不完全性定理のための傾向と対策

傾向と対策

【まえがき】

 このページは、不完全性定理に関して分かったつもりになりたいのだけれど、 数式が出てくると拒絶反応が起きてしまうので、 数式抜きで解説してほしいと言う人のために書かれました。 こちらのページ を読んでくださった方で、 ちっとも簡単じゃなかったとの感想を書いてくださった方がいたからです。 ただ、数式を使わないと読み物になってしまうので、 何だかだまされた感があるのは否めないと思います。 眉に唾をつけて読んでくださいね。

 不完全性定理は、「この世には完全なものなど決してない」 と言ったような誰でも思いつくありきたりな人生哲学などではありませんし、 「絶対的な神の不完全性定理により神の存在は完全に否定された」 と言ったような自己矛盾した神秘主義的な定理でもありません。 このページでは、 そうした不完全性定理に対して抱きがちな先入観を取り除いていきたいと思います。

 また、インターネットで、不完全性定理に関して知ったかぶって何かを語ると、 数学にめっぽう強いお兄さんが現れて、 コテンパンにされてしまうことはよくあると思います。 このページでは、そういう場合でも何とかなるように、 不完全性定理に関する傾向と対策を書こうと思います。 このページを読めば、もう数学にめっぽう強いお兄さんも怖くありません。 怖くないんじゃないかな...ま、ちょっと覚悟はしておけ。

【不完全性定理に至る歴史】

 まず簡単に、不完全性定理がどのような経緯で登場したのか触れておきます。 不完全性定理登場前夜の19世紀に、 それまでの数学からそれ以後の数学へと、 その性格を一変させる大発明がカントールさんによってなされました。 集合論と呼ばれる数学分野の登場です。

 私は小学生のころに集合を習いましたが、 何のためにこんなことをするのか理解できませんでした。 いや、問題を解くことはできましたけどね。 しかし、実のところ集合論はあらゆる数学の基礎であり、 集合という概念のみで現代数学の全ての概念を説明できる画期的な理論だったのです。 集合を使ってありとあらゆる数学上の構造を作り出し説明できる。 数学者の喜びは大きなものでしたと竹内外史さんの「集合とはなにか」に書かれています。 このことを聖書になぞらえてカントールの楽園と呼ぶそうです。

 ところが、しばらくして集合論におかしなことが見つかり始めます。 例えば、全ての集合の集合 S を考えると、 S も集合なので S 自身が S の要素になります。つまり自分自身を含んでいます。 このような集合があちこちで矛盾を生じ始めたのです。 なら、自分自身を含まない集合だけ考えれば良いのではと思うかもしれません。 しかし、自分自身を含まない集合の集合 R を考えると、 R は自分自身を含むとしても含まないとしても矛盾してしまうのです。 これをラッセルのパラドクスと言います。

 集合論で数学の全てが説明できますから、 集合論の矛盾はそのまま数学の矛盾と考えられました。 そう、数学は深刻な危機に陥ってしまったのです。 数学者たちはカントールの楽園から出ていかねばならなくなりました。 まさしく失楽園というわけです。

 この危機的状況を打開するために、ヒルベルトさんがある計画を提案します。 曖昧だった集合論の公理系を整備して、形式的体系と呼ばれる体系を構築し、 以下の2つの目標を達成しようとしたのです。

  • 全ての命題を証明あるいは反証できると証明しよう。(完全性)
  • どれだけ推論しても決して矛盾が導かれないと証明しよう。(無矛盾性)

 これをヒルベルト・プログラムと言います。

 反証と言う言葉を聞き慣れないという人に説明すると、 証明とは正しさの根拠を示すことで、 反証とは間違いの根拠を示すことです。

 多くの数学者たちが数学の危機を救おうと、 ヒルベルト・プログラムに取り組みました。 あるいはヒルベルト・プログラムとは別の方法で矛盾の克服を目指しました。 そしてその時、ゲーデルさんが不完全性定理を証明してしまったのです。 つまり、ある条件を満たす形式的体系は不完全であり無矛盾性は証明できないと。 ヒルベルト・プログラムは大きな痛手を負ってしまいました。

 その後、数学者たちは、非形式的な有限の立場やその拡張で、 数学の無矛盾性の証明にチャレンジしていくことになります。 そして現在、集合論の矛盾の原因などが理解されるようになり、 矛盾を回避する公理系なども整備されたことにより、 数学の危機はあまり心配されることはなくなったそうです。

【第一不完全性定理】

 第一不完全性定理とはどんなものかというと、数学的に書けば、 自然数論を含む再帰的に公理化可能で無矛盾な理論は不完全であるというものになります。再帰的に公理化可能というのは、 おおざっぱに言って、コンピュータで計算可能ということです。 また、不完全であるとは、 その理論が証明も反証もできない命題を含むということです。 ちなみに、完全なら全ての命題は証明できるか反証できるかのどちらかです。

 これだけのことなんですが、一部の科学者や哲学者・宗教家などは、 そこに理性の限界のような深遠な何かがあるように宣伝したりします。 でも、第一不完全性定理の言ってることはそんなに不思議なことではないんですよ。 以下で、証明も反証もできないとはどういうことか説明しましょう。

