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<ゆとり教育について考える> 近頃、最近の子ども達の学力低下に歯止めがかからないことから学習指導要領が見直され、これまで推し進められてきた『ゆとり教育』の是非を問われるニュースが取りざたされるようになりました。これは就学児、つまり小学生以上の子ども達の問題として議論されがちですが、僕は幼稚園の子ども達にこそ照準をあてて考えられるべき問題だと思うのです。 『ゆとり教育』と『つめこみ教育』はいつも対極のものとして配置されますが、これらを違う言葉に置き換えると『自分で発想する学び』と『他方から供給される学び』となるのだと思います。これらは決して相反するものではなく、どちらが欠けても本当に子ども達の『学ぶ力』を伸ばしていくことは出来ないものです。『新たなものを生み出すにはその基となる知識が必要になる』、学問の黎明期に先人達が自然界の摂理や法則を学術的にまとめ、定義することによって人類の宝というべき知識が蓄積されていきました。これが時々の人々の、そして天才の新しい発想によってインスパイアーされ、次々と新しい発明を生み出してきたことを思い起こします。 『他方から供給される学び』には質と量、そして受け手の心のバランスが大切です。多くの知識や経験を持たない子ども達にとって大人が、そして保育者が『何かをやらせる』ということは体験の場を与え、頭と体でいろんなことを体得する機会を投げかけてやることです。それに対して子ども達は「できた、できた、よくやった!」と大人から認めてもらえることを励みにがんばります。それは子どもの学びへの導入としては大切な感情ですし、大きなパワーも持つものです。でもそこに『学ぶことへの喜び』、『出来るようになることへの喜び』という感情が共に育っていかなければ、いつかつまずいてしまうものなのです。子ども達は就学し、一度は勉強に対する壁にぶつかります。「何のために勉強するのだろう」、「この勉強がなんの役にたつんだろう」、「勉強しろって言うからしてきたけれどもうイヤだ!」、勉強の難易度が上がり、思うように理解が出来なくなってくると逃避を望む心からそんな疑問や言葉が自分の中から染み出してくるのは誰もが経験してきたことではないでしょうか。そんな時、私達の受けてきた教育は『つめこみ教育』だったと言われてしまうのでしょう。私達の親はきっと、「いつかは役にたつのだから」、「自分のための勉強でしょう!」と我々の疑問に対し、逆に声を荒げて答えたのではないでしょうか。私達の親達も『それがいつなのか』、『それがなんのためなのか』、きっとわからなかったのだろう、そんな気がする今日この頃です。 『それがいつなのか』、『それがなんのためなのか』、わかる人はきっと誰もいないでしょう。それがわかる時、それは自分自身が何かをやり遂げて、「ああ、これが昔、思っていた『いつか』だったのだな」と思う『遠い未来のその瞬間』なのだから。でもその瞬間さえも『自分で発想する学び』を経験してきたものでなければ永遠に訪れないのではないでしょうか。「このことを実現するためには昔、学んだこれを応用すればいいのではないか」、そういうひらめきがなければ供給された知識や学びは永遠に日の目を見ないからです。 『ゆとり教育』の理念は時間やカリキュラムの量もそうですが、心のゆとりを求めるところにあったように思います。私達の普段の仕事においても、『ノルマとしてこれだけのことをしなければならない』という毎日に追われる生活をしているとそれをこなすだけで精一杯。僕などはそんな日常の中にあっては新しいことをやろうとする気力や挑戦は湧き起こってきません。逆にほっと一息ついたその時に、何かをじっと見つめたその時に湧いてくるインスピレーションは自分を新たな挑戦に駆り立てる何よりも強い原動力となるのです。この背景にあるのが『自分で発想する学び』の経験だと思うのです。ひとつのものを見つめたときにそれと関連し発展させてゆく思考回路、これをなにかにうまく使えないかという遊び心、それらはみんな幼少期に遊びの中で培ってきたものたちです。子どもが廃材を見つめ、大人の思いもつかないものに作り上げる工作。自然の中にある草木、花、木の実、石、土、砂などなどあらゆるものを自分の遊びの中に取り入れて新しい遊びを創造してゆくイマジネーション。そんな遊びの中で芽生え育った『自分で発想する学び』を求める心は、やがてそれを実現するために更に深い知識を求め、学ぼうとしていく心を育ててゆくものとなるのです。子どもとは、『何々をしなさい』という言葉には反発し、自ら沸き出でる『これをしたい』という想いのためには努力を惜しまないものです。『自ら発想し、求める学び』、そんなものたちが子ども達の心にしっかりと根付いたならば、きっとこの学校における『ゆとり教育』も、もっと成果を挙げることが出来たのではないでしょうか。 最近、幼稚園の子ども達を見ていてそんなことを思い、なんとかまとめることが出来ないかとこの文章を書いてみました。行事の多い二学期、子ども達は大忙しです。敬老会の歌に運動会競技、ダンスや製作などなどやることいっぱい盛りだくさん。私達は「その指導の中で形だけの達成を子ども達に求めなかっただろうか」、「子ども達の心の中に楽しんでやる心、出来るようになることへの喜びの心を育ててあげることができただろうか」、振り返っていつもそう思います。これは幼稚園の設定保育における永遠の課題です。でもこの秋、子ども達を見ていると、私達のそんな想いが少なからず伝えることができたのかなあとも思うのです。子ども達は自らが面白いと感じ、やりたいと思ったものは行事が終わろうが、それが他のクラスのものであろうが関係なしに楽しんでやっています。そんな素敵な心が子ども達にしっかり根付き、育ち始めているとうれしく思う実りの秋です。さあ、子ども達はどんな遊びに夢中になったのでしょうか。それは次ページでのお楽しみ。 |