| 園庭の石段からみた情景~園だより11月号より~ 2025.11.16 |
| <こころ動く方へ> 「運動会をみんなでやり遂げた!」と思った10月半ば。あれから季節がトントントンと進みまして、二週間もしないうちに肌寒さを感じるようになりました。季節の急な移り変わりに驚いたのは僕らばかりでなかったよう。親子遠足で行った龍王公園ではバッタが跳び交いトンボも飛んでいたのですが、思えばあれが今年見た最後の虫虫大集合の情景となってしまいました。そんな『虫まつり』もあった遠足でしたが、その際に一羽の渡り鳥を見かけました。日頃野鳥を見ているといつもと違う鳥影が視界を横切ると「あ、なんかちがうやつ!」と反応してしまう僕。このあたりに棲んでいる鳥ならしっかり視認出来なくてもその飛び方だったりシルエット・そして鳴き声などから「あー、今日はあそこに○○がいるのね」とその存在を把握出来るもの。でも時よりそこから外れるものが姿を顕します。「そろそろみんなお昼ご飯かな?」と言う頃合いで、遊んでいる子が少なくなったお昼前のこと。なんか重たい色味の鳥影が向こうの枝周りに佇む姿を見つけたのです。いつも身につけているウエストバッグから単眼鏡を取り出してその影を追ったのですが、なかなか視界に入れることが出来ません。この小鳥、お行儀良く松の枝に停まっていて肉眼ではその居場所が分かるのですが、松特有のどれも同じように見える枝ぶりがカモフラージュしてしまうよう。なんとかスコープの視界に入れることが出来た瞬間、「これ、前にも見たやつ?」と思った僕。偶然にも5年前の親子遠足でこの龍王公園に来た時もこれに似た野鳥を見かけまして、その時は帰って図鑑で調べたら『エゾビタキ』だと言うことが分かりました。今回は持っていたビデオを最大望遠にして何枚かの写真を撮ることに成功。「これなら確かに分かるはずと」期待を胸に、公園を後にした僕でありました。 このエゾビタキの仲間には似たような鳥が三種ありまして、その名をコサメビタキ・サメビタキ・エゾビタキと言います。この見分けがなかなかに難しい。繁殖分布図から言うと一番確率の高いものはコサメビタキ。でも前回見たのはもうちょっと明るめの色合いに、胸に可乃子模様があったことからエゾビタキと判定しました。そして今回のはもうちょっと重たいグレー調。図鑑やネットで色々調べ、撮った写真を拡大し何度もいくつも見比べて『サメビタキ』と確定しました。でもそうして改めて写真の小鳥を見てみると、『サメ肌色』が名の由来となった『サメビタキ』が一番適当かな…とも思ったもの。写真での野鳥の識別は個体差もあれば光線による写り具合もあるので難しいものなのですが、だからこそあの初見で感じた「なんか重たい色味の鳥だな」と言うファーストインプレッションは大いに意味があったのです。情報化が進んだ現代において、「いつもそうだから」とか「こっちの確率が高いから」とかそんなことばかりに判断の重心を置いてしまいがちな僕ら。でも改めて『こころが動く』と言うことは、僕らが神様から与えられた大切な賜物だと思ったもの。子ども達を見つめる際にもセオリーや常識に教えを請うのは大事なことではありますが、最後の決め手となるのは『自分がこの子から何を感じるか』。そのことを感じられるまでしっかりじっくり顔を突き合わせ、彼らの想いに自らの心を寄せてゆきたいと思ったものでした。改めて僕にそんな想いを思い出させてくれた、珍客渡り鳥の『サメビタキ』との出会いでありました。