 数学は現実の対象をとらえるとき、 公理系という抽象化された規則集を作ることで対象をとらえます。 しかし、公理系は抽象化されているので現実そのものズバリではありません。 そのため、対象となる現実が1つに絞り込めないことがあります。 数学的には、これを複数のモデルを持つと言います。 つまり、公理系は1つなんだけど、それで説明できる対象は複数あるということです。

 このとき、多くの命題はモデル(対象)が変わっても、 その真理値(振る舞い)が変わることはないのですが、 中にモデルが変わると真理値が変わる命題があるんです。 簡単な公理系を例に確かめてみましょう。 思いっきり簡単な例として、以下のような串団子の公理系を考えます。

  • 串団子とは、串に団子を三つ刺したものであり、それに限る。
  • 見た目が同じ串団子は同じである。
  • 見た目が異なる串団子は同じではない。

 すると「全ての串団子は同じである」という文が真理値が変わる命題に該当します。 全ての串団子が同じになるモデルもならないモデルも考えることができます。

 まず、団子が白玉団子しかないモデルを考えてみます。 どんな串団子の作り方をしても、白玉団子が三つの串団子になりますので、 このモデルでは「全ての串団子は同じである」は正しく、その真理値は真です。

 次に、白玉団子と抹茶団子があるモデルを考えてみます。 明らかに、白玉と抹茶の組み合わせにより見た目が異なる串団子が作れますので、 このモデルでは「全ての串団子は同じである」は正しくなく、その真理値は偽です。

 これに対して「串に団子を一つ刺したものは串団子ではない」は、 全てのモデルで正しい真なる命題となります。え?団子が一つでも串団子だろって? いやいや、ここでは公理で団子を三つ刺したものだけが串団子と約束したので、 団子が一つの場合は串団子とは認めません。 それが数学というものだと思ってあきらめてください。

 「全ての串団子は同じである」のようなモデルによって真理値の変わる命題は、 全てのモデルに共通の公理系からは証明することも反証することもできません。 当たり前ですよね。公理系はすべてのモデルに共通なんですから。 証明できるならすべてのモデルで証明できるはずですし、 反証できるならすべてのモデルで反証できるはずです。 証明できると真理値は真であり、反証できると真理値は偽です。 つまり、証明できるなら真理値は真のみになるはずですし、 反証できるなら真理値は偽のみになるはずです。 真理値がモデルによって真になったり偽になったりはしません。 よって、モデルによって真理値の変わる命題は証明も反証もできません。 これを理性の限界と言うのはちょっと大げさすぎますね。 人間の理性に限界があるせいで証明できないというよりは、 証明するということの仕組みがそうなっているという話です。

 さて、第一不完全性定理の言っていることは、上記のことより多少強めです。 モデルによって真理値の変わる命題が存在するのは、 公理系に公理が足りていないからです。 つまり、公理を追加していけば対象を完全にとらえた公理系を作ることができて、 証明も反証もできない命題はなくなります。 実は、自然数論もそのように拡張できて、完全な自然数論というものもあります。 これは真の算術(TA)と呼ばれています。 私はこの中二病的なネーミングが結構気に入っているんですが、それはさておき、 真の算術には困ったことがあるんです。 人間やコンピュータには計算可能ではないんですね。 そして、計算可能な状態を保ったまま公理を追加しても完全にはなりません。 これが第一不完全性定理の言っていることです。

【第二不完全性定理】

 第二不完全性定理とはどんなものかというと、数学的に書けば、 自然数論を含む再帰的に公理化可能で無矛盾な理論が数学的帰納法を使えるなら、 自らの無矛盾性を形式的に証明することはできないというものになります。 つまり、第一不完全性定理の証明も反証もできない命題の例の1つが、 自分自身の無矛盾性を表す命題ということです。

 不完全性定理と言った場合、どちらかと言えば第二不完全性定理の方が有名で、 数学は数学の正しさを証明できないとセンセーショナルに語られることが多いと私は感じています。 そして、ヒルベルト・プログラムにとどめを刺したとか、 数学基礎論に終止符を打ったとか、 まるでゲーデルさんがこれらの分野を終わらせてしまったかのように書く人もいます(※注意。詳しい経緯を知っていて、あえてこの表現を使う人もいます。 詳しくは補足に書いてあります)。 そういう意味において、第二不完全性定理は誤解されやすい定理と言えます。 実際には、不完全性定理の後に、 ゲンツェンさんが自然数論の無矛盾性を証明しています。 これはどうしたことでしょうか?

 実は、無矛盾性が証明できないときの証明とは、 ある条件を満たした形式的証明のことです。 形式的証明は、これだけガンジガラメに縛られたら、 そりゃあ、無矛盾性が証明できなくてもしかたがないよねというくらい制限の厳しい体系です。その代わり究極の客観性が得られます。 こうした体系で無矛盾性が証明できないということは、 数学では原理的に無責任なことは証明できないということであり、 これはむしろ、数学の信頼性の証とも言えるでしょう。 自分の正しさを自分自身では証明できないことは、 不完全性定理を持ち出すまでもなく当たり前のことですから、 数学では、当たり前のことがきちんと成り立っているということです。 ただし、数学が本当に無矛盾であればですけれど。

