傾向と対策

【まえがき】

 このページは、不完全性定理に関して分かったつもりになりたいのだけれど、 数式が出てくると拒絶反応が起きてしまうので、 数式抜きで解説してほしいと言う人のために書かれました。 数式重視のページを読んでくださった方で、 ちっとも簡単じゃなかったとの感想を書いてくださった方がいたからです。 そこで、数式はできるだけ使わないようにして、文章重視の解説に挑戦してみました。

 このページを書いてみて分かったのですが、 数式重視の説明と文章重視の説明は、正に車の両輪です。 両方が在って初めて問題の本質に迫れるように感じます。 数式は直観が通用しない暗闇を進むときに道を照らす灯になってくれます。 しかし、問題の全体構造を理解して納得することには不向きです。文章による説明は、 数式による説明では見過ごしていた問題の構造を明らかにしてくれます。 もし、このページを見て不完全性定理の構造を掴めたと感じたら、 数式満載の専門書等に挑戦するのも良いでしょう。本サイトでも、 数式重視のページ を用意してありますので、興味があれば覗いてみてください。

 さて、不完全性定理は重要な前提条件が無視されて説明されることが多く、 誤解を招きやすい定理として有名です。つまり、 不完全性定理は「この世には完全なものなど決してない」と言ったような誰でも思いつくありきたりな人生哲学などではありませんし、 「絶対的な神の不完全性定理により神の存在は完全に否定された」 と言ったような自己矛盾した神秘主義的な定理でもありません。 このページでは、 そうした不完全性定理に対して抱きがちな先入観を取り除いていきたいと思います。

 また、インターネットで、不完全性定理に関して知ったかぶって何かを語ると、 数学にめっぽう強いお兄さんが現れて、 コテンパンにされてしまうことはよくあると思います。 このページでは、そういう場合でも何とかなるように、 不完全性定理に関する傾向と対策を書こうと思います。 このページを読めば、もう数学にめっぽう強いお兄さんも怖くありません。 怖くないんじゃないかな...ま、ちょっと覚悟はしておけ。

 順番に読むのが面倒くさいという方へ。このページのコンテンツ一覧は ボタンから確認できます。

【不完全性定理に至る歴史】

 まず簡単に、不完全性定理がどのような経緯で登場したのか触れておきます。 不完全性定理登場前夜の19世紀に、 それまでの数学からそれ以後の数学へと、 その性格を一変させる大発明がカントールさんによってなされました。 集合論と呼ばれる数学分野の登場です。

 私は小学生のころに集合を習いましたが、 何のためにこんなことをするのか理解できませんでした。 いや、問題を解くことはできましたけどね。 しかし、実のところ集合論はあらゆる数学の基礎であり、 集合という概念のみで現代数学の全ての概念を説明できる画期的な理論だったのです。 集合を使ってありとあらゆる数学上の構造を作り出し説明できる。 数学者の喜びは大きなものでしたと、 竹内外史さんの著書「集合とはなにか」に書かれています。 このことを聖書になぞらえてカントールの楽園と呼ぶそうです。

 ところが、しばらくして集合論におかしなことが見つかり始めます。 例えば、全ての集合の集合 S を考えると、 S も集合なので S 自身が S の要素になります。つまり自分自身を含んでいます。 このような集合があちこちで矛盾を生じ始めたのです。 なら、自分自身を含まない集合だけ考えれば良いのではと思うかもしれません。 しかし、自分自身を含まない集合の集合 R を考えると、 R は自分自身を含むとしても含まないとしても矛盾してしまうのです。 これをラッセルのパラドクスと言います。

 集合論で数学の全てが説明できますから、 集合論の矛盾はそのまま数学の矛盾と考えられました。 そう、数学は深刻な危機に陥ってしまったのです。 数学者たちはカントールの楽園から出ていかねばならなくなりました。 まさしく失楽園というわけです。

 この危機的状況を打開するために、ヒルベルトさんがある計画を提案します。 曖昧だった集合論の公理系を整備して、形式的体系と呼ばれる体系を構築し、 以下の2つの目標を達成しようとしたのです。

  • 全ての命題を証明あるいは反証できると証明しよう。(完全性)
  • どれだけ推論しても決して矛盾が導かれないと証明しよう。(無矛盾性)

 これをヒルベルト・プログラムと言います。

 反証と言う言葉を聞き慣れないという人に説明すると、 証明とは正しさの根拠を示すことで、 反証とは間違いの根拠を示すことです。

 当時のトップランナーの数学者たちが数学の危機を救おうと、 ヒルベルト・プログラムに取り組みました。 あるいはヒルベルト・プログラムとは別の方法で矛盾の克服を目指しました。 そしてその時、ゲーデルさんが不完全性定理を証明してしまったのです。 つまり、ある条件を満たす形式的体系は不完全であり無矛盾性は証明できないと。 ヒルベルト・プログラムは大きな痛手を負ってしまいました。

【注】念のため書いておくと、 「証明できない」とは「正しくない」を意味しませんので注意してください。 証明できなくとも正しいことはあります。 なので、数学が矛盾していると証明されたわけではありません。

 その後、数学者たちは、非形式的な有限の立場やその拡張で、 数学の無矛盾性の証明にチャレンジしていくことになります。 そして現在、集合論の矛盾の原因などが理解されるようになり、 矛盾を回避する公理系なども整備されたことにより、 数学の危機はあまり心配されることはなくなったそうです。

【第一不完全性定理の解説】

 第一不完全性定理とはどんなものかというと、数学的に書けば、 自然数論を含む再帰的に公理化可能で無矛盾な理論は不完全であるというものになります。再帰的に公理化可能というのは、 おおざっぱに言って、コンピュータで計算可能ということです。 また、不完全であるとは、 その理論に証明も反証もできない命題が存在するということです。 ちなみに、完全なら全ての命題は証明できるか反証できるかのどちらかです。

 これだけのことなんですが、一部の科学者や哲学者・宗教家などは、 そこに理性の限界のような深遠な何かがあるように宣伝したりします。 でも、第一不完全性定理の言ってることはそんなに不思議なことではないんですよ。 以下で、証明も反証もできないとはどういうことか説明しましょう。

