僕みたいな人間なのかもしれませんが、年に一度見るか見ないかの頻度でしか巡り逢えない初夏の知らせを運んで来てくれる『幸せの黄色い鳥』に出会えたなら、嬉しくなってしまうのが人情。でも分かる人にしか分からないこの喜び。こんな田舎に住んでいながらスズメもホオジロも同じに見えるうちの家族に熱弁しても「ふーん」で終わってしまうような『小さな出来事』。その中に幸せを見つけられる僕はみんなより多くの幸せをいただいているのかもしれません。誰も気付いてくれない環境の方が、キビタキにとってはありがたいのかもしれませんが…。そんな想いの中、隣にいた男の子に「あれ、キビタキ。東南アジアから飛んで来たんだよ」と教えてあげたなら、感慨深そうにまじまじと梢の間を行き来する小鳥を一緒に見つめてくれました。新たにリスタートした園生活になかなかリズムをつかめない彼ですが、こんな日常の些細な出来事のその中に『自ら幸せを見つけることの喜び』を感じてくれたなら、それは彼の心の糧となってくれるはず。しばしの間『外国からの来訪者』を二人して見つめものでありました。幼稚園を始めとするコミュニティーに関する悩みや不安を子ども達は沢山感じ抱えているものです。そんな時、ヤギでも小鳥でもカエルでもサワガニでも何でもいい。『人』や『集団』とは違うものの中に、自らの関心や興味の目を向けることが出来たなら、ヒリヒリしていた自分の心を違う感情で癒し包み込むことが出来るのではないかと思うのです。それが『物事の解決』につながる訳ではないけれど、必要以上に不安に苛まれている自分の心を落ち着かせて、「なんか大丈夫かも」って思うことが出来たなら、そこから先に歩を進めてゆくことも出来るはず。往々にしてその実力をすでに彼らは持っているのだから。あとは自分の背中を押してくれるもの、自分を肯定してくれるものがあればいいだけ。それには『自然』がもってこい。『こうしたのにそうならない』と言うのが現代人の悩み。予定調和の中で生まれ育って来た彼らにとって『そうならない』に過大なるストレスを感じるのは致し方ないことかもしれません。商業・経済の啓発思想に基づく流れではあるものの、『そうなるように』と世の中の方が合わせて来てくれたのだから。そんな現代人が自然の中に身を置けば、『どうなるものか、やってみなければ分からない』と言う体験をもって「そう言うこともあるよね」と肯定的に受け入れられる心も育ってゆくはず。これは諦めではありません。そうなってもならなくても『それで終わり』ではなく、そこからまた先につながってゆく『途中経過』であることを自然は体現して見せてくれるのです。そんなスピリッツを手に入れることが出来ただけで、その子の『生きる力』は何倍にもたくましく育って行ってくれると思うのです。

 さてさて、そんな子ども達が日々勤しむ自然遊びに目を向けて見たならば、今は初夏の心地良さに誘われて、早くも砂場遊びから水遊びへと移行中。新たなる園生活の中においてなにかにつけ「イヤだ!イヤだ!」とこちらの出方に探りを入れて来る新入り君。「じゃあいいよ」とこちらが引くと、「やっぱやる!」。こうやりながら新たな生活圏で新たな人間関係を築いているんだなと微笑ましく思い見つめています。そんな彼らも砂場遊びに水遊びは大大大好きで朝一番から「やる!やる!やる!」。好きなこと・興味のあることにどっぷりとその身と体を浸しながら遊んでいます。あまりの夢中さ故に、毎日遊び着も靴もドロドロびしょびしょ。その度にお洗濯や靴の準備にお手数をおかけしてしまっているお母さんには申し訳ありません。でも彼らの嬉しそうに遊ぶ姿を見ていると「これがあるから幼稚園楽しいんだよ!」と言う無言の言葉が聞こえて来るみたい。「びじゃん!」ってやった瞬間は「ああ…」と思うのですが、その誇らしげな顔をみていると「さっきの『ヤダヤダ』が『よし!』に代わるんだから『子どものその気』ってすごいよね」とただただその振る舞いに見入ってしまいます。ただその『やる気』が裏目に出ないように、回りの子が被弾したり自分も怪我などしたりしないように「気を付けてね」「ほどほどにね」などと配慮の言葉を送ります。彼らもワザとにやっている訳ではないのですが、そんな中でも『びじゃん!』が周りに向けて発射されてしまうことも出て来ます。でもそんなハプニングも有効活用。コミュニケーション実践の場に昇華しながら、彼らの和解と融和のテキストに用います。「かかっちゃったら『ごめんね』って言うんだよ」と促せば、ちゃんと「ごめんね」と言ってくれる男の子。やはり悪気はなく根が素直なこの子は、学びの時が与えられたならちゃんと理解だって許諾だってしてくれるのです。原初の自我の芽生えの頃、この子達の魂は本当にまばゆく美しく感じるもの。一方、かかった子が憤慨していたならば、「君もこの間、やっちゃってたじゃない。でも『いいよ』って言ってもらったよね。こう言うのってお互い様。『ごめんね』って言ってもらったんだから『いいよ』って言ってあげられたらうれしいな」と想いの交通整理をお手伝い。こんな時に往々にして怒るのは年上の子達。その『行為』に悪意を感じるのでありましょう。でも言って見ればそれは自分の心の裏返し。その『びじゃん!』を作為的と思うのは、自分が作為をもってそう言うことをやったことがあるから。本当に何も考えずに『びじゃん!』ってやった子は、自分がされた時にも怒らず、かえって大喜びしながら続けて『びじゃん!』『びじゃん!』をやり出すもの。「その辺が『原初の自我』なんだよな…」と彼らのイノセンスをまばゆく見つめる僕なのでありました。
 そうやって赦し合うこと・受け入れ合うことによって、共同体の中における平和と幸せを作ってゆくことが、自分が赦され・受け入れられることにつながってゆくんだと言うことを実践をもって学んでゆく子ども達。『1円でも得な方』を追い求める現代社会の風潮は、即比較・即清算で物事を評価したがるものですが、『どっちが多く儲けたか』よりもみんなで『心の資産』を豊かに増やして行った方が、社会にとっても自分にとっても得なはず。そのことをイエス様は『互いに愛し合いなさい』の御言葉で私達に教えてくださいました。『完全な者になり得ない私達』が他者の不完全さを糾弾しても、それは自分の身に戻り振りかかって来るもの。であるならば、私達は赦し合って・受け入れ合って『心の富を天に積むこと』が出来たなら、それこそが自らを佑くことになってくれるはず。その真理を幼稚園の日常で・自由なる遊びを通して・そして園生活の中の関わりにおいて、子ども達には学んで行って欲しいと思うのです。そのためにまたこの子達が『どろどろ』『びじょびじょ』のお着替えを持って帰ることがあるかもしれませんが、お母さん方にも受け止め・受け入れていただけたなら嬉しく思います。

