バラに関する人物と書籍等の年表メモ

plumさんへ クリムソンランブラーに関するものを赤色で表示してみました。サクライバラ関係はピンクです。
取り止めがなくて分かりにくいと思いますが見てみてください「野の花ガーデン」
のんのん 2008/1014 

西暦と時代

欧米

和暦と時代
ハマナスに関することは濃い緑

日本と中国
*中国の資料はこの文字色で表示

備考
左の*印の続き 青い文字は調査中の関心事
古代ギリシャ時代 前484頃『歴史』ヘロドトス、60の花弁を持つ八重咲きのバラなど の時代 『神濃本草経』* *365種の薬物を記載したと言われるが詳細不明
前300『植物誌』テオフラストス* 弥生時代 イネの栽培九州から近畿へ広がる *百弁のばら、最も香りの良いばら、栽培法などが記載アリストテレス流植物学に基づく500種のハーブ
前69−30クレオパトラとバラの逸話 前30年頃までに「本草」なる語ができる
AD60年頃 『デ・マテリア・メディカ』ディオスコリデス* *クレオパトラの侍医とかネロの時代の軍医などと言われる。その後1500年にわたって医学の原点となる。600種のハーブの記述
ローマ時代 77年『博物誌』プリニウスPliniusばら12種* *ケンティフォリア、ダマスセナ、ガリカ、アルバ、葉の薫るバラなど
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512年頃ディオスコリデス『薬物誌』バラ/ウィーン古写本
梁・武帝の頃
470年代 
ナニワイバラ/漢方処方書に
500年頃『本草集注』 陶弘景歴代の本草の基本となる* *復元編集した『神濃本草経』と自著の『名医別録』より採録したものを併せ編して注を加えたもの漢魏以後の薬物を追加730種7巻
営実・金櫻子
唐・飛鳥時代 630第1回の遣唐使派遣
唐・高宗 638『北堂書鈔』茶の記事初見 645改元 大化一 都を難波長柄に移す
済明五 659『新修本草』蘇啓ほか
1506『食物本草』明
8世紀 スペインには小アジア産の黄バラが入る 奈良時代
710年3月都を平城に移す
今の奈良市西部
717−24『常陸国風土記』* *茨棘(うばら)茨城(うばらき)の国

天平勝宝8 756正倉院の始まり*
宝物にバラの意匠がみられる
*聖武天皇の49日にあたり、遺愛の品を東大寺大仏に献納したことから始まる
平安時代
794平安遷都
797菊合わせ
799草綿の種子渡来
812観桜の宴
嵯峨天皇
平安前期 960まで 天皇親政時代中国文化の影響の強かった時代 キク、タケからサクラの愛好へ。建物近くにはナシ・ノイバラなどが植栽
延暦二三 804-806年弘法大師 唐に行き様々なものを持ち帰る
827『酉陽雑俎(ゆうようざっそ)太和9年晩唐の宰相、段成式著* *その中「広勧植」「支植」に木蘭、石竹、牡丹、マイカイ、蓮、山茶などがある/東洋文庫
淳和天皇(786-840)の詩 薔の文字が見られる 「竹・薔・松・梧」『文華秀麗集』
承和五 838、200年続いた遣唐使の派遣も終わる 民間の通商が盛んになったため
10世紀 900年頃
中国にはハマナスの絵がある
延喜五 905「古今和歌集」、さうぴが掛詞に〈ゴヤバラ、ボサツイバラなどか?〉 四月醍醐天皇の勅命により、延喜式の選定に着手藤原時平ら
10世紀頃 ダマスクローズの栽培、シリアで大規模に行われていた 延喜一八 918 『本草和名』醍醐天皇の勅を奉じて大医博士深根輔仁が撰述 唐の「新修本草」の漢名に和名を当てた日本最古の本草辞典「営実一名薔薇。和名宇波良乃実
927 『延喜式』完成 「典薬寮 如金櫻子核八月採之根采無時」の記述
1000年頃、ルゴサの絵 米バーリントン博物館にある絵画 後蜀 934-965 『重広英公本草』(蜀本草)* *『新修本草』(唐本草)の増補、図説薬物の形状に詳しい、金櫻子(黄色)
十字軍の遠征 1100頃、プロバンスにダマスクローズがもたらされる、十字軍
1239-40 十字軍の遠征の帰国の際に、プロバンスにバラを持ち帰った。*
北宋の時代960 960-1126頃長春花の絵*