 ちなみに、「その理論が無矛盾なら、自身の無矛盾性を形式的に証明できない」を論理的に同じことで言い換えると、 「自身の無矛盾性を形式的に証明できるなら、その理論は矛盾している」になります。 どうでしょう。第二不完全性定理に対する印象がずいぶんと変わりませんか? 無矛盾性を形式的に証明できないことがポジティブに感じますよね。

 さて一方、ゲンツェンさんが用いた体系は、 非形式的な有限の立場と言われるもので(正確にはその拡張)、 自然数論の外にはみ出しており、 これは正しいと認めても問題ないだろうと考えられる最小限の体系です。 自然数論からはみ出すことなく、かつ、 何もないところから自分の正しさを証明することはできませんが、 自然数論の外から自然数論を認識できて、最小限、 これは認めましょうという立場があれば、 自然数論の無矛盾性も本当に証明できるわけです。

 他にも、やはりゲーデルのさんが証明した完全性定理というまぎらわしい名前の定理があるんですが、これを用いていいなら、 モデルを持つ理論は無矛盾ということになっているので、 標準モデルの自然数をモデルに持つ標準的な自然数論が無矛盾であることも証明できます。完全性定理は自然数論の外にあるからです。 もちろん、じゃあその完全性定理は信じていいのかという問題にはなりますけれど。

 最後に、その後の数学基礎論・数理論理学について触れましょう。 不完全性定理により、数学の完全性・無矛盾性を確かめようとした数学基礎論におけるヒルベルト・プログラムは大きな痛手を負いました。 しかし、不完全性定理によって数学基礎論に終止符が打たれたわけではないことは、 数学者たちが、 その後も数学の無矛盾性の証明にチャレンジし続けていることから分かります。 例えば、竹内外史さんが解析学の無矛盾性を部分的に証明したりしているようです。 こういうところで日本人が活躍しているのを見ると、 何だかうれしい気持ちになりますね。

【補足】

 その後、いろいろ情報収集してみると、 不完全性定理がヒルベルト・プログラムにとどめを刺したという表現は、 的外れとは言えないようです。ヒルベルトの意味でのオリジナルの有限の立場で、 実数論の無矛盾性を証明するのは、現在ではほぼ不可能と考えられているようです。 ゲンツェンさんの結果などは、有限の立場を拡張した結果です。

 また、数学基礎論に終止符を打ったとの表現ですが、 どこかで見かけたな程度であまり深く考えなかったのですが、 その原文らしきものを見つけて、私の方が考えが足りなかったことが分かりました。 その原文では数学基礎論を数理論理学の意味では使っておらず、 本来のドイツ語・英語の意味で使っていたようです。 その筋の偉い先生の文章だったようで、 見つけた時には血の気が引いてしまいました。自分の無知が怖いです。 でも、私の文章では数理論理学の意味での数学基礎論を想定して書いてあります。 いまさら書き換えると文章が成立しなくなるので、 恥は承知でそのままにしておきます。

【正直者のパラドクス】

 ここでは、嘘つきのパラドクスと対をなす、もう一つのパラドクスを紹介します。 嘘つきのパラドクスは有名ですよね。「私は嘘つきです」 という文は真と考えても偽と考えても矛盾するため真とも偽とも言えません。 このパラドクスの原因は否定的自己言及にあると言われています。 しかし、実際には否定的でない自己言及も病的な文となることがあります。 それが正直者のパラドクスです。

 正直者のパラドクスは「私は正直者です」という文の真理値を考えると起こります。 この言葉を発した者が事実正直者であれば、 この文は正しいことになり何の矛盾もありません。 しかし、この言葉を発した者が嘘つきだと仮定しても、 嘘つきが正直に自分を嘘つきだと言うはずがありませんので、 嘘つきが自分のことを正直者と嘘をつくことに何の矛盾もありません。 つまり、この文は真と解釈しても偽と解釈しても矛盾せず、 嘘つきのパラドクス同様に真とも偽とも言えないわけです。

 ところで、嘘つきのパラドクスは本当はパラドクスではないことをご存じでしょうか? 嘘つきのパラドクスが想定している世界、 すなわち、完全な正直者か完全な嘘つきしか存在しない世界には、 「私は嘘つきです」という状況は存在しません。当たり前ですよね。 正直者は自分のことを嘘つきと言うはずがないし、 嘘つきも自分のことを嘘つきと言うはずがありません。 この世界には完全な正直者と完全な嘘つきしかいないので、 誰かが「私は嘘つきです」と発言する状況は決して起きません。 つまり、真偽を判断するも何も、 そもそも「私は嘘つきです」という状況は存在しないのです。 存在しないものが矛盾していたとしても何も不思議ではありませんね。

 一方、正直者のパラドクスは多少厄介です。 完全な正直者と完全な嘘つきしかいない世界においても、 「私は正直者です」という状況は存在します。 したがって、その真理値を考えることは無意味ではありません。 しかし、正直者であると同時に嘘つきであるはずはないので、 真実はどちらかひとつです。ですが、それは判定できません。 私はこれが不完全性定理の一種ではないかと思っています。

 どこで読んだか忘れてしまいましたが、 この状況を解決するうまい方法が紹介されていました。 それは、「あなたはカエルか?」と聞いてみることです。 正直者はもちろんカエルではないと答えるし、 嘘つきはカエルですと答えます。これでめでたく正直者か嘘つきか判定できるわけです。