 数学は現実の対象をとらえるとき、 公理系という抽象化された規則集を作ることで対象をとらえます。 しかし、公理系は抽象化されているので現実そのものズバリではありません。 そのため、対象となる現実が1つに絞り込めないことがあります。 数学的には、これを複数のモデルを持つと言います。 つまり、公理系は1つなんだけど、それで説明できる対象は複数あるということです。

 このとき、多くの命題はモデル(対象)が変わっても、 その真理値(振る舞い)が変わることはないのですが、 中にモデルが変わると真理値が変わる命題があるんです。 簡単な公理系を例に確かめてみましょう。 思いっきり簡単な例として、以下のような串団子の公理系を考えます。

  • 串団子とは、串に団子を三つ刺したものであり、それに限る。
  • 団子の種類は白玉団子か抹茶団子である。
  • 見た目が同じ串団子は同じである。
  • 見た目が異なる串団子は同じではない。

 すると「全ての串団子は同じである」という文が真理値が変わる命題に該当します。 全ての串団子が同じになるモデルもならないモデルも考えることができます。

 まず、団子が白玉団子しかないモデルを考えてみます。 どんな串団子の作り方をしても、白玉団子が三つの串団子になりますので、 このモデルでは「全ての串団子は同じである」は正しく、その真理値は真です。

 次に、白玉団子と抹茶団子があるモデルを考えてみます。 明らかに、白玉と抹茶の組み合わせにより見た目が異なる串団子が作れますので、 このモデルでは「全ての串団子は同じである」は正しくなく、その真理値は偽です。

 以上でモデルによって真理値が変わることが確認できました。

 これに対して「串に団子を一つ刺したものは串団子ではない」は、 全てのモデルで正しい真なる命題となります。え?団子が一つでも串団子だろって? いやいや、ここでは公理で団子を三つ刺したものだけが串団子と約束したので、 団子が一つの場合は串団子とは認めません。 それが数学というものだと思ってあきらめてください。

 「全ての串団子は同じである」のようなモデルによって真理値の変わる命題は、 全てのモデルに共通の公理系からは証明することも反証することもできません。 当たり前ですよね。公理系はすべてのモデルに共通なんですから。 証明できるならすべてのモデルで証明できるはずですし、 反証できるならすべてのモデルで反証できるはずです。 証明できると真理値は真であり、反証できると真理値は偽です。 つまり、証明できるなら真理値は真のみになるはずですし、 反証できるなら真理値は偽のみになるはずです。 真理値がモデルによって真になったり偽になったりはしません。 よって、モデルによって真理値の変わる命題は証明も反証もできません。 これを理性の限界と言うのはちょっと大げさすぎますね。 人間の理性に限界があるせいで証明できないというよりは、 証明するということの仕組みがそうなっているという話です。

 さて、第一不完全性定理の言っていることは、上記のことより多少強めです。 モデルによって真理値の変わる命題が存在するのは、 公理系に公理が足りていないからです。 つまり、公理を追加していけば対象を完全にとらえた公理系を作ることができて、 証明も反証もできない命題はなくなります。 実は、自然数論もそのように拡張できて、完全な自然数論というものもあります。 これは真の算術(TA)と呼ばれています。 私はこの中二病的なネーミングが結構気に入っているんですが、それはさておき、 真の算術には困ったことがあるんです。 人間やコンピュータには計算可能ではないんですね。 そして、計算可能な状態を保ったまま公理を追加しても完全にはなりません。 これが第一不完全性定理の言っていることです。

 いや待てよ、良いことを思いついた。全ての命題を公理にしてしまえば、 全ての命題を証明できるし、命題を論理式で表すことが出来れば、 命題であることは簡単に確認できるから計算可能にもできるじゃないか!我ながら名案だ... はい、もちろんこの方法はダメですね。 全ての命題の中には間違った命題も含まれているので、 そのような命題を公理にすると、その理論が矛盾してしまいます。 いくら完全でも間違った命題を証明してしまうのでは使い物になりません。 不完全性定理の前提に無矛盾という条件が付いているのはそのためです。

【不完全性クイズ】

 証明も反証もできない命題の仕組みは上記の説明で理解できたと思いますが、 団子の例では、自然数論が不完全であることをどうやって証明するのか、 今一つピンとこないかもしれません。ここでは実際に、 第一不完全性定理を証明するときに用いる手法をクイズにして体験してみましょう。

 クイズを解くためには、次のルールを使って良いとします。

ルール:証明できる命題は正しい。

 何だか当たり前のことのようですが、 意外に重要なルールなので憶えておいてくださいね。 このルールのことを健全性と呼ぶことにします。

 さらに次のような命題に名前を付けて G と呼ぶことにします。 G の中で G 自身に言及していることに注意してください。

命題 G:G は証明できない。

 準備完了しました。いよいよクイズです。命題 G は証明できるでしょうか? 試しに G は証明できるとします。すると健全性により証明できる命題は正しいので、 「G は証明できない」ことが正しいということになります。 これは G は証明できることと矛盾しますので、背理法により、 G は証明できないこととなります。

 次のクイズです。命題 G は反証できるでしょうか? 反証できるとは、その命題の否定が証明できることです。 したがって、G が反証できるとすると、

命題 G の否定:G は証明できる。

 が証明できることになります。つまり、

「G は証明できる」が証明できる。

 ということになります。 すると健全性により「G は証明できる」ことが正しくなります。 しかし既に示したように、G は証明できるとすると矛盾が導かれます。 結局、G は反証できるとしても矛盾が導かれるということです。 よって背理法により、G を反証することはできません。

 以上のことにより、健全性を認めると、 命題 G は証明も反証もできない命題ということになります。 このような命題をゲーデル文と言います。 あれ?でも今「G は証明できない」ことを証明したよね? と思った人、あなたは鋭い!その通り。 この一見矛盾した状況を矛盾なく説明するには、 日常言語の曖昧さでは無理です。 とりあえず、構文論での証明と意味論での証明の違いということで納得してください。