さて、運動会を終えて大きな課題から解き放たれたひと月を過ごして来た子ども達。その間、ハロウィンパーティーがあり・感謝祭がありと、絶対的なものではないもののテーマやモチーフを掲げた中を過ごして来たことは、彼らの自己啓発において大変有意なことでありました。ハロウィンでは仮装したりお化け迷路を作ったりして、何かを演じたり成り切ったりする楽しさを味わった子ども達。『ハロウィン』は一昔前にはあまり世間的にも取り沙汰されず、幼稚園でもパーティーはやっていませんでした。イースターやクリスマスと同じくキリスト教に起因する西洋文化?と思われがちなハロウィンですが、実はキリスト教がヨーロッパに興る前のアイルランド・古代ケルトの魔除け行事が起源。しかし都会を中心に社会現象となるほどまでに世の中に浸透したハロウィンをみんなのお楽しみに昇華してくれたのは先生達。『キリスト教を否定するものではないし、それはそれでいいかな』と言うのが最初の園としての受け止めでした。それが最近の子ども達の姿を見ていると、『それ以上のものがあるのかも…』と思うようになった僕。運動会できっちりした課題を与えられ、それに向かってがんばって来た子ども達。そこで自分を顕す喜びや面白さを感じ、学びや多くの体験を得ることが出来ました。そこで芽生えた向上心が赴く先としてこの時期のハロウィンが受け皿となりました。『お化けになって楽しもう』と言う漠然と言う共通目標はあるものの、『誰が何をやっても良い』と言う縛りのなさがこの子達の自己表現の分化において一役買っているのではないかと思うようになった僕。「わたし、これがいい!」と言うファーストインプレッションが生み出した想いをモチーフに、『ハロウィンでは何々をしよう』と子ども達が自ら考えます。その想いを先生達が汲み取って、それに成るべく衣装やデコレーションを一緒に考える時を過ごすのです。これって通常の年間行事を見渡してもなかなか見当たらない教育課程。クリスマスや発表会に向けて準備する劇や出し物ではまずコンセプトや配役と言った大枠が定められ、それに寄せて衣装を作ったり表現を近づけて行ったりするもの。そこには毎年行われる聖劇の役への憧れや、発表会でみんなで演じるモノへの共通理解が大きく寄与してゆきます。そうしてみんなの想いが一つのものを目指し、みんなで一つの物語を顕してゆこうとするこれら行事の教育課程。それに対して今回のハロウィン。基本は個人の想いの具現化です。自分がなりたいもの・したいことを自らの想いをもって形作り・表わすことによって個人個人の自己表現が重なり合い、それがひとつの『ハロウィン』と言う事象を顕すことになるのです。『どこまで自分の想いを具現化出来るか』と言うことはありますが、こんなに自由度の高い共同表現は他にはありません。そんな想いをもって一人一人が仮装衣装を作って・着て・集まってすることによってひとつの『ハロウィンパーティー』と言う形を顕しているこの行事を見つめながら、「これって良い教育課程だよね」と改めて思った僕でありました。
また今年はどんぐりも豊作で、運動会後の子ども達は毎日お山に登っては袋一杯のどんぐりを拾って帰って来たもの。潤子先生曰く「こんなに生った年はない」と言うほどの大豊作。なるほど、前日袋一杯採って来たにも関わらず、次の日にもまた袋一杯のどんぐりを拾って来る子ども達に驚かされた毎日でありました。そんなどんぐりを使って『どんぐり迷路』を作ったのはもも組さん。畳一畳ほどもある段ボール紙を寝かした上に、拾ったどんぐりをボンドで貼り付け迷路を作り始めました。綺麗に貼り付いたどんぐり達だったのですが、その後迷路のコースは紙製に変更。察するにその上をうまくどんぐりが転がらなかったのではないかと思うのですが、実祐先生にとっても子ども達にとってもそれはそれで良い体験。今はそのダンボールを立てまして、パチンコ台のようなどんぐりコースに改造されています。紙製の路面は良かったのですが、飛び出し防止のガイドが無いので事ある毎にコース外に飛び出してゆくどんぐり達。でも不思議なことに『縦長どんぐりを転がせばゴールまで行く』なんて法則を見つけ出したりして、日々研究と発見を重ねているこの子達。「これも素敵な自由研究だな」と思いながら見つめた情景でありました。 |