銀河宇宙

1 我が太陽系
 太陽系から200億光年の旅にでよう。我々のエネルギー源の太陽観測をしよう。アリゾナ州キットピーク天文台の望遠鏡は太陽表面650kmの距離間の出来事を識別する事ができる。黒点は表面温度6千度の場所の発生し、周辺に激しい渦巻ガスであるプロミネンスがみられる。プロミネンスは数千kmの高さに達する。
 50億年前に塵やガスが一部に凝縮し太陽系の始まりとなった。この凝縮で太陽系中心温度が1000万度を越えた。中心部はプラスマ状態で核融合が始まった。ガスや塵から9個の惑星が形成された。太陽の豊かなエネルギーが太陽系第3惑星に奇跡の生命をはぐくんだ゛。
 いま太陽に異変がおきている。太陽活動が減衰している。太陽活動を評価する1つの方法は、核融合により発生するニュートリノを測定することである。ペンシルベニア大学のデービス博士は太陽のニュートリノを地下2000mで検出している。ニュートリノは太陽中心摂氏1500万度の核融合反応の結果生成される素粒子である。ニュートリノ粒子が太陽表面にでるまでにゆうに10万年以上かかると考えられている。それから太陽風に乗り素粒子(ニュ−トリノ)は地球に達する。逆に地球でニュートリノを検出したとき、その素粒子は10万年以前の太陽中心の核反応の産物である。最近地球に到達するニュートリノの量が減少している。
 太陽活動を評価する第2の方法は、長樹木年輪に含まれる放射性物質を測定する方法である。ジョン・エデイ博士は樹齢2300年のブリッスル・コーン・パインの年輪からサンプルをとり太陽活動の程度を推測した。太陽は17世紀にマウンダー期(太陽活動極小期)を迎え、実際この時期には、地球では現在決して凍結することのない英国テムズ川が凍結してしまったという。
 太陽は我々を支配する恒星であり地球エネルギーのほとんどは太陽による。放射粒子が直接降り注ぐ月面では月の石に太陽活動による放射性粒子の直撃痕跡が残る。NASAに持ち帰った月石の表面には無数の5ミクロン幅の傷がみとめられ、これらの放射性粒子の傷の鑑定結果から1万5000年前に太陽活動が高かった事が証明された。この時期は地球はまだ氷河期であったが、この太陽エネルギーの微妙な増加が地球に氷河期の終焉をもたらし、地上に文明を与えた。
 コロナは日食の際に観察が容易である。陽子や電子が激しく飛び交うプラズマの集団である。コロナ近傍のコロナホールから太陽風が激しく吹き出す。フレアーまたは太陽風である。太陽風は地上に磁気嵐をもたらす。極点付近にオーロラをつくる。NOA気象観測衛星情報は宇宙環境予報センターに集められ民間に公開されている。太陽情報によればフレアはエネルギーが蓄積しやすい太陽表面で発生し易い。地球に向かってフレアが秒速30万kmすなわち光速で太陽風として吹き出される時もある。太陽情報のほとんどはロッキー山脈の中腹にある北米航空宇宙防衛司令部(NORAD)の本部の奥の一室に伝えられる。この場所は米国情報戦略の中枢基地でもある。1990年、太陽活動は極大期を迎えている。太陽黒点数が11年周期で変化するが、その数が最高になろうとしている。太陽風による衛星落下が増えている。太陽風のすさまじさが、この時期に打ち上げられたスペースシャトルの機体に細かな5ミクロン幅の傷として残っている。
 太陽圏ヘリオスフィア(heliosphere)は太陽風の及ぶ範囲である。パイオニア飛行管制センターは18年前に打ち上げた最も遠くを飛ぶ探査期パイオニア10号の情報を現在も受信している。砂漠に広がる米陸軍ダグウェイ実験場では巨大なドラム管様の多数の銀河宇宙線検知器が備えられている。別名ハエの眼(FLYEYE)観測所と呼ばれる。観測所の数千のハエの眼の数個の感知器が直線的に信号を感知すればそれは銀河宇宙線である。太陽風は地球にとって宇宙線遮断のために必要な現象である。地球を太陽風がまもる太陽の優しさ。そしてオーロラは太陽系宇宙にすむ生物に用意した太陽による暖かな恵みのショーである。
 
2 遭遇 超新星爆発
 1987年に天文学者イアン・シェルトンは南米チリのラスカンパナス天文台の小予備望遠鏡で地球から16万光年彼方の大マゼラン銀河を観察した。そのとき超新星爆発を発見した。それは観測年から超新星1987Aと名付けられた。超新星の爆発は星の死の際にみられる。この超新星は太陽の2億倍の明るさで輝いた。彼はこの超新星爆発が16万光年彼方の出来事であったにもかかわらず、写真乾板に出現した微妙な星の光を見逃さなかった。彼の発見した超新星の爆発は今世紀最大級の恒星の最後を示していた。
 本邦では東京大学宇宙線研究所神岡地下観測所の地底1000mの大量水がこの超新星爆発現象をとらえた。直径16m深さ16mの貯水中に超新星1987Aからの素粒子ニュートリノが到達し水の粒子と衝突し光を発生する。10秒あまりの間、神岡の3000トンの水に11個のニュートリノ粒子が感知された。この数は太陽中心部から到達するニュートリノの通常量に比べ有意に多かった。またニュ−トリノに質量があることが確認された。これにより小柴東京大学名誉教授は2002年ノーベル物理学賞を受賞した。米国ニューメキシコ州チャコキャニオンでは原住民がみた中世の超新星が描かれていた。その絵では三日月をなした月の南側にインデアンたちは明るく輝く超新星を確認した情景が見事に描かれていた。その超新星の岩絵は高さ5mの場所にあり、現在のかに星雲中の超新星爆発と推測される。
 パルサー(準星)は超新星爆発後の超密度中性子星である。超新星爆発の少し前の時期に、この天体には生命の出現に必須の炭素や鉄が含まれている。例えば大マゼラン雲では1100万年前に恒星は膨張を開始し巨星となった。恒星の膨張過程でヘリウム原子は最後により安定した鉄となりその星は最後を迎える。星の最後の姿は、外に水素が存在し内に鉄が存在する構成である。その後、この恒星が超新星爆発し、今度は星の残骸が急速に収縮すると星残骸中心温度は50億度になる。星の中心部では核融合反応が起こり膨大なエネルギーが星を輝かせる。これが中性子星である。このときは超多量のニュートリノが発生し衝撃波が発生する。この素粒子とともに超新星爆発以前に形成されつつあった炭素、鉄、酸素が大宇宙に広がっていく。光のスペクトルの分析によりこれらの元素を含むと考えられる超新星の残害光がカシオペアA、帆座ガム星雲などに認められている。
 超新星の残した代表的なものの他の一つは南十字星のコールサック(石炭袋)星に認められる暗黒星雲である。溶岩大地のハワイ島マウナケア山頂観測所の光学反射望遠鏡で天体を観察すると、より輝く星星の間に漆黒の闇が浮かび上がる。たとえば馬頭星雲のたてがみとして知られるその距離推定数光年にわたる巨大な暗闇には多彩な宇宙の歴史が秘められている。漆黒の闇の観察の観点に立てば、ハワイ島マウナケア山観測所は空の透明度が世界一であり、暗黒星雲観測には世界最適の基地である。ここは乾燥空気のため光束が水蒸気の影響をほとんどうけない。だから世界の観測者が解像力の高いマウナケア山観測所をめざす。
 暗黒星雲観測の他の方法として赤外線望遠鏡を利用する方法がある。赤外線は波長が長いので可視光線よりもエネルギーが低い。カリフォルニア大学ベックリン教授はオリオン大星雲のトラペジウム(僧帽型=四角型)の中の暗黒領域を赤外線で丹念に探索した。彼はそこに可視光では見えず赤外線のみで見える原始星を発見した。暗黒星雲は星たちの密やかな誕生の場でもあった。この中で宇宙に生物を生み出す営みも行われているようだ。暗黒星雲中の物質が原子から分子へ成長もしくは生命発生に必要な物質を生み出す。日本では野辺山観測所の直径45mの電波望遠鏡で天の川(我々の銀河系)を分析する事で暗黒星雲は様々な分子を含んでいる事実が判明した。存在する原子のスピンの違いにより様々な波長の電波が発生する。波長の分析が分子を解明する。ホルムアルデヒド、エチルアルコール、地球上の有機体にはみられない1鎖の炭素(C)6ケの分子などが発見されている。
 ライデン大学ホイヘンス研究所では宇宙で存在すると考えられる分子から紫外線を照射する事により新有機物を作る実験している。宇宙空間のなかでも暗黒星雲は生命材料の巨大な貯蔵庫であるといえる。
 
3 接近 ブラック・ホール
 ガス衝突により、質量を更に増した赤色巨星のペテルギュースは太陽の30倍の質量を持つ。一般に巨星では核反応は比較的表面で生じる。巨星は最後に超新星爆発を起こし、引力を支えるだけの核融合エネルギーが中心部にないために、こんどは、次第に重力で縮み始める。この収縮過程で最後には中性子の塊となる。中性子がさらに縮む。縮みを止めるものはない。そして余りにも密な物体となり強い重力を持ち光さえ曲げてしまう(重力レンズ)性質を持つブラックホールとなる。
 アインシュタインの一般相対性理論はカール・シュワルツシュルトにより応用された。28歳でゲッチンゲン大学の教授となったシュワルツシュルトは物体の存在に関する重力方程式を算出し、質量を持った物体の近傍では空間がゆがめられることをを示した。これが世に名高いシュワルツシュルトの重力方程式である。シュワルツシュルトは派兵されていた第一次世界大戦場でこの方程式を思いつきアルバート・アインシュタインにあててこの式を送った。この6ケ月後に彼は42才で従軍中に他界した。彼の重力方程式は宇宙にブラックホールが存在する事を理論的に予言していた。
 現在我々はロケットにより秒速11kmあまりの速度で地球を脱出することができる。しかしブラックホールに入り込むと我々はいかなる速度、たとえ光速をもってしても脱出することができない。そんな空間が実際に宇宙のいたるところに存在する。
 ブラックホール観測のためにケニアからX線観測装置ウフルが打ち上げられている。ウフルは白鳥座X星という激しく変化するX線エネルギ−放出の電波星を発見した。この現象は、巨大な青白星が見えない超質量(ブラックホール)の周りを廻っているためであることが確認された。その昔、この見えないX線および電波を放出しているブラックホールは赤色巨星であったのだろう。これが公式どおりの超新星爆発を起こし、この周囲に連なる質量の流れを形成した。これが降着円盤である。降着円盤はブラックホールに向かって質量の速い流れである。この流れがX線を発生する。X線天文観測衛星の情報は超新星および銀河の中心および不明の星からのX線を確認した。最も近い大マゼラン星雲の銀河中心にも巨大なブラックホールが隠されているようだ。もちろん渦巻星雲である銀河系の中心にも巨大なブラックホールがあるに違いなく、この中心にはガスの流れ込みと物質の吸収、周りに暗黒星雲の存在が推測一部は確認されている。地球から銀河中心までの距離は2万8千光年である。 米国ニューメキシコ州に設置されているVLAと名付けられたX線電波望遠鏡は銀河中心をねらう。理論直径が1km以上のX線望遠鏡である。銀河系の中心核に強力な電波源が存在し、これがブラックホールになっている。
 カイパー天文台は輸送機C141を改造し赤外線望遠鏡を登載したハワイ州オアフ島に常駐する飛行機上の観測基地である。チャールズ・タウン教授はこの飛行機から観察できる赤外線により銀河中心のブラック・ホールを観察する第1人者である。
 
4 交信 遥かなるET
 プエルトリコのアレシボ天文台には世界最大の電波望遠鏡がある。地球外からの電波をパラボラアンテナが常に待ち受ける。宇宙には無数の銀河がある。宇宙での生命誕生は超新星爆発による星の死の際に高頻度に始まるとされている。星の死の瞬間には生命材料である炭素や鉄までの原子が数多く合成されるからである。
 太陽系では50億年前に中央で原始の太陽に火がつき衝突と合体を繰り返しながら惑星へ成長した。人間の特徴は想像力でもある。その想像力と理論をもちうれば、銀河宇宙における生命の存在確率は求めることは可能である。2千億の星にET(地球外生命)がどの程度存在するか。もう一つの地球はどこにあるか。
 生命が存在するためには惑星が必要である。光と水と大気がETの生息に必要である。マイケルハ−ト博士は恒星と惑星の関係を生命体連続生存可能領域と設定した。地球は太陽に対してこの奇跡にも近い関係の位置にある。地球表面には約500万の生命種が存在する。火星では表面の太陽エネルギ−が地球表面の太陽エネルギ−の43%のため火星の表面温度は摂氏−30度にも低下する。火星の低温表面環境は地球南極のロス砂漠の条件ににる。さらに火星に以前に水分が存在した痕跡がある。また地球南極には微生物が岩石または氷中に生息する。現存する生命体のみならず既存生物の痕跡を発見することもETを探る有力手段の一つである。このような観点に立つと、木星の衛星エウロパに生命体が存在すると考えられる。
 太陽系以外の生命の生存する惑星の探索がおこなわれている。アリゾナ大学ブラッドスミス博士は画家座ベータ星の周囲に円盤状の形状を発見した。星をとりまく氷や有機物は生命の発生に重要な物質である。彼は恒星の光のみを円盤により遮り、その周囲のとりまき状態を発見した。
 地球で最古生物の化石は35億年前の地層に残っている。単細胞生物で数ミクロンの大きさの生物が遺伝子の解析により人類と共通祖先である事が明らかになった。生命進化歴史の8割以上の時間が単細胞生物の存在時間である。6億年前に複数細胞生物が出現し、4億年前に魚類があらわれた。46億年の地球史ではごく最近の400万年前に人類(ホモ・エレクトス)が現れた。
 知的生命の発生にはその惑星を支配する恒星の寿命も非常に重要である。星の重さは星の寿命を決定する。太陽の10倍質量の星は大質量のため中心の核融合及び分裂のエネルギ−高く、言い換えれば反応速度が速く、このサイズの恒星はたった2800万年で燃え尽きる。この恒星の環境では単細胞生命の発生時間がない。さらに太陽の2倍質量の星は13億年で死を迎える。この恒星に生命体が発生しても惑星では、複数細胞生物の発生の時間が足らないため単細胞生命のみが存在可能である。原始的単細胞生命が人類のような知的生命を有する生命体までの進化に要する時間を30億年と考えると、太陽はその生命の進化に必要且つ充分な100億年という寿命を持っている。
 プエルトリコのアレシボ天文台の人類以外電波探索はSETIと呼ばれる。カラーズ博士は電波望遠鏡で宇宙からの電波源をくまなく探っている。彼は自然に発生する電波源を取り除き、人工的に発生した電波を探索する。困難は使用済み人工衛星の不自然な電波発生である。地球の衛星軌道には7000以上の人工衛星破片が周回し微弱電波を発生している。NASAはこれらの障害を除くため人工衛星軌道インプット情報をカラーズ博士に渡している。博士はコンピューターでさらに妨害電波を取り除く。地球外生命からの電波が浮き彫りになる。
 地球外生命の信号への対応の仕方がNASAより提案されている。信号の最初の受信者はそれがETからのものであることを確認するまでは他に漏洩してはならない。電波に応答してはならない・・・。

 
cf.未開人は太陽とともに起き、太陽とともに床につく。彼らは夜明けに起き東の空を見る。未明の東の空には、昇りくる太陽の光にかき消されそうな弱い星の光がいくつも瞬いている。太陽が沈んだ後の就寝前に彼らは西の空を見る。いかなる星があらわれ、いかなる星が消えていくかを彼らは気のすむまで観察する。彼らは自然現象とこれらの星の経年変化が密接である事を知っていた。プレアデス(すばる)は最も重要な星団の1つである。アフリカのホッテントット族はプレアデスと冬とを関連づける。アウオブのブッシュマンにはプレアデスの出現はツアマ平原に出発する合図である。西ビクトリアの種族は星座と季節を「アークツルスとベガは冬の星」であるなどと関連づけた。アークツルスは8月から9月にかけて大切な食糧である木蟻の蛹を見つける事を土人に教えた。ベガはマリー鶏の卵をとる時期を教えた。
cf.一定の時期に高山の残雪が示す特殊な形に着目して種蒔きをする風習が日本の各地に残る。日本各地の駒ヶ岳(この名の由来は雪解けの時期に山の上に姿を現す馬の形にある)では雪が解けるにしたがい山頂に馬の形が現れる。




この駒形により付近の住民は籾巻きの時期を決定する。北アルプスの爺や岳のそば蒔き入道も残雪の形に由来する。八甲田山付近の村ではこの残雪が一時老人が種蒔きする姿ににているので、タネマキオッコと呼ぶ。
 
5 飛翔 超銀河集団
 暗黒と沈黙の世界が超銀河集団である。銀河系は直径10万光年の渦島形をなす。中央は降着円盤とよばれ中央のブラックホールにつながっている。それは宇宙という広大な海原に浮かぶ一つの島にすぎない。この銀河系と銀河系以外の星雲の間にはダークマターと呼ばれる何も存在しない空間がある。銀河系の中心は前述したが中性子さえも圧縮され崩壊しているブラックホ−ル状態と考えられている。
 中世の天文学者はフィレンツエ博物館に直径2.7mの天球儀を作製保存した。彼らは克明に地球と太陽系の惑星の動きを天球儀に記録した。この時代には天文学者は地球が宇宙の中心であると考えていた。星座形の解釈も地域により異なった。オリオン座は西洋で狩人、日本で鼓と表現された。カリフォルニアのパロマー天文台反射鏡は7階建てビルの高さの鏡筒を持つヘール型望遠鏡である。直径5mの大反射鏡集光により140億光年までの観察が可能である。この望遠鏡で1000億を越す星集団の観察が可能である。
 今世紀の230万光年のアンドロメダ銀河の研究により、星雲研究は飛躍的に進歩した。エドウイン・ハッブルは、ぼんやり雲のアンドロメダ銀河と地球との距離測定にセファイドとよばれている変光星を用いた。セファイドという変光星は周期が同じであればその星同士は等距離にあることがしられている。彼はアンドロメダ銀河の中に数々のセファイドを発見しそれを利用することにより地球と星雲との距離が90万光年と算出した。その後数々の天文学者により230万光年という距離に訂正された。
 ヘラクレス銀河団の銀河数は1千億個と推定される。銀河団には見かけの長さ30万光年のアーチが確認された。光のアーチを作るのは遠くの銀河団の重力の影響があるからである。いわゆる重力レンズである。この現象はアインシュタインやシュワルツワルトにより予言されていた。銀河の手前にレンズをいれて銀河をながめると、銀河が光のリングとして観察できる。レンズの中心を少しずらすと丸い銀河を光のアーチとして捉える事ができる。このことから宇宙に存在する多くの銀河が光を曲げるほどの超大な重力を有するものであることがわかった。宇宙には秩序がある。年齢の等しい銀河は、それらに相応の秩序ある渦巻を作っている。銀河系のNGC1365は特異な形態をしている。この銀河は近くの銀河と非常に近い距離にあり互いに影響しあい、長い目でみるとすれ違っているのである。そのために渦巻が乱れる。その6億年後この銀河は大渦巻銀河へと変貌を遂げるであろう。
 宇宙では重力が銀河の秩序統一の主要な部分を占めている。アリゾナ州ホイップル天文台ハーバードスミソニアン天文物理学ジョンハクラ教授は遠い銀河NGC4654の銀河の光を虹のように分解した。それによると波長の長い光は水素の光であった。遠い銀河ほど光のスペクトルの赤方成分が多くなる。宇宙はビッグバンから膨張を続け、遠い銀河ほど速く遠ざかっている。遠ざかると赤く見え、近づくと青く見えるのが光のドップラー効果である。ハクラ教授は1万個以上の銀河間の距離を調べ、その結果は共同研究者のマーガレットゲラー教授により宇宙地図に詳細に記された。この地図により銀河の配列が判明し6億光年にわたる銀河の片寄りが認められた。
 銀河の間にはまったく物質が存在しない空間があることもわかった。銀河群が暗黒の空間を囲み泡の表面に浮かぶように存在する。泡の直径は平均1億5千万光年ともいわれるまるで蜂の巣である。カーネギー研究所のドレスラー教授は局部銀河群が乙女座銀河群に引き寄せられていることを発見した。さらに局部銀河は、うみへび座ケンタウルス銀河団の重力の影響をもうけていた。彼はこの影響力をグレートアトラクターと呼んだ。銀河により構成された大陸様集団、銀河同士が集まる超銀河である。100億年から200億年後に銀河配列は変わってしまうであろう。銀河が群れをなす銀河の中心に近い天の川では星の群れが密集してみえる。宇宙の構造はその遥か昔の状態を想像させる。ラスカンパナス天文台で観察できるNGC1566は4千5百万光年の距離にある。
 「星にもっと光を与えたまえ」と天文学者は願う。集光力に優れた巨大望遠鏡が宇宙の過去と未来を教えるからだ。アリゾナ州ミラー研究所の直径8mの反射鏡はガラスの重さとの戦いの結果完成した。反射鏡はガラス自体の重さで変形する。これを防ぐため低温度融解ガラス硝子でまず鏡面を形成する。1ケ月間鏡面を回転させながら軽くて丈夫な反射鏡を作る。8mの双眼反射望遠鏡はアリゾナ州グラハム山に建設中である。ケック望遠鏡(鏡を小さく分けコンピューターで制御し光を集めるハイテク望遠鏡)は直径10mの望遠鏡に匹敵する集光能力がありハワイ島マウナケア山に建設されており、2倍遠くの宇宙が観察できる予定である。この湿度の少なく光束の通過に優れている天体観測絶好の地にはさらにJNLTと呼ばれる日本の企業によっても巨大望遠鏡が建設されている。
 
6 遡及 ビッグバン
 エドウィン・ハッブルはウイルソン山天文台で銀河を発見した。新銀河カタログ(new galaxy catalogue=NGCと略す)には我々の観察しうる銀河が登録されている。ハッブルは詳細は後述するが銀河が膨張していることも発見した。NGC1566は4千5百万年光年の距離にある。棒渦巻銀河NGC1300は7千3百万光年の距離にあるクエーサーである。遠くの天体は宇宙の過去を教えてくれる。アインシュタインの相対性理論によりビッグ・バンを推測した1人がウイリアムズ・ホーキング博士である。宇宙の200億年前に特異点があったと推測する。この特異点での宇宙誕生は無限大温度でクオークと反クオーク光と光子の区別がつかない状態であった。誕生10万分の1病後は1兆度、3分後は10億度であったと推測されここでヘリウムの原子核ができ電子が原子に取り込まれ水素原子、ヘリウム原子ができた。この時期のごくわずかな容積の質量は銀河数10個に相当すると考えられる。
 銀河系の中心、言い換えればビッグバンの場所は天の川の方向にある。宇宙誕生の秘密いわゆる神の指紋は前出のハッブル教授によりウイルソン天文台の100インチ望遠鏡を用い銀河の動く距離と方向を調べることにより開始された。ハッブルの理論では「遠くの銀河ほど速いスピードで遠ざかる、それは宇宙が膨張しているからだ」と彼は推測した。
 人類は動的(ダイナミック)宇宙感を抱くことになった。宇宙膨張理論によれば過去の宇宙はいまよりも小さかったはずである。ジョージ・ガモフはこの点に注目した。宇宙は気の遠くなるほど高い温度の火の玉から始まった。ビッグバンがあると彼は考えた。さらに現在においても火の玉の状態の「残り火」があるはずだと彼は推測した。彼の意味する「残り火」とはビッグバンの際の宇宙放射のなごり火であるわずかな放射線エネルギ−であった。1965年にベル研究所のウイルソン博士らはガモフの予言した宇宙放射の「残り火」すなわち背景放射を発見した。彼らは高感度の受信機を用いてテレビの雑音の調査を行っていた。彼はいまでのパラボラアンテナに似た指向性アンテナで微弱な電話妨害電波を調査していた。ところが、不思議なことにどんな方向からでも入ってくる妨害電波のある事に気づきはじめた。その電波雑音は遠いニューヨークの電波であろうか。いやそれとは異なりもっと広がりをもった謎の電波源であろうか。それがごく弱い背景放射そのものによる電波雑音であった。ウイルソン技師の発見によりガモフのビッグバンの残り火理論の予言は実証された。我々の銀河系で電波が強く確認できる方向はもちろん銀河の中心射手座の方向である。それらは馬頭星雲、宝石箱、インタカリーナなどの強い電波銀河の方向とも一致するが、これらの強い電波にまじり銀河系全体に背景放射電波が確認されている。
 ビッグバンの瞬間を再現する実験はヨ−ロッパで試みられている。欧州高エネルギー研究所は地下深くに存在する。スイス・フランスの国境間の山中に大きな電子加速器を有し素粒子を発生したり衝突させたりしている。この、東京山手線に相当する巨大リング加速器に電子と陽電子をいれ、高エネルギーを与える。それらは互いに反対方向に加速される。粒子が互いに衝突したときこれをミニビッグバンと設定する。そして実際にビッグバン時に出現したと推定されるZ粒子がこの実験で出現することを1989年8月の実験で確認した。
 宇宙の発生に関して、東京大学佐藤克彦教授はインフレーション理論を提唱し急速に宇宙が誕生後膨張したと推測した。宇宙は特異点という時点は1つでなく、我々のすむ宇宙だけではなく母宇宙から子宇宙さらには孫宇宙が生まれるというのがインフレーション理論である。米国タフト大学ベレンキン博士は宇宙の存在する前はどうだったかを研究している。量子力学の理論から宇宙が生まれる事を研究している。時空がない無の状態でエネルギーの高い真空から宇宙が生まれるという。エネルギーの揺らぎから宇宙が生まれ膨張(インフレーション)をおこす。
 宇宙の発生に関する新しい発見はダークマターである。宇宙の大部分はこの物質?により占められていると考えられるからである。前述のハワイ島マウナケア山天文台の世界で最も視界の良い透過度の優れた天文台で宇宙にどれだけのダークマターがあるかが観測されている。目に見えないダークマターでみたされた宇宙、これが現実である。無いということは無いというものが有るということなのか?禅問答にもにたこの命題から宇宙の開始論が導かれる。ダークマターは多いと宇宙の膨張は止められるはずである。宇宙は収縮を始める。中心にブラックホールが出現し最後に宇宙は一点に凝縮する。ソンブレロ銀河のまわりにはあきらかなダークマターが存在する。ダークマターは銀河団をも包んでいる。ベル研究所のアンソニータイソン博士が高感度CCDカメラを用いて暗い銀河を観察し、暗い銀河が確かにダークマターの集団であると確認した。さらにダークマターの分布をも調べている。光から闇の天文学にダ−クマタ−は研究者を引きずり込む。研究者はあたかもブラックホ−ルに引きずり込まれる光のようにその物質にのめり込む。研究者がこれから脱出できたとき人類は神の指紋を見つけるできるであろう。
 英国ケンブリッジ大学のスチーブン・ホーキング博士は宇宙の始まりから終末までに関し理論的な挑戦をしている。彼は宇宙の統一理論は存在すると断言する。現在から数10億年後に宇宙は収縮を始めるだろうか。特異点はあるか。特異点は宇宙の始まりまたは終末を意味するのではなく宇宙の再発を意味するか。
 
7 帰還 母なる宇宙
 仏国ピレネー山脈ミデイ山頂2860mにピックドウミデイ天文台がある。110年前に天文学者はロバをしたがえこの山に天文台をつくった。この天文台では世界の太陽観測をリードする。薄い山頂の空気が大気のゆらぎを最小にする。コラージュ・ド・フランス大学のジャン・クロード・ペッキア博士たちがコロナグラフを使用して太陽の観察を続ける。天文学者ベルナール・リオはこの天文台で1930年にコロナグラフをはじめて用いた。彼らは宇宙に一歩でも近寄ろうとした。我々も夜空に浮かぶ星をみるとき、平面的広がりのみならずその奥深さと立体感を感じとることが必要である。
 北緯60度の北極圏にあるカナダのイエローナイフで太陽風と地球の磁気圏がぶつかって形作られるオーロラは光カーテンショ−である。ここでは太陽黒点の最高活動期である1990年に動きの激しい様々なオーロラが観測された。2000人のイエローナイフ・インデイオたちはオーロラの出来事を語り継いでいる。聖なる神の恵みの光がオーロラである。太陽、月、星の営みを古代から人類は天体の運行として知ろうとした。エジプトのピラミッドや英国のストーンヘンジにはその名残りがある。アイルランドのダブリンから北東へ150kmの距離にニューグレンジ遺跡がある。いまから5000年前に作られたこの遺跡は冬至の日の出とともに天文台として機能する。夜明けの光が石造りの四角間隙にひきこまれる。この日の太陽の光は石室に導かれ、一本の棒がたてられた祭壇に光がさす。この現象は冬至の前後は1週間のみにみられるようにこの石室は作られている(インディアナ・ジョーンズの映画第1作『失われたアーク』の十戒の文章を書いた岩が発見されるシーンはこの遺跡の出来事をヒントにしている)。一年で一回の静粛な儀式の場として作られたとおもわれるこの建造物遺跡を作るため、人類は天体の運行を充分把握していたに違いない。古代の人類の宇宙観は人が天を支える古代エジプトの壁画に残された宇宙観、海上に平板な大地が浮くギリシャの宇宙観、亀の上に象が乗りその上に地球が乗るインド宇宙観などがある。
*謎の環状列石「ストーン・ヘンジ」、巨石墓「ニューグレンジ」:英国ソルスベリー平原にあるストーンヘンジはヨーロッパの巨石文明でもよく知られたものである。巨石文明とは新石器時代から初期金属時代まで細かな加工を加えずに組み立てられた巨石による建造物を意味している。「メンヒル」とは単独の立石で最も長いものは20m長のものまであるという。平均1〜5mの高さの石が孤立して立っている。「ストーン・サークル」とは立石が群をなして立っているもので、ストーンヘンジもこの中に含まれる。だがこの環状列石は厳密には環状ではなく楕円状である。これが故に「ストーン・サークル」は「ストーン・リング」と呼ばれるようになってきている。フランス・ブルターニュ地方南部のカルナック列石群では3000個以上の「メンヒル」が6km以上の列をなして群立している。「ドルメン」とは巨石墓のうち最も簡単なものである。3枚の岩を地上に立てその上に平岩を載せて天套とする。この「ドルメン」の最大のものがアイルランドのミース県にある高さ6mの十字型の玄室と長さ16mの墓道を有している。

*「ノアの箱船」:1978年3月庄司浅水氏はテヘランからテルアビブにむかう飛行機で遠く雲海中の標高5165mのアララト山を窓越しにみていた。彼はこの山に隠されている「ノアの箱船」の事を思い浮かべた。創世記に次のような言葉がある。「神ははじめに天と地を創造し最後に人間をつくった。人間は増えるにしたがい悪い事をするようになり目に余るようになったので大洪水をおこし全ての人類を滅ぼしもう一度世界をつくり直そうと考えた。しかしノアという心正しい人がいたので彼とその家族と7つがいの動物をイトスギでつくった大きな船に載せてまもるようにした。そして雨が40日間降り続き洪水が地上に起こった。洪水が治まった後で箱船は現在のトルコ共和国、アルメニア共和国に接するアララト山(ビュククァールダー山)に到着した。ノアは950才でこの世を去った。」ノアの箱船は長さ136m、高さ16mでいまの船で1500トンに相当する。
 1543年にコペルニクスは地球は太陽の周りを回る一つの惑星にすぎないと提唱した。ガリレオの手作りの口径38mmの望遠鏡から400年間に光学のみならず電波、赤外線、X線などの望遠鏡が開発された。これらの機器により我々の得ることのできる最新の宇宙観は、2千億以上の銀河よりなる膨張を続けつつある宇宙である。宇宙は2百億年前に真空の揺らぎのなかでビッグバンにより創造された。原始クオークが高エネルギーを与えられ水素とヘリウムができた。原始ガスが集合し恒星源となった。ある赤色巨星が超新星爆発をおこした。爆発直前の核融合エネルギーが減少する時期に宇宙に炭素、酸素など生命体をつくるべき元素が多く発生する。この時、超新星爆発の近くの太陽という恒星の周囲では微小な塵が衝突と合体を繰り返して惑星を作った。地球は太陽から1億5千万kmの太陽系第3惑星として46億年前に誕生した。
 ユージン・シューメーカー博士は米国カリフォルニア州パロマー天文台で46センチのシュミット望遠鏡で彗星や新星を観測している。別称リットルアイ(LITTLE EYE)と呼ばれている望遠鏡により乾板に映し出された未知の天体は数百に及ぶ。彼の宇宙への好奇心はとどまることを知らない。元来地質学者だったシューメーカー博士は月の地質学研究を行っていたが、レインジャー計画、サーベイヤー計画さらにNASA月探査計画に参加しアポロ計画の地質学研究主任も担当した。アポロ計画の最終便アポロ17号は彼の友人のハリソン・シュミット博士をのせて月へと旅だった。この時期に運悪くシューメーカーは腎臓をわずらい病床にいたのだが、運悪く月探査計画は当時で終了した。病床から回復した彼は悔しかった。彼は最近ではバイキング計画、ボイジャー計画に参加している。彼の宇宙への探求心はとどまることを知らない。
 宇宙とは我々の祖先であり未来でもある。可視光線で見える物質もあれば可視光線では見えない物質もある。電波、赤外線をもってしても見えない物質が存在する可能性も充分ある。宇宙とは『無という物質がぎっしり詰まった時間的広がりをもった4次元空間』かも知れない。

 
8.エピローグ「初期の宇宙に濃淡があった」
 ビッグバン、真空のゆらぎのエネルギーから誕生した銀河の年齢は150億年とされる。宇宙の背景放射を探査するNASAビッグバン探査機COBEは宇宙の背景放射が一様でない事を発見した。COBEは背景放射の観察において数万分の1度の背景放射エネルギーの違いが存在した。銀河の源となる種から銀河星団の集まり、物質の構造としては水素やヘリウムから炭素や酸素や窒素原子ができ、恒星、惑星が誕生し、生命体が誕生した。これらの関連づけは宇宙のジグソ−パズルを解くにも等しく困難である。銀河分布はその距離と方角から泡の表面に散らばる水の粒子のようであり、泡の中は何もないという特異な構造をしている事が最近判明した。大泡の直径は1億5千万光年という。
 1993年に最も遠い電波銀河がGKミレ−、KCチェンバ−スにより発見された。その銀河は地球から120億光年離れている。その電波銀河は3.8という大きな赤方偏位を持ち通常の楕円銀河に比べ、はるかに激しいエネルギ−を生み出していた。この不規則な形をした「活動銀河」はビッグバンからわずか12億年しか経っていない。ケンブリッジ大学のマ−チン・J・リ−スは親銀河の中心に隠されたエンジン機構があり莫大なエネルギ−を発生し、それが巨大な電波ロ−プへ供給されるモデルを提案した。彼とカリフォルニア工科大学のロジャ−・D・ブランドフォ−ドは狭い経路に沿って飛び出してくる高速粒子によってエネルギ−が供給される可能性を指摘した。エンジンの機構は全く不明であるが、理論によればブラックホ−ルへ向かって渦を巻きながら落ち込んで行く(降着円盤の)物質は、ブラックホ−ルの内部に消えるまで圧縮・加熱されて百万度付近まで達する。ブラックホ−ルの周りをまわりながら加熱された粒子は、活動銀河の中心部でおこる諸現象、例えば電波ジェットの形成といった現象の原因になっている。ジェットはブラックホ−ルの自転軸にそう粒子ビ−ムからできており、電磁的ダイナモ的過程で形成される。
 宇宙年齢を150億年とし、密度は一般的な宇宙モデルとすれば赤方偏位が2である銀河は、宇宙年齢の約80%さかのぼった時代、すなわち地球から120億光年の彼方に位置する。赤方偏位が4ならば、約90%さかのぼった時代に位置する。(GKミレ−、KCチェンバ−ス:最も遠い電波銀河 日経サイエンス 1993;vol 8:84−94)

 
9.ポストエピローグ「多彩な宇宙の生涯」とその観察
@ボイジャー計画はNASAが1969年から計画した太陽系を奥深くまで観察しようとした宇宙大航海作戦である。最初の段階でいくつかのトラブルが生じたので新計画が練り直された。新計画では木星、土星およびそれらの衛星群まで探査できるマリーナクラスの2台の宇宙船を使うことになった。木星と土星の探査計画は1972年7月1日に始まり、1977年この2台の宇宙船の打ち上げが成功した。ボイジャー計画は木星や土星などの主な外惑星の大きさ、質量、外観、磁場の強さ、活動状態などを観察する目的があった。
この2台の宇宙船の打ち上げ時、すなわち1977年の各惑星の位置関係を示す。太陽の回りに地球(Tera)、木星(Jupiter)、土星(Saturn)、天王星(Uranus)、海王星(Neptune)、冥王星(Pluto)が0度、260度、210度、140度、100度、150度の位置で反時計方向に回っている。ボイジャー1号は地球から木星、土星、冥王星をかすめて太陽圏外へ飛び出す。ボイジャー2号は地球から木星、土星、天王星、海王星付近を通過し太陽圏外へ飛び出す。この軌道には宇宙船のロケットエンジン以外にスイングバイという各惑星の重力を利用したエネルギーが使われる。各惑星を通過する時間を推定してボイジャーの作業概要が計画された。

たとえばボイジャー1号は1977年9月5日に打ち上げられ、1979年3月5日に木星と遭遇、1980年11月12日土星と遭遇した。土星の探査後、黄道面に沿って飛行しながら、太陽圏外に去った。ボイジャー1号のデータは2000年まで地球に送られてくることになっている。
ボイジャ−2号は1977年8月20日に打ち上げられ、1979年7月9日木星と遭遇、1981年8月25日土星と遭遇、その後天王星、海王星およびその衛星と遭遇するプログラムが組まれ、パイオニア10号、11号、およびボイジャー1号と同様に太陽圏外に去ることになっている。ボイジャー2号が木星と遭遇したときには、木星の赤点(300年以上前から観察されている木星大気の部分的な流れにより現れる風の動き)を見下ろす軌道が6kmまでに接近、ガリレオ衛星の1つであるイオ(Io)にも近づいた。ガニメデ(Ganymede)、カリスト(Callisto)、アマルテア(Amalthea)とも接近、カリストの氷で覆われた表面を観察した。エウロパ(Europa)も観ながらカリストを観察した。イオに火山活動があることが観察された。木星表面では稲妻とオーロラ現象が観察された。木星には細かい粒子のリングがあることも観察された。そして木星の大気はアンモニアの氷などで構成されている事もわかった。
いまは太陽圏外に出ようとしているボイジャー1号、2号は果てしない宇宙の航海者(Voyager)である。太陽から遠ざかっても地球とのけなげなコンタクトを保つため、太陽電池の代わりにボイジャー1号、2号には原子力エンジンが搭載されている。
ここでボイジャー宇宙船のスペックを紹介しておこう。ボイジャーはマリーナクラスの宇宙船で、3軸(ロール、ピッチ、回転)の安定装置により、観測中でも常に同じ姿勢を保つことが出来る。11種類の科学測定器を搭載している。宇宙船は探査部と推進部から成り立っており、惑星空間に入った後で推進部は分離される。惑星間空間では最良の観察ができるよう、また地球上のジェット推進研究所(JPL)から発せられる指令なしでも昨日が不良のときにはみずからを調節できるようにボイジャー自体にもコンピュータプログラムが組み込まれている。
探査機は電源部、電子機器部、科学機器部、磁気計およびアンテナの5つの主要な装置から成り立っている。宇宙船の前重量は1号、2号ともに2066kgで探査部重量825kg、科学機器重量117kgである。ハイゲインアンテナ(高利得アンテナ)の直径は3.7m、惑星観測用アンテナの長さ10m、磁気計ブームの長さ13mである。電子機器はコンピューター、デジタルテープレコーダ、飛行コントロールシステム、送受信機などから構成されていて、宇宙船の10個の箱の中に収められている。
ボイジャーはデータをいったんデジタルテープレコーダに記録した後、地球に送信する。その容量は5億ビットx100枚の画像すなわち50ギガバイトである。今の時代に打ち上げられていればこの数万倍のメモリーが搭載できていたはずだがこれは仕方が無いことである。
電力の供給とコントロールは機器の消費に応じて電力を分配する交流電力を使用している。コンピューターシステムには姿勢制御システム、飛行データ・サブシステム、コンピュータ・指令システムを含んでいる。姿勢制御システムは独立した2台の記憶装置で、それぞれが4096語のデータ量を蓄える事が出来る。その半分を日常作業に使い、残りは地上から送られてくる新しい指示を記憶するために使われる。
宇宙船の制御にはヒドラジン推進器が使われている。ヒドラジンタンクがあり瞬間的にガスを放出する。エアバッグに入っているあれである。原子力発電機はプルトニウム・二酸化物の崩壊によって生じる核エネルギーを電気に換える。出力は450wである。この出力は宇宙飛行をするにしたがって減少する。太陽に近距離であれば太陽電池が有効であるが、深宇宙においては太陽エネルギーは微少であるのでこのような原子力エネルギーが使われるのである。別に冥王星(Pluto)の近くにいくのでプルトニウムが使われるという語呂合わせではない。
科学機器装置は8種類ある。プラズマ、宇宙線、低エネルギー荷電粒子などの探知器が装置の上部に取り付けられている。また広角・望遠の2台のテレビカメラ、紫外線・赤外線分光装置、写真偏光計や放射計などが宇宙線上から縦横の2方向を記録できるように取り付けられている。磁気計は宇宙船の電子機器の発生する磁気ノイズを防ぐため長さ13mのブームの先端に取り付けられ、高い磁場と低い磁場の両方を計る事が出来る。磁気計のブームは宇宙船打ち上げ時には容器の中に収納されている。宇宙船が惑星空間に入った時点で容器は開かれブーム(支柱)が自動的に繰り出されるようになっている。
ボイジャーはJPLで組み立てられ、一度分解されて、ケネディ宇宙センターで打ち上げるために再度組み立てられる。この宇宙船には故カール・セーガン博士が「地球から今日は」のメッセージを組み込んだ。これは60種類の言葉による挨拶、ヒトが道具や芸術品を作ったり勉強をしている写真、音楽などさまざまな情報を電気信号に変えてCDレコードに収めたものである。レコードの保護用ジャケットには記号の説明や宇宙船についての情報が刻み込まれている。
ボイジャーの推進装置は68000ニュートンの推力で48秒間燃焼する。
ボイジャーを打ち上げるのに用いられるタイタン3Eセントールは長さ50m、重さ63.5トンの4段ロケットである。総合推力は100万ニュートンを超える。
A1990年に30億ドルの巨額の投資をして、スペースシャトルを利用して打ち上げられたハッブル宇宙望遠鏡は、シャトルよりやや上空の地球上空400kmの高さをめぐっている。口径240cmのハッブル望遠鏡は地上の大気の影響をうけないために鮮明な映像が送られてくるはずであった。150億光年の遠くまでをも見ることができるのではないか全世界の天文学者の期待を集めて打ち上げられた大気圏外唯一の天体望遠鏡である。ところが現実はそう簡単ではなかった。シャトル軌道にのって定常状態になり電波に乗って送られてきた映像はどんなにコンピュ−タ−修正を加えても焦点が合わない。それはこの望遠鏡製造上の主鏡のわずかな歪をみのがしたというミスで生じた宇宙学者への試練であった。しかし、これを熟練した51才と48才の科学者宇宙飛行士が1993年末に修理した。彼らは望遠鏡の目的の場所に光学補正装置を見事にとりつけた。すばらしいリカバリ−ショットである。さらに@太陽電池パネルの修理Aジャイロスコープの修理B望遠鏡画像処理コンピュータのグレードアップも同時に行った。
この修正作業の成功には世界の頭脳の協力があった。マケット(Ducchio Maccheto)の率いるヨーロッパ宇宙エージェンシーチーム(Europe Space Agency Team)および世界の宇宙学者によって開発されたコンピュータ鏡修正装置(corrective optic unit=COSTAR)付微弱対物カメラ(Faint Object Camera=FOC)、宇宙望遠鏡科学協会(Space Telescope Science Institute in Baltimore,Maryland)の協力により修復後に送られてきたこの望遠鏡のNGC1068(active type 2 Seyfert galaxy)の核の部分の映像は、修理前の映像に比べ3倍以上の解像度をもつようになった(Nature 367:205,1994)。新しい映像では核の粒状の光の回りのガス状に広がる熱そうな雲が鮮明に観察できた。HSTの映像は大気の影響をまったく受けないためにハワイマウナケア山頂の望遠鏡以上の鮮鋭度である。それからは見違えるHST(ハッブル宇宙望遠鏡)jの映像がインターネットでも楽しめる事が出来るようになった。あなたがインターネット使用可能ならサーチエンジンのキーワードをNASAにして「The Best of HST」へアクセスしよう。
 B宇宙望遠鏡の名に由来するエドウィン・ハッブルはウイルソン山天文台で銀河を発見した。NGCカタログには我々の観察しうる銀河が登録されている。さらにハッブルは光のドップラー効果により銀河が膨張していることも発見した。彼は宇宙誕生の秘密、いわゆる神の指紋のなごりをウイルソン天文台の100インチ望遠鏡を用いて、銀河の動く距離と方向を調べることにより追求しようとした。ハッブルの理論では「遠くの銀河ほど速いスピードで遠ざかる、それは宇宙が膨張しているからだ」と彼は推測した。NGC1566は4千5百万年光年の距離にある。棒渦巻銀河NGC1300は7千3百万光年の距離にあるクエーサーである。 宇宙の中心はいて座の方向にある。この銀河の中心には150億年前のビッグバンの影響を受けた多くの古い星が集まり、赤色巨星となり超新星爆発を起こし、ブラックホールを形成した星も多い。したがってこの間に生ずる降着円盤からでてくる電波を有する電波星、X線蚤で観察される星も多い。だから電波望遠鏡は宇宙の中心に先ず向けるのである。宇宙の中心から膨張した大宇宙の辺縁にはそのかわり新しい天体が存在する。銀河中心から遠くを見ることは逆に宇宙の出来始めを教えてくれる。
 夜空にかがやく星はすべてそのかがやきを核融合という過程に負っている。核融合とは2つ以上の原子が衝突して1つの原子となる過程であり、この際とほうもないエネルギーを生み出す。1gの水素原子同士が核融合したときガソリン2万リットルの燃焼に相当するエネルギーを生み出す。
 しかし一部の星はこの核融合では考えられないような輝きと寿命を持っている。これは主要なエネルギー源は核融合だけではないことを推測させる。1971年にわれわれが気づいたX線天体なる奇妙な星は太陽のようなふつうの星と中性子星の複合からなる。これがX線連星である。ヨーロッパ南天観測所長であるジャコーニー(Riccardo Giacconi 仏)を中心としてNASAから打ち上げられたX線観測船「ウフル」が登場するに至ってX線連星の詳細が明らかになりつつある。すなわちこの太陽のような通常の星と20km四方に中性子という重粒子がぎっしり詰まった超重量星の2つの星で発生する降着円盤での粒子の流れとその間に起こる粒子同士のぶつかりで、核融合の15〜60倍のエネルギーを発生することがわかった。この現象は生まれたての連星から準星(クエーサー)をともなう連星までに生じうる。中性子星が回転エネルギーを与えられれば高速で点滅する電波パルサーとなる。高速で自転する中性子星がその強力な磁場のために電波が細いビームになって自転ごとにピカッと光って見える。X線パルスは中性子星の自転軸と磁気モーメント軸がずれているからにほかならない。降着物質が中性子星に近づくと、あまりに強い磁場のために磁力線に沿ってしか動けなくなり、やがて中性子星の磁極におちる。中性子星の極にはげしくぶつかりX線を放出して輝く。南北の両磁極にX線で輝く高温の(1億度K)円筒をつくる。円筒を持つ磁極と中性子星自体の自転軸のズレがあるため高X線エネルギーの高温円筒が見えかくれするわけである。これが観察によってX線の強弱を示すパルスとなるわけである。これに太陽のような伴星が重なり食の状態になると、もっと複雑なX線パルスとなる。連星のX線源はケンタウルス座X3、ヘルクレス座X1などである。X線パルスはそれぞれ4.84、1.20秒である。これらの星はX線強度が全くなくなってしまうことがある。X線の食という現象を持っていたので中性子星と太陽ににた恒星の連星複合体であることがわかる。もし半径10kmの中性子星が1.20秒の周期で回転したとしよう。その高エネルギー円筒の速度は最も遅いところで秒速約30kmである。光の速度の1万分の1である。これがX線スペクトルに何らかの影響を与えるだろう。ゆえにX線のスペクトルとその周期を分析すれば連星の降着円盤の大きさも推測することができるし中性子星の大きさ、エメルギーの程度もある程度判明すると筆者は考える。
 連星間の距離はこの非常に短い。短すぎると中性子星が伴星のエネルギーをはぎ取ってしまう。単一の中性子星となり一定のX線周期を示す電波星となる。はぎ取られた物質は中性子星の周りに降着円盤をつくり南北極にかがやく円筒をつくる。2つの風船をつなぐと大きい方がさらに大きくなり小さい方は萎んでしまう現象にもたとえることができよう。
 X線連星の中には太陽の1万倍ものエネルギーを放出しているものがある。ゆえに可視光よりもエネルギーの高いX線で輝く。そもそもX線星が発見されたのはサソリ座(scorpio)X1においてである。これは観測ロケットにX線検出器を登載した結果判明したものである。この連星のまともなほうの星ははX線星としてはそのなかでは途方もなく明るかった。これが連星エネルギー論に疑問を投げかけたのである。科学者たちはこのエネルギーが通常の核融合のみではないと想像しだしたのである。
 C人類は動的(ダイナミック)宇宙感を抱くことになった。宇宙膨張理論によれば過去の宇宙はいまよりも小さかったはずである。ジョージ・ガモフはこの点に注目した。宇宙は気の遠くなるほど高い温度の火の玉から始まったという。ビッグバンがあると彼は考え、現在においても火の玉の状態の「残り火」があるはずだと彼は推測し「背景放射」と称するビッグバンの残り火である放射線エネルギ−が後に確認された。それは1965年にベル研究所のウイルソン博士らによって偶然に発見された。そのときの状況は次のようである。彼らは高感度受信機でテレビ雑音の調査を行っていた。彼はパラボラアンテナ指向性アンテナを用いて、どの家が微弱な電話妨害電波を出しているかを調査していた。ところが、不思議なことにどんな方向からでも入ってくる非常に微弱な妨害電波のある事に気づきはじめた。その電波雑音は遠いニューヨークの電波であろうか。いやそれとは異なりもっと広がりをもった謎の電波源であろうか。それが地球外、いや宇宙の最初の出来事をも証明させるごく弱い背景放射そのものによる電波雑音につながった。ウイルソン技師の発見によりガモフのビッグバンの残り火理論の予言は実証された。我々の銀河系で電波が強く確認できる方向はもちろん古い恒星の多い、超新星爆発が多数存在する銀河の中心方向、射手座の方向である。それらは馬頭星雲、宝石箱、インタカリーナなどの強い電波銀河の方向とも一致するが、これらの強い電波にまじり銀河系全体に背景放射電波が確認されている。
 1993年に最も遠い電波銀河がGKミレ−、KCチェンバ−スにより発見された。その銀河は地球から120億光年離れている。その電波銀河は3.8という大きな赤方偏位を持ち通常の楕円銀河に比べ、はるかに激しいエネルギ−を生み出していた。この不規則な形をした「活動銀河」はビッグバンからわずか12億年しか経っていない。ケンブリッジ大学のマ−チン・J・リ−スは親銀河の中心に隠されたエンジン機構があり莫大なエネルギ−を発生し、それが巨大な電波ロ−プへ供給されるモデルを提案した。彼とカリフォルニア工科大学のロジャ−・D・ブランドフォ−ドは狭い経路に沿って飛び出してくる高速粒子によってエネルギ−が供給される可能性を指摘した。エンジンの機構は全く不明であるが、理論によれば中性子星、彼はこれをブラックホールとしているが同じようなものであろう。ブラックホールへ向かって渦を巻きながら強力な磁気にその方向を制限されて落ち込んで行く物質は、ブラックホ−ルの極の内部に消えるまで圧縮・加熱されて百万度付近まで達する。ブラックホ−ルの周りをまわりながら加熱された粒子は、活動銀河の中心部でおこる諸現象、例えば電波ジェットの形成といった現象の原因になっている。ジェットはブラックホ−ルの自転軸に沿う粒子ビ−ムから成り電磁的ダイナモ的過程で形成される。まさにエンジン活動がわれわれの知り得る宇宙の果てで生じている。
宇宙年齢を150億年とし、密度は一般的な宇宙モデルとすれば赤方偏位が2である銀河は、宇宙年齢の約80%さかのぼった時代、すなわち地球から120億光年の彼方に位置する。赤方偏位が4ならば、約90%さかのぼった時代に位置する。それだけ宇宙の中心から離れた星は新しい姿を示すのである。

