子育て保育講演会ディスカッション 『ちょっとピンボケ』 第二信     2024.6.30
 前回の『ちょっとピンボケ』に対して『即レス』をいただきありがとうございました。僕の独りよがり・自己満足がちょっと皆さんと想いを分かち合う種になってくれたこと、本当に嬉しく思います。今回の前半は皆さんからのお返事を統合・抜粋して紹介させていただきながら、ディスカッションを深めて行きたいと思います。

<トピックス『叱る』と『怒る』>について
〇叱ると怒ることの違いは、日頃から難しいと感じていることです。子どもに伝わる声掛けが上手に出来れば…といつも思います。
○子どもが危険なことをした時や、相手を傷つけるようなことをした時は、感情的な『怒る』を使ってしまいます。『これはしてはいけないことなんだ』と分かってもらうためには『怒る』ことも大切だと思っています。ただ、毎日子育てをする中で親の都合で感情的に怒ってしまうことも。その時は自分も反省して「さっきはごめんね」と謝るようにしています。叱り過ぎや叱り方によって子どもの自己肯定感を下げないか、ちゃんと伝わっているのか、毎日試行錯誤です。

<新>「みんなこの『叱る』と『怒る』の狭間で悩んでいるんだな…」と思いながら皆さんからの手紙を読ませていただきました。結果から言わせてもらえば、こうしてこのことについて考える時を持っていただけていること、それだけで十分なことだと思うのです。僕らがすべきことは全てのことに白黒つけることではありません。学者のように統計に基づくセオリーを発見し、それを実践しようと言うのでもありません。だって私達の対象は目の前にいるオンリーワンの我が子なのだがら。統計的にそう言う傾向があり、倫理的・学術的にこう言う対応が望ましいと言っても、その通りには決してならないもの。兎に角『我が子をよく見ること』『我が子に誠実に向き合うこと』、それに尽きると思います。その過程で『怒る』と言うのも僕らがなすべきことのひとつなのだと思うのです。それはその瞬間瞬間、我が子に真剣に向き合い・想いを投げかけている証しなのだから。
 でも、怒り散らしてそれで終わりでは、子ども達は僕ら大人が『何を言いたかったのか分からない』と言うことにも想いを馳せたいと思うのです。「自分のあの言葉で言いたかったことが表現出来ていたのだろうか?」「今のあの子の認識力でその言葉の意味を感じ取ることが出来ただろうか?」と。『話せば分かる』とよく言いますが、それって本当なの?と僕は思うのです。この言葉を決め台詞のように使う人、その人って自分のディベート能力に絶大なる自信がある人。その人の想いを僕のような話し下手な人間が表現するならば、「『話せば論破して納得させることが出来る』と思っているんでしょ…」とうがったものになってしまいます。話し下手ってそのやり取りで納得出来ている訳ではないんです。「これ以上この人と話しても僕の想いを受け入れてくれないし建設的な話にならないだろうから、もういいや」と諦めてしまうのです。子ども達の表情にそんな陰を感じたことはないでしょうか。
 感情をもって自分の想いや考えを伝えることは大事。でもそれを押し通し、子どもの言い分を寄せ付けないのは建設的なやり取りではないと思うのです。お母さん方から返していただいた言葉にあったように、子どもを立ち止まらせるため・その行動に一時停止をかけるために『怒る』と言うのは必要なこと。親にとってもいつも客観的に『物事の良し悪し』だけで自分を制御しようとすることは『自分らしさ』を失わせることにつながります。一見自己統制の取れた完璧な親のように見えますが、子どもからしてみたら「お母さん、いつも正しいことを言ってるけれど、僕の想いは感じてくれないんだよなぁ」って思うかも。それよりも失敗しちゃうこともあるけれど、やり過ぎちゃうこともあるけれど、でもいつも一生懸命で、その時ばかりでなく自分の行き過ぎについて「さっきはごめんね」と素直に言える大人である方が、子ども達との信頼関係を確かに築いてゆけるのではないかと思うのです。
また怒った後、自分も子どもも少し落ち着いてからでいいと思うのですが、「あれはこう言う想いで言ったことだったのよ」と補足して、子ども達の『なんで?』に応えてあげるのも大事。自己肯定感が大事と色んな所で言われる今の世の中ですが、自己肯定感とは『自分の存在を肯定出来る感情』。『自分のしたこと全てが正しいと履き違える元になるような肯定』はそれとは違うと思うのです。だから感情をこめてしっかり『怒る』ことは必要且つ大事。そこに怒りの感情が乗っかることがあってもそれは人として仕方のないこと。でもその感情が我を忘れさせて怒り続ける行動に自分を駆り立ててしまうなら、それはヒステリックエモーションとなってしまうでしょう。それを受けて子ども達も同じようにヒステリックになってしまい、『何がいけなかったのか』『自分は何を指摘されたのか』を考える省みの時にたどり着くことが出来なくなってしまったなら、それはお互いにとって単に『怒った』『怒られた』で終わってしまうでしょう。それを『叱る』に昇華するために、やはりフォローアップが大事。それは我々人間のセルフコントロールではなかなか出来ないもの。僕ら教師もそうです。だから感情に押し流されてゆきがちな日常において、「こんな僕にあなたの望むべき道・御心をお示しください」と神様に祈りつつ、自らを省みるのです。『神様はこんな私をも愛してくださる』と言う御言葉も重ねつつ、僕らは神様から自己肯定感と省みの時を合わせて与えられているのだと思うのです。

