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<心と身体の体力作り> 9月に入りました。立秋はとうに過ぎたと言うのに、いつまでも続く残暑に体調管理もままならない夏休みを過ごして来た子ども達。長く続く咳や夏風邪で、楽しみにしていた預かり保育をお休みした子達も多かったのですが、体調不良やアラート級の猛暑でこの夏は外遊びも難しかったでありましょう。夏休み明けの「イヤ!イヤ!イヤ!」が例年より多く聞かれた気がしたのは、休み中に気力と体力の充填を思うように出来なかったせいかもしれません。そしてそれは決して新入児や年少児に限られたものではありません。先日行われたサッカー教室では年中・年長児達も後半には全く体が動かない子が続出。「これはちょっと体力不足ね」と思いつつその姿を見つめたものでした。でも今年の夏はこんなんだったんだから仕方がない。『じゃあここからどうしよう』が課題となった、今学期の始まりでありました。 そんな僕の想いはそれとして、新学期を迎えての自らの想いをそれぞれに、子ども達に投げかけてくれた先生達。すみれ組は一段ギアを上げて器械運動に取り組み始めました。これはまだ先ではあるものの、十月に控えた運動会を見据えてのことでしょう。すみれの子達はその気にさせるところから始まって、心も体もしっかり集中して出来るようになるには相当時間がかかると言うことを、この約半年の付き合いから感じ取った実祐先生。去年のすみれはツーと言えばカーとすぐに返して来る、そんな子ども達でありましたが、今年のこの子達は投げかけた言葉が会話のキャッチボールの中で発散してゆく不思議なパーソナリティの持ち主達。先生の言葉にピン!と来るところは素晴らしいのですが、それが先生の想いとは明らかに違う方向へと変遷して行ったその上に、言葉を被せて来る子達の発言も微妙に『マイワールド』。結局「何の話をしていたんだっけ?」と言う感じになって、先生の思い描くゴールにたどり着かないのです。これを『多様性』と言うならそうなのですが、その多様さが重なり合って一つの解を得られるようになって行ってくれたなら…なんて望んでしまいます。そうなればこの子達の個性もひときわ輝いて来ると思うのですが、今のところ『雲集霧散』。でもこんな関わりを重ねて来たからこそ、ここまでの先生との信頼関係が構築されて来たのかもしれません。であるならばこれからがこの子達の『収穫の時』となってゆくのでしょう。 これまでは『おませ且つ向上心の高いももさん』が常に一緒にいる状況が、良くも悪くも彼ら生来の『おっとりまったりの他力本願気質』と融合し、すみれとしての自負やモチベーションを啓発することなくやって来てしまったのかもしれません。それはそれでこの『異年齢クラス』の個性として受け止めて来たのですが、間もなく今年度も後半に差し掛かり、すみれさんは小学校進学と言う現実に正面から向き合うことが必要となる頃に差し掛かって参りました。それを踏まえてこれからは、『すみれとしての自分』『一年生になる自分』を意識しながら『自分のなすべきこと』を感じ考えながら活動に取り組んでゆくことが求められるようになって来るでしょう。運動会・クリスマス・発表会に卒園式と、その意識を持って向き合えば自分の伸び代を覚醒に導き大きな成長を与えてくれる行事が控えています。別に気取ったり背伸びしたりする必要はないのですが、『自分はどうあるべきか』と言うことを自分に問いかけつつこれらの行事に挑んだならば、きっとこの子達は素晴らしい・そして僕らの思う以上の成長を見せてくれるはず。まずは夏休みに鈍り切った心と体に自らの想いを注ぎ込み、『実祐先生と4人のすみれ』の時間の中で更なる『想いの分かち合い』が行なわれてゆくことを願いながら、これからのこの子達を見つめてゆきたいと思う僕なのです。 その間、ももさんと僕はイの一番にお外に飛び出して自由遊び。