*宗太祖(960-978)の時代の絹本

チボー四世(1201-1253)シャンパーニュとブリューの伯爵 ナヴァラ王国の王チボーが導入したバラがオフイキナリスの可能性がある
11世紀末-13世紀
仏のシャンパーニュ伯パレスチナからガリカを持ち帰る
平安時代中期摂関政治全盛時代 「枕草子」995(長徳元)〜996(長徳二)年?
「源氏物語」1008年頃成立? 「賢木/階の底の薔薇」(はしのもとのそうび)「少女/六条院の夏の庭に薔薇・撫子など」
「伊勢物語」業平.(825?80)をモデルに? さうび、そうび
平安後期院政の開始
「和漢朗詠集」1103初見? はしのもとのそうび
南宋1127-1279*
コウシンバラはこの頃から?
1127『経史澄類備急本草』唐慎微 1082頃 *都が江南地域に移ったことから、南方の植物が園芸植物として出現
鎌倉時代11921-1333 平安の寝殿造りと浄土式庭園から枯山水を誕生させていく過渡の次第 京都と鎌倉の庭の違い
建保一 1213『名月記』1180〜1235藤原定家の日記 「長春花」の文字がある12月16日付け
建保五 1217『名月記』3月29日陰明門院での前栽合わせで「珍しき異物」として「南天竺・長春花 南宋の建国から考えて、コウシンバラの日本への渡来は平安後期以降となる(飛田範夫)
1260年頃に書かれた「バラ物語」Roman de Roseに「サラセンの土地から来たばら」* *十字軍に参加した人の荷物の中に数種のバラがあった可能性
1279年頃、ランカスター家のエドモンドの妻ブランシュ、英ににガリカをもたらす* *彼女はチボーの末息子「肥満したヘンリー」の未亡人
1299『東方見聞録』マルコポーロ伊 Zipangのあることを記す kasugagongen.jpg
春日権現霊験記のバラ部分

延慶二 1309『春日権現霊験記』 貴族の館の前栽に植えられたバラが描かれている
1368〜1644 明時代の『食物本草』にマイカイ
永享三 14031 4月14日池の辺の薔薇の花が盛り『看聞御記』より*
京都の伏見殿の植栽についての記
*1434年4月25日薔薇の花が盛りなので賞玩する
1435年5月17日薔薇を賞玩する
ケンティフォリア系描かれる
『受胎告知』1430-1445
室町時代1334-1572
針葉樹が使われたのが特色
枯山水と露地の時代 この頃、各種の装飾にバラが描かれている。
文安一 1444『下学集』漢和辞書 室町時代の動植物も載る
寛正三 1462 5月12日白薔薇を挿す『碧山日録』より霊陰軒の植栽に関して 霊陰軒/東福寺内、著者は大極、園芸趣味があった
1492イタリア人コロンブス
アメリカの発見
応仁一 1467 応仁の乱 11年間京都を中心につづいた、戦国時代始まり
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『ラ・プリマベーラ』1478年頃の春の女神の胸のバラ/ケンティフォリア系?

一条兼良1402-1481
『尺素往来』に停春・薔薇
1468応仁2年 白薔薇・紫牡の花盛んに咲く『碧山日録』より 『新撰類聚往来』丹峰(生没年不詳)68種にも薔薇・長春

文明一八 1486 4月26日庭 白薔薇7枝を挿す『陰涼軒日録』陰涼軒の植栽より 陰涼軒は、足利義教によって相国寺の鹿苑院内に造立
1498バスコダガマインド航路を発見東洋進出の端緒 明応六 1497『大乗院寺社雑事記』4月の植物として黄梅・長春・仏セウ花など
16世紀 ペルシャの科学者が蒸留により上質のオイルを生産した* 明? 1506『食物本草』・正徳 *この方法では300g生産するのに1tもの花びらか必要。それまでは花びらを油に浸して作っていた
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1542『植物誌』レオンハルト・フックス/スイスの本草学者
1551-68『新本草』ウィリアム・ターナー* *科学的な英語の最初の本草書、400以上の木版画大部分はレオンハルト・フックスの図を写す
1554ドドネウスのフランダース語の薬用植物図譜刊 後年日本に渡来 1543ポルトガル船 種子島に漂着鉄砲を伝える
1549フランシスコザビエル 鹿児島に到着布教
織田信長1534-1582
1570長崎開港 
1571ポルトガル船初めての入港
信長は江州伊吹山に薬園を拓か西洋薬種3千種を移植した?
1580年頃 ケンテイフォリア
おそらくオーストリアを通って東洋からやってきたと思われるが、オランダとフランスの両方がこのバラの自生地であると主張していた
安土桃山時代1573-1602
岐阜城
1587万暦15年『学圃雑蔬』〈がくほざっそ〉明 王世?〈おうせいぼう〉 マイカイは珍しい草ではないが食べたり身体につけたりするとの記述、マイカイに似ている二種のシビ、黄色のものは北京に産する、蔓の花の五色の薔薇、貴い黄パラ、木香、宋人の珍しがったとび香のことなど。
文禄三 1594イスパニアの商人アビラ・ヒロン来日、トピアリーに驚く『日本王国記』
『瓶花譜』乙未の年1595張謙徳(ちょうけんとく)18歳の時、品花(花の品定め)にマイカイがあ
明代後期
呉中ではマイカイを栽培し利益をうることが多かった
明末1591『遵生八牋』
〈じゅんせいはつせん〉高濂〈こうれん〉98種の植物、全書が八つの部分から成り立っているのでいう
1598『落葉集』ポルトガル人が滞在していたときに印刷した* *イエズス会カレッジにて
1595『ラテン語・日本語辞典』
キリシタンの宣教師ローマで出版「Rosa,Ibaraxobino taguy」
文禄四 1593『本草綱目』明・李時珍 紅、黄、紫数色有。花の最大なる物は「仏見笑」と名づけ小なるものは「木公」と名づく
1597『薬草書』ジェラード*
ドドエンスの『本草書』1554を下敷き
高名なエリザベス朝の本草学者であり園芸家
17世紀 江戸時代
慶長十二
1607『本草綱目』渡来* *林道春(羅山)長崎で入手、家康に献上
1629『太陽の園』ジョン・パーキンソン 1621完成『群芳譜』28巻、王象普(おうしょうしん)うち花譜4巻、木本、藤本、草本花卉全部で85種 1639ポルトガル船の日本渡航を禁止
1641平戸のオランダ商館を出島に移す
(鎖国体制完成)
1643 マアルテン・ゲルリーツェン・フリース/サハリンと千島列島に初めて訪れオランダ人 1640『テアトル・ボタニクム』ジョン・パーキンソン
正保二 1645 ロウバイが中国より渡来する 正保年中に渡来した草木の中には、ハマナス、ろうざ、霧島ツツジなど『地錦抄付録』
正保四 1647円通院のコウシンバラ
宮城県松島町 伊達政宗の孫
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円通院の厨司コウシンバラ部分
1652『英国の医師』ニコラス・カルペパー* *時代を超えたベストセラー、398種のハーブについて占星術をからませたり軽率な記述がややみられる
1662ロザムンディ、バラの中のバラ、ノーウィクの町で発見
寛文一二 1672『校正本草綱目』貝原篤信校訂* *大和本草の準備作業、日本の博物学はここから始まる
1681「花壇綱目」大坂の水野元勝  梅53種、櫻40種、菊79品種、パラは長春を雑草の部で扱う
1688『秘伝花鏡』陳B子ちんこうし)清の時代の園芸書6巻 巻五/マイカイは香りがよいので扇墜香嚢をつくり糠霜と烏梅とで搗き、マイカイ醤にするという。課花十八法に、挿し木は啓蟄の前後に二尺ばかり切り取り、枝下の皮3.4分を削り取り日陰に挿す。ハマナスの香りを長持ちさせるには塩漬け。
元禄三 
綱吉の時代
1690〜92 ケンペル来日、ドイツ人医師、長崎オランダ商館 『江戸参府旅行日記』茶について詳 バラは「薔薇、FooSen,Kinfo qua,Ibara,Igino Fanna
元禄七 1694「花譜」成稿7月15日元禄11年刊 薔薇(しやうび)、マイカイ(はまなす)長春(ちやうしゆん)(をらんだいばら)(ごやおぎ)
元禄八 1695「花壇地錦抄」江戸の伊兵衛三之丞 荊棘(いばら)のるひ。はまなす、らうざ、長春、白長春、猩々長春、はと荊、牡丹荊、ちやうせん荊、ごや荊、山椒荊、箱根荊
カムチャツカ半島、カザーク(コサック)が発見 17世紀末 元禄十一 1698「花譜」貝原益軒 開版
18世紀 宝永六

