園庭の石段からみた情景〜園だより11月号より〜 2007.11.25
 <ぎゅーして>
 2学期も残りあとひと月となりました。運動会に秋祭り、勢いにのって成長を見せてくれた子ども達の姿を喜んだ秋もそっとひとまず落ち着いて、いつの間にやら冬支度の季節となりました。ひとつついた自信はその子のあらゆる面を大きくしてゆきます。この間までばたばたあだあだしていたすみれ組の男の子が、たんぽぽさんを追いかけてお世話を焼いている姿などを見るとうれしくなってきます。一方で揺り返しなのかばら組さん。毎朝、心の淋しさと格闘し、お母さんと離れる『別れの慕情』を名残惜しんでいる姿を見かけます。大人はそんな子どもを、『赤ちゃんがえり』なんて言葉で片付けてしまいがちですが本当にそうでしょうか。変わってしまったのは子どもの方なのでしょうか。
 人の記憶とは儚いもの。やっとのことで一歩を踏み出した子ども達の成長も、日常のものとなった今ではあの大きかった感動さえも忘れてしまいがちです。みんなが喜び励ましてくれたおかげで踏み出せた子ども達の一歩の大きさも大人は忘れてしまうのです。子ども達はそれを敏感に感じ取ります。「毎朝、迎えてくれる先生、そして送り出してくれるお母さんがあたりまえのような顔をしている。この前まではあんなによろこんでくれていたのに」、そんな想いを子ども達に感じさせなかっただろうかと自分自身を反省しています。お母さんの手を離れて一人で坂を上がってゆくことを心の底から一緒に喜んであげられただろうか、そんな想いに苛まれます。大人の心はそれほど鈍く、子どもの心はそれほどまでに感じやすいものなのです。
 人間は頭で考え、物事を整理してゆく生き物です。なぜそんなことをするかというとパターン化することによって情報量を圧縮し、自分のものとしてゆくためです。そのおかげで人間は膨大な量の情報を処理し、最適と思われる物事の解決策を講じることが出来るようになりました。しかしその過程では必ず切り捨てられる情報、物事、そして人の想いも出てくるのです。大人は決まった時間に行動し、決まった活動をする生活の中で生きています。小学校から始まる時間割生活、一斉活動がその始まりでしょうか。このことによって集団の中で用いる時間を有効に使い、効率をあげてきたのです。でも「今日はなんか学校にいきたくないなあ」とか「もうちょっと寝ていたいなあ」とかいう個人の思いはこの場では切り捨てていかなければいけないのです。それが何でもなくなることを大人になることと言うけれど、それってわざと心を鈍くする本当は淋しいことなのです。
 大人と子どもの感じる『なんか』には大きな違いがあります。大人は行きたくない理由が頭の中でわかっているのです。「今日は締め切りがあるのにできていない」とか、「今日はなんかの担当の日である」とか。理路整然と不利益が待っていることを知っているのです。でも子どもの感じる『なんか』は本能の感じる『なんか』なのです。体調が悪いのか、気分が悪いのかそれが何かは本人にもわかりません。でも「なんかいやだ!」と心が訴えるのです。実際、何かわからずにぐずった子どもが体調を崩して早く帰るということはよくあることです。風邪をひいて熱を出したりお腹をこわす兆候だったり。それが何かはわからないけれど子ども達は自分の微妙な変化を感じ取っているのです。それを口で説明できないので、『今朝は機嫌が悪い』とか『今日はぐずるんです』なんて大人に取られてしまうのでしょう。
 では大人になった私達、大人になってしまった私達はどう子ども達に向き合えばいいのでしょうか。「おまえも早く大人になりなさい」と言うべきなのでしょうか。子ども達に「自分の心を鈍くしなさい」と教えるべきなのでしょうか。答えはいつも目の前に転がっているものです。
 毎朝、橋の袂で別れ際に「ぎゅーして!」とお母さんにせがむ女の子がいます。お母さんも人目もはばからずにその子をぎゅーっと抱きしめます。抱きしめられている間、女の子はお母さんの腕の中でじっとしています。お母さんが抱きしめた手をほどくと2、3秒間を置いて、「やっぱりダメ、もう一度!」と女の子。お母さんは娘を抱きしめます。そうしてその子はお母さんの手を離れ、幼稚園へと旅立ってゆくのでした。この情景を見ながら「親子の間に必要なのは言葉ではないのだな」、そう思わされました。普通は「・・・だから大丈夫、行ってらっしゃい」などと言葉を使って子どもを諭し、送り出そうとするものです。でもこれは大人の理論。頭の中でわかったとしてもどうしようもない自分の気持ちに揺り動かされるのが子どもの心。純真な子どもの心なのです。そんな子どもの心に対して、言葉ではない、理解ではない、ただただ「私はこんなにおまえのことを愛しているのだよ、だから大丈夫、行っておいで」と伝えられるその心だけが子どもに伝わる想いとなるのです。「おりこうだから、いい子だからではない、私はおまえが大好きだから抱きしめているのだよ」、その想いが子ども達を幼稚園へと奮い立たせる心の糧となるのです。
 この母子の情景を見つめながら、これこそイエス様が私達に示してくださった愛、純真な愛の姿だと思いました。『キリスト教保育とは』なんて定義するよりもなによりも、ただただわが子を抱きしめる愛がある、そのことで子どもの心が救われる、それ以上のことが必要でしょうか。先日の玉城先生の講演での言葉が思い返されます。玉城先生の息子さんが「今まで一番嬉しかったことはお母さんに抱きしめてもらったこと」と言ってくれたそうです。何を買ってもらった、どこに連れて行ってもらったではなく、母親の愛情を身をもって感じられた瞬間、それが人生の中で一番嬉しかったことと語られたとのことでした。
 『ぎゅーして』、そこからはじめてみませんか。頭で理解できなかった子どものことが、子どもの想いが、きっと伝わってくるはずだから。それはきっとお母さんにじゃなきゃ伝わらない想いのはずだから。


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