子育て保育講演会ディスカッション 『ちょっとピンボケ』 第一信     2024.6.21
 おかげさまでキリスト教保育講演会のための準備が動き始めました。皆さんに『日頃思うところ』としてご意見・ご質問を募ったところ、多数のお言葉をいただいたことに感謝申し上げます。日土教会の松井牧師は「お母さん達から返事があった」と言うことにいたく感動されておりました。日本のクリスチャン人口は総人口の1%ほどと言います。どんなに魂を込めた説教やメッセージを世に送っても、それに対してレスポンスが返って来ることがなかなか無い『孤独な一方通行』を経験している牧師にとって、本当に喜ばしいことだったのだと察します。僕らにとって『宗教』であるキリスト教も皆さんにとっては『方法論』、それが入口であっても構わないと思っています。皆さんにとってはまずは現実の生活、そしてそこにおける悩みと手立て、それを求めるのでも構わないと思うのです。
 皆さんはキリスト教を『良い子の答え』『善人の美学』のように感じておられるかもしれません。でも実際はそれを信じる我々クリスチャンは穴だらけ・欠けだらけ。そのことに対して『そんな私をも神様は愛してくださる』と開き直ることで、欧米を始めとするキリスト教文化は成立しています。『そんな私達』をも救ってくれるのがイエス様。イエス様が私達に指し示してくださった想いからなるキリスト教を元に、子ども達との向き合い方を考えるのがキリスト教保育。今回、皆さんからいただいた質問をそのまま小見先生に投げ掛けさせていただきました。この皆さんの心の声を受け止めた上で、先生は講演を準備してくださることと思います。しかしイカンセン1月の講演会まで8か月も時間があるので、それまでのウォーミングアップ・そして準備として皆さんとのディスカッションを思いついた僕。縁あって幼児保育実践の現場に身を置き、子ども達と日々向き合いながらその喜びと課題について見つめ、機会を与えられその想いを文章にして言語化して来た園長が、皆さんの想いと質問に私見を述べ・またその言葉をたたき台に意見交換をいたしながら講演会に向けて皆さんと歩んでゆきたいと思ってこの企画を立ち上げました。小見先生のような専門家ではないのでその言葉は『ちょっとピンボケ』。その言葉に対して質問や皆さんの意見も募りながら僕らなりの『NSNS』(のんびり・ソーシャル・ネットワーキング・サービス)をやってゆきたいと思います。紙面の制約上、なかなか皆さんの全ての言葉を取り上げることが出来ないかもしれません。そこは本番で小見先生にフォローしていただくことを期待しつつ、そのゆったりとした熟成の時間が僕らにとっての宝物となると信じています。そんな想いでキリスト教保育講演会の準備として、皆さんと有意義な時を分かち合ってゆけたら…と思っています。皆様におかれましてはご一読いただき、またご意見や新たな質問を返していただけたなら嬉しく思います。付き合いのほど、どうぞよろしくお願いいたします。

【今月のトピックス】

<「無理しなくていいよ」と「がんばってみようね」の境界線が難しいです。>
 「無理しなくていいよ」と「がんばれ」は子ども達にとって両方とも必要な投げかけ。ただそこに結果を求めると意味合いが違って来てしまいます。子どもの様子を見つめながら双方の幅を持った生きた声掛けがなされ、子ども達の心を揺さぶる働きかけが出来、彼らが自らの想いをもって行動しようと思ってくれたらそれでいいと思うのです。そこに結果が伴わなくても。『やらないこと』に対してはそんな声掛けをしながら、『出来た・出来なかった』に関しては結果を求めず、『その時』を神様が与えてくださることを信じて祈り待つことが肝要。あなたの『思った通り』にはならないのかもしれないけれど、『思った以上の素敵な成長』を与えてくださるのが神様。『成長させてくださったのは神です』の聖句が語るように、最も良い時に良い結果を与えてくださるのが神様なのです。私達はそれまで、自分の出来ること・自分の想いを精一杯、子ども達に投げかけて行ければそれで良いと思うのです。

<『叱る』と『怒る』とよく言うが、どうしても怒ってしまう>
 『叱る』と『怒る』は対をなすもの。子ども達へのメッセージは感情を伴わなければ彼らに響くものとはなりません。その声掛けの動機はやはり『怒ること』『怒りを感じること』から派生して来るものなのだと思うのです。では『叱る』とは何か。『怒っている自分』を見つめるもう一人の自分を心の中に置きつつ、『怒ること』を子ども達の学びと気付きに昇華すること。『怒る』だけでは怒りが新たな怒りを呼び起こし、自分の感情を制御出来なくなるのが人間。怒りつつ、怒っている自分に向き合い、どこに落し処を見出し・どのような学びのメッセージを子ども達に送るかを考えて、子ども達とやり取りを積み重ねてゆくのが大切だと思うのです。その際、自分だけではどうしようもない自らの感情に向き合うために必要なのが『主イエスと共に』。イエス様を自らの心に掲げながら自分自身の想いを見つめ直すことで、『自分だけでは受け止め切れない物事や想い』を共に背負っていただけるのです。この『救い』と『癒し』のありがたさ。全てを自分で背負い込んでしまおうとする想いと孤独を、共に担ってくださる方がいると言うことがどんなに救いとなることか。そのことによって自分の『くびき』を軽くしていただいているからこそ、自分が向き合おうとする目の前の子ども達にも自ら心を寄せて行こうと思えるのです。

 『ちょっとピンボケ』な園長が小見先生に先立って呟いてみた私信、いかがだったでしょうか。今回も返信用のアンケート用紙を同封いたしますので、皆さんの想いやご意見・感想を聞かせていただけたなら嬉しく思います


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