 この方法のミソは、カエルかどうかは外見で判断できるということです。 正直者かどうかが自己申告であるのに対して、 カエルかどうかは第三者による判定が可能なのです。 これは、第二不完全性定理の状況とよく似ています。 第二不完全性定理を大雑把に説明すると、 自らの無矛盾性は自分では証明できないというものです。 しかし、無矛盾性を証明する手段が何もないかというとそうではありません。 自分でなければ、つまり他人の手を借りれば無矛盾性は証明可能です。 カエルを使えば正直者かどうか判断できることとよく似ていますね。

 さて、最後にさらに話をややこしくしましょう。 嘘つきは魔法が使えてカエルに化けることができるという公理を追加します。 すると、先ほどの「あなたはカエルか?」という質問が通用しなくなります。 カエルに化けた嘘つきが「私はカエルです」と言えば、 第三者には嘘をついていることは分かりません。 これは、公理を追加することで外見を偽ることが可能になり、 外見が自己申告化されてしまったということです。

【余談】

 「私は正直者です」とよく似た文に「この文は証明できる」という文があります。 この文のことをヘンキン文と言います。 そして、ヘンキン文は文面通り証明できることが知られています。 これは、私という代名詞に正直者か嘘つきかの文脈依存があるのに対して、 この文という代名詞はヘンキン文に固定されており、 なおかつ証明できるという概念が有限な概念だからです。

【AIは知性を実現できるか?】

 不完全性定理によって形式的に証明できないとされる命題をゲーデル文と言いますが、 機械はゲーデル文が真であることを証明できないが、 人間はゲーデル文が真であることを知っているので、人間と機械は同じではない。 よって、人間のような AI は作ることはできないという話があるそうです。 ただし、対象となる理論は健全と仮定します。

 これには色々と反論があるようですが、私も個人的には、 これは構文論と意味論を意図的に混同しているのではないかと思ってます。 対象となる理論が健全と仮定した場合、 機械がゲーデル文を証明できないというのは構文論での話です。 一方で、人間がゲーデル文を真だと知っているというのは意味論での話です。 機械には構文論しか許さないのに、 人間は意味論も使っていいというのは不公平ですよね。しかし、 構文論の世界が意味論も含めた人間の知性の世界とどう違うのかという話題は、 興味深い話題だと思いますので少し考えてみましょう。

 まず簡単に、ゲーデル文の意味論について解説しておきます。構文論において、 ゲーデル文が形式的に証明できないことを示すのは多少手間がかかりますので、 それが不完全性定理の結果と思って信じてください。その結果を信じるなら、 意味論でゲーデル文が真であることを知るのは簡単です。ゲーデル文は、 標準モデルにおいて、この命題は形式的に証明できないという意味の命題です。 そして事実、不完全性定理によってゲーデル文は形式的に証明できないのですから、 標準モデルにおけるゲーデル文の真理値は真です。 命題の意味を知っている人間には自明なことですよね。 ただし、対象となる理論は健全と仮定しました。

 さて次に、構文論と意味論の関係について考察してみます。 ここに、不完全性定理の証明が書かれた本が一冊あったとします。 果たして、この本は知性を実現したものと言えるでしょうか? もし、この世界に知的存在が一人もいなかったとしたら、 この本は不完全性定理の証明が書かれた本と言えるでしょうか? 実際には、紙とインクの集まりでしかないのではないでしょうか。 何を哲学的なことを言い出すのかと思うかもしれませんが、 これは、構文論の世界である形式的体系の本質に関わる問題です。 形式的体系というのは、不完全性定理を証明するときに使われる、 証明という行為自体を抽象化したものですが、 意味論的な視点を一切排除してしまうと、形式的体系とは、 内容の良くわからない自然数の計算ということになってしまいます。

 不完全性定理の証明が書かれた本が、 不完全性定理の証明が書かれた本であるためには、 それを読んで意味を解釈する知的存在がいなければなりません。 それと同じで、形式的体系が何かを証明していたとしても、 それを解釈する知的存在がいなければ、単なる自然数の計算に過ぎないのです。 人間と機械が違うと主張する人が出てくるのも、たぶん、 ここが遠因になっているのでしょう。 この手の議論で機械と言えばチューリングマシンですが、 数理論理学や計算可能性理論でチューリングマシンについて書かれた古典的な書籍では、 チューリングマシンは比較的簡単なプログラムに従って動く、 正に機械的な機械として描かれていると思います。 実際には、プログラムはいくらでも高度化複雑化できるのですが、印象としては、 機械自体が意味を考えるという風には感じられないのではないでしょうか?