1708完成『広群芳譜』100巻『群芳譜』の改編

1709「大和本草」貝原益軒*
*薔薇、金沙羅、月季花、金罌子、牡丹イハラ、野薔薇(ノイバラ)、(ドビゴヤバラ)
収録図に、ラウザイバラ、野薔薇(ナニワイバラ)(ヲランダイバラ)宝相花、マイカイ花(はまなす)
宝永七 1710「増補地錦抄」 伊兵衛政武 八丈荊(はちじょうばら)

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公益地錦抄のらうざ

徳川吉宗任征夷大将軍享保一
享保四
1719 2月「広益地錦抄」 伊兵衛政武 木の分に、櫻長春、そこ白長春、朝鮮荊、紅八丈荊、薬種に、マイカイ花(はまなす)、らうざ。花木類に海棠荊
モスローズ
1720 ライデンの薬草園の植物についてのリストに掲載
享保四 1719 9月南京船『秘伝花鏡』他の書籍を長崎に舶載の記録 図入り、徳川中期の園芸のバイブルとなる
享保一八 1733キモッコウ〈八重〉中国から渡来/上野
1733地錦抄付録刊刻
この頃中国より渡来した植物は木香花と御柳
享保二十 1735「諸国へ産物お尋ね」の令 医生丹羽正伯
元文一 1736、3月岡山藩『備前国備中国之内領内産物帳』 赤い野ばら〈十五夜〉八重、サクラバラの一系
1752 中国のバラをフィリップ・ミラーが育てていたようだ 宝暦八 1757清朝は広東を、外国貿易の唯一の港にする
1759 ナニワイバラ東インド会社を通じて北米に 1760シロモッコウが入る、のちに黄が入る/北村
宝暦一三

1763 『花彙』島田充房・小野蘭山全8巻が完成1765年刊行*1

4月15日鑑古堂物産会を京都東山にて開く、村上謙益なる者の出品薔薇十五瓶*

*1後年飯沼慾斎が葉の裏を黒く描くこの描法を踏襲

*2その中にマイカイがある
1765「本草綱目拾遺」* *
1770 ロサ・カムチャツカ* R.rugosa kamutchatica((Ventenat)Regel),(R.kamutchatica) 明和七 1770『琉球産物誌』田村藍水
奄美大島を主体とした薩南諸島の彩色植物誌 木香花2種、野ばら白八重、赤花など土名と共に載せる
*キャプテンクックの3度目の航海(大西洋と太平洋を結ぶ北米航路の探索)で発見。
ジョセフバンクス卿によって採集され、1784年にThunberg が名付けた。
(La Malmaison Les Roses de l'Imperatrice Josephine, Jules Gravereaux 1912)
安永二 1773「重修秘伝花鏡」平賀源内校閲の刊行 『秘伝花鏡』の和刻版
薔薇、月季、マイカイ、十姉妹等
安永四 1775 7/18ツュンベリー来日 オランダ東インド会社から、長崎商館の医師として派遣 スウェーデン人
安永五
十代将軍家治
1776ツュンベリー江戸参府
4/25 箱根山中で植物採取
淳庵から「地錦抄」を贈られる/江戸滞在中
10/23 ツュンベリー離日
桂川甫周らの訪問を受ける『草花絵前集』『訓蒙図彙』『絵本野山草』を購入
1777 1月ツュンベリーバタビアに帰着7月同地を離れ8/21セイロン島コロンボに立ち寄る

