子育て保育講演会ディスカッション 『ちょっとピンボケ』 第三信     2024.8.15
 <『自己肯定感』に関するディスカッション>
○『自己肯定感』と言う言葉を聞くと、なぜか胸が痛くなります。高めてあげたいと思いつつ、我が子を見ていると「失敗を恐れているなぁ」と感じてしまいます。今まで子育てして来て、1番一緒に時間を過ごしている母親としては、もっともっと出来ることあったよなぁ〜と後悔してばかりです。今からでも自己肯定感を高めてあげられるよう、私も努力していきたいです。

<新> 我が子の自信のなさを憂いつつ、それは『自己肯定感』の低さと家族・そして母親の関わりに寄因しているのでは・・・と悩まれているお母さん。真面目に一生懸命自分の子育てと向き合ってくれているんだなと、読ませていただきました。今回皆さんと一緒に考えてみたいのはこの『自己肯定感』と言う言葉。『自己肯定感』とは自分に対する自己評価で、自分で自分に「いいねぇ!」と言ってあげられる想いだと思うのです。僕らが自らの想いをもって始める行動は、自分自身の「それ、いいね!」から始まります。最初はとりとめもないアイディアですが、段々と自分を嬉しくさせてくれるものとなり、なんかやって行ったら上手く行きそうな気になって、自分の繰り出す『次の手』を次々と展開させてゆく心の糧となってゆくもの。それは人に評価されるものでなくてもいい。自分でコツコツと積み上げやり続けてゆく趣味や嗜好のようなものでもいいのです。自分を肯定し・自分を信じ続けて行ける力、それが自己肯定感だと思います。一方でそこに人の評価や言葉が加えられてゆくと、段々「自分ってどうなんだろう?」と言う想いが芽生えて来ます。それはそれまで主観のみによって見つめて来た自分自身を客観的に見つめる機会となり、子どもの成長の上では大切な経験。最初は人の言葉など受け入れられない子ども達。自分のことを100%受け入れてくれなければ満足出来ない想いがそこにはあり、『否定』ではない『提案』に対しても「イヤイヤ!」言う姿が見られると思います。そんな時に私達は子ども達の想いを受け止めながら、上手にその想いが良き方へといざなわれるように、言葉を重ね自らの想いを投げかけてゆきたいと思うのです。

 新約聖書のエフェソの信徒への手紙6章にも『子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。 「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。 父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。』と書かれています。旧約時代の約束である『十戒』の『父と母を敬え』の御言葉について、新約でその意を解き明かしている箇所です。後半の『父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。』の言葉がその想いを示しています。『父と母を敬いなさい』と言う教えを決め事として子どもに遵守させようとするものではないと語っているこの御言葉。なぜなら大人も子どもも神の前では平等だから。でも子どもの成長を願う上で彼らを導く者は必要であり、そのイニシアチブは大人側が持つべき。でもそれが『権力』と言う絶対的な力によるものとなってはいけないと言うことを示唆しているのです。『イヤイヤ』の子ども達に対して、権力と抑圧をもってその行いを封じ込めようとするのではなく、その子の想いにつながるところまで自分を低くして、合意出来るところから徐々により良き方へと導いてゆこうとすることの勧めです。『権力』を行使して言うことを聞かせる方がはるかに効率的で大人からしてみれば自分の想いを満たすものとなるはずですが、同時に皆さん、いつも後味の悪さを感じているのではないでしょうか。時間的に・状況的にそうしてでも子ども達の行動を止めなければいけない場面はあります。社会と言う集団に身を置いている以上、その子の想いを優先することが出来ない時もある。でもそうして心を痛めながら捻出した機会を、子ども達の学びと成長のために用いてゆくことが、彼らにとって・そして私達にとって大切なことなのです。『怒らせてはなりません』と言うのは無理でしょう。どう慮っても子どもは自己実現がなされなかったことに対して感情を爆発させるもの。でもその後の『主がしつけ諭すように、育てなさい』と言うところは私達にも出来るはず。子どもも大人も双方が怒っていては無理ですが、先に冷静さを取り戻すことによって、『しつけ諭すこと』に想いを寄せて行けたら…と思うのです。

 そこで再び『自己肯定感』。これは『○○をしたら育つ』と言うものではなく、『自分が大事にされている』と感じることによって、すり減らされず大切に保たれてゆくものだと思うのです。生まれた時は、生きとし生けるものはすべて『自己肯定感』に満たされているのだから。それが親子の関りや社会参画の中で受ける「ダメ!」「ちがう!」の言葉によって萎えてしまうことがあります。かと言って全部「いいよ」では子ども達は増長し大切な学びを得られません。それを両立させる解は『譲り合うこと』『想い合うこと』。大切なのはとめどなく溢れて来る相手の想いを受け止めつつ、それを糸口に教え諭すこと。逆に感情的になって怒ってしまった自分の言葉を見つめ直して、後からそれを踏まえたフォローで和解を取り付けること。その対応の中にこそ、子ども達は『自分は大事にされている』と言うことを感じ取り、自己肯定感を豊かに持ちながら大きくなって行ってくれると思うのです。そして大人の側もがんばり過ぎず子どもとの間の『落し処』を探しながら、自分の個性・自らの愛情を彼らに向けて傾けてゆけたなら、きっとこの子達はその愛に気付き応えてくれるはずだと、そう信じている僕なのです。


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