園庭の石段からみた情景~園だより6月号より~ 2025.6.15 |
<自然が教えてくれること> 今年は『初夏』と言うにふさわしい5月を過ごして来た日土の里。先月やって来たキビタキを幼稚園側の丘でも数回見かけたのですが、日土小学校の運動会に来賓&保護者として行った時、道路向こうの森からあの鳴き声が聞こえて来ました。小学校前の県道の上にあるうっそうとした雑木林、そこから聞こえて来たのはキビタキの声です。森が深すぎてその姿は見えそうにもなかったのですが、松岡の谷で聞きなれたあの声だったので確信を持って「あれはキビタキ」と思ったもの。小学生の運動会を見つめながら、他の誰も気付かないであろう旅鳥のさえずりをひとり楽しんでいた僕でした。同時期に複数地点で異なるキビタキ(雄)の存在を確認したのは僕も初めて。なわばりを持つ鳥なので恐らく二羽は別個体。いつも『何千キロも遠くの東南アジアから飛んで来て、こんな異国の地でお相手の雌に巡り合えるのだろうか』といらぬ心配をしていた僕。しかしこの距離で雄が二羽もいると言うことは、キビタキ達は同じようなルートでこの辺りに飛来し、ちゃんと縄張り争い・そしてお相手を見つけての繁殖もしているのでしょう…と推察したもの。ツバメのようにうじゃうじゃそこらにいて大繁殖している訳ではないけれど、気の合う仲間が集い(繁殖期は敵にもなりますが)この地で営みを続けているキビタキに今の日土幼稚園の姿を重ね合わせたものでありました。 それと同じ頃、「きょきょきょきょきょ」の鳴き声が松岡の谷の方から聞こえて来るようになりました。こちらはホトトギス。この鳥も同じように南の国から飛来する夏鳥なのですが、この子の厄介なところは『托卵』をするところ。他の鳥の巣に、自分の卵を産んで育ててもらうと言うちゃっかり者。「明らかに容姿が違う鳥の雛、見たら分かりそうなモノなのに」と思うのですが、鳥にはそれが分かりません。『自分より大きくなったホトトギスの雛に、エサを運び育てているウグイスの親鳥』なんて写真も多く残されています。「そんな大らかな母ちゃんも良いよね」なんてのんびりしたことを言ってはいられません。産み落とされたホトトギスの卵はウグイスの卵より一足先に孵化し、そこにある卵をみんな巣から落し捨ててしまって自分だけが育ててもらえるように画策するのです。これには引いてしまいます。しかし近年の研究によると托卵される側の鳥達も防衛作戦を取るようになって来て、托卵された卵を先に捨ててしまう親鳥も出て来たそう。「自然は変わりゆくものなんだね…」と悠久の営みさえも変わる自然界のダイナミクスを想ったものでありました。 さてそのホトトギスの声が聞こえるようになった丁度その頃、先に日土の谷に響き渡っていたキビタキの声がぷっつりと聞こえなくなりました。「はて、これはどうした?」と思ったのですが、思い当たったのは「キビタキ、逃げたな」。遥々遠くからやって来たキビタキ君、子育てのリスクは減らしたいでしょう。今時の彼らには『ホトトギスの仲間(他にカッコウ・ツツドリなども)は厄介』との認識があるのかもしれません。そこで存在を感じた途端、逗留地を変えたのでは…と言うのが僕の考察。それが的を得ているかどうか分かりませんが、続いてホトトギスの声も聞こえなくなり、「ここでは正体がバレたからダメだ」とこの地を去ったストーリーを想い描いた僕でした。その事実の正否はともかく、『子育て環境』と言うものは子育て世代にとって何より大事だと言うことを改めて思わされたこのキビタキ達の物語。子どもが育つ環境も大事ですが、子育てをする親御さんのメンタルもとてもセンシティブなものであり、僕らは出来る限りその想いに寄り添って行かなくちゃと思ったもの。こんなに古くて小さい幼稚園を選びここに集って来てくださったお母さん・そして子ども達にとって、『ここの居心地』が何より大切だと思う僕。新品の設備もなく、『子ども達が何々を出来るようにします』と言う成果を謳っている園でもない日土幼稚園。先生達が優しく親身であるのが自慢な一方、園長はぼーっとした朴念仁。でも子ども達・そしてお母さん達がここに居るだけで嬉しくなれたり、まったりゆったり過ごせたり、只々いつまでもここに居たくなれるようなそんな場所・そんな幼稚園になれたらそれがなによりと思うのです。先生達も含めてみんなが自然体で過ごせる場所になれたらいいなぁと思う僕なのです。 さて話は変わって、今年の『実もの』の豊作は実に不思議。こんなに『実の生るもの』がことごとく良く採れる年はなかったように思われます。梅も嬉しいほどに採れまして、子ども達も大喜び。『手ずから採って』と言う体験は相当うれしかったよう。