 このクイズでは健全性が重要な役割を果たしましたが、数学を構築する基礎として、 健全性が妥当な要求であることはたぶん納得していただけるでしょう。 どうでしょう。第一不完全性定理の概要を体験していただけたでしょうか? 実際の不完全性定理の数学的証明は、 命題 G が自然数論の言葉で書き記すことができることを示すことで行います。

【\(\Sigma_1\)完全性】

 上記では健全性を用いて G が証明できないことを証明しましたが、 他にも G が証明できないことを証明する方法はあります。 それが、\(\Sigma_1\)完全性を用いた証明です。\(\Sigma_1\)完全性を用いると、 無矛盾という前提で G が証明できないことを証明できます。 この事実は、後に第二不完全性定理を証明するときに必要になります。

 \(\Sigma_1\)完全性とは次のような性質です。

その命題が証明できるなら、 証明できることも証明できる。

 健全性と同様に何だか当たり前のことのようですが、 証明するという行為を適切に定義しないと成り立たちません。

 それでは、その理論が無矛盾ならば G は証明できないことを証明しましょう。 まず、G の否定を考えて「G は証明できる」が正しいとします。 すると、\(\Sigma_1\)完全性より、「「G は証明できる」は証明できる」となります。 「G は証明できる」は G の否定だったので、「G の否定は証明できる」となります。 つまり、G も証明できるし G の否定も証明できるとなってその理論が矛盾します。 まとめると、G が証明できるならばその理論は矛盾します。 よって対偶を考えると、その理論が無矛盾ならば G は証明できないことになります。

 \(\Sigma_1\)完全性は、 証明するという行為を適切に定義しないと成り立たないと言いましたが、その定義とは、 証明できるとは正しさの根拠を他人に説明できることであるというものです。つまり、 理由は説明できないけれど絶対に正しいと確信できるとかはダメということです。 これは、証明とは推測や神の啓示・野生の勘であってはならないということです。 また、ここでいう他人とは、 いい加減な証明を適当に流して納得してしまうような人ではダメで、 重箱の隅をつつくように徹底的にダメ出しをする人でなければなりません。 要するに、証明できるということをコンピュータのプログラムで表せるということです。 この条件を満たせば\(\Sigma_1\)完全性が成り立ちます。

 そう思うと、日常的な証明と不完全性定理における証明が、 ずいぶんとレベルが違う話であることが分かるでしょう。たぶん、 一流の数学者でも厳密に\(\Sigma_1\)完全性の定義をクリアするのは困難でしょう。 不完全性定理における証明とは、それほどまでに厳格ということです。 ただし、日常言語で定義した都合上、 本来の\(\Sigma_1\)完全性より強い定義になっています。

 ところで、証明の定義として、 理由は説明できないけれど絶対に正しいと確信できるというのがダメなのは当たり前じゃないか。と思った人もいるかもしれません。 根拠を具体的に書き下すことができるのが証明でしょ?と。 確かにその通りなんですが。 よくよく考えると、根拠とされている公理は何故正しいのか理由は説明できず、 絶対に正しいと確信しているだけなので、証明とは、 何が正しいのかを恣意的に選んだ結果に過ぎないと考えることもできます。 つまり公理に関しては、 まあまず間違いないだろうからとフィーリングで根拠として認めているだけなんです。 結局、最後は論理ではなく説得力というところが面白いですね。

【第二不完全性定理の解説】

 第二不完全性定理とはどんなものかというと、数学的に書けば、 自然数論を含む再帰的に公理化可能で無矛盾な理論が数学的帰納法を使えるなら、 自らの無矛盾性を形式的に証明することはできないというものになります。 つまり、第一不完全性定理の証明も反証もできない命題の例の1つが、 自分自身の無矛盾性を表す命題ということです。 ただし、無矛盾性を表現するのに使う「証明できる」という述語は、 論理的な飛躍を避け人間に計算可能であるように定義されていることとします。

 不完全性定理と言った場合、どちらかと言えば第二不完全性定理の方が有名で、 数学は数学の正しさを証明できないとセンセーショナルに語られることが多いと私は感じています。 そして、ヒルベルト・プログラムにとどめを刺したとか、 数学基礎論に終止符を打ったとか、 まるでゲーデルさんがこれらの分野を終わらせてしまったかのように書く人もいます(※注意。詳しい経緯を知っていて、あえてこの表現を使う人もいます。 詳しくは補足に書いてあります)。 そういう意味において、第二不完全性定理は誤解されやすい定理と言えます。 実際には、不完全性定理の後に、 ゲンツェンさんが自然数論の無矛盾性を証明しています。 これはどうしたことでしょうか?

 実は、無矛盾性が証明できないときの証明とは、 ある条件を満たした形式的証明のことです。 形式的証明は、これだけガンジガラメに縛られたら、 そりゃあ、無矛盾性が証明できなくてもしかたがないよねというくらい制限の厳しい体系です。その代わり究極の客観性が得られます。 こうした体系で無矛盾性が証明できないということは、 数学では原理的に無責任なことは証明できないということであり、 これはむしろ、数学の信頼性の証とも言えるでしょう。 自分の正しさを自分自身では証明できないことは、 不完全性定理を持ち出すまでもなく当たり前のことですから、 数学では、当たり前のことがきちんと成り立っているということです。 ただし、数学が本当に無矛盾であればですけれど。

 ちなみに、「その理論が無矛盾なら、自身の無矛盾性を形式的に証明できない」を論理的に同じことで言い換えると、 「自身の無矛盾性を形式的に証明できるなら、その理論は矛盾している」になります。 どうでしょう。第二不完全性定理に対する印象がずいぶんと変わりませんか? 無矛盾性を形式的に証明できないことがポジティブに感じますよね。

 さて一方、ゲンツェンさんが用いた体系は、 非形式的な有限の立場と言われるもので(正確にはその拡張)、 自然数論の外にはみ出しており、 これは正しいと認めても問題ないだろうと考えられる最小限の体系です。 自然数論からはみ出すことなく、かつ、 何もないところから自分の正しさを証明することはできませんが、 自然数論の外から自然数論を認識できて、最小限、 これは認めましょうという立場があれば、 自然数論の無矛盾性も本当に証明できるわけです。

