園庭の石段からみた情景〜園だより4月号より〜 2026.4.20
今年のイースターが教えてくれたこと
 月に入って程良く雨の降る日々が続いています。そんな天気に気温上昇も抑えられたのか、入園式・始業式まで園庭の桜ががんばってくれまして、子ども達の新たなる『はじめの一歩』を祝福してくれました。それが一変、翌日の大風で一気に葉桜へとその姿を変えた桜の木。そんな立ち振る舞いに「この日この時の僕らのために、最後のひとふんばりをしてくれたんだな…」と思ったもの。それからの気温とその後も順調に降った雨のおかげで、幼稚園の裏山も一気に草木が芽吹き出しました。子ども達は青々とした草原の上を飛び交う蝶々を追いかけたり、『カニマンホール』に流れ着いたサワガニを捕って大喜びしたり。新年度の不安は少なからずあるはずですが、自らの想いを自然に投影・具現化しながら「幼稚園、楽しい!」と言って笑顔を見せてくれています。そんなこの子達の想いに寄り添いたいと、朝の自由遊びの時間をたっぷり取って野山で砂場で園庭で子ども達と一緒になって一杯遊んでくれている先生達。随所に見られるそんな嬉しい関わりを見つめながら、感謝の想いに浸っている僕なのです。

 さて今年はイースターが四月第一週に当たりまして、日曜学校では春休みにイースター礼拝を守りました。その日は8名の子ども達を迎えることが出来、連れて来て下さったお母さん達も一緒に楽しい時を過ごしてくださいました。それが呼び水となったのか今年は『イースター付いた四月』となっている日土幼稚園。入園式・始業式でもイースターのお話を取り上げて、新年度に立ち向かう元気と勇気を鼓舞したもの。翌日は毎年恒例の『イースターエッグ探し』。雨だったのでホールで行なったのですが、それもひと盛り上がりしてイースター(エッグ?)の喜びを共に味わうことが出来ました。翌週の『幼稚園イースター礼拝』では聖書の御言葉を紐解いて子ども達にお話を聞いてもらったのですが、先週来の卵効果で子ども達の聞く耳も興味津々。僕の話を受けて「あーだ」「こーだ」と自らの考えと想いを投げ返して来てくれました。そうして迎えた翌日の『お楽しみ会』。僕の担当だったのですが、ここも『イースターつながり』で行こうと企画を立ち上げ挑みました。まずは「卵探しの話に出て来た『イースターウサギ』につなげるのに何かないか…」と考えてみたところ、思い浮かんだのは去年の運動会ダンスの『バニージャンプ』。それをみんなで歌うところから始めてみました。半年も前の楽曲ですがその後も度々登場し、その度に練度とモチベーションを上げて来たこの子達。なのでみんなで歌ってみると子ども達もノリノリになってくれまして、おかげさまで程良い導入から始めることが出来ました。その後くるっとボードを回して現れたのは、先日の卵探しの前に実祐先生に読んでもらった絵本『イースターってなあに』のイースターウサギ。その下に四個の卵を並べまして、『さてこの卵から何が生まれるでしょう』と言うパネルシアターをやってみました。最初は『卵と言えば』のセオリー通りのひよこ。ヒントに『可愛いかくれんぼ』をギターで奏でたのですがなんか無反応。演奏がたどたどしかったこともあるのでしょうが、「こんな昔の童謡、歌われなくなったから?」と思うようなリアクションでありました。それでも子ども達とのやり取りの中で正解が出て来て、「じゃあ、めくってみて」とばらさんにめくってもらい一問目無事終了。次の答えはアンパンマン。『アンパンマンのマーチ』を奏でるとこちらはすぐに答えが分かって、あちらこちらから「アンパンマン!」。でもこれにはひとひねり仕掛けがしてありまして、答えのイラストは『アンパンマン誕生』のエピソードに登場した『あかちゃんアンパンマン』。これもばらさんにめくってもらって「えーこれアンパンマン?なんか違うことない?」ととぼけて見せると、「バイキンマンに赤ちゃんにされたやつ!」と答えた子がありました。それはまた別回のエピソードでイラストも少々違うのですが、そんな回があったことをよくよく覚えていたその子に感心してしまいました。