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1778 2/6ツュンベリーセイロン島を出帆4/27喜望峰に到着
5月欧州に向かって北航する
10月アムステルダムに帰着
12月ロンドンに渡りケンペルの手記ならびに植物図の調査
安永七 1778イギリス人クック、ベーリング海から日本沿岸の調査

マリー・アントワネットが手に持つバラ/ケンティフォリア?

1779 1/30ツュンベリーロンドンを後にオランダに帰り
3/14スウェーデンに帰着、海外にあること八ヵ年半
安永七 1778『帰山録草稿』*9月の中にケンペルの本のことに触れる *三浦梅園が長崎に遊び、通詞吉雄氏に見せてもらった
1780 ツュンベリー、ハマナスをスウェーデンに持ち込む 安永九 1780 小野蘭山京都学塾衆芳軒に『大和本草』をテキストにする講筵を開く* *その筆記録が『大和本草紀聞』として伝えられる
1784 ツュンベリー『日本植物誌』*フロラヤポニカ、ノイバラRosa multiflora,ハマナスはRosa rugosaと命名。「イギノハナ」、はカニナに分類
1784「カーチス植物学雑誌」創刊
*419ページ、39図版、日本植物768種を記載
リンネの二名法で日本植物が記載されたはじめ
天明7 1787 宗谷海峡の発見/ラ・ペルーズ海峡 
秋『紅毛雑和』(おらんだざつわ)
顕微鏡で見た図を載せる
白川城主、松平越中守定信、老中に任ぜられる。改新に着手。
フランス革命

1789フランス革命
ロサ・ペルシカ、中央アジアから紹介

1789スイレターズクリムソンチャイナ*1

オールドブラッシュの確認*2

*1カルカッタのある庭で咲いていたものを東インド会社会社員が理事であるスレイターのために持ち帰った。
彼の温室で1791年頃に花をつけた

*2バンクスが手に入れた/エイトン説
ジョセフィーヌ、マルメゾンに移り、植物図譜の刊行 Sir James Smith は1791年のチェルシーの植物園での標本を持っているが、Botanical Register vol.5 にはR.kamtchatika と R.rugosa と両方あり、R.kamtchatika は1802年に Cels 自身が持ち出し、
1796年に Lee と Kennedy が持ち出したと言われている。
1792英マッカートニー卿北京、皇帝に謁見* 寛政四 1792 幕府、蘭人献上の白牛3頭が70余頭になり、バターを製造 *中国茶の輸入と栽培製造の情報収集、カカヤンバラを持ち帰る
1793 ピンクチャィナ、リックマンズワースのパーソンの庭で最初に花が咲いた/アンドリュー説
1794英、L&Kにハマナスの種*
1794センパーフローレンスの絵
「カーチス植物学雑誌」
寛政六 1794蘭商館長ヘムミイ江戸参府、桂川甫周ら物産について質疑 *ハマナスは18世紀末、英国でR.ferox という名で園芸化された、どこから来たのかは不明
1796年R.ferox Lawr. 紹介、コーカサス出身

1798、Rosa chinensis仏へ〈中国から

1798 Rosa × kamtchatika Ventenat,  おそらくRosa davurica と R.rugosa の自然交雑
19世紀

1800年 Ventenat (ジョゼフィーヌの庭師)は 『セルの庭園植物?』にR.kamchatika を記載、
 Cels のナーセリーにあった。Bosc はそれを Rosier Herisson と呼び、Nouveau Duhamel は Rosier a feuilles ridees と呼んだ。
ドイツでは Runzliche Rose という。

1802ロサ・ノアゼッティーナ
〈米〉Champeney発見
R.rugosa はおそらくカムチャッカからまず最初にフランスに来てR.kamtchatika という名がついた(Ventenat 1800)
1804ノイバラ
T.Evans がイギリスに紹介*
文化一
サクラソウの流行
1804江戸寺島に百花園開く
『駿州勢州志州採薬記』蘭山
*'Carnea'フランスにはBoursaulが1808年に紹介

1805年に R.kamchatika を載せる Andrews

1805 インディカ・プミラ*1
文化二 1805『上州妙義山武州三峰山採薬記』蘭山*2

*1コルヴィルの種苗園でパーソンズビンクチャイナから作られた

*2赤いノイバラの記述 十姉妹ノ如シ
1807白モッコウがイギリスに* 文化四 1807 蝦夷オシャマンベにてオットセイを捕獲函館役所に持参 *四川雲南の山野で採取William kerr/ウィリアム・カーが広東の近くの庭園で入手してキュー植物園に送った、植物学者ロバート・ブラウンがバンクス夫人に敬意を表して学名をつけた
1808 ティーローズ*ヒューム卿に送ってきた「茶の匂いのする赤い中国産のバラ」オドラータ種と名づけらた 文化六 1809、1810『瓶史国字解』13冊「瓶史」*2の詳細な注釈書