プラバットを持ち出した僕がボールを高く打ち上げて見せたなら、天を見上げ落ちて来るボールを嬉しそうに追いかける子ども達。お願いした訳でもないのにこのボールを拾ってはせっせと僕に届けてくれます。キラキラした瞳で「(もういっかい)」と訴えかけて来るこの子達。軽いプラスティックのボールなので飛距離はあまり出ないのですが、屋根の高さまで打ち上げられたボールを嬉しそうに見つめています。そうしているうちに「僕も!」と言う想いが高まって、自らバットを持ち出しトスバッティングを始めました。ノック式のトスバッティングは片手でボールを投げ上げて、両手に持ち直したバットで打つのですが、それが彼らにしてみれば難しいよう。幾度かやっているうちにそれを感じ取り、僕にボールを投げるよう要求して来ました。初めから両手でバットを持って構えていれば、その方が打ちやすいと体験から分かったのでしょう。それにお付き合いしながら、しばらくの間この子達と野球に興じた僕でした。そんな激しい運動ではないのですが、5分もやればうっすら額に汗が浮かんで来ます。そんな様子を見受けたならば、「はい、お茶飲んでおいで。休憩タイム」と声をかけ、彼らを木陰に避難させます。この汗の一雫一雫がこの子達の体力になってゆくことを嬉しく思いつつ、でも熱中症のリスクを考えて「まだしたい」と言うこの子達に「また明日ね」とブレーキをかける僕。この物を投げると言う動作、バットを持って肩を回す・腰を回すと言う動きは、日常生活の中であまりする機会がないみたい。子ども達にとっても良い運動でありますが、夏休みにすっかり鈍ってしまった僕の身体にも少し効いているような気がします。日頃頭で考えたことをあれこれ子どもに進言し、言葉によって完結させてしまうことが多い私達ですが、一緒に体を動かして子ども達の想いと自分の身体の声を聞いてみるのも大事なことなのかもしれません。急に張り切ってやり過ぎるとまたいけませんが、子どもとの関わりの中に体を動かす所作を取り入れることは、僕ら大人にとってもきっとプラスに働くでありましょう。 さて、もひとつ下の子ども達はと言いますと、いま砂場遊びにはまっています。その舞台となる幼稚園の砂場はこの残暑の中でも椿の木立が作る木陰によって涼を与えてくれるオアシス。それに加えて裏山から涼やかに吹き寄せて来るそよ風が、体に籠りがちな熱を冷ましクールダウンしてくれます。更に子ども達が夢中になって作っているのは水路。それを水でひたひたに満たしたくて、水場から何往復もしながらバケツで水を運んでいます。それらが上手く融合し、子ども達にとってこの砂遊びは今一番のエクササイズとなっているのです。この子達がまだもっと幼なかった頃にはただただその場にしゃがみ込むだけだったので、砂場遊びは体力増強にあまり寄与しないようでした。それが彼らの成長と共に活動量が飛躍的に増え、大型シャベルで砂を掘り上げたり、水の入ったバケツを抱えて水場と現場を何往復もしてみたり、そんな遊びによって彼らの運動量が担保されるようになりました。暑さに弱い小さな子ども達がじっくり腰を据えて遊ぶ環境としてこの砂場が大活躍している情景を見つめながら、嬉しく思う僕なのです。 いつもはお世話してくれるすみれさんがいない砂場を独占しているこの子達。『お世話』とは道筋を示してくれることでもありまして、小さい子達が遊びを楽しく展開してゆくのを手助けしてくれます。一方で作業の工程などについても指示がなされ、自分の独創性を干渉される煩わしさも同居するもの。この一年で砂場遊びのノウハウを体得して来たこの子達。上の子がいなくても自分で遊びを進めてゆくことが出来るようになりました。こうして自分の想いを砂場遊びの中で自由に表現出来るようになって来たこの子達。でもそのことがまた新たな課題を自分自身に突き付けるようになって来たのです。方向性を示す権力者がいないと言う状況は『無秩序』を生み出す温床になることも見せてくれたこの子達。