 他にも、やはりゲーデルのさんが証明した完全性定理というまぎらわしい名前の定理があるんですが、これを用いていいなら、 モデルを持つ理論は無矛盾ということになっているので、 標準モデルの自然数をモデルに持つ標準的な自然数論が無矛盾であることも証明できます。完全性定理は自然数論の外にあるからです。 もちろん、じゃあその完全性定理は信じていいのかという問題にはなりますけれど。

 最後に、その後の数学基礎論・数理論理学について触れましょう。 不完全性定理により、数学の完全性・無矛盾性を確かめようとした数学基礎論におけるヒルベルト・プログラムは大きな痛手を負いました。 しかし、不完全性定理によって数学基礎論に終止符が打たれたわけではないことは、 数学者たちが、 その後も数学の無矛盾性の証明にチャレンジし続けていることから分かります。 例えば、竹内外史さんが解析学の無矛盾性を部分的に証明したりしているようです。 こういうところで日本人が活躍しているのを見ると、 何だかうれしい気持ちになりますね。

【補足】

 その後、いろいろ情報収集してみると、 不完全性定理がヒルベルト・プログラムにとどめを刺したという表現は、 的外れとは言えないようです。ヒルベルトの意味でのオリジナルの有限の立場で、 実数論の無矛盾性を証明するのは、現在ではほぼ不可能と考えられているようです。 ゲンツェンさんの結果などは、有限の立場を拡張した結果です。

 また、数学基礎論に終止符を打ったとの表現ですが、 どこかで見かけたな程度であまり深く考えなかったのですが、 その原文らしきものを見つけて、私の方が考えが足りなかったことが分かりました。 その原文では数学基礎論を数理論理学の意味では使っておらず、 本来のドイツ語・英語の意味で使っていたようです。 その筋の偉い先生の文章だったようで、 見つけた時には血の気が引いてしまいました。自分の無知が怖いです。 でも、私の文章では数理論理学の意味での数学基礎論を想定して書いてあります。 いまさら書き換えると文章が成立しなくなるので、 恥は承知でそのままにしておきます。

【第二不完全性定理の証明】

 ここでは、第二不完全性定理の証明を文章だけで説明することに挑戦してみます。 第一不完全性定理と同様に健全性の成り立つ理論で考えるとします。 無謀な挑戦であることは分かっていますので、 生暖かい目で見守ってやってくださいね。

 まず、無矛盾性を証明するためには何を示したらよいか説明します。 対象となる理論が矛盾していると、その理論の全ての命題が証明可能になります。 つまり、どんなに筋違いな主張も通ってしまうということです。 よって、無矛盾ということは証明できない命題が存在するということです。

 一方、ゲーデル文 G は「G は証明できない」という意味の命題でした。 したがって、G が正しければ証明できない命題が存在することになるので、 その理論は無矛盾であることになります。 つまり、「G は証明できない \(\Rightarrow\) 無矛盾」です。 ここで、 \(\Sigma_1\)完全性 という性質が成り立つと仮定すると、 無矛盾ならば「G は証明できない」ことも示せます。 つまり、「無矛盾 \(\Rightarrow\) G は証明できない」です。 よって、「G は証明できない \(\Leftrightarrow\) 無矛盾」であり、 「G は証明できない」と「無矛盾であること」は論理的に同値です。

 次に、G は「G は証明できない」なので、G の中身を展開してやると、 「「G は証明できない」は証明できない」になります。 「G は証明できない」は「無矛盾であること」と同値なので、 これは、「「無矛盾であること」は証明できない」という意味になります。 また、第一不完全性定理から、 その理論が健全なら「G は証明できない」は正しいので、 「「無矛盾であること」は証明できない」も正しいことになります。 以上により、その理論が健全ならその無矛盾性は証明できないことが示されました。 これが、第二不完全性定理の証明の概要です。 ただし、ここでの証明できるという行為は\(\Sigma_1\)完全性を満たすとします。

 うそー!これで第二不完全性定理の証明が終わり?マジで?と思いますよね。 でも主要部分はこれで終わりなんですよ。 しかし、これは G についてのみの話であり、 他の命題では事情が異なるのではないかと感じますよね。ところが、 これは G についての特殊事情ではなく、一般的な事実であることを以下で示します。

 証明できない命題があることを証明しようと思ったら、 つまり無矛盾性を証明しようと思ったら、正しい方法はたった一つです。それは、 与えられた命題が定理でないことを全ての定理に対して確認するというものです。 ここで定理というのは証明できる命題のことです。

 今、ある一つの命題が上記の方法で証明できないと確認できたと仮定しましょう。 すると、同じ方法を使うことで、 他の証明できない命題も証明できないと確認できます。 全ての定理に対して確認するので、汎用的な手法になっているわけです。 つまり、証明できない全ての命題が証明できないと確認できます。

 ここが重要なポイントなのでもう一度書いておくと、 たとえ一つの命題でも正しい方法で証明できないことが確認できたとすると、 証明できない全ての命題が証明できないと確認できることになります。 逆に、証明できない全ての命題が証明できないと確認できないのなら、 それは正しい方法とは言えません。 当然ですよね?証明できないことを確認できないことがあるのですから。

 しかし、G については証明できないことが証明できませんでした。 つまり、証明できないことを確認することはできません。 これは、証明できない全ての命題が証明できないと確認できることと矛盾します。 よって背理法により、如何なる証明できない命題が証明できないことも、 正しい方法で確認することはできません。 したがって、無矛盾性を証明することはできません。Q.E.D.