そして第三問、答えは『ばいきんまん』。これにも仕掛けをしておいた僕。卵の中に『ばいきんまん初登場』の際のマーブル模様の卵を一つだけ混ぜておいたのです。これを見てノーヒントで「ばいきんまん!」と答えた男の子がありました。まだ何もしていないうちからいきなり正解が飛び出して、ちょっと慌てふためいてしまった僕。企画した通り『いくぞばいきんまん!』のイントロを弾いて「さあ、なんでしょう?」。もう最初から答えが分かっている男の子は確信を持って「ばいきんまん!」。そうなんだけど…。「じゃあ、めくってみて」とばらさんにお願いすると中から出て来たのはこれまたあかちゃんのばいきんまん。『生まれたて感たっぷり』のばいきんまんに「本当にこればいきんまん?」とじらしたならば、「そう、こればいきんまん。この卵から生まれたの!」と見事に講釈して見せた男の子。「ばいきんまん、卵からうまれたの?」と先生達も知らないびっくりエピソードに、「そうです、大正解!」と彼の博識を讃え正解を認めた僕でありました。アンパンマンの誕生から半世紀ほども時が過ぎ、TVの初回放送からももうじき40年になろうとしているやなせたかし先生のアンパンマン。それが未だに現役乳幼児に受け入れられ、旧作エピソードにもこんなに詳しい子がどんどん生み出されてゆくその魅力とパワーに驚かされてしまいます。ギネスにも認定されるほどのキャラクター数は実に数千にも及びます。それを作り上げた先生もすごいのですが、それを「これ!〇〇!」と分かってしまうほどずっと見て来た子ども達もほんとにすごい。やはり『好きなものこそ上手なれ』。そこから始めてゆくのがなによりで、それによって生み出されるモチベーションこそがこの子達の尽きぬ原動力になることを、改めて教えられたような気がしたものでした。

さて、最後の問題はイースターのメインキャスト『イエス様』にした僕。蘇ったことを信じない弟子のトマスに手のひらを見せている図を卵の裏に印刷したものを準備しました。その手には十字架に付けられた時にくぎ打たれた穴があり、トマスに「見ずに信じる人は幸いである」と語った場面の絵。そのヒントに持って来たのが讃美歌『主イエスと共に』。ギターで弾けば音才のある子は「主イエスとともにー」と歌い出します。それに僕も嬉しくなっちゃって「ってことは?」と振れば「・・・」と無反応の子ども達。「じゃあみんなでもう一回歌ってみようか」と合同礼拝の最後にいつも歌うこの讃美歌を歌い出せば、子ども達も「主イエスとともにー、あるきましょー、どこまでもー」と続いてくれます。「だからこの卵から出て来るのは?」と問うとやっぱり「・・・」。「この讃美歌、誰のことを歌っているの?」とも一度投げかけると「神様!」。この子達のこの「神様!」。僕の問いかけに対してによくよく出て来るアンサーなのですが、往々にして僕の質問の答えが『神様』だと言うことを知っている子ども達が山を張って繰り出す答えでもあります。『天地創造』を聖句に用いた7月に「ほんとにだれがつくったの」とみんなで歌うこども讃美歌。歌い終わって「だれがつくったの?」と尋ねれば「かみさま!」、それが僕らのいつものお約束。また他の讃美歌でも、歌った後に「だれがしてくださるの?」と問えば「かみさま!」。そしてクリスマスシーズンに「この赤ちゃん、だれ?」と尋ねると勢いで「かみさま!」と答える子ども達。『三位一体』の教理からすれば間違いではないのですが、「神様、そうイエス様ね」と言い直して伝えています。でも「主イエスと共にー」と歌っているのに「その『イエス様』が出て来ないのかぁ…」と思いつつ正解を告げばらさんに卵をめくってもらったのですが、そこに出て来たのがこのイエス様のイラストだったのです。この絵を指差し「これ、だれ?」と問えばまた「・・・」。「昨日のイースター礼拝で『イエス様はお墓の中から蘇られました。だから暗い硬いものの中から出て来た象徴として僕らは卵でお祝いするんだよ』って言ったでしょ。この卵から生まれたのはイエス様!」と伝えると分かったような分からないようなそんな顔の子ども達。それでも「もう一回歌おう!」と讃美歌『主イエスと共に』を歌った僕ら。この讃美歌は子ども達も大好きで、御機嫌モードのノリノリで歌ってその『たまごクイズ』を終えたのでありました。

