<誇れるものは皆与えられたもの>
朝晩肌寒さを感じた今年のG.W.。しかし昼間は程良い日差しの中を五月の風が吹き抜けて、心地良さを感じた『一年で一番の季節』となりました。そんな連休を過ごす中、またいつもと違う鳥のさえずりに気がついた僕。今回は松岡集会所の建つ谷の方から聞こえて来たのですが、高らかに響き渡るその声に「なんか来ているな」と思ったもの。でも「あの谷は広いから見つけられないかな・・・」との想いでその美声を聞いておりました。心当たりはあります。この季節にこのさえずりはキビタキ。でも似た声にウグイスの『さえずり練習』もあるし、イソヒヨドリも今盛んに鳴いています。先月はオオルリとの出会いに大喜びしたばかり。やはりその姿を見るまでは確信は持てません。幼稚園の丘を行き来するたびに、あの黒と黄色のまばゆい『艶姿(あですがた)』を探し求めたものでした。
ある朝外へ出た時のことでした。今回は幼稚園の丘の方からあのさえずりが聞こえて来ました。早速滑り台上の小路まで足を伸ばしたのですが、その時は何にも出会えませんでした。でも考えてみればどんぐりの木が生い茂るあの一帯、彼らにとっても大事な羽休めの杜であり、僕らにとっても範囲を限定して渡り鳥を見ることの出来るスポットなのだと気付いたのです。「またさえずりが聞こえて来たら、きっとここで逢えるでしょ・・・」とその場をそっと立ち去ったのでありました。その日は家族と出かける約束があったので、二階の自室で準備をしていた僕。窓の外からまたさえずりが聞こえて来て、ふと外に目をやった時のことでした。表の電柱とベランダをつなぐ一本の電線にあの黄色と黒の探し求めていた渡り鳥が留まっていたのです。これにはびっくり。キビタキが電線に留まり、それを自宅から見たと言うこの奇跡。山深いところに生息するキビタキがツバメのように電線に留まる姿にも驚きでしたが、それを自室の窓越しに見ることが出来るなんて思ってもみないことでした。松岡の谷と幼稚園の杜を行ったり来たりしていたこのキビタキ。僕の家はそのちょうど境の峠に建っており、この電線は彼にとって格好の『とまりぎ』となったのでありましょう。僕らの常識や想像を遥かに超えた彼らの合理性。『あるものは使う』『与えられたものはいただく』と言うのが自然を生きるものの摂理なのです。騒がしかったり身の危険を感じるようなところであったなら敬遠もされるでしょうが、そこは人影少ない日土の里。この地で数日を過ごした彼は、ここが安心して過ごせる場所だと感じてくれたのでありましょう。しかし突如自分の目の高さに人目を感じたからでしょうか、正面を向いて留まっていた彼はくるっと背中を向け留まり直したその後に、松岡の谷へと飛び去ってゆきました。いつも人間を見下ろす高さに留まっている彼ら。それがアイレベルでじっと覗き込んで来る者の目線を感じ、驚かせてしまったのかもしれません。僕にしてみれば不可抗力なのでありますが、電線にいるキビタキに気付いてじっと見入る人間など他にそういないでありましょうから「ちょっとわるいことしたな・・・」と言う気にもさせられたもの。このキビタキ君がこれに懲りず、また幼稚園の杜に遊びに来てくれることを願っています。
そんな五月の初めでしたが、子ども達にとっても幼稚園の丘は初夏の自然が盛り沢山。まずは筍(たけのこ)。ヤギ牧場へ散歩に行った帰り道。ばらの男の子と一緒に歩いていた僕は、里路から生えて来た筍を見つけて一人土手へと足を踏み入れました。毎年『筍狂想曲』の教材として子ども達の元へと筍を届けている僕。後ろで待っている男の子に「どれがいい?」と尋ねると「おおきいの!」。「そうだよね」と足元の小ぶりな筍を通り過ごし、崖の上に生え出でた1m越の筍のところまで登ります。その『ほぼ竹』になっている筍にすがりつき、力をかけて引いてみたのですがボキッと行ってはくれません。そこで思いっきり体重をかけながらさらに筍を引いた僕。それが功を奏して根本から折れてくれた筍だったのでありますが、勢い余って崖を転がってしまった僕。それでも一回転で踏ん張り止まって『事を無き』を得たのでした。でもそんな僕をびっくりした顔で見つめていた男の子。おかげさまで幸いどこも痛めず無事だった僕を見つめ、安心した顔に戻り足元に転がって来た巨大筍を抱えに行った彼。その筍をヤギ餌運搬のために転がして来た一輪車に二人で積み込んで、僕らの戦利品をみんなの遊んでいる園庭まで運んで行ったのでありました。