 正しい方法でと断っているのには訳があります。 正しくない方法で証明できないと確認することは可能だからです。 例えば、1 = 0 という命題は反証できる命題ですから無矛盾なら証明できないはずです。 実際、ある工夫をすると 1 = 0 が証明できないことを証明できます。 つまり、無矛盾性が証明できたように見えます。 しかし、工夫をした方法で見かけ上の無矛盾性が証明できたとしても、 それが本当に無矛盾であると保証するためには、 結局、正しい方法で無矛盾性を証明できねばなりません。 そして、工夫をした方法で見かけ上の無矛盾性が証明されても、 正しい方法で無矛盾性が証明される訳ではありません。

 その他にも、正しくない無矛盾性の証明はあり得ますが、 どれも「証明できない」の実現方法が適切ではありません。 「無矛盾とは証明できない命題が存在することである」と言うときの「証明できない」は、 正しい方法による証明できないでないとダメなのです。 要するに、もし、ある方法が無矛盾性を正しく理解しているのなら、 無矛盾性を表す全ての命題を証明できねばなりません。 つまり、一つでもその無矛盾性を証明できない命題があれば、 無矛盾性を正しく理解しているとは言えません。 そして、G は無矛盾性を表す命題ですが証明できませんでした。 そのため、どんな方法も、その理論の中の話であるかぎり、 無矛盾性を正しく理解していないのです。

 ここまで読んで、無矛盾性が証明できないというけれど、 健全性が成り立つなら G は証明できないことが正しく、 G は証明できないなら証明できない命題があることになって無矛盾なのは明らかじゃないか! と思った人もいるでしょう。その通り! 実は意味論的には無矛盾性は明らかなんです。何せ健全と仮定したのですから。 健全性は無矛盾性より強い性質なので健全なら無矛盾なのは当たり前です。 証明できないというのは構文論での話です。 意味論や構文論って何?という人は、 AIは知性を実現できるか? を読んでみてくださいね。

【正直者のパラドクス】

 ここでは、嘘つきのパラドクスと対をなす、もう一つのパラドクスを紹介します。 嘘つきのパラドクスは有名ですよね。「私は嘘つきです」 という文は真と考えても偽と考えても矛盾するため真とも偽とも言えません。 このパラドクスの原因は否定的自己言及にあると言われています。 しかし、実際には否定的でない自己言及も病的な文となることがあります。 それが正直者のパラドクスです。

 正直者のパラドクスは「私は正直者です」という文の真理値を考えると起こります。 この言葉を発した者が事実正直者であれば、 この文は正しいことになり何の矛盾もありません。 しかし、この言葉を発した者が嘘つきだと仮定しても、 嘘つきが正直に自分を嘘つきだと言うはずがありませんので、 嘘つきが自分のことを正直者と嘘をつくことに何の矛盾もありません。 つまり、この文は真と解釈しても偽と解釈しても矛盾せず、 この文だけでは嘘つきのパラドクス同様に真とも偽とも言えないわけです。

 ところで、嘘つきのパラドクスは本当はパラドクスではないことをご存じでしょうか? 嘘つきのパラドクスが想定している世界、 すなわち、完全な正直者か完全な嘘つきしか存在しない世界には、 「私は嘘つきです」という状況は存在しません。当たり前ですよね。 正直者は自分のことを嘘つきと言うはずがないし、 嘘つきも自分のことを嘘つきと言うはずがありません。 この世界には完全な正直者と完全な嘘つきしかいないので、 誰かが「私は嘘つきです」と発言する状況は決して起きません。 つまり、真偽を判断するも何も、 そもそも「私は嘘つきです」という状況は存在しないのです。 存在しないものが矛盾していたとしても何も不思議ではありませんね。

 そして、完全な正直者と完全な嘘つきしかいないような不自然な世界ではなく、 正直者でも嘘つきでもない人もいる通常の世界を考えても、 嘘つきのパラドクスは存在しません。嘘つきのパラドクスを少し修正して、 「私は正直者ではない」という文の真理値を考えてみましょう。 正直者が自分を正直でないと言うことはないので、事実、この文は真です。 嘘つきが自分を正直でないと言うこともないので、 この「私」は、正直者でも嘘つきでもありません。 つまり、この「私」が発言者であると仮定すれば、 「私は嘘つきです」も「私は正直者です」も偽であり、 「私は不完全な嘘つき(or 正直者)です」が真となり矛盾は存在しません。 この「私」は嘘をつくことも正直に話すこともできますからね。

 一方、正直者のパラドクスは多少厄介です。 完全な正直者と完全な嘘つきしかいない世界においても、 「私は正直者です」という状況は存在します。 したがって、その真理値を考えることは無意味ではありません。 しかし、正直者であると同時に嘘つきであるはずはないので、 真実はどちらかひとつです。ですが、それは判定できません。 私はこれが不完全性定理の一種ではないかと思っています。

 どこで読んだか忘れてしまいましたが、 この状況を解決するうまい方法が紹介されていました。 それは、「あなたはカエルか?」と聞いてみることです。 正直者はもちろんカエルではないと答えるし、 嘘つきはカエルですと答えます。これでめでたく正直者か嘘つきか判定できるわけです。

 この方法のミソは、カエルかどうかは外見で判断できるということです。 正直者かどうかが自己申告であるのに対して、 カエルかどうかは第三者による判定が可能なのです。 これは、第二不完全性定理の状況とよく似ています。 第二不完全性定理を大雑把に説明すると、 自らの無矛盾性は自分では証明できないというものです。つまり構造的には、 自分が正直者であることは自分では証明できないということと同じです。 しかし、無矛盾性を証明する手段が何もないかというとそうではありません。 自分でなければ、つまり他人の手を借りれば無矛盾性は証明可能です。 カエルを使えば正直者かどうか判断できることとよく似ていますね。

 さて、最後にさらに話をややこしくしましょう。 嘘つきは魔法が使えてカエルに化けることができるという公理を追加(厳密には上書き)します。 すると、先ほどの「あなたはカエルか?」という質問が通用しなくなります。 カエルに化けた嘘つきが「私はカエルです」と言えば、 第三者には嘘をついていることは分かりません。 これは、公理を追加することで外見を偽ることが可能になり、 外見が自己申告化されてしまったということです。