「宇宙galaxyと乳galactoから発生した言葉、乳(ち)とは血そして
命のち。もしかしたらガンマ線バーストこそわれわれの命の源なのかもしれない」
                   駄洒落で失礼しました。でも本当かも。杉太郎

写真取得  NASAのホームページより
参考ビデオ NHK銀河宇宙オデッセイ
参考文献 
1.Van den Hauvel EP,Van Paradijs J:X線連星の多彩な生涯(X-ray Binaries) pp40ー49、日経サイエンス1月号、1994(Scientific American November 1993)
2.GKミレ-、KCチェンバ-ス:最も遠い電波銀河 pp84-94、日経サイエンス8月号、1993
3.サウンドポートレートボイジャーギャラリー パイオニアLDC株式会社 1988


ヒトは何を食べたか
 
1.もち米、大地の神に捧げる食
 中国貴州省の山岳地帯に住むミャオ族、女は頭に銀飾りをつけ輪になって踊る。豊饒に感謝する銅鼓の舞いである。銀飾りは一見水牛の角にもにている。水牛の角を形どった三日月銀冠の中央には照り輝く太陽が彫り込まれている。彼らの正月である苗年(ミャオネン)がきた。苗年は新年の収穫を神に感謝する祭である。大地の神をやすらげる祭の踊りが催される。銅鼓(厚い洗濯容器の裏のような金属の中央に太陽が描かれている)をたたき調子を取る男たち。この音が大地の神を村に招き寄せる。もち米でつくられた赤いおこわが村人全員に配られ、祭はクライマックスを迎える。神とともにおこわを食べ神と民は「神人共食」で1つになる。もち米塊を村人がほおばる。ミャオ族は大地に神が宿っていると考える。大地がはぐくむ希なる食であるモチ米は神々に捧げる大地の食である。
 人口1300万人の中国最大都市上海は揚子江(長江)の河口に歴史を刻んできた。この都市にもち米の食文化が脈々と伝えられている。チマキはもち米でつくられた手軽な昼飯である。各所に点在する店頭で人々はチマキを昼食とする。もち米でつくられた団子や菓子も多い。もち米は中国南部の食文化である。中国の南部を流れる全長5500kmにおよぶ大河が揚子江である。流域には中国のもち米の大半が栽培されている。11月始めに上海の自由市場では収穫されたもち米が運び込まれる。市場では20種類以上ある米が並べられる。もち米もその中にある。中国南部ではもち米を「ノウミィ」という。場所により「江米」と書いて「チャンミィ」とよむ。精米するとやや輝きを欠く、いかにも粘そうな白いもち米である。
 もともと、もち米はうるち米の突然変異種としてこの世に生まれた。うるち米からもち米への変異の確率は10万回に1度といわれる。もち米はデンプン中にアミロース成分を欠く。これがもち米の独特の粘りを発生し、中国南部に豊かな、もち米文化をはぐくんだのである。
 粘る米を好む民族は小数である。もち米文化はアジアでもビルマ、タイ、カンボジア、中国の東部そして日本に限られ、儀礼と深く結びつく。古来から人間はもち米とどうつきあってきたか。独特のもち米文化が深く根ざす中国南部、標高千mの雲貴高原に住む少数民族ミャオにスポットを当てた。貴州省竜井村の山間にミャオ族の村がある。人口は1千7百人で同じ苗字の4家系の親族から成る。
 ミャオ族の外来からの訪問者に対するもてなしは厚い。棒に爆竹をつけ(最近の中国ではこの爆竹が禁止になったが)新しい訪問者を迎えてくれる。若い村娘が歌で迎える。「遠方からのお客さん、ようこそ。何ももてなすものはないけれど、お酒はたっぷりございます」金細工の美しい冠を飾った子女が道端に立ち来訪者を迎える。歌は続く。「お酒を飲み干してから村にお入りください」茶碗にどぶろく酒を注ぐ。村に続く道に関を設け、酒と御馳走を振る舞う。酒が客人の汚れをはらい身を清める意味もある。魚、野菜漬物を女たちが箸で客人の口まで運ぶ。客人は身を乗り出しそれを頂戴する。御馳走の中には赤く色付けされたもち米塊がある。村人にとって赤は祝いと喜びを表す。
 竜井村では農地のほとんどが水田として開かれている。田は山間地の段々畑である。山の斜面に小水田が幾重にも開墾されている。その田は耕され天に至る。1粒でも米を多く取ろうというその意図が田の景観から感じとれる。10月中旬、米の収穫はおわりに近づいていた。8人家族が米の収穫に田に向かう。手にはそれぞれの収穫に必要な農耕具があった。長老である主人は大きな方形の桶をかつぐ。竜井村の平均的収穫量10アールあたり300kg(5俵)である。その収穫量は日本の単位耕作面積あたりの約2/3である。竜井村の水田は1年中水が張られている。同じ田でも水を張ることにより少しでも肥沃な土ができると信じられているからである。『水を張る』のが水田である。米を栽培しないときは、この水を利用して鯉や鮒を飼い、村民の重要なタンパク源とする。もち米はうるち米の1/10の耕作面積に栽培される。もち米の収穫量はうるち米の7割である。しかしミャオ族は何にも代えがたい食文化としてこの効率の悪いもち米をつくり続ける。
 昼食の準備が始まった。この村では米以外の野菜、卵のほとんどが自給である。食事回数は昼2時と夜の2回である。日頃の食事はうるち米であり、もち米は特別なときに食べる。昼食用に蒸したうるち米はパサパサしている。日本と同様御櫃に納まった米をやや深い木製のしゃもじでよそおう。村人は茶碗を左の掌でもち碗に口を近づけて箸で米を口に運ぶ。今日のおかずは白菜だが、朝からの労働で皆、ご飯をよく食べる。若い女もかなりの大きさのドンブリで4杯はたいらげる。
 村のはずれに共同の精米小屋がある。住人の誰もが自由に利用できる。精米所の横の堰を移動することにより小屋の原動力である水車が回り始める。米は周囲の石溝に容れられる。その溝を水車につながった円形の石が転がりこの力で精米する。竜井村にも新しい機械式精米器が導入された。しかし米の味は石臼でひいたものにはかなわないという。特にもち米はこの方法で精米する。分離された籾がらは家畜の餌として大切に使われる。風車をまわして籾がらを飛ばし米と籾を分ける。2時間かけ、もち米はその姿を見せた。もち米は祖先からも貴重な米である。しかし、もち米の栽培には苦労が多い。それでも祈りや儀礼にもち米は必要なので、作り続けねばならないと村の長老は熱く語った。
 竜井村は地中に神と竜と災いをもたらす鬼が宿るというミャオ族の素朴な信仰が生きている村である。ある家庭で4才の子供の病気が回復するようにと祈りが行われた。祈祷は鬼師とよばれるシャーマンによって行われる。鬼師は鬼と直接対話できる。各鬼師には家族の安泰、作物の豊饒などに応じて役割が分担されている。家の庭では赤と青の星を形どった色紙が並べられる。先祖から伝わる箸を火にかざし燃やす。箸は先祖のいる冥界と現世とを結ぶものである。箸の煙が生じている場が家族の安泰と祖先を敬う祈りの場となる。鬼師は子供の回復を願って祖先に語りかける。その傍らにもち米が色紙の上に捧げられる。もち米で作られた酒も供えられる。色紙に酒がかけられる。くすぶった箸の煙がその上をおおう。村では神は地中にいると信じられている。供えものを大地の神に捧げ、鬼師自らもその供えをいただく。もち米はミャオ族にとって食べ物を越えた存在である。
 11月始めには翌年もち米を植える田の肥料入れが始まる。農家肥と呼ばれる土に野草を混ぜくさらした堆肥が田に運ばれる。うるち米の田には化学肥料が使われるようになった。しかしもち米田には必ず農家肥が用いられる。その量は1トンを越える。それを肩に天秤棒でかつぎ、もち米田に運ぶ。もち米の田は輪作される。元来はもち米を作った田は翌年はうるち米の水田として用いられる。うるち米よりさらに栄養を必要とするもち米にはこの堆肥補給の作業が不可欠である。農家肥は水の中でさらに栄養を得、よりよいもち米をつくる糧となる。よいもち米を作るためのこだわりが必要である。この堆肥入れで農家の1年は終わる。
そしてミャオ族は正月を迎える。「旧暦の9月、10月になりました。ようやく稲刈りも終わりました。いよいよ苗年(みょうねん)の季節です。豚と鶏の料理を作りましょう。一緒におもちをつきましょう。新年料理を食べて一緒に苗年を楽しみましょう。
 ミャオ族の正月は太陽暦の11月19日に始まる。正月の10日間の儀式のこと苗年という。今年の苗年は旧暦10月4日から準備にはいる。この日は寅の日で豚を殺さなければならない。次の卯の日はもちつき日だ。新年は辰の日から始まる。辰は彼らの神であるからだ。苗年の活動については彼らの神の竜の声を聴かなければならない。苗年は大切な農耕儀礼のひとつである。豊かな実りを得るために彼らは数々の儀式を滞りなく努めていかなくてはならない。旧暦の寅の日に計画通り寅と鶏が殺された。苗年には大地の神に豚が捧げられる。各家庭においてその作業が執り行われた。豚の肉は村人にとって貴重である。豚肉は神に捧げられた後、新年の御馳走として村人の食卓を飾る。家畜小屋のよく肥えた豚が引き出されその場で解体され、頭から内臓まで余すところなく調理される。血液も固められ料理に使われる。
 旧暦10月5日、卯の日、苗年の前の日に各家で、うすで餅をつく音が高原の村に点々と響く。もち米は新米が必ず使われる。村では祝いの時毎に餅をつく。毎年、苗年分として各家庭で平均10kgの餅をつく。セイロでもち米が蒸されミャオ族の祖先が生まれたという楓香樹(楓の木)から作られた船型の臼で餅をつく。杵も楓香樹から作られる。船形の臼をはさんで2人で交互に杵を使い餅をつく。餅は女たちにより丸められ、溶かした卵がまぶされる。
 苗年の初日には村人は餅を食べない。この日は祖先が餅を食べる日である。翌日から餅が村人の口にはいる。ミャオ族の餅は丸餅である。この餅は稲の魂を宿す。この魂を祖先に捧げる。
 新年の明け方、村には銅鼓の音が響く。正月の料理は男の仕事である。男が豚と鶏の肉を料理する。一家の主が正月料理を作り祖先に捧げる。肉ともち米のパイのような料理が3時間かけてできあがった。家人を起こすのも一家の主人の役目である。正月苗年の3日間だけは女性は仕事をしない。この3日だけ女性は家事からのがれることができるのである。新年の豪華な食事が10日間食べ続けられる。豆に肉の料理もある。爆竹で祖先を迎え、でき上がった料理を食べてもらう。町に出稼ぎにいっている子供たちも、このときばかりは帰って苗年を祝う。新年は牛小屋へも持ち込まれる。一生懸命働いてくれた牛に感謝し、オコワが与えられる。牛にも神の恵みを捧げる。苗年の始まりの3日間は家族で静かに祝い、その後の4日間は踊り楽しむ。その後の3日間は銅鼓の祭で村人と祖先が生まれた楓香樹ある村の広場で祭がおこなわれる。祭は大地の神への祈りから始まる。鬼師を先頭にして村人が広場に向かう。赤い布をかけられた銅鼓が広場に運び込まれる。銅鼓には輝く太陽と12の月が描かれている。輝く太陽は強い実りのエネルギーを、12の月は1年をあらわす。銅鼓をたたくことにより大地に宿る神がみを招きよせる。清めのための米が投げられ、神をこの地に招き入れる。鬼師と長老により祈りが捧げられる。もち米酒が大地に注がれる。鬼師により豚の内臓、卵、魚、もち米のオコワが大地に捧げられる。神人共食の儀式が執り行われる。いままでの豊かな実りに感謝し、これからの豊かな実りを祈る。若い女性が豊かな銀飾りを頭にまとい銅鼓の舞いを踊る。祭はこの舞いでクライマックスをむかえる。村人が少しづつ持ち寄ったオコワ配られ神とともに食べる。神人共食で祭は終わる。祭が終わると銅鼓は放棄せられ地中に埋められる。祭の時に掘り出され使われるという。このような風習は紀元前3世紀ごろからあり、北ラオスやミャンマーおよび日本にも見られる。地中には地霊や穀霊がいて、地中に埋められた銅鼓を取り出すことは地霊、穀霊に地上におでまし願うという重要な意味があったのだろう。日本では銅鼓の代わりに、よく似た起源をもつ銅鐸が祭祀のおりには用いられていた。銅鐸は弥生時代の終焉とともに忘れ去られてしまったが、銅鼓は東アジアにもち米文化とともにいまも残る。
 娘が嫁にいくときには父は彼女にもてるだけの精いっぱいのもち米を嫁家に持参させる。その年にもち米がいるような行事が多いと推定できる年にはその家はいつもより多くのもち米をつくる。それほど祖先から受け継いだもち米は村人の生活と結びついている。
 


2.トウモロコシ、インディオの大いなる遺産
 ヨーロッパ人が新大陸を占拠するまでの数百年間、南北アメリカ大陸ではインカ、アズテカ、マヤなど高度のインディオ文明が栄えていた。メキシコのテオテワカン神殿には、およそ1800年前に描かれた雨の神とトウモロコシの壁画が存在する。太古の昔、およそ八千年も以前になるだろうか、インディオによって見いだされたトウモロコシは文明を育て、コメ、ムギとならぶ世界を養う穀物となった。
 トウモロコシは世界で毎年5億トン生産される。本格的に栽培されるようになったのは16世紀以降である。コメやコムギが育たない痩せた土地にも育つトウモロコシは、コロンブスがアメリカ大陸から持ち帰るやいなや、またたくまに世界全土に広まった。いまでもトウモロコシは広く栽培されているが、人間の口はいるものはわずかで9割が家畜の餌になる。
 イリノイ州のトウモロコシ畑はインディオが見いだしてから究極の生産性を高められた農場へと移された。スプリンクラーが水を蒔く中、規格化された種をコンバインが蒔く。究極の生産性が追求された結果この農場では1haの収穫量が7トンである。この量はマニ村の10倍である。よりすぐれた種を追求する研究は、ハイブリッドコーンとして種子メーカー研究所でおこなわれている。各種の交配で誕生する1代限りではあるが特徴を持ったハイブリッドコーン。この研究所では収穫量の向上のみでなく、遺伝子組み替えによって1年に30以上の新品種を世に送る。特殊な家畜の飼育用に用いる改良タンパク質の多いトウモロコシ、このトウモロコシさえ与えておけば家畜には十分の蛋白源となる。油分の多い種は栄養価が高くコーンオイルや調理油用にもなる。
 メキシコユカタン半島マニ村は現在でもトウモロコシを主食とするインディオの村である。人口五千人でユカテコと呼ばれるインディオ村である。この地にはシューと呼ばれた王朝が君臨する王朝が置かれていた。白地に華やかな刺繍の女たちがユカテコの印である。ユカテコは大家族でシュロの葉で葺かれた風通しのよい小屋がその機能ごとに分かれ一家をなす。子供部屋、調理の部屋、夫婦の部屋など。町では頭にトウモロコシのはいったザルを頭に乗せた女たちが歩く。昼前にはユカテコ女はトウモロコシを持ち粉屋の店に集まる。その日に食べるトウモロコシを準備するためだ。粒状トウモロコシが粉ひき機に入ると下でペースト状のトウモロコシになる。マニ村ではこのトウモロコシをトルティーヤとして主食とする。調理方法は煎餅のような作り方である。丸く平たくトウモロコシのペーストをのばし周囲でとった薪の炉の上でトルティーヤをあぶる。トルティーヤが餅のようにふんわりと膨らんだ瞬間女の手がこれを火からおろし、パンと掌でたたいてハイ一丁できあがり。トウモロコシからできた主食トルティーヤを1日大人1人で20枚は食べる。10才頃になると娘は母からトルティーヤ作り、食器の洗浄、家事一般を教わる。
 11月のおわりはインディオのトウモロコシの収穫である。およそ1haのミルパと呼ばれる畑がインディオのトウモロコシ畑である。雨に依存するミルパは焼き畑天水農業である。潅漑施設は天水に頼っている。そんな土地でもトウモロコシは豊かに実る。茎から採られたトウモロコシは10日間天陽に干され乾燥される。茎を折っておくと鳥も食ないし雨水にも流れない。トウモロコシにマメ科の雑草植物がからみ共生する。強風にも倒れないためのインディオの工夫であると同時に、ユカタン半島は表面の土は薄く土地は痩せて栄養分がないのだが、豆は空中の窒素を地中に取り込む作用がある。少しでも土壌を肥やそうというねらいもある。村の中心部のセノーテと呼ばれる共同地下井戸がある。石灰岩質のこの地では雨水は地下に流出し地表に貯めることはできない。焼き畑天水農業はこの理由にもよる。
 村の昼食は一日で最も重要な行事である。主食はもちろんトルティーヨであり、豆のスープがついている。毎日同じ食事をインディオは繰り返している。トウモロコシでカロリーをとり豆でタンパク質を補う。数千年にわたり伝えられてきたインディオの食事の知恵である。昼食が終わると農夫は石灰をバケツにいれた。トウモロコシをこの石灰水と混合する。すると粘りけのなかったトウモロコシ単体より強い粘りをこの混合物は呈する。石灰の水で煮て1晩おくことで粘りのあるトルティーヤの原料が完成する。最近の研究では石灰水によってトウモロコシのタンパク質が変化し体に吸収され易くなることが解ってきた。長い営み中で作り出されたインディオの知恵である。
 トウモロコシの充実した豆は高い生産性の象徴である。ところがトウモロコシは人間が皮をとり1つづつ蒔かねば繁殖できない。人の手が加えられて完成された植物である。では誰が最初の1粒を蒔いたのか?どのようにしてトウモロコシの祖先と出会ったのか?メキシコの遺跡からは多くの炭化したトウモロコシが発掘される。メキシコ人類博物館蔵のトウモロコシの標本たちは長い品種改良の過程を示している。7千年前のトウモロコシは最古のもので長さは2.5cmで10粒の豆がついている。既に栽培化されている形跡を残す。それ以前の野生のトウモロコシはどのようなものだったのか。
 メキシコの平原でトウモロコシに似た野草をしばしば見かける。テオシントレである。この野草は実が縦に10粒ほど並び、熟すと実が落ち繁殖力は旺盛である。トウモロコシの有力な祖先である。メキシコ大学モイセスメンドサ教授はトウモロコシとテオシントレを交配させより繁殖力の強いトウモロコシを作ろうとしている。それによってできた新種の実は形はテオシントレに似るが1本の茎から多くの実(豆)をつけている。また交配により遺跡からでるトウモロコシとそっくりのものができることがあるという。これこそがテオシントレをもとにトウモロコシが作られた証拠とされている理由である。教授は「進化は、遺伝子の特性や環境に左右される。トウモロコシの場合さまざまな学説があるが、この実験で明らかなようにこのテオシントレに人間の手が加わって作物のトウモロコシになったのはまちがいない」という。
 テオシントレに最初に出会ったのは誰か。ベーリング氷河回廊を人類が渡ったのは1万2千年前である。アジア大陸から新大陸へ渡ったモンゴロイドは1万年前に一気にアメリカ大陸を南下した。マンモスなどの大型動物を穫り、狩猟採取生活をし繁殖する間にトウモロコシの祖先は見いだされた。
 メキシコ南部グアテマラとの国境をまたいで熱帯雨林が広がる。ここにいまも狩猟とトウモロコシ栽培で生きるラカンドン族のウガンバ村がある。今世紀の始めまでラカンドンと外部との接触はなかった。人口は4百人ほどで小さな集落である。ラカンハ村も50家族が住む小さな原始の村である。ここでは独特の巻頭衣と男でも長い髪がラカンドンの特徴である。ここでもトルティーヤが主食として作られていた。
 ジャングルの営みはしのぎ易い夜明けから始まる。トウモロコシを荒練りしたものをひょうたんの壷に集める。この壷には幾つもの穴があいている。この壷を水に浸し壷の中のトウモロコシを練る。穴からトウモロコシの白い汁、ポソルがでてくる。朝食はきまってこのポソルである。トルティーヤ2枚分のトウモロコシが使われている。彼らはポソルは消化吸収がよく朝食に適しているという。牛乳のようにゴクゴクとどんぶり数杯分のポソルをのんだ。その後彼らの男は銃を持ってジャングルに狩にでる。30種以上の獣の鳴き声を草笛一つで鳴らし動物を近づけ1週間以上ジャングルにこもる。もちろんトルティーヤを持参している。彼らは森の自然を知り尽くしている。樹を切りその中にある水分で喉の乾きをいやす。ソテーネといういい臭いのする樹木の幹から水分が滝のように流れ落ちる。それを口で受け野蛮にのむ。やや変わった味がする。日本茶のようだ。2時間歩くが獲物はない。今度は狩から釣りをする。魚は豊富だ。1本の糸を巧みに操る。しかし1週間で何もとれないこともある。狩猟採取生活は不安定なのだ。
 村では巻き貝がらが火に入れられ燃やされる。1時間焼くと貝がらは白くなりバナナの葉で包まれる。すると石灰がバナナの葉の中で見事に誕生している。ラカンドンの生活は石灰までもが自給自足している。トウモロコシを主体に狩で得たタンパク質を加える。味付けは塩のみである。これがラカンドンの食事である。トウモロコシをふんだんに使ったソパは最高のご馳走だ。11月農夫はトウモロコシの取り入れを迎える。石灰質の痩せたミルパにもたわわに実るトウモロコシを観察にいく。実の入り具合で取り入れの日にちを決定する。豊作の年には1haで一家が十分に食べていけるトウモロコシがとれる。30本のトウモロコシが彼ら一家の1日の主食である。さらに彼らのトウモロコシの形は様々である。いろいろな品種が混ざりあっているのである。これが凶作にも強い理由である。ペルーのジャガイモもそういえばいろんな種が混ざりあったものであった。生物の多様性の活用である。収穫したトウモロコシの中から来年まくトウモロコシの種を選ぶのは主人の重要な仕事である。粒の揃った多くのみをつけた種、虫のつきにくい種、これらを一瞬にして見分けながら作業は進む。この作業も親から子、子からその子に伝えられる。農夫は皺の多い顔に笑みを浮かべいう。「私はお金は望みません。食べることができればそれで最高に幸せです」
 16世紀以降はインディオが古来信仰してきた雨の神チャチャアックはキリスト教とともに生き残った。祭壇にはトウモロコシから作ったピーを砕き土に埋め焼く。鳥スープを混ぜつくったソパをそなえ、チャックへの祈りが捧げられる。子どもがかえるの鳴き声をまねる。キリスト教と混交したチャックの祭は残されている。祭が終わるとそれを分かちあって食べる。
 私たちにトウモロコシを与えたインディオたち。その生きざまは自然への尊敬と信仰に支えられている。



3.遊牧の民の遺産「乳製品」
 仏典の涅槃教の中に次のような記述がある。「乳」は「酪」となり、「酪」は「生蘇」となる。「生蘇」は「熟蘇」となり、「熟蘇」は「醍醐」となる。「醍醐最上なり」。醍醐は現在のチーズと思われる。そのチーズの味が何物にも替えがたくおいしいので「醍醐味」という言葉が生まれた。牛の乳房からほとばしる牛乳を口で直接のむ。まことに人牛一体となったなごやかな光景である。
 ヒマラヤに源を発し全長2千2百kmのインダス川は、パキスタン・パンジャブの大地を潤してきた。稲が栽培され、稲の束を石に打ち付けて脱穀をする原始的な農業が今も営まれている。豊富な水と温暖な気候が米と麦の二毛作を可能にしパキスタンの豊かな食生活を支えてきた。額が白くギョロリ目と長鼻が特徴の水牛が飼われている。水牛は1日1回水に入らないと生きて行けない動物である。黒ずんだ水牛の乳房から乳が搾り取られる。牛は黙って目をさらに丸くしてこの搾乳行為を黙って許している。インダス川の恵みを受ける水牛は豊かな乳を人々にもたらしてきた。
 農家の一日はバター作りから始まる。搾り取られた乳を瓶にいれ、回転する木製の撹拌器で数10分間根気よく混和する。乳より分離した固形物と残った乳清を分け、固形物であるヨーグルトを取り出す。残った乳清を暖めバターを作る。バターを暖めたものからギーを作る。ギーは油のみでなく料理に風味を付ける調味料としても用いられる。「ギーの入らないカレーなんて愛の無い人生のようなものだ」この村の諺である。パキスタンの乳製品の特徴は細長い米と密接に結びついている。ご飯にカレーとヨーグルトをかけて食べる。
 インダス川中流の都市、パキスタン・ラホールの青空市場には周辺の農村から新鮮な野菜や乳製品が次々と運び込まれてくる。真っ赤なトマト、はちきれんばかりに成熟したナス、どれもこれも新鮮そのものである。イスラム教ではアルコールが厳しく禁じられている。そのため人々はヨーグルトが大好きで朝から晩までたくさん食べる。厳しい戒律の下で、乳で作った甘い菓子の花が咲いた。
 アルプス山麓は気温が低く雨が少なく土地が痩せているため小麦などの穀類の栽培には不向きであった。人々はこの痩せた大地に草を植え牧草とし、草を牛の胃袋を通す事によって乳に変えた。チーズは世界に千種あるといわれる。なかでもスイスチーズは多様である。削ってたべるシュブリンツエ、溶かしてたべるグリエール、孔のあいたエメンタール、どれも個性豊かなスイスチーズの代表である。人間と家畜のつきあいには8千年の歴史があるといわれる。遥か昔それぞれの風土に生まれた動物と人間の共存の歴史は今も世界各地にみる事ができる。中央アジアの馬、中央アジア高地のヤク、アフリカ・マサイのラクダ、北極のトナカイアンデスのリャマ、そのなかで人間が最初に家畜にしたのは羊ではないかといわれている。
 ヒトコブラクダが草原をいく。月に向かってラクダの隊商の首領が地面に伏して祈りを唱える。ヨルダン南部の砂漠にあるワーディーラム(水の枯れた谷)では数千年来、変わることなくチーズを作り続けている遊牧の民・ベドウインがいる。遊牧の民が作るチーズとはどういう地位を生活のなかで得ているのであろうか。羊やラクダを追うベドウインの男の一人は今は2百頭の羊を飼っている。テント生活をする彼らは男性用と女性用を厳格に区別する。男性用は6畳の広さで客間用としても用いられ、女性用は12畳の広さで台所と子供の部屋を兼ねている。台所ではカンの中のバター油が開かれる。羊の乳から作ったバター油の底に沈澱した固形物サムネが取り出される。彼らはこのサムネが大好物で火にあぶり溶かしてパンにつけ食べる。ジャミードという羊の乳で作ったチーズは石のように固い。外来者が砕いて試食してみるが長期保存するために塩を多くいている為に彼らにとってはかなり塩っぱい。しかしシャミードは食物の少ない風土で生きて行くためにはベドウインにとっては大切な食べ物である。この辛いシャミードは、紅茶にいれてのんだり料理に混ぜたりいろいろと使用方法があるという。日本でいえばさしずめ味噌か梅干しといったところである。
 ベドウインにラクダの糞は貴重な燃料である。ラクダの糞集めは、水汲みとともに、子供の仕事である。まるまるとした糞の塊を大事に持ち帰り、乾燥させて薪に混ぜるとよく燃える。ベドウインの女は毎朝アラブ特有のパンを焼く。薄く広げた小麦粉の大きな一枚を火の上で熱せられたジンギスカン風の上に凸の鉄板・サージーの上に置く。超大型クレープのできあがりである。これにサムネおよびバター油を付けて食べる。さらにシャミードを砕いていれた紅茶が彼らの朝食である。「羊のチーズやバターは体にたいへんいい。おかげで我々は病気をした事がないチーズやバターは砂漠に生きる我々ベドウインの宝だ」と彼らはいう。この地方の羊は頭は白いが黒い毛を持つ種である。2月から3月に出産した羊は、8月頃まで乳を出す。このころの羊の乳は1頭あたり1日1リットルはとれる。しかし乾期になると乳の量はその5分の1(0.2リットル/日)に減少する。羊は常に豊かな乳を出すとは限らないのである。
 チーズ作りは絞った乳を自然発酵させることから始まる。乳を入れた桶を4日間太陽の当たる場所に置く。乳酸菌のもっとも繁殖し易い温度は30度から45度である。この地の太陽下は乳酸菌の発酵条件の42度である。今世界の先進国?で作られているチーズのほとんどは牛乳に発酵剤と凝固剤を入れて短時間の内に固めたものである。ベドウインのチーズ作りでは発酵剤と凝固剤の役割を自然がはたしている。
 ベドウインにとって水は貴重品である。この地では30km四方で1カ所しかない水場に3家族が生活している。水は岩山の中腹から天然水を引いていた。1つの水源を動物と人間が共用する。ラクダは4日に1度の給水でまかなえる便利な動物だ。ベドウインは2百頭の羊の顔をすべて覚える。羊が自分の子供にしか乳をやらない習性を持っているため彼らは迷子になった子羊の母親を探さなければならない事もある。そんなときもベドウインはすばやく母親を捜し当てる。羊の子は母親の尻の臭いで親を判別する。母親も小羊の尻の臭いで子供を判別する。尻と尻の臭い関係である。羊は潅木の芽や幹を食べて生活するが、すべてを食べるわけではない。ヤクートやネネツ族はトナカイが食べるヤゲルを半分以上残すように、ベドウイン族も羊がすべての潅木を食べてしまわないように気を配る。次回の食料の保存にはヤゲルや潅木を家畜が食べ尽くしそうになればそれは移動の時期である。
  4日後、乳は適度に発酵している。これを山羊の皮で作った袋に入れる。そこに息(2酸化炭素)を吹き込み最高に膨らませ撹拌する事1時間、発酵した乳はヨーグルト状になる。そこから水を切る。「遥か遠い昔、羊の袋に山羊の乳を入れた一人の男が、1日の疲れをいやすためその水筒をあけてみると、澄んだ乳と固形物に分かれていた。その固形物を食べてみるとすばらしくおいしかった。チーズの誕生は偶然の所産だったのであろう」固形になったチーズに岩塩を混ぜ饅頭状にして天日干しにする。数日後、貴重な「シャミード」ハイ、できあがり。塩をたっぷり入れたチーズ「シャミード」は10年以上持つ貴重な保存食である。
 ヨーロッパでチーズの大量生産が可能になったのは、19世紀後半、微生物の利用が可能になった時期からであった。新鮮な牛乳に乳酸菌を入れて発酵させ、レンネットという「凝乳酵素剤」をいれてチーズをつくる。これを入れて数分後、乳の中のタンパク質が固まり始めた。指を入れて固さを調べる。ベドウインが4日も待った作業を、現代の技術は数10分で済ませてしまう。撹拌した後、型に詰めて水分を取り除く。巨大なタイヤのようなチーズが大量に作られている。砂漠の団子はヨーロッパのタイヤになった。



4.「サケ」に導かれた北方民族
 針葉樹の深いしげみが地表を覆う北米カナダの西海岸この地でサケ・マスを追うクワキュ−トル・インディアンがいる。サケの9割がこの川に帰ってくる。シロザケは有史以前よりこの地カナダブリテシュ・コロンビア州バンクーバー島、長さ500kmのこの島の近くには数100の島が広がり、この島の周辺を暖流が流れ、絶滅に瀕しているといわれる米国合衆国の国鳥ハクトウワシが飛ぶ。クロクマが川の付近には現れる。1500mmから5000mmという多量の雨量が深い森を育んでいる。アラトベイからフィヨルドの奥にはいったところにホープタウン(クワキュートル族の言葉でヒッガムスという)がある。
 北米海岸インディアンはその言語から9種族に分けられる。その1族であるクワキュートル族の多くは先祖伝来の土地を離れずに暮らしている。ヒッガムスもその種族でクワキュートル族がこの地に住む。ヒッガムスでは8月から季節毎に5種類のサケがやってくる。ベニザケ、キングサーモン、カラフトマス、ゲンザケ、9月にはシロザケがやってくる。ベニザケが最も美味しい。8月になると彼らは冬ごもりのサケ保存食づくりにかかる。両方向に切れるインディアンナイフでサケの身を切り開く。ヒノキの仲間のシダーの枝を用いてサケの身の薫製に供する。最も脂ののったベニサケは焼いて食べるのが最も美味しい。しかし食べ残りは冬の食糧として身を裂いて薫製や塩づけにして保存される。
 ヒッガムスの住居は10メ−トル下の貝塚上にある。この地の地層は5000年以上の歴史をもつ。ハマグリやムラサキガイがヒッガムスの地下に眠る。クワキュートルは5千年以上この地に暮らしている。1万数千年以前のベーリング海峡は氷河期で、アメリカ大陸とユ−ラシア大陸はベーリング氷河回廊という細い氷河で覆われた地を介し陸続きであった。この氷河回廊をわたった我々の先祖でもあるモンゴロイドが北方アメリカ・インディアンとしてこの地を起点してアメリカ大陸に進出した。ヒッガムスは長子相続の伝統がある。家の長子のみにサケの保存の方法が伝えられる。
 この地の海岸では月に一度の大潮の日は引き潮になると5mの海底が現れる。ヒッガムスは農耕で得られる野菜に替わるものを海から得ている。イールグラス(Eelglass)はワケギに似たほろ苦き塩香のする食糧海草である。イールグラスを食べ彼らはオヒョウ釣りをする。C字型針の下方にえさをつけオヒョウを釣り上げる。オヒョウはカレイの仲間で最大長2m重さ40kgにもなる重要な蛋白源である。釣り上げられようとするオヒョウはライフルでとどめをさされ、船にあげられる。オヒョウ1匹から肉、皮がとられ、骨はスープとなる。
 海岸では食用になる海産物が少なくとも300種類以上ある。海岸で10分で10kgの蛤がとれる。貝はゆで薫製にして保存される。貝の保存にはシダーの木枝を使う。彼らは鉄器を知らないかわりにシダー木彫り文化を持つ。祭りのときには木彫りオヒョウの仮面、レッドスナッパー、サケの仮面を作り、ダンスし、魚に感謝する。
 インディアンに遅れ5000年、エスキモーともいわれるイヌイットも北米に居住する。元来はイヌイットは狩猟民族であった。カナダの定住政策によりイヌイットは居住地のみに定住する。どのイヌイットの家の軒先にも北極イワナが吊るされる。これがイカルイットとも呼ばれイヌイットの冬を生き抜く貴重な食糧である。
群れをなして北米産トナカイ(カリブー)が南下する。イホストックは濁った川という意味である。イヌイットは、イホクトックでイカルイット漁を行う。 イカルイットの習性を利用し川を昇るイカルイットをヤナを用いてを誘い込む。独特のジャコウウシの角で作ったヤス(カキバク)でイカルイットを捉える。ヤスはY字型をした弾力性をもった銛に3本の針を備える。ヤスのひとさしで魚をえる。彼らは漁師が魚を捉えるのではなく魚がヤナの中に入ってくれるのだと信じる。獲物のイカルイットは硬い北極熊の骨を加工したヘラを通して束ねる。北国熊の骨は非常に硬い。彼らのとって金属の替わりである。
 ヤナで捕らえられたサケやイワナはピンニュックという石で築いた貯蔵庫の中に内臓を取り除いて蓄わえられる。冬になってイヌゾリが使えるようになるとピンニュックに保存したサケを回収する。カリブーは打ち損じがある。確実にとれる魚はインディアンの大切な食糧源で、とれた魚は調味料無しで生のまま食べ、余りはピフィーもしくは薫製にして丁重に保存する。
 産卵を迎えたサケは雨が降ると川をさかのぼり産卵する。ジャンプするサケの方向をみてサケの泳ぐ方向を見定める。海面に網をいれ海面を叩いてサケを捉える。彼らはサケを決してとりすぎる事はない。彼らはサケの国が川の中にあると信じている。彼らに生まれた双子はサケの国から遣わされた使者として扱われる。サケは肉を何枚も剃りとりシダーの木をサケの切り身にさす。小屋で100匹以上の鮭を薫製にする。ハンノキの燃煙で魚はコールドスモーク(味はよいが保存性が悪い)とホットスモーク(薫製の際の煙に含まれる炭素の膜が十分な保存可)のいずれかが用いられる。
 クワキュートルインディアンにとってサケなどの魚は単に肉体の栄養のみでなく心の糧である。彼らはサケに語りかける。「ようこそ神秘なるものよ。おまえこそ長命を授けるものよ。サケよ。この神秘なるものよ。」クワキュートルインディアンはシーウイディという伝説を持っている。4日間の海の旅の後シーウイディという若者は立派な若者の成長していたという話である。
 1万数千年前に我々日本人と同じ祖先を持つモンゴロイドがベーリング海をわたり北米に新天地を求めて移住した。その末裔イヌイットとインディアンは北米大陸をとりまく太平洋と北極海の豊かな海産物にまもられ、今日も自然との豊かな対話を続けている。
 


5.サンゴ礁の海人「ムトゥー」
 珊瑚礁の海を自在に泳ぎ回り魚をとる男達。ヤスで魚をとらえ魚の頭を噛んでとどめをさす。赤道パプア・ニューギニアにマンロック島がある。耕す土地はなく島では海が生活の場である。とった魚は焼くか煮るかして食べられ、同時に食卓に上がることの多いキャッサバは、タロイモに似た食糧だ。
 カヌーを巧みに操り漁に出かける子供たちがいる。島の人々の生活する珊瑚礁に生息する魚は大小140にもおよぶ。ウダイやベラの仲間がとれる。素潜り漁は子供達のころから習慣となりこのことは彼らが海で生きる最大の喜びをもたらしているのかも知れない。さらに素潜り漁はこどもたちが好んで行う漁だ。子供たちのとった魚はとった量にかかわらず参加したすべての子供の間で平等に分けられる。

 マルム漁という刺し網漁がある。ダツという魚がマルム漁により標的にされる。海面を叩く追い込み漁によって捕らえることのできるダツは頭部に鋸に似た歯を持つ細長い魚である。ダツは赤ちゃんの誕生と成長を祝うご馳走となるのだ。ダツは頭を切り落とされお祝いの席に出る。新しく誕生した赤ちゃんは生後1ヶ月を経過するとやっと一人前の人間として認められダツのご馳走にあやかれる。それほどこの島での新生児の死亡率は高いのである。ダツという魚で新生児の無事成長を祝うことは、海の住人「ムトゥ」の大切な儀式である。
 「ムトゥ」は東南アジアからカヌーで数千年前に島づたいにこのマンドック島に移り住んできたと考えられている。「朝の朝食は魚とサゴヤシだ。日本人が紅茶を飲みビスケットを食べるのと同じ」

 ムトゥは森の中でブラックスパイダーと呼ばれる蜘蛛の巣をとる。それを手でよって丸い輪を作り、釣り糸の先端につけ釣り糸の途中に木の葉をつける。これが凧(タコ)の役目をして、この糸を海面すれすれで操り、タコ上げ漁とするのである。口先の鋭いダツが釣れる。ダツは潮の流れに乗って泳ぐ習性をもつ。クチに蜘蛛の巣がくっつくとダツは抵抗しなくなる。お手上げで人間の餌食となってしまう。凧ダツ漁はこの島付近で広く行われている漁であるがその歴史や起源は不明である。「魚だけは特別な食べ物でいつでも食べたい。イモしか食べられないのは不幸なことだ。魚をとることは食べ物をとることで男には魚をとってくる責任がある。だから私たちは魚がとれるまで何度でも漁に出る」とある漁師は言う。
 特殊な漁がさらにある。漁に使うのは「ワラ・マン」と呼ばれる太い植物の蔓(つる)である。ウンボウ島の密林に生えているワラ・マンのつるの皮には魚をしびれさす毒が含まれている。この毒を利用するのが「魚毒漁」である。大きな珊瑚礁が発達した漁場でこの魚毒漁が行われる。根本を石で叩き毒がしみだしたワラワンを珊瑚と珊瑚の隙間にいれる。人が一人はいれそうな大きな珊瑚の隙間である。男達はまちがって海水を飲まないよう注意しながら毒の入ったワラマンを珊瑚の隙間に2ー3ヶ所設置する。ワラマンをいれてちょうど5分たつと効き目が現れてきた。一時的に毒でしびれた魚が海面近くに浮いてくるのである。魚を捕獲後2ー3分すると魚は元気を回復する。この魚毒漁はイッドウダイやハタなどの岩陰にもぐる盛んをとるために用いられる方法である。ワラマンという魚毒漁は魚がとれなくなったときにしか使ってはならないというきびしい昔からの掟がある。そしてワラマンでとる魚の量はその日に食べる分だけと戒め規制されている。

 ワラマンの翌日は雨が降るという言い伝えの通り翌日は雨であった。スコールが島を襲う。量に適した季節はヤバールと言う北風の吹く季節である。反対方向のラグの風は不漁風だ。彼らはひたすらヤバールを待ち続ける。
 ウンボイの人はロロズと呼ばれる。彼らはこの地マンドックで暮らしたい、カヌーに乗って生活したい。この島に住む山の民と海の民は物々交換している。ロロズはゴール村の焼き畑の産物を求めて物々交換に来る。マンドックの人々の魚とゴール村のタロイモやパイナップルなどの農作物が交換される。山地のゴール村の人々は泳ぐことができない。
 北風が吹いた。北風は待ち望む大漁風ヤバールである。海ガメ漁季節である。海ガメ漁には貝の重りをつけたパルパルという大貝の重りのついた網を使う。長老が漁の掟を皆に諭す。「全員カヌーに乗れ、誰も残ってはならない。海では唾を吐いては行けない、海に小便をしてもいけない、さもないとカメやジュゴンがとれなくなる」。「パルパル漁」は先祖からの重要な海ガメ漁である。船外機つきカヌーで男たちは沖へ向かう。漁が終わるまでに海がめに逃げられるので船外機を使うことは出来ない。男たちはカメが海の上に呼吸に上がるのをまつ。追われたウミガメは1方向にのみ逃げる。1人がゴーグルをつけ始めた。ウミガメ発見である。陸上ではおだやかな表情の男たち。しかし海では男たちの表情はきびしくなる。プラットの浜で男たちだけの食事が始まる。甲羅以外の亀肉はすべて食べられる。亀の解体肉は大鍋でにられる。2時間かけてカルルと呼ばれる木の葉で香りがつけられる。肉は煮上がるまでに一夜かかった。肉は平等に分配され彼らの長い漁の一日が終わる。
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  村の少年たちは祭のときに、聖なる森「プラット」にはいることを許される。13才から16才の5人の少年が「プラット」にはいり一人前の漁師になった。長老からこれらの子供たちに「プラット」としての心構えが説かれる。「これからおまえたちにこの島で生きていく知恵を授ける。おまえたちの態度が悪く島の掟を破ったらナカムツット(島の神)は今よりひどくおまえたちを叩くだろう。なぜならその行為は祖先に背いたことになるのだから。漁で遊んではならない。皆と一緒に作業することが大切だ。海をなめてはいけない」。この祭は10日間続く。祭が終わった翌日、プラットでは、皆で力を合わせる「カルタル漁」が若者が「ムトウ」になったことを記念して催された。
 


6.灼熱の海に「鯨」を追う
ーインドネシア・ロンバタ島・ラマレラ村ー
 青い海に船の櫓がしなる。人間は太古の時代から海と親しくし、恩恵に預かってきた。赤道直下のインドネシア・ロンバタ島にマッコウ鯨に挑む海の狩人たちがいる。遠く出潮を吹くマッコウ鯨が見える。マッコウ鯨は1度塩を吹くと10分間は海中にまた消える。再びマッコウ鯨が水面に身体を表したところで舳先に構えていた銛打ち漁師(ラマファ)が銛(モリ)と一緒に海中に鯨めがけて飛び込む。勇敢な熱帯の海の光景だ。
 人間と命をかけた戦い、太古の姿をとどめたこの漁は生きる糧をえる厳粛な営みである。インドネシア・バリ島の東9百kmのところに存在する火山島がロンバタ島である。この島のラマレラ村は人口2千人の小村である。この島での鯨の肉は彼らの生活のすべてである。インドネシア北東の島で鰯やマグロ漁を営んでいたが長い年月の後にこの島にたどりつき鯨漁によって生計をたてるようになってきた。このロンバタ島では乾期にはほとんど雨が降らない。今から4千年以上も前にこの島では鯨を食べていた。