 少し脱線すると、 この話題は量子力学の観測の話と何となく似ているようにも思います。箱の中の猫は、 人間が観測するまでは半分死んでいて半分生きているというあれです。 形式的体系も、人間が解釈しなければ意味は定まっていないというところが似ています。

 さらに脱線すると、このページの筆者である私が人間である保証はなく、 実は何等かの自然数の計算から、 日本語っぽい記号列を打ち出しているだけの機械である可能性もあるわけです。 そこに意味を感じるのは、最終的には読者の主観の話ということになります。 ただし、ここでいう読者は複数なので、 主観という表現はあまり適切ではないかもしれません。

 さて、私は AI の専門家ではありませんので、ここから先は私の空想になります。 専門家から見れば的外れなことを言っているかもしれませんのでご注意ください。 知性において、人間と機械は違うという主張は、 現状ではそれほど外れた主張ではないでしょう。 確かに、まだ機械は形式的体系の意味を理解するレベルには到達していないと思います。 しかし、AI の研究は着々と進んでいますので、 ひょっとすると私が生きている間に形式的体系の意味を理解する AI が登場するかもしれないと思ってます。 AI に証明とは何かをいろんな角度で質問してみたり、 それこそゲーデル文の真理値について聞いてみたりして、 人間と同じように答えられたら意味を理解しているとしていいと思います。 つまり、あなたが納得できたら意味を理解しているとしていいと思います。 もちろん、カンニングペーパーを用意しておくのは無しとして。 そうなれば、不完全性定理の証明も機械によって理解され、 機械の世界に閉じた形で知性が実現できるようになるのではないでしょうか。

 まあ、AI には正しいと理解できるのに、 人間の方が理解できないなんてこともあるんでしょうね。 その場合はどうしましょう(^^; この文章は2020年7月に書かれました。願わくば、 この文章がすぐに時代遅れとなることを期待します。

【超形式的体系】

 このセクションでは数式を使います。 このページでは数式を使わない予定でしたが、 上記の話題と関連性が強い話題をどうしても書きたかったのでご容赦ください。 少し上級者向けの話をしますので、 使う数式も上級者なら既に知っているとみなして説明はしません。 数式は嫌いだという人は、このセクションだけ読み飛ばしてください。

 人間のようなAIを作ることは可能であると主張する人たちの中に、その理由は、 形式的体系と人間の証明能力が同じであるからと説明する人たちがいます。 私もたぶんそうだろうと思うのですが、その説明が不十分というか、 端的に言って間違っていることがあります。 某有名大学の数理論理学の先生ですら、素人向けの解説書で、 その不十分な説明をしているので、 その説を信じている人は相当数に上ると思われます。 私のような数学の素人の指摘の方が間違っている可能性も大有りですが、 ここではそのことについて述べます。

 人間のようなAIは作れないと主張する人たちは、 人間はゲーデル文を真だと知っているが、 形式的体系はゲーデル文を真だと証明できないので、 人間と形式的体系は同じではないと指摘することがあります。

 これに対して、 人間のようなAIを作ることができるという人たちの一部はこう反論します。 人間が知っているのはゲーデル文が真であることではなく、 無矛盾ならばゲーデル文が真であることである。 そして、無矛盾ならばゲーデル文が真であることなら形式的にも証明できる。 すなわち、\(T\vdash Con(T)\rightarrow G\) であると。 ここで \(Con(T)\) は標準モデルで理論 \(T\) の無矛盾性を表す論理式で、 \(G\) はゲーデル文です。

 しかし、この説明では不十分です。 無矛盾ならゲーデル文は真であることを論理式で表すと \(\mathbb{N}\vDash Con(T)\rightarrow G\) となります。 このとき、\(Con(T)\) が真なら \(G\) も真であると結論できますが、 \(T\vdash Con(T)\rightarrow G\) で無理やり同様のことをやろうとするとこうなります。 \(Con(T)\) が証明できるならば \(G\) も証明できると結論できる。 あれ?\(G\) はゲーデル文だから証明できないはず。 それ以前に、第二不完全性定理で \(Con(T)\) は証明できないので、 \(Con(T)\) を証明できるという仮定を置くと矛盾してしまいます。

 つまり、多くの場合 \(T\vdash\) と \(\mathbb{N}\vDash\) は似たようなことを表しているのですが、 常に似たようなことを表しているわけではないのです。 \(T\vdash\) と \(\mathbb{N}\vDash\) は完全な相似形ではありません。 人間が知っているのは \(\mathbb{N}\vDash Con(T)\rightarrow G\) の方であり、 \(T\vdash Con(T)\rightarrow G\) だとしても \(\mathbb{N}\vDash Con(T)\rightarrow G\) と等価と考えることはできないのです。 \(\mathbb{N}\vDash 1+2=3\) と \(T\vdash 1+2=3\) なら等価と言えるでしょうけど。

 すると、こう反論されるかもしれません。 いやいや、確かに一般の形式的体系ではそうかもしれないが、 こういう場合は健全性を仮定してある。だから形式的に証明できれば十分なのだと。

 そのとおり、健全性が保証されていれば、 \(T\vdash Con(T)\rightarrow G\) ならば \(\mathbb{N}\vDash Con(T)\rightarrow G\) となります。すなわち、無矛盾ならばゲーデル文が真であることに言及できます。

 しかし、これで全て解決とはいきません。健全性を知っているのは誰でしょうか? 形式的体系が知っているのでしょうか。もしそうなら、 健全性を証明するためにはモデル理論の知識が必要なので、 形式的体系は集合論やモデル理論の公理を含んでいなければならないはずです。 しかし、入門書で紹介されるような健全性が成り立つ代表的な形式的体系である Q や PA には、そのような公理は含まれていません。 つまり、通常の形式的体系は健全性を知らないのです。結局、 健全性を知っているのは不完全性定理の証明を読んでいる人間ということになります。 ゲーデル文の真偽に言及するには、普通は人間の手を借りているということになります。 したがって、Q や PA は人間と同じではありません。