 正直者のパラドクスと不完全性定理の関係について、 もう少し突っ込んだ解説を読みたい人は 日常言語による不完全性定理 をご覧ください。

【追記】

 いろいろ調べてみると、真の嘘つきのパラドクスというものがあるようです。 それはこんな感じです「この発言は嘘である」。 このパラドクスは、完全な正直者と完全な嘘つきしかいない世界では起きませんが、 日常の世界では問題となります。

 この問題を解消するには、 この世には嘘でも本当でもないことが存在すると認めるのが簡単そうです。 嘘でも本当でもないことが存在する世界とはいわゆる3値論理の世界です。 真・偽のほかにも例えば無意味という真理値がある世界です。 まあ、確かに日常の世界は3値論理のような気もしますね。

【AIは知性を実現できるか?】

 不完全性定理によって形式的に証明できないとされる命題をゲーデル文と言いますが、 機械はゲーデル文が真であることを証明できないが、 人間はゲーデル文が真であることを知っているので、人間と機械は同じではない。 よって、人間のような AI は作ることはできないという話があるそうです。 ただし、対象となる理論は健全と仮定します。

 これには色々と反論があるようですが、私も個人的には、 これは構文論と意味論を意図的に混同しているのではないかと思ってます。 対象となる理論が健全と仮定した場合、 機械がゲーデル文を証明できないというのは構文論での話です。 一方で、人間がゲーデル文を真だと知っているというのは意味論での話です。 機械には構文論しか許さないのに、 人間は意味論も使っていいというのは不公平ですよね。しかし、 構文論の世界が意味論も含めた人間の知性の世界とどう違うのかという話題は、 興味深い話題だと思いますので少し考えてみましょう。

 まず簡単に、ゲーデル文の意味論について解説しておきます。構文論において、 ゲーデル文が形式的に証明できないことを示すのは多少手間がかかりますので、 それが不完全性定理の結果と思って信じてください。その結果を信じるなら、 意味論でゲーデル文が真であることを知るのは簡単です。ゲーデル文は、 標準モデルにおいて、この命題は形式的に証明できないという意味の命題です。 そして事実、不完全性定理によってゲーデル文は形式的に証明できないのですから、 標準モデルにおけるゲーデル文の真理値は真です。 命題の意味を知っている人間には自明なことですよね。 ただし、対象となる理論は健全と仮定しました。

 さて次に、構文論と意味論の関係について考察してみます。 ここに、不完全性定理の証明が書かれた本が一冊あったとします。 果たして、この本は知性を実現したものと言えるでしょうか? もし、この世界に知的存在が一人もいなかったとしたら、 この本は不完全性定理の証明が書かれた本と言えるでしょうか? 実際には、紙とインクの集まりでしかないのではないでしょうか。 何を哲学的なことを言い出すのかと思うかもしれませんが、 これは、構文論の世界である形式的体系の本質に関わる問題です。 形式的体系というのは、不完全性定理を証明するときに使われる、 証明という行為自体を抽象化したものですが、 意味論的な視点を一切排除してしまうと、形式的体系とは、 内容の良くわからない自然数の計算ということになってしまいます。

 不完全性定理の証明が書かれた本が、 不完全性定理の証明が書かれた本であるためには、 それを読んで意味を解釈する知的存在がいなければなりません。 それと同じで、形式的体系が何かを証明していたとしても、 それを解釈する知的存在がいなければ、単なる自然数の計算に過ぎないのです。 人間と機械が違うと主張する人が出てくるのも、たぶん、 ここが遠因になっているのでしょう。 この手の議論で機械と言えばチューリングマシンですが、 数理論理学や計算可能性理論でチューリングマシンについて書かれた古典的な書籍では、 チューリングマシンは比較的簡単なプログラムに従って動く、 正に機械的な機械として描かれていると思います。 実際には、プログラムはいくらでも高度化複雑化できるのですが、印象としては、 機械自体が意味を考えるという風には感じられないのではないでしょうか?

 少し脱線すると、 この話題は量子力学の観測の話と何となく似ているようにも思います。箱の中の猫は、 人間が観測するまでは半分死んでいて半分生きているというあれです。 形式的体系も、人間が解釈しなければ意味は定まっていないというところが似ています。

 さらに脱線すると、このページの筆者である私が人間である保証はなく、 実は何等かの自然数の計算から、 日本語っぽい記号列を打ち出しているだけの機械である可能性もあるわけです。 そこに意味を感じるのは、最終的には読者の主観の話ということになります。 ただし、ここでいう読者は複数なので、 主観という表現はあまり適切ではないかもしれません。

 さて、私は AI の専門家ではありませんので、ここから先は私の空想になります。 専門家から見れば的外れなことを言っているかもしれませんのでご注意ください。 知性において、人間と機械は違うという主張は、 現状ではそれほど外れた主張ではないでしょう。 確かに、まだ機械は形式的体系の意味を理解するレベルには到達していないと思います。 しかし、AI の研究は着々と進んでいますので、 ひょっとすると私が生きている間に形式的体系の意味を理解する AI が登場するかもしれないと思ってます。 AI に証明とは何かをいろんな角度で質問してみたり、 それこそゲーデル文の真理値について聞いてみたりして、 人間と同じように答えられたら意味を理解しているとしていいと思います。 つまり、あなたが納得できたら意味を理解しているとしていいと思います。 もちろん、カンニングペーパーを用意しておくのは無しとして。 そうなれば、不完全性定理の証明も機械によって理解され、 機械の世界に閉じた形で知性が実現できるようになるのではないでしょうか。

 まあ、AI には正しいと理解できるのに、 人間の方が理解できないなんてこともあるんでしょうね。 その場合はどうしましょう(^^; この文章は2020年7月に書かれました。願わくば、 この文章がすぐに時代遅れとなることを期待します。

【超形式的体系】

 このセクションでは数式を使います。 このページでは数式を使わない予定でしたが、 上記の話題と関連性が強い話題をどうしても書きたかったのでご容赦ください。 少し上級者向けの話をしますので、 使う数式も上級者なら既に知っているとみなして説明はしません。 数式は嫌いだという人は、このセクションだけ読み飛ばしてください。

