子育て講座6月『ひきがたり』レジメ〜歌を捧げて〜     2024.5.24
 今年は久しぶりに子育て講座『ひきがたり』を行なうことにしてみました。これはコロナ前の遥か昔、口下手な園長がその時々に心に残った歌を口ずさみながら、ボソボソっとしゃべってみようと言う企画でした。人前でしゃべるのが苦手なのは相変わらずなのですが、コロナも明けて皆さんの想いの後押しもあって、またやってみようかなと思うことが出来たこと、本当に感謝です。自分の頭の中で考えたこと、それはなかなか他人には伝わらないものであるし、自分自身の想いも日々・刻々と変化しているもの。言葉にしてしまえば「なんかちがう」となってしまうことが多い暮らしの中で、歌の力を借りて想いを伝えよう・感じてもらおうと言うこの企画。子どもとのやり取り・子育てにおける想いの齟齬もあって当たり前なのに、良し悪しばかりを他人から評価されてしまう今の時代の生きにくさ。足りない言葉は互いの想いで補い合って生きてゆけたなら、それが幸せにつながってくれるはず。昔の歌ばかりで恐縮なのですが、時を経て人の心に生き続ける歌の力を今一度信じてみたいと思っています。6月26日(水)13:00〜13:50幼稚園ホールにて、皆さんのお越しをお待ちしております。ちっちゃい子達も大歓迎です。

〇<守ってあげたい〜悪女>
僕の歌える女歌で皆さんの知っている可能性があるのはこの辺りかな…と言うことで選んだ楽曲。松任谷由実・中島みゆきと言う二大女性シンガーソングライターの作品で、並べて歌うことによって母性と自我を謡う想いを顕してみたいと思いました。どちらが良い・悪いと言う二元論で語れないのが人の想い。来年1月に予定されている『キリスト教保育講演会』に講師としてお招きしている関西学院短期大学の小見のぞみ先生の著書に『非暴力の教育』と言うものがあるのですが、この書をテキストに折に触れ皆さんと話をしてみたいと思っています。でも『非暴力』と言うセンセーショナルなタイトルに皆さんが過剰反応されてもいけないと思案中。これは私達の子育て・保育を『糾弾』している言葉ではありません。大事なことは、どんな自分であっても神様は受け入れ・受け止めてくださると言う事実。その愛の中で、私達も自らを省み振り返るところから始めましょう!と言う学びになってくれたならと思っています。この歌を聴きながら、親として我が子に対する想いを素直に顕しながら、一方で人としてかたくなになってしまうこともあるけれどそんな自分の心も受け入れ・向き合うことも大事にしてもらえたなら…と思うのです。

〇<想い出がいっぱい>
知る人ぞ知るアニメ『みゆき』の主題歌。これは鹿島みゆきと若松みゆきと言う二人のみゆきに主人公が振り回されると言うラブコメディー。『振り回される』と言っても彼の優柔不断が全ての原因なのですが、そうは言っても『決められないこと』『抗ってでも自分で決めなくちゃいけないこと』が日常の中に・そして自分の人生の中にあるよね…と言う情景を描いている作品です。二人のみゆきも設定では『活発な子』『思慮深い子』と言う対比をもって描かれているのですが、物語の中でその枠を超えて『本当の自分を顕せない本当の姿』を見せたり、『予想外の思い切った行動』に出たりするエピソードがここそこにちりばめられています。自我の確立に伴ってその人の『個性』が周りに認知されてゆくのですが、それだけで顕し切れない自分の想いもあります。でもそんな行ったり来たりを繰り返しながら、その時々の自分の想いと真っすぐ向き合ってゆくことが本当の自分を育ててゆくのです。『個性』とは自分で作るものではなく、自分が歩んで来た足跡から推察される『自己傾向』。一言で定義出来るものではありません。そして『想い出』も作るものでなく、自分の人生を一生懸命生きたその時々の心象が心の中に降り積もったもの。それを懐かしく振り返れるほど、『今の自分』を精一杯生きられたらいいと思うのです。

○<歌を捧げて>
元はオフコースのアルバムに収録された楽曲に、作者の小田和正が二番を追記して今の形になった楽曲。歌は律法書でもノウハウ本でもなく、『そのように聴かなければいけない』と言う制約はありません。一度その口を離れた歌は聞き手にどのように聴かれても、ただただその人の心に委ねるのみ。子ども達への言葉掛けもそのようなものだと思うのです。小見先生は著書『非暴力の教育』の中で、支配や権力によって子ども達に言うことを聞かせるような教育は望ましくない(それを『暴力』とこの本では呼んでいる)と述べられています。確かにそれはそうありたいものであるのですが、僕らには現実の実生活がある。言って聞かない子どもに対して『〇〇しなかったら××してあげない』と条件を出したり、弱みを突いてそれと引き換えにしてしまうことってあるもの。でも「それってどうなのだろう?」と言うロジックにおける定義として『力をもって相手を御すること』を先生は『暴力』と言っているのです。その力を用いること、時として僕らには確かにあります。忙しい生活の中において、時間や約束を守らなければならない時、子どもが思うように動いてくれなければそう言う投げかけに傾いて行ってしまうこともあるものです。これもいた仕方のないこと。それを責めても『親としての自分』が辛くなるばかり。でもそれを自ら省み、我が子の想いも慮り、お互いのより良き方向へ導いてゆくことが出来るのも我々大人なのです。出来る時には精一杯その子に向き合ってあげる。出来ない時には自らの想いを素直に伝え、子ども達に譲ってもらう。そんな『落し処』を探しながらこの子達と向き合って生きてゆけたなら、それがなにより素敵なことだと思うのです。強制力を伴わない言葉は子ども達の行動を変えることが出来ないかもしれません。でもそんな関わりの中で歌うように語り掛ける言葉達が、いつか彼らの心に響いてくれることを信じながら、想いを投げ続けたいと思うのです。


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