 ここまで読んだ人は、 私のことを人間のようなAIは作れない論者と思ったかもしれません。 いいえ、私は人間のようなAIは作れるんじゃないかと思っています。 私が指摘したのは、少なくとも Q や PA は人間と同じではないということです。 より大きな形式的体系を使って、集合論やモデル理論の公理を取り込み、 \(T\vdash\) や \(\mathbb{N}\vDash\) といった記号を取り扱える形式的体系があれば、 つまり、形式的体系をさらにもう一段形式化した超形式的体系があれば、 健全性を扱えるようになり、ゲーデル文の真偽も形式的に示せるのではないでしょうか。 私のような半可通にはそれを示す能力はありませんけれど。

 ひょっとすると、そのような形式的体系は既にあって、専門家に言わせれば、 君の言うようなことは既に証明済みだよということかもしれません。 先の数理論理学の先生もそれを知っていて、素人に説明するようなことではないから、 大筋だけ説明したんだよということかもしれません。 そうだとすると、それを読んだ私のような半可通は誤解するよなぁ。

【余談】

 ところで、超形式的体系とその外側の意味論にまたがる定理とかは、 超形式的体系では証明できないので、超々形式的体系が必要になります。 さらにその上に超々々形式的体系があってと無限に続きそうな予感がします。 機械は、どこかで形式的体系を固定しないとだめだろうと思いますが、 人間なら形式化の階段をどこまでも登っていけるのでしょうか。 そうだとすると人間と機械は違うのかもしれません。

 でも、人間も実際には限界があるんじゃないですかね。 自然数にしたっていくらでも数えられるといいますけれど、 実際には人間に数えられる自然数の大きさには限界がありますしね。

【神の非存在証明は可能か?】

 怪しげなタイトルに、 いきなり信仰にでも目覚めたかと心配になった人もいるかもしれませんね。 私は、個人的には神様はいるんじゃないかと思っています。 しかし、誤解のないように言っておきますが、 ここで言いたいことは不完全性定理による神の存在証明ではありません。 インターネットを不完全性定理について検索すると、 神の存在証明やら非存在証明やらがよく引っ掛かります。 でもね、不完全性定理って数学の定理なんですよね。神学の定理ではありません。 ここでは、 神の存在証明や非存在証明に不完全性定理を用いるのが無理筋であることを説明します。

 え?つまらない?不完全性定理を盛大に誤解して、 自らの宗教観を開陳するのがこの手の議論の醍醐味なのに無粋なことをするなって? そう言われてしまうと身もふたもないんですが、まあ暇な人だけ読んでください。

 まず、神様に不完全性定理を適用するには、 神様というシステムが不完全性定理の前提条件を満足する必要があります。 つまり、自然数論を含み再帰的に公理化可能で無矛盾なシステムなのかということです。 神様も計算はするでしょうから自然数論を含むことはまあいいでしょう。 問題は、神様は再帰的に公理化可能なのかということです。

 再帰的に公理化可能というのは、 おおざっぱに言ってコンピュータで計算可能ということです。 もう少し説明すると、必ず有限な計算に帰着できるということです。 つまり、有限な計算の繰り返しで到達できる範囲が再帰的に公理化可能な範囲です。 しかし、 曲がりなりにも神様と呼ばれる存在が有限の繰り返しの範囲に収まるでしょうか? 神様なら無限だって使い放題のはずですよね。 ようするに、神様が再帰的に公理化可能とは到底思えないということです。 この段階で、 もう神の存在証明や非存在証明に不完全性定理は適用できないことが分かります。

 この再帰的に公理化可能という条件は、 数学以外に不完全性定理を適用しようという人たちによく無視されるそうです。 まあ、気持ちは分かります。 他の条件が日常言語でもなんとか意味をくみ取れそうなのに比べて明らかに、 再帰的に公理化可能は何を言っているのか分かりませんよね。 分からないものはどうしても無視しがちです。 そういう私も数学の本を読むときとかよくやります。 後になって理解が進むと、何故こんな重要なものが見えていなかったのかと、 不思議で仕方がなくなるんですが。

 さて、あとはおまけみたいなものなのですが、 残る無矛盾性についても考察してみましょう。

 一部の宗教家や哲学者は、 矛盾という言葉の印象が一般人にとっては悪いものであることから、 神様は無矛盾であるとしたがるようです。多分、神様が無謬であると言いたくて、 同じようなイメージで無矛盾と主張するのでしょう。 しかし、神様に無矛盾性を期待するということは、 神様の能力に制限を加えることになります。 つまり、神様は矛盾することができないということになります。 これでは神様の万能性が否定されてしまいますよね。 詳しくは全能のパラドクスでググってみてください。

 ようするに、神様の万能性を信じるなら、神様は矛盾している方が都合がいいのです。 また、神様の矛盾は我々人間の矛盾とはスケールが全く違っています。 人間の矛盾とは言葉にした内容に論理的な一貫性がないことですが、 神様の場合、物理的現実そのものを矛盾させることができると考えるべきです。 つまり、物理的にはあり得ないはずのことを起こすことが可能ということです。 奇跡を起こすことができるのですからこれは当然でしょう。

