園庭の石段からみた情景〜園だより9月号より〜 2007.10.2
<そうして子どもは巣立ってゆくもの>
 長く長く『永遠の時』のように続くかと思われた夏休みも『思い出』という輝きを残し、ビッグバーンのごとく一瞬にして終りを告げました。そしてそこから2学期というまた新しい時の流れが始まりました。夏休みにいろんな体験をし、その小さな心に自信という灯りをともしたのでしょう。1学期はお母さんにひっつきコアラで抱っこされて坂を上がってきた男の子は登園時、下の橋でこちらを見つけたとたんに「おはよー!」とお母さんの手をいともあっさり離して飛び込んできてくれました。一方で久しぶりの幼稚園、不安に駆られてうるうるおめめで登園となった子もありました。そう、子ども達にとって新学期はぽんと突然やってきたのです。
 大人は概念で物事を考えます。立場や状況に基づいて発言や主張をします。「夏休みはちょっとゆっくりする期間。だから夏休み用の生活プランを考えて、ちょっとゆっくり子ども達とも過ごしてみましょう」なんて僕も毎年文章に書いたりしています。確かにこれは必要なことだと今でも思っています。でも子ども達はこの変化を僕らが感じる以上に大きな衝撃として受け止めているのだと、改めて教えられた新学期の始まりでした。ひとたびほっとした心を奮い立たせ、一度止めた足で再び歩き出すのにどれだけ勇気がいるかということを、でもがんばれば神様は必ずまた歩き出す勇気を与えてくださるということをある一人の男の子が教えてくれました。
 新学期一週目、ある男の子が涙目でいるのに気がつきました。「どうしたの?」と声をかけると「『おかたづけー!』って聞くと涙がでてくるが」と答えたのです。これが感じやすい子どもの心なんだと思いました。普段から「おかたづけ!」と言われると「まだあそびたいのにー!」とぷんぷんしている女の子などをよく見かけます。これは自分の遊びたいという衝動を妨げられたことに対して憤慨しているのであって、自分の心を自分の気持ちをよく把握している子に見られる態度です。こういう子は自分で納得できれば機嫌を直し、ぷんぷんしていたことなどけろっと忘れておかたづけを始めます。でも「涙が出てくる」と言った子はなぜ涙が出るのか自分でもよくわからないのではないかと思うのです。大人が言葉にしてしまえば『せつない』という言葉になるのでしょうか。悲しいのか、悔しいのか、寂しいのか、残念なのかわからないけれど、ただただ胸の内がせつなさでいっぱいになり、なんだかわからないうちに涙が出てきちゃう、そんな感情なのではないでしょうか。その時はその子に「どうして?」と聞くこともはばかられ、ただただ「だいじょうぶだよ」と声をかけることしか出来ませんでした。その原因を突き止め、それを除去することだけではその子のせつなさをぬぐい去ってあげることはとてもできそうに思えなかったからです。この感受性豊かな心、この感性はとてもすばらしいものであるのですが一方でとても傷つきやすい心でもあるのです。このような幼いやわらかな心は勇気を併せ持つことでひとまわりもふたまわりも大きく成長し、人の痛みもわかる大きな優しい心に育ってくれる心なんだろうなと思いました。
 1学期はちょっと遅めの登園で僕が迎えに出ている9時までには来られなかったその子は、その週から毎日早めの登園をしてくるようになりました。また始まった幼稚園の生活には不安なことがいっぱい。「給食のパンを残してしまった」と言って次の日のお弁当が心配で心配で幼稚園に行きたくなかった男の子。でも「しん先生となら勇気が出て坂を一緒に上がれそう」という言葉にお母さんががんばって早く幼稚園に連れて来てくれました。いつもだってお母さんがお寝坊なのではなく、起きてからも「幼稚園・・・」という心理状態の子どもを励まし励まし準備させ、連れてくるのが大変な事。ただでさえ寝起きはエンジンがかからずのんびりモードの子ども達、それが心にマイナスベクトルを抱えていれば早い時間の登園もさらに難しくなります。僕にしたって何をしてあげられるわけでもなく、ただただ「おはよう!」と笑顔で迎え、しっかりと手を握り、楽しく話をしながら坂を一緒に上っているだけです。でもそれが子ども達の心の支えとなるなら、子ども達の心に勇気を与えられるならと坂の上り下りを続けています。こうしてみんなの想いを受けて、その子は毎朝笑って登園できるようになりました。でもこれは結果としてそうなっただけのことです。僕がその子の幼稚園生活における不安を取り除いてあげたわけではありません。僕はその子の心を勇気づけてあげようとしました。その子は自分からがんばってみようと毎朝登園して来ました。お母さんはそんな我が子の想いを受け止め、今日もがんばって朝早く来てくれます。これらのことが全てそろったとしても必ずそれらの想いが成就するとは限りません。それどころかその子の感じる幼稚園での不安は何ひとつ取り除いてあげられておらず、ただただみんながその子を励ましているだけなのです。全てはそれぞれの想いに、がんばりに対して神様が与えてくださった賜物なのです。今はそれをただただ感謝して受け止めています。
 その子が先生と坂を上がれるようになったという話を聞いて、9時以前に登園して来てくれる子どもとお母さんが増えました。そのことを僕もうれしく受け止め、毎朝走りながら坂を何往復もしています。両手にばらさんを連れてまだ手が足りなくなる時もあります。それでもみんなで一緒に坂を上がればみんなご機嫌なのです。ところがある日、橋の上で手を広げて「おはよう!」とあの男の子を待っていたら脇をすーっと通過してばらさんのお友達と一緒に手をつないでさっさか坂を上がって行ってしまいました。僕はお母さんと目を合わせついつい笑ってしまいました。そう、心が勇気で満たされ、自分の足で歩いて行けるようになった子ども達は大人の手を離れ、どんどん先へ歩いて行くようになるのです。大人にとってはちょっと寂しいことかもしれませんが。そうして子どもは巣立ってゆくもの。友達と手をつなぎ、ご機嫌に坂を上ってゆく男の子をしばらくうれしく眺めていました。


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