 5月から9月にロンバタ島周辺に鯨が回遊してくる。船は全長10m。カポの木を組み合わせて船を作る。とても1隻では鯨を捕らえることはできない。1隻の船に8人以上の船乗りが集まったときに船は出漁できる。鯨漁の前には彼らは神に漁の許しを得る。「潮の流れよ変わっておくれ。天にまします我らが父よ、我らが日毎の糧を今日こそ与えたまえ。我らが人を許すごとく、我らの罪を許したまえ」彼らのいきる糧は鯨だ。彼らの捕鯨は『生存捕鯨』だ。
 捕らえられた鯨の肉は半分は食用に、そして半分は野菜などの農作物の食物との物々交換に供せられる。食用の鯨肉は一度には食べられない。彼らはこの鯨肉の一部を乾燥し保存する。乾燥中に出てくる油からは明かりとりの油を取る。一片の肉も無駄にしない。
 ラマファのうちでもけがをしたものは少なくない。しかし右手を失ったラマファは鯨を恨まない。当然の出来事として素直に受け入れる。ラマレラ人が取る鯨の数は年間10頭前後である。最近鯨の水揚げ数が減っている。鯨を捕る若者の数も減少しているが、それ以上に、回遊してくる鯨の数が減少している。
 ここ2ヶ月ほど鯨はとれない。村の人々は2ヶ月前に捕れた鯨の保存食を食べて命をつなぐ。朝食、昼食はとらない。夕食の鯨の少量の乾燥脂身が彼らの熱量の主体である。
 鯨の捕りすぎはダメだ。鯨がいなくなる。遥か沖まで出かけ鯨を捕るのはまちがいだ。鯨は神が授けてくれる。「必要量の鯨だけ機械の力をかりずに捕る」これが村の人々の考え方だ。
 トワンタナ族は木や石を神とあがめるロンバタ島の先住民族である。鯨が捕れなくなるとラマファの長の一人がこの酋長に鯨とりのお祈りをお願いに山に入っていく。トワンタナの酋長は「山の神よ、精霊の神よ。我の祈りにより我が海を祝福せよ。我らが飢えぬことの無いように。聖なる海より出し糧(かて)、大いなる鯨を与え給え」と山の中の岩や林に向かって祈る。トワンタナの酋長は「飢えるときには一緒に飢えるのです。ラマレラの人々が頼みに来ると断る訳には行きません」と語る。
 数日後、鯨の吹く息が潮となって沖に見えた。十字を切るラマファが船首で構える。ラマファの習慣では鯨を指でさすことは昔から禁じられている。鯨を指でさすと鯨は逃げたり暴れたりするという。銛を打つ船は1隻のみだが、その周りを数隻の船が囲む。ラマファーが大動脈が集中する30cm厚の皮下脂肪を貫き、ある一点をめざして銛を打ち込む。反応した鯨のもがき。尾ビレの一撃で海面に激しく白い波が立つ。2時間の後人間と鯨の戦いは人間側に凱歌が上がった。漁師達は鯨を捕まえるとこう祈る。「いつも支えてくださる聖母マリア、我らのために祈りたまえ。罪人なる我らのために今も臨終の時も祈り給え」そして鯨を曳航しながら十字を切る。

 鯨を係留した海岸で鯨の身体にメスがいれられる。乗組員、ラマファ、ラマファの両親、先住民族のトワンタナ族、船大工、鍛冶屋さんに肉は公平に分配される。鯨の肉には低コレステロール、高蛋白である。鯨の肉はまことに栄養のとれた食物である。飢えるときにはみんな一緒にうえるのだといったトワンタナ族の酋長も大事そうに肉を持って帰る。鯨の頭の軟骨も食用にされ、内耳の髄液も油分が豊富なためにランプの油に利用される。解体した海岸の後に残ったのは鯨の頭蓋骨だけであった。アメリカバイソンとアメリカインディアンと同様、今でもラマレナの人々にとって鯨は友達であり生活共同体である。


7.飢饉に強い救世主「ジャガイモ」
 天にとどく段々畑というインディオの言葉の「アンデス」。標高3千mに生活するアルカパタの村。彼らの食事は、朝は蒸したジャガイモにチューニョとトウモロコシを混ぜたスープ、昼は蒸したジャガイモにチューニョとトウモロコシを混ぜたスープ、夜は蒸したジャガイモにチューニョとトウモロコシを混ぜたスープが献立のすべてである。これが365日変わらないインディオの家の食事である。ジャガイモを凍らせ乾燥して作ったチューニョを水で戻してスープの材料にする。ー7度Cの朝 、大事なジャガイモを足で踏んでいる奇妙な光景に出会った。しかしこれは彼らのとって大事な保存食チューニョを作っているのである。冷たい朝に水分が皮の下に貯まるのを待って、素足で踏んで水分を追い出し、乾燥して保存食にする。作物が全くとれなくなる雨期、このチューニョが貴重な代用食物になる。

 ところでアンデスの女たちは、一年中変わらないアルパカやリャマの毛で作った極彩色の華麗な民族衣装を着ている。この華麗な衣装は普段着でもある。畑仕事もこの衣装でこなす。ここが我々日本人や西欧人と価値観の違うところだ。よそ行きという感覚がないのだ。ヒト見せるより、自分に対して化粧する。日常生活が最も重要であるという考えから導かれたもっともな習慣である。
 標高の高い3千mのこの地では気圧は0.7気圧近くに低下する。従って食事は生煮えの傾向にある。その生煮えを最小限にくい止めるために、インディオたちは食べ物をあらかじめ凍結、解凍したりし調理師易いようにもして置くのである。その代表がチューニョである。外訪者が来た日のスープには特別に羊の肉が入っていた。そしてチューニョのスープには栗のような甘味と香りがあった。
  ジャガイモとインディオの暮らしは密接である。標高1千mから2千mまではトマト、豆類、標高2千mから3千mまではトウモロコシ、カボチャ、トウガラシ、標高3千mから4千mにアルカパタ村がある。このあたり以上ではジャガイモしか育たない。2千5百mの高地でとれたてのトウモロコシで作るラドリージョというケーキは少ない作物から工夫された楽しいケーキである。
 農村の一家が山頂に向かう。日本にあった結いのような習慣であろうか。ジャガイモ畑は標高4400mの高地にあった。酒をジャガイモ畑に捧げ大地の神に感謝する。村ではこの痩せた大地を保護するため連作を避けてジャガイモを栽培する。畑4枚以上をこのジャガイモのために利用する。それにしても小さい親指のおおきさほどのジャガイモが多い。しかしこれらのジャガイモは気候の変化に滅法強く、さらに多様性に富んでいるために飢饉に強い非常食となりうるのである。アンデスの固い土の中から掘り出されたジャガイモは形も色もまちまちで多様性に富んでいる。ひとつの畑に10種類以上のジャガイモが植えられているからである。このことは一つの品種が病気にか飼ってもほかの品種はその災いを免れるという強さがある。これこそ、きびしい自然の中で生き抜くアンデスの知恵ということができよう。アンデスではとれたジャガイモの袋の数で畑の広さを表現する。一ヶ所でいろいろの品種を作ることによって天候不順や害虫による凶作や不作に対応しているという先祖から伝えられた知恵を尊重するアンデスの人々には不屈の魂を感じる。そしてジャガイモは彼らの主食になり得ているのである。 いろいろな種類の種芋を集め、再度、次の耕期に蒔くという作業で、彼らはどんな条件にも強いジャガイモのいずれかの種類を食べることができる。ジャガイモの収穫が終わるとその収穫に感謝する祭の季節となる。人々は様々なお面をかぶり、収穫を与えてくれた大地の神に踊り感謝する。その祭は質素ではあるが感謝に満ちている。
 アンデスにはかって世界有数の文明を持ったインカ文明が栄えていた。しかし数万のインカの人々は1532年2百名の新天地を獲得しようとしたヨーロッパからのスペイン軍の前に突然滅びた。スペイン軍を率いていたのは貧しい農村に生まれた野心家フランシスコ・ピサロ(1470ー1541スペイン)であった。しかし彼によりジャガイモはインカ帝国の金銀とともに、遥か海を渡りヨーロッパにもたらされた。ヨーロッパに渡ったジャガイモは最初は聖書に記されていない不吉な作物として扱われた。しかし17世紀以降ヨーロッパを巻き込んだ戦争と飢えが皮肉にも人々のジャガイモへの偏見を一掃した。さらに50年後オランダの植民地ジャワを経て日本へはるばると渡った。日本へ渡来した作物の中ではジャガイモは最も長い旅をした作物といえよう。
 ジャガイモの渡来の陰には一国の運命をも左右するドラマがあった。18世紀にはアイルランドではジャガイモによってその人口がなんと5倍に増加した。しかしその100年後ジャガイモに疫病が発生し百万人が餓死した。単一作物に頼ることがいかに危険かアイルランドのジャガイモ飢饉は教えている。本邦では天保の飢饉の時代に高野長英(1804−1850)の書いた1冊の書物がベストセラーになった。彼によって馬鈴薯は飢饉に強い作物として紹介されたのである。
 アメリカアイダホ州にそびえるポテト王ジャック・シンプロット氏の居城がそびえる。彼は第2次世界大戦中に軍需食糧として冷凍ポテトを作り出したのである。アメリカのポテト産業の年商は1兆円で最大の輸出先は日本である。彼はこういう。「ジャガイモを食べて幸せになれる。これが最高の人生だね」アイダホ州は10年でアメリカ最大のジャガイモ産地になった。しかし広大な土地で大量のジャガイモを栽培するためにこの地域では水の枯れる問題が生じている。
 晴れたある日インカ太陽の祭「インティ・ライミ」文字を持たないケチアの人々の神話に次のようなものがある。「昔、くいしんぼうの狐が神様の宴に忍び込み、神様のご馳走を食べてしまった。ところが番人のコンドルに狐は雲の上から突き落とされ、地上に落下しお腹が破れ、中からたくさんの種が飛び散った。その種の中の一つがジャガイモだった」

 標高4千mの山に何故この様な偉大な作物が生まれたのか。その疑問に答えられる人は誰もいない。アンデスの人々はジャガイモを神が与えてくれたかけがいのない食物として敬い奉っている。
 ジャガイモが世界をかけめぐって450年、世界の資金援助によって国際ジャガイモセンターがペルーのリマに設立された。開発途上国の食糧としてジャガイモを増産しようというのだ。特に熱帯向けのジャガイモの改良が行われている。ジャガイモの種からジャガイモを栽培しようとしている。本来ジャガイモは種芋で増やす作物であった。この種から栽培することができれば、食糧難で苦しむ開発途上国を安価な種から栽培したジャガイモで潤すことができる。
 マルカパタの村に再びジャガイモの植え付けの季節がやってきた。大地に貴重な酒とコカの葉が捧げられる。そして家畜の糞で作られた堆肥とジャガイモの種芋が植え付けられていく。4百種以上のジャガイモを持つアンデスの人々。本当の豊かさとは何かをアンデスの人々は我々に教えてくれる。

 
参考:NHK製作 人間は何を食べてきたか。
   別冊歴史読本「日本史知ってるつもり」新人物往来社、東京、1991



絶滅動物

 自然は絶妙な調和の上に成り立つ。人類は調和の中でみかけの進化をとげ、われわれのさりげない行為が自然を破壊している。自然の力が絶大であるのに、人類が容易に自然を支配できると錯覚した。その結果が自然破壊かもしれない。地球の一部である人間は他の動物に対する不当行為を反省せねばならない。
 巨大なセミクジラやアフリカゾウなど地球上で進化をとげたが、現在、5千種の動物たちが絶滅の危機にある。毎年百種類の動物が絶滅している。
 ワシントン条約はこれらの絶滅動物の保護を考えてつくられた国際条約である。ニュージランドでは23種類の動物が絶滅の危機にある。飛べない国鳥「キウイ」も絶滅の危機に瀕している。鶏大の鳥がキウイでありニュージーランド国民は自らをも「キウイ」と呼ぶ。国鳥と国民は親密である。タカポもニュージーランドの保護鳥であるがその数の総和は40羽未満で絶滅の危機にある。
 生物が一定の広さに繁殖する場合、動物の大きさと種の数は反比例する。動物サイズが10倍の種数は100分の1になる。サイズが10分の1になると種数は100倍になる。(図1)
 
 地球上で推定3百万から3千万種の動植物種の確認がなされている。1758年、スウエーデンのウプサラ大学の植物学者リンネは9千種の動植物を分類した。しかし未だ公平な分類学は確立されない。
 
1.巨大獣、ヒトと出会う
 2万年から1万年前まで地上にオオナマケモノ、スミノドン(大きな牙を持つサーベルタイガー)、マンモスなどの巨大動物が米国大陸を中心として繁栄していたが、突然1万年前に姿を消した。(図オオナマケモノ)(図サーベルタイガー)
 
 米国ロサンゼルスの市街地の真中に古代姿を残すランチョ・ラブレア小公園がある。この公園で90年前に400種の動物と150種の植物の計100万点の化石が発見された。化石は最期の氷河期4万年前から1万年前までの地層にあった。発掘化石は現在ではみられない奇妙な巨大動物を再現した。
 ジョージ・C・ページ博物館に巨大獣の骨格が残る。高さ6mのインペリアル・マンモスは2mの長い牙を持ち10頭〜20頭の群れをなす草食獣であった。地上の動物で最大のオナマケモノは立ち上がると4mにも達する。アメリカンライオンは最強の肉食獣であった。20センチほど牙を持つスミノドンは時速50kmで草原を疾走した。エクスティンクトキャメルは瘤までの高さが5mにも達する大ラクダであった。当時の北米は緑の草原が広がりこれらの巨大動物であふれていた。(図マンモス)(図エクスチンクトキャメル)
 楽園に突然異変が起こった。1万年前に突然巨大動物を始めとする8割の動物が急に姿を消した。巨大動物の急激な消滅は環境の変化が原因であるとする説がある。アリゾナ大学のジム・ニード博士はユタ州ベチャン洞窟(インディアン語で大糞という意味、実際古代の動物の糞が多くでる)で巨大動物の糞を探る。1万年以前のマンモスの糞がこの洞窟で発見される。彼は研究室に糞を持ち帰り顕微鏡で観察する。糞中に植物線維が観察される。彼はマンモスの糞線維から植物種を推定し、マンモスが滅びかけた環境を推測する。マンモス糞が多いベチャン洞窟は幅400m奥行き100mの大きさである。マンモスは消化吸収機能が人間ほど発達していなかったのでヤマヨモギ(70%)をはじめスゲ(18%)、ヤナギ(8%)(マンモスの糞に占める割合%)線維が糞中にみられる。
 現在、ペチャン洞窟の周囲に巨大動物が繁栄をきわめていた時期に繁っていたヤマヨモギは見あたらない。現在の気候では理論的にこの植物は生息できない。この植物は低温で育つ。1万年前の氷河期にはこのあたりは寒く、それ故ヤマヨモギが繁茂したのであろう。1万年以降から米国大陸環境は徐々に暖かくなりヤマヨモギは低地から高地に移動しこの地域でのみ生息するようになった。平地のヤマヨモギは消失した。急激な環境の変化、生態系の変化による食料減少が巨大動物たちを支えるのに不十分になった。巨大動物の消滅が食糧によるとする理由である。
 米国サウスダコダ州ホット・スプリングス・マンモス・サイトは100頭以上のマンモス骨が大量発掘されるマンモス墓場である。東京慈恵会医科大学で古代生物の研究をしている鈴木直樹博士はマンモス骨髄を調べる。マンモスの骨髄からその動物の環境適応能力を推測する。マンモス骨は貴重で解剖できない。あらかじめ、博士はCTスキャナ−でマンモスとアジア象の骨髄を観察する。骨髄の割合は両象で差は無く、マンモスの環境適合能力はアジア象と同様に優れていると推測された。新しい食物を食べている現存アジア象と大差がないことが解った。
 では、1万年前にマンモスを絶滅に追いやったほかの原因は何だろうか。食糧の不足のみだろうか。シベリアの永久凍土(ツンドラ)下に5万頭のマンモスの骨が眠る。このあたりにマンモスの骨皮で作った住居が発掘された。直径5m高さ3mのマンモスの骨で作った14000年前の住居跡である。住居はマンモス95頭分の骨で作られ5−6人が集団で生活していた。
 アリゾナ州立博物館骨にはマンモスの骨に黒石が刺さる標本が残る。人類のつくった石器がマンモスの急所骨にくいこんでいる。その石はクロビス石器であった。クロビス石器は両面が削られ非常に鋭い先を持つ旧石器人が用いた狩猟道具である。1万1千年前マンモスはこの石器人類に出会った。男はクロビス石器を常に携行し狩をした。しばらくする人類はアトラトルなる、木と皮で作られた、槍をより強力に飛ばす道具を発明した。アトラトルは槍の尻を木と皮のバネの力で機械的に強力に押し出す倍力装置である。この道具を使えば非力な女子や子供が槍を投げる際の力をカバ−できる。ブル−ス・ブラッドレ−博士はアトラトルの使用で槍の衝撃力が50倍に増すことを実験で証明する。アトラトルで命中率も飛躍的に上昇した。この道具が女や子供に男と同様に狩をする事を可能にした。アトラトルはマンモスに驚異となった。かくしてマンモスは人類の繁殖の餌食となり滅亡した。1万年前環境変化による食料の減少による空腹に戸惑う巨大動物たち。その時期に現れたしたたかな人類は巨大動物を自分たちの餌食として彼らを絶滅に追いやった。
 人類はアメリカ大陸にどのようにして渡ったのであろうか。アリゾナ州立大学のクリスチイ・ターナー博士は下顎の第1大臼歯の歯根の分岐状態により人種のルーツが判別できるという。博士は4千本の古代人の歯を分析し、第1大臼歯根分岐が3本の中国シベリア型、2本はヨーロッパ型に分類した。遺跡に残る歯により、ベーリング海からアメリカ大陸に分布した人類の第1大臼歯根分岐は3本でありこれらの人は中国やシベリアあたりのアジア系民族と判定した。彼らは2万年前陸続きであったベーリング氷河回廊をわたり、急速に北米中央部まで達した。彼らは食糧としてマンモス、オオナマケモノ、古代バイソンを狩って繁殖していった。彼らはさらに南下しアルゼンチンのパタゴニア平原に達した。この地もかっては巨大動物達の楽園であった。現在は小さな動物のみが生息できる痩せほそり荒涼とした大地である。2万年前のエルセイボ洞窟はこのあたりにある。この洞窟には当時の動物絵や手形が残っている。彼らはこの時期の周囲の環境と一緒に自らの手形を特殊な染料を吹き付けて洞窟の壁に残している。洞窟の壁には古代の馬やジャガーが描かれている。
 アリゾナ大学のポール・マーチン博士はアメリカの50ヶ所以上の遺跡を調査しコンピューターに入力し遺跡の年齢から人類のアメリカにおける広がりを推定した。博士はこの方法により人類はアジアから1万1500年前にアメリカにあらわれ、1万930年前には中米まで達したと推定した。アメリカ大陸に人類が移動し始めてからメキシコに達するまでに人口は6千倍に増加したと推測した。人類はたった千年の間にアメリカ大陸全土を増えながら南下した。バイソンの2倍の大きさを持つ古代バイソン、メガテリーノ、地上最大のオオナマケモノなどの巨大動物達は武器を持ち貪欲な繁殖力を持った人類の餌食となり滅んだ。
 グリプトドンは硬い甲羅を持った巨大動物であるが体長は3mに達し形態上はアルマジロに似るが約5倍の大きさの巨大動物であった。2センチ厚の硬い甲羅も道具を持つ人間の盾にはならなかった。この動物は人類に捉えられ殺されて、人類はこの動物の甲羅を盾として逆に利用した。
 環境の激変、強力な武器を手にした人間、爆発的に増える人間、巨大動物達は食料の現象とともにこの時期に地上から姿を消した。
 
2.大群が一瞬に消えた
 カリブーの大群がカナダ北極圏の永久凍土(ツンドラ)を駆け抜ける。赤道直下ケニアの湖を覆っているのはフラミンゴ、南極極寒の大地を埋め尽くす150万羽のロイヤルペンギン、アフリカの大河をわたるヌ−の大群。これらの生物の躍動は生命のすばらしさを我々に感じさせてくれる。
 米国ワシントンのスミソニアン自然誌博物館に最期のリョコウバト(旅行鳩 PASSEMGER PIGEON)であったマーサが剥製で保存されている。人間が発見したときには50億羽と推定されたリョコウバトが1914年9月に地上から絶滅した。わずか100年の間に人類のリョコウバト狩りのため最期のリョコウバトであったマ−サはシンシナチ動物園で息を引き取った。一時的にせよアメリカ大陸に多数繁殖していたリョコウバトは春に繁殖のため北に秋には越冬のため南に旅するためにリョコウバトとよばれた。全長40cmの大型の鳩であった。アメリカ大陸にわたった移民達が最初に驚いたのは無数の空を覆い尽くすリョコウバトの大群であったという。
 鳥類学者オーヂュポンのThe Birds of America図鑑に旅行鳩の明細が克明に残っている。1813年にオーヂュボン(Odubon JJ)は体長40センチであざやかな胸のオレンジを特徴としたリョコウバトを発見し、こんなに大群の大きな鳥を見たのははじめてだとえらく感激した。「空はもじどおり鳩で埋まりどこが群れの先頭でどこが群れの最後尾なのか見当もつかない。真昼だというのに日食のようにあたりが暗くなった。言葉で表現できるものではない」そして人間がいくらリョコウバトがりをしてもこれだけ多数のリョコウバトがいれば絶滅することは絶対にないだろうと日記に書いた。リョコウバトは季節に応じて春には繁殖のために北へ冬には越冬のために南へと旅するためにリョコウバトと呼ばれた。アメリカを開拓していた人々は旅行鳩を旅の食料とした。そして人類の活動範囲を拡大していった。このころから米国の人口は爆発的に増えた。18世紀に530万人であった米国の人口は70年後に4千万人となった。相対的な食料不足でリョコウバトがりがますます盛んになった。さらに鉄道の発達がリョコウバト肉の輸送に拍車を駆けた。当時食用のために捉えられ貨物列車に積み込まれた荷物のほとんどがリョコウバトであった。鉄道が多量のリョコウバトをまるで農作物のように貨物車に積み込んで運んでいく。電信の発達も旅行鳩がりの役にたった。
 これではリョコウバトが絶滅してしまう危険がある。ついに1861年4月30日オハイオ州議会に旅行鳩を保護しようという法案が提出されたが否決された。開拓者は収入のよいリョコウバトがりをやめなかった。ついにオーヂュポンの楽観的な予想から100年後にリョコウバトは絶滅した。リョコウバトは15世紀の人類の新大陸発見からから時を経ずして絶滅した。人類が新天地を求めて活動した時期と一致する。
 
3.童話の動物「ドウドウ」は実在した
 フィヨルドの谷間に「タカヘ」という鳥がいる。この氷河に囲まれた谷の中には数百のタカヘが生息している。タカヘは自分たちの鳴き声を聞いて近づいてくる。彼らは仲間意識が強く縄張り意識が強い。赤いくちばしのタカヘが自分の縄張りだと主張して音のする方向にでてくる。フィヨルドの湿地帯がかれらに十分の栄養を与える。しかしこのタカヘに対してその食糧を奪うシカがいる。わずか百羽余りのタカヘを守るために何万頭ものシカが殺されたのだ。これは種の多様性を守るためには必要なことなのである。さらにタカヘの卵を人工的に孵化させる試みがなされている。通常タカヘの♀は二つの卵を生むがタカヘの♀は1ヶの卵を育てるのみである。このため我々人間がタカヘのもう1ヶの卵を育てているのである。タカヘのくちばしとそっくりの装置でタカヘの声をテープレコーダーで聞かせながらタカヘの雛を育てる。こうしないとタカヘの雛は次に自分が子供を育てる際には習性を忘れるのである。
 不思議の国のアリス(ルイス・キャロル著、福島政実訳)という本の第2章の「涙の水たまり」の終わりを読んでみよう。アリスがいつのまにか大きくなった時に流した自分の涙の中に今度は小さくなりすぎた自分が溺れてしまう場面がある。このときにこの涙の海の中にさまざまな動物が流れ込んでくるのである。「・・・・たしかに、もうそうしてもいい頃合でした。というのは、水たまりは、あとから落ちてきた小鳥や動物たちですごく混みあってきたからです。なかにはアヒルやドードー鳥(飛べない巨鳥。今は絶滅した)や、オウムや鷲の子や、そのほかいろんな奇妙な動物がいました。アリスが先頭に立ち、みんなあとにつづいて岸に泳いで行きました・・・・」このあとドードー鳥は岸に上がったみんなが体を乾かすために『コーカスレースをしよう』と提案してみなが丸い円周をぐるぐると回ったあげくに誰が何周したか解らずレースの勝者がわからずに「みんなが勝ったんだ」と楽天的で無責任な発言をする。そんなおどけた鳥なのである。
 ドウドウ鳥、本論では略して『ドウドウ』とのみ表現するが、この愛嬌のある無責任で楽観的な大型アヒルのような飛べない大鳥はインド洋の貴婦人と呼ばれるモーリシャス島に実在していたようだ。ドウドウはその愛嬌と滑稽な鳥ということで植民地のモーリシャス島から持ち帰られ、ヨーロッパで見せ物になっていた。太った足とペリカンのような大きな嘴(クチバシ)をもった大鳥ドウドウは昔からモーリシャス島に住んでいた。然るに人類が新大陸を開発している短期間の間にこの大鳥は絶滅した。モーリシャス島には絶滅した動物が多い。新大陸発達のための交易中継点のこの島で何が起こったのだろうか。
 17世紀に蘭国東インド会社は香辛料の交易で太平洋を縦横無尽に航海していた。彼らは緑豊かなモーリシャス島を中継基地にしていた。この大鳥ドウドウを煮て食べたという記載が東インド会社の交易船長ネック提督の日記に残っている。ドウドウの頭が剥製がオックスフォード大学博物館に残っている。モーリシャスの首都ポートルイスにあるモーリシャス博物館にドウドウの全身骨格標本がある。ドウドウはその骨格標本から体高80センチであったと推測された。鳥類の骨重と鳥体重とは比例するといわれる。ゆえに鳥類の体重は骨総重量から推測可能である。ドウドウの骨総重量が0.9kgであったのでドウドウの体重は12kgと推測できた。ドウドウは空を飛べなかった鈍な鳥と考えられがちだが、彼らの地上の行動は俊敏であった。しかしこの島の中でドウドウは敵がいなかった訳ではない。最大の敵は交易船団乗組員の食料として同行させられていた生きた家畜であった。長期の航海で船団の一隅につながれていた家畜たちは船団が港につくとモーリシャス島に一時的にせよ広く放たれた。食用となるべき豚や山羊が島に闊歩しドウドウの卵や雛を食べてしまった。島でドウドウが発見されて絶滅するまで80年しか経ていなかった。
 ドウドウ以外にも17世紀から今世紀にかけ多くの動物が絶滅した。オーロックスは1627年人間による狩りのためにポーランドで絶滅、ステラカイギュウは1768年にベーリング海で絶滅。ブルーピジョンは1830年にモーリシャス島で絶滅。オオウミガラスは1844年にアイスランドで数百万羽根が食用として大量に殺され絶滅。ニュージーランドウズラは1875年に絶滅。フォークランドキツネは1876年に毛皮目的の狩猟のために絶滅、クアッガは1883年に南アフリカで植民者が肉と狩のために絶滅。ミイロコンゴウインコは1885年にキューバで美しい羽根をねらった狩猟のため絶滅。カロナイカインコは1914年果樹園をあらす害鳥として開拓者によって米国で絶滅。ホオダレムクドリは1907年にニュージーランドでヨーロッパ人が持ち込んだキツネなどに狙われた絶滅。カロライナインコは1914年にアメリカ果樹園を荒らす害鳥として開拓者によって絶滅。最大の絶滅がリョコウバトであった。
 
4.アメリカ開拓史の悲劇の動物バイソン
 体長3m体重900kg米国のバイソンはアメリカを象徴する巨大な野牛である。バイソンはアメリカ大陸には最盛期に6000万頭いた。バイソンはインデイアンにとってバイソンは生活のすべてであった(ケビンコスナー製作・主演・監督のDANCE WITH WOLVES参照)。肉は食用に毛皮は衣服や住居に膀胱は水筒、そして糞は燃料となった。彼らはバイソンを兄弟として扱い決して殺しすぎる事はなかった。荒野を切り開いてすすむ西部開拓がバイソンを減少させた。陸軍指揮官シェリダン将軍はバイソン1頭を殺せばインデイアンの生活基盤が失われるため1人死亡する。インデイアンを絶滅させるためにバイソンを殺せ。バイソン狩りツアーが催された。1870年代にはバイソンの皮が重宝され1874年にはなんと1日に20万枚の皮が取り引きされた。
 ウイリアムホーナリーはバイソンの形態保存のために剥製用のバイソン探し西部に旅したが、その大群などはどこにも発見できなかった。絶対生息数が著減していたのである。彼は深刻にうけとめバイソン生態調査に乗り出した。彼は野生バイソンはアメリカに85頭のみであると報告した。ホーナリーの努力は米国大統領であったセオドア・ルーズベルトを動かし1905年に野生動物の保護に関する法律が発令され、オクラホマ州ウイチタにバイソンの保護区が完成した。最初に保護区につれてこられたバイソンは♂が4頭♀が3頭であった。現在は500頭以上のバイソンがここで繁殖している。ウイチタ・バイソン保護区に続く保護区がその後各地に設立され米国のバイソン数は6万頭までに回復している。
 人類がいままでに自然生物界に犯したあやまちを、我々が償う時期がきている。人間の見かけ上の繁栄は多くの動物たちの犠牲のもとに成り立っているのを忘れてはならない。
 5.新たな悲劇が始まっている
【スマトラサイの減少】ヒトに追いやられるスマトラサイの姿は悲劇的だ。スマトラサイの数は明らかに減少し今や絶滅の危機にある。そこでこの危機を救うためにジャカルタから♂のスマトラサイが米国のサンデイェゴ動物園に人工繁殖のために送られてきた。この動物園は絶えかけている生物を人工授精により増殖さしてその生物の地上での生息を可能にできる数少ない優れた人工授精機能を持った動物園である。♂のスマトラサイはこの動物園にいる3頭の♀のサイと交配させられることになっている。さらにサンディゴ動物園ではこの♂のスマタオラサイから精液の採取もおこない、採取した精子およびこの動物園にいる♀のスマトラサイの卵子は−198度という低温に半永久的に保存される。これはこれらの生物が絶滅したときに再び地上にスマトラサイをよみがえらす為の非常手段なのである。
【アマゾンのジャングルの鳥たちの減少】アマゾン川に沿って広がる熱帯雨林セルバスにおいて、ジャングルを1km四方、10km四方、100km四方に区切り、そこに生息できる鳥類の種類を調査した。その結果、10km四方に区切られたジャヤングルの鳥類の種類は100km四方に区切られたジャングルの数分の1に減少し、さらに1km四方に区切られたジャヤングルの鳥類の種類は10km四方に区切られたジャングルの数分の1に減少たという。すなわち森林の伐採によるジャングルの分断は鳥類の生息にも影響を及ぼしジャングルに住んでいる生き物たちの種類を明らかに減少させている。
【フロリダのパンサーの奇形】フロリダ付近に生息するパンサーは最近めっきりその数が減少している。減少した小数のパンサー同士で交配が重ねられるため、いわゆる近親交配による奇形の発生が増えてきている。パンサーの子供における奇形の発生がパンサー全体の数をさらに減少させている。さらに、アリゲーターウエー(ワニ観光道路)などの観光開発道路によるパンサ−の行動範囲の制限がパンサーの食料確保の道を分断しパンサーの生息を困難にしつつある。政府はパンサー保護のためにエサの鹿を放った。しかしエサの鹿を追うための道が各地で分断しているため思うようにパンサーの口には入らない。さらにこのような人工的なエサは有限であり自然の食物連鎖のようには自然に無限に連続することはない。パンサーがいままで生息できていた食物連鎖の自然環境を破壊したのは人間によるパンサーの生息環境の破壊である。
 ロバート・レイシ−博士は現在のフロリダパンサー間でなされている近親交配はフロリダパンサーの数を減少させていることを統計学的にも予測する。今のようなパンサーの数で彼らの間で近親交配がすすむと、わずか12−3年でパンサーが絶滅することを予想している。奇形の増加→繁殖の低下→パンサー数の減少→近親交配の増加→奇形の増加という悪循環がこの貴重な動物の地上での生息を困難にしている。
【オウム貝の運命】東京渋谷のデパートの装飾品売り場に数年前からある珍しい貝が陳列されている。オウム貝である。このごろはこの貝が1500円から4500円程度の廉価で売られているために目玉商品となっている。三重県鳥羽水族館で生きている頭足類オウム貝は5億9千万年のカンブリア期から生息している。5億年前からオルドビス期になったがこの時期に節足動物の三葉虫が誕生した。4億4千万年前からシルル期になった。この時期には直角石という円錐状の殻を持った動物が栄えていた。4億年前にデボン期になった。この時期にオウム貝から別れてアンモナイトが誕生した。3億6千万年前に石炭期になったがこの時期にカブトガニが誕生した。2億9千万年前にベレム期になったが2億5千万年前に三畳期にある白亜期にアンモナイトは絶滅した。逆にオウム貝は生き残った。その理由としてオウム貝は比較的沖合いの深い住みにくい処に住んでいたために絶滅を免れたという。この地球上に最も古くから生息しているのがこのオウム貝である。
 たかが350万年の歴史しか持たない人類であるわれわれが、むやみにただ鑑賞のためにのみこの歴史のある貝を捕らえ売り買いする行為が今の地球環境に許されて良いのであろうか。余りに人類は特権階級としての意識が過剰なのではなかろうか? この点は現在再考して乱獲を慎む必要がある。
 
参考文献 五十嵐享平、岡部聡、村田真一著 絶滅動物の予言 情報センタ−出版局 1992,東京

大空への挑戦

【人類の夢】
 空は自由と力そして支配を意味し人々はその空を飛びたい、地上を離れたい、鳥のように飛びたいという願望が生まれた。人間の空を飛びたいという願望は、太陽に向かって飛びその熱で焼け死んだイカロスの神話では満足できなかった。
『ダイダロスはミノス王のために迷宮を造ったが、その後王の寵愛を失い塔の中に閉じこめられた。彼は逃げ出す工夫をしたが海の方向へは逃げ出すことができなかった。ダイダロスは「ミノスは陸と海は取り締まるかもしれないが大空までは支配することはできない」といい、自分と息子のイカロスのために翼を作り始めた。彼は鳥の羽を集め、大きい羽は糸で止め、小さい羽は鑞で固めた。子のイカロスは毎日そばでその細工を見ていた。この細工ができるとダイダロスは翼を動かして上の方に浮かんで行った。そして子どものイカロスにも上のほうに飛ぶように言った。彼らは左にサモスやデロスの島々を眺め右にリビントスの島を見て空を飛んだ。このときイカロスは父の命令にしたがわず天高くかけ上がっていった。燃え立つ太陽の近くになると羽を止めた鑞が溶けイカロスの羽はバラバラにほぐれた。彼は青海原の真ん中に墜落した。ダイダロスは悲しみこのあたりをイカリアと名づけた(ギリシャ神話ダイダロスより)』。このあたりが後のイタリアになった。
 鳥と一緒に空を飛ぶ夢は、中世の設計図にもみられ、人類のかなえられない欲望として発展してきた。4枚の板を背負い足にその板につながれた紐をむすび足の力でその板をはばたかせ、あたかも水中を泳ぐがごとく空をとぶ少年、多くの鳩を篭に結びその力で空中に舞い上がろうと試みた紳士の像はまだ単なる空想の産物であった。

【ダ・ビンチ】
 15世紀に発明家のレオナルド・ダ・ビンチ(1452-1519伊)が現れた。かれはイタリアルネッサンスの代表的芸術家・科学者で「最後の晩餐」「モナリザ」などの絵画や彫刻、近代科学の創始者として膨大な量の手稿を残している。彼のノートには機械の翼と羽ばたきの仕組みやヘリコプターのスケッチの描写もあった。この時期から人々の空を飛ぶという冒険心が実際に芽生えてきた。ある人は雲のように空に浮く装置を考えた。それはその気球を空気よりも軽くすることで空中に浮かぶというものだった。ある人は空気よりも重いものに乗り羽ばたいて空中に浮かぼうとした。
【ド・ラーナ】
 レオナルドより200年後、イエズス会の神父であったフランチェスコ・ド・ラーナは中を真空にした銅製の球で空中に浮かび、帆で推進する飛行船を考えた。この考えは空を飛ぶ願望を科学の領域へと近づけた。
【モンゴヒエ】
 1780年代始めフランスのアビニオンで製紙業を営むジョセフ・モンゴヒエは煙突の煙などの暖かい空気が上昇することから空中にものを浮かばせることを考えた。1782年彼は絹の袋を火の上にかぶせその気球を空に浮かべることに成功した。この原理は人類が空中で浮遊する夢をついに実現させた。
【ロジエールの気球】
 1783年10月15日ジャン・ロジエールは砂でつながれた気球にのり4時間半ちかく浮遊することに成功した。そのすぐあとでロジエールとマルキダーラは砂袋を切り放し最初の気球による自由飛行に成功した。1790年から1850年代にかけて気球は世界中に広まった。
【飛ぶ工夫とケイリーのグライダー】
 人びとは単に風に任せて飛行する気球には満足できなかった。鳥のように自由に空を飛びたいと考えた。空を飛ぶための軽い木材は古代エジプト人やインカ人にとってはたやすく手にはいるものであったが、彼らにはアイデアが欠けていた。そして人類が、翼が浮力と推進力を得るのに最も有効な手段だ気づいたのは19世紀になってからであった。ジョージ・ケイリーらが翼を利用する事で模型飛行することに成功した。彼は1793年から1850年にかけてグライダーの模型を多く作り現在の飛行機の基礎を築いた。彼は世界初の実物大のグライダーをも作った。しかし人間はのらなかった
【蒸気エンジン】
 1842年ウイリアム・ヘンセンとジョン・ストリング・フェロウは空中蒸気エンジンを考案し特許を取得した。しかし実用化にはいたらないものだった。1875年トーマス・モイが実際の蒸気エンジンを作りその装置は空中に数分間浮かんだといわれているがこれも飛行と呼べるものではなかった。あまりにも重かったのだ。
【リリエンタール】
 1889年オット・リリエンタール(1948-1896独)は飛行の基礎書としての「鳥の飛行」を出版した。彼は綿密に計算された飛行計画のもとに実物のグライダーで鳥のように滑空テストを始めた。1896年までに2千回以上の飛行実験を重ね、彼の偉業と名声は、航空力学の先駆者となるオクタブ・シャニュートやライト兄弟に影響を与えた。「鳥の飛行」の中でリリエンタールは「飛行に成功するためには風と友達になることだ」と述べている。ヤナギと布で作られたリリエンタールのグライダーは単純で最も基礎的な飛行機である。そして岩と空気、グライダーの間には動力機に見られない操縦の芸術が存在すると現在の飛行士はいう。
 リリエンタールはグライダーのほかに2つの動力飛行機を作った。しかし彼はこれらの飛行テストをする前に世を去った。1896年8月6日に彼のグライダーは墜落し、そのけがで死亡した。「犠牲は不可避である」とはリリエンタールの残した最後の言葉である。
【コントロールできない機体】
1890年フレマンアデールの単葉機エオール号は50mの飛行に成功し20cm浮上した。しかし彼は機体をコントロールすることはできなかった。このような動力飛行が始まったのは19世紀の終わりから20世紀のはじめにかけてであった。いったい誰が最初に飛行をコントロールし持続することができるか?誰が最初に鷲や鷹の領域に挑めるか?
【ラングレーの失敗】
 1903年アメリカの科学者サミュエル・ラングレーはワシントンDCのフォトマック川沿いで離陸準備をしていた。彼の飛行機は翼長14.63mで52.4馬力のガソリンエンジンを登載していた。パイロットはアシスタントのチャールズ・マンレーがつとめた。ところがエンジンをかけた直後離陸用のカタパルトを締めているケーブルが切れラングレーは飛行機が川の中に消えて行くのを見守るばかりであった。初飛行の夢は失敗に終わった。
【ライト兄弟】
 初飛行の名誉を得たのは2人の若い才能ある無名の自転車メーカーのウイルバーとオービルのライト兄弟であった。彼らは19世紀中に初飛行をしようと考えた。研究と工夫を重ねた彼らはようやく機体をコントロールするところまで達した。1900年と1901年に1機ずつのグライダーを製作した。しかしそのどちらも計算通りには飛ばなかった。しかし彼らはあきらめずに基礎研究に立ち還った。
 ライト兄弟はほかの人たちが考えつかないような飛行方法に着目していた。彼らは空中に浮かばせる機体の設計には焦点を置かず、浮かんでからの機体のコントロールに焦点を絞っていた。禿げ鷹は突風にあおられたとき翼をねじってバランスを保とうとして対応しているという事実があったのだ。
【初めての飛行】
 1903年12月17日ノースカロライナ州キティーホークひどく寒く、風速12mの北風が吹いていた。午前10時ウイルバー(1867-1912米)とオービル(1871-1948米)は4回予定していた最初の飛行実験を行うことに決めた。彼らはエンジンを始動させ、兄弟は握手をした。弟のオービルが操縦席に腹ばいになった。10時35分オービルはロープを外した。機体は飛び始めた。オービルの話である。「ウイルバーは翼のバランスをとり一緒に走っていた。12m滑走し機体がが浮遊するまでずっと付いていた。機体は不規則に上下しながら空中に浮かび36m走り飛行は終わった」
 彼らの最初の飛行は12秒であった。その後2回の飛行の成功の後、今度はウイルバーが操縦桿を握り飛行機は59秒間空に浮き260mを飛行した。飛行機が人間の力で空中に浮き飛行をコントロールできた初めての出来事であった。ライト兄弟が他の人々と大きく違っていたのは自分たちのやり方に確信を持っていたことであった。彼らは一度正しいと確信したらほかの人が何といおうと気にしなかった。自分たちの能力と研究した結果からでたものを信じたのであった。また彼らは自分たちの頭の中に浮かんだ想像の機体を実際に作り出すという信じられない能力を持っていたことも特筆すべきことであった。
 最初の飛行実験が失敗に終わっていたためアメリカの新聞はライト兄弟の飛行成功のニュースを大々的には伝えなかった。さらにヨーロッパに届いたニュースも不正確なものであった。
【2番目のデュモン】
1906年10月23日フランスではブラジル人のサントス・デュモンが飛行距離60mの公式記録を樹立した。しかし人類初の飛行士として喝采を浴びた彼はライト兄弟が3年前に飛行の偉業を達成していたことを後に知ることになる。
【進んでいたライト兄弟のフライヤー号】
 この時期にはライト兄弟のライト・フライヤー号は完全なコントロールのもとに世界初の実用機第1号として大空を飛んでいた。1906年から19016年までの10年間は飛行機がすばらしい進歩を遂げた充実した期間であった。この期間にライト兄弟は2時間20分を越える最長飛行時間、高度115mの記録、乗客を載せた飛行最長記録など数々の記録を打ち立て40回以上の飛行に成功していた。これらは記録を樹立した以上に重要な意味を持っていた。1909年ライト兄弟のフライヤー号は政府が初めて所有した軍用飛行機であった。それは確かに有用な飛行機であり、30〜40分間空中を飛び回ることができた。
【カーチスの飛行】
 1908年アメリカ人の機械工であり有名な自動車レーサーのグレン・カーティスがパイロットとしてデビューした。彼の初めての飛行機は発明家アレクサンダー・グラハム・ベルの妻が創設した航空実験協会から寄付されたものであった。彼は自動車のスピード世界記録を保持していたが、自動車のエンジンも自ら設計した。もちろん飛行機のエンジンも設計し製作した。かれはこの飛行機でアルバニーからニューヨークへ飛行し懸賞金1万ドルを稼いだ。
【最初のドーバー海峡横断】
 1909年7月25日ルイ・ブレリオは単葉機に乗りカレーからドーバー海峡を越え37分後、グレリオの飛行は成功した。彼は英仏海峡を征服し1000ポンドの賞金を手を初めて手にした。その1カ月後フランスでは有名な飛行家が集まっていた。第1回ゴードン・ベネット杯レースである。20万人以上の人々が入場料を払い、10万人もの人々が近くの丘から見物した。この人びとはグレン・カーチスやブレリオ、パルマ、レイサンなどの飛行を見ようとしていた。1909年ウイルバーライトがマンハッタンや自由の女神の周囲を飛行し100万人の観衆の目を楽しませた。
【ルーズベルトの遊覧飛行】
 1910年元アメリカ合衆国第26代(1901-1909)大統領セオドア・ルーズベルト(1858-1919米)はライト・フライヤー号に乗り3分20秒の飛行を楽しんだ。髭をはやしたかっての騎兵隊隊長は多くの人々から飛行をたたえられた。多くのパイロットたちはもはや飛ぶことだけでは満足できずに、飛行のたびに距離をのばし高く速く飛ぶことに熱中しはじめた。先駆者たちは危険を冒してでも高く速く飛びたいという若者を募集した。たとえばグレン・カーチスが小さな複葉機でハドソン川を飛行した際にこの付近に燃料補給のため着陸した。それを見た4才の少年が機関士になるのをやめてパイロットになろうと決心したという話もある。

【操縦の教習】
 当時の飛行機は一人のりであったので教官が一緒に乗ることができなかった。飛行の操縦は教官が下からオートバイに乗り操縦法を大声で教えた。それらの若者の中からかなりの数の女性パイロットが誕生した。ルース・ロー、メリー・ビーシ、ヒルドリー・ヒューレー、キャサリーン・スチールソン、パリエット・クインビー、マティルダ・モイサントらである。彼女らの意図はこの世界に入り込んでいれば女性も飛行機に乗ることを許されるであろうという見地からであった。【ビーキーの曲芸飛行】
 曲芸飛行のうち空中がえりで有名だったのはリンカーン・ビーキーであった。彼は生涯を通して1000回以上の宙返りを1700万人の前でみせた。彼は自動車レーサーとのレースも複葉機を用いて行った。ビーキーは曲芸飛行中に載せていた乗客のバランスが狂ったために墜落し死亡した。飛行士の中で曲芸飛行によってなくなったものは少なくなかった。パリエット・クインビーもこのような事故でなくなったが、彼女こそ女性として初めて英仏海峡を飛行したパイロットであった。しかし飛行機は未知の天空へと人類を導いたのである。 
【第1次世界大戦の偵察機】
 1917年4月アメリカはドイツと交戦状態に入った。アメリカ合衆国第28代(1913-1921)大統領ウイルソン(1856-1924)は民主主義のために戦うことを宣言した。アメリカ人パイロットがフランス空軍に志願しその翌年複葉機に乗った鼻っ柱の強い若いアメリカ人による空中戦がヨーロッパの大空で繰り広げられた。生還するごとに彼らの操縦技術は上達していった。
当時の飛行機の任務は偵察が主であった。その後戦闘機が開発され、戦闘機同士の空中戦が繰り広げられ数多くのパイロットたちが戦死していった。アルバトロス、ニュー・フォーク、スパッド、ソッフィース・キャメルなどの新鋭機が続々と作られた。アブロ504はすばらしい戦闘機であった。この複葉機は操縦する腕が有れば、たった4時間で充分調教可能であった。スパッドはしかしかなりジャジャ馬であったらしい。空中戦で撃墜王が誕生した。フランスのレネ・フォンクス。カナダのビリー・ビショップは72機を撃墜した。赤い男爵ドイツのマーグレッド・リヒト・フォン・フォーク。シャルル・ヌゲッサー。ジュルジュ・グイ。ワーナー・ボス。アメリカではグフベリ。リリー・ミッチェルの部下のエドワード・リッケンバッカー大尉らが活躍した。

