園庭の石段からみた情景〜園だより4月号より〜 2007.5.2
 今年度、紙面を一頁いただいて定期的に連載することを許されましたインターミッション(休息閑話)のページです。子ども達を一歩引いたところから眺め、感じたことについて描いてゆければと思っています。一年間のお付き合い、どうぞよろしくお願いいたします。

<ひらめく子どもを育てたい>
 ついこの間まで冬の寒空の下、ひなたのひだまりを求めて園庭の石段に座っていたのに、逆に日陰を求めて石段に逃げ込む季節となりました。自然の力の大きさと私達に与えられた自然の摂理、恵みに感謝を感じる今日この頃です。人間が「寒い、ストーブ!」、「暑い、クーラー!」と大騒ぎしている姿を横目にしながら、神様はちゃんと自然の恵みとして私達にそれらをすごすすべを与えてくださっているんだなと、たかがひとつの石段に座りながらそんなことを考えています。

 新年度が始まり子ども達も喜びのうちに新学期をスタートしました。進級に伴って子ども達の園生活のスタイルも変化を見せてきています。すみれ組では英語遊びが始まりましたし、新しい遊びもどんどん取り入れてクラス活動の中に膨らみを持たせてきています。そんな子ども達の姿を見ていて思ったのが『子どものひらめき』ということについてでした。優しい新人先生の言葉一つ一つに反応し、問いかけるK君。「どうして・・・だがあ?」、「・・・なんよなあ」など想いのままに言葉を発する姿とその度に脱線しそうになる先生をほほえましく眺めていました。丁寧にひとつひとつ受け答えをしてくれる先生の回答に対して満足そうに、でも特に会話の発展をみせることもなく、気ままに言葉を発するK君の素直さと幼さがなんとなく心に残ったシーンでした。
 『ひらめき』という人間の才能について考えた時、この心の育ってゆく方向によってその子の人格、そして評価を大きく左右するものなのではないかと思うのです。例えば、ひらめきに長けているけれどそれだけで終わってしまう人、こういう人はどう言われるかというと『気まぐれ』とか『口先ばかり』なんですね。色々ひらめくんだけれどなかなか形にならない。ならないうちにまたひらめいて次に飛び移るものだからまわりは振り回されて嫌気が差す。せっかくの才能があだになるということになりかねないのです。逆に『ひらめいた』ことをこつこつと実現させる人のこと、これを世の中では『天才』と呼びます。『ひらめいたこと』がいかにすばらしくても世の中の人がそれを理解できなければただの酔狂と言われてしまいます。それを理解してもらうには実現して具現化するしかないのです。だから天才は往々にして努力家でもあるというのはそのためなのだと思います。ひらめくのは一瞬ですがそれを具現化するには人知れぬ努力と根気が必要なのです。
 さてここで子どもの話に戻りますがK君みたいな子、これはいわば天才の卵だと思うのです。自分に入ってくる物事、情報に対して非常に純真な心を持っていて「なんでだろう」と素直に思える子、高い感受性を持ち感動できる子です。もちろん生れ持った気質というのもあるでしょうがこれには大人の関わり方が大きく影響するものと思います。子どもが口にする言葉を真直ぐ受け止めてしっかり受け答えしてやること、一緒に感動できる体験をいっぱいすること、そういうことによって子どもの感性は素直にしなやかに伸びてゆくものであると思うのです。そのような体験に乏しい子どもは『無関心、無気力』というものに陥ってしまう可能性が大きく、才能以前に人格形成の上にも問題を生じてしまうこともありうるのです。
 『自分で感じられる子』、『自分で考えられる子』を育てるためには『自分でする有余、考える有余』を与えるということが大切です。お母さん方にとって、子育ては自分の作品作りのようなものだと思います。理想の子育てを目指して、一生懸命になればなるほど「○○しなさい」、「これはこうなのよ」という言葉を口にしてしまいがちなのではないでしょうか。でもその瞬間、それは子ども達の『どうしたらいいんだろう』、『なぜなんだろう』と考える場を奪ってしまってもいるのです。これも程度の問題ですが全部が全部『これが正解です』というメッセージを子どもに送るのではなく、たまには子どもを試すような気持ちで『なぞかけ』を送ってみてはどうでしょうか。(子どもに対してボケてみせるのが結構きつい時もありますが。)
 さてその次、『天才の卵』から天才をどう育てるか、ですがこれも体験の場や機会を数多く与えることが肝要なのだと思います。日土幼稚園は飛びぬけてすごい遊具や新しい遊具があるわけではありません。でも豊かな自然があります。春には花が咲き、夏には草が生え、たけのこが頭を出し、秋には木の実が採れ、冬には雪が降り積もります。他にも自然の恵みは山のようにあります。これらがみんな子ども達の遊びの材料になるのです。自然は毎週違った表情を見せ、違った恵みを私達に与えてくれます。それに触発されて子ども達は遊びを考え、自分達の遊びを具現化していくのです。ここには常に自分で考える有余があり、ひとつの遊びをプロデュースする体験の場となっているのです。大人が見てもこれは面白いと思わせる遊びを子どもたちはいろいろ考えてくれます。テレビゲームは人の作為の産物で通り一遍の遊び方しかできません。でも無作為の自然の中での遊びは無限大の可能性があり、子どもの可能性を無限大に育ててくれる教材となるのです。
 こんな自然の中に子どもをぱーっと放してみなさんもじっくり子ども達の遊びを、そして子ども達の成長を見守ってやってください。3年間かけてどんな子どもに成長していくか、本当に楽しみです。また、たまにはお母さんも一緒になって自然遊びしてみませんか。子どもと一緒にどろどろの笑顔を見つめあうのもいいですよ。


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