 また大きな蝶々も飛び出したのを受けまして、テンコを握りしめて追いかける子達も目にするようになりました。そんな中でもひときわ目を引くのが女の子達のハッスルプレイ。「まだあなた達には飛んでいる蝶は無理でしょう」と思い眺めていた僕の予想を裏切って、見事空中キャッチで蝶を網に納めたファインプレイにみんなびっくり。この位の年の子達は、地上に舞い降りて来た蝶に上から網を被せて捕るのが常套手段なのですが、上からたたきつけるテンコが蝶に直撃して弱らせてしまう事故も多発しています。それを防ぐ意味でも空中で網を被せクルっと反転させて出口を封じ、蝶を痛めず捕獲出来ると言う高等テクニックを子ども達にレクチャーするのですが、そんな技が幼稚園児にそうそう出来るはずもありません。それでもこの言葉が彼女の中に残ってくれていたのでしょうか。はたまた自分の目線より上を飛ぶ蝶に対して繰り出した網の軌道が、たまたまそのようにさせたのか。いずれにしても自分の体を自らの想いで動かしながらそこで感じた「この感じ!」のフィーリングは、彼女に『蝶捕りテクニック』を教授してくれたのでしょう。なかなか口では伝えられないこのような『伝承技』は、やはり『やって見せて』それから『子どもが自分でやってみて』・そして『成功して大喜びすること』それこそが、一番確かに伝えられる『手立て』なのでありましょう。言ってもそんな教え方しか僕には出来ないのでありますが。

 こんなように僕らの保育は日々自然の中に繰り出して、自然のものを相手に子ども達の気付きを促す『自然遊び保育』。そしてその自然・そして子ども達との関わりの中で、僕ら自身も学びと気付きを与えられているのです。そこにおいて僕らが目指しているのは『完全なる自分』ではなく、『全て自分の思った通り』でもありません。自然に移りゆく物事や事象の中に意味を見出し、それを感謝して受け止める心を築いてゆくことなのです。自然は多様性の塊。色んなものが様々な想いと条件の基に存在し、それが互いに関わり合いながらそのバランスの上で成り立っているもの。その多様なるものがそれぞれの得意・不得意を駆使しながら、栄えたり数を減らしたりしつつその時々の環境を乗り越えて、ここまでやって来たのです。その得意・不得意こそが、地球上の生物が生き残るために神様から与えられた賜物であり、人間の世界ではそれを『個性』と呼んでいます。この個性を伸ばしてゆくためには、多様なる環境や状況の中に身を置いて、そこで自分磨きをすることが肝要。そしてその個性を武器に自らの自己肯定感を高めてゆくことによって、自分の外なる環境に立ち向かってゆける子どもを育ててゆきたいと、そんな風に思うのです。『学ぶのは自分』『教えてくれるのは自然』、僕らはそんな子ども達の成長を見守りつつそっと手助けしてゆける者として神様に用いてもらえたなら、それでいいと思うのです。子ども達の輝く笑顔と魂の成長をご褒美として与えられていることに感謝しながら。


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