【大戦の顛末】
 1918年11月11日、ドイツが降伏しパリ講和会議とベルサイユ条約で民族対立などを背景とした第1次世界大戦が終わった。飛行士たちはその複葉機とともに故郷に還ってきた。彼らは飛行機を持ち帰るとともに飛ぶことの楽しさを広めた。彼らは不要になったDH4やカーチス・ジェニーをただ同然でもらい受けた。彼らは軍隊の紋章を塗りつぶし、アメリカ中を回って飛行ショーを行ったり荷物の運搬をして商売をした。遊覧飛行もやった。空中遊覧1回1ドル35秒間の飛行であった。お客は空を飛んでいる間立ち上がり、座る間もなかったほど感激していた。そして地上に降り立つと4人に1人は再び飛行するために観覧の列に並んだという。曲芸飛行士のおかげでどんなに小さな町の人々も空を飛ぶことを見近に感じとれたのである。大空を飛ぶ感激が彼らにはいかほどのものであったかが分かろうものである。パイロット・ヒーローの一人RC・リードは「でも、われわれは飛行士だった。空はわれわれ一人一人のものだった。それだけで満足であった」と語っている。
【飛行機による航空郵便サービス】
 1918年5月15日政府による航空郵便サービスが始まった。大統領ウィルソンも自分の書簡をこの62kgの郵便物の中に託しニューヨークへ運んだ。遊覧飛行や飛行ショーを行っていなかったパイロットの多くはこの国家行事である航空郵便サービスに就職口を見つけた。1924年に軍用機のDH4がニューヨークからサンフランシスコに郵便物を運んだ。これが始めてのアメリカ大陸横断飛行であった。初期の航空郵便パイロット達は夜間やどんな天候でも飛行しなければならなかったため過酷な労働を強いられた。40人の郵政省航空郵便パイロットは徐々に減少し9人までに減少した。
【より速く】
 その一方で1923年から史上最大最重量のバーリング三葉爆撃機の試験飛行が始まっていた。飛行機の性能は機体計器に関してかなりのレベルまで達していた。最も華やかに活動していたのはジミー・ドウ・リットルであった。向こう見ずな反面彼は優れた技術を持つパイロットであった。1925年10月シュナイダー国際飛行機レースでドウ・リットルはR32水上単葉飛行機で時速373kmの新記録を樹立し優勝した。大胆な若者による大記録に世界中がわきたった。彼らは飛ぶことでは満足せずに新しい機体を作ることにも熱血を注いだ。

【より長く】
 フォッカーT2型は初めて無着陸大陸横断に成功した。1923年2人のパイロットがロング・アイランドからサンディゴへ飛び27時間弱で横断をはたした。翌年にはダグラス・ワールド・クルーザーが4機出発し、その2機が世界1周をして還ってきた。その1機はここに保存されている。彼らは6カ月間に70回着陸し世界1周した。
【飛行機による北極点到達】
 1926年リチャード・バード(1888-1957)海軍中佐とパイロットのベネットは巨大なフォッカー機で極地航空探検を企て、5月9日にアムンゼンより3日前に北極飛行に成功。北極点に到達し戻ってくる世界初の偉業を達成した。1909年にペリー提督が北極点に人類最初の足跡を残した17年後、バード海軍中佐とパイロットのベネットは北極点の真上を初めて飛行した。しかし空の征服はまだ始まったばかりであった。
【チャールズ・リンドバーグ登場】
 もう一人の若いパイロット、チャールズ・アウグスツス・リンドバーグ(1902-1974)が愛機スピリット・オブ・セントルイス号で空の征服に旅立った。そして単身最初の大西洋横断無着陸飛行(ニューヨーク・パリ間)に成功した。空へのあくなき挑戦はダビンチ、ケーリ、ライト兄弟、リンドバーグらによって受け継がれていった。
 
2.航空黄金狂時代
【リンドバーグとスピリット・オブ・セントルイス号】
 1903年ライト兄弟の飛行機がキティ・ホークの空に舞い上がった24年後の1927年5月21日、大西洋単独無着陸横断にチャールズ・リンドバーグが単葉の愛機スピリット・オブ・セントルイス号で成功した。ライト兄弟の飛行後の4分の1世紀たったこの当時でも飛行は危険で無謀な行為であったことには変わりなかった。
【危険から安全な飛行機へ】
 リンドバーグがニューヨークからパリまでの無着陸横断に成功すると大衆の飛行に対する考えは徐々に安全なものへと変わっていった。若くて背が高くスリムでハンサムなこの青年の快挙は航空機への大衆の考えを一変させるのに充分であった。この若者が大空という新しい空間を開拓したのであった。ニューヨークを出発してから33時間30分後、パリのル・フォルジュ空港は彼の快挙を祝う人々の出迎えで混雑していた。彼の飛行はまた新しい信頼できるエンジン、磁気誘導コンパスなどの性能を試す実験場でもあった。まだ飛行機に乗客を載せて大西洋を横断するのはまだ困難であったが、遠からぬ将来にその日がやってくることは誰の目にも明かであった。リンドバーグは飛行機が安全な乗り物であり確実に操縦すれば地球上の地点に確実に到達できることを証明したのであった。
【時間に正確な飛行機】
 飛行機は便利な道具になったのである。リンドバーグはアメリカ中をスケジュール通りに飛んで見せ、大衆に飛行機は安全で時間に正確であることを示したのである。多くの企業は政府と郵便物配送の契約を結び、さらに航空機は乗客を載せることを考えるようになった。
【航空産業の発達】
 リンドバーグの成功は旅行者の注意を空に引きつけただけでなく、航空機産業の注目をも集めた。アメリカでの航空輸送に関する考えは180度の転換を示した。1910年からツェッペリン飛行船で始まっていた。しかし飛行機による旅客輸送は費用の点からも依然夢の事業であった。1920年代の後半パイロットや企業家の間で飛行機による旅客輸送が可能であるということが理解されるようになってきていた。アメリカではリンドバーグの成功以後、多くの航空会社が設立された。
【エアラインの人気】
 シー・ボード・エアラインという航空会社の株価が高騰するという事件があった。この会社は実は鉄道会社であったが、人々は「エア・ライン」という会社の名前から航空会社と勘違いして多大な投資を試みたのであった。
【旅客機の出現】
 旅客を乗せた複葉機の名前はボーイング40といい客用に開発されたキャビンを持っていた。本機はパイロットと2人の乗客、荷物と郵便物を乗せ飛び立った。狭いキャビンに閉じこめられた乗客はきっと途中の給油地点が待ち遠しかったに違いない。多くの旅客が飛行機に乗りたがった。ラスベガスで荷物の変わりに乗せてくれとせがんだ乗客もいた彼らのひとりは時間が貴重であった新聞記者であった。
【商用飛行とトライモーター】
 やがて飛行機は航空会社が運賃をとる商用飛行の手段へと変換していく。大きな飛行機の開発にはフォード社が1928年にフォード・トライモーターという大きなエンジンの開発が大きく貢献した。三発のエンジンと暖房と大きなキャビンで14人の乗客を乗せることがトライモーターの特徴であった。機体は金属でできていたので非常に頑丈であった。300kmから500kmの距離を飛ぶことが可能であった。採算をとろうとする会社は競ってフォード・トライモーターを導入した。キャビンには照明が輝き暖房がなされていた。1931年にはスティンソンが飛行したがこの機も同様に三発エンジンであった。乗客は双発より1つエンジンが多い三発のこれらの飛行機の方が安全だと感じていた。これら三発飛行機の寿命はしかし短く、DC2やDC3が登場する1936年頃にはこれらは蔭を潜めていった。スチュワーデスはフォード・トライモーターの室内は実際はやかましく夏は暑く冬は寒かったという。通路が凍りよく滑ったともいう。
【ボーイング247】
 1933年革命的な飛行機が登場した。アメリカ発の総金属ツイン・エンジンのボーイング247である。この機は旅客機と呼べる最初の飛行機で、最大の特徴は速いということであった。時速250kmという高速で巡航した。このおかげで大西洋を1日かけずに横断できた。以前のフォード・トライモーターは時速140kmであったので、大西洋横断には2日は要した。1927年飛行機を利用した旅行者は1万9千人ほどであったが、1931年には40万人に達していた。しかしこれは商業航空のほんの始まりに過ぎなかった。
【世界を結んだ飛行艇チャイナ・クリッパー】
 パン・アメリカンの創始者であるパン・トリップは全世界を航空機で結ぶ壮大な構想を持っていた。この時代優れた空港がまだなかったので、彼は飛行艇を選びその目的を達成しようとした。カリフォルニア州のアラミダ空港では4基のエンジンを持った巨大な長距離飛行艇チャイナ・クリッパーが処女飛行をしようとしていた。機長のエドウイン・ミュージック以下6人のクルーを載せた巨大な飛行艇はホノルルへ向けて飛び立とうとしていた。世界を視野にいれたトリップの努力はパイオニアと呼ぶにふさわしいものであった。彼は合計3機の飛行艇を就航させた。これらの飛行艇は1939年ボーイング314にとって変わられるまで第1線で活躍した。最大の飛行艇で高級間あふれる飛行機の一つがボーイング314クリッパーであった。ボーイング314クリッパーは当時の人々の知る限りいちばん贅沢な飛行機であった。乗客にはコンパートメントが用意され、夜になるとここが寝台に変わった。食堂用のコンパートメントにはテーブルが4つもあった。パイロットには大きなコックピットとベッドが与えられナビゲータやエンジニアにも広いスペースがさかれていた。この飛行機の出現以来、旅客や乗員は12時間から16時間空の上にいることは普通のこととなった。サンフランシスコからホノルルまでの距離はおよそ3800kmでボーイング314で無給油飛行できる距離の限界であった。向かい風が強いと到着できないこともあった。いちばん頭を悩ませたのは偏西風に逆行して飛ぶホノルルへ無事到着できるかという問題であった。航路の途中で偏西風が強く燃料不十分で到着が困難と分かり引き返すこともよくあった。大空の飛行を語るとき、このパンナムの飛行艇クリッパーは特別な位置を占めていた。この飛行機は人々を地球の隅々まで送り届けてくれたのである。それまで長い船旅でしか見ることのできなかった異国の風景を手の届く場所に変えてくれたのであった。
【ダグラスDC3】
 しかしわれわれの夢をかなえ運んでくれた伝説の飛行機といえばやはりDC3であろう。テクノロジーの発達によりダグラスDCシリーズが登場して本当の旅客航空の時代が到来したといえよう。DC3は旅客輸送に革命を与えたばかりでなく、航空産業にも革命をもたらした。カリフォルニアの工場でDC1が組み立てられているときに有名な技術者が工場を訪問した。彼はDC1の写真をとるとイギリスに戻り同僚にその写真を見せた。ところがその同僚は誰一人信じようとしなかった。彼らはハリウッドのセットか何かだと思ったという。それぐらいDCシリーズは優れていた。双発旅客機のDCシリーズはまず試作機の双発機DC1で幕をあけた。続いてDC2が発表され1936年DC3がアメリカン航空に就航し1930年代を代表する旅客機となった。DC3のおかげで航空会社は黒字経営が可能となった。それまでアメリカン航空は毎年赤字続きであった。この驚異の飛行機はニューヨークとシカゴ間に就航した。
【スチュワーデスの登場】
 それからの4年間でアメリカの全航空会社の80%以上がDC3に乗るようになった。各航空会社間で乗客の奪い合いが始まると行き着かぬ会社は女性のスチュワーデスを雇い乗客を満足させることを始めた。彼女達は乗客にサービスするのみでなく荷物の積みおろし、飛行機の操縦、果てはパイロットと一緒に飛行機を格納庫に入れるという作業までをこなさなければならなかった。この時期のスチュワーデスは看護婦の勉強も終えていないと飛行機には乗れなかった。しかしパイロットは女性に職場を汚されるのを嫌がり彼らと彼女らでずいぶん対立もあったという。しかし彼女らは人とので合いに生きがいを見出し、つらい様子や恐怖の様子は一つも見せなかったという。
【より速く・より高く・より長く】
 その一方で飛行機の速さ、高さ、後続距離は挑戦したものたちもいる。1931年3月7日ジャージ空港ではルウス・ニコルソンが女性の高度上昇記録に挑んだ。ラジオ業界の有力者ハロルド・クロスリー・Jrの所有するジャック・ノースロップ開発のロッキード・ベガの機体に乗って彼女は上昇飛行を開始した。それからT時間30分後、深紅とクリーム色に塗られたベガの機体は再びジャージ空港の上空に姿を現し着陸した。
【ロッキード・ベガ】
 1927年にこの飛行機は開発された。ジャック・ノースロップはできるだけすっきりとした飛行機を作ろうとした。今までの一般的な飛行機は支柱やワイヤが多く流線型の形にはほど遠かったので、彼は1枚の主翼を胴体にとりつけることでより少ない力で飛行機を飛ばすことができると考えた。1931年ワイリー・ポストはナビゲータとともにウイニー・メイ号と名づけたロッキード・ベガに乗り込み8日間と15時間で世界1周旅行に成功した。2年後ポストは単独世界1周旅行に挑み自分自身の記録を1日近くも縮めた。ポストは今度は高度飛行に挑んだ。スーパー・チャージャーを装備したウイニー・メイ号は9000mの高度に達し、時速540kmを記録した。彼はジェット気流に乗った最初のパイロットになった。リンドバーグやほかの挑戦者も負けてはいなかった。スピリット・オブ・セントルイス号がフランスに着陸してから2カ月後陸軍パイロットのヘゲン・バーガーとメイトリンはカリフォルニア州オークランドを離陸してハワイに向かう世界最長の海上飛行に挑んだ。ヘゲンバーガーはメイトリンと協力して自ら開発した計器を使って太平洋に浮かぶ島を目印に約24時間かけてハワイに無事到着した。ワイリー・ポストが単独世界1周飛行に成功したとおなじ年、女性パイロットのアメリア・エアハートは愛機ロッキード・ベガでニュー・ファンドランドからアイルランドに飛び女性初の単独大西洋横断に成功した。それから3カ月後、彼女は女性初のアメリカ大陸横断に成功した。1935年ホノルルのウイーバー空港からアメリア・エア・ハートがとびたった。飛行機は1896Lのガソリンを積み3840kmの行程をへてカリフォルニア州オークランドに着陸した。
【ハワード・ヒューズの飛行】
 変わりものの億万長者でパイロットのハワード・ヒューズは世界最高時速530.2kmを樹立した。それから3年後ヒューズはロッキード14で世界1周を3日19時間17分でおこなった。ワイリー・ポストの記録をおよそ半分に縮めた。【さらなる最高速への挑戦】
 1930年代のアメリカ人の心をわきたたせたのはスピードへの挑戦であった。大恐慌の苦しい時代でさえもクリーブランドで行われた航空レースは数10万人もの熱狂的なファンを集めた。シュナイダー、ベンディックス、トンプソンといったトロフィーを争い飛行士が集まってきた。なかでも1930年から授与されているルイ・ブレリー・スピードトロフィーが彼らの速度に拍車をかけた。スピードは常に人々のあこがれの的であった。グレン・カーチスがゴードン・ベネットカップレースで初優勝して以来、パイロットたちのスピードのへの挑戦は過激化していた。賞金の多さと機体やエンジンが発達したのもその理由であった。
【GBレーサー】
 当時最も速かった飛行機は、グランミル兄弟が設計、製作したGBレーサーであった。マンボウのような危険な飛行機GBレーサーでジミー・ドウ・リットルがR1型で時速474.8kmを出して以来この機は国際的評価を勝ち得ていた。時代の象徴ともいうべきGBはパイロットを死亡させてしまうことでも有名な飛行機であった。中には史上最も不安定な飛行機と呼ぶものさえいた。ドウ・リットルもGBのことを自分がかって操縦した中で最も危険な飛行機だと語っている。GBは陸軍の最も速い飛行機の2倍も速かった。設計したグランミル兄弟5人は農家の出で正式な学校教育を受けていなかったが、彼らが設計製作した飛行機が4年間も最高速度を破られなかったのには驚嘆させられる。彼らは1930年代にZモデルを開発した。そしてレースに出場しては多額の金を稼いだ。それを資金にしてRモデルを製作した。Rモデルは頑丈に作られていた。時速729km、14Gにも耐えられるように設計されていた。しかしRモデルはその潜在能力を発揮する前に事故で壊れてしまった。GBはこのように6年間も人々にスピードの興奮を与え続けた。
【航空ショー】
 飛行機は近代の科学技術の最後に登場したため、スピードや操縦技術は一般に理解されがたい面があった。しかしパイロットと観客はともに空を飛ぶ興奮をわかちあった。これは現在の航空ショーの代表であるブルーエンジェルスにも受け継がれている。
【美しい飛行機たち】
 速度を求める一方には、美しい飛行機を作る人々がいた。1930年代、多くの設計者が均整のとれた美しさと優雅さを持った航空機を産みだした。ビーチ・スタッガー・ウイング、ライアンST、フリート、グレート・レークスなどは形態と機能の美しさをバランスしてみせた。それらは空のスポーツカーと呼ばれてもおかしくなかった。コックピットで風を感じられる反面、操縦に高等技術を要した。
【第2次世界大戦で飛行機は戦闘機へ】
 1930年代の後半大空への夢は悪夢へと変わった。戦争が航空機の実験の場となった。航空機が若者を乗せヨーロッパや太平洋の戦場へと運んだ。1939年9月T日夜明けとともにヒトラー率いるドイツ軍はのポーランド侵攻を開始した。ポーランドは虚をつかれ滅んだ。スチューカ爆撃機の轟音とともに第2次世界大戦が勃発した。今日はドイツ、明日は世界というヒトラーの脅迫は現実のものになった。この戦争の始まる20年前にアメリカ大統領ウイルソンは将来の戦争は航空機が主力でなるであろうと予告した。第1次世界大戦ではわき役でしかなかった航空機は第2次世界大戦では中心的な役割を果たすこととなった。空軍力が優勢なドイツ軍は1940年には北はデンマークをこえノルウエーまで、南はオランダ、ベルギーをとおってフランスに迫った。

田中氏より 現中華人民共和国に飛来していた九六式艦上戦闘機

【ドイツ軍優位の空軍力】
 ヒトラー(Adolf Hitler 1889-1945オーストリア)の軍隊チェコ侵攻の時、ドイツ軍は4000機の航空機を揃えていたのに対し、アメリカ陸軍航空隊には軍用機が1000機にも満たなかった。ドイツ空軍が1939年と1940年にみせた快進撃は弱い国を相手にしたものだった。1940年6月22日フランス軍が降伏した後、ドイツ空軍の征服する相手はイギリス空軍のみであった。西ヨーロッパ全土を手中に納めようとするドイツ空軍は英仏海峡を越えイギリス本土に迫った。
【イギリスの反撃】
 ところがイギリス空軍の優秀な戦闘機スピットファイヤー、ハリケーンがドイツ軍を初めて苦しめた。英軍のパイロットたちは全員よく訓練されていた。ドイツ軍ゲーリングが送り込んだ航空機はあえなく英国の空に消えていった。イギリス空軍はドイツ空軍を見事に英仏海峡の向こうに追い払った。
【アメリカの戦闘機】
 この時期アメリカでは陸軍はまだ複葉機をし要していた。しかし航空技術の革新は着々と進んでいた。ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt 1882-1945米)大統領(1933-1945)は、「アメリカは年間少なくとも5万機の航空機を生産できる準備体制にはいるべきである」と語った。航空機の数は当初少なかったものの、アメリカは経験とアイデアに富んでいた。飛行機レースの記録樹立に積み上げた10年間は優秀な軍用機を開発する上で非常に役立った。ヒューズが速度記録を樹立した飛行機に登載されていたエンジン、フラット・アンド・ホイットニー・エンジンはただちに戦闘機に使われ、ポストをジェット機流に乗せたスーパーチャージャーは爆撃機のエンジンに応用された。徐々にアメリカの軍用機は最強の戦闘機となっていった。ライトニング、ヘルキャット、コルセア、サンダーボルトの名は伝説になっている。P51ムスタングは他の戦闘機の飛行経験豊かな操縦士には操縦士易い部類であったが、新米パイロットにはやはり荒馬で乗りこなすには手ごわかったらしい。P40は頑丈で旋回性能はゼロ戦に劣るものの、パイロットとエンジニアが共同して製作したもので究極の戦闘機であった。飛行速度、居住性、火力どれも最高であった。なかでも耐久性は抜群でゼロ戦と接触し片翼を半分以上破損しても充分戦闘可能であった。
【戦争のむなしさ】
 「戦争というものはゲームでも駆け引きでもない。生か死という問題なのだ」と空中戦の英雄バド・アンダーソンはいう。「戦争は父親から息子を奪い、子供から父親を奪い、妻から夫を奪い母親から息子を奪うものだ。戦争はなにも解決しない」と別の元パイロットはいう。3 より高く、より速く、より遠く
【ジェット機の登場】
 ジェット時代の幕開けは1930年代後半であった。第2次世界大戦中に二人のエンジニアがほぼ同時にジェットエンジンを開発した。イギリスのフランク・ホイットニーとドイツのハンス・フォン・オハインである。ドイツは第2次世界大戦終了までに相当の数のジェット戦闘機を生産していた。1941年5月にイギリスはブロスターキーB2839ジェット機を開発したが、この時期は戦争中でありイギリスのみではそれ以上の開発は困難であった。そこで英国はアメリカのアーノルド将軍がイギリスに招き、ここでジェット機開発におけるイギリスとアメリカの提携が生じた。すなわちイギリス開発のホイットニー・エンジンがアメリカのゼネラル・エレクトリック社にわたりアメリカでの開発はドイツ軍に漏れないよう極秘で行われた。開発内容を知っていた研究者は15人未満であった。

【ベルXP−59】
 1942年初のジェット機のベルXP−59が試験飛行された。ローレンス・クレディ大佐が初飛行の責をはたした。この初飛行は実験段階エンジンで行われた。ゼネラル・エレクトリック社は経営に慎重な会社であったので開発中のエンジンを保護する目的でエンジン出力を50%に抑え初飛行を行った。その結果、この飛行実験では実験機はわずかに4kmを飛んだのみであった。しかしジェットエンジンを積んだ飛行機は静かであったという。逆にレシプロ(回転)エンジンの場合には離陸の瞬間にはエンジン回転は最高になり、エンジンと機体が最大の振動になるのが常であった。ジェット機は第2次世界大戦の実戦では使用されなかったがその技術が未来に向かって大きなうねりとなったことは確かであった。

【ロッキードP80シューティング・スター】
 第2次世界大戦が終わり、アメリカ連合空軍はより速く飛べるジェット機の開発に力を注いだ。その草分けが、まっすぐな翼の両翼に燃料タンクを登載したロッキードP80シューティング・スターであった。この新世代のジェット機は速度、飛行高度ともに従来のプロペラ機に格段に勝っていた。しかしこの亜音速のジェット機には乗り越えなければならない問題があった。それは飛行機が音速に近づくと音速の壁と呼ばれる現象が起こり、時には致命的な事故が生じたことである。音速近くでジェット機はまるで空中戦に入ったように機体が大きく振動した。これが衝撃波である。

【ミグ15とF86セイバー】
 1950年の朝鮮戦争におけるソビエトのミグ15戦闘機の出現、さらにF86セイバーの応戦は世界初のジェット機同士の戦いであった。
【ロッキード・コンステレーション、ダグラスDC4とKC97】
 第2次世界大戦は商用航空機にも影響を与えた。戦時中に海を越えて飛行するためには4発エンジンの輸送機が必要であったが、この軍用飛行機のノウハウが商用旅客機へ応用された。なかでも4発エンジンを持つロッキード・コンステレーションは最も優雅な飛行機であった。ダグラスDC4旅客機はダグラス社がロッキード社に対抗した飛行機であった。DC4は40年代初期のデザインをもち戦争中に軍隊の輸送用に用いられ飛行機を踏襲したものである。第2次世界大戦中には主として輸送手段は海運に頼り、KC97とよばれる輸送タンカーが大洋を航行した。終戦後は海運は衰退の一途をたどり、それに代わってボーイング・ストラト・クルーザーに代表される輸送機が役を担った。本機の思想は民間航空に移入されかくして旅客航空移送産業が発展した。
【コメット】
戦時中の1941年、イギリスのデハビランド社は新しいジェット戦闘機を開発し、これがデハビランド・バンパイヤ戦闘機となった。なんとかしてこのすばらしいバンパイヤ戦闘機の性能を取り入れた民間航空機を作れないものか、と開発陣が試行錯誤ののち完成したのが1952年発表されたコメット機であった。しかしバンパイヤ戦闘機と違って本機は旅客機であり大きいため、想像もしなかった金属疲労が問題になった。この時期、冶金学でも金属疲労のことはよく理解されていなかった。このためかコメットは2度の大きな墜落事故をした。この失敗にもめげず、技術者たちは金属疲労に負けない、より速く、より遠く飛べる旅客機の開発を目指した。
【ボーイング707とダグラスDC8】
 1952年ワシントン州シアトルではボーイング社が実益の25%にあたる1600万ドルを投入して試作機’80が開発された。この試作機の後、ボーイング707が開発され華々しく就航した。この事件は、1958年にパン・アメリカン社においてボーイング707さらにはダグラスDC8を就航させることとなった。これらの両機は名前こそ異なっていたものの経営母体は同一でダグラスの経営権はボーイング社が持っていた。
【効率よいジェット機】
 プロペラ機に比べジェット機の登場は航空輸送手段として格段に効率がよいものとなった。1960年から70年代にかけ巨大なジェット旅客機が登場し、ボーイング社がボーイング747ジャンボ・ジェットを、ダグラス社がダグラスDC10、ロッキード社がロッキードL1011トライスターを発表した。


【最速の旅客機コンコルド】
 しかし中には経済性を無視した異風な旅客機も開発された。それが速度のみを追求し、音速の2倍でニューヨークとロンドン間を4時間で結ぶ飛行機である。このジェット旅客機は、鶴のような先端と空気抵抗の少なそうな三角翼と翼の中に収納された四発ジェットエンジンをもつ。1975年にイギリスとフランスの共同で開発されたコンコルド(concord=一致するという意味)の出現である。
【超音速への挑戦】
 それでもジェット機は1947年までは音速を越えることはなかった。より速くという開発者の意欲は飛行高度をより高くし、空気抵抗をより少なくし、強力なジェットエンジンで速度を稼ごうというものであった。その主たる研究基地はエドワード空軍基地であり多くの開発機がここで試験飛行をしていた。ジェット機の開発と並行して空気のない場所でも飛ぶことのできるロケットエンジン機の開発がこのエドワード基地内で行われていた。
【ベルX1で音速の世界へ】
 アメリカ初のロケットエンジン機であるベルX1は空中の大型要塞B29に抱かれこの腹部から発進された。しかし成層圏の中では音速を出すことは至難の仕事であった。このときのベルX1は亜音速を出したもののそれまでの最高速度である音速の82%を越すことが精いっぱいであった。
 1947年チャック・イエーガーは10月14日にX1の9回目のテストに望んだ。彼は乗馬で肋骨を2本折っていたが、クルーに「大丈夫か」と聞かれ、「大丈夫さ早くやっつけようぜ」と大空に飛び立ったマッハ0.94に達したとき機体がコントロールしがたくなったが、水平安定装置がそれを助けた。X1はマッハ1を越えた。それからは速度の記録は続々と生まれた。1953年11月20日にダグラスD5582はマッハ2を記録した。
【ロケットエンジンのX15】
 ロケットエンジンのX15は10万7千mの高度を飛び、固定翼を持つ飛行機としてマッハ6・7の記録を樹立した。大気圏を通過してこの機は生還した。さらに1950年のはじめには32トンの推進力を持つロケットエンジンも完成していた。この時期から人類はロケットによる宇宙飛行が可能になると想いだしそれは後にスペースシャトルとして応用された。スペースシャトルが成功した時にチャック・イエーガー(現在は退役しているが元アメリカ空軍准将)は「実はわれわれはX15で宇宙旅行を計画していたんだ」と語ったという。さらにウイリアム・ナイトは「X15で宇宙旅行できたよ」、スコット・クロスフィールドは「われわれは1958年にX15で宇宙の軌道飛行を計画していたんだ」とも語った。
【フォン・ブラウン】
 エドワード基地から3200kmはなれたアラバマ州レッドストーン・アースナリーでは別の方法で人類が宇宙に挑もうとしていた。責任者フォン・ブラウンは1960年代の終わりまでには月に人類を送ると決心していた。彼は壮大な計画の膨大な資金を調達するためにさらに支援を得るためにロータリー・クラブやキワニス・クラブで演説し、彼は壮大なプロジェクトの資金集めをした。この両基地の開発競争は人類をますます宇宙に近づけることとなった。
【大気圏の障害と宇宙ロケットの形】
 宇宙ロケットの大気圏に突入する際の膨大な熱などのために機の形をどうするかが問題であった。素材の問題もあった。宇宙ロケットは弾道ミサイル型か翼付きロケットかいずれを選択するかアメリカの彼らは迷った。しかし1957年10月アメリカの裏側でソ連がカザグスタン平原から弾道ミサイル型でわずか84kgの人工衛星スプートニク打ち上げに成功したことにより宇宙ロケットの形は決定した。
【エクスプローラ1号】
 1957年バンガードミサイルによる宇宙船打ち上げの失敗などでソ連に遅れること3カ月、米国はアラバマ州のレッドストーン・アースナリーからフォン・ブラウン開発のジュピターCミサイルに乗ったエクスプローラ1号の打ち上げに成功した。月をねらう熾烈な米ソの競争が始まった。
【マーキュリー計画】
 1958年からアメリカはマーキュリー計画をスタートさせた。この計画は有人宇宙飛行船を打ち上げることであった。1959年4月時点における宇宙飛行士チームはアラン・シェファー、ジョン・グレン、スコット・カーペンター、ゴードン・クーパー、ディーク・スレイトン、ウオリー・シラー、ガス・グリソンの7人であった。1961年のケープカナベラル第5ロケット打ち上げ場ではレッドストーン・ロケットが打ち上げの瞬間を待っていた。

【最初の有人宇宙飛行】
 しかしソ連では1961年4月11日9時7分(モスクワ時間)有人宇宙衛星打ち上げに成功。ユーリー・ガガーリンは「何度も宇宙を見たがそこには神の姿はみられなかった」と語った。この報を聞いたアメリカ陣のフォン・ブラウンは「これでは月に着いたときにはアメリカはソ連の税関をとおらなければならない」と冗談めいたがそこで奮起した。
【アメリカの有人宇宙飛行】
 アメリカは有人宇宙飛行でもソ連に出鼻をくじかれた。しかしアメリカもその直後に有人宇宙船を打ち上げた。アメリカで一番の宇宙飛行の栄誉に浴したのは動物の名前をした宇宙飛行士であった。マーキュリー計画スタートから2年半後の1961年5月1日アラン・シェパード飛行士がケープ・カナベラル宇宙基地から宇宙に打ち上げられた。この計画はフリーダム7計画と名づけられアメリカもついに宇宙に人類を送り込んだ。しかしパイロットであった7人のうちの一人は「有人宇宙飛行というのは動物愛護協会の反対があったためで動物を乗せられないので代わりにわれわれ人類が乗っただけである」というのである1961年5月27日アメリカ大統領ジョン・F・ケネディは「アメリカは1960年代の終わりまでに人類を月面に到着させ無事地球に帰還させる目標を達成するであろう」と語った。さらに「アポロ計画は人類にとって最も衝撃的で長期宇宙開発においても重要なものになるであろう」とも言った。
【マーキュリー計画の成功】
 アトラスロケットに乗ったジョン・グレンが周回軌道人工衛星で地球の3周回4時間55分の飛行に成功し、宇宙船から日の出と日の入りを見た最初のアメリカ人となった。ジョン・グレンは一躍ヒーローになった。マーキュリー計画の第1の目標である人類を地球周回軌道に乗せ無事帰還させるという実験に成功したのである。
【ジェミニ計画】
 この後マーキュリー計画はジェミニ計画に引き継がれ月面到着にまた一歩近づくこととなった。10回に渡ったジェミニ計画からアポロ計画に引き継がれた。【アポロ計画】
 ジェミニ4号のエドワードホワイトは1965年6月に22分間の宇宙遊泳に成功し「生涯で最も幸せな時間だ。今逆立ちして下を眺めているカリフォルニアの海岸線がとてもよく見える」と語った。1965年12月にジェミニ7号のフランク・ボーマンとジェームズ・ラベルは14日間の最長宇宙滞在期間を記録したのみでなくウオリー・シラーとトム・スタフォードの乗るジェミニ6号との世界発のランデブーに成功した。
【月面着陸】
 ソ連の無人飛行船がカザフスタンの発射台から宇宙に向かった。ここでソ連のルナ9号が発射され見事に月面軟着陸に成功した。しかしこの報道は米国には周知されなかった。
 米国では1969年7月16日午前4時30分にニール・アームストロング、バズ・オルトリン、マイケル・コリンズの3人は打ち上げ前の最後のチェックをしていた。外ではテレビのライトがロケットを照らしココア・ビーチでカウント・ダウン・パーティーが繰り広げられた。そして人々はアポロ11号打ち上げの瞬間を待ちわびていた。世界中から3000人の報道陣が押し寄せ、ヒューストンの報道管制センター内には1000人もの関係者が集まり人類の歴史に残る偉大な冒険に息を呑んでいた。「人類の歴史上、あれほど興奮でわき返ったことはなかった」とニュースキャスターのウオルター・クロンカイトは語る。フォン・ブラウンやロケット科学者は当然であるが、飛行士たちはこのアポロ月着陸計画に文字どおり命をかけていたのである。飛行士を乗せた車がロケット発射台39Aに向かった。午前6時52分、3人の飛行士は宇宙船の中に入り、ハッチが閉められた。宇宙への孤独な旅が始まるのだ。「こちら管制塔、打ち上げ6分前。アポロ11号の秒読みにはいる」ヒューストンの飛行管制センターでは打ち上げ体制にはいった。自信と不安の空気が複雑に管制塔の部屋中にみなぎった。「こちら管制塔。発射前1分35秒。防水タンクに加圧を開始。すべて作動。チェックボードで確認中」「発射60秒前」。サターン5型ロケットはまるで天に昇るドラゴンのように尻から蒸気をもくもくと吹き出していた。飛行管制センターでは、行く手に立ちはだかる危険にエンジニア、飛行関係者が備えていた。考えられるあらゆる非常事態に対応する訓練にこの3人の飛行士は習熟していたので、彼らの心配はそれ以外の予期せぬ不備への不安であった。「発射40秒前」。ヂーク・スレイトンは飛行士たちの体調に注意した。彼らはストレスと飛行前の長期訓練で疲れていたが、体調はよいと報告した。「第2段ロケットに世圧中。35秒前、アポロ11号異常なし」「30秒前」「飛行士の体調は良好」「発射25秒前」「20秒前、誘導装置確認」「15秒前、秒読みを続ける 12、11、10、9、8、7、エンジン点火開始、6、5、4、3、2、1、0、全エンジン稼働」「発射。32分遅れて発射。アポロ11号発射」火柱と轟音をあげてサターンロケットは上昇してゆく。全員がその行く手を見守る。F15離陸リンク(いずれの画像も自衛隊広報室提供)
 それはまるで勇気以外の何物でもない塊の宇宙飛行士による快挙であった。ココア・ビーチからサターンロケットで打ち上げられたアポロ11号のニール・アームストロング船長は人類で初めて月面「静の海」に第一歩を記した。月面着陸軌道にはいれば速度修正のみでよい。「イーグルに乗り込んだ」「了解、様子はどうだ」「羽が生えたみたいだ」「了解、出力制限せよ」「高度6400m、すべて順調」「秒速360mで降りる」「もう少し前だ。少し右に傾いている」「着陸した。オーケー、エンジン停止」「イーグル聞こえる」「こちら『静の海』基地」この瞬間、バズ・オルドリンと船長のニール・アームストロングは顔を見合わせオルドリンが船長の背中を軽く叩いた。その瞬間彼らには人類の長年の夢を成し遂げたのだという実感がこみ上げたという。この人類最大の冒険に挑戦するものに選ばれたということは大変な好運であった。「これから月面に降りる。一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な一歩である」とアームストロング船長は語った。月の表面に降り立ったとき美しく荒涼とした世界という言葉がパッと浮かんだという。人類の偉大の仕事を成し遂げたにもかかわらずそこは荒涼とした世界で人をよせつけぬ不毛の月面であったことも確かだった。景色を楽しむという面では非常に独特の世界であった。アポロ11号が火の球となって時速4万kmで地球に帰還した。アメリカ大統領ニクソンが彼らを出迎えた。アポロ12号でジム・ラベルは月面の豊かの海を月面旅行車で旅行した。サーナン飛行士は宇宙遊泳をしながら「宇宙計画は人類全員の平和と調和に満ちた人類世界の象徴となって行くでしょう」と伝えてきた。アポロ17号までに合計12人が月面に降り立った。しかし人類の空を飛ぶ目的はまだ終わってはいない。ジュール・ベルヌ、HG・ウエルズ、フォン・ブラウンら先駆者の跡継ぎは多い。アポロ計画のあと、1973年春スカイラブ計画がはじまった。宇宙での生活である。1975年夏アポロ・ソユーズ計画が米国とソ連の宇宙の握手を可能にした。

【スペース・シャトル】
 1981年4月11日スペース・シャトル計画がコロンビアの秒読みで始まった。ジョン・ヤング、ロバート・クリッペンが高度208kmの軌道に乗った。人類共通の宇宙船が誕生したのである。エドワード空軍基地でははやくもスペース・シャトル計画が始まった。1981年4月12日アメリカ発のスペースシャトルコロンビアの打ち上げ秒読みが始まっていた。「15、14、13、12、・・・・メインエンジン、スタート。5秒前、メインエンジン点火。2、1、0、固体燃料ロケット・ブースター点火。シャトル発射」。3400トンの推進力の放つ轟音とともに機に乗ったジョン・ヤングとロバート・クリッペルは上空を上り詰めていった。上空100kmに達するとシャトルは水平軌道に近くなりマッハ25に到達すると地球から高度200kmの地球周回軌道にはいった。シャトルコロンビアは翼を持った航空機としての最高速度記録と最高高度記録を得ることとなった。地球を36周したのち地球に帰還した。チャック・イエーガー、ピート・ライド、スコット・クロスフィールドが歓声でこの機を迎えた。

【シャトルの打ち上げとその役割】
 シャトル打ち上げに際しては最初の2分間は固体燃料エンジンの激しい振動がパイロットを襲う。その後はシャトルのメイン・エンジンでなめらかに加速する。「アトランティス」からは無人惑星探査機「ガリレオ」と「マゼラン」が打ち上げられ木星や金星のデータを送ってきている。測りしれぬ科学への挑戦が結果として実を結びつつある。スペースシャトルにはその他に「チャレンジャー」「エンデバー」が揃っていたがこのうちチャレンジャーは1986年に10回目の宇宙飛行の時、不幸な爆発事故で宇宙の塵となった。チャレンジャーの事故は打ち上げの78秒後に生じた。民間から初めて登用された宇宙飛行士のクリスター・マコーリックも宇宙の彼方に消えていった。この事件後シャトルの爆発安全措置の見直しのための3年のブランクが生じた。1990年4月「ディスカバリー」からはNASA初の巨大宇宙天文台ハッブル宇宙望遠鏡が打ち上げられた。ハッブル宇宙望遠鏡は地上の望遠鏡の50倍の集光力を持ち、現在しられている宇宙の97%を観測すると考えられていた。しかしこの機器のテストで地球に送られる映像がぼやけることがわかった。この不完全な巨大天文台は3年後に、バレーのようにスペースシャトルの外で命綱を頼りに踊りながら必死でハッブル望遠鏡を修理するマスグレーブ・チーム(銀河宇宙参照)の努力による成功で現在は完動し鮮明な映像を地球に送るようになっている。

【ロケットの歴史】
 帝政ロシアのニコライU世のある学校の教師、コンスタンチン・ツオルコフスキーは月へ行く夢を抱いていた。彼は「反応の作用」という論理を展開し液体水素燃料で動くロケットを予見していた。これはジュール・ベルヌの描いたこれまでの火薬を燃料とするロケットとは異なっていた。
 その30年後、もう一人の想像力のたくましいロバート・ゴダードは月への旅行の夢を抱いた。1926年彼は最初の液体推進燃料を使ったロケットを打ち上げ、ツオルコフスキーが理論上到達していたことを実際に証明した。わずか2.5秒間で地上から12m飛んだだけのものであったが、人類を月に運ぶテクノロジーはこのとき開発されたものであった。
 ヘルマン・オーベルトはジュール・ベルヌやHGウエルズの著書を読んで育った。彼の著作である「惑星空間へのロケット」はロケット工学の概念をさらにひきついだのである。彼の生徒の中に18歳のベルナール・フォン・ブラウンがいた。後にドイツ人ロケット学者である彼がアメリカ人を月に送ったのである。フォン・ブラウンはかなり独創的な考えを持った科学者であった。いや夢想家であったといってもよい。そして飛び抜けて優秀なエンジニアでもあったのはいうまでもない。
 ソ連ではセウゲイ・コロレフが最初のロケット実験にのぞんでいた。そして世界最初の人工衛星スプートニク・1号の打ち上げに成功した。それは金属と針金でできた重さ84kgにも満たない物体であった。この成功が人類を月と宇宙に運ぶ引き金になったのである。

【宇宙への新たな挑戦】 
 宇宙は広大で無限で興味に満ちている。われわれの宇宙に対する次の目標は何か。宇宙のエネルギーの利用と宇宙への移住か。それとも知的宇宙生物との遭遇か。神話での地球外性物の記載の事実はわれわれの興味をそそる。宇宙に飛び出し過去に地球を訪れた彼らの痕跡を探る。もしくは宇宙へ旅立つ月の基地を作るか。宇宙ステーションを作るか。それを基地にして、もっと遠く、最も近い恒星ケンタウルス座α星まで到達するか。銀河には1000億もの恒星がある。そのなかの地球以外の応答生物の存在を知るSETI計画も始まっている。地球外知性探査計画である。われわれ意志の力と科学の力がこれらの計画を推進する。ジーン・ボーデンベルガーはスタードレックの生みの親である。その他、宇宙旅行を支える人々は多い。

【宇宙旅行のためのエネルギー】
 月は太陽系が発生したと同時にでき地球にぶつかり地球の周回軌道にとらえられた古い天体である。そのためか月にはヘリウム3が多い。未来のエネルギーヘリウム3から地球環境に優しい代替エネルギーを得る。もしくは月の太陽エネルギーを太陽電池で集めて光ファイバーにして地球に送る。火星を利用する構想もある。火星は航行可能な天体である。8カ月で宇宙船は火星に到達する。地球から6トンの水素を送り込み火星で108トンのメタン酸素をつくる。これを帰還のためのエネルギーとする。理論的には化学燃料ロケットの代替エネルギーである反物質により推進する反物質ロケットの構想がある。塩の粒ほどの3mgの反物質で今のスペースシャトルの推進エネルギーと同等のエネルギーが得られる。その他、太陽光を反射させそれを推進力として利用するソーラーエネルギーによる宇宙帆船の構想もある。太陽光子のエネルギーは非常に微弱であるが、このエネルギーを宇宙船の帆で受ける。宇宙には空気抵抗がない。微弱なエネルギーが積み重なると巨大な推進力が得られる。これらの構想を実現し、宇宙への旅立ちと帰還を繰り返すことが宇宙を知ることになる。
 1969年のケープカナベラルから宇宙計画は始まりさらにここから新たな宇宙計画が始まろうとしている。