子ども達、僕らの投げかけに応えて日頃から讃美歌を歌い・聖句を覚えしてくれているのですが、それが自分の中で『ストーリー』としてつながることの大切さを改めて教えてくれた今回の『たまごクイズ』。アンパンマン・ばいきんまんは多少形態が違って赤ちゃんの姿であったとしても「あれ、アンパンマン!」と分かった子ども達。慣れ親しんだそのアイコンと多少違ってもそれを補完して察せる個性がそこに顕されていたならば、子ども達もそれが何者か分かってくれるのです。一方のイエス様は決まった顔を持ちません。その時の状況とその御姿から「これはイエス様」と分かるのは『赤ちゃんイエス様』くらい。馬小屋・羊飼い・博士・お母さんがいる中に描かれる赤ちゃん、そこまで描いて初めて『イエス様』がアイコンとして成り立ち、子ども達もそれと分かってくれるのです。これは『聖劇』と言う形でイエス様の誕生をずっと子ども達に伝え続けて来たことによって与えられた豊かなる実り。でもそこから飛んでいきなり大人のイエス様が出て来たり、復活の場面の絵を見せられてもそれがイエス様と分かるはずがないのかもしれません。毎週の合同礼拝におけるお話もいわゆる『素話』。そこで顕される物語や倫理観については共有してくれるものの、それを『自分事』として受け取るにはなにかもう一つ表現が足りないのかな…と言うことを改めて感じさせられたものでした。
 しかしアイコン化したイラストを用いて共通理解を得ようとすることには正義も不義もあります。一義的に『これがイエス様』と絵を示し顕し教えることは多くの者に共通理解をもたらす一方、それが『ステレオタイプ』となれば「その表現は本当に正しいもの?」と言う疑問も生じて来ます。一人の作家によってイメージされ描かれたイエス様を絶対化・偶像化してはいけないのです。『あかちゃんアンパンマン』を見て「これ(も)アンパンマン」と言える自由度が必要なように、僕らの捉えるイエス像には余白が必要。常に「イエス様ってどんな方?」「イエス様の望まれる生き方ってどっち?」と自らを省みるルーティーンを守りながら、その想いを自分のイメージするイエス様に投影してゆくことが僕らには必要だと思うのです。それを子ども達に投げかけるのが僕らの仕事であり、彼らがいだく疑問や質問に対して真摯に向き合うこともこれまた大事。僕のイメージする『イエス像』は間違っているかもしれないから。自らの想いを人に押し付けようとするところから諍いが生じ、その『エゴの軋轢』が世の中に争いを生み出します。僕らに出来るのは目の前の子ども達に『イエス様を紹介すること』。それを受けてどう思うか、それは子ども達自身に委ねられるべきもの。保育や教育もそう言う理念のもとに行なわれるべきもので、相手を否定し自分の想いを押し付け合うことからは歪しか生まれて来ません。しかし自分の想いは顕さなければ『一方的に相手に抑圧されている』と感じる不条理も湧いて来るもの。であるならばその合間にある『落し処』に解を求めようとすることこそに『平和へのアプローチ』があるのだと思うのです。そのことをもって『互いに愛し合いなさい』と私達に御言葉を贈ってくださるイエス様。その御心に心を寄せて『平和』を目指すことこそ、神様が私達に課せられた宿題。なかなかその解を示すことは出来ないけれど。でもそれを目指しつつ自分の心に問いかけ続けながら歩んでゆくこと、出来るだけ多くの者の想いを分かち・満たし合って共に歩んでゆくことこそが、この世の中に平和を築いてゆく礎になると信じています。そんな心を子ども達の中に育ててゆくべく、幼児保育に携わっている僕なのです。



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