 人間のようなAIを作ることは可能であると主張する人たちの中に、その理由は、 形式的体系と人間の証明能力が同じであるからと説明する人たちがいます。 私もたぶんそうだろうと思うのですが、その説明が不十分というか、 端的に言って間違っていることがあります。 某有名大学の数理論理学の先生ですら、素人向けの解説書で、 その不十分な説明をしているので、 その説を信じている人は相当数に上ると思われます。 私のような数学の素人の指摘の方が間違っている可能性も大有りですが、 ここではそのことについて述べます。

 人間のようなAIは作れないと主張する人たちは、 人間はゲーデル文を真だと知っているが、 形式的体系はゲーデル文を真だと証明できないので、 人間と形式的体系は同じではないと指摘することがあります。

 これに対して、 人間のようなAIを作ることができるという人たちの一部はこう反論します。 人間が知っているのはゲーデル文が真であることではなく、 無矛盾ならばゲーデル文が真であることである。 そして、無矛盾ならばゲーデル文が真であることなら形式的にも証明できる。 すなわち、\(T\vdash\Con(T)\rightarrow G\) であると。 ここで \(\Con(T)\) は標準モデルで理論 \(T\) の無矛盾性を表す論理式で、 \(G\) はゲーデル文です。

 しかし、この説明では不十分です。 無矛盾ならゲーデル文は真であることを論理式で表すと \(\N\vDash\Con(T)\rightarrow G\) となります。 このとき、\(\Con(T)\) が真なら \(G\) も真であると結論できますが、 \(T\vdash\Con(T)\rightarrow G\) で無理やり同様のことをやろうとするとこうなります。 \(\Con(T)\) が証明できるならば \(G\) も証明できると結論できる。 あれ?\(G\) はゲーデル文だから証明できないはず。 それ以前に、第二不完全性定理で \(\Con(T)\) は証明できないので、 \(\Con(T)\) を証明できるという仮定を置くと矛盾してしまいます。

 つまり、多くの場合 \(T\vdash\) と \(\N\vDash\) は似たようなことを表しているのですが、 常に似たようなことを表しているわけではないのです。 \(T\vdash\) と \(\N\vDash\) は完全な相似形ではありません。 人間が知っているのは \(\N\vDash\Con(T)\rightarrow G\) の方であり、 \(T\vdash\Con(T)\rightarrow G\) だとしても \(\N\vDash\Con(T)\rightarrow G\) と等価と考えることはできないのです。 \(\N\vDash 1+2=3\) と \(T\vdash 1+2=3\) なら等価と言えるでしょうけど。

 すると、こう反論されるかもしれません。 いやいや、確かに一般の形式的体系ではそうかもしれないが、 こういう場合は健全性を仮定してある。だから形式的に証明できれば十分なのだと。

 そのとおり、健全性が保証されていれば、 \(T\vdash\Con(T)\rightarrow G\) ならば \(\N\vDash\Con(T)\rightarrow G\) となります。すなわち、無矛盾ならばゲーデル文が真であることに言及できます。

 しかし、これで全て解決とはいきません。健全性を知っているのは誰でしょうか? 形式的体系が知っているのでしょうか。もしそうなら、 健全性を証明するためにはモデル理論の知識が必要なので、 形式的体系は集合論やモデル理論の公理を含んでいなければならないはずです。 しかし、入門書で紹介されるような健全性が成り立つ代表的な形式的体系である Q や PA には、そのような公理は含まれていません。 つまり、通常の形式的体系は健全性を知らないのです。結局、 健全性を知っているのは不完全性定理の証明を読んでいる人間ということになります。 ゲーデル文の真偽に言及するには、普通は人間の手を借りているということになります。 したがって、Q や PA は人間と同じではありません。

 ここまで読んだ人は、 私のことを人間のようなAIは作れない論者と思ったかもしれません。 いいえ、私は人間のようなAIは作れるんじゃないかと思っています。 私が指摘したのは、少なくとも Q や PA は人間と同じではないということです。 より大きな形式的体系を使って、集合論やモデル理論の公理を取り込み、 \(T\vdash\) や \(\N\vDash\) といった記号を取り扱える形式的体系があれば、 つまり、形式的体系をさらにもう一段形式化した超形式的体系があれば、 健全性を扱えるようになり、ゲーデル文の真偽も形式的に示せるのではないでしょうか。 私のような半可通にはそれを示す能力はありませんけれど。

 ひょっとすると、そのような形式的体系は既にあって、専門家に言わせれば、 君の言うようなことは既に証明済みだよということかもしれません。 先の数理論理学の先生もそれを知っていて、素人に説明するようなことではないから、 大筋だけ説明したんだよということかもしれません。 そうだとすると、それを読んだ私のような半可通は誤解するよなぁ。

【補足】

 無矛盾ならゲーデル文が真であることを形式的に表した論理式 \(T\vdash\Con(T)\rightarrow G\) は正確には、 \(\N\vDash\Con(T)\rightarrow(T\vdash\Con(T)\rightarrow G)\) です。 なぜかというと、\(\lnot\Con(T)\) なら \(T\vdash\Con(T)\rightarrow G\) は証明する必要のない自明な式だからです。

 また、人間が知っているのはゲーデル文が真であることではなく、 その理論が無矛盾ならゲーデル文が真であることだという反論はちょっと微妙です。 この反論は嘘ではありません。しかし、例えばペアノ算術に話を限定すると、 ペアノ算術自身ではペアノ算術の無矛盾性は証明できないものの、 それ以外の方法でペアノ算術の無矛盾性は証明可能です。 そもそも、人間には意味論を使うことも認めていますしね。 したがって、現代数学の正しさを信じるならばペアノ算術は無矛盾です。 よって、ペアノ算術が無矛盾ならばという仮定を付けなくとも、 ペアノ算術のゲーデル文は真であり、人間はそのことを知っています。 つまり、人間とペアノ算術は同じではありません。

【余談】

 ところで、超形式的体系とその外側の意味論にまたがる定理とかは、 超形式的体系では証明できないので、超々形式的体系が必要になります。 さらにその上に超々々形式的体系があってと無限に続きそうな予感がします。 機械は、どこかで形式的体系を固定しないとだめだろうと思いますが、 人間なら形式化の階段をどこまでも登っていけるのでしょうか。 そうだとすると人間と機械は違うのかもしれません。