それぞれが自らの想いで遊びを進めてゆくと、お互いの利害に干渉する事象が出て来ます。計画性を持ちロジックに従って一つの構造物をつくり進めてゆきたい理論派の○○ちゃん。はたまた泥をぐっちゃぐっちゃする感触が楽しい『感性命!』の△△君。みんなで作っていた水路の上流から水を流してみれば、△△君の遊んでいるあたりで水が砂に吸い込まれてなくなってしまいました。それを彼のせいだと主張する○○ちゃん。ほっておいてもあの流量ならばどこかで沁み込んでなくなってしまうものなのですが、なくなった場所が悪かった。「やーめーてー」と主張する彼の言葉は△△君に向けて発するそれと言うよりは、あからさまに傍にいた美香先生に訴えかけるようなニュアンスを感じさせます。このような状況、どちらが良い・悪いとジャッジ出来るものではありません。お互いの利害に差異があるだけのこと。体操服から運動靴までワザとにどろどろにしてみせる△△君のやり過ぎは諫めつつも、全部が全部彼が悪いと言う結論にはしたくない美香先生。そんな時、その現場よりも上流で水路の決壊が発生しました。水流によって削られた堤防から水がじゃんじゃん流れ出てゆきます。そんな時、「△△君、お願い」と声をかけた先生。彼がこねくり回して成形性の上がった砂泥を、決壊した堤防に移植してぺたぺたギュッギュと加圧したなら、そこから流出していた水の流れが止まったのです。空いた穴にさらさらの砂を被せても、水圧によって同じところがまたすぐ決壊してしまいます。それが彼の仕事によるぐっちゃぐっちゃのどろどろが、その決壊をせき止めてみせたのです。「△△君、すごーい!」「ありがとう!」と少しオーバーに彼を讃えれば、みんなもそれに賛同して彼の株が一気に跳ね上がりました。道義・道徳と言う一太刀による切り口(それだって時と場合によって変わり、普遍性を持たぬもの)では、『良い』『悪い』の二元論的な評価しか出来ません。それをそれぞれの個性や想いを用いながら、それによってどうしたらみんなの『嬉しい輪の波紋』を広げてゆけるかと言うことを、体現して見せてくれた美香先生でありました。 『言うことを聞かないこと』を悪とするのは、我々大人のご都合主義。その方が自分の担う負荷が少なくなるから。でもそれはそれで一理あります。知見や判断能力が十分に備わっていない子ども達が正しいことを行なうための手引きとなるのが大人の助言。それに基づき、効率よく物事に対処してゆく方が合理的と思われるかもしれません。でも幼児教育はそれが全てではないのです。親・もしくは社会文明が蓄積して来た情報やプログラムをインプットし、子どもが全てそれを履行したなら、素晴らしい人間に育つと考えるのは我々の幻想。知識としてはあれこれ色んなことを知っていても、『なぜそれがダメなのか』『何のためにそれをなすべきなのか』と言う判断・そして行動を選択するのに必要となる物事の道理は、自らの経験と反省・反芻によってしか得られないから。「それが正しいに決まってるじゃん」と笑いながら、でもそれを自分でやろうとしない子ども達。それは知識が情報で止まっているから。自らが過ちを犯したその時に、哀しそうにその間違いを指摘してくれる大人の言葉と想い。それが心に突き刺さりいつまでも自分の中に残るからこそ、『もうそう言うことはしない』と自分事として受け止めることが出来るようになるのです。そのためにも大人のジャッジは公正公平で、子ども達を納得させられるものでなければ、「もう、うるさい!」と反抗されるばかり。我々にとって公正公平は難しいことですが、私利私欲から自らを引き離そうと抗う姿を子ども達は感じ取ってくれるもの。だから全てに完璧であろうとするよりも、『誠心誠意』を子ども達に対して貫きたいと思うのです。大人や親・そして教師と言う立場の垣根を越えて、相手との和解と融和に心を砕くこと。それが神様の望んでおられることなのだから。 |