月旅行 地球と月の バトミントン
そのこころは・・・・・本当はシャトルを使うつもりだった。  杉太郎


栄光と悲運の名機「ゼロ戦」

【アメリカ海軍のゼロ戦】
 太平洋戦争の最中、昭和17年秋、アメリカ海軍マークをつけた「零式艦上戦闘機(ゼロ戦)」がサンディエゴ上空を飛行していた。「ゼロ戦」の強力な戦闘力に手を焼いたアメリカ軍が捕獲した1機のテストしている姿である。この事件は技術開発と技術情報収拾の重要性を認識させるできごとであった。
【ゼロ戦の誕生】
 昭和12年7月7日、廬溝橋事件を契機とする日本の中国侵略戦争が生じた。昭和13年、日本は中国の主な都市、鉄道の沿線を侵略、中国は重慶に遷都して抗戦した。この戦争は長期化し、昭和16年12月太平洋戦争に発展した。この昭和15年の日中戦争の最中に「ゼロ戦」は完成し、戦火の中国最前線に投入され、太平洋戦争終結の昭和20年8月まで4年間にもわたり主力戦闘機として日本海軍に君臨し続けた。「ゼロ戦」は日本の栄光と悲惨を背負って飛んだ戦闘機ということができよう。
 技術の進歩の激しい条件にあって1機種が4年間もの長期に渡って一国の空に君臨し続けるということはきわめて希なことであった。そして「ゼロ戦」の話は感激も悲劇もこもごもに今もわれわれの中年以上の心のどこかに宿っている。そのゼロ戦の栄光と悲惨な結末をたどってみよう。
 そもそも日本と米国では技術開発と技術情報収拾への取り組みかたが全く違っていた。
1.「ゼロ戦」開発の発想
 「ゼロ戦21型」をアメリカ軍が分析している。翼の後ろのボタンを押すとコック・ピットに乗り込むステップが飛び出るようになっている。後輪の前には頑丈な着艦フックが装着されている。両翼は翼端で1mほど折り曲げられ格納し易いようになっている。
【日本への海軍軍縮の圧力】
 フィリッピンに軍事拠点をおくアメリカ、マレー半島をはじめ東南アジアに大きな拠点をおくイギリスはいずれも、第一次世界大戦後に日本の巨大になりつつある軍事力に驚異を抱き、ついにワシントン条約(1921/11-1922/2ワシントンで開かれた海軍軍備制限問題および極東・太平洋問題に関する国際会議。イギリス、アメリカ・フランス・イタリア・日本の海軍主力艦の制限が約され九カ国条約、四カ国条約が成立。日英同盟は廃止された)、ロンドン軍縮条約(1930/1-1930/4日英米仏伊五カ国の海軍軍縮会議でロンドン海軍軍縮条約が成立した)を通して日本に厳しい軍艦保有制限を課した。
【海軍力から空軍力へ】
 海軍のみに頼ることの限度を知った日本は独自の航空技術開発計画をおこした。ついに三菱の堀越二郎が若き鮮血を注いで設計した純国産戦闘機「九六式艦上戦闘機(九六艦戦)」が翌年勃発した日中戦争に投入された。空戦中に片翼を吹き飛ばされながらも無事帰還した樫村機のエピソードは九六式艦戦の優れた性能を証明した。中国戦線は拡大の一途をたどり次第に泥沼化の様相を呈してきた。この戦争を米英との交戦はは避けられないと考えた日本海軍は九六式艦戦に続く国産機の開発を急いだ。日中戦争で米英の航空機の優秀な性能を知った日本海軍は昭和12年三菱により優れた戦闘機の開発を命じた。三菱は再び堀越を中心として「12式艦戦」の開発に着手した。しかし「九六式艦戦」に努力を結集しきった堀越にとって海軍の厳しい要求の盛り込まれた時期戦闘機の開発は試練であった。
【優秀なゼロ戦の由来】
 それでは技術水準のおくれた日本が優れた性能をもったゼロ戦の開発になぜ成功したのか。これは技術者の戦闘機開発への取り組み方があげられる。最初、堀越は要求の一部のランクを下げてくれるように海軍に懇願したが、海軍はその要求から一歩も譲らなかった。海軍からの「十二式艦上戦闘機計画要求書」は最大速度:500km以上、上昇力:高度3千mまで3分30秒以内。航続力:増設燃料タンク装備で巡航6時間以上。機銃:20mm機銃x2および7.7mm機銃x2であったが、堀越らの独創と努力がこれを可能にした。
 飛行機の旋回性能を上げるために機重を軽くしなければならない。これを解決するために翼などを支持する桁に多くの穴をあけた。外板に使うジュラルミンを可能な限り薄いものにした。住友重金の超超ジュラルミン(ドイツの冶金学者ウイルムの発明した軽合金。アルミニウムを主成分とし銅4%、マンガン0.5%、マグネシウム0.5%を標準組成とする。強度加工性などの機械的特質が優秀で、飛行機の骨組みその他の構造材料に広く使用。超ジュラルミン、超超ジュラルミンもある)の開発がゼロ戦の軽量化に更に役だった。これには34才の堀越と平均年齢24才の開発陣の柔軟な頭脳が働いた。
【ねじりさげ】
 三菱重工名古屋工場に復元展示されている「ゼロ戦52型甲」をながめてみよう。『十二式艦上戦闘機計画要求書:最大速度500km以上、上昇力:高度3千mまで3分30秒以内。航続力:増設燃料タンク装備で巡航6時間以上。機銃:20mm機銃x2。7.7mm機銃x2』を堀越らの独創と努力が解決した。エンジンは最初は軽量小型の三菱製「瑞星エンジン」を搭載。高速性能の達成のために流線型の密閉型風防、引き込み型前輪を採用。外板をとめる鋲は沈頭鋲を採用し気流の乱れを防いだ。その後エンジンをより強化するために三菱瑞星エンジンからより馬力のある中島製「栄エンジン」に搭載し直された。それでもエンジン開発への立ち後れはその後致命的な障害となっていった。主翼の後部はやや丸みをもって張り出し「ねじりさげ」として旋回性能や失速性能、機体の安定にきわめて役だった。主翼には60kg爆弾を2基搭載でき、精度の高い射撃を可能にした「九八式射爆照準器」が操縦席前部におかれた。強力な機銃発射衝撃で生じる不安定な操縦性、機体のぶれは、胴体を長くして左右前後に対するモ−メントの抑制、および垂直尾翼面積を大きくすることで解決した。その結果、計器板上方左右に2門設置された「7.7mm機銃」、主翼内に設置された「20mm機銃」のすさまじい破壊力は格闘する戦闘機としての「ゼロ戦」の地位を揺るぎないものにした。
【ゼロ戦デビュー】
日中戦争(支那事変)で重慶へいく爆撃機の援護をおこなった「ゼロ戦」は敵27機と遭遇し直ちに空中戦をおこない敵機はすべて撃墜、味方機に損害なし、という見事な戦績を上げ初陣を飾った。このできごとに驚いた蒋介石を支援していた米国義勇軍のシェンノート将軍は本国の軍事情報部(Military Intelligence Division)に「日本にすごい戦闘機(Japanese "Type 0")があらわれた」と再三警告の打電をした。米国はしかし日本が優秀な戦闘機を作れるはずがないという先入観からこの意見を取り入れなかった。昭和16年9月のことであっった。
【ゼロ戦の長距離航行】
 米英にとって補助タンクを胴体にぶらさげ2千kmの往復が可能な「ゼロ戦」は驚異となった。フィリッピン駐留軍の主要基地に対する渡洋攻撃では、台湾の台南および高雄基地からゼロ戦が飛び立ちバシー海峡を越えてはるか8百kmはなれたマニラ北部の「クラーク基地」および「イバ基地」を攻撃した。米極東航空軍はわずか1時間でその勢力の半分以上を失った。戦闘機が8百kmもの洋上を渡り攻撃してくるなどということは当時の常識では考えがたく、駐留軍の指令官であったマッカーサーは「ゼロ戦」は近くの洋上空母から発進したと間違えたほどであった。
【艦上戦闘機と空母】
 さらにインド洋の零戦は戦果をおさめ無敵を誇った。そこで英国は昭和16年に大西洋憲章調印の際にチャーチルとルーズベルトが使用した戦艦「プリンス・オブ・ウエールズ号」をマレー沖に送り、これを旗艦として東南アジアの米英防備に当たらせようとしたが、これも束の間、重巡戦艦「レパルス」とともに「プリンス・オブ・ウエールズ」は撃沈された。これを機に制空権の確保の重要性が戦果を分けるとまでに言われだた。「大艦巨砲主義より空母の時代だ」と。さらに「ゼロ戦」の補助タンクによる航続距離の延長、垂直旋回性能の卓越性による空中戦の絶対的有意はよくも悪くも米英に戦闘自体を考えさせる結果になった。「ゼロ戦とは空中戦はするな」「グラマンの後ろにゼロ戦は宙返りしてやってくる」そして戦況は日米開戦を迎えた。
【海軍の勢力】
 この時期の日米の戦艦保有数は日本連合艦隊:戦艦10、空母9、重巡洋艦18、その他168隻、アメリカ太平洋艦隊:戦艦8、空母3、重巡洋艦12、その他88隻であった。日本艦隊はこの様に量ばかりではなく、質においてもアメリカ艦隊を陵賀していた。
 日本が所有した軍艦は1857年安政4年に徳川幕府がオランダから購入した「臧臨丸」が最初である。「臧臨丸」は排水量350トン、速力13ノットの木造気帆船で16門の大砲を備え76人の乗員であった。原名をヤバン号といい蒸気内車船で全長163フィート、全幅24フィート、大砲12門、1960年遣米新見正興の随行艦として日本人操艦による最初の太平洋横断に成功した有名な木造戦艦である。
 大正2年イギリスで竣工した戦艦「生駒」、「金剛」を輸入艦の最後として日本の軍艦は純国産に切り替わった。輸入艦「金剛」にも第1次、第2次改装が加えられこの戦艦もほとんど国産と行ってよいほどに成熟した。それ以後の日本の艦艇の建造は急速な進歩をとげ常に列強をリードするようになっていたのである。昭和16年史上最大最強の戦艦「大和」、後の米軍の原子力空母「エンタープライズ」の設計に多大な影響を与えた「大鳳」その他「矢作」「大淀」の軽巡など多数の優秀な艦船を有していた。
【真珠湾襲撃】
 昭和16年11月26日、南雲中将が指揮する空母6、戦艦2、巡洋艦3、駆逐艦11隻からなる日本連合艦隊の主力部隊は千島列島のヒトカップ湾を密かに出航太平洋を一路東に進んでいた。日米間の緊張は極度に達し、一触即発の危険をはらんでいたが、まだアメリカ本土ワシントンでは、日米間の事務レベルの交渉がハル国務長官と野村大使の間で行われていた。12月2日山本五十六指令長官は南雲中将ひきいる機動部隊に「ニイタカヤマノボレ。1208」の暗号を打電した。ついに運命の「Z作戦」は発動された。
 昭和16年12月8日早朝、日本軍機動部隊空母6隻から発進した「ゼロ戦」は主として5機編隊を組み第1波183機、第2波167機の波状奇襲攻撃をパール・ハーバー(ハワイ・オアフ島南岸のアメリカ海軍根拠地)に敢行した。第2次世界大戦の勃発である。ラムゼイ中佐は有名な言葉「真珠湾攻撃さる。演習にあらず」を発した。
 1時間という短い間に戦艦「オクラホマ」「アリゾナ」「カリフォルニア」「ネバダ」「ウエストバージニア」が大破または撃沈された。「トラトラトラ」奇襲攻撃が大成功に終わった南雲中将は山本に打電した。またたくまに真珠湾の基地はほぼ絶滅に近い打撃を受けた。対するアメリカ太平洋艦隊の空母は「サラトガ」「レキシントン」「エンタープライズ」のみであったが、これらは真珠湾から出航していたため爆撃による被害を免れた。
 これを機に、アメリカは洋上艦隊の編成を空母中心に変えた。「リメンバー、パールハーバー」を合い言葉に、ただちに22隻の空母建造が発注された。
【日本軍の快進撃】
 日本軍はその後、昭和16年12月12日グアム島占領、12月20日ダバオ占領、12月23日ウエーキ島占領、12月25日香港占領、昭和17年1月2日マニラ占領、1月25日ガビエン占領、1月25日バリクバパン占領、1月31日マレー半島ジョホールバル占領、2月9日マカッサル、ガスタマ占領、2月15日シンガポール占領、2月17日パレンバン占領、3月8日ラングーン占領、3月9日ジャワ占領、3月13日スマトラ島メダン占領、3月23日アンダマン占領、5月7日コレヒドール島占領と破竹の勢いで勝ち進んだ。コレヒドール島占領ではマッカーサー元帥に「I shall come back」と言わしめた。この後大本営ではどの方面に侵攻するべきかが議論されたが、ニューギニアのフォートモレスビー、フィジー、ニューグリテインへ侵攻しアメリカとオーストラリアを海域で分断する作戦FS作戦が決定した。
【米国の危機管理としての情報収拾】
 ゼロ戦ショックを教訓にした米国は次のような危機管理をした。「ゼロ戦」のすごさに驚嘆した米軍はマッコイ大尉に命じて不時着した「ゼロ戦」を収集させた。マッコイは「ゼロ戦」の残骸の多くをオーストラリア・ブリスベーンの「イーグルファーム基地」内のハンガーセブンに輸送した。ここで十分な機密管理のもとに、「ゼロ戦」の基本性能は分解、修理、復元、ベテランパイロットの手により調べられた。テストパイロットによれば「ゼロ戦の滑走距離は非常に短く、操縦かんは的確に航路をトレースし、失速速度は遅いし緩やかで安易に修正が効く私はゼロ戦の操縦をするのが楽しくなっていた。しかし上昇性能のよさや翼面荷重の少なさは防備の金属や安全面を節約したことによることが大きく、このような設計思想は将来的には報われることはないであろう」と述べている。さらに捕虜の尋問による情報収拾。Technical Intelligence Air Reportとして日本と提携し軍事品を生産していたインドにスパイを派遣し製造機密を把握する。
 昭和19年12月に米軍は「ゼロ戦32型」の次期後継機である一七式艦上戦闘機「烈風」に関するデータをすでに入手していた。それはSAM11という暗号で報告書に記載されている。設計見取り図に完成予想図、さらに搭載機銃は前部に毎分120発発射可能20mm機銃2門および毎分300発発射可能13mm機銃2門と記載されている。
 第40代大統領となった当時の映画俳優レーガン(Donald W Reagan1911-米)の出演した「対ゼロ戦対策ビデオ」はいかに米軍が組織的にゼロ戦を警戒し対策に真剣であったことを示すものである。それには対ゼロ戦の禁止事項、勧告が含まれている。ゼロ戦に出会ったときは1対1の格闘戦は避け、性能は劣るが現用の「F4Fグラマン」でどのように戦うかも考案された。2機が組になって交差するように飛び挟み撃ちするサッチウィーブ戦法などが編み出された。
【米国の戦闘機生産性のすさまじさ】
 1903年フォード自動車会社を設立した自動車王ヘンリ・フォード(1853-1947)はフォードシステムによって日産5千機の航空機を生産してみせると豪語した。そのころには米国では自動車の大量生産ラインが完成しており、戦時となってからはこの工場は飛行機の製造工場となっていた。大量の部品の流れ作業を、自動車から飛行機に変えるのは部品の規格化のノウハウを知っている彼らに取ってたやすいことであった。
【F4Fワイルドキャット】
 かくして「グラマンF4Fワイルドキャット」戦闘機はゼロ戦に性能は劣るもののまたたくまに量産された。その間に次期戦闘機「F6Fヘルキャット」が開発されていた。「ヘルキャット」が戦場にでると今度は米軍技術陣はもう「F8F」の開発に着手していた。
【ゼロ戦の性格と防御の脆さ】
 ゼロ戦は1対1の武士道の格闘精神を受け継いで開発された戦闘機であった。その分、防御の面では手抜きがあった面は否めない。米国は性能では劣るものの「グラマンF4F」の座席後部に1センチ以上の鉄板を張り付け防弾装置としパイロットの命を守ろうとした。米軍は命の救助を第一と考えパイロットの技術を飛行機以上の財産と考えた。飛行機は破壊されたがパイロットは脱出できたのでベテランパイロットの数はどんどん増えていった。さらに性能の勝るゼロ戦には集団で対抗した。
【目標近くで爆発するマジックフューズ付き対空砲火VT信管】
 さらにアメリカ軍の新兵器VT信管、すなわち目標近くで爆発するマジックフューズ付き対空砲火の出現で不発弾数が少なくなり、またたく間に「ゼロ戦」の撃墜される確率は3倍に高くなった。VT信管(炸薬に点火し弾丸を炸裂させるため、弾頭または弾底に装置するもので、弾道のある1点で弾丸を炸裂させる時限信管)はNaval Ordnance and Gunnery Vol.1によれば、レーダー管制のもとに軽巡ヘレナから昭和18年1月5日にガダルカナルで発射されたのが最初であった。 【総合力を結集した米国の戦争】
 本来戦争は武士道のような1対1の直接戦闘のみでなく、暗号解読、兵器情報収集、資源補給、拠点設営が鍵を握るといわれている。しかし日本は武士道による潔癖性またはは敵を蔑視するあまりか敵国の軍事機密や兵器を分析するのを怠った。
【東京大空襲】
 昭和17年4月18日空母「エンタープライズ」「ホーネット」は太平洋を北上し日本に迫っていた。エンタープライズの艦上にはドゥリトル隊の双発爆撃機「B25」が搭載され、ゼロ戦に発見はされたものの本機は見事東京初空襲を敢行し東へと退散した。しかし単発とはいえこの事件は大本営にとって非常な驚異となった。
【珊瑚海海戦での日本軍のつまづき】
 昭和17年5月8日に始まった珊瑚海海戦ではアメリカは「レキシントン」と「ヨークタウン」に艦載した航空機121機をもち、日本軍連合艦隊と5分5分の戦いをした。この空母対空母の海戦で日本軍ははじめてアメリカ艦隊に手を焼いた。日本軍は戦果的にはアメリカに「レキシントン」沈没、「ヨークタウン」魚雷をうけて大破、という損害を与え、自軍は「祥鶴」が甲板に3発の爆弾を受けたのみであったが、ニューギニア島フォートモレスビーの攻略作戦を中止し、戦略的に初めてのつまづきを見せた。アメリカに反撃の時間的余裕を与えたのである。日本軍は山本五十六長官のかねてより念願であった「大艦巨砲戦闘の時代は終わった。今後の空母主体の戦闘に備え、あらかじめ米国太平洋艦隊をミッドウエーで全滅させる」という作戦であるミッドウエー海戦でさらにつまづいた。
【ミッドウエー海戦】
 すでに沈没した空母から暗号書を入手していたアメリカ軍ニミッツ提督は暗号を解読しハワイではなくミッドウエーに侵攻していた。日本軍のミッドウエー(MI)作戦は事前に米軍に暗号が解読されてしまっていた。運命の昭和17年6月5日、日本機動部隊総数350隻が朝永大尉が意外な反撃に第2次攻撃隊の派遣を連絡したところ、南雲中将は第2次攻撃隊の装備変更を命じた。雷撃機は魚雷を爆弾に、急降下爆撃機は降下弾を即発爆弾に搭載変更を命じた。そのとき重巡洋艦「利根」から発進した偵察機からアメリカ機動部隊発見の報告が入った。「赤城」の司令部は意外な空母軍の出現に驚いた。南雲中将は陸用爆弾を再び艦船攻撃用爆弾に搭載変更を命じた。南雲空母部隊率いる旗艦「赤城」さらに同様の指令を受けた空母では混乱が生じていた。さらに機動部隊は米軍に発見されていた。ヨークタウンなどから相次いで攻撃機が発進したがこれはミッドウエー爆撃を終えて帰還しようとしていた艦載機「ゼロ戦」にたたき落とされた。ここまでは日本の勝利である。低空で戦闘が生じている間に、敵機が味方機の抜けた遥か上空にあらわれた。米国急降下爆撃部隊の「ドーントレス急降下爆撃機」が帰還すべき日本軍の空母を大破した。「赤城(38500トン、最高速力31.2ノット)」、「加賀(38200トン最高速力28.3ノット)」、「蒼龍(15900トン、最高速力34.5ノット)」の3隻は日だるまとなり海面から姿を消した。残った「飛龍(17300トン、最高速力34.6ノット)」から飛び立ったわずかの「ゼロ戦」が空母ヨークタウンを攻撃し大損害を与え、航空機150機の損失、307人の戦死者をだしたが、日本軍の損害は空母4隻の損失、航空機250機、3千5百人の戦死者を出した。会戦後はじめて日本軍のうけた致命的損害であった。この海戦が太平洋戦争の大きなターニング・ポイントとなった。
【ガダルカナル敗戦からの惨敗】
 昭和17年8月から米軍はソロモン群島ガダルカナルで反撃にでた。8月7日ガダルカナル海戦勃発。百戦錬磨で勇猛なアメリカ海兵師団がガダルカナルに上陸した。8月9日第1次ソロモン海戦、8月23日第2次ソロモン海戦、10月11日サボ沖夜戦、11月13日第3次ソロモン海戦など200以上の海戦が生じた。ガダルカナルの海底はアイアン・ボトム(iron bottom)と呼ばれるほど両軍の飛行機の残骸でいっぱいになった。米軍はこれらの戦いでガダルカナルを奪還した。ベテラン飛行兵を残したアメリカ軍に比べ4隻もの空母を失った「ゼロ戦」ははるかラバウル基地から飛び立たねばならず戦況は米軍に味方した。そして「ゼロ戦」の墓場がソロモン群島の海底となった。丸山隊の大反撃も効を奏さず日本軍はこの島を撤退し、翌年の昭和18年2月、日本軍はブーゲンビル島に全勢力を結集した。
【F6Fヘルキャット】
 昭和17年11月3日、米軍次期戦闘機「グラマンF6Fヘルキャット」が完成した。強固な防弾装置をもつ機体をゼロ戦の2倍の馬力を保つプラット・アンド・ホイットニー社の二千馬力エンジンがカバーした。ヘルキャットはゼロ戦に勝る十分な旋回性能と最高速度を有し、30ノットの高速空母から発進した本機は一撃離脱戦法の主力として活躍し出した。他の米軍の航空機も次々に高性能なものが戦場に送り出され太平洋上を飛びめぐっていた。
【山本五十六の「一式陸攻」撃墜さる】
 昭和18年4月18日、山本五十六連合艦隊指令長官は戦気高揚のため「一式陸攻」に乗りラバウルからブーゲンビルへと向かった。この途中で現れたアメリカ軍双胴戦闘機機「P38」の機銃掃射は山本長官の乗る機K324を炎上墜落させた。大本営は5月18日、日本軍の生き神とも思われていた彼、山本五十六の戦死を発表した。
【サイパン島玉砕】
 昭和19年6月のサイパン島の激戦ではアメリカ軍に登場したロケット砲がここで徹底的な威力を発揮した。圧倒的な米軍の前に島は分断され、日本軍の抵抗は山中に後退した。6月24日大本営は「ア号」作戦の中止とサイパン撤退を決定したが、日本軍守備隊はその事実を知らず飢えと疲労で苦しみながらも救援を信じてなおも戦い続けた。火炎放射器がこの島でも活躍し、7月7日のバンザイ突撃を最後に島民のあるものは150mもの断崖から身を投じ、またあるものは手榴弾で自決した。サイパンで死亡した日本軍兵3万余、一般島民1万余であった。まもなくこの奪い取ったサイパンに空飛ぶ要塞「B29」がおりたった。その後硫黄島占領により日本本土爆撃はより容易になった。
【サクラ、サクラ】
 昭和19年9月、アメリカ軍はフィリッピンの東パラオ島の中の珊瑚礁の島に上陸した。中川隊長はこの島の水際で戦うことの無意味さを知っていた。中川は島中でしぶとい持久戦を戦い抜くことを宣言した。6千名の守備隊を細かく分断し幾重にも洞窟を掘り複雑巧妙な防備体制を構築し徹底的な持久戦体制に入った。しかし中川の工夫したさしもの防備もナパーム弾や火炎放射器の嵐の前にあえなく後退し、最後の暗号文「サクラ、サクラ、・・・」を打電した。これは、死して森となっても必ず敵の攻撃を粉砕してみせるという意味であった。70日間最後の1人まで持久戦を戦い抜いた。
【捷(しょう)1号レイテ作戦】 昭和19年10月、日本国土の資源供給路確保とフィリッピン防衛とを目的とした「捷(しょう)1号作戦」を山下隊長はレイテ沖で開始した。対する20万の兵を率いるのはアメリカ軍大将マッカーサーであった。この作戦は軍艦のおとり作戦であった。この海戦で戦艦「武蔵」を始め、大多数の空母、航空機、艦船がマリアナ沖にしずめられた。命中魚雷20本、直撃弾17発を受け、厚い鋼甲板を用いた「武蔵」といえども艦長以下1023名とともにシルアン海に沈んだのである。日本連合艦隊は6隻の護衛空母のうち3隻が撃沈した。さらにすきをぬった栗田艦隊はシュプレイング艦隊に向かいあとひといきのところで相手を全滅させるところにきていた。そのとき栗田艦隊は前艦を呼び寄せ引き替えしたのである。この不可解な行動はいまだ謎である。西村艦隊は「扶桑」、「山雲」、「満潮」、「山城」すべてがレイテ島南東海岸で全滅した。「瑞鶴」も沈められた。世界最大の戦艦3、空母4、巡洋艦10、駆逐艦9隻をマリアナ沖に失った。日本は敗戦色が濃厚となってきた。大型艦はほとんど沈められた。この後巨大空母「信濃」が誕生したが、潜水艦に潮岬で魚雷4本をたたき込まれて敢えなく沈没した。
【特攻隊】
 華やかなりし栄光のゼロ戦もこのころからその性格を変えた。特攻作戦の開始である。昭和19年10月25日、関行男大尉に率いられた「新風特別攻撃隊」の「ゼロ戦」は予備燃料タンクの代わりに「600kg爆弾」を抱えて敵艦に体当たりし発の特攻隊の仕事をはたした。サマールでは特攻が戦艦2隻を撃沈、1隻を大破させる戦果をあげた。ゼロ戦が人間爆弾と化したのである。 米軍の沖縄上陸に対する沖縄本島の特攻作戦は日本軍航空機2571機が参加し「菊水作戦」と呼ばれた。豊田指令官は伊東中将に片道燃料の特攻を命じた。米軍の結集する嘉手納沖に特攻隊は片道の燃料を積み肉弾戦を挑んだ。
【沖縄海戦】
 昭和20年4月7日、戦艦「大和」は軽巡「矢作」、駆逐艦8隻を従え片道燃料を積んで徳山をで沖縄特攻に向かった。空しい出撃であった。しかし「大和」は九州坊の岬沖でミッチャー空母隊に発見され386機の艦載機の攻撃をうけ、6万5戦トンの巨体は、3721発の爆撃にさらされ、大きなキノコ雲を残して沖縄の海に沈んだ。
 太平洋戦争で3000余もの尊い若い命が特別攻撃隊という名の元に失われた。これも名機「ゼロ戦」があった故の皮肉な運命なのであろうか。

文藝春秋ノンフィクションビデオ  柳田邦夫 私と零式艦上戦闘機 ー名機「ゼロ戦」が現代に残した教訓ー。 NHKビデオ「太平洋戦史」より


国産ロケット「H2」のエンジン

 2月4日午前7時20分、H2ロケットの打ち上げ場所である種子島宇宙センターでは、その瞬間を待つ担当のスタッフが緊張と期待に包まれていた。カウントダウンが始まった。エンジンに点火されH2の巨大な本体がゆっくりと上昇する。かなりの上昇速度なのだろうが映像ではロケットの本体が大きいためあくまでも打ち上げは速度は遅いように見えた。打ち上げから99秒後、高度4万mで補助ロケットが分離された。打ち上げから226秒後に大気摩擦熱から衛星を護っていたフェアリングが外された。ロケットは補助エンジンをはずし、身軽になってメインエンジン「LE7」の推力のみで飛行を続ける。打ち上げから346秒後にメインエンジンLE7はすべてを燃焼しつくしてその活動を停止した。さらに打ち上げから28分後に衛星周回軌道近くに達したH2ロケットから衛星が分離され軌道に載った。H2の任務はこれで完了した。かくして純国産H2ロケットは打ち上げに成功した。純国産とは20万点を越える部品のすべてを日本で開発することを意味した。その成功の程度は関係者の言葉をかりれば「120%の成功であった」という。そして中でも開発に困難を極めたのが、このロケットの第1段主エンジンであるLE7であった。
【H1ロケット】
 これまで日本はH1ロケットを持っていた。これまでのH1ロケットは500kgの静止衛星しか打ち上げることができなかった。H2ロケットは2トンの静止人工衛星を打ち上げることができる。その力の源となったのが高性能小型高出力エンジン「LE7」であった。
【エンジン「LE7」】
 エンジン開発資料室には「ノズルスカート高速」というビデオテープがぎっしり詰まった棚がある。これらのビデオは国産のエンジンの開発がどれほど困難であったかということを映像をもって残している。宇宙開発事業団や日本の開発メーカーが困難をいかに乗り越えていったかという貴重な手がかりもここに残されている。116回という頻回のエンジン実験映像にはこのエンジンがおこした数m秒間の問題点がすべて残されている。エンジン開発の途中では関係者は「もう打ち上げは無理なのか」と何度も思ったという。
【ロケットの素材】
 ロケットの材料に何を使うか。打ち上げの燃料に何を使うか。コンピューターでどのように衛星を制御するか。どのようにロケットを組み立てるか。純国産はそのすべてを日本で行うことを意味していた。数百に及ぶ会社と、数万に及ぶスタッフの掌握をしていた人が宇宙開発事業団の五代氏である。
【あやめの失敗と種子島】
 1980年の衛星「あやめ」の2度の打ち上げ失敗が国産のみの技術開発のむずかしさをスタッフに痛感させた。さらに打ち上げ基地種子島の立地条件は周囲の制約のために保安距離最低限の3km四方の広さのみである。万が一の事故を考えて、H1とは別にH2ロケット用の射点が種子島の突端の太平洋に面して建設されている。この宇宙センターは広さ8.6平方kmである。地上部品数180万個の基地である。
【H2ロケットの困難な開発】
 H2ロケットは打ち上げ基地の狭さにより開発の制限がよりきびしかった。少ない燃料とよりせまい打ち上げ空間が必要とされた。このためまずロケット本体の徹底した軽量化がなされた。機体の外套が39トンの軽量化されたH2がその結果である。全長50mのロケットの外套はポリイソシアヌレートという軽量で耐火製のある素材でつくられている。この軽くて強い赤色の素材は塗装もしなくてすむ。厚さはわずか2.5cmである。この素材の採用によりH2ロケットは低コストと軽量化がなされ、断熱剤を吹き付けただけで塗装を使わないロケットは200kgも軽くなった。
【強力なパワーのLE7エンジン】
さらに第1段ロケットのメインエンジン「LE7」はパワーが強く軽いエンジンである。部品総数3万3千点。ボルトやリベットを使う部分を溶接したのも軽量にするためであった。「LE7」エンジンは高さ2.5m、1.8mのノズルスカートの直径をもち、重さ1.7トンで推力110トンを発揮する。この高性能軽量エンジンで総重量260トンのH2を持ち上げる。日本の航空技術力の総力が結集されたこのエンジン「LE7」の開発だけで10年もの歳月と800億円もの費用がかかった。強度をぎりぎりに押さえて、重量を1.7トンという超軽量にすることがこのエンジン開発の使命であった。アメリカのスペースシャトルには高性能軽量エンジンが3基セットで装着されている。このエンジンは液体酸素と液体水素を燃料に用い、長さ4.2m、重さ3トンで現在世界で最もパワーがある進んだエンジンである。LE7の開発手本がこのスペースシャトルのエンジンであった。
【液体酸素と液体水素のLE7エンジンの燃料】
 「H2ロケットのコンフィグレーション(構成)について」という報告書が昭和59年7月6日に出された。第1段のメインエンジンは液酸、液水エンジン(LEーX)にする構想が報告書にある。これは日本で初めての試みである。エンジンの燃焼形式は液体酸素と液体水素が予備燃焼室と主燃焼室で燃焼され、スペースシャトルに3基搭載されているのと同じ2段燃焼サイクルエンジンと呼ばれる。すなわち、液体水素は燃料タンクから押し出されて、途中エンジンの冷却剤として使われながら、プリバーナーと呼ばれる予備燃焼室に入っていく。一方液体酸素は全体の10%がプリバーナーへ送られる。残りの90%は真っ直ぐ主燃焼室に送られる。まず液体水素が液体酸素にふれて爆発的なエネルギーを出すのはプリバーナーである。酸素と反応する水素はわずか10%だけで残りは高温の水素ガスとなって主燃焼室の前にあるダーボファンを回転させる。このターボによって燃料は急速に加速圧縮されて循環を始める。一部が燃焼して爆発力を持ちターボポンプを回転させた水素ガスは主燃焼室へと進む。高温の水素ガスが、待ち受けていた液体酸素と反応し強力な燃焼が生じる。この結果、ロケットの打ち上げに必要なエネルギー(馬力)が発生する。この方式はコンパクトで燃料が無駄なく利用できるという長所を持っているが、強靭な耐久性を要求される。
【同様なエンジンを持つスペースシャトルと旧ソ連のエネルギア】
 この方法に成功したのはアメリカのスペースシャトルと旧ソ連のエネルギアしかない。軍事機密に属するとしてこれらの国々から全く情報を入手できない状況にあった日本はこの2段燃焼サイクルという高級エンジンの開発に2年の歳月を余分に使ったが、この努力が結果的にはよりよいロケットの完成につながった。日本のロケットエンジンの開発力の驚異に恐怖を感じ始めた友好国のアメリカでさえ液体水素の扱いに関してすら資料を提供してこなかった。
【LE7エンジンの開発】
 液体水素を用いた「LE7」エンジンの開発は、初歩的な液体水素を地面に落とす実験から始まった。三菱重工の山崎氏の言をかりれば、技術陣は液体水素の扱いや特性に関する参考書や文献を読むことのみに最初は専念したという。さらにこのエンジンの開発は最初から最後まで試行錯誤の連続であった。水素が液体であるためにはマイナス253度という極低温を要求する。これより温度が高くなると短時間に揮発性の水素ガスとなり周囲に拡散し消失する。さらに水素ガスが空中の酸素と混合するとわずかな火種があっても大爆発をする。その爆発力は遠くはなれたガラスまで割ってしまう強い威力を発揮する。
【エンジン爆発】
 実際にエンジン開発中に起こった水素ガス爆発の恐さの事実がある。1991年5月に宮城県角田市角田ロケット開発センターでの水素ガス爆発事故である。これはエンジンのわずかな亀裂から水素がもれ、激しい地響きを伴う爆発事故であった。爆風圧が数100mはなれたスレートの壁を貫通した。数kmはなれた民家の窓ガラスの数枚も破れた。幸い、この事故で死傷者はでなかった。しかし試験施設はほとんどが使いものにならないほどに破壊された。基地では地上施設の復旧までに3カ月かかったという。水素ガスを燃料としたエンジンは人体に帯電した静電気や、わずかな空気中静電気の火花によって強力な爆発をおこす。このために慎重な静電気帯電防止作業が前もって行われた。
【高温と低温のギャップ】
エンジン内で生じるマイナス253度の液体水素と高温の燃焼ガスの想像を絶する温度差がエンジン開発をさらに困難にした。液体水素側のターボポンプ内は摂氏マイナス253度の超低温、プリバーナーによって燃焼された燃焼ガスの流れる液体酸素側では摂氏600度の高温である。この温度差は実に900度近い。
 H2ロケットのメインエンジン「LE7」の開発には三菱重工業株式会社(ターボポンプ以外のエンジンのすべて)、石川島播磨重工業株式会社(ターボポンプ開発)とそれらを統括する宇宙開発事業団の3者で血のにじむ努力が始まった。プリバーナーからの600度の熱風がターボポンプの羽根を1秒間700回転の高速で廻す。その回転によって生じた強力な圧力で燃料を圧縮して燃焼室に送り込む。これがターボポンプである。
【エンジンのターボポンプ部】
 そのターボポンプにも技術開発上の問題がある。高温のタービン側と低温のターボファン側の温度差を隔てるのはわずか金属の板1枚でしかない。その部品に用いることのできる金属は限らる。耐熱製のステンレスは原子炉に用いられ温度変化に強い金属である。しかしこの合金は温度が800度に達すると破壊された。炭素金属も極低温では脆く壊れ去った。しかし高温と極低温の双方に耐える金属がなくてはターボポンプを作ることができない。さらに強力な圧力のかかる場所のため、ターボ隔壁に使う金属はより限られていた。高い推力を得るためには高速で吹き出すガスを必要とする。このガスのために燃焼室はガスの吹き出し口で130気圧となる。この圧にもターボの仕切板は耐えられなくてはならない。エンジン内の圧力はプリバーナー部では200気圧、ターボポンプ部では270気圧となる。270気圧とは深さ3千mの深海に潜ったときに匹敵する。ロケットエンジンに対して使用する金属は、熱に対してはできるだけ薄い板が有利である。温度が高くなると圧力に強い厚い金属は熱応力が発生し歪を生じる。この「LE7」エンジンはやや高望みをしたエンジンだったかも知れない。しかし日本の技術人には確固たる成功の自信があったという。ただしこのターボエンジンの高温部と低温部の隔壁に使用した遮断剤の素材に関しては特許に属する事項なので不明である。
【石川島播磨重工業】
 ターボポンプの開発は米軍の横田基地に隣接する東京都瑞穂町、石川島播磨重工業で始まった。クリーンルームで液体酸素及び水素の流れる最も困難を極めると思われるターボエンジン部分が作られる。ターボポンプはきわめて繊細な機械で少しの塵の混入をも許さない。作業員はクリーンルームにはいる前に空気のシャワーを浴びてから工場にはいる。高さ70cmの液体水素用のターボポンプ。この小さいポンプが260トンのH2ロケットを打ち上げるパワーの源となるとは思われないほど小型である。組立時には温度変化を最小にするためにマイナス196度の液体窒素が使われる。液体窒素で冷やされた部分はわずかとはいえ、ヤングの法則(ヤング率)により、わずかではあるが小さく細くなる。冷却して細くなった部品同士をこの極低温で組み立てる。このターボエンジンのみで2万8千馬力を生み出すことが必要である。このエンジンは8階建てビルの大きさのディーゼルエンジンに匹敵する。20万トン級のタンカーを推進するエンジンと同馬力のエンジンである。
【コンパクトなLE7】
 小さなエンジンで大きな馬力を得るためには回転数をあげるしかない。この大きさで2万8千馬力を得るためにはタービンの回転数は4万6千回転が必要である。さらにエンジンが高回転になるとシャフトに共振が発生する。実際、ターボエンジンのシャフトは固有振動数を越えると強震が発生して揺れが大きくなった。
 共振についてビル災害を例に撮ってみよう。1985年のメキシコ地震では数多くの建物が倒れたが、特に5階から8階までの高さのビルの被害が大きかった。想像した以上に高層ビルは被害が少なかった。高層ビルは中層階で共振して倒壊を免れたのである。さらに現在のビルでは共振の周期をずらすために屋上に貯水タンクを設け、振動に対し強化している。
【ターボシャフトが共振した】
 LE7エンジン開発にともなうターボエンジンシャフト共振により、宇宙開発事業団は1989年7月に打ち上げ延期の発表をした。その後の主としてターボエンジンシャフトの共振をさけるための努力がなされた。1年後、エンジンに付属するダンパー(緩衝剤)の開発などで毎分4万6千回転を生みだすタービンエンジンのシャフトの問題は解決した。しかし今度は、ターボに付属する羽根に水素ガスが当たる際に羽根にヒビが入ってしまう、思いがけない事実が生じた。
 ターボエンジンの羽根には軽量化のために、あらかじめ意図的に穴があけられていた。羽根の強度が弱いと察知した開発陣は、そのあけた穴を強度を補強するためにやむなく今度は逆に埋めていった。それでもこの問題が解決しないため1990年にターボエンジン回転数を4万3千回転までに下げる改訂が行われた。さらに羽根の形状を変えて回転数を下げても有効な馬力が得られるような羽根の取付角度が検討された。この時点では技術陣は回転数の高さには固執せず、彼らは安全の道を選んだ。そして1990の後半には「LE7」エンジン完成のめどが立った。この時期、エンジンの開発開始から6年の歳月が過ぎていた。
 「LE7」エンジンの設計図は5000枚を越える。設計を見直すところから再検討された。根本に立ち戻った議論がくりかえされた。
【地上テスト】
 いよいよ、秋田県田代町の人里はなれた山奥のエンジン燃焼テスト場で、「LE7」エンジンの地上テストが開始された。エンジン本体に組み込んだターボエンジンのテストがまず行われた。しかしエンジンをスタートさせる際の正常な延焼をえるバルブを開く順序が問題となった。その順序が決定されると今度はエンジンスタートするときの変化をいかに乗れこえれるかが問題となる。いわゆる5秒の壁である。エンジンが正常にスタートせず、おまけにスタートしたとしても設定値を越えた燃焼熱が発生するとエンジンは瞬時に燃えてしまう。エンジンはこの様な原因で爆発することさえあるが、その際の変化は瞬時で肉眼で捕らえることは甚だ困難である。そこで圧力スイッチ、温度センサーなどと多くの監視カメラを設置することでエンジン始動の5秒の壁は乗り越えた。
【長時間燃焼試験】
 LE7の実際に用いられる種子島試験スタンドで実際の燃焼に必要な350秒の長時間燃焼試験がおこなわれた。しかし「LE7」エンジンは始動開始16秒後の数m秒間の爆発事故によりスタンドから瞬時にはずれた。この原因を探るため数多くの高速監視カメラがエンジン動作を監視するために設置された。この監視カメラは多方向から、毎秒500コマの映像を撮影した。さらにカメラに連動したセンサーを用いることにより火災の防止も可能になった。
 検討と改良がエンジンに加えられ、さらに5カ月後、エンジンの再試験が行われた。再試験では5カ月前に起こった16秒の壁は越えた。エンジンはさらに時速5千kmを越えて大気圏脱出をめざす燃焼実験にはいる。実際のH2ロケットの打ち上げでは補助エンジンを外された「LE7」は大気圏を脱出してからさらに2分燃え続けなければならない。燃焼総時間は350秒である。エンジンが350秒間燃焼した瞬間に拍手がスタッフの間で自然にわいた。
【世界のロケットとの比較】
 衛星打ち上げ用のアメリカのタイタン3号ロケット(680トン)、ヨーロッパのアリアン4ロケット(480トン)、H2ロケット(260トン)を比較してみよう。H2は軽くて力が強い「LE7」エンジンを備え、世界有数のロケットの仲間入りをした。さらに日本は世界で最初に非軍事的に開発した独自のLE7エンジンを持ったことにより国際的に有力な衛星打ち上げ国となった。日本独自の衛星探査計画をも推進できるようになった。日本の今後の宇宙開発計画を待ちたい。

日本のH2開発陣「やったぞ水素(H2)ロケット、オウ(O)オウ(O)」
アメリカとロシア「そんな自慢は見て見ず、ミズ(H2O)ダヨー」

参考:NHKビデオ
 


 
天文学はおもしろい
(東京大学理学部助教授 上条文夫氏の講演より)

1 星の光とその観測

【8月の夜空】
 8月の空をながめよう。北斗七星は夏の夜空(午後8時ごろ)の天頂近くまで上っている。この星座は、ななめ上を向いた大きな柄杓(ひしゃく)の形をしているからすぐ分かる。この辺をおおくま座という。この柄杓の柄をのばしていくと明るい星に当たる。この星がアークツルス(牽牛星)で牛かい座に属する。すぐ東に小半円形をしているかんむり座がある。北から南に天の川がある、これに沿って北から南にケフェウス、天の川の真上に十字架形の白鳥座が見える。北を向いた十字架の頭が白鳥の尾でこの部分に一等星デネブがある。天の川の両側に明るい星が2つある。北に近い方がこと座ベガ(織女星)で、他がわし座のアルタイル(牽牛星)である。七夕の星である。
【明るい夏の星】
 都心では空が明るくて星が3個しか見えないことがある。夏の夜空で明るい星は木星、べガ、アークツルスである。頭上を見て明るい星が2つならべガ、アークツルスである。南天に赤い明るい星がみえる。さそり座アンタレスである。アンタレスから左下のさそりのしっぽに星がならんでいる。べガとアンタレスの間には人間の形に見えるヘルクレス座や将棋の駒のようなへびつかい座がある。さそり座の東側に柄杓の形をした射手座がみえる。射手座は北斗七星にたいし南斗六星とよばれている。北斗七星の北よりの二つの星を延長すると北極星にたどりつく。北極星はこぐま座にある。熊を綱で棒につなぐと熊はその棒の周りをぐるぐる廻る。こぐまも北極のまわりををぐるぐる廻る。ラテン語でおおくま座はursa majorとよばれ、こぐま座はursa minorとよばれる。北極星はポラリス(polaris)である。こぐま座やおおくま座、こと座との間に細長いりゅう座があり、わし座の東にいるか座がある。



【星の伝説】
 星座は大昔からあるものだが、現在採用されている星座は1930年に国際天文学会により承認されたものである。全天が88の星座にもれなく分割されている。各国ではそれぞれの星座が使われていて、大きな熊、小さな犬などと呼ばれる。
 星の名はギリシャ文字のαβγの小文字と「XX座の」というラテン語の星座名を合わせて表す。例えば織女はこと座のα星であるから「αーLYLA」、牽牛は「おうし座のα星であるから「α−ACURA」とよぶ。春に見えるおとめ座のα星は「αーVERGINIS」はスピカとよばれる。スピカはおとめが右の手にもっている麦の穂のところにある。野球や陸上競技選手の履く釘の付いた靴をスパイクとよぶが、この名の由来は釘が麦の穂のように尖っているからである。スピカと同じ語源である。X線源や電波源を称するには、星座名の主格が使われる。SIGNUS−X−1やSAGITTARIUS−Aなどと呼ぶ。医者はラテン語を何千も知っているが、天文学者は88知っていればよい。星座名をかくときは三文字で略記する。牽牛はαーAQL、織女はαーLYR、スピカはαーVIRである。