*1東インド会社の代理人が広東近くのファ・テ種苗園で買ったもの

*2著者袁宏道1568-1610湖北省の人、〈使令〉花の召使として、牡丹にはマイカイ・薔薇・木香とある
1810 R. Indica minima とか R.lawrenceanaと呼ばれたもの*  *モーリシャス島から導入されもフランス人の手を経てイギリスに入ったもの
「ボタニカルマガジン」の中の絵は「陸軍省のハドソンによってもたらされた」標本から描かれた
1811Fun Jwan Lo* 文化八 18011『竜骨一家言』小原春造
『南紀採薬記』水谷豊文
*(China, -1811)北京付近?)のPautung Fu の庭で発見された。
1813 ビンクチャイナは寒さに強いので、ムーアの「夏の終わりのバラ」*に記述されている *庭の千草のばら、The last rose of summer トマス・ムーア(1779-1852)
1814ノアゼットローズパリに 文化一一 1814 オランダ船黄水仙を持ち渡る *ジョセフィーヌ5/29没
1815ポートランドRose de Roi

1815英/セブンシスターズローズ導入*

1815 英/中国から来たミニマの絵*2

*プラティフィラPlatyphylla (Greville, 1815) Noisette が紹介した。
1819年9月に開花
*1817年にロンドン付近のmarket garden で発見された。日本から種で来たもの

*2「カーチス花図譜」
1816 クラーク・エーベル博士が北京で黄色の一重のモツコウバラを記録
1817ブルボン系のもとになるばら発見 インド洋にあるブルボン島
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ルドゥーテのカムチャツカ

1817『バラ図譜』刊行開始
ルドゥーテとトーリー-1824迄

1817 ルドゥーテの『バラ図譜』刊行開始、図12にロサ・カムチャツカ、 Redoute と Thory は1817年、1824年に同じものを絵で表す
文政一 1818『草木育種』岩崎常正*
6月幕府蘭より薬草60種輸入2〜8年にかけて、鉢植えで渡来
*自ら灌培した経験に基づく
文政二
徳川十一代将軍家斉
1819 白花マイカイ単弁のこと*
素馨、清舶によって載来する
*文恭院殿遠く露国より取り寄せられ手づから丹精
Thory は1820年 Prodromus で R.kamtchatika を R. rugosa と同じとしている Lindley は1820年 Monograph で R.ferox of Andrews を日本ではなくコーカサスから来た Marshall von Bieberstein の植物と
混同していて、スイートブライアーのグループになっている。
日本のルゴサの絵を示している

1821『本草図譜』マキシモウィチが完成、-1844

Pre-1821R.multiflora'Rose'

Kamchatcka Rose
文政六 1823ドイツ人シーボルトが着任*
蘭館医として翌年鳴滝に塾を開く

*1 日本から来たものである、その名はラ・ペルーズ提督*1にちなんで付けられた。
(Histoire des Roses, by Charles Malo 1821)

ルイ16世の命により1785-88に探検航海にでたが全員行方不明に終わる

*

1824 黄色のティーローズをファ・テ種苗園からパークスが購入した。

八重の黄色のモツコウバラ*
*1824 パークスが園芸協会のために、カルカッタ植物園で手に入れ、東インド貿易船ローザ・キャツスル号に一緒に本国に送ったもの
1825 Parnassine
     E.Noisette
     ダブル咲。La Queue のナーセリーのE.Noisette のところにあった。1825年に初めて咲いた。
    それを彼らは R.Parnassine と呼んでいた。(La Bon Jardinier 1830)
     light violet のダブル咲(La Bon Jardinier 1840)
     名前はミューズの故郷 Mt.Parnassus より。  
文政七 1825ビーチィ Beechy,Frederick William来日*
『秘伝花鏡記聞』山本亡羊*2の息子篤慶が筆録
*1イギリス測量技師 動物学
*2小野蘭山について学ぶ
1823 ピンクチャイナはどんな田舎の庭にもあった* *「このバラは極小さな挿し木でも育つ」フィリップ
文政八 1825 10月までに出島の少植物園にシーボルトが植えた植物は千種を越す 『日本植物誌』ツュンベリー著、舶来する
文政九
徳川十一代将軍家斉
1826 シーボルト江戸参府
高野長英(陸奥水沢の人)シーボルトに日本語の書物を蘭訳1826-30
石井宗謙 外科医資料をあつめ翻訳
1827Polyantha( Von Siebold)
Pre-1828 'Grevillii'
「日本博物学の現状」 文政一二 1829/10月『泰西本草名疏』伊藤圭介*
12月シーボルト日本を離れジャワに向かう滞在満6年
*ツュンベリーの「フロラヤポニカ」の和訳・学名をアルファベット順に載せる

1830年、7/7シーボルトオランダに帰着。植物園に引き渡された生植物は260種を超える

1830年Cランブラーの流通が始まる
1830ノアゼッティーナとパークスイエローの交配成功

天保一

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『本草図譜』のカカヤンバラ

1830から出版を開始「本草図譜」*岩崎灌園(常正)96巻92冊

1830カカヤンバラの種が入る
12月23日四季園、カカヤン国へ漂流し帰着した船長を招いて子実をもらい受ける。資生圃馬場大助も居合わせる
1821完成、1830出版を開始
1844完結2000図、日本初の植物図鑑
蔓草部の中に、バラを、営実 ノイバラの実、薔薇 のいばら、月季花 長春と分類。園芸種も有〈独〉J.ヴァインマンの「花譜」の模写図なども
1833『水谷豊文本草綱目記聞』
サクライバラはボサツイバラの単葉
文政六漂流1823、天保二年三月発芽に成功、四年秋に至って花を開く1833
1837HP第1号
「プリンセスエレーヌ」