そんな巨大筍を積んだ一輪車が到着すると、そこに「わー」と嬉しそうな歓声をあげながら集まって来た子ども達。その輪の中にえりか先生の姿もありました。まずは恒例の『背比べ』でその身の丈の程を実感した子ども達。背比べで子ども達とひと盛り上がりした後、その巨大なる筍を相手にみんなで『皮剥きチャレンジ』を始めました。『筍の皮は剝くもの』と誰が決めたものでもないのに、筍を目の前にすると誰彼ともなく剥き出す子ども達。採り立ての筍は細かい毛が一杯で手についたり、皮を剥けば青臭い匂いがしたりして、人によっては得手不得手があるもの。でも子ども達の嬉しそうな仕草と顔を見つめながら、一緒に楽しんでくれていたえりか先生。それが何より嬉しいことでした。日土幼稚園に勤めて自然物が苦手だったならここでの保育はかなり苦痛。たかが筍と思われるかもしれませんが、ほぼほぼ人工物に囲まれて幼少期を過ごして来たであろう現代っ子にとって、慣れぬ自然に向き合った際「これ、無理!」となるのもありそうなこと。でも筍にも・嬉しそうに戯れる子ども達にも優しい目線を送りながら、自身も嬉しそうにしてくれている先生の顔を見てほっとしたものでありました。遅ればせながら日土幼稚園における『適正』について太鼓判を押してもらったような気がして僕も嬉しかったです。自然の中で生き生きと自分を顕せるステキな先生が与えられ、感謝です。
さて、そうして皮が剥けた筍でありましたが、いつもそこで終わってしまうのが残念なところ。おままごとに使ってもその後は砂と水にまみれた筍を杜の大地に返しておしまい。逆にそうして処分してしまわないとすぐに小バエが寄って来て大変なことになってしまうのです。そんな時、最近裏山の破竹や笹をもりもり食べるようになったヤギのことを思い出した僕。昔は柔らかな葉っぱしか食べないカワユイ子ヤギであった彼女達も今年でもう5歳。近頃は『食いで』のあるものをバリバリボリボリ食べるようになり、益々立派になったおなかを僕らに見せつけています。そこで子ども達の剥いた筍の皮と、皮のきれいに剥かれた筍本体をコンテナに集め、次の日『ヤギ牧場参り』が日課となっている男の子達と一緒に『筍ご飯』を届けに行ったのでありました。筍の皮を差し出すとそれをもぐもぐもぐと食べるヤギ達。意外なほどの食べっぷりに「ではこれも?」と筍本体を鎌で縦半分に割り入れてやるとボリボリ音を立ててかぶりつきます。これには僕も驚いてしまいました。花桃の実や甘柿、更には渋柿までもガリガリ食べる彼女達。渋柿の渋さやアク取り前の筍のエグさも気にならないようで本当に不思議。かと思えば『キャベツは食べるけれど白菜は食べない』と言うその嗜好性に、どこにこだわりがあるのか僕にはとんと分かりません。人間もヤギも好き好きはみんなそれぞれのよう。先日のお弁当給食に出た筍に四苦八苦していた子に向かって「ヤギ、たけのこ食べてるねぇ」とつぶやくとじっとヤギを見つめる男の子。それが何かを心に感じ噛みしめているような顔に見え、「ここから『がんばりチャレンジ』につながってくれたらいいね・・・」と思いつつ見つめた情景でありました。