【星座とギリシャ神話】
 星座はギリシャ神話に由来するものが多い。鯨に脚が生えたタケクジラがくじら座になっている。しかし人間や動物に見える星座は少なく、星座名をつけた人類に対して、その想像力の豊かさ、妄想力のたくましさは驚くばかりである。
 おおぐま座とこぐま座の神話である。カリストという美しい姫がゼウスに愛されたので女神のアルテミスが神を憎んで呪いをかけ、カリストを熊の姿に変えた。カリストの子供アルカスが成人し狩人になったが、ある日森中で一匹の大熊に出会った。弓に矢をつがえてその胸を射ようとしたとき、その熊は実はカリストの変わった姿であった。それを見ていたゼウスが憐れんでアルカスも小さい熊の姿にかえ、ともに天に上げておおぐまとこぐまの星座にしたといわれる。りゅう座の竜はヘルクレスが退治したもの、かんむり座の冠は酒の神バッカスの王女アリアドネに贈った冠である。
 ヘルクレス座のヘラクレスはゼウスを父にもつ勇士である。ゼウスの后(きさき)ヘラがこの子ヘラクレスを憎んで二匹の蛇にかみ殺そうとさせたが、彼はこの蛇を握りつぶした。ドイツのカッセルの町に山の斜面を利用した大きな左右対象なイタリア式庭園がありその頂上にヘラクレス像が立つ。へびつかい座の蛇使いは両手に蛇をもっている。蛇の頭としっぽがそれぞれへビ座になっている。一つの星座が二つに別れている。この蛇使いは医学の神アスクレピオスであり、馬に引かれて死んだヒッポリオトスを生き返らせようとして自分もゼウスに殺された。さそり座のサソリは狩人オリオンが地上の害獣や独虫を殺そうとしたのを、地の神ガイアが怒ってこの大蠍を贈り、オリオンをかみ殺させた。一説にはオリオンがアルテミスに恋慕したため、女神のエオスが嫉妬して贈った蠍とも言われている。アンタレスはいずれにしても蠍の心臓である。射手座は上半身人間で下半身が馬である。弓に矢をつがえて矢をはなそうとしている。この怪物射手は後にヘルクレスに殺された。アポロンが憐れんで星座にしたという。こと座はアポロンが音楽家オルフェウスに贈った黄金の竪琴である。わし座の鷲はゼウスが神聖な鳥としてかわいがっていた大鷲である。白鳥座はゼウスがスパルタの王妃レダのもとに通うのに姿を変えた白鳥である。ケフェウス座はエチオピア王ケフェウスである。織女は牽牛より温度が高いのであるが牽牛より暑く燃えているのかも知れない。
【星座とラテン語】
 たとえば、かんむり座は北にも南にもある。北の冠座はCORONA BORREARISとよぶ。南の冠座はCORONA AUSTRINAとよばれる。なせか日本では北のかんむり座をかんむり座と呼んでいる。冠を意味するコロナ(CORONA)は星座名以外にもよく使われる。太陽のコロナも同様である。戴冠式を英語でcoronationという。オーストラリアは南に発見されたのでAUSTRALIAというのである。もし北に発見されていたらBOREARRIAになっていたかもしれない。シリウスはおおいぬ座アルファα星(αーCANIS MAJORIS=αCMA)であり、プロシオンはこいぬ座のα星であるから略してαーCANIS MINORIS=αCMI)である。真っ赤な炭素星、りょうけん座Y星はYーCANAMUVENATICORUM=YCVNとよぶ。 仙台では七夕祭を八月七日におこなうが、梅雨で雨が多かったり天頂で見られない七月七日よりは妥当な祭の設定といえる。
【連星と視力の検査】
 北斗七星の柄の先から二番目の星ゼータ星ミザールには角度の12分離れたところにアルゴアという4等星がある。むかし、徴兵検査のとき視力検査に使ったそうである。この両星はたまたま近くに見えるだけであるが、ミザールを望遠鏡でよくみると2つの星が見える。この2つの星は互いに万有引力を働かせ、地球が太陽の周りを廻るようにぐるぐるまわっている。この星は分光連星で20.5日の周期で廻っている。
【実子連星】
 おおくま座のα星は北斗七星のいちばん北極星よりの星であるが連星で周期約44年である。これらは肉眼ではっきり2つに見える実子連星である。しかし分光連星としても登録されている。冬空に見える明るい恒星、おおいぬ座α星シリウスは周期50年の実子連星である。実子連星は周期が数十年から数百年であるのがふつうである。
【分光連星とフラウンフォーファー線】
 分光連星を説明するために星の分光写真からできるスペクトルの説明をしよう。17世紀のおわり、イギリスのアイザック・ニュートンは太陽の光をプリズムに当てて7つの光に分かれることを発見した。スリットという細い隙間と2枚のレンズを組み合わせた分光器が開発された。このスリットとレンズとでできた分光の虹に黒い吸収線が発見された。ドイツのフラウンフォーファーがたくさんのこの線を調べたのでこの黒い吸収線を「フラウンフォーファー線」とよぶ。
 ドイツではフラウンフォーファー協会があり太陽の観測所をもっている。望遠鏡に分光器を付けると星のスペクトルを観察できる。その吸収線をだすガスがこちらの近づいていると黒い吸収線は紫の短波長スペクトルにより、遠ざかる星は赤いスペクトルの方への扁位で発見される。これを光のドップラー効果という。汽笛の近づきと遠のきの原理である。光の吸収線が紫または赤い方に動くことから、この星が連星であると判ることがある。これが分光連星である。
【食連星】
 食連星という状態もある。近接し互いの星をまわる連星である。地球からみた場合、たまたま軌道面が一致している場合の恒星である。恒星の軌道が一致しているため恒星どうしの食現象が起こる。このような状態の連星を食変光星という。地球からの視線に一直線に星が並ぶときには背後の星を前の星が隠すので見た目には星の光度は現弱して見える。その結果、連星系の公転周期に合わせて星の光の強さが増減するのである。夏の星座ではおおくま座W星、白鳥座31星、白鳥座32星など代表的な食変光星がある。しかしこれらの星は暗くて肉眼では見えない。食変光星の研究は1967年、イタリアのモンタナリによる秋空に見えるペルセウス座β星における変光の発見に始まる。この星はアラビア語でアルゴル(悪魔の星)と呼ばれている。変更の周期は2日と20時間49分でいつもは2.2等の星にみえるが明るい小さい星の手前に暗い大きな星がくると1.24等明るさが減少する。明るい星が手前に来ると0.05等暗くなる。連星が並んでみえるときが最も明るいのは当然である。つまりT周期の間に大小の明るさの山ができる。変光星の観測は現在光電管を用いた観測により電気的に明るさを記録する。0.005等の明るさの違いをこの方法で観察できる。おおくま座W星は8時間周期で7.9等の星が0.73等と0.64等暗くなる。この星は接触型と呼ばれ非常に近い星の間でガスが流れている。典型的な近接連星で「おおくま座W星」型とよばれるタイプの代表である。白鳥座31星と白鳥座32星はぎょしゃ座のゼータξイプシロンεとおなじで全天に4つしかないタイプである。数年から数十年の割合で食をおこし連星をつくる星のうち明るい主星はK型かF型の大きな星(巨星)で英語ではgiantと呼ばれる。その周りをまわる星(伴星)はB型星で大きさは太陽ほどの主系列星である。主系列星は英語でdwarf(小人の星)とよばれる。dwarfが巨星の向こうへ周り食現象を起こすと巨大な主星の本体の外側のガスは希薄で青白い伴星の光が透きとおって見える。
【望遠鏡で見えない星】
 1966年にさそり座X1、サギタリウスX1なる天体がロケットからのX線観測により発見された。これを日本の岡山の望遠鏡が紫外線フィルターと青のフィルターでとった写真を比較することにより光でも発見した。世界で最初のことであった。
【白鳥座X1】
 白鳥座X1がやはり人工衛星からのX線観察で発見された。これがブラックホールの最有力候補と考えられている。白鳥座X1は光でみると8.9等星であるが5.62日周期の分光連星で主星はO型の超巨星である。伴星は見えない。しかしスペクトル線のドップラー効果から伴星は太陽の6倍の質量をもつ星であることがわかった。スペクトル線のズレが大きかったのである。こんなに大きな質量をもつ星が見えないこととガスが主星から激しく流れ込んでいることで高温になりX線をだすという考えからこの伴星はブラックホールであるという考えに至っている。その他にもX線源ははたくさん発見されている。最近ではブラックホールの存在を信じる天文学者の方が多くなった。X線天文学者はすべてブラックホールを信じている。太陽は1033gの質量をもつがそれを半径3kmの球の中に押し込めればブラックホールになる。でもそれは大変な労力である。
【分光連星や食連星以外の変光星】
 ケフェウス座のはしにデルタδ星という変光星がある。5日9時間の周期で3.5等から4.4等まで変光する。これはケフェウス座デルタδ星型とかセファイドとよばれ変光星の代表である。白鳥座の白鳥の首にカイκ星がある。この連星は408日の周期で3.3等から14.2等まで変光する。赤い星で1994年の夏の夜空には明るく見えた。ミラ型変光星の代表的なものだ。両方とも膨らんだり縮んだりして変光している。なぜこんなにあかるさの振幅が違うのか。表面の温度が二千度ぐらいのミラ型変光星の大部分の輻射は赤外線で出ている。そのため温度が少し下がっても可視光線の明るさは非常に暗くなってしまう。なぜなら白鳥座のカイκ星はケフェウス座の変光星に比べて大きさが大きく密度が非常に小さいからである。
【音と光の波長】
 弦楽器でも弦の長さを半分にすればオクターブ高い音が出る。オクターブ(octave)は8度という意味で、ラテン語の8という意味である。昔軍隊でらっぱの普通の音を乙音、オクターブ高い音を甲音といった。甲高い音という意味の語源である。こんなところにも暦のきのえ、きのと、甲乙という影響がみられる。寺の鐘の音はゴオンとなるが仏壇の鐘はチーンとなる。仏壇の鐘は小さいので大きい振動数、小さい周期で振動している。もうわかったであろう。白鳥座κ星は長い弦の楽器、ケフェウス座デルタδ星は短い弦の楽器なのである。ラジオでは時報がポーンとなるがこれは正確に880ヘルツで普通の音階の「ラ」より1オクターブ高い「ラ」である。
【変光の原理さまざま】
 では変光星はどうやって振動を起こすのであろうか。星の中心では水素爆弾がいつも燃え続けている。ケフェウス座デルタδ星も中心から原子核反応で生まれたエネルギーが外に輻射で流れている。この輻射エネルギーの一部が星が膨らんだり縮んだりする運動エネルギーに変わっているのである。これは熱機関である。自動車がガソリンを燃やしてでた熱エネルギーを車を動かす運動エネルギーに変えているのと同じことなのである。自動車の場合は熱エネルギーの数10%が車を動かすエネルギーに変換されている。それは人間が考えたものであるので効率的につくってある。自然界の自動車である変光星は熱エネルギーの0.数%が運動エネルギーに変わっているのみである。言い替えれば変光星は自然になりだしている楽器なのである。ケフェウス座デルタδ星は高い音でなっている楽器で、白鳥座κ星は低い音でなっている楽器であるといえる。ケフェウス座デルタδ星型変光星はたくさんの光をだす明るいものほど大きく変光周期も長いので、変光周期をはかれば明るさが推定できる。この関係を利用してわれわれの銀河以外の遠くの銀河の距離を決められる。その銀河の中のケフェウス座デルタδ星型変光星の変光周期から決めた明るさと観測される見かけの明るさを比較して、見かけの明るさが暗ければそれだけ遠いというわけである。
【まちがえられていた銀河系の大きさ】
 1950年にアメリカのバーデという天文学者がそれまで使われていた周期と光度の関係が間違っていてケフェウス座デルタδ星型変光星はそれまでに考えられていたより1.5等明るいことを発見した。これは大変な発見であった。見かけの明るさが変わらないのに本当の明るさが4倍だったのだから、すべての銀河の距離が2倍になってしまった。それまでわれわれの銀河系は普通のより2倍大きいと思われていたのであるが、それも他のたくさんの銀河と同じ大きさになってしまった。天文学者たちは自重的にいう。神様が宇宙をつくりバーデがそれを2倍にした。
【変光星を用いた星団の距離の測定】
 白鳥座κ星のようなミラ型変光星は星が膨張したとき、ガスをはきだしそれが衝撃波になって高温になる。するとスペクトルに吸収線でなく明るい線(輝線)があらわれる。こと座にこと座RR星という変光星がある。明るいときでも7等なので肉眼では見えない。13.6時間の周期でやはり膨らんだり縮んだりして7等と8等の間を変光している。これがこと座RR星型変光星の特徴である。
この型の星は明るさが大体おはじなので球状星団の中でこのタイプの星を見つけると、球状星団とは星がぎっしりと丸い形に集まった星団をさす同時に生まれた星の集団と考えられているが、その見かけの明るさとこと座RR型変光星の明るさを比較して、その球状星団の距離を決めることができる。こと座はLYRと書いて英語でライラとよぶ。だからrr型こと座変光星はRRLyrで発音が難しい。
 かんむり座にはかんむり座r星とよばれる変わった変光星がある。明るいときでも6等星で肉眼でやっと見える明るさである。普段は一定の明るさであるが、ときどき数等から10等近い幅で暗くなり数十日かかってだんだんもとに戻る。かんむり座r星型変光星の代表である。この星は変わった星で、太陽などはほとんどが水素でできているのであるが、この星はほとんどがヘリウムでできている。水素はほとんどなくて次に炭素が多い。星から突然ガスが噴出して冷えて固体の炭素のススができて星の光を遮って暗くなるのだろうと考えられていた。実際に赤外線観測によってこの考えが正しいことがわかったのは1979年代である。それまでは赤外線観測の技術がなかったのである。炭素のガスに吸収された輻射エネルギーは低温のススの赤外線を放出する。赤外線望遠鏡でみればこの星は暗くないのである。
 さそり座のアンタレスの左の星がタウτ星である。星の大気の温度、圧力差による変化をきちんと計算にいれて星の吸収スペクトルの解析がなされたのはこの星が最初である。太平洋戦争中のことであった。それまでは星の大気の温度圧力を一つの点で代用して吸収線の解析をしていた。コンピューターのない当時は大変な計算をしたという。星の深さまでいれて吸収線の解析をしたのがこの星であった。
【いて座の方向は銀河中心】
 さそり座のとなりのいて座には、われわれの銀河の中心がある。地球から2万8千光年はなれているので、光は星間にある微粒子に吸収されて可視光線ではこの銀河中心はみえないが、電波や赤外線では見える。強い電波源でいて座AまたはサギタリウスAとよばれて、見かけの直径は角度の25分程度である。この電波源の広がりは月ほどの見かけ上の大きさを占める。サギタリウスAは直径250光年の巨大な分子雲で激しく運動をしている。太陽は銀河中心のまわりを秒速220キロの早さで回転している。
【銀河中心のブラックホール】
銀河中心には古い星が多い。星が寿命に達すると赤色巨星となり超新星爆発をして白色矮星となる。超質量の物体である。この物体が銀河中心には多く存在する。多くのブラックホールはこの白色矮星により作られ周囲の水素原子をはじめとする元素が降着円盤としてブラックホールに吸い込まれている。この高速で回転する原子の流れを観察しスペクトル分析することでブラックホールが証明できる。最近Nature誌373巻127頁1995年にMiyoshi Mらの日本人天文学者が「Evidence for a black hole from high rotation velocities in a sub-persec region of NGC4258」を発表した。これは銀河中心に近い渦巻銀河NGC4258の中央、1パーセクの数分の1の領域に、高速回転するブラックホールの証拠を発見したものである。

【星雲とは】
 こと座には環状星雲という輪の形をした星雲があり小さな望遠鏡でもよく見える。大昔は望遠鏡でみて点でなく面積をもったものは皆ネブラと呼んだ。ラテン語で霧という意味で、英語でもネブラである。ドイツ語でもネーベル(霧)という。日本語では星の雲(星雲)と訳されたがこれにはさまざまな天体が混じっている。英語で大星雲(グレートネブラgreat nebula)といわれるものが2つある。夜遅くまで起きていれば、東北の空に見えるアンドロメダ座の大星雲と明け方まで起きていればみることのできるオリオン座の大星雲である。アンドロメダはエチオピアの王ケフェウスと王妃カシオペアの王女である。4つの2等星が1列に並ぶが、その真ん中から少し北にはずれたところに肉眼でもぼんやり見えるのが大星雲である。
【トランプカードのオリオン座のなかのアンドロメダ大星雲】
 オリオン座はトランプのカードのような形をした星座で狩人オリオンである。オリオンの三つ星が有名であるが、これはオリオンの腰のベルトである。そのベルトに剣がぶら下がっている。その剣の場所に肉眼でもぼんやりと星雲らしきものを認めることができる。アンドロメダ大星雲はわれわれのとなりの銀河である。オリオン大星雲はわれわれ銀河の中の天体である。

【環状星雲】
 こと座の環状星雲(ring nebula)は惑星状星雲でわれわれの銀河系内の星雲である。環状星雲はじつは環ではなくゴムマリの様な天体なのである。ゴムマリの中心をまっすぐ針で刺せばゴムの中にある針の部分はゴムマリの厚さぐらいであるが、ゴムマリの端を刺せばゴムの中にある針の部分はずっと長い。この理由で環状星雲の中心部は光を出すほどガスがなく、透けて見える。ゴムマリの端の方でも連続スペクトルでは何も見えないほど薄いガスであるが、吸収線の波長では高温のガスであるため逆に赤い線、輝線として光っている。この輝線によりこのガス星雲はゴムマリの環のように見える。ちょうど皆既日食の時の太陽の彩層が吸収線であったものが急に輝線になるのと同じ原理である。白鳥座カイκ星で輝線が見えるのも同じである。

【日本最大の反射望遠鏡】
 現在日本最大の望遠鏡は岡山県にある。新倉敷と福山の間の鴨方という町にある。鴨方というのは桃とそうめんの産地として知られている。駅からバスで山の上まで上りさらに2km歩く。直径188cmの反射望遠鏡がある。この望遠鏡は全国の大学の共同利用である。交代に全国から学者が観測に来る。誰が何月何日に望遠鏡を使うかというプログラムが1年も前からきまっていて雨の日に当たった人は運が悪いというわけである。プログラムは普通5日間ぐらいで交替する。観測中は徹夜である。冬はだいたい夜が14時間あるので晴続けると非常な重労働である。恒星の分光観測の場合、分光器の細いスリットの上に星の像を結ばせる。恒星は大望遠鏡でも点にしか見えない。しかし地球大気が揺らぐので恒星の像は実際には10秒ぐらいの角度にぼける。星の像をスリットの上に一様になるように望遠鏡を上下に動かす。この単純な仕事を何時間も続けるのである。食事は昼と晩と夜中にとる。夜食は夜中の曇ったときなどに食べる。
【長生きをする星】
 冬の夜のおおいぬ座の東南、四国の山の上にカノープス星を発見した。カノープスというのはりゅうこつ座のα星で全天でシリウスの次に明るい星である。この星をみると長生きをするといわれている。この鴨方の竹林山天文台にはコロという人なつこい犬がいたそうである。この天文台は370mの山の上にあるので瀬戸内海が一望できる。月夜の夜などは海面が光り島島がシルエットになり絶景である。いまは高感度イメージ増強管やCCDカメラを写真の代わりによく用いる。最近、日本のメーカーがイメージ増強管を中国に輸出しようとしてCOCOM(共産圏への武器の輸出禁止法)の理由で日本の警察に捕まったそうである。軍事目的に使えるからという理由からであった。これはもともとベトナム戦争の時、アメリカ軍が夜ベトナム兵を発見するために開発したものである。中国の天文学者はこのとばっちりで使えないのである。星の観測は暗いところで高い梯子を昇ったりして危険である。けがをした人はたくさんいる。イメージ増強管が使われるようになってから感電の危険も出てきた。天文観測も楽ではない。
 最近、南アフリカに黒人政権が誕生した。オランダは南アフリカに天文台をもっている。さらにオランダには植民地の関係でインドネシア人の天文学者が数人いたが、アパルトヘイトのために南アフリカの天文台には入れなかった。しかし今度からは観測に出かけられるようになったのは喜ばしいことである。
 
天文家A「銀河の中心を見ていると吸い込まれるようだよ」
天文家B「そうだよ、たくさんのブラックホールがあるからね。何でも吸い込むんだよ。君の心も吸い込まれていくんだよ」おそまつでした。杉太郎
 



地球の形
【アンパンの地球】
 地球は赤道半径6378km、極半径6357kmの回転楕円体である。回転楕円体とは楕円を回転軸の周りに回転した形で、短軸の周りに回転するとアンパンのような形になるので英語でパンケーキ型(pan-cake type)の回転楕円体という。地球がそうである。長軸の周りに回転するとどんぐりのような英語で葉巻型(cigarette type)の回転楕円体となる。こういう天体はめったにない。
【北極もまわっている】
 地球はコマである。物理学の言葉を用いると固定点を支えられて力の働かないコマ(force free top)と呼ぶ。この場合、簡単な性質が理論上でてくる。厳密にいうと地球の時点軸と北極は少しずれている。角度にして0.3秒である。北極の氷の上で約9mずれているのみである。北極は時点軸の周りを廻っている。地球を剛体、すなわち押したり引っ張ったりしても形が変わらないとすると305日で1周する。これをオイラーの周期という。しかし地球は伸び縮みする弾性体なので約403日で1周する。これをチャンドラーの周期という。地球が太陽の周りをまわる公転方向を北極の方からみると地球は左まわりに自転している。地球が太陽のまわりをまわる公転も左まわりである。地球が360度自転するにはおよそ23時間56分かかる。空の星はこの時間で一周する。ところが地球はT年およそ365日で太陽のまわりを1周するので1日に約1度まわる。それで太陽が真南にきてから翌日真南に来るまでにはさらに角度の1度、時間にして約4分地球は自転しなければならない。それでT日が24時間になる。
【天文台の時計】
 星座は日を追うごとに4分ほど早く天空に現れる。そのため夏にはさそり座が見え、冬にはオリオン座が見える。英語では地球の自転のことをrotation(回転)という。公転はrevolutionという。ところがフランス革命などの革命もrevolutionという。これは偶然なのか意味があるのかわからない。T日23時間56分の時間を恒星時と呼ぶ。天文台で星の観測をするとき望遠鏡を恒星時に合わせる。望遠鏡の横にある時計は恒星時で動いている。それで夏には6時間ぐらい普通の時計よりは進んでいる。見学にきた人はよく天文台の時計は狂っているというが、地球を東向きにT周する船に乗ると毎日、日の出が少しづつ早くなりT周するとちょうど1日多くなる。マゼランが初めて世界を1周したとき、航海日誌の日数がその地点にとまっていた人の日数より1日少なかったというのは有名な話である。マゼランはスペインから大西洋、アメリカ、太平洋と西向きに地球を1周したからである。マゼランはフィリッピンで殺され、部下のエルカノが世界を1周した。1519年から1522年のことである。恒星時であると1年がちょうど1日多いということになる。
【緯度の測定】
 岩手県水沢市に、今は国立天文台の一部であるが、長い間緯度観測所として知られた観測所がある。北緯39度8分の線に頭のてっぺんだけをみる天頂儀という望遠鏡が並んでいる。天頂を正確に決めることは不可能であるが、天頂のほんのすこし南をとおる星とほんのすこし北をとおる星との天頂からの角度の差は望遠鏡を180度回すと正確に測ることができる。これで緯度が正確にもとまる。恒星はどんな望遠鏡でみても点にしか見えない。しかし地球大気の揺らぎにより角度の5秒か10秒にぼけてみえる。しかし水沢の観測所の研究員たちは1000分の1秒まで正確に求める。非常に精密な緯度測定器で天文学者でもその装置の担当でなければ装置にさわるのをためらうほどである。世界中で同緯度で同観測を行っている。2ケ所のデータがあれば自転軸が決まる。3か所以上で観測すると観測誤差がでるはずである。昔、国際会議で各観測地での緯度観測値を調べたところ日本の観測地は誤差が大きいと言われたことがあった。そのとき日本の木村栄(ひさし)博士は解析する式のxの項とyの項と観測地の経度によらない常数zをつけ加えると逆に日本の観測地がいちばん精度がよいことを示した。これが有名なz項である。水沢の観測員たちは木村博士のz項の発見をたいへん喜んだ。水沢のひとのこの喜びは現地の盆踊りの水沢音頭にもでている。
 天文学にはノーベル賞はない。もっとも最近は物理学賞をもらう人がときどきいるが、イギリス王立天文学会の金メダルがノーベル賞に相当する。日本でこの金メダルをもらった人は木村栄博士ただ一人である。
【六分儀】
 昔の海賊映画によくみられる六分儀(セクスタント)は手で持てる機械で星の水平線からの角度を測ることができる。その地点の経度、緯度がわかる。今、船や飛行機は人工衛星や電波を使って航海するが、大韓航空機事件の時、この方法で自らの位置を測定していればよかったのにと悔やまれる。
【歳差運動】
 地球はコマなのでまわりながら首を振る。俗に「みそすり運動」とよばれるが、物理学では歳差運動とよばれる。コマの歳差運動と違うところは、コマの場合は重心にコマを倒そうとする力が働くので、自転と同じ向きに歳差運動をする。しかし地球の場合は、潮汐力が地球を逆に起こそうとするので、自転軸は自転と逆の方向に歳差運動をする。
【天球】
 天球とは頭の上に見える天のおわんである。天の北極は今の北極星のすぐそばである。地球の公転面に垂直な点、つまり23.5度はなれた黄道と極のまわりを約2万6千年で1周する。赤道面が天球を切る面を天の赤道、地球の公転面の上を黄道面とよぶが、これが天球を切る円を天の黄道と呼ぶ。天の赤道と天の黄道の交わる点を春分点と秋分点と呼ぶ。太陽は地球からみると1年間で天の黄道上を1周する。春分に春分点にいる。春分点、秋分点は歳差運動のために1年に角度で約50秒動く。365度を26000で割ると50秒になる。
【赤経と赤緯】
 恒星を観測するとき恒星は天の赤道と春分点を基準とした経度、緯度つまり赤経、赤緯として座標にでているが、1900年か1950年の正月の値であるので、このことを1900年または1950年の分点と呼ぶ。それを1994年の値に補正しなければならない。ボン星図に歳差補正を求める計算図表がついている。
【地球の自転周期】
 地球の自転は海の潮汐の摩擦のために100年間に1日の長さが1000分の1.6秒長くなる。東京三鷹の国立天文台などにある原子時計は10億分の1秒の精度がある。地球の自転の変化を測れる。地球の自転が1秒近くになると2、3年にT度、1月1日か7月1日の世界時0時、つまり日本時間の午前9時に世界中の時計を1秒遅らせる。去年も今年も7月1日に入れられた。これを閏(うるう)秒という。国立天文台の時刻の専門家によると閏秒を入れることはだんだん減り、いまにマイナスの閏秒になるかも知れないという話である。電話の時報サービスのとき閏秒のときには午前9時の100秒前から1秒を少しづつ長くして午前9時にちょうど時刻が合うようにするそうである。
【地球に働く3つの力】
 地球は自転しているので地球上の物体はその影響を3種類の力で受ける。第1は遠心力である。遠心力はその質量、地軸からの距離、角速度の2乗の掛け算でもとまる。遠心力は直感的に非常によくわかる。陸上競技のハンマー投げを思い出してみよう。ハンマーをぐるぐるふりまわすと強く外に引っ張られる。これが遠心力である。地球上の物体に遠心力が働くので、その地点の重力は地球の引力にこの遠心力を加えたものである。
 第2はコリオリの力である。これは北半球で物体が動くと、運動方向に右向きの力が働くことである。この力は非常にわかりにくく説明するのは不可能に近い。気象学に重要なので気象学者たちは一般向きの本でいろいろ苦心して説明している。ある人は大きな渦巻の上にいる船を考えた。ある人は地球を禿げ頭と考えた。しかし微分方程式を書くのがいちばん分かりやすいのであるが、その詳細は省く。
パリにパンテオンという大きな丸屋根の付いた寺院がある。地下はお墓になっていて、ヴィクトルユーゴなどの有名な人が眠る。今年1994年キューリー夫人がやっと祭られた。1851年フーコーという物理学者がこの丸天井から長い振り子を振らせた。すると振動面がだんだん周り北緯49度のパリでは約32時間で1周した。北極で振り子を振れば振動面は24時間で1周する。ではなぜパリで32時間、東京で41時間でまわるのかわかりにくい。この説明も次の事実にゆずる。
*コリオリの力(効果)と台風の眼
 毎年梅雨があける頃から日本は台風に襲われる。台風は熱帯で海水が熱せられ上空に上がり膨張した水蒸気を含んだ気団である。密度が粗になるために他の大気に比較し著しい低気圧となる。なぜかこの台風は北半球では左巻きの渦をつくりその中央に眼を持っている。
 誘拐され部屋に閉じこめられたまま位置がわからずにいたある物理学者が、水道の水を流し長時間の後には左巻きの渦をつくることから、自分が南半球に来たことを推測し脱出を企てるという推理小説がある。
 1831年気象学者レッドフィールド(Redfield WC米1789−1857)はハリケーンが1821年9月3日、ニューイングランド地方を襲った直後、コネチカットを旅行した。このとき彼は木の倒れ方から、暴風は渦を巻きながら北東に進んだことに気がついた。その後彼は暴風の研究に取り組み、1831年、風が反時計回りに渦を巻くように吹くことを指摘した。
 1835年物理学者コリオリ(Coriolis GG仏1792−1843)が回転面上における運動とくに転向力の問題に取り組んだ。ところで地球は自転をしているので、赤道上の1点は24時間で4万km、1時間に約1700kmの距離を動くことになる。ところが北あるいは南に向けて赤道から遠ざかるにつれ、その地点が地球の自転によって1日の間に描く円の大きさは次第に小さくなり運動もゆっくりになる。そして極点では運動はとまってしまう。さて赤道付近にある多量の空気あるいは水を想定すると、それは1時間に約1700kmの距離を西から東へ運ばれることになる。それらが北へ移動してもその速度は変わらないが、下にある固い地面の運動は赤道付近よりはゆっくりになる。したがって空気や水は地面の運動を追い抜き、東向きに曲線を描くことになる。逆に空気や水が北から赤道に向かって移動するときには、地面のほうが速く動くので、空気や水は西向きに曲がることとなる。
 この曲線運動はコリオリの効果(力)といわれ、これによって、空気や水が赤道の北と南で反対向きに円を描く現象が説明されている。
 地球は非常に大きいので、ふつうの条件下ではコリオリの効果が顕著に現れるほど、われわれが速く運動することはない。しかし人工衛星の打ち上げやミサイルの発射などではこの効果を考慮する必要性が生じてくる。
【コリオリの力を観察できる国立科学博物館】
 東京の上野の国立科学博物館に50kgの球が19mの天井から吊るされている。この球は振動運動を続けている。球の最大振幅の軌跡は円を描く。球の先端に針がとりつけられており、円状の軌跡となる最大振幅の場所に周囲を1800に刻んだ目盛りが一部にとりつけられている。東京では6分間に1目盛り動く。1時間に9度近く振れる方向が変わる計算になる。この振り子が一周するには41時間を要する。地球の緯度によりこの周期が変わるので緯度の計算はこの振り子の円運動の周期を計算して求められる。
 北半球で野球をやる限りピッチャーの玉は右バッターに対しつねにインシュートをする。プロ野球の投手の球の速さを140kmとすると札幌でも福岡でもインシュートする球のコースでの差は1mm以下である。だからどんな速球投手でも計算にいれない。でも自衛隊が大砲を撃つときは、目標の左をねらう。
 第3はコマの力という。これは回転系すなわち地球の回転角速度が変化しているときのみ働く。この力は普通の天文学や物理学の本にはでていない。すべての物理学書は回転系の角速度を一定としているからである。
【公転】
 地球や惑星が太陽の周りをまわる公転の問題にはいろう。水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星それに約100個の周期彗星、約3000個の小惑星が太陽の周りをまわっている。小惑星はほとんど火星と木星の間をまわっている。イカルスという小惑星は帚星(ほうきぼし)のように太陽のすぐ近くまでくる。それでギリシャ神話にある太陽まで飛んでいこうとして焼け落ちた神様の名前が付いている。さていちばんはじめに発見された小惑星はセレスという星で1801年のことである。こういった惑星、小惑星、彗星の大部分は地球の軌道面すなわち黄道面とほとんど軌道が同じで同じ向きにまわっている。ただハレー彗星は逆向きにまわっていた。古代の中国では土星までの惑星はすでに知られていたので水、金、木、火、土の五元素の名前が付いている。
【流星群】
 公転軌道に出現する星としてこのほかに流星群がある。流星群とは帚星が壊れてできたものである。シシ座流星群、おとめ座流星群とかよくその現れる星座の名前をつける。昔、ジャコビニ流星群という星の出現によって世界中が大騒ぎになったことがある。たくさん流星群が出現するというので、アマチュア天文家たちがボーリング場のサーチライトを消せという運動を行ったのである。ボーリング場のサーチライトがそのころは空をぐるぐるとまわっていたのである。
【惑星の名前】
 中国と同様に英語でも惑星に名前が付いている。これはギリシャ神話からとったものである。水星はマーキュリー(mercury)でこれは商業の神である。よく商業高校の記章にこの星を型どったものがみられる。金星は(venus)で美の女神である。火星は(mars)で戦争の神である。木星は(jupiter)でいちばんえらい神である。土星はサターン(saturn)で農業の神である。天王星から外は近代になってから発見されたので天王星はウラヌス(uranus)という神から日本人が銘々した。フランスのルフェリエは天王星の軌道のくるいから海王星の位置を予言し見事に予言通り発見した。惑星運動理論で画期的なことでいまでもパリ天文台に銅像が建っている。ネプチューン(neptune)は海の神で日本では海王星と訳された。ルフェリエのまねをして海王星の軌道のくるいからプルート(pluto)が発見された。プルートは地獄の神でなく地獄の犬なのである。日本語で冥王星と訳された。
【楕円の特異性】
 全部の惑星は太陽を焦点とする楕円軌道を回っている。2本の針にたるんだ糸をつけその糸をピンと張りその糸に沿って鉛筆をぐるりと回すと楕円が描ける。その楕円の焦点が針の位置である。焦点とは内側が楕円の鏡をつくり一方の焦点から光を出すとその楕円で光は反射してもう一方の楕円の鏡に反射し他方の焦点に集まるのである。昔シカゴに天井が回転楕円体の酒場があり、ひとつの焦点のところでヤングたちが密談をしていたところ、刑事たちはもう一つの焦点のところに座ってその話を聞いたそうである。また医学では腎臓結石を手術しないで砕く方法が開発された。回転楕円体の浴槽をつくり患者の腎臓を一つの焦点におき、他方の焦点から衝撃波を発生するとその衝撃波は腎臓に集まり結石を破壊する。
【放物線】
 帚星は楕円のみでなく放物線軌道のものもある。この帚星はもう帰ってこない。焦点から発生する光を集める放物面の鏡をつくると平行光線となる。逆に平行光線をこの反射鏡を用いて集めると焦点に集まり反射望遠鏡ができる。放物線はすべて相似形なのを知っているであろうか。とがった放物線の先を虫メガネで拡大するとその先はすべて鈍なのである。また双曲線軌道の帚星は存在しない。ティコ・ブラーエは精密な星の観測をした。この観測をもとにヨハネス・ケプラーは有名なケプラーの法則を17世紀のはじめに発見した。ケプラーの第1法則は惑星は太陽を焦点とする楕円軌道を描く。ケプラーの第2法則は太陽と惑星を結ぶ径が単位時間に描く面積は常に一定である、面積速度が一定である。ケプラーの第3法則は惑星の公転周期の2乗は太陽からの平均距離の3乗に比例する。平均距離は楕円の長軸の半分で長径ともいう。数学では長半径なのであるが天文学では英語のsemi-measure accessの直訳なのである。
【引力と斥力】
 太陽から惑星に働く力は引力か斥力である。引っ張る力か押す力であれば惑星は平面運動をする。でも第1法則がなりたつためには、距離の2乗に反比例するニュートンの万有引力でなければならない。距離の3乗に反比例する引力であると軌道は対数螺旋になりぐるぐる回りながら太陽に落ち込んでしまう。距離に比例する引力であると2次元の振り子になる。数値的に解くのではなく式をいじって解くのであれば力が距離の何乗かに比例するかまたは何乗かに反比例するときのみである。第2法則は万有引力ではなくても引力か斥力であれば一般に成立する。これは物理学でいう角運動量保存則である。難しいね。面積速度というのは惑星が動きながら太陽とつくる扇型の面積が増える割合である。もし惑星が円運動をしていれば半径かける円運動の速さになる。円運動でないときは太陽までの距離に軌道運動速度の太陽と直角方向の成分をかけ算したものになる。これに惑星の質量をかけたものが角運動量である。角運動量一定の法則の説明にバレーやフィギアスケートでくるくる回っているときに手をのばせばゆっくり回り、手を縮めれば速く回ることでたとえられる。事務室にある回転椅子に座って床を蹴飛ばすとぐるぐる回る。足をのばしたり縮めたりすると回転速度が遅くなったり速くなったりするのがわかるであろう。
【近日点と遠日点】
 地球が太陽にいちばん近づく点を近日点という。太陽にいちばん遠くなる点を遠日点という。この距離の差は近日点の距離/遠日点の距離=97%である。近日点では遠日点より速度で3%速く動く。いま超高層ビルがたくさん建つようになった。もしかすると地球の自転は少し遅くあるかもしれない。地球が近日点に来るのは毎年1月である。では南半球の夏の方が北半球の夏より暑いのであろうか。自転軸が23.5度傾いて太陽の方向に向く影響の方がはるかに大きくこの距離の差は問題にならない。太陽が北半球を照らすときが北半球の夏である。北緯23.5度の地点であると夏至の日に頭のてっぺんに太陽がくる。台湾の北緯23.5度の地点に北回帰線の記念碑がある。
【猫の反転】
 猫の前足を持って落としてもなぜ前足から落ちるかというのは物理学の謎であった。この実験は多くの引っかき傷を残したそうだ。頭としっぽを結ぶ軸の周りに最初角運動量をあげる。それがくるりと回って前足から落ちるのであるから角運動量をもらうようになるのである。この実験は暗闇で猫の運動をストロボ写真を撮ることで解決した。上半身と下半身を逆の方向にひねるのである。前足が少しでも床に付けば猫はエイと体をひねってちゃんと後ろ足をつけるのである。猫は角運動保存則を知らないが本能的にそうやっているのである。でも実験を自分でやらないときのすまない人がいて「猫は2階から落とすとちゃんと立つが、3階から落とすと死ぬ」という人がいた。猫はこんな人がいるとたいへん迷惑である。さて第3法則は太陽に対して惑星の質量を無視して成り立つ法則である。すなわちこの法則は近似法則である。万有引力の法則をケプラーの第1および第2法則から数学で導くことができる。大学の教養課程程度の数学である。ニュートンはリンゴが落ちるのをみて万有引力の法則を発見したのではなく、ケプラーの法則から数学で導いたのである。
【円と楕円と放物線と双曲線】
 惑星と太陽の間に働く力が距離の2乗に反比例するニュートンの万有引力のとき楕円か放物線か双曲線になることが知られている。この3つの曲線を円錐曲線という。円錐を軸に垂直の平面で切ると切り口は円になる。少しづつ斜めに切ると面は楕円になる。円錐の斜面に平行に近い面できると放物線になる。もっと急な面できると双曲線になる。円錐曲線というのはおもしろい性質がある。ボール紙でトンガリ帽子をつくり中にピンポン球をいれる。次に野球の球をいれる。そしてピンポン球とも野球の球とも接する面でこの円錐を切ると、切り口は楕円になる。2つの球との接点はその楕円の焦点になる。ケプラーの法則は惑星とその周りの衛星の関係でも成立する。平均距離の3乗と公転周期の2乗の比はその惑星の質量に比例する。太陽の周りの惑星の運動の比は太陽の質量に比例する。衛星系の場合にもケプラーの第1法則、第2法則は成立する。連星の場合にもケプラーの法則は成立する。
【連星】
 銀河系に多く存在する連星ではこの2つの恒星が互いに引力でぐるぐると回っているのである。万有引力の法則はその2つの星の質量の積に比例し、距離の2乗に反比例する。万有引力の法則は宇宙のどこでも成立する。2.00000001でもなく1.999999999出もなく常に正確に2なのである。これは天文学がいくら発展しても証明することができないであろう。神が決めたというほかない。ちょうど2でないと閉じた軌道にならないのである。不思議なことはまだある。普通、運動を解くのにはエネルギー積分というものを使うのであるが万有引力の時だけはこれを使わずに巧妙に積分することができる、すなわち解くことができるのである。さて新しい箒星が発見されると3回観察されると軌道が決められる。放物線軌道を決めるのにオルベルスの方法があり昔は5桁な対数計算で3日、名人だと半日で計算を終えた。現在はコンピューターがあるのであっという間に軌道の答が出てしまう。計算はどんなに複雑でもパラメター(変数)を変えるのみであるので非常にコンピューター向きなのである。
【地球の内部の引力】
 さて地球を密度の一様な球とすると地球の外では地球の中心からの距離の2乗に反比例している。つまり地球の全質量が地球の中心にあると考える。では地球の内部ではどうなるであろうか。東京から地球の中心に向かって井戸を掘るとしよう。中心をとおり越して東京の反対側アルゼンチンの沖大西洋にでる。地球の内部の点でこの井戸のT点に働く引力を計算すると地球の中心からの距離に比例する引力になる。振り子は振幅に関係なく一定の周期で振れるが振幅は糸の長さにくらべて充分に小さくなければならない。サイクロイド振り子というものがある。自転車の車の地面に接している部分にリボンで印をつけて自転車をゴロリところがすと半分転がるとリボンは最も高い位置に来る。もう半分転がすとリボンはまた地面のところに来る。横からリボンの運動をみていると蒲鉾を輪切りにしたような軌跡を描く。これをサイクロイドという。これをひっくり返した面にパチンコの球を転がすと振幅がどんなに大きくても小さくても同じ周期で振動する。これをサイクロイド振り子という。
 密度が一定で無限に長い円筒があるとする。その外では円筒からの距離に反比例しその中では円筒の中心からの距離に比例する引力が働く。東京から先のトンネルを利用して石を落とすと無限に単振動の運動をする。もちろん真空を仮定してである。
【人工衛星の話】
 英語でartificial satelliteとよばれるのが人工衛星である。artは芸術であるがartificialは芸術的ではなく人工的のという意味である。ドイツ語でもKunstlicher Satelliteという。現在までに数千個の人工衛星が打ち上げられた。いちばん多いのがロシア、つぎがアメリカで日本は3番目である。中国やインドやドイツ、イギリス、フランス、イタリア、ルクセンブルク、カナダも打ち上げている。日本は気象衛星や放送衛星などの実用衛星を宇宙開発事業団が種子島からうちあげてX線観測衛星などの科学衛星は文部省の宇宙科学研究所が鹿児島県内之浦から打ち上げる。人工衛星が、簡単のために、円運動をしているとすると周期は地球の中心からの距離の2分の3乗に比例する。ケプラーの第3法則である。低い人工衛星は速く回り、高い人工衛星はゆっくり回る。地上3万5790km
の高さで周期が23時間56分つまり地球の自転周期と一致する。赤道の上をこの衛星が回るといつも地球のT点の上にいる。これが静止衛星である。静止衛星が3機あれば地球上を全部見渡すことができる。しかし実際静止衛星は交通整理が必要なほどたくさん飛んでいる。まだまだ打ち上げたい国が多くあり政府間交渉が行われる有り様である。日本の気象衛星は日本をきれいに映し出すがヨーロッパの気象衛星はアフリカ上空なのでアフリカがいっぱいに映ってしまう。肝心のヨーロッパの雲をみるには非常に不便である。ヨーロッパの雲は北の方に片寄って非常に小さく見えるのである。われわれは小学校の教室に張ってあるメルカトル図法の地図を見慣れている。北や南が拡大される。実用衛星には華の名前をよくつける。「きく」や「うめ」ウメがとんだのである人はつぎは「ぼたん」だといったが実際は気象衛星「ひまわり」であった。人工衛星に人を載せるのは非常に危険である。1986年アメリカのチャレンジャーが人工衛星の打ち上げに失敗し宇宙飛行士7人が焼け死んだ。すごい量の燃料を積んでいるので火事になると消しようがないのである。あれよあれよ、と見ているのみであった。1971年にソユーズ11号というロシアの人工衛星が地球に還るとき酸素漏れで3人の宇宙飛行士が死亡した。ロシアでは打ち上げの時に数10人死亡したこともある。アポロ13号は月にいく途中で事故を起こし大ピンチになったが、関係者の必死の努力でやっと地球に還ることができた。太陽面の爆発を観測するX線衛星「火の鳥」打ち上げ準備でX線実験をし過ぎて田中勝男さんが白血病にかかり火の鳥は打ち上げに成功したが田中さんは40歳代で死亡した。人工衛星は人間を載せない方がよい。毛利さん、向井さんは無事に還ったがスペースシャトルは帰還するとき飛行機で着陸する。今までの人工衛星は落下傘で着陸していた。再利用の点でスペースシャトルは優れた方法であると考えられる。
【スペースとは宇宙のこと?】
 スペースとはロケットがやっと行ける太陽系内の狭い空間のことである。日本語で宇宙空間と訳す。でも世間の人は宇宙全体と思ってしまう。これは困ったことである。   
 
学生A「そこのスペースをあけてくれよ」
学生B「なにをいってるんだ。われわれはスペース(宇宙)に住んでいるんだぞ」学生A「ちょっとのスペースでいいんだよ」
学生B「なに言ってるのさ。スペースは大きくて無限なんだよ」
                    お粗末さま    杉太郎


人生最大の哲学書、私の愛読書、鴨長明の方丈記

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れ(やけイ)てことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。』およそ物の心を知れりしよりこのかた、四十あまりの春秋をおくれる間に、世のふしぎを見ることやゝたびたびになりぬ。いにし安元三年四月廿八日かとよ、風烈しく吹きてしづかならざりし夜、戌の時ばかり、都のたつみより火出で來りていぬゐに至る。はてには朱雀門、大極殿、大學寮、民部の省まで移りて、ひとよがほどに、塵灰となりにき。火本は樋口富の小路とかや、病人を宿せるかりやより出で來けるとなむ。吹きまよふ風にとかく移り行くほどに、扇をひろげたるが如くすゑひろになりぬ。遠き家は煙にむせび、近きあたりはひたすらほのほを地に吹きつけたり。空には灰を吹きたてたれば、火の光に映じてあまねくくれなゐなる中に、風に堪へず吹き切られたるほのほ、飛ぶが如くにして一二町を越えつゝ移り行く。その中の人うつゝ(しイ)心ならむや。あるひは煙にむせびてたふれ伏し、或は炎にまぐれてたちまちに死しぬ。或は又わづかに身一つからくして遁れたれども、資財を取り出づるに及ばず。七珍萬寳、さながら灰燼となりにき。そのつひえいくそばくぞ。このたび公卿の家十六燒けたり。ましてその外は數を知らず。すべて都のうち、三分が二(一イ)に及べりとぞ。男女死ぬるもの數千人、馬牛のたぐひ邊際を知らず。人のいとなみみなおろかなる中に、さしも危き京中の家を作るとて寶をつひやし心をなやますことは、すぐれてあぢきなくぞ侍るべき。』また治承四年卯月廿九日のころ、中の御門京極のほどより、大なるつじかぜ起りて、六條わたりまで、いかめしく吹きけること侍りき。三四町をかけて吹きまくるに、その中にこもれる家ども、大なるもちひさきも、一つとしてやぶれざるはなし。さながらひらにたふれたるもあり。けたはしらばかり殘れるもあり。又門の上を吹き放ちて、四五町がほど(ほかイ)に置き、又垣を吹き拂ひて、隣と一つになせり。いはむや家の内のたから、數をつくして空にあがり、ひはだぶき板のたぐひ、冬の木の葉の風に亂るゝがごとし。塵を煙のごとく吹き立てたれば、すべて目も見えず。おびたゞしくなりとよむ音に、物いふ聲も聞えず。かの地獄の業風なりとも、かばかりにとぞ覺ゆる。家の損亡するのみならず、これをとり繕ふ間に、身をそこなひて、かたはづけるもの數を知らず。この風ひつじさるのかたに移り行きて、多くの人のなげきをなせり。つじかぜはつねに吹くものなれど、かゝることやはある。たゞごとにあらず。さるべき物のさとしかなとぞ疑ひ侍りし。』又おなじ年の六月の頃、にはかに都うつり侍りき。

