園庭の石段からみた情景〜園だより3月号より〜 2008.3.17
 <僕の保育は浪花節>
 春の暖かい陽射しと菜の花が幼稚園を包み込み、旅立ちの季節に華やかなイロドリを添えてくれています。そんな春の息吹の中に子ども達の成長と輝きを感じ、うれしい思いの今日この頃です。冬の初めにはお母さんと離れならなかった子ども達がお母さんの手からぱーっと飛び立って毎日一緒に坂を上がってくれるようになりました。はずかしもじもじくんが歌や劇を喜んで演じ、その中で自分というものを表現してくれるようになりました。いつも勝ち目のないことからは逃避していた男の子達、「こま勝負!」、「マラソン勝負!」、「サッカー勝負!」と挑んできてくれるようになりました。これらはみんな自分達のうちに芽生えた『自信』というものが自分自身を育んでいった姿だと思うのです。「がんばれば自分にも出来るんだ」、「がんばればお母さんや先生は認めてくれるんだ」、「がんばりつかれたその時は、甘えてしまえばそれでいいんだ」、そんな自信と安心が子ども達の心に勇気を与えてくれたのでしょう。子ども達はこの三学期、急に大きくなったような気がします。
 毎日子ども達と関わりを持つ中で、僕が大事に思うのが『大人の懐の深さ』です。面白いことにそのお手本となるのが時代劇なんです。『水戸黄門』に『遠山の金さん』、これらの時代劇には公然とマンネリと言われながらも貫き通している王道といったものがあります。まずは今回の話の中心、がんこ親父の職人さんや少しひねた若者が登場。その人たちが黄門様や金さんと出会い、ストーリーが展開されていきます。その時の黄門様、ちょっとおとぼけピンボケ爺さんを演じ、その人々の心の中に入り込んで行きます。「うるせえ!くそじじい!」なんて言われながらも「ほっほっほ!」なんて笑って許してあげます。そんなピンボケながらも優しく素直な黄門様との関わりの中でひねた若者は本当の自分、自分のやるべきことに気がついてゆくのです。周りに対しても素直な自分を表現出来るようになり、さわやかな青年へと成長してゆくのです。最初から印籠を出して「私は水戸黄門である!この生意気な小僧!無礼であろう!」と切って捨てたのでは「へいへい、言うとおりにすりゃあいいんでしょ」とますますひねくれ度が高まって陰に沈むか「うるさい!もー!」と逆切れして無礼打ちにとられてしまうか、そんなものだと思います。これって子ども達の姿に似ていると思いませんか。人との関わりの中に今の自分を映し出し、それを見ることで自ら『どうしよう』、『どうなりたい』と思える心を生み出すこと、それが子ども達にも必要なのです。そのために今の子ども達の自我のレベルから少し低い自分を設定して子ども達と接するなんてことをやってみたりします。いわゆるお笑いでいう『ボケ』です。子どもとの会話の中で子ども達が「なんかちがう!」と思えることを投げかける、その中で子ども達はいろんなことを感じ、学び自ら選び取ってくれています。毎日、笑いながら、楽しみながら。
 このボケボケ黄門様も印籠を抜く時があります。それは子ども達が悪代官になった時。友達との関わりの中で悪意を持ってしてしまったこと、自分の増長によって間違ったことをしてしまった時にはいつも笑っている先生が恐顔をしてにらみます。状況を検分していきさつを確認した後、「それはいけないことだよね。こういう時にはどう言うの?」と正し、自分の非を認めさせます。「ごめんなさい」とその子が言ったら一件落着、また「かっかっか!」と笑って去ってゆきます。子ども達からしたらずるいと思っているかもしれません。いつもおふざけしているくせにこんな時だけ先生に変身するなんて。でもそれが大事なんだと思うのです。『罪を憎んで人を憎まず』とはよく言ったもので、「ごめんなさい」と言えた後はみんなで笑って済ませる、これが一番大切なことだと思うのです。「私のこと、嫌いになったの?」とか「私は悪い子?」と子どもに思わせては決していけません。その子のした『行為』が悪いことであって、その子自身が悪い子だと言ってはいけないのです。
 よく『子どもを怒る』と言いますがこれは間違ったことだと思います。間違いをした子どもは『しかる』ものであって『怒る』ものであってはいけません。『怒る』という行為の指針は『大人の心』の中にあります。それは大人の機嫌や感情に支配されやすく、その時の状況認識、判断の客観性を大きく損なう危険性があるのです。まずまずお互いの心を静かに落ち着けて、『怒る』のではなく『しかる』ことによって子ども達を指導していこうと、日々の保育の中でいつも心に言い聞かせています。また「なんでそんなことをしたのか」、動機の聴取が一番大切。わざとしたのか、わざとじゃなかったのか。わざとならそれはいけないことと子どもに教え、わざとでないのなら、「わざとじゃなくてもお友達がいたい思いをしたんだよ。ごめんねって言ってあげようね」と諭します。そして一件落着した後はみんなで笑ってあげるのです。全くもって浪花節ですよね。
 そんな関わりを通じて子ども達、ひとつひとつ大きくなってきてくれました。完璧な先生やお母さんを演じながら子ども達に接するのはお互いに疲れてしまうでしょう。大人も失敗を公然と認め、「もう、わすれんぼうなんだから!」と笑って子どもに言われるぐらいの懐の広さを持って接することができたら少し子育ても楽になるのではないでしょうか。子ども達はそんな大人に心を許し、「完璧でなくてもいいんだ」と心にゆとりを持つこともできるのではないでしょうか。この間すみれの男の子に「しん先生はあほや」と言われました。その横で「ちがう、あれはわざとや」ともう一人の男の子。わざととわかっていても喜んでくれる男の子に、本当にあほと思い込んでいる男の子。そんな僕をあほと思えるようになった彼が、『同じようなことをしている自分自身の幼さ』に気がついてくれるのはいつのことだろうと思いながら笑って二人の会話を聞いていました。大きくなってからこんな文章を彼が読んだら「だまされた!」と怒るでしょうか。早くそんな日が来てほしいものです。


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