 まあ、我々人間の論理から見て神様が矛盾しているように見えているだけで、 神様の論理では何の問題もなく、万能かつ無矛盾なのかもしれませんけどね。 2次元ユークリッド空間では平行線でない2直線は必ず交点を持ちますが、 3次元ユークリッド空間ではねじれの関係にあれば交点を持たなくできます。 つまり、次元などが上がると不可能だったことが可能になります。 神様は人間より高次元の存在でしょうから、 人間の論理では不可能なことも神様の論理では可能かもしれません。

 しかし、3次元のねじれの関係を強引に2次元に投影しても、 やっぱり交点を持つようにしか見えないでしょう。 つまり、高次元のものを低次元から見ても本来の姿は見えません。 何にしても、人間から見れば神様は矛盾していると考える方が無理がありません。 実際、宗教家の主張する神様が論理的に無矛盾だったことなど、 歴史上一度たりとてなかったでしょう。

 不完全性定理は人間世界の定理ですから、人間から見た判断で適用すべきです。 つまり、神様は矛盾しているとして不完全性定理を適用すべきです。 しかし、不完全性定理は無矛盾なシステムにしか適用できませんので、 ここでも、神の存在証明や非存在証明に不完全性定理を用いるのは無理筋となります。

 あるいは、矛盾はいやだから万能はあきらめるという人もいるかもしれません。 つまり、神様は人間を超越したすごい存在だけど万能ではないという立場です。 しかしそれでも、再帰的に公理化可能かという問題は依然として残ります。

 ちなみに、 神様が矛盾していることは決して神様に不利なことばかりではないんですよ。 宗教家は神様が完全であることを望むと思います。私もそうだろうと思います。 そして、数学的には矛盾している理論は完全なんです。 どうです、神様は矛盾していると考えた方が都合がいいでしょ? もっとも、極大無矛盾な理論は無矛盾かつ完全なので、 矛盾していなければ完全ではないというわけではありません。

 さて、ここまで読んでくださった方は、私が宗教家に好意的ではないことから、 私が不完全性定理を神の存在証明に使うことに反対していると思ったかもしれません。 もちろん、不完全性定理は神の存在証明に使えるようなものではありません。 しかし、実際により問題なのは、不完全性定理を神の非存在証明に使う人たちです。

 これらの人たちは、科学的・論理的な手法の価値を認めておきながら、 不完全性定理の前提条件を無視して議論しているように見えます。 それは全く科学的でも論理的でもありません。 不完全性定理の内容を理解せず盲目的に信仰しているだけです。 不完全性定理は神様の存在や非存在に関して何も語ってくれません。 前提条件が成り立たないからです。あえて言えることがあるとするなら、 神様がいないことは不完全性定理では証明できないということです。 ここで、私の宗教観を開陳するなら、 人間が神様に対してできることは、おそらく信じることくらいでしょう。

【補足】

 宗教家の中にも、 必ずしも神様が論理を超えた万能性を有するとは考えない人もいるらしいです。 また、哲学者や科学者の中にも神様の能力に現実的な制限を設ける人がいるそうです。 ひょっとすると、そういう人たちは、 神様を再帰的に公理化可能な範囲で考えているのかもしれませんね。 そうだとすると、そういう神様なら不完全性定理の対象となるかもしれません。 その場合、神様は形式的理論とみなせないといけませんが。

【余談】

 ところで、数学の中には不完全性定理よりよっぽど神様っぽいものがあります。 選択公理と言います。どんなものかおおざっぱに説明すると、 無限を使った数学的構造は有限な人間には構成不可能だけど、 神様ならきっと構成できるよねという公理です。 定理じゃなくて公理なので、もはやその正しさは信じるしかありません。 なんか信仰が試されてるみたいで神様っぽいでしょ。現代数学の中には、 選択公理を仮定しないと存在が保証されない数学的構造がたくさんあります。 もちろん、無限を使った数学的構造を作るのが神様である必要はないので、 無神論者の人とかは、 人間には不可能だが論理的には可能だという立場でも構わないわけです。 ですから、選択公理イコール数学は神様を必要としているというわけではありません。

 選択公理を使って作られる数学的構造の例には、先に紹介した真の算術があります。 真の算術は無矛盾かつ完全なんですけど、これは不完全性定理とは矛盾しません。 真の算術は再帰的に公理化可能ではないので不完全性定理の対象外なんです。

 他にも、暗号とかに使える真の乱数なども神様っぽいです。 決定論的アルゴリズムでは決して真の乱数は作れません。 人間に作れるのは、あくまで疑似乱数です。 電気回路の熱雑音とかひろえば真の乱数だろうって? そうですね、自然の中には神様が潜んでいるのかもしれません。 アインシュタインさんは神様はサイコロを振らないと言ったそうですが、 サイコロをサイコロたらしめているのは実は神様なんじゃないでしょうか。

 私が何故、個人的には神様がいるんじゃないかと思っているのかというと、 その理由の半分は、 選択公理とか真の乱数とか、人間には不可能な超越的なものを説明するためです。 もう半分は、初もうでに行くとマジで神様にお願いしちゃうし、 妖怪とかもいるような気がするし、 日本で新型コロナが感染爆発しなかったのは、妖怪アマビエのせいかもとか思ってるし、 まあ、そんなオカルトな理由ですけどね。