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シーボルトのハマナシ

1835シーポルト『日本植物第一巻』ツッカリーニ記述 -1841迄 *シーボルトは同時にR.rugosa var. alba を紹介
R.rugosa はすでに1110年ごろ中国で香料用に栽培されていた。 中国南部の山あいでR.rugosa var plena のdouble form でmei-gui-hua を作るために栽培されている。と記述
1837ロサフェティダペルシアナ紹介

1838最初のティーローズ「アダム」

1838年 Crepin ,R.kamschatika Vent. パリの Jardin des Plantes で 見つけた
1839ミニチュアローズPompom de Paris

1840HP Mme.Verdier

クリムゾンランブラー
1840年以降に日本から来た*
*Soukura-Ibara(Cherry Rose) このバラは Mutltiflora 、Polyantha としてよく知られている。長崎港付近でよく見る
1842南京条約、清朝イギリスに屈する 広東アモイ福州、寧波、上海の5港開港 英人住む
天保一三 1842ヲランダイバラ月季花一種小者勢州ヨリ出* *『草木図彙』(T)花戸出ツともありセンパーフローレンスか?
*Rosa Banksiae R. Br. , Rosa Banksiae R. Br. β. flor. luteo , Rosa bracteata Rob., Rosa indica Linn. , Rosa Iwara Sieb. Rosa Lawranceana Sweet   Rosa multiflora Thunb. Rosa sempervirens Lindl.  

1844 シーボルトの『有用植物リスト』世界初の通信販売*

Pre-1844'Russelliana'

1845頃 ハマナス/USAに庭植え用として紹介された
ハマナスLoudon(1844)のリストにあり
 R.rugosa Thun. はネパール出身、未紹介、
 R.ferox Lawr. はコーカサス出身で1796年に紹介された。 var.nitens Lindl. 照葉
 var. kamtchatica 光沢のない葉
清代
『月季花譜』評花館主1巻
1848フォーチュン東インド会社の命を受け、中国内地に入り茶苗種の入手に成功
『植物名実図考』38巻呉其?
(ごきしゅん)各種植物の形状用途産地をのべ薬性にくわしい
1850マルメゾンの記録* *モス400種、チャイナ1700、ブルボン500、ノアゼット350、アルバ200、スコッチ150、ティ1500種が栽培
1851 英/ビクトリア女王、クリスタルパレス・ガラス張りの温室で熱帯植物を展示
1853ペリー来航 アメリカ東インド洋艦隊司令長官、モローとライトの植物学者同行
安政一 1854年日本は開国

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飯沼慾斎のハマナス

安政三 1856〜『草木図説』前編草部1-5刊行 飯沼慾斎  わが国最初の科学的植物図鑑 自費出版開始 1977年北村補注で完結
第5目薔薇として、コウシンバラ、オランダイバラ、キイバラ、ボタンイバラ・寶相花、ハマナス・マイ瑰、ナニハイバラ・金櫻子、カカヤンバラ、サンシヤウイバラ、ノイバラ・野薔薇、トキンイバラ、木香花
1859年 横浜、函館開港
万延一

1860 6/3(四・二五)ノイバラについての記述シーボルト日記
7月英園芸家ヴェイチ長崎到着*1
9月富士山に登り採取
9月 マキシモウィチ函館に到着*2

10月フォーチュン長崎に到着*3
神奈川で採取 12月上海に向けて離日

*1 種苗商の一族John Gould Veitch,1839-1870

*2 ロシアの植物学者Carl Johann Maximowicz、帰国後「日本満州産新植物記載」

*3英園芸協会から派遣 中国を経て長崎、横浜江戸に上る
1861独マックス・エルンスト・ヴィークラ、テリハノイバラ発見、欧州に持ち帰るが枯れる 文久一

1861 3/25伊藤圭介旭園に博物会を開く4/18の当番には薔薇を予定

4月プロシア政府の東アジア使節一行長崎に来るウィチュラとショットミラー植物を採取*1

春フォーチュン再来日*2長崎、神奈川、江戸などで植物及び標本を収集し本国に送る

5月シーボルト江戸に入り幕府の外事顧問となる10月横浜へ移る*

11月マキシモウィッチ函館を離れ神奈川へ、そこで採取12月長崎へ

*1 ある川の岩場でテリハノイバラを発見

*2 4/20-6/17横浜滞在
5/21(四月一二日)大田村で植物採取、バラ属も。
6//3(四月二五日)の日記に「ノイバラは白色とバラ色を同時に有し、香りが芳い」

1861キュー植物園から派遣された採集家オルダムRichard Oldham,1837-1864が来日、長崎その他で採取、1863には朝鮮に居た
1862ノイバラの種子、リヨン市場で売買*2 文久二 1862 4月シーボルト長崎を出帆ジャワへ
マキシモウィッチは長崎、江戸近郊、箱根、富士などで採取*1

*1開港場より十里以上遠くは長之助に命じて赴かせる

*2生野銀山の技師コワニー、(レオンシスレー?)