 次は6月号で募った『子育て保育講演会アンケート』に対する僕の私見の続きです。ではどうぞ。
○どんなに楽しい一日を過ごしても、一つ嫌なことがあったりつまづいたりすると「今日はダメな日だ」「今日は最悪だ」と言ってしまう娘。そんな風に言ってしまう娘になんと声をかけたらいいのか。
<新>これは幸せの数え方。予定調和で守られている現代では『こうなるはず』に傾倒する傾向が強く、『そうならなかった』ことに対して大きな喪失感を感じるもの。色々なものが比較的容易に手に入る今の世の中。最初はその一つ一つに喜べる心があっても、段々『それがあって当たり前』になり、そこをベースとした欲望の拡張が『これらが全て揃うこと・コンプリートすること』に喜びを感じさせるようになるのだと思います。『こうなるはず』には安心感・信頼感をもたらす力があり、心の安定を与えてくれる時は大いに有効なもの。しかしそれと共に『そうならないこともある』と言うことを受け入れられる心が育ってゆくのも大事。これは子どもばかりでなく、現代の大人にも共通して言えることなのですが…。
 そのために『目の前の出来事』に大いなる好奇心と感動を持てる心の豊かさを、子ども達には育んでもらいたいと思うのです。マタイ書6章に『なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の花でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか』とあります。自然に目を向け、自然の摂理から気付きと感動を得させようと試みるこの聖句。野の花の美しさに感じ入りながら、その花がどうやって咲いているかと言うことに想いを馳せ、今この時の幸せを心一杯感じ、それを与えてくださる神様に感謝すること。それが明日への不安を打ち消すと共に自らを幸せへと導いてくれると言うことが、二千年も昔に綴られた書物に書かれているのです。
 と言って諦念や達観を求めているのではありません。何が人間にとって普遍的な幸せなのか、その本質を見つめることを勧めているのです。二千年前と現代では、文化レベルも経済規模も全然違います。でも人の悩みとは今と同じ『その日食べるもののこと。その日着るもののこと』。決して何も食べるものがなかった訳でなく、着るものがなかった訳でもないはず。でも毎朝幼稚園に着て行く服のことで「あれはイヤ」「これはイヤ」とお母さんと言い争っている子ども達のように、「これは私が今日着たい服じゃない」と『自分の思い通りにならないこと』に対して不平不満を述べ心を煩わせていたのでしょう。そんな人々に『神様は私達に必要なものを全てきちんと与えてくださっている』と言うことをこの聖書は伝えてくれています。「思い悩むな」と。そんな心をこの子達の心に育んでゆくために、『一杯一緒に喜びましょう』『一杯一緒に歌い讃美しましょう』『与えられたもの全てに対して心一杯感謝しましょう』と皆さんにお勧めしたいのです。それは子どもに「そうしなさい」と言うのではなく、『子ども達と一緒にそうしましょう』と言うこと。合同礼拝で『主イエスと共に』を子ども達に歌いかけた時の彼らの嬉しそうな顔。皆さんに一度見てもらいたいほどです。この歌が楽しいと言うのもありますが、その喜びを僕らと一緒に体現しようとしてくれる日土幼稚園の子ども達は本当に素晴らしい子達です。預かりの部屋に転がっているギターを抱えつま弾きながら「主イエスと共にー」と歌っている子もあります。日常の中に喜びや讃美や感謝の想いを見つけ感じ、それを顕すことが出来たなら、それは私達にとっての幸せにつながるんだと言うことを、これからもこの子達に伝えてゆきたいと思う僕なのです。

〇何度言っても約束事を守れない時はどのような対応をすれば良いのでしょうか。
<新>『約束』とは何か、もう一度見つめ直してみてはどうでしょう。子どもとの約束には色々あります。『親がこうして欲しい』と言うことを約束にする場合、社会的モラルから『こう言うことはしてはいけない』と言うことを約束にする場合、など様々。約束とは本来、お互いが納得した上で交わす契約。それが大人の願いや社会のルールから『こうあるべき』としたものを子ども達に守らせることを『約束』と呼んでいるならば、それを彼らが理解・納得しているか本当のところは分かりません。「約束ね」「うん」で成立した約束の重要性やその本当の意味がきちんと伝わっているか、確かめるところから始めてみてはどうかと思うのです。
 『約束』とは違いますが、一般的によく『子どもが言うことを聞かない』と言う表現を使います。でもその『言うこと』が本当に正しいのか、僕は自分を疑っています。だらしなく・いい加減で・頼りない僕の言うことが全て正しいのか?と。でもそちらを突き詰めて行ったなら、子どもに対して言葉掛けなぞ出来なくなってしまう。だから僕は我が子に「言うことを聞いて!」と言いそうになる時、「僕のお願いを聞いて」と言い直すようにしています。僕の言うことに賛同・合意出来るなら聞いて欲しいと、自分と娘の双方にその想いをもう一度確認させるために。だから我が子を含めて子ども達が僕の言葉通りに動いてくれることはそうそうありません。でも時を置いて・またちょっと違った形で、僕の言葉に応えようとしてくれる姿に出会うことがあるのです。瞬時に理解し受け入れ行動で返すことは、感情の揺らぎもあって子ども達には難しいことが多いもの。でも彼らは彼らなりに僕らの言葉を受け止めてくれているのです。それが実を結ぶのは先のことかもしれませんが、『その時』は神様によって必ず与えられます。『成長させてくださったのは神です』。その時を信じて僕は子ども達に言葉を投げかけ続けたいと思うのです。

 今回もお付き合いくださりありがとうございました。また感想やご意見、この間の『ひきがたり』などについても言葉を寄せていただけたら感謝です。


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