採っても採ってもまだまだ採れる今年の梅ですが、採れれば嬉しいのは幼稚園児ばかりではありません。うちの小学生の娘や髭のおじちゃんに和彦さんまでもが、そこを通るたびにバケツ一杯採れる梅の実にご満悦。でもその後をお願いされる佐代子さんは大忙し。梅ジュースにするにも・梅酒をつけるにも・梅ジャムに仕立てるにしたって、手間暇かけてやらなければ出来ません。最近の『(また)…』と言う顔からそのしんどさを察した僕、ちょっと目減りさせようとある日の収穫をヤギ牧場へと持って行きました。花桃の実を喜んで食べるうちのヤギ達、それよりも大きく食いでのある梅の実をカプカプカプと平らげてしまいました。「梅の実、食べるじゃん」と思ったのですがその一個を平らげた後、梅の実に口をつけなくなったのです。それどころか鼻をクンクンさせながら桃の実と選り分け出しました。やはり梅の実がすっぱかったのでありましょうか、はたまた『この渋さは体に良くない』と感じたか、「これは食べれん」とすぐさま学習したみたい。そんな賢さに「何でも食べる食いしん坊じゃないのね」と感心させられたもの。その上で「『食べたら悪いもの』だったならヤギ達には申し訳ないことしたな」とも思ったのですが、そんな僕の稚拙さをも超えて自らの身を守る自然の知覚と知恵には感服させられました。「うちのヤギはああ見えて賢いなぁ」と気付きを与えられた出来事でもありました。 お次はビワ。幼稚園の山に生るビワも今年は良く良く採れまして、お昼ご飯の後のデザートに数回子ども達に振る舞われました。給食タイムの終り頃、まだ席について食事をしている男の子に、「まだがんばっているの?」と声をかけた僕。すると「ごはんは終わってビワを食べているんです」と教えてくれた実祐先生。「己生えのビワだけれどそんなに美味しかった?」と尋ねると「うん、五個目」と涼しい顔で返す男の子。もう『お昼仕舞い』の時間になろうと言う頃にのんびりとビワを味わっているその子の姿に思わず笑ってしまいました。「そんなに食べたいのなら、ご飯をもっと早く食べないと!」と言うと「へへへ!」と笑いつつビワをむさぼり続ける男の子。この日はビワをたらふく食べられて大満足だった彼ですが、この次は『これをモチベーションに何かをがんばる』と言う方向に想いが行ってくれたらいいな…と思ったもの。そのための投げかけとして、どんな言葉掛けをして行ったらよいか、どんな提案したらいいのか考えて行かなくっちゃ…と思ったものでありました。せっかく見つけたこの子の『うれしい』。今日得た満足感から自己啓発につながる『石のつぶて』を探し見つけることが出来たなら、この体験は僕らにとってかけがえのない布石となってくれるはず。『〇〇したから△△がもらえる』と言う報酬系の契約になること、『××が出来れば人は評価してくれる』と言う成果主義に偏向してしまうこと、これらは僕らの望むことではありません。そのように偏った想いは子ども達の心をカタクナなものにしてしまいます。その行為が『他人からの評価を望むもの』ではなく、『自らの心の糧となり、自分を支えてくれるもの』と成すことが僕らの目指す教育。一見矢印の示しているベクトル方向は同じように見えますが、『それが誰のためなのか・何のためなのか、自ら考え受け止められるようになること』それが大事。導き手が送ってくれる言葉を頼りに自分の進むべき道を探してゆくこと、未熟な若人・そして僕らもそうなのでありますが、それは学び手にとって重要な作法。でも僕らは『言われた通りに出来ること』を望んでいるのではありませんし、それを目指して生きている訳でもない。『道を究めた者』は基本を大切に反復鍛錬を繰り返しながらも、最後は自分の編み出した作法にたどり着くと言います。僕らもセオリーや基礎を手本としつつ子ども達に言葉や想いを投げかけながら、その子にアジャストした次の一手を一緒に探してゆきたいと思うのです。そうして生まれ身についたものこそが、その子の想いを支える心の糧となるはずだから。『何のために生まれて、何をして生きるのか』、それを見出し突き止めるのは自分自身。そのためには『自分はどんな人間なのか』『自分は何をどのように感じるのか』、それを一杯一杯感じる場と機会を与えてあげたい。それには一つ一つが全て異なる多様性の集まりである自然が何よりのテキスト。そしてそれを感じる子ども達の心も一人一人ひとつひとつ・更にはその時々で違う『多様なるもの』。その違いを受け止め許容してゆくその中で、そこからこの子達にひとつひとつ自らの言葉と想いを投げかけて行ったら良いのです。画一的な枠にはめ込んでゆく方が遥かに効率的。しかし僕らの願うキリスト教保育は、一人一人の個性に応じたカスタム保育なのだから。 |