1863「Yedo and Peking」
フォーチュン「幕末日本探訪記」

シーボルト、ドイツのボンに帰る
文久三 1863 「物産所ニ於テ沸国ノ蔬菜及樹木ノ種子百十品ヲ下種ス。擬合歓(アカシア)モ此中ニアリ。又米国ヨリ草花ノ種子、露国ヨリ穀菜ノ種子ヲ伝フ」新撰日本物産年表
1864〈フジヤマローズ〉レニングラード植物園に送られる
1894年英米にも紹介
元治一

1864 2月マキシモウィッチ帰国*

富士山で茜富士(タカネイバラ)が発見される

*函館に1年4ヶ月、横浜に11ヶ月、長崎に1年2ヶ月

フジヤマロースと呼ばれる
1866年10月シーボルトミュンヘンにて没する 慶応二

1866 6月サヴァチェ横須賀造船所医師として赴任、75年迄

9月 田中芳男昆虫の標本を携えパリに向かう

1867HT「ラ・フランス」発表
パリ大博覧会、園芸元年

6月 粟本鋤雲日仏外交上の調停役として渡仏 アルプスで植物採取
慶応三

1867 9月『植物学』下野国足利の求道館で漢訳の翻刻

10月 15代将軍慶喜政権を朝廷に奉還江戸時代が終わる
粟本鋤雲フランスより帰り官職辞して農に帰る
1868ベッガー、中央アジアからバラを導入、R.beggeriana,cinnamomeae 明治時代 1868年9月8日改元(西暦10月23日)
1869 スエズ運河開通
1870『日本植物誌』シーボルト、ツッカリニ刊行完了(1835年より35年も経過)
1870'Watosoniana'
明治3年 1870山東一郎アメリカからバラを移入

山の手公園でフラワーショー

ハマナス1870年代に日本から英国に再紹介(R.regelianaという名で)され、広まった。
Dickerson によると、Regeliana型は日本からSt.ペテルスブルグを経由して紹介された。

1871年*1 Rosa Regeliana

1838年に R.kamschatika Vent. という名でパリの Jardin des Plantes で Kunth のバーバリウムに Crepin が見つけた標本から栽培された。
明治 1871
お抱え外国人来日

その後1874年に Mr.Lange が再び同じ名で、そしてR.adnreae という名で紹介したコペンハーゲンの植物園の種カタログに載ったものは 、R.rugosa Thunb. である。
*11月のIllustration Horticole (MM.Andre と Linden 編)

ケプロン 米 Capron,Horace 開拓史、スミス 米Smith Erasmus Peshine 法律、ベーマー 米 Beehmer Louis 園芸
1872 Taicoun
     breeder 不明
   Tycoon 又は Shogun (大君、又は将軍?)
明治5 1872 高島得三*生野銀山に赴任 *フランス人技師コワニェから地質学とフランス語を学ぶ。
1873年ジャン・シスレーの手紙
Polyanthaは変種を生む、八重・白・黄・桃色など

1874 ダヴッド神父北京周辺の動植物を移入 1868-1874
R davidii(Crepin)Cinnamomeae

1874 Souvenir de Yeddo
   Morlet
     Rosa rugosa × a Tea
     ティー説、R.damascena 説、Rキネンシス説あり。
明治7年 1874 スミス・ロバート・ヘンリー*来日 *開成学校〈帝国大学、機械工学 土木工学〉の教師として -78年まで
Smith Robert Henry
1852-1916 スコットランド人
1875ポリアンサ第1号「パケレット」Paquerette;Guillot et Fils
1875 R.Multiflora Nana
1875『日本に自生の植物目録』
フランシェとサヴアチエ
明治8年 1875『日本植物図説初稿』伊藤圭介、
1875増上寺で薔薇の展覧会が開催
*Souvenir de Yeddo 1874 Rosa rugosa x a Tea. China pink... Light pink... Yeddo Bred in France (1874) by MORLET. Bred (1893) by Emile Kohne
明治 1877「小石川植物園草木目録」出版、伊藤圭介
Soukura Ibara 
東京大学の工学部の教授のロバートスミスR.Smith が、トーマスジェンナーJennerに送った。彼は「Engineer」と名付けた。
明治11年 トーマスジェンナーはスコットランドの著名な園芸家
1879 Kaiserin des Nordens    Regel Himalayensis, Regeliana Flore Pleno, regeliana Rubra, Rouge Pleine, Rubra Flore Pleno, Zuccariniana
     Taicoun と同じものかもしれない。
1881 Comte d'Epremesnil       Nabonnand,1881 保存されていた?)一重の日本のバラの実生 Nabonnand が2年間これを持っていた。これは1878年のパリの万国博覧会からの種。 only one seed of five sprouted (?)
明治16 1883 鹿鳴館開館 バラ新バラの専門店に
1884 エジンバラの森林博覧会英に高島北海* 参加要員として渡英 明治17 1884年3月『日本植物名彙』松村任三'Nomenclature of Japanese Plants in Latin,Japanese and Chinese' *その後、南仏ナンシー山林学校留学
1885 ランブラー
Daniel Lccombe(HMult)
1885 原種にキネンシス種R. chinensisという名がつけられた
明治