いと思ひの外なりし事なり。大かたこの京のはじめを聞けば、嵯峨の天皇の御時、都とさだまりにけるより後、既に數百歳を經たり。異なるゆゑなくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人、たやすからずうれへあへるさま、ことわりにも過ぎたり。されどとかくいふかひなくて、みかどよりはじめ奉りて、大臣公卿ことごとく攝津國難波の京に(八字イ無)うつり給ひぬ。世に仕ふるほどの人、誰かひとりふるさとに殘り居らむ。官位に思ひをかけ、主君のかげを頼むほどの人は、一日なりとも、とくうつらむとはげみあへり。時を失ひ世にあまされて、ごする所なきものは、愁へながらとまり居れり。軒を爭ひし人のすまひ、日を經つゝあれ行く。家はこぼたれて淀川に浮び、地は目の前に畠となる。人の心皆あらたまりて、たゞ馬鞍をのみ重くす。牛車を用とする人なし。西南海の所領をのみ願ひ、東北國の庄園をば好まず。その時、おのづから事のたよりありて、津の國今の京に到れり。所のありさまを見るに、その地ほどせまくて、條里をわるにたらず。北は山にそひて高く、南は海に近くてくだれり。なみの音つねにかまびすしくて、潮風殊にはげしく、内裏は山の中なれば、かの木の丸殿もかくやと、なかなかやうかはりて、いうなるかたも侍りき。日々にこぼちて川もせきあへずはこびくだす家はいづくにつくれるにかあらむ。なほむなしき地は多く、作れる屋はすくなし。ふるさとは既にあれて、新都はいまだならず。ありとしある人、みな浮雲のおもひをなせり。元より此處に居れるものは、地を失ひてうれへ、今うつり住む人は、土木のわづらひあることをなげく。道のほとりを見れば、車に乘るべきはうまに乘り、衣冠布衣なるべきはひたゝれを着たり。都のてふりたちまちにあらたまりて、唯ひなびたる武士にことならず。これは世の亂るゝ瑞相とか聞きおけるもしるく、日を經つゝ世の中うき立ちて、人の心も治らず、民のうれへつひにむなしからざりければ、おなじ年の冬、猶この京に歸り給ひにき。されどこぼちわたせりし家どもはいかになりにけるにか、ことごとく元のやうにも作らず。ほのかに傳へ聞くに、いにしへのかしこき御代には、あはれみをもて國ををさめ給ふ。則ち御殿に茅をふきて軒をだにとゝのへず。煙のともしきを見給ふ時は、かぎりあるみつぎものをさへゆるされき。これ民をめぐみ、世をたすけ給ふによりてなり。今の世の中のありさま、昔になぞらへて知りぬべし。』又養和のころかとよ、久しくなりてたしかにも覺えず、二年が間、世の中飢渇して、あさましきこと侍りき。或は春夏日でり、或は秋冬大風、大水などよからぬ事どもうちつゞきて、五※[#「穀」の「禾」に代えて「釆」、544-14]ことごとくみのらず。むなしく春耕し、夏植うるいとなみありて、秋かり冬收むるぞめきはなし。これによりて、國々の民、或は地を捨てゝ堺を出で、或は家をわすれて山にすむ。さまざまの御祈はじまりて、なべてならぬ法ども行はるれども、さらにそのしるしなし。京のならひなに事につけても、みなもとは田舍をこそたのめるに、絶えてのぼるものなければ、さのみやはみさをも作りあへむ。念じわびつゝ、さまざまの寳もの、かたはしより捨つるがごとくすれども、さらに目みたつる人もなし。たまたま易ふるものは、金をかろくし、粟を重くす。乞食道の邊におほく、うれへ悲しむ聲耳にみてり。さきの年かくの如くからくして暮れぬ。明くる年は立ちなほるべきかと思ふに、あまさへえやみうちそひて、まさるやうにあとかたなし。世の人みな飢ゑ死にければ、日を經つゝきはまり行くさま、少水の魚のたとへに叶へり。はてには笠うちき、足ひきつゝみ、よろしき姿したるもの、ひたすら家ごとに乞ひありく。かくわびしれたるものどもありくかと見れば則ち斃れふしぬ。ついひぢのつら、路頭に飢ゑ死ぬるたぐひは數もしらず。取り捨つるわざもなければ、くさき香世界にみちみちて、かはり行くかたちありさま、目もあてられぬこと多かり。いはむや河原などには、馬車の行きちがふ道だにもなし。しづ、山がつも、力つきて、薪にさへともしくなりゆけば、たのむかたなき人は、みづから家をこぼちて市に出でゝこれを賣るに、一人がもち出でたるあたひ、猶一日が命をさゝふるにだに及ばずとぞ。あやしき事は、かゝる薪の中に、につき、しろがねこがねのはくなど所々につきて見ゆる木のわれあひまじれり。これを尋ぬればすべき方なきものゝ、古寺に至りて佛をぬすみ、堂の物の具をやぶりとりて、わりくだけるなりけり。濁惡の世にしも生れあひて、かゝる心うきわざをなむ見侍りし。』又あはれなること侍りき。さりがたき女男など持ちたるものは、その思ひまさりて、心ざし深きはかならずさきだちて死しぬ。そのゆゑは、我が身をば次になして、男にもあれ女にもあれ、いたはしく思ふかたに、たまたま乞ひ得たる物を、まづゆづるによりてなり。されば父子あるものはさだまれる事にて、親ぞさきだちて死にける。又(父イ)母が命つきて臥せるをもしらずして、いとけなき子のその乳房に吸ひつきつゝ、ふせるなどもありけり。仁和寺に、慈尊院の大藏卿隆曉法印といふ人、かくしつゝ、かずしらず死ぬることをかなしみて、ひじりをあまたかたらひつゝ、その死首の見ゆるごとに、額に阿字を書きて、縁をむすばしむるわざをなむせられける。その人數を知らむとて、四五兩月がほどかぞへたりければ、京の中、一條より南、九條より北、京極より西、朱雀より東、道のほとりにある頭、すべて四萬二千三百あまりなむありける。いはむやその前後に死ぬるもの多く、河原、白河、にしの京、もろもろの邊地などをくはへていはゞ際限もあるべからず。いかにいはむや、諸國七道をや。近くは崇徳院の御位のとき、長承のころかとよ、かゝるためしはありけると聞けど、その世のありさまは知らず。まのあたりいとめづらかに、かなしかりしことなり。』また元暦二年のころ、おほなゐふること侍りき。そのさまよのつねならず。山くづれて川を埋み、海かたぶきて陸をひたせり。土さけて水わきあがり、いはほわれて谷にまろび入り、なぎさこぐふねは浪にたゞよひ、道ゆく駒は足のたちどをまどはせり。いはむや都のほとりには、在々所々堂舍廟塔、一つとして全からず。或はくづれ、或はたふれた(ぬイ)る間、塵灰立ちあがりて盛なる煙のごとし。地のふるひ家のやぶるゝ音、いかづちにことならず。家の中に居れば忽にうちひしげなむとす。はしり出づればまた地われさく。羽なければ空へもあがるべからず。龍ならねば雲にのぼらむこと難し。おそれの中におそるべかりけるは、たゞ地震なりけるとぞ覺え侍りし。その中に、あるものゝふのひとり子の、六つ七つばかりに侍りしが、ついぢのおほひの下に小家をつくり、はかなげなるあとなしごとをして遊び侍りしが、俄にくづれうめられて、あとかたなくひらにうちひさがれて、二つの目など一寸ばかりうち出されたるを、父母かゝへて、聲もをしまずかなしみあひて侍りしこそあはれにかなしく見はべりしか。子のかなしみにはたけきものも耻を忘れけりと覺えて、いとほしくことわりかなとぞ見はべりし。かくおびたゞしくふることはしばしにて止みにしかども、そのなごりしばしば絶えず。よのつねにおどろくほどの地震、二三十度ふらぬ日はなし。十日廿日過ぎにしかば、やうやうまどほになりて、或は四五度、二三度、もしは一日まぜ、二三日に一度など、大かたそのなごり、三月ばかりや侍りけむ。四大種の中に、水火風はつねに害をなせど、大地に至りては殊なる變をなさず。むかし齊衡のころかとよ。おほなゐふりて、東大寺の佛のみぐし落ちなどして、いみじきことゞも侍りけれど、猶このたびにはしかずとぞ。すなはち人皆あぢきなきことを述べて、いさゝか心のにごりもうすらぐと見えしほどに、月日かさなり年越えしかば、後は言の葉にかけて、いひ出づる人だになし。』すべて世のありにくきこと、わが身とすみかとの、はかなくあだなるさまかくのごとし。いはむや所により、身のほどにしたがひて、心をなやますこと、あげてかぞふべからず。もしおのづから身かずならずして、權門のかたはらに居るものは深く悦ぶことあれども、大にたのしぶにあたはず。なげきある時も聲をあげて泣くことなし。進退やすからず、たちゐにつけて恐れをのゝくさま、たとへば、雀の鷹の巣に近づけるがごとし。もし貧しくして富める家の隣にをるものは、朝夕すぼき姿を耻ぢてへつらひつゝ出で入る妻子、僮僕のうらやめるさまを見るにも、富める家のひとのないがしろなるけしきを聞くにも、心念々にうごきて時としてやすからず。もしせばき地に居れば、近く炎上する時、その害をのがるゝことなし。もし邊地にあれば、往反わづらひ多く、盜賊の難はなれがたし。いきほひあるものは貪欲ふかく、ひとり身なるものは人にかろしめらる。寶あればおそれ多く、貧しければなげき切なり。人を頼めば身他のやつことなり、人をはごくめば心恩愛につかはる。世にしたがへば身くるし。またしたがはねば狂へるに似たり。いづれの所をしめ、いかなるわざをしてか、しばしもこの身をやどし玉ゆらも心をなぐさむべき。』我が身、父の方の祖母の家をつたへて、久しく彼所に住む。そののち縁かけ、身おとろへて、しのぶかたがたしげかりしかば、つひにあととむることを得ずして、三十餘にして、更に我が心と一の庵をむすぶ。これをありしすまひになずらふるに、十分が一なり。たゞ居屋ばかりをかまへて、はかばかしくは屋を造るにおよばず。わづかについひぢをつけりといへども、門たつるたづきなし。竹を柱として、車やどりとせり。雪ふり風吹くごとに、危ふからずしもあらず。所は河原近ければ、水の難も深く、白波のおそれもさわがし。すべてあらぬ世を念じ過ぐしつゝ、心をなやませることは、三十餘年なり。その間をりをりのたがひめに、おのづから短き運をさとりぬ。すなはち五十の春をむかへて、家をいで世をそむけり。もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。身に官祿あらず、何につけてか執をとゞめむ。むなしく大原山の雲にふして、またいくそばくの春秋をかへぬる。』こゝに六十の露消えがたに及びて、さらに末葉のやどりを結べることあり。いはゞ狩人のひとよの宿をつくり、老いたるかひこのまゆをいとなむがごとし。これを中ごろのすみかになずらふれば、また百分が一にだもおよばず。とかくいふ程に、よはひは年々にかたぶき、すみかはをりをりにせばし。その家のありさまよのつねにも似ず、廣さはわづかに方丈、高さは七尺が内なり。所をおもひ定めざるがゆゑに、地をしめて造らず。土居をくみ、うちおほひをふきて、つぎめごとにかけがねをかけたり。もし心にかなはぬことあらば、やすく外へうつさむがためなり。そのあらため造るとき、いくばくのわづらひかある。積むところわづかに二輌なり。車の力をむくゆるほかは、更に他の用途いらず。いま日野山の奧にあとをかくして後、南にかりの日がくしをさし出して、竹のすのこを敷き、その西に閼伽棚を作り、うちには西の垣に添へて、阿彌陀の畫像を安置したてまつりて、落日をうけて、眉間のひかりとす。かの帳のとびらに、普賢ならびに不動の像をかけたり。北の障子の上に、ちひさき棚をかまへて、黒き皮籠三四合を置く。すなはち和歌、管絃、往生要集ごときの抄物を入れたり。傍にこと、琵琶、おのおの一張をたつ。いはゆるをりごと、つき琵琶これなり。東にそへて、わらびのほどろを敷き、つかなみを敷きて夜の床とす。東の垣に窓をあけて、こゝにふづくゑを出せり。枕の方にすびつあり。これを柴折りくぶるよすがとす。庵の北に少地をしめ、あばらなるひめ垣をかこひて園とす。すなはちもろもろの藥草をうゑたり。かりの庵のありさまかくのごとし。その所のさまをいはゞ、南にかけひあり、岩をたゝみて水をためたり。林軒近ければ、つま木を拾ふにともしからず。名を外山といふ。まさきのかづらあとをうづめり。谷しげゝれど、にしは晴れたり。觀念のたよりなきにしもあらず。春は藤なみを見る、紫雲のごとくして西のかたに匂ふ。夏は郭公をきく、かたらふごとに死出の山路をちぎる。秋は日ぐらしの聲耳に充てり。うつせみの世をかなしむかと聞ゆ。冬は雪をあはれむ。つもりきゆるさま、罪障にたとへつべし。もしねんぶつものうく、どきやうまめならざる時は、みづから休み、みづからをこたるにさまたぐる人もなく、また耻づべき友もなし。殊更に無言をせざれども、ひとり居ればくごふををさめつべし。必ず禁戒をまもるとしもなけれども、境界なければ何につけてか破らむ。もしあとの白波に身をよするあしたには、岡のやに行きかふ船をながめて、滿沙彌が風情をぬすみ、もし桂の風、葉をならすゆふべには、潯陽の江をおもひやりて、源都督(經信)のながれをならふ。もしあまりの興あれば、しばしば松のひゞきに秋風の樂をたぐへ、水の音に流泉の曲をあやつる。藝はこれつたなけれども、人の耳を悦ばしめむとにもあらず。ひとりしらべ、ひとり詠じて、みづから心を養ふばかりなり。』また麓に、一つの柴の庵あり。すなはちこの山もりが居る所なり。かしこに小童あり、時々來りてあひとぶらふ。もしつれづれなる時は、これを友としてあそびありく。かれは十六歳、われは六十、その齡ことの外なれど、心を慰むることはこれおなじ。あるはつばなをぬき、いはなしをとる(りイ)。またぬかごをもり、芹をつむ。或はすそわの田井に至りて、おちほを拾ひてほぐみをつくる。もし日うらゝかなれば、嶺によぢのぼりて、はるかにふるさとの空を望み。木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師を見る。勝地はぬしなければ、心を慰むるにさはりなし。あゆみわづらひなく、志遠くいたる時は、これより峯つゞき炭山を越え、笠取を過ぎて、岩間にまうで、或は石山ををがむ。もしは粟津の原を分けて、蝉丸翁が迹をとぶらひ、田上川をわたりて、猿丸大夫が墓をたづぬ。歸るさには、をりにつけつゝ櫻をかり、紅葉をもとめ、わらびを折り、木の實を拾ひて、かつは佛に奉りかつは家づとにす。もし夜しづかなれば、窓の月に故人を忍び、猿の聲に袖をうるほす。くさむらの螢は、遠く眞木の島の篝火にまがひ、曉の雨は、おのづから木の葉吹くあらしに似たり。山鳥のほろほろと鳴くを聞きても、父か母かとうたがひ、みねのかせきの近くなれたるにつけても、世にとほざかる程を知る。或は埋火をかきおこして、老の寐覺の友とす。おそろしき山ならねど、ふくろふの聲をあはれむにつけても、山中の景氣、折につけてつくることなし。いはむや深く思ひ、深く知れらむ人のためには、これにしもかぎるべからず。大かた此所に住みそめし時は、あからさまとおもひしかど、今ま(すイ)でに五とせを經たり。假の庵もやゝふる屋となりて、軒にはくちばふかく、土居に苔むせり。おのづから事のたよりに都を聞けば、この山にこもり居て後、やごとなき人の、かくれ給へるもあまた聞ゆ。ましてその數ならぬたぐひ、つくしてこれを知るべからず。たびたびの炎上にほろびたる家、またいくそばくぞ。たゞかりの庵のみ、のどけくしておそれなし。ほどせばしといへども、夜臥す床あり、ひる居る座あり。一身をやどすに不足なし。がうなはちひさき貝をこのむ、これよく身をしるによりてなり。みさごは荒磯に居る、則ち人をおそるゝが故なり。我またかくのごとし。身を知り世を知れらば、願はずまじらはず、たゞしづかなるをのぞみとし、うれへなきをたのしみとす。すべて世の人の、すみかを作るならひ、かならずしも身のためにはせず。或は妻子眷屬のために作り、或は親昵朋友のために作る。或は主君、師匠および財寳、馬牛のためにさへこれをつくる。我今、身のためにむすべり、人のために作らず。ゆゑいかんとなれば、今の世のならひ、この身のありさま、ともなふべき人もなく、たのむべきやつこもなし。たとひ廣く作れりとも、誰をかやどし、誰をかすゑむ。』それ人の友たるものは富めるをたふとみ、ねんごろなるを先とす。かならずしも情あると、すぐなるとをば愛せず、たゞ絲竹花月を友とせむにはしかじ。人のやつこたるものは賞罰のはなはだしきを顧み、恩の厚きを重くす。更にはごくみあはれぶといへども、やすく閑なるをばねがはず、たゞ我が身を奴婢とするにはしかず。もしなすべきことあれば、すなはちおのづから身をつかふ。たゆからずしもあらねど、人をしたがへ、人をかへりみるよりはやすし。もしありくべきことあれば、みづから歩む。くるしといへども、馬鞍牛車と心をなやますにはしか(二字似イ)ず。今ひと身をわかちて。二つの用をなす。手のやつこ、足ののり物、よくわが心にかなへり。心また身のくるしみを知れゝば、くるしむ時はやすめつ、まめなる時はつかふ。つかふとてもたびたび過さず、ものうしとても心をうごかすことなし。いかにいはむや、常にありき、常に働(動イ)くは、これ養生なるべし。なんぞいたづらにやすみ居らむ。人を苦しめ人を惱ますはまた罪業なり。いかゞ他の力をかるべき。』衣食のたぐひまたおなじ。藤のころも、麻のふすま、得るに隨ひてはだへをかくし。野邊のつばな、嶺の木の實、わづかに命をつぐばかりなり。人にまじらはざれば、姿を耻づる悔もなし。かてともしければおろそかなれども、なほ味をあまくす。すべてかやうのこと、樂しく富める人に對していふにはあらず、たゞわが身一つにとりて、昔と今とをたくらぶるばかりなり。大かた世をのがれ、身を捨てしより、うらみもなくおそれもなし。命は天運にまかせて、をしまずいとはず、身をば浮雲になずらへて、たのまずまだしとせず。一期のたのしみは、うたゝねの枕の上にきはまり、生涯の望は、をりをりの美景にのこれり。』それ三界は、たゞ心一つなり。心もし安からずば、牛馬七珍もよしなく、宮殿樓閣も望なし。今さびしきすまひ、ひとまの庵、みづからこれを愛す。おのづから都に出でゝは、乞食となれることをはづといへども、かへりてこゝに居る時は、他の俗塵に着することをあはれぶ。もし人このいへることをうたがはゞ、魚と鳥との分野を見よ。魚は水に飽かず、魚にあらざればその心をいかでか知らむ。鳥は林をねがふ、鳥にあらざればその心をしらず。閑居の氣味もまたかくの如し。住まずしてたれかさとらむ。』そもそも一期の月影かたぶきて餘算山のはに近し。忽に三途のやみにむかはむ時、何のわざをかかこたむとする。佛の人を教へ給ふおもむきは、ことにふれて執心なかれとなり。今草の庵を愛するもとがとす、閑寂に着するもさはりなるべし。いかゞ用なきたのしみをのべて、むなしくあたら時を過さむ。』しづかなる曉、このことわりを思ひつゞけて、みづから心に問ひていはく、世をのがれて山林にまじはるは、心ををさめて道を行はむがためなり。然るを汝が姿はひじりに似て、心はにごりにしめり。すみかは則ち淨名居士のあとをけがせりといへども、たもつ所はわづかに周梨槃特が行にだも及ばず。もしこれ貧賤の報のみづからなやますか、はた亦妄心のいたりてくるはせるか、その時こゝろ更に答ふることなし。たゝかたはらに舌根をやとひて不請の念佛、兩三返を申してやみぬ。時に建暦の二とせ、彌生の晦日比、桑門蓮胤、外山の庵にしてこれをしるす。

人生とはかくもはかなきものかな?! 杉太郎

秘境大シベリア

1.ツンドラの遊牧民
 ツンドラ(永久凍土)の上でヤクート人がカウボーイのような独特の縄裁きで馬に向かって縄をなげ捉えている。オイネコン地区は氷点下71.5度の世界最低温記録地である。氷点下51度の極寒の条件で馬を放牧するヤクート人がここにいる。ヤクートの馬は長い毛足とずんぐりした体型を特徴とし、世界で最も寒さに強い馬である。ヤクート人はこの馬とともにツンドラで他の動物の狩りをする。
 エルホヤンスク山中は凍付く。1月の平均気温がマイナス46.4℃、年間平均気温がマイナス15.2℃の世界で最も寒い地域である。ヤクート人は昔から山中に罠をしかけ動物を獲、毛皮を取った。獲物はオコジョと呼ばれるイタチ科の動物である。ヤクート人の経験から、罠は軽く締め、動物の毛皮を壊さない。国に供出の毛皮は1枚10ルーブル程度である。30分前に釣り上げた魚が凍っている。魚を削るため火であぶりあぶりナイフで料理する。ネリマという川魚は油の乗ったままこのように食べるのが美味しい。たくましいヤクート人たちである。
 オイニャコンから北へ250km極地雪上車で移動する。インジギルカ川においてチュクチ、ネネツ、エベンキなどのトナカイ遊牧民族とヤクート、ドルガン、ヌガナサンなどの狩猟民族が一斉に会する場面がみられた。共産党員が表彰状と生活必需品の塩と砂糖をこれらの民族におくる。彼らのほとんどは文盲で、エベンキ族など北方小数民族の女は雪焼けの顔に皺が特別に多く、日本人に比較し10才は老けてみえる。その皺はツンドラでの過酷な生活と豊富な自然との対話を表している。
 ネネツ族がツンドラのトナカイをナリヤンマール国営農場に納めるためにキャラバンで移動する。移動距離1千2百km。ネネツはモンゴロイドだが鼻は比較的高い。彼らトナカイ遊牧民は雪の下の餌である苔植物「ヤゲル」を求め何千kmも旅する。
 ネネツの女が、氷点下50度の極寒ツンドラで、チュム(組み合わせ式テント)を組み立てる。樅の木を32本組み家の骨格をつくる。中央にストーブを置く。日が沈むと氷点下45度。午後5時には完成し食事の支度をする。夜10時に男たちはツンドラに出る。ツンドラでトナカイが狼に襲われないため狼よけの奇声を発する。服の裾を縛りソリに横ばいになり噛みタバコで眠気を防ぐ。
 チュムの中は10度前後でトナカイの寝袋で暖を取る。2千頭のトナカイはそれぞれ1日10kgのヤゲルをたべる。不寝番から帰った男達は昼間に睡眠をとる。昼間のトナカイの番は女がやる。トナカイがとれないとトナカイの1匹が高い木につるされ天に捧げられる。いけにえの木の下にネネツの厄除像がある。丘上に神聖なトナカイの墓場林がある。ネネツにとってトナカイは食べ物で住居で衣服である。トナカイでネネツは生きる。
 キャラバンの朝、白い地平線に反射した太陽が2つに見える極地現象が見られる。ネネツは週に一度トナカイ1頭を食用にする。男が投げ縄でトナカイを捕まえ解体する。女が肉の一片まで無駄なく切りとる。毛皮は住居、衣服、手袋になり、血液は絶好のビタミン源となり胃袋に入れ長く保存ができる。
 ネネツ族は一週間と同一地にいない。トナカイがヤゲルを八割食べた時に他に移動する。ヤゲルを根こそぎ食べ尽くさない。もしそれを食べ尽くすと再びトナカイの食糧として回復するのに20年を要するからだ。
 最近ネネツを悩ます問題がある。石油開発による油田で貴重なトナカイが石油の水を飲むのである。
 ソリの座席に遺体が安置されチュムの建築様式でネネツの墓がつくられる。子供は木の上に埋葬される。衣服は木に釣り下げられる。シベリアの最深部では死体はその地で葬られる。オーロラは自然の贈り物として一面を埋め尽くす。ネネツ族には極北のオ−ロラのカ−テンのむこうには一本足の民の世界があり、この世界では1本足の男と女が結婚し、互いに協力し肩を組み合って2本足で歩いているという伝説がある。そして彼らは一般の2本脚の人類よりも上手に速く歩けるという。
 ネネツ以外のこの地の独特の狩猟民族はドルガン人である。彼ら民族ををソ連は今世紀に認知した。彼らはユダヤとインディアンの間の顔をしている。しかし狩猟で生計をたてる最も生命力の旺盛なハンターである。皆が確実な射撃力をもつ。獲物は一発の銃弾でしとめる。
 ベルホヤンスク山脈から北極海沿岸のウガールナヤ村にヌガナサン族が生存している。彼らはトナカイや鳥の狩猟族であったが、いまは川魚が取れるこの地に永住している。ヌガナサン族は7百人。ウガールナヤ村では30人が定住している。川の氷に穴をあけ魚を釣り、犬が食べないように屋根の天然の冷蔵庫に保管する。ヌガナサンは日本人に似ており定住地のアワム川ではネリマ、シチュ、カチール、マリムいった魚がよくとれる。
 シャーマン(呪術師)の儀式はトナカイ猟の成功を祈って行われる。「トナカイが病気にかかりませんように」シャーマンはテントの中に入りトナカイの霊にチャネリングする。フォイカと呼ばれる冠を用い、太鼓には焚火の煙をつける。しばらくしてトナカイの角を型どった冠に変える。トランスチャネリングの状態に入らない。儀式は根気よく延々と続く。霊魂がシャ−マンの身体に宿るまで、儀式は昼夜に渡り続く。やがて高揚した彼は立った。神憑り(チャネリング)である。自制力を失い、目が異常に動く。シャーマンは自分の魂を霊界に送り込む。
 漁業に転職したヌガナサンにも優秀なハンターが残る。雪上スキーを使うヌガナサンの待ち伏せ猟は圧巻だ。野生トナカイは狼から逃げきるすぐれた脚力をもっている。タイミール半島にいるヌガナサンだけが現在待ち伏せ猟が出きる。トナカイを一頭しとめとどめをさす。彼らは必要以上にトナカイをとらない。それでも年間8万頭のトナカイがナリヤマンスクの加工場に来る。ここの毛皮工場では狩猟民ヌガナサンがしとめた野生トナカイの皮が加工され、遊牧民ネネツの放牧トナカイが食糧肉として加工される。ヌガナサンの狩人としての魂はいまも受け継がれる。
 400万年前アフリカの大地溝帯に巨大な谷の中に人類の祖先のアウストラロピテクスが誕生した。人類はその地で進化をくりかえした。200万年前にその地を捨て旅に出た人類は、50万年前に北京に達した。そしてアジア大陸でモンゴロイドという人種が生まれた。彼らは陸続きとなったベーリング氷河回廊を渡り、マンモスを頬張りながら米国大陸に渡った。さらに南米大陸の最南端フェゴ島まで渡りナオ族になるまでに1万年とかからなかった。今やモンゴロイドは世界の2/3の人口をしめる大勢力になった。
 ツンドラが切れ、針葉樹林帯のタイガに変わる地域にソビエト最古の人種ユカギ−ルが住んでいる。ネレムノイエ村は北方民族の集団目的として整備された。村の大半がユカギ−ル人である。子どもたちは祖父母と話すときのみユカギ−ル語を使う。公用語はロシア語が主である。子供達にもロシア人との混血が多い。彼らの純潔は20人にも満たない。
 ユカギ−ルは先祖代々の狩猟を続ける。大鹿はユカギールのおおきな獲物だ。ユカギ−ルは炎と大地を神聖なものとして崇めた。彼らにとって犬は友達であり必需だ。彼らは狩猟でウラサと呼ぶ狩猟テントに泊まる。シベリア最古の民ユカギールと猟犬と動物が戦いを繰り広げる。400Kgの大鹿を解体し、猿柳にその鹿の首を捧げて彼らが生き返ることを祈る。
 アラカムチェチェン島の1万5千頭のセイウチは乱獲により減少している。エスキモーは海の恵みとしてセイウチ漁をする。あざらし皮の浮き袋つきモリをセイウチの身体に打ち込む。
 米ソ国境ベ−リング海に面すシレニキ村で催される毎年1回のクジラ祭にはシベリアにいる1500人のエスキモー(イヌイット族といわなければならない)が集まる。アラスカやカナダのイヌイットも参加する。東西に別れ文明を築いていったモンゴロイドが、この日同一の地で会す。クジラ肉は彼らがどこにいても重要な蛋白源だ。クジラ肉で一番おいしいとされる部位は皮下脂肪である。あらかじめ捕らえられていたクジラが、この祭の日に男たちによって細断され、その肉は各家の長男に配られ、エスキモ−の勇気、男らしさ、気高さがあたえられる。祭で余った肉は海にかえし恵みを与えてくれた海の神に感謝する。

2.さいはてに生きる
 シベリアの最東端ユーラシア(EURASIA=EUROPE+ASIA)大陸デジネフ岬、米国国境まで40kmの燈台から旅は始まる。デジネフ岬から内陸にいたる。50万頭のトナカイの生息地である。3月の平均気温は氷点下25度である。トナカイとともに暮らすチュクチ人はシベリア最大の遊牧民だ。チュクチ人はこの歴史のあるチュコト半島の主である。この地域は氷点下50度以下になることも多い。ダイアモンドダストがみられる。この極寒の地で彼らはトナカイの毛皮1枚で生活する。彼らの手は太いが柔らかく赤銅色に焼け寒さに強い。チュクチの主食は凍ったトナカイ肉である。この肉は生で甘い。トナカイとヤゲルの地をチュクチは転々とする。彼らは摩擦による発熱器で火をおこす。
 チュクチ族はヤランガという移動式住居に住んでいる。トナカイがヤゲルを食べるとチュクチは10日ほどで移動を開始する。同じツンドラに長期には滞在しない。シベリアの大地を1年に移動すること30回。チュクチの出した小水(尿)の塩分をめがけてトナカイがよってくる。彼らにとっては小水さえ栄養源である。太い尾の体長約2mのシベリアオオカミはトナカイの敵だ。特に出産期のトナカイが高頻度に襲われる。トナカイに疫病が流行するとチュクチはトナカイ1匹をいけにえに捧げる。シャーマンがトナカイの血を列席者の額に塗る。摩擦で火をおこし昔ながらの儀式が行われる。
 調査団は海洋の放牧民であるエスキモーを訪ねた。海岸近くにチャプリーノ村とよばれるエスキモー最大の集落がある。鯨の骨の標識を頼りに調査団は進む。鯨はエスキモーにとり神聖である。鯨骨の下を掘った。そこには住居の後があった。この地のエスキモ−は米ソ緊張のため30年前にこの地から80km山中に強制移住させられていた。調査団の移動にはエズジェフォート(雪上車)を利用した。エズジェフォートは前後が上下に激しく揺れながら雪原を移動する。雪や霧が進路を妨げる。ワイパーは雪を払いのけるのに精いっぱいだ。進路が妨げられた。進行することは不可能だ。
 仮眠小屋で一夜を明かした後再びエズジェフォートで走ること25時間、エスキモー部落に到達した。ライカ犬は命令を良く聞く。さらに1日に100km走る。ライカ犬を操るには右ポッポ、左クークーだ。セイウチの肉をビニール袋にいれて持ち運ぶ。鯨が捕らえられた。女達が見事な手さばきで内臓を解体する。腸は乾かす。えらは最高に旨い。
 エスキモーのセイウチ猟はあざらしでつくった浮き袋を利用する。漁師があざらしの皮でつくった袋の足の部分から口を膨らませ、空気を吹き込む。この浮き袋を銛の先端につなぎ、バイダーラ(セイウチの皮でつくったボート)でセイウチ猟に出かける。銛の後ろにはセイウチの浮き袋がつく。2000年続いたバイダーラ猟だ。ベーリング海に近いこの地域は体長4m重さ1トンのセイウチが生息する。エスキモーは自活するに必要最小限のセイウチのみを捕らえる。
 エスキモーには喉笛歌という鯨またはセイウチの鳴き声をまねた歌が残っている。年寄りの女達は顔に青い入墨をいれておしゃれをする。そしてこの歌を歌ってたのしむ。
ウラハン・アンというレナ川の河畔の岩山の壁画にヘラジカの絵が残されている。この地域にこういう狩猟民族は住んでいた。そして遥か南から3500年前に彼らの祖先が北極圏にやってきたと考えられている。

参考文献 理科年表 東京天文台編 丸善株式会社 1998
       NHK放映ビデオ


風の大地「パタゴニア」
 
 1831年冬イギリスの港から英国海軍所属帆船が南アメリカの探索に旅立った。242トンのこの船が歴史に名をのこしたのはこの船に乗り合わせたチャールス・ダーウインのおかげである。彼はこの航海の経験からビーグル号航海記を記した。これは後に彼が進化論を提案するきっかけとなった。
 南アメリカ大陸の南方に位置する風の大地がパタゴニアである。パタゴニアとは南アメリカ大陸の南緯40度から南の地域を指す。これらの大部分は草原(パンパ)の南に位置する。アンデス山脈を境にチリとアルゼンチンにまたがるこのパタゴニア地域は大別して3地域に分けられる。第1の地パンパはすすき類の草原に風が吹きすさぶ森の全く見られない草原地域である。第2の地アンデス山脈の南端部分は氷河によって削られておりその氷河は増えつつある。この氷河によって削られたフェゴ島を含むフイヨルド地域はダーウイン山脈やビーグル海峡が存在し、多彩な景観を呈する。第3の地フォークランド諸島はペンギンが5種類およそ100万羽我々を迎えてくれる。
 探検隊はサンタクルス川をさかのぼった。プエルトサンタクルスからサンタクルス川をさかのぼる。川の周りには乾ききった広野が続いていた。ダ−ウインはビ−グル号航海記にアンデス山脈の氷河をみたが、ここでは静寂と荒廃がすべてであった。パタゴニアでは潅木のみが生息しフィソロイ山が条件の良いときに眺められる。太平洋からの湿った風はアンデス山脈にぶつかり雨や雪を降らし、パタゴニア地方には乾いた風と乾燥をもたらすという。パタゴニア地方のグアナコはアルパカやリャマの仲間でありこの地でたくましく生きている。冬はー30度、夏は30度以上に達するというきびしい条件にもめげずにたくましくグアナコは生息する。人間は乾いた喉を皮袋にいれたワインで潤し馬の背中にまたがりパタゴニアを横断しアンデス山脈をめざす。
 パタゴニア地方の山は3千m程度なのにウプサラ氷河をはじめとする巨大な氷河が存在するのは緯度が南極に近いためである。南極、グリーンランドに続いて氷河が多い。氷河のうちでもモレノ氷河は今も成長を続けている。中心部の氷のクレバスの奥深くにすむ昆虫がいる。このカワゲラの種類の昆虫がそれで、体長は2センチである。この昆虫は氷河のできた時代から進化して低温の環境になじんできた。そのためこの昆虫を手の中にいれると手の温度で死んでしまう。低温の環境に適応したための逆効果である。
ザイル一本に身を託し隊列歩行でモレノ氷河のクレバスをわたると、氷河のクレバスの水の部分からアブクがわきだしている。これは数百年も前に氷河形成の際に氷の中に閉じこめられた空気である。
 モレノ氷河の長さは35km,幅は5km、高さは80mであり1日平均2m年間600mの速度で下流に移動している。氷河の圧力で砕けるようにその先端がアルゼンチン湖に崩れ落ちサンタクルス川となって大西洋に流れ落ちる。
乾ききったパタゴニアの草原で唯一の産業は羊の放牧である。羊を扱う人々をガウチョという。パタゴニアに羊が移入されたのは120年ほど前である。ダーウインが訪れた20年後の出来事である。パタゴニアでは主食は羊で、ガウチョ達の間では年間150万頭以上が食用に消費される。パタゴニアの草原は広大だ。一つの牧場で大阪府と同じ広さの農場もある。羊とならぶパタゴニアの名物は1年中吹きすさぶアンデスからの強い西風である。森にはなり得ない高い樹木も強風にあおられて皆がおじぎをする。従って丘の上の木木は皆東に向かって枝をのばしている。牧場ではこの西風を利用して地下水を汲み上げている。この方法では、強風で回る風車の回転運動をピストン運動に変え地下水をバケツで汲み上げる。原始的でかつ有効な方法である。野菜がとれないこの地方でマテ茶という南米特産のお茶がビタミン源となる。マテ茶を金属性のストローで回し飲み、ビタミンを補給する。ガウチョの午後の習慣だ。
 パタゴニア平原の中央部では砂煙が車の中まで吹き抜ける。2日間走ると平原の単調な風景が変わった。スギの巨木が横たわっている。この巨木は木の化石であった。1億年前にはこの地は森林であった。しかし7000万年前におこった活発な火山活動により降りつける火山灰と溶岩の下敷きとなった。長さ30m、太さ2mの巨大な化石は昔の強力な造山活動を物語る。
 ダーウインはこの地で、昔存在したオオナマケモノの化石をむさぼるように採取しビーグル号に運んだ。オオナマケモノは現代ではみられないほどの地上の巨大生物であったが、現存する動物との共通点も多かった。この経験から、彼は神が全ての生物を作ったのではなく生物は自らが少しづつ変化してきたと思うようになった。
 ダーウインはビーグル号で2度フォークランド諸島を訪れた。南米大陸から6百km、大小780の島からなるフォークランド諸島は人口2千人、温度格差が−5度から5度で少ない。島は2百年前にイギリスの海軍大臣フォークランドの名にちなんで名付けられ、英国領とされた。この島の所有権をめぐって英国とスペインとフランスが争った。最近、またこれらの国とアルゼンチンがフォークランド紛争をおこした。島のいたるところに鳥が遊び、かっての戦場は自然を取り戻していた。この島は鯨漁の基地としても重要であるが、商業捕鯨が禁止されてからは、日本はいか釣り基地として利用している。
 泥炭質の土壌と起伏のある島は住みにくい。そのためもあってかダーウインが160年前に予言したこの島独特の肉食獣フォークランドキツネの絶滅は見事に的中した。この諸島での他の名物は川のようになった岩石の集まり、ストーンリバーである。氷河によって削られた岩石が氷河が消失した後も残ったための産物である。
フォークランドのキングペンギンは大型ペンギンである。毎年1つの卵がオスメスの協力で育てられる。キングペンギンは目の周りと胸元の黄色みが鮮やかで愛くるしい。泳ぎもすばらしい。飛ぶことはできない。メスをめぐる争いではこのペンギンのオスは羽を広げて相手を威嚇する。この諸島付近の海鳥は数百万羽を数える。陸にはゾウアザラシがいる。カメラを向けると「スー・カー」という鼻息でポーズをとる。草むらの中でゾウアザラシは昼寝をする。さらに1500羽のゼンツーペンギンが漁を終え群れをなして帰ってくる。岩場を飛び跳ねる姿から別名イワトビペンギンという名前もついた。
 海の幸の魚やイカが多く、人間の数が少ないことがこの島に多くの生物が繁栄する原因だ。マユグロアホウドリの餌のヒナへのやり方は念が入っている。親が餌をあらかじめ自分の胃の中で消化してからヒナ鳥に与える。アホウドリは断崖のはしに巣を作る。彼らは餌をとりやすくするため断崖から滑空する。ヒナに餌を運ぶのはオスメスが交代で行う。岩場に彼らは巣を作る。この巣のヒナをトウゾクカモメが狙う。海であそぶヒナはもっと簡単に狙われる。ヒナにとって海は全く未知の恐い世界である。かれらはなぜ彼らに羽があるのか理解している。そこで親鳥に続いてヒナは飛ぼうとする。ヒナは飛べずに海に飛び込むが、彼らの前に多くの試練が待ち受けている。この試練を克服したものだけが生き残れるのである。
 ポートウイリアムスは南極にいちばん近い世界最南端の港町である。夏の平均気温は6度。島の住人のほとんどが軍関係者である。チリ側からパタゴニアに迫るとフィヨルド海岸がある。ビーグル号の発見したマゼラン海峡とホーン岬間のビーグル水道は水温4度である。ビーグル水道は東西200km、最も狭い水道は1kmで魔の水道と恐れられた。水道から見える氷河の崩落は壮大だ。氷河のなす山脈をダーウイン山脈という。チリ側の山々を眺めながら船でビーグル水道のチリ・アルゼンチン国境点を通過することができる。眼上のフィッツロイ山脈は3375mの標高である。経験に富む登山者が時間をかければ高山病にかからなくてすむ絶好の氷河山である。
 ビーグル水道に面したアルゼンチン最南端にウスアイアがある。この町は電子部品の企業誘致により6年間に4倍の人口増加があった。現在のこの町の人口は4万人にも達する。このため住居が供給不足になっている。町の道路ではいままで住んでいた家ごとそっくりの引っ越しがみられる。
 ウスアイアの郊外ではナンキョクブナの森がみられる。キッタリア・ダーウイナはナンキョクブナに寄生する黄丸いきのこの一種である。この島に1万年以上以前に定住したフェゴ人の食物がこれである。キッタリアはマッシュルームに似た香りがする菌糸類であるとダーウインは航海記で述べている。
 他にもこの地に住むモンゴロイドがいる。ヤーガン族は比較的小柄な海洋民族である。彼らは身体に油をぬり裸で海に潜っていた。彼らが貝やカニをとっていたビーグル水道は4度で冷たい。内陸部にはオナ族が住む。ヤ−ガン族はクアナコも捕らえ生活していた。カラファテの実はヤーガン族の重要ビタミン源であった。白人の侵入によりこれらの食糧の入手がだんだんと困難になってきた。彼らはその当時、滅亡の危機に瀕した。そこで英国人であるブリッジスはヤーガン族を最初に保護した。英国で教育をうけた3人のヤーガン族がダーウインとともにウーリアの森に帰ってきた。しかし彼らは数年後に再び野生の蛮人と化していた。6ー70本の触手をもつ巨大ヒトデ、タラバガニがパタゴニアの海では採れる。カニはパタゴニアの特産品として世界中に輸出される。
パタゴニアの中心であるプンタアレナス市は、パナマ運河ができる以前は航海の船でにぎわう港町であった。この地には南米最南端の航路を発見したマゼランの像がある。そして、この地は今や世界の辺境の地になっているのである。


インカ帝国「ケロ」村

 ペルーの首都「リマ」の北西に港町「カヤオ」がある。カヤオはダ−ウインがビーグル号航海記に記された立ち寄ったペル−最大の港町である。
 その昔、アンデスにはインカの要塞があり彼らは独自の文明を築いていた。空を飛ぶ金の機械、剃刀の刃のはいる隙間無くぎっしりと積み重ねられた石垣。現代の技術から推測して、この時代にはとうてい不可能とされるものがこの地には存在した。そのインカ文明は16世紀に西欧人ピサロたちにより滅びた。太陽暦、農耕に優れた知恵を発揮したその文明は途中で滅びた。しかし、いまなおインカ文明を秘境「ケロ」村が山中にある。ダ−ウインと現代を結ぶ500年という時間を超越し、如何にこの村は文明を伝えれたのか。
インカの都「クスコ」とはインカの言葉で「臍」を意味する。今も残る剃刀(かみそり)の刃をも通さない精密な石積が今も残るクスコで「ケロ」村にむかう準備を整える。クスコは標高3400mの高地でありながら、野菜の種類が多い。ケロ村へのおみやげに砂糖を持っていく。インフレによりビニ−ルの袋代さえも取られる。クスコを出て9時間、車でアンデスの中でも秘境と呼ばれる東斜面にあるケロ村にむかう。その後2日間ろばの背で揺られる。標高4600mのチョワチョワ峠をろばで越すせばそこがケロ村だ。麓の部落で18家族、80人が生活している。村人ががなじんだ笑顔で迎えてくれる。
 この山奥でケロの人々が何故インカ時代同様の生活を営む事ができたか。その疑問は家畜アルパカにより解かれた。緑の平原にアルパカがいる。アルパカからは暖かい毛が採れる。成熟したアルパカから4−5kgの毛が採れる。毛から糸が紡がれる。現金が必要なときに毛を売る。一頭で約500円の収入が得られる。アルパカは4000m以上の高地に適した動物である。ゆえにケロ村の朝はアルパカなどの家畜の放牧で始まる。放牧は子供の役目である。学校へは行かない。学校の先生は年に数回来るのみである。子どもの養育をする代わりの者(後見人)をパドリ−ノと呼ぶ。パドリーノになると子どもの家族と親戚関係がむすべる。子供の断髪式はパドリーノが行う。
 畑では大人が働く。ジャガイモはアンデスで生まれた。アンデスでは万一、凶作になっても安心できるよう多種類のジャガイモを栽培し、多彩で過酷な気象条件に対応する。チャキタクヤという道具でジャガイモ畑を掘り起こす。タネイモが無造作に畑に投げ入れられる。インカ時代からの習わしである。ケロ人にとってもうひとつの大事な作物はトウモロコシである。彼らはトウモロコシから「チ−チャ」と呼ばれる酒をつくる。トウモロコシに水を加え、すりつぶす。餅のようになったトウモロコシを湯のはいった酒壷にいれて2−3日ねかせれば「チ−チャ」ができる。チ−チャはアルコ−ル分が2−3%でどぶろくのような酸味の強い酒である。その「チーチャ」を村人は親者に勧める。仕事の合間に農作業を営む大人らは、お茶がわりにコカの葉を噛む。コカの葉にはコカインが多い。覚醒作用がある。身体が暖かくなり元気が出る。厳しい高地に生活する彼らにとってコカの葉は必需品である。
 アマゾンの湿った風が雲を押し上げるとアンデスにあられが降る。あられは雪となる。雨期にケロ村はしばしば雪に覆われる。雨期があけるとアンデス最大の祭「コイユリ−テ」である。アンデス山中のシナハラ山の一角でこの祭が開かれる。午前3時からコイユリ−テに向かう群衆がみられる。ケ−ナの音がわびしく響く。太陽に演奏を捧げ祭のある谷にむかって歩く。コイユリーテはもともとは氷河谷の地名である。4千5百mの谷下から5千mの氷河上まで村人は登る。そこに十字架を立てる。コイユリーテ礼拝はキリストの受難による信仰と昔からの彼らの巨石崇拝信仰が合体した不思議な儀式である。コイユリ−テでは、おもちゃのドル紙幣がインカの本物の紙幣「インティ」と両替される。「クイ」という食用モルモットが売られる。クイのまるやきは蛋白源の少ないこの地域の住民にとっては大変なご馳走だ。アンデスはコイユリ−テの祭の時期を過ぎると乾期となる。
 アンデスの人々は病気の原因を身体から魂が抜けでるためと信じて疑わない。人々は病気になると身体を布でぐるぐる巻にする。これは自分の魂を体から逃がさないためである。特に子供の場合は入念にこの儀式を行う。
 トウモロコシにを積めた袋をリャマが積んで帰る。ケロの人々はインカの生活を今も続ける。アンデスの厳しい自然に適応しインカの知恵を生かし独自の力でしなやかに暮らす人々。地球上の人々の生活が急速に変化する中でケロの人々の生活は今も変わらない。


種の宝庫「マダガスカル」
 
 インドネシアから移住しアフリカといえどもアジア民族系の農耕分化を持つ原住民の島がある。モンゴロイドの住むアフリカ、いや世界の種の宝庫がマダガスカルである。ゴンドワナ大陸が分裂した際に中央に残った島がマダガスカルである。ここは数少ない地上の楽園である。島の全土に手つかずの自然が残っている。この自然の主人公の多くはサバンナや密林に生息する奇妙な植物たちである。しかし人類の移住がこの島の環境を変化させつつある。後40年でこの島の原生林はなくなると、ジャイアントバンブーゴリラは竹木上で嘆く。島の熱帯雨林には12000種もの異なった植物種がある。その60%以上がこの島にしか存在しない。
 マダガスカルの住民は不思議なことに、いまでもカメレオンに噛まれると死亡すると思っている。保護色の代表といわれるカメレオンにおいてもオスの原色は緑色、メスは赤色である。彼らはアフリカの先住民族ではなくどちらかと言えばアジア系に近い渡来民族である。すなわちマダガスカルは西の果てのアジアとも称することができる。言語はマレ−シアもしくはインドネシア語によく似ている。1500年以前からインド洋をはるばると渡ってきた民族がマダガスカル人である。モンゴロイドは侵略が嫌いである。モンドロイドは東南アジアからインド洋を渡ってもともとの人類の発祥の地であるアフリカ大陸にぶつかった。この大陸には多くのにネグロイドが住んでいた。彼らは他の地を探すために再びアフリカから引き返し、やっと無人のマダガスカルにたどりついた。この島には先住民族はいなかったので戦争を嫌う彼らはこの地に定住することを決めたのであろう。無人の地であったが故に1万2千もの多くの生物種が繁栄できたのかも知れない。
 やがてアジア系メリナ族がこの島を統一した。彼らはインドネシアのスラウエシ島から渡来したと想像される無人のマダガスカルに渡ってきた最初の民族である。彼らは農耕民族であり大家族制をとっている。彼らの住居は地下の食料庫を入れて3階建てである。彼らの移住に伴いアジアからは米がきて、アフリカからは牛が来た。彼らはお祝いの席では赤飯を食べる。アジアとその後渡来したアフリカの民族間で混血がおこなわれた。アジア民族とアフリカ人、さらにはフランスの植民地という背景をもつ混合文化がマダガスカルの民族文化である。米を食べ、アジア人のリズムで歩く。赤ちゃんにはモンゴロイド特有の蒙古斑がお尻に刻まれている。長くて直毛の女性の髪。彼らはれっきとした我々の仲間である。この島では18の部族のうち最も勢力の強い「メリナ」族がアジアの伝統を最もよく受け継いでいる。インドネシアからポリネシアで使われる楽器と同じ楽器を奏でゆったりした優雅な動作の踊り、栽培するコメ、日本人の2倍の米の消費量(世界一の米食国家)、相撲に似たお祭の運動会が典型的なアジア民族を物語る。アフリカ系のバラ族も米を食べる。NY FIFANKATIAVAN TSIKA ANE HO TOY NY RANO SY NY VARY (私たちの友情は米と水の関係のように強い)。ANANTSINAHY VA AHO KA ATAOAMBONY VARY(私はご飯にかけられたス−プのはっぱですか=何故私をもっと丁寧に扱ってくれないのですか?)。VARY ARAPAKA AZA MISY LATSAKA(ご飯を食べればご飯粒はこぼれる=誰にでも失敗はつきものであるという寛容の精神)など米に関した諺が存在する。この諺から米とか飯というインドネシア語を拾いだしてみると「VARY」という言葉が米とか飯であるということがわかる。
 ベンガル菩提樹の木の皮をすりおろしたものを顔一面に塗って、日焼け止めをも兼ねた、アジアではミャンマ−にみられる化粧法がマダガスカルの農村には残っている。アウトリガ−と呼ばれる浮きをつけた船はポリネシアでよくみられるものである。遥か1500年の昔、マレ−シアのあたりから船でこぎだした彼らの先祖たちは、6000kmの航海の後にこの島を見いだした。アジアの香りは遥かインド洋を越えてこの島にたどりついた。
メリナ族は首都アンタナナリブの近郊に住んでいるが、中央の丘の上にはメリナ王朝の宮殿が残っている。王朝末期のラナバロナ1世が19世紀の中ごろに建てた宮殿である。フィレンツエ様式の4つの塔を配した赤みがかった石造りの宮殿でありその宮殿の頂上にはコンドルがそびえる。アジア系メリナ族は19世紀にマダガスカル全土を統一し、メリナ王朝を築いた。しかし栄華をほこっていたメリナ王朝もやがてヨ−ロッパの侵略を受ける。19世紀後半に植民地政策を進めるフランスとの間に戦争が勃発し首都を占領されたマダガスカルはフランスの植民地となった。宮殿の敷地内には「木の宮殿」と呼ばれる初代メリナ王朝の宮殿がある。
木製の家具や素朴な壷がこの宮殿の中には残っている。それらの家具調度の類には深く先祖がもたらしたアジアのたたづまいがある。最後の女王ラナバロナ3世はフランス軍にとらえられ国外で没した。女王の宮殿はメリナ族の末裔たちを見守るように首都アンタナナリブの街を見おろす。
マダガスカルにはメゾ族もいる。彼らは船を操る民族として漁協で生活を立てる。乾燥した南部一帯には遊牧民族の牛を追うマファファリ族もいる。彼らは乾いたサボテンを牛のえさにする。彼らは星の王子様の象徴であるバオバブの実を下痢止めに、中にある大量の水を飲料水にする。このあたりにはホウシャガメ、生きた化石といわれる最も原始的な原始的なサルであるワオキツネザルがいる。このサルも現在は乱獲のために減少している。
マダガスカル南西部の乾燥地にみられるアンタンドロイ族の墓地墓は石塀に囲まれた豪華な造りである。彼らの生活は質素であるが、死後の豊かな暮らしを望むのがアンタンドロイ族の価値観である。アンタンドロイ族はコブ牛とともにアフリカからやってきた。牧畜民のアンタンドロイ族は大切な牛とともに死後の世界に住む。コブ牛の瘤に含まれる油は砂漠の多いこの地の気候に貢献する。マダガスカルの女たちはこのコブ牛の油を皮膚に塗り、化粧品とともに用い皮膚の乾燥を防ぐ。
 異端植物がはびこる島:進化生物学研究所の湯浅浩史氏が紹介する。彼は20回マダガスカルを訪問している。南回りでシンガポ−ル、モ−リシャス、マダガスカルへと到着する。アフリカと400kmしか離れていないにもかかわらずアフリカとは全く異なった生物種が独自の変化を遂げてきた貴重な島である。さらに特筆すべきは、多様な種が繁栄できた原因として人類がこの島に定住してから1500年しか建っていないことが挙げられるという。足のような南北1500km,東西400km南に南回帰線が通る亜熱帯のこの島の東はインド洋から運ばれる湿潤な空気による雨が多く、山脈を越えた西部は草原、砂漠地帯である。石灰岩の岩山にはカンカン石が残っている。首都はアンタナナリブである。そこの定住する人類はフランス領ではあったが多くがアジア系である。ゼブ−(瘤牛)という背中に盛り上がりのある牛が道路を歩く。
 チャールズ・ダーウインがビーグル号航海において発見した長いユリのような花弁を持つアングレカムという植物は彼をして長いクチバシを持つ蛾(キサントパン)の存在を予測させた。キサントパンの長いくちばしとアングレカムの深い花びらが自然にとけ込んで共存する島がマダガスカルである。どこにもいそうな甲虫ヘクソドン、ただしそれには後ろばねがない。かたちは黄金虫に近い、ゴミ虫にかたちは近い、しかしヘクソドンはヘクソドンだ。マダガスカルには特有の生物がおおい。
 一般的にマダガスカルを楽しもうと思えば、時間が余ればカメレオンを捕まえてくれば良い。暇をもてあそぶことはない。近くに獲物さえあれば長い粘着性の舌で獲物を取ってみせてくれる。かまきりなどがいい餌食だ。カメレオンはマダガスカルでおおいに栄えた。半数にあたる60種類がこのマダガスカルにいる。木の上の生活に見事に適応している。カメレオンの喧嘩は、さらに滑稽で個性的ですらある。彼らは自らの体表の色を頻繁に変化させることにより相手を打ちまかそうとするのである。相手方が戦いを放棄するまでカメレオンの色変化は続く。さらに前述したがマダガスカル人はカメレオンに噛まれることを非常に恐れる。 
 ベレンティ自然保護区ではキツネ猿が保護されている。キツネ猿のマーキング行為は縄張り意識の現れである。まさに人間っぽい。
 アンダシベ自然保護区では一日一便の電車が常に遅れている。この郵便局の二階を基地としてダーウインの予言した蛾を捜し当てるのだ。夜間になって我々は森に出た。おびただしい数の蛾や昆虫が口の中や眼の中にはいってくる。我々の求める蛾はスズメガの中でも最もおおきなキサントパンだ。キサントパンはアングレカムという花の蜜をすいにくる。アングレカムの花弁は深く、キサントパンの吸入口は20センチもあろうかというぐらい非常に長い。キサントパンスズメガは捕まえると暖かい黄色い蛾だ。今森光彦氏は世界ではじめてダーウインが頭の中で思い浮かべたシーンを写真に納めた。キサントパンがアングレカムの深い花の蜜を吸って後方に羽ばたいて長い嘴を抜こうとしているところを撮影できたのである。アングレカムとキサントパンは一対のマダガスカルの象徴である。
 インドリ(猿の仲間)がクークーと鳴きだした。インドリのクークーという鳴き声は自分の領域(テリトリー)を確保するものだ。インドリはキツネザルの仲間でいちばん大きく木の上を器用に伝いながら移動していく。顔はコアラに良く似ている。マダガスカルのトカゲやヤモリは積極的に相手を攻撃して獲物を得るタイプとじっと待って獲物を得るタイプに分けられる。木の幹の保護色を利用してじっと待ち伏せるヤモリ、このヤモリが絶滅しなかったのは実にこの保護色のおかげである。
 チョウまたはガの分布は7つの区域に分けられる。ユーラシアおよびアフリカ北区、アフリカ南部区、インドおよびインドシナおよびインドネシア区、オーストラリアおよびニュージランド区、北米を中心とした新北区、中米南部およびカリブ海および南アメリカを含む新熱帯区、そしてマダガスカル区である。
 マダガスカルオナガヤママユガは幼虫の時期に糸を吐きはじめ何重にも繭を巻き固める。そして丸くなった繭の一方を噛んで穴をあけその中に入り込んでさなぎとなる。
 夜のブッシュには大きなカマキリがいる。人が近ずくと羽をひろげて威嚇する。せめてもの抵抗だ。夜行性の傾向の強い、とがった鼻をもったテンレックが夜の野で土の中のミミズを漁っている。彼らはもぐらに近い仲間である。
マダガスカルには多くの薬草も存在する。コキンバイザサの地下茎は子宮癌に効果がある。地下茎をすりつぶして湯にとかして飲む。日日草の根には小児白血病に効くアルカロイドが存在している。この成分のおかげで小児白血病患者は著しく減少している。この日日草もマダガスカル原産である。南部の都市のチュレア−ノには多くの薬草が市場に山積みにされている。腹痛や風邪薬、惚れ薬や呪いを解く薬など実に多彩な薬草が全国から集められている。南部アンタンドロイ族の村では52種類の薬草が庭に集められ、サソリの解毒剤、マンゲルブルキという腹痛の薬などが周辺の山々から集められている。
 マダガスカルの植物には2種類ある。大切な植物とそうでない植物である。植物にむかって「インティ?(これは何ですか?)」と聞く。日常生活に必要な植物にはバブバブなどの固有の名前をつけているが、日常生活に関係ない植物に関しては彼らは全て「タキシャキシャカ(亀のエサ)」という表現をする。どんな形の異なる植物でも薬効のない彼らの日常生活に関係ない植物はすべてタキシャキシャカと称せられるのである。人類も地球からタキシャキシャカと称せられないようにしたいものである。
 マダガスカルの植物は単に薬のみに利用されているのではない。植物の樹皮や葉は柔らかな線維を供給してくれる。水辺に生えるパピルスを内側にした藁でつくった帽子。アンタナナリブでは毎週金曜日ににぎやかな市「ズマ」が発つ。この市ではいろいろなものが売られている。世界最大の葉をもつラフィア椰子でつくった製品が主である。藁のようなマダガスカル特産のラフィア椰子の線維で編んだ赤ちゃんのゆりかご。ラフィア椰子でつくった枕。非常に丈夫な紐である。園芸のすびきの際にもよく用いられる。1kgで1800フランである。カヤツリグサの種類の柔らかいアンジーで編んだクッション。サイザルを編んで染色した泥落とし用のマット。化学染料は日光に弱い、染色が消えてしまうという欠点をもつ。染色はやはり天然のものが最高だ。水辺に生えているウルンラ−ノという草でつくった箒(ほうき)。サリでつくった風通しの良い帽子などなど。
 100年以上の樹齢を持つ奇妙なアメ−バの様な断面を持った木がマダガスカルには存在する。この木の年輪が詰まって水の中にいれると沈んでしまう密度の高い木である。木は浮くという概念を打ち砕いてしまう異端植物「マンザカンベンタニイ」である。霊力があると信じられたこの木は聖なる木としてかっては王侯貴族だけが植えることを許された。この木の根元を跨いだだけで罰せられたという。目の詰まった年輪に毅然とした風格を感じさせる。
 草色の絨毯を敷き積めたようなサバンナ、このあちこちにたたずむ椰子の木に似た木は「メデミアノビリス」とよばれ、世界で最も美しい椰子といわれる。「ラフィアヤシ」は太い葉の付け根が集まって幹のように見える。20mにもなろうかという大きな葉が世界最長の線維を供給する。葉と葉の付け根にこの椰子の本当の根が伸びている。地面の中の根のみでなく、空気中の水分も吸収しようとするこの椰子の貪欲さを垣間みることができる。
 「ディディエレア・トロ−リ−」はマダガスカルの青い空を奪い取るように成長していく。地上で何十にも分裂しながらエネルギ−を蓄えながら、別名たこの足と称されるほど地上を這ってたくましく成長する。幹の中の栄養や水分を移動させながら、硬い刺と幹で保護されて成長の場へと養分を運び生きる。
 バニラがラム酒の中にいれられて市場で売られている。良い香りがする。
 楽器が売られている。バリアという竹の表面をそいだ弦楽器、インドネシアにも同じ楽器がある。マダガスカルは東南アジアと深い関連をもつ大西洋の国である。瓢箪に弦をはったジェドという弓琴、シタ−ルに似たインド風の音色のする楽器である。
 とうもろこしの芯でフタをするようにした瓢箪の水入れ。コブ牛の脂を皮膚に塗り乾燥を防ぐための化粧品を入れる瓢箪でつくった油入れ。
 マダガスカルの海岸サントマリー岬に行くと300年前に絶滅した巨大鳥、ニワトリの卵180個分のエピオルニスの卵に出会うことができる。フォーカップ岬ではラグビーボールの2倍もあろうかというエピオルニスの卵の殻が残っている。エピオルニスは体長3メートル体重600kgで4輪駆動車を見おろすほど大きかったという。環境に適応しえなかったエピオルニスの堅い卵の破片はなにを物語るのであろうか?モーリシャス島にいたドウドウ鳥と同じ運命をたどって、人間の持ち込んだ家畜の餌食になった絶滅したのであろうか。それとも人間の食物、または見せ物になったのであろうか。
 それでも鮮やかな色彩、空、異端植物の島がマダガスカルの自然である。