【あとがき】

 さて、不完全性定理のための傾向と対策はお楽しみいただけたでしょうか。 最後に、私がインターネット上の不完全性定理について感じていることを、 取り留めもなく書き綴りたいと思います。

 不完全性定理をめぐる状況を観察していると、 科学に信頼を寄せるということの意味について考えさせられることがあります。 多くの人は科学は宗教と違って信頼できると無邪気に信じているかもしれません。 しかし、インターネット上に見られる不完全性定理に関する状況は、 その無邪気な期待を裏切っているように思います。

 もちろん、ちゃんとした科学者は、自らの主張を反証可能性という試練にさらして、 客観的な真実を追求していると思います。 しかし、例えば私のようなインターネットで適当なことを発言している人に、 そのような厳格な検証を期待するのは無理というものです。

 実際、インターネットでよく見かける不完全性定理の普及版は、 典型的にはこんな感じです。曰く「この世に完全なものなど決してない」 何だか何かの宗教の教義みたいに聞こえませんか?

 冷静になって考えれば、この教義がどこかおかしいことはすぐに分かります。 もし、この世に完全なものが決してないのなら、 「この世に完全なものなど決してない」という主張も完全ではないということです。 すると、完全なものもあることになってしまって文面と矛盾します。 しかし、多くの人が不完全性定理をこのように理解して、 *科学的*な考察を発表しています(面倒くさいから不完全性定理の詳細はあえて無視してる人もいるけど)。 つまり、伝統的な宗教の権威が下がった隙間を埋めるように、 科学という名前の新興宗教が普及していると見ることもできます。

 こんなことを書くと、まじめな科学者の皆さんから、 そんなデタラメは素人が勝手にやっていることだ我々と一緒にするな。 おまえに科学を語る資格などないと怒られてしまうかもしれません。 しかし、そうした中核の科学者への信頼が厚ければ厚いほどこの問題は深刻になります。 実際、不完全性定理を証明したゲーデルさんへの一般の評価は極めて高く、 アリストテレス以来の天才と言われています。不完全性定理周辺のひどい状況は、 このゲーデルさんへの厚い信頼が一因となっているのは間違いないでしょう。

【追記】後から読み返すと、上記は全般的に煽りすぎですね。 私が参考にさせてもらったまともなWebページもたくさんあったのに。 しかし、私がひしひしと感じたことをお伝えするためにそのままにしておきますね。

 まあ、科学理論が誤解を受けるのは仕方のないところもあります。 例えば、 私が不完全性定理に興味を持ったのはかなりミーハーな理由です。 不完全性定理を極めれば異次元への扉が開くかもしれない。 そんなノリで不完全性定理を勉強し始めたのも事実です。 当時の私が書いた不完全性定理に関する文章には、 ウルトラマンがどうのヤプールがどうの異次元がどうのと、 中二病というか黒歴史というか、 対角線論法で矛盾が出るあたりが秘儀というか異次元への扉だったな。 初学者がこんなノリなのは仕方がないでしょう。 ただ、私の場合、異次元への扉が開くだけでは満足できなかったので、 いろいろな入門書をはしごして、何とか今の解釈にたどり着きましたけどね。 「この世に完全なものなど決してない」 も不完全性定理の神秘に魅せられた中二病ですが、 これもやむを得ないところがあります。 宣伝する側も理性の限界とかさんざん煽ってますからね。 こうした誤解が生まれるとしても、 初学者を引きずり込むためには、科学の持つ神秘的な魅力も大事ではあるんでしょう。

 ならば、現状をましにするにはどうしたらよいんでしょう。 話を不完全性定理に限って考えると、私の経験では、初学者向けの解説で、 不完全性定理と真の算術をセットで解説するようにすればいいのではと思います。 真の算術は無矛盾かつ完全で、不完全性定理の例外になっています。 少なくともこの例外を知っていれば、「この世に完全なものなど決してない」 に端を発する様々な誤解を防止できるのではないでしょうか。 え、プレスバーガー算術が完全でもいいだろって? それだと自然数論としては弱いでしょ。

 しかし、不思議なことに、不完全性定理の入門書やWebページで、 真の算術に言及しているものはそれほど多くないんですよね。なんでだろ。 (訂正。私の探し方が悪いだけでした。たくさんあります。 あまり初学者向けのものは無さそうだけど)

 後は、私みたいに異次元への扉を開く段階は無事に通り過ぎた学習者が、 高い志を忘れずに情報発信していくことですかね。 中央にいる教祖様がいかに立派でも、 辺境の村々で実際に村人に説教をするのは一介の坊主の仕事ですからね。

 私のホームページは間違いは多いし、 勝手な独自理論もあるので、正しい啓蒙には程遠いですが、 それでも、異次元への扉を開くよりはましなことは書いてあります。 皆さんも参考程度と思って読んで、自分で検証してくださいね。

【追記】「異次元への扉」でググってみたら、 そんなタイトルのまじめな数学の本が(^^; いやあ、スキのない文章を書くというのは難しいですね。 本気で異次元への扉を開いてみたい人は是非 こちらへ どうぞ。