1886 ハマナスの交配種発表*1

1886'Polyantha Grandiflora'

1886テリハノイバラに学名*2
明治

*1 Thusnelda Muller
     Rosa rugosa‘Alba’× Gloire de Dijon

*2ミュンヘンとブリュッセルの植物園が入手してヴィークラに敬意を表してつけた
1887 Mme.Georges Bruant
   Bruant
     Rosa rugosa‘Alba’× Mlle de sombreuil
明治20 1887『日本植物学雑誌』を創刊 牧野富太郎25歳
1888 Mikado
     Morlet
当時はやったコミックオペラMikado から
1888 高島帰国* 明治21 1887-1890
プラット、英、動物学者中国を旅行R.prattii,(Hemsley)cinnaamomrae
*農商務省技師を務めたが、画家に転じ、米国や中国へ写生旅行に行く

Engineer*1

1889 ロサギガンティア紹介R.gigantea(Collett)

1889 Mme.Charles Frederic Worth
     Widow Schwarz
  
明治22 1889 大日本憲法公布式典*
1889 バラ新 温室を作る、
1889「日本園芸会雑誌」創刊

*1ジェンナーはLincolonの苗業者のJ.ギルバートに譲った

*式場は薔薇で飾られる
1890 ハイブリットティの確立
「マダムカロリーヌテストゥ」
明治23 1890−1895ジラルディ、伊、宣教師、中国陜西省で植物採集、R. giraldii(Crepin)cinnamomeae

1890 Engineer
ギルバートは6月に王立園芸協会の賞を受賞、ターナーに売り渡した

1910年6月22日に(仏?)初開花。7月10日に満開。8月半ばまで咲き続けた。

1890 Germanica
   Muller
   Kaiserin des Nordens の実生、又は実生のsport

1890 Stella Polaris
   Jensen
   Rugosa Alba に似ている
明治23年 「緋色のつるバラ」Crimson Rambler
つるバラの中に日本産の交配種(R.multflora x R.chinensis)があるが、1889年にロバートスミスが送ってきたものである・・・花の西洋史

さらにバークシャー、スラウの育苗商のTurner氏に売られ、Turner's Crimson Rambler と改称された。1893販売開始

Rosa ×kamchatika の一重白花もあり、‘Alba Simplex' という。1890年代に Cochet-Cochet氏が育種に使った。
たとえば Souvenir de Christophe Cochet などがある。
(Rosetum Gallicum, by desportes 1828)
1891 テリハノイバラの紹介
R.wichurana(Crepin)Synstylae
Max Ernst Wichura、独、医師
明治24
1893Turner's Crimson Rambler 販売開始 瞬く間に世界に広まった 明治25年

1900カタエンシス命名*

1900「ソレイユドール」発表
明治 1899〜1902
ウィルソン、ヴィーチ商会のブランツハンターとして中国で収集
*1900年のVeitchian(蘭の一種?)をさがす探検でWilson氏が種を入手、このときに var. cathayensis と名付けられた。
このバラは一重の桃色で、湖北省西部、四川省西部によく見られるバラであるという。
20世紀

1901 ウィークラーナランブラードロシーパーキンス

1903 'Blush Rambler'
明治 1903シベリア鉄道開通 アメリカのジャクソン&パーキンス商会
明治 1904-1932 フォレスト、スコットランド、中国西部で植物収集 R.forrestiana(Boulenger)cinnamomeae
明治38 1905「ロサ・ウチヤマナ」命名牧野富太郎『植物学雑誌』
明治 1906−1911、ウイルソン、英、園アーノルド樹木園のプランツハンターとして中国で収集1904、R.sinowilsonii(Hemsley) Synstylae

1907ペルシアナ系Lyon Rose

Ida Klemm Walter,L*

バラの花の壁画?発見*
明治40年 1907『増訂草木図説 草部』飯沼慾際 牧野再訂

*クリムソンランブラーの枝代わりで白花

*ギリシャ神話の時代BC3000-1100
クレタ島のクノッソスの宮殿の発掘調査Sir Arthur Evans1851-1941
1913カタエンシス(クリムゾンランブラー)米で初めて開花* 明治 *1910年にWilliam Purdom が中国北中部で収集した種6月に開花
第一次世界大戦 1914第一次世界大戦1914-1919 大正時代
1921'Violette'
1922年頃にスイスの田舎でR.roulettiiがルーレット大佐にみつけられた
1930まで英国薬局方にはガリカの効用が記載 大正12 1923関東大震災
昭和の時代
昭和2年
1927「大日本薔薇協会」岡本勘治郎他百貨店で品評会
昭和6年 1931年『花』大谷光瑞サクライバラにRosa Multiflora
昭和7年 1930関東でも「帝国ばら協会」ばら栽培の情報発信
昭和12年 1937バラの和名廃止 帝国ばら協会の提案 
鈴木「とどろきばら園」開園24歳
昭和15 1940年『日本植物図鑑』牧野富太郎  さくらばら〈図は八重〉、かいどうばらはウチヤマナ
1942フロリバンダPinocchio

「ばら・花図譜」鈴木清三1990、「年表茶の世界史」松崎芳郎1992、「年表日本博物史」上野益三1989、「日本庭園の植栽史」飛田範夫2002、
The Old Rose Adventurer ,Brend C. Dickerson,1999 Timber Press 「花の西洋史 花木編」A・M・コーツ1991

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