現代のノアの箱船「ガラパゴス」

 ダーウインが南米大陸の探査を終え、北に進路をとりたどりついた島が現在のエクアドル領ガラパゴス諸島である。彼はサン・クリストバル島ステファンス湾にたどりつきこの海岸の一角にある晩キャンプした。すると、この海岸のあたりには独特の形をした三角形の岩がゴロゴロしていたという。ゾウガメ、イグアナその他さまざまな動植物が存在し、この島独特の種が多い。種の多様性は島の大きさを考慮にいれれば、「種の宝庫」マダガスカル島にも引けをとらない。
 ガラパゴス諸島はダーウインの訪問より300年前に発見されていたが、本当にこの火山島の特質を発見したのはダーウインであった。ガラパゴスとはスペイン語で「ゾウガメ」のことである。このゾウガメは象のように長い首が特徴である。映画のETのモデルのような顔が可愛らしい。ひしげた頭とひとなつこい眼が特徴である。島々ごとに風景も一変する。菊の仲間の木のような草が何メートルもの大きさになる。元は陸にすんでいたイグアナが海に潜って泳ぎ廻ることになってしまった。太古の臭いと神秘的な姿、聖書にでてくるノアの箱船のようにこの諸島は数世紀の間、独自の進化を遂げてきた。
ガラパゴス諸島は海底火山から吹き出された玄武岩が幾重にもつみかさなってできた火山島である。10数年前から数百年前の溶岩が冷えて固まった。数百年前には火山の熱のために生物のいなかったこの島がこのように独自の環境で進化した生物を創りだした。西からイサベラ島、サンチャゴ島、サンタクルス島、サンクリストバル島その他数え切れない多くの島群より成り立っている。これらの島の総面積は四国の1/2である。なぜこれらの島で動植物が個性的に育ったのであろうか。プラザ島では燃えるような赤い植物が咲き乱れ、この島の特徴となっている。この赤い植物はセピウムエドモンストネイという学名がついている。陸イグアナは体長1m体重6kgで、根気のいい性格の持ち主で、大きなサボテンの下でその実が落ちてくるのを何時間でもじっと待ち続ける。夜は彼らが掘った巣穴で眠る。
 エスパニョラ島では荒れた海で泳ぐ海イグアナが島全体に分布している。彼らはこの島の海草を食べるために海に進出した。赤い海草を食べる赤い海イグアナがみられる。海中での運動は俊敏である息を止めて海中を泳ぐ体長60cm鼓動を止めて泳ぐことさえできる。天敵がキャッチできないようにするためである。日光浴をして体温をあげる。海イグアナも温厚な性格である。彼らはの由来は本当のことはまるでわかっていない。年に一度の繁殖期のみに縄張り争いが起こる繁殖期に雄は雌を待ち受け雌は2個の卵を砂浜に産み育てる。
 ダーウインフィンチはダーウインが進化論を生み出すもととなった鳥である。環境に応じてくちばしの形が異なっている。植物の形態も多様である。ガラパゴス各島にはヌカレシアという木でない巨大な草が分布する。この巨大草は茎の髄があることから草類と判明する。このヌカレシアにしても形態や大きさが各島で異なっている。幹の周りは90cm以上に達する。ガラパゴスコバネウはその名の通り海中の餌を漁るのみで十分生活できるため、羽が退化し飛べなくなった鳥である。ニュージーランドのキウイにも似ている。
 ガラパゴスの動物は人を恐れない。雀ほどの大きさのやや尖ったくちばしを持つマネシツグミはその代表だ。ダーウインは「私が寝ていると一羽のマネシツグミが私の持っていた水瓶の縁にとまった。どうしてこうも人を恐れないのか、これは注目に値する」なれなれしいのは鳥だけではない。赤道直下のガラパゴスでは海の中では北半球に多いオットセイと南半球に多いアシカがともに住んでいる。
 断崖を登ると見事な火口湖の見える島がある。この火口湖にフラミンゴが生息する。動物の楽園が隠れているガラパゴス諸島である。ダーウインは驚きと興奮のもとに1カ月この島に滞在した。
雄のグンカンドリが喉元を赤く膨らまして雌に求愛する。雌は雄の喉元の膨らみと赤さに魅せられ雄に近づく。つがいとなった雄と雌は潅木の茂みの木の上に巣を造り卵を産む。赤ちゃんは1年かかって巣立つ。ひな鳥の食欲はすさまじく1年たつと親鳥より大きくなる。
 ガラバコスでは、まづ鳥が他の地より飛来し、この鳥についた植物がさまざまに繁茂したと考えられる。この島は鳥たちの楽園である。アオアシカツオドリは真っ青な脚と水掻きをもつ。不思議な色合いだ。「ヒーヒュ」と鳴き声をあげ、まるで模型ロボットのように脚を運ぶ。歩く姿はユーモラスだ。陸ではユーモラスなこの鳥もいったん海にでると見事なダイバーに変身する。第二時世界大戦のドイツ軍の急降下爆撃機ユンカース以上の迫力で海表にいる魚を見事にとらえる。羽の色にハーケンクロイツはなく黒である。
 この島になぜ多くの種が存在するのだろうか。新種の生物は@鳥に付着してA気流または風に乗ってB海流に流されて、のいずれかによってこの諸島に運ばれる。大陸から流木や竹が流れ着く。この中に植物の種や動物の卵が潜んでいる可能性がある。ガラパゴス諸島付近で海流は北からの海流と赤道を東へ流れる海流に押され、南からのフンボルト海流が西に方向を変える。ガラパゴス諸島にはペンギンがいる。ガラパゴスペンギンはマゼランペンギンに似て、体長40cm体重2kgのかわいいペンギンである。この島のペンギンは寒いところで体を暖めあって寒さをしのぐペンギンと違って大きな群れをなさない。彼らの巣は直射日光の当たらない溶岩の日陰に分散して造られる。南極からやってきたフンボルトペンギンがこの島で独自の進化をとげた。寒流の流れ込みのためにガラパゴスの気温は赤道直下なのに低い。ペンギンは水中では俊敏で、人間に簡単に近づく。ペンギンに肩をたたかれるダイバーもいるほどである。ペンギンはたらふく寒流に存在するえさを食べて満腹で生活する。
 ガラパゴスの海中は実に生物の種類、数が豊富である。しかも300種の魚類のうち約23%がこの諸島の固有種である。サンゴ等も固有種がみられ、陸上同様、他ではみられない生物相を示している。タイマイがいる。熱帯魚はいるが形や色が他の熱帯の海と少しづつ異なっている。
 フロレアナ島は1832年にエクアドルの領地となりその後入植者が増えていった。彼らがはじめてこの島に入植したとき、神は雨の代わりに岩を降らせたという逸話が残っている。岩だらけのこの島の生活はひどいものだった。そのころは発動機もなく何をするにも手仕事で大変であった。1923年に出版された「ガラパゴス世界の果て」では大勢の開拓者が洞窟で生活した記録がまざまざと語られている。彼らはスカレシアの林を切り開き、果物や野菜を植えウシやブタを飼った。その頃のフロレアナ島の人口は数10人であった。
 現在ガラパゴスには全島を合わせると1万2千人が住んでいる。大陸から新しい動物や植物を持ち込んだ。道路が自然を分断した。切り開かれた森林が牧草地になった。島の面積の7%に人の手が入っている。スカレシアに代わるバナナやアボガドの林そして10万人以上の観光客がガラパゴスの生態系を変えつつある。サンタ・クルス島のプエルトアヨラには観光客の拠点になっている。町の人口は増え続け、今日もクルーザーが島めぐり観光を行う。町の人口は毎年数10%の増加率を示している。
 サンタクルス島にあるチャールズ・ダーウイン研究所は1964年にガラパゴスの調査研究のために開設された施設である。この研究所の現在の最大のテーマはいかにこの諸島の生態系の破壊をくい止めるかにある。この研究所のゾウガメ飼育棟ではゾウガメの飼育場を造り、ガラパゴスゾウガメの孵化と飼育とをおこない個体数の回復を試みている。過去2ー300年の間、ガラパゴスにやってきた捕鯨船などが島からゾウガメを持ち去った。冷蔵方法がなかった当時、ゾウガメは貴重な食料であった。ゾウガメは1年間もつ生きた食料として、また油をとって燃料とするために無節操に捕獲された。そのためにゾウガメの数はほとんど絶滅近くまで減ってしまった。この研究所ではこれまでに8種類1200匹のゾウガメを育て島に戻した。しかしそれまでに2万匹のゾウガメが持ち帰られたことを考えると、20年間で1200匹しか育てられなかった訳であるので、もとの状態に戻すにはもっと長い歳月が必要である。
 ガラパゴス諸島に住むゾウガメは島ごとにその甲羅の形がちがう。ゾウガメの甲羅は割合軽い。甲羅の形は大別すると2種類ある。ドーム型とクラ型である。ドーム型は比較的低い水辺に住み、クラ型はやや高地で高いところの草木も食べれるような構造である。ゾウガメはそれぞれの島で数万年生きていた。ここ数百年の間に食用として捕獲されたために2島では絶滅し、他島も絶滅の危機に瀕している。研究所では少なくなった島のゾウガメの卵を飼育し数年立ってから再びその島へゾウガメを返す試みを根気強くおこなっている。最近の研究では、孵化温度が29.5度以上になると、雌の方が雄より多く生まれるという興味ある結果を得ている。
 イザベラ島は絶滅に瀕しているゾウガメにとって唯一の天国である。平坦な登りから火山の登りにはいると、猛禽類のガラパゴスノスリか親近感を表す「キーキー」という鳴き声で飛ぶ。イサベラ島アルセド火山の頂に到達すると標高1100mである。外輪山の周辺にゾウガメが群れをなしているという。クラ型のゾウガメである。かって海にいたゾウガメがどのようにしてこの山地にたどりついたかは不明である。カメの獣道を歩く。体長80cm体重100kg以上のゾウガメが周りにだけでも20頭はいる。この地まではガラパゴスゾウガメの捕獲は進まなかったようだ。ガラパゴスゾウガメの聖地である。交尾のあと5ー6cmの卵を10ー20個産み、産まれた子ガメは体重80gである。80年生きると200kg以上になりゾウガメは200年は生きる。
ガラパゴスは太平洋のノアの箱船である。生命の営みがここで悠久の時を刻んでいる。


赤道直下の国「ケニヤ」

 ケニヤは日本の約1.5倍の面積を持つ。その70%はサバンナとよばれる草原地帯である。そこでガゼ−ルやシマウマ、キリンなどの野生動物の姿をみることができる。年間90万人の観光客が自然と動物のかかわりを見に世界各地からやってくる。柴田厚さんもその一人だ。彼はきょうも双眼鏡を両手もち、晴れ渡った大草原をジ−プにのり新しい発見はないかと駆け回る。草原の疎らに林立する樹陰では頭部が異様に大きなオスのライオンが横たわっている。
 ケニヤはインド洋に面している。海岸線には町が点在している。首都ナイロビに次ぐ大きな町が人口53万人のケニヤ第2の都市モンバサだ。モンバサには白壁の家が点在する。住民の55%は回教徒であり、年1回の断食祭は2月23日から3月23日までの1ヶ月の断食後に盛大に催される。断食とは太陽が出ている間には食事もタバコも口にしないという厳しい修行である。
 スワヒリ語はイスラムとアフリカの言葉が融合してできた。「ジャンボ」とは「今日わ」である。会う人々に「ジャンボ」と挨拶して歩く。その一人アバヌ−ル・モハメッド・オスマンさんは貿易商である。彼の家で断食あけの祝いの祭が催されている。羊肉が各種香辛料で味付けされ、訪問者に振る舞われる。まわってきた人々にはご祝儀にお米をあげる。羊肉のカレ−とピラフが今日の料理だ。イスラム教徒は信仰上酒を飲まない。ひたすら食べる。食べる慶びを神に感謝してそして踊る。
 2000年前にこの地とインドとの交易が行われていた。モンバサは11世紀にできた港町である。そしてケニヤの海岸にはイスラム文化がしっかりと根をおろしている。海岸の美島がラム島である。この島の住民の80%がイスラム教徒である。この島は14世紀のイスラムの町の特徴を残している。狭い通り、迷路街、少ない交通機関。この町では荷車だけが行き交う。島の町間、島とケニヤ本土とは帆船が交通手段となる。アブヅ−ラさんと厚さんはシェラという人口1000人の小漁村に到着した。ここが漁師アブヅ−ラさんの家がある島である。海岸で鮫が解体されていた。その鮫肉に縦に切れ目をいれ、塩を振りかけ天日干しにする。アブヅ−ラさんの家では食事の支度が子供たちの手によりなされていた。ココナッツを削り汁をとり、その汁を使って米をたく。これが一般的な食事である。彼の先祖は400年前にオマ−ンからきた。かれは先祖から伝わるアラブ製のテ−ブルを厚に見せた。
 アブヅ−ラさんは潮のみちひきを利用して柵の中に魚を閉じこめる変わった漁を見せてくれた。複数の人間で魚を狭い領域に追い込んでいく。捕れた魚は棒に下げ二人がかりで村のリゾ−トホテルに売りに行く。支配人の機嫌のいいときに魚は売れる。売れないときには村の得意に売りにいく。この家でも売れない場合には安い値段で冷凍業者に買い上げてもらう仕組みになっている。
 島では昔ながらの造船が行われている。木の曲がりを利用して舟の竜骨をつくる。設計図は船大工の頭の中にかかれていて図面はない。経験による作業がこの船大工仕事である。百トンの船をつくるのに1年はかかるという。彼らは気長にちょうなの様な道具を使って木を1本1本削って船を組み立てる。
 イスラム伝統は石屋根の家で守られる。椰子の葉のいわゆるインスタント茅葺き屋根が多くなってきた今日、石造りの家は貴重である。石屋根家の建造は茅葺き家の倍の建築費がかかる。アブヅ−ラさんは金を稼がなければならない。最近新たにこの地で茅葺き屋根建築を禁ずる法律ができた。地元の人が、地方からくる人々が安価な茅葺き屋根家を建てるために、従来の石づくりの家文化が失われるのを恐れ始めたことによる。
 漁に出たアブヅ−ラさんがホワイト・スナッパ−という鯛ににた魚を釣っている。かれは金を稼いで立派な石造りの屋根の家を建てたいと思っている。彼の顔は自信と希望でいっぱいであった。


巨石文化

 モアイ展をみてみると地球上で巨石文化が実際に花開いた時期があったことを実感できる。モアイとはイースター島などにある巨大な石の像のことである。最大のものは90トンぐらい。巨大なモアイはざらにある。王権、神権の象徴がこのような大きな石像文化をつくり出したという。たとえば日本では大阪状の石垣、中国の万里の長城、太平洋のイースター島、英国のストーンヘンジやニュ−グレンジ。石はどこにでもあるもっとも身近な加工物の対象である。そこで人間は山の無いところに石を加工したピラミッドやバベルの塔をつくって権威を象徴する。メキシコにあるアステカ文明の都市遺跡テオティワカンでは先細りの死者の大通りがある。エジプトの記念碑オベリスク(方尖塔)は天に向かってその先端をのばしている。
石の運び方は現在の科学では想像することもできない超能力の存在を推測させる。レバノンのベイルートの郊外にある1000トンの石はバールベク宮殿の基壇石に使われている。この地方の人民はバール神を信仰していたのでバールベクという名前がついている。大きな石は平原にのみ設置されていたのではない。ペルーのアンデスの山頂には500トンとか300トンの巨石が運ばれている。古代の石の加工技術のすごさを証明するものとして前インカの遺物にはエメラルドの石に0.3mmの穴がきれいに開けてある。これはレーザー技術が前インカにはあったとしか考えようのない見事な加工技術である。ペルシャ時代には現在でも不可能な黄金の合金が作られている。アトランティスで使われていたオリハルコンもしかり。
 謎の環状列石「ストーン・ヘンジ」、巨石墓「ニューグレンジ」:英国ソルスベリー平原にあるストーンヘンジはヨーロッパの巨石文明でもよく知られたものである。巨石文明とは新石器時代から初期金属時代まで細かな加工を加えずに組み立てられた巨石による建造物を意味している。「メンヒル」とは単独の立石で最も長いものは20m長のものまであるという。平均では約1〜5mの高さの石が孤立して立っている。「ストーン・サークル」とは立石が群をなして立っているもので、ストーンヘンジもこの中に含まれる。だがこの環状列石は厳密には環状ではなく楕円状である。これが故に「ストーン・サークル」は「ストーン・リング」と呼ばれるようになってきている。フランス・ブルターニュ地方南部のカルナック列石群では3000個以上の「メンヒル」が6km以上の列をなして群立している。「ドルメン」とは巨石墓のうち最も簡単なものである。3枚の岩を地上に立てその上に平岩を載せて天套とする。この「ドルメン」の最大のものがアイルランドのミース県にある高さ6mの十字型の玄室と長さ16mの墓道を有している。


モンゴロイド

 ここは北アメリカ大陸である。1万年以上以前にベーリング氷河回廊を渡り独自の文化を形成していたモンゴロイドを窮地に追いやったのはヨーロッパから押し寄せてきたコーカソイド(白色人種)であった。彼らはヨーロッパでの爆発的人口増加に新天地を求めてアメリカの地にわたってきた。コーカソイドとアメリカインディアン(モンゴロイド)は価値観が全く異なっていた。コーカソイドは農耕民族であり土地財産の厳格な区別をもっていた。一方、アメリカインディアンは狩猟民族であり遊牧民族であった。アメリカインディアンにとっては使っているもの、使っている土地、捕らえた動物のみが天から授けられた貴重な生きるための糧であった。余ったものは自然に返すというのが彼らの習わしであった。
 聖教徒(ピュ−リタン)革命により英国から進出してきたピューリタンは彼らの活動の妨げになるとしてニューイングランドに住んでいた価値観の異なるアメリカインディアンを惨殺した。宗教改革という名目でコーカソイドは次々とインディアンを惨殺し、確固とした土地を獲得しアメリカの西部、南部へと進出していった。一方、狩猟放牧民族であったアメリカインディアンは定まった土地を持たなかった。彼らは全米で500万人居た。とりまく自然に関してはアメリカインディアンは神聖で謙虚な考えを持っていた。
 アメリカインディアンは食糧や土地、衣類は神が与えてくれた恵みでありこの恵みは住んでいる人々全員が平等に享受しうるものと考えていた。すなわちインディアンにとっては自然とは神の恵みであり自分の移動していった土地が自分の土地であり、これは神によって与えられた神聖なもので分割所有など思いもつかないことであった。「DANCES WITH WOLVES」という映画の中で主人公の米国軍兵士の帽子をアメリカインディアンであるスー族の若い青年が取り込んでしまうシーンがある。彼にとっては草原に落ちていたものは米国軍兵士のものと解っていても自分の収穫物であり自分で利用することが出来るものと慣習的に信じ込んでいたからであった。
 スー族、彼らの言葉ではスー族のことを「ラコタ」と呼ぶ。ラコタは信仰の神聖な山をもっていた。ブラックヒルズである。東部から西部にその領地を拡大し続けていた白人たちはここで金を発見した。そこで白人はこの聖地から原住民であるアメリカインディアンを遠ざけてしまった。おまけにこの地にあるラシュモア山の山腹に白人の英雄像を岩山に刻んでしまった。現在でもサウスダコダ州ブラックヒルズはこの山腹にある大きな岩を爆破して作った岩の英雄像を見学に米国各地から観光客がやってくる。この地ではアメリカインディアンは古代の遺物となってしまった。そしてブラックヒルズの東10キロにパインリッジというところがあるが、その地をアメリカインディアン居留地と定めアメリカインディアンはこの地に押し込められて行動を制限されてしまった。しかしこの地においてアメリカインディアンは白人の押しつけた違う思想の暮らしにうまくとけ込むことができなかった。 オグララ族はかの有名なレッドクラウドとクレージーホースの子孫だ。アメリカインディアンは進歩から遅れた哀れな犠牲者だと白人は決めつけて彼らからラコタの宗教を禁じ新たに聖書を彼らに与えた。ラコタの宗教は「はじめにエイヤンありき」「聖なるパイプ」「7つの部族が7年ごとに集まる」「儀式では動物の格好をして動物と獲物の分け合いを行う」「バッファローは友達であり、生命共同体であり、宝だ」などなど自然と密着した環境に畏敬を抱く崇高な宗教だったのだが。
 そして1860年代、西部に移住してきた白人居留者たちがバッファローを多数殺し始めた。金の採取にも乗りだした。レッドクラウド酋長に率いられたラコタ族はこの仕業を神に対する冒涜と考え、白人が神聖なる神の地の近くに出没しないようにという考えのもとに戦いをおこした。1868年にラコタ族は米国合衆国(白人)とラコタ条約を締結した。これによればブラックヒルズ周辺では白人は侵入することができずラコタすなわちスー族のみが居住しようできる地と設定した。
 後にアメリカ大陸にわたり原住民の文化生活を侵略しだしたコーカソイドの自然に対する価値観すなわち「人類が自然を保持している」という考えとは反対に、長い間自然と親しみしかも畏敬の念を抱いて接してきたアメリカインディアンの考えは、「自然が人類を保持し行動を制限している」というものであった。
 次第に自己財産としての土地を確保し領域を拡張していくコーカソイド、反対にその進出に自らの長い文化を奪われつつあるモンゴロイドの一族アメリカインディアン。おまけにこれらのコーカソイドがヨーロッパから持ってきたペスト、麻疹、水疱瘡、天然痘などの伝染病がこれらの病に対して免疫能を全く持たないアメリカインディアンの90%を死へと追いやった。チェロキー、アパッチなどは強引に土地を保有させられオクラホマの保護区に押し込められてしまった。モンゴロイドであるアメリカインディアンは元来おとなしい性格で、侵略的、攻撃的なコーカソイドとは全く行動パターンが異なっていた。インディアンが白人と交易をして道具を手にいれた最大の目的は、その道具を使うためではなくその道具から祭礼のときに使う装飾品を作り出すだけのためにであった。彼らの長い歴史を持った自然と対話する生活は西洋の白人がもたらしたいかなる道具をも必要としなかったのである。彼らの長い生活の知恵は自然と調和し簡素ではあるが生活に調和した必要にして充分な道具の開発がなされていたのであった。
 無理な土地や財産の保有を強制的に迫る米国の政策に原住民が戸惑ったのはいうまでもない。彼らは米国の政策になすすべもなく従った。彼らは多くの場合武力も行使した。スー族のみがアメリカ軍に抵抗しうちまかし和平協定を結んだ唯一のインディアンであった。現在たった25万人のみのアメリカインディアンがひっそりとしかし確固とした自己主張をして独自の文化を護りながら生きている。一方、1600年から急速に勢力を拡大していった白色人種(コーカソイド)は1900年には5000万人へと増えていた。100年たったいまもアメリカインディアンはブラックヒルズで全国集会を行う。今でもアメリカインディアンにとってブラックヒルズは黄金の財産はなくなったものの自然の恵みがすべて揃った特に神聖な土地である。



cf.イタコの謎

 みちのく東北地方の霊媒者イタコは,毎年の夏(7月)におこなわれる青森県下北半島恐山大祭ですっかり有名になった。昭和40年代に50人以上いたイタコはここ数年のあいだに数えるほどに減ってしまっている。この付近にいる本当の霊媒能力を持つイタコは数人である。青森県津軽地方のイタコは数人である。岩手県遠野地方のイタコは10数人である。ゆえに東北にいるイタコの独特の死者の霊を呼び出す「口寄せ」「神おろし」「オシラ祭文」などの習俗は細々と伝承されているに過ぎない。
 イタコの歴史に関しては古い時代からではないと現在までには考えられてきた。明治時代にはじめて弱視か盲目の女性において、一つの職業教育として始まった説が有力である。この説によればイタコ制度は完全な徒弟制度であり、しかも霊媒を扱う身でありながら完全なトランス状態にならないために、一般的には他民族の祈祷師(シャーマン)のような真性シャーマンとは認められていない。イタコに共通していることは幼少時代にハシカや眼病で失明した人が多いということである。
ところが津軽イタコの霊場として歴史を持つ津軽地方金木町にある川倉地蔵の賽の河原や津軽イタコの修行の話、津軽地方の古代史などを調べるとイタコの歴史は以外と古い歴史があることに気づく。津軽イタコは「九重の守り」と呼ぶ黒塗りの筒を秘蔵しているが、恐山大祭や川倉の地蔵祭にでかけるときにはこれを持って行かずにイラタカの数珠を持っていく。この九重の守りはいったん他人に中を覗かれればたちまち神通力や霊能力を失うと考えられている。この九重の守りにはイタコの修行方法や恐ろしい獣の頭蓋骨(たとえば9匹の狐や化け猫の頭)が入っていると言われているがその内容の真相はあきらかではない。
 イタコと円通寺と恐山とは密接な関連があるように考えられているが、円通寺ではイタコを養成したり免許を与る事実はなく関係がない。イタコが恐山に集まり出入りできるのは、夏の大祭の期間(7月20〜24日)に限られる。特別に修行してイタコが免許をいただくことがある。この場合、イタコのほとんどは(数人であるが)盲僧鑑札なる免許印を弘前市の報恩寺から受領する。 南部藩では山伏的修験道をはじめとするあらゆる修行が終わったイタコには大和宗本山・大乗寺(岩手県東磐井郡)が免許状を発行して南部イタコを統率している。師匠離れをするには「神つけの式」が必要である。これがイタコの師匠が弟子に与える免許皆伝の儀式である。一般社会でいういわゆる卒業試験である。つぎに師匠と一緒に歩いて「仏おろし」や「神おろし」のインターンを行い一人立ちをしていくという。
津軽の村人たちはイタコに岩木山・大倉山・赤倉山の3山にいる山の神を呼んでもらい、春に農作物の豊作を祈願しその年の吉凶を占い、秋に作物の収穫を山の神に感謝する。これが「神おろし」である。その後は、権現様や八幡様などの神様をイタコが呼びだし吉日選びや悪疫の処理の仕方を尋ねるようになった。したがってイタコは自然界の法則や神仏に通じていなければならなかった。「仏おろし」とは死亡した人間の霊を家族の前にまで持ってくることで、「口寄せ」と同様の行為である。
 イタコの名の由来はあの世に入って還ってきた人間という意味らしい。行くと来るという「いった、き(こ)た」が結合して「イタ・コ」となった。かみつけの儀式の中でイタコは最後に失神したときに師匠に「何の神がついたか」と尋ねるという。それに答えて弟子が「山の神がついた」と答えると神つけの儀式が終わる。
古代シャーマンの歴史は、古代王国が発展し中国もしくは朝鮮大陸の文化影響をうけなかった、いわゆる縄文人文化を残す地域にのみ残る。沖縄のユタ、スンガンカカリャー、東北地方のイタコ、北海道のアイヌのシャーマンである。太い眉、角張った顔、大きい鼻と口、彫りの深い顔、これが縄文人の顔である。大陸文化が花を咲かせた九州、大和などの中央ではシャーマンの慣習は大陸人に否定され、かわりに大陸文化の仏教が民間信仰にとって替わった。


謎に満ちた二つの文明

1.謎の民族『スキタイ』
 ユーラシア大陸には東西7千kmにおよぶ大草原地帯が広がっている。その中央部に位置するのがソビエトロシア共和国アルタイ地方である。山間の草原に住むアジア系の人々は今も伝統的な遊牧生活を送っている。 
4千m級の山々が連なるアルタイ山脈、アルタイとはモンゴル語で黄金の山を意味する。今から2千数百年の昔この黄金の山をめざして西からやってきた騎馬民族がスキタイである。
 サンクトペテルブルグ(昔のレニングラード)にあるエルミタージュ美術館に18世紀はじめからの騎馬民族スキタイの黄金コレクションがある。直径10センチほどの黄金の輪は紀元前4世紀に作られたものである。精密な細工を施した2つのスフィンクスが向かい合っている。スキタイの遺跡からは他の民族をはるかにしのぐ黄金製品が出土する。彼らは武器や装身具を富と権力の象徴であるとして黄金で飾った。黄金の耳飾りなど。黄金の民とも呼ばれるスキタイは文字を持たなかった。彼らは現代に彼らの歴史を何一つも書き残していない。
 スキタイ民族は、歴史書に残っている限りでは、紀元前7世紀黒海の北岸、クリミア半島のあたりの、ギリシャ、小アジアの対岸の地域に出現した。ところがスキタイの遺跡が、今世紀のはじめに遥か東方のアルタイ山脈ならびにウコック高原で発見された。ウコック高原は海抜2千m程度のなだらかな草原地帯である。このあたりには点々とスキタイの古墳が見える。今は人の姿はどこにも見られない。古墳の直径は5m〜30mである。この地域は中国とモンゴルとロシアの国境であり古墳の発掘には政治的な問題がからんでくる。その観点から考えるとこのあたりでは盗掘されていない完全な古墳が発見される可能性が強い。
 スキタイの古墳は積石塚である。スキタイの名は野蛮な破壊者として古代オリエントやギリシャに住む人々に恐れられた。疾風のように襲来し奪いそして去っていく。敵の血をすすりドクロの杯で酒を飲む。これが騎馬民族スキタイのイメージであった。彼らは定まった家を持たず、家畜と馬車とテントそして草原の緑を象徴とする。これがスキタイのイメージであった。
 ヘロドトスはスキタイ族に関してその大著「歴史」に書き残している。スキタイの先祖はギリシャの英雄ヘラクレスであるといわれる。スキタイに関する建国神話がある。ヘラクレスは黒海北岸の地で3人の息子をもうけた。そして彼らの一人に家督を譲ろうとした。そこで彼は息子達にひとつの試練を与えた。「この弓をひけるものを私の国であるスキタイの後継者にする。弓を引いてみよ」。まづ長男のアマヂュルソスは失敗し弓がはねて顎にけがを負った。つぎに次男のゲロノスもうまく弓が引けず足に負傷した。かれらはこの地を去った。最後に、末子スキュテスが見事弓を引きはなった。このスキュテスがスキタイの祖である。この物語は家族制度における末子相続制度の始まりをも伝える。
農耕民族と違い騎馬民族はその子孫が増えるにつれ次々にその行動範囲が増えるという生活形態をとる。スキタイもその例にもれず子孫が増えるにつれその領土を拡大して入った。紀元前630年にアッシリアを侵略し28年間この地を統治した。その後エジプトまで侵略し、この時期のオリエントはスキタイの重税と略奪により荒廃に帰したとヘロドトスは歴史の中で述べている。スキタイは紀元前339年にはギリシャの北のマケドニアを侵略した。このときのスキタイを討ったのはアレキサンダー大王の父、フイリッポス2世であった。
 スキタイ人は優れた商人でもあった。略奪した商品をもとにギリシャやオリエントと交易をした。彼らはオリーブ油、ぶどう酒、金銀、宝石類などを手にいれるとともに先進文明を吸収していった。スキタイの広大な行動範囲によって先進地域の文明は他の地域に運ばれていった。
 騎馬民族の文化は古代日本にもおよんたといわれる。奈良藤の木古墳の棺の中に副葬品として豪華な馬具が一緒に埋葬されている。騎馬民族の古墳では人と馬が同時に葬られることは希ではない。馬は太陽の化身と考えられ丁重に扱われる。埋葬された馬具の金具には「剣菱」がついている。一方スキタイ人の姿が描かれた壁掛けにも「剣菱」ににた装飾が認められる。剣菱型文様は朝鮮や北方ユーラシアにも分布している。剣菱文様の共通性はスキタイとわが国のつながりをおぼろげながら感じさせる要素ではある。その他の理由からも、日本民族は騎馬民族ではないかと主張しているのが文化勲章を授賞した江上波夫氏、対立するのは元奈良民族資料館所長佐原真氏である。
凍結古墳はロシアの考古学者セルゲイ・ウデンコによりパジリク古墳で発見された。この古墳で凍結した棺を発掘した。考古学上希にみる大発見であった。出土品が凍結したまま原型の姿をとどめていた。エルミタージュ美術館のパジリク室には紀元前4〜5世紀のスキタイの完全な衣服や馬車が残る。2千年以上の時の隔たりを感じさせない。去勢した西アジアからもたらされたと思われる巨大な馬も180センチ以上もある墓の主もほぼ完全な姿で保存されている。シルクロードができる以前はスキタイ族が作った草原の道がオリエントと中国の交流の主たる経路であった。
 スキタイ族の墓からは剣菱以外にもう一つ「グリフィン」という装飾物が必ず出土する。上半身は鷲の翼と頭、下半身は獅子の姿をする。このグリフィンがスキタイの特徴であった。スキタイが足跡を残した後には必ずグリフィンあり。グリフィンこそがスキタイ族の黄金をまもる象徴的な動物であった。グリフィンの発祥はメソポタミア地方である。この地に生まれたグリフィンはオリエント、エーゲそしてギリシャへと伝搬していった、エジプトにわたったグリフィンは再びシナイ半島にわたり、そしてアジアに伝わった。この時期にスキタイはグリフィンを象徴の動物として取り入れた。アケメネス朝ペルシャの都スーサの壁を飾るグリフィンは獅子の頭をもつ獅子グリフィンである。
 さらにグリフィンは幻の大陸アトランティスの名残の象徴ともいえる遺産である。グリフィンの存在は地中海文明をも象徴する。グリフィンはミノア文明で繁栄し、紀元前14百年のサントリーニ島の大爆発で鉄分を多く含んだ赤い色の火山灰の下敷きになったクレタ島のクノッソス宮殿の壁画の中にも発見される。広島原爆の百万倍のエネルギーといわれるサントリーニ島の大爆発はミノア文明などの海洋文化をほこった地中海文明を伝説にし滅びさせた。
 ギリシャ・ロ−マ神話にでてくるグリフィンは獅子の体をして頭と翼が鷲で、背中は羽毛で覆われている怪物である。この怪物は鳥のように巣を営むがその巣の中で卵の代わりにメノウを産む。長いくちばしと蹄を持ち、その巨大さは土地の人が杯にこしらえるほどであった。このグリフィンの故郷はインドであるとされる。グリフィンは産まれながらにして黄金の埋まっている場所を知っていた。グリフィンは山から黄金を見つけだし、その黄金で巣をつくった。その巣を狩人たちは眼をつけていた。そのためにグリフィンの親鳥は夜も寝ずに巣の番をしなければならなかった。全力を尽くして巣の中身を盗むものを近づけない努力をする習性を身につけていた。アリマスポイという人種はスキュテェイアに住んでいた一つ眼の人間であったが、この人種の中でグリフィンは富
の象徴として栄えていた。
 麒麟はグリフィンが形を変えながら東洋に伝わったと考えるに充分な想像上の動物である。麒麟とグリフィンは時間と距離を違えながら東洋と西洋で間接的につながる。トルコ系のアルタイ族、インド・ヨーロッパ語族のスキタイ族には金グリッフィンが象徴であった。グリフィンの像がアジアに伝搬されるにつれ、金の玉をくわえ鷲のくちばしを持った本来のグリフィンの輪郭は麒麟の顔貌に変化していった。スキタイの東方進出とともに歴史に名を残さずに滅びていった文明も多く存在したであろう。

2.『謎の仮面王国』
ー中国四川省「蜀」の3王と仮面の謎を探る・古代揚子江文明存在の可能性ー
 飛び出した目を持つ異様な表情、中国四川省で発見された巨大な仮面の幅1.4m、高さ65cm。謎の仮面は今から3千年も前に中国の揚子江の流域四川省蜀の地で生まれた。これらの人々はなぜこのような巨大仮面を作り、そしてなぜその文化の歴史は謎のままに葬りさられてしまったのか?この揚子江文明は最近発見された文明であるがその文化と滅亡の仕方は謎に満ちている。
 三国誌「魏呉蜀」で有名な昔の蜀の地が四川省にある。この蜀の地は山に隔たれ他の地方からみれば聖域であった。「ああ危うきかな、高きかな。蜀の道、これ難難、青天に上るより難し」と杜甫はのべている。成都市四川省は日本の1.5倍の面積で湿気が多い。このために体力を補う高カロリーの四川料理が生まれたという。蜀の諸葛孔明の生誕の地としても有名である。武侯詞には諸葛孔明をはじめとする武将がまつられている。蜀の国の歴史にはこの三国史以後の歴史は刻まれているがそれ以前の歴史は全くというほど残っていない。
 1986年7月田園の中で農民が日干し煉瓦を作る際に穴の中に大量の青銅器が詰まっているのを発見した。調査班が三星堆遺跡と称して発掘を行った。3百点余りの青銅器とともに黄金も出土した。その製作年代は殷の末期3千年前と青銅器の製作時代が推定された。巨大な青銅器は不思議な形と同時にそのすべてが破壊され火に焼かれていた。
 付近の調査から遺跡の土手が古代の城壁として2〜8mの高さで3平方kmの広さを囲んでいた。宮殿や住居の後も見つかった。殷と匹敵する古代国家がこの地に存在したと推測される。中国古代史を考え直させる事実である。
 古代文明は大河を中心に発生した。エジプト(ナイル)、メソポタミア(チグリス・ユーフラテス)、インダス(インダス)、黄河(黄河)文明の古代4大文明である。それに加えて揚子江文明の存在が浮かび上がってきた。
 成都市に2mを越す青銅の立人像がある。鋳造の方法はどうであったのか。長さ1.2mの純金の杖、鳥の仮面一族のシンボル。アーモンド型の目、高さ2メートルをこえる巨大な鳥の頭の仮面。扶桑(日本の別名)となった太陽の宿る想像の木、枝にとまった扶桑から太陽を運んでくる聖なる鳥。これらは謎の王国の太陽信仰の証である。謎に充ちた眼の飛び出した仮面。古代の双眼鏡か、宇宙人の像か定説はない。漢字はもの特徴を表すが蜀という国の字の冠は目である。
 成都大学に保存されている華陽國市に縦の目の国王の記載がある。文献と仮面と蜀という国の字の語源の接点がここに見いだせる。燭の王「蠱叢(さんそう)」「はっかん(柏潅)」「ぎょふ(魚鳬)」の3人の王家が1200年にわたってこの地を治めていた。縦目の王は蠱叢である。蜀の初代の王は養蚕をもたらしたこの蠱叢である。蜀の国はもともと絹の名産地である。一歩外に出ると四川の地は緑の桑畑であり今でも養蚕が盛んである。絹はこの地の名産である。蠱叢を奉り養蚕業者が参拝を欠かさない蠱叢神社がこの地にあった。
 蜀の2代目の王家の創始者である柏潅の出身地は四川省潅県である。ここにある都江堰は世界で最も古いダムである。この堰は今でも治水潅漑用に用いられている。文化大革命で中止されていた清明放水節が四川省で久しぶりに行われた。柏潅は治水の名君であった。豚が揚子江の中に投げ込まれいけにえにされる。シャーマン(呪術師)が祈りを捧げる。巨大な立人像は蜀の2代目の王であると考えられている。その王である柏潅はシャーマンでありとりわけずば抜けた治水能力を持っていたと考えられる。彼の像と考えられる2mを越す巨大な立人像は丸い輪を持った巨大な腕をもっている。
 蜀の3代目の王家の創始者、魚鳬(ぎょふ)とはその名の通り魚をとる水鳥、川烏(かわう)のことである。四川省はその名の通り多くの河の恵みに育まれてきた土地である。険しい山に囲まれた四川では船が重要な交通手段であった。河の合流する地点は波が高く今も交通の難所である。唐の時代に作られた楽山大仏は往来する船の安全を願って岩崖に掘られた高さ70mの石像である。この楽山の近くに小さな島がある。電気も水道もないこの島の人口は30人余り、島の産業のすべては鵜飼いである。自由に放し飼いされた鵜飼い漁は人と烏の信頼関係に基づいた古代より伝わる原始的な漁である。金の杖には魚の紋様と烏と王冠をかぶった魚鳬が描かれている。烏の嘴ともグリフィンの嘴とも解釈されるような鳥のシンボル。蜀の民は日に吠える。蜀の国は太陽の恵みの少ない地域なのである。
三星堆遺跡からはこれらの金属の高度な生産技術にかかわらず未だに文字が発見されていない。一説には殷の技術者を蜀の地に招き彼らにこれらの青銅器を作らせたという節が有力である。尊に象徴される酒をいれる大きな杯高度な殷の青銅器を作る技術者を殷の末期の暴君周ほうから護るために招いたという節がある。仮面の一部は衡接(かんせつ)という技法で作られた。衡接法で頭の王の飾りが仮面に接合される。青銅器の鋳造とこの衡接技法の自在な駆使により巨大な青銅器作製が可能となったのである。青銅器の作り方からして謎の仮面王国の文化は黄河流域の文化より5百年も進んでいた。
 この3代の王統治が12百年間続いた後、突然これら青銅器が焼き払われこの文明は消失した。原因は謎だ。揚子江文明は黄河文明に対比されるべく研究のスタート点についたばかりである。

参考:
NHK特集(日本放送協会放映TV)
ブルフィンチ作、野上弥生子訳 ギリシャ・ロ−マ神話 岩波書店 1991
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