でもそうは言いながら、段々と新たなる幼稚園生活に慣れて来てくれたばらの子ども達。色んなことに大丈夫になって来ている嬉しい姿を見せてくれながら、そこに自分らしさも体現されている『マイペースぶり』を披露してくれるようにもなりました。機嫌の良い時にはフンフン鼻歌を歌っている男の子。何かをずっと口ずさんでいるその様に乗っかり歌い返してみたならば、そんな僕の言葉を受けてまたフンフン返って来るその子の呟き&嬉し鼻歌。僕もそんな彼の口ずさむ歌の語呂からまた別の歌詞を思いつき『替え唄歌合戦』でフンフン歌ってみたならば、それが延々と続く僕らのキャッチボールになりました。人の話を聞いていなさそうに見えて、よくよく僕らの言葉を分かり受け止めている男の子。そんな彼にシンパシーを感じてしまう僕。「なんか仲良くやってゆけそう」と確信を与えられた、僕らのたわいのない日常の風景でありました。
さて今年は『実もの』が好調な日土の里。去年は実をつけたものがチョビットだったその上に、残りも全部鳥に盗られてしまった幼稚園のさくらんぼ。今年は早めに久保田のおじちゃんがネットをかけてくれたのと、連休後半の前『ちょっと早めのさくらんぼ狩り』にみんなで行ったことが功を奏して、久々の大収穫と相成りました。かけられた網を切り開けながら、赤く熟れたさくらんぼに手を伸ばし、子ども達の採れるところまで枝をたわめ寄せてくれた先生達。そんなさくらんぼを手ずから採って『籠係さん』の持つザルに入れてゆく子ども達。見る見るうちにその籠がさくらんぼで満たされて、それだけでテンションも上がり嬉しくなってゆきました。また頂上付近の実は先生が摘んで子ども達に渡し、「おとなりへ、はい!」と収穫籠まで運ぶバトンリレーでまたひと盛り上がり。そんなこんなで今年は実地体験としての『さくらんぼ狩り』をあれこれ楽しむことが出来たのでありました。
幼稚園まで帰って来まして、早速収穫したさくらんぼをいただきます。先生にさくらんぼを洗ってもらい、みんなみんなでパクパク「美味しい!」。このリアクションがなんとも新鮮に聞こえた僕でした。お店で売っている高級さくらんぼより甘くも大きくもないであろうこのさくらんぼ。僕ら大人はそう言う目で食べ物を認識した上で食べるので、その感動も目減りしてしまうのでしょう。でもこの子達は自らの手で摘み・手数をかけて収穫したさくらんぼに対する想い入れが『感激MAX』。そのような状況で口にしたさくらんぼの味は格別に感じられるのでありましょう。でもきっと人の心ってそう言うもの。相対的に比較出来るものに対する欲望は際限なくエスカレートしてゆきますが、幼き日に体験した絶対無二の体験はいつまでもその心に残っているもの。先生から『タネ飛ばし競争』をもちかけられて、余興に参じた子ども達。「ふぅー!」っと勢い良く吹いたつもりが、当の種はよだれと共に足元にぼとっ。これは繰り返し繰り返しやる中で『自分にとってのコツ』を掴まなければそうなるのは致し方ありません。頬袋を膨らませ大量の空気を口に溜め、唇をつぼめて空気を逃がさないように内圧を高めつつ発射経路を形成し、その形のまま口先をちょっとだけ緩めた瞬間に息を吐き出すことで得られる初速によって種は遠くへと飛んで行く。そんな理屈は分からねど、自分の身体を使って重ねた体験によって『そんなかんじ』を会得したなら、上手に飛ばせるようになってゆくのです。不器用と言われる現代っ子達がそうして自分の身体の使い方を学んでくれたら嬉しいこと。そんな遊びに興じた思い出も相まって、このさくらんぼはその糖度の何倍も甘く甘美な記憶としてこの子達の心にいつまでも残って行ってくれるはず。桐の箱に入った高いさくらんぼでは得られないこれら一連の感動体験。この日土の里で過ごす中で得られる自然体験により、子ども達の心が健やかに育って行ってくれることを祈っています。聖句にもあるように、自ら撒きも刈りもしない野山の中に神様が与えてくださる教育の種。僕らが作り整えようとしても決して得ることの出来ないこの豊かなる保育環境と、自らの想いと心を子ども達に投げかけながら保育の業に勤しんでくれる僕ら自慢の先生達に感謝しながら。
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