 でも、人間も実際には限界があるんじゃないですかね。 自然数にしたっていくらでも数えられるといいますけれど、 実際には人間に数えられる自然数の大きさには限界がありますしね。

【中国語の部屋】

 AI がらみの話題をもう一つ取り上げましょう。 知性とは何かという思考実験に「中国語の部屋」というものがあります。 詳細はググってみてくださいね。中国語の部屋によると、 チューリングテストだけでは知性は測れないということになります。 ここでチューリングテストとは、AI に色々質問してみて、 人間と見分けがつかない答を返すことができたら合格というテストのことです。 中国語の部屋にはいろいろ複雑な要素があって分かりにくいので、 ここでは大胆に簡略化して説明したいと思います。

 中国語で対話できる機械の仕掛けのことをチャットボットと呼ぶことにします。 チャットボットの実装として次のようなランダムつぶやきマシンを考えてみましょう。 ランダムつぶやきマシンは、入力が何であるかに関わらず、 真の乱数で決めたデタラメな文字列を応答として返すというものです。 明らかにランダムつぶやきマシンは中国語を理解していません。 ところが、ランダムつぶやきマシンはチャットボットとして完璧に機能するのです。

 そんなはずはないと思うかもしれませんが、これは事実です。 ランダムつぶやきマシンの使う乱数が真の乱数であるのなら、 チューリングテストを行ったとき、 たまたま対話が完璧に成立するように応答を返す確率は0ではありません。 つまり、入出力だけ見れば、 ランダムつぶやきマシンは完全なチャットボットとして振る舞い得るのです。

 いや、 チューリングテストを何回も実行すればデタラメがばれるだろと思うかもしれません。 しかし、チューリングテストの回数が有限回である限り、 ランダムつぶやきマシンが完全なチャットボットとして振る舞う確率は0にはなりません。 つまり、入出力の関係だけを見るのでは、知性とデタラメを区別することはできません。

 まあ、これには突っ込みどころがいくつかあって、 真の乱数など存在するのかという疑問があります。 人間がロジックで作ることができる乱数を疑似乱数と言いますが、 真の乱数は疑似乱数であってはなりません。 一応、放射性物質が出す放射線から作る乱数は真の乱数だと言われています。 本当でしょうかね?あるいは真の乱数があったとして、 真の乱数であることを確認する方法ってあるのでしょうか。 このあたりの事情が突っ込みどころですね。

 とにかく、このことから分かるのは、知性があるかどうかを判断するには、 入出力の関係だけではなく、実装の方法も考慮しないといけないということです。 ただし、これはあくまで思考実験による可能性の話であって、 現実問題としては、ランダムつぶやきマシンが知性的に振る舞うことなどありません。 したがって、実際には実装を確認するまでもありませんけどね。

 でも、ひょっとすると、我々が知性的なアルゴリズムがあると感じる実装も、 非常に大きなスパンで見ると、実はデタラメの一部なのかもしれません。 例えば非常に大きなスパンでは、コンピュータの誤動作が無視できないかもしれません。 そんなわけで、人類の営み全てが壮大なデタラメのごく一部なのかもしれません。

 さて、ここで中国語の部屋と不完全性定理の関係について少し考察してみます。 もし、チャットボットが中国語の意味論を完全に排除しているなら、 つまり、個々の単語の意味など全く知らないのなら、 これは構文論しか使えないということですから、 不完全性定理により、ゲーデル文の真理値について人間と同じには答えられません。 厳密には、選択公理を使って真の算術を構成すれば答えられるかもしれませんが、 そんなチャットボットは現実には作成不可能です。 したがって、現実のチャットボットがゲーデル文の真理値について、 人間と同じように答えられたのなら、それは言葉の意味を理解している証拠です。 つまり、意味論の一部を理解することに成功しているということです。

 ただし、カンニングペーパーを使うのは無しですよ。 カンニングペーパーを使えばゲーデル文の真理値について、 人間のように答えることができます。 ですが、カンニングペーパーは特定の質問にしか対応できないので、 当然、意味論を理解しているとはみなせません。 意味論を理解しているとみなせるためには、 様々な角度からの多くの質問に人間らしく答えられる必要があります。 しかしここでも、知性とデタラメが区別できなかったように、 有限回のチューリングテストでは、意味論を理解していることと、 たまたまカンニングペーパーの山が当たったことを区別することはできません。 まあ、現実には多角的なチューリングテストの山が当たることなどありませんけどね。 ちなみに、特定の質問だけではなく、 あらゆる質問に対応できるカンニングペーパーとは選択公理のことです。 選択公理って何?という人は次のセクションの余談を参照してみてください。

 オリジナルの思考実験の中国語の部屋は、 意味論を完全に排除した中国語の部屋が人間と同じに振る舞い得ると仮定しています。 つまり、 チューリングテストに合格する意味論を排除したチャットボットのマニュアルは、 選択公理を使うかカンニングペーパーを使わなければ作成できないわけです。 したがって、選択公理もカンニングペーパーも使わずに、 中国語の部屋が人間と同じに振る舞うことができたのなら、 それは意味論を排除しておらず理解していると考えるべきでしょう。

【神の非存在証明は可能か?】

 怪しげなタイトルに、 いきなり信仰にでも目覚めたかと心配になった人もいるかもしれませんね。 私は、個人的には神様はいるんじゃないかと思っています。 しかし、誤解のないように言っておきますが、 ここで言いたいことは不完全性定理による神の存在証明ではありません。 インターネットを不完全性定理について検索すると、 神の存在証明やら非存在証明やらがよく引っ掛かります。 でもね、不完全性定理って数学の定理なんですよね。神学の定理ではありません。 ここでは、 神の存在証明や非存在証明に不完全性定理を用いるのが無理筋であることを説明します。

 え?つまらない?不完全性定理を盛大に誤解して、 自らの宗教観を開陳するのがこの手の議論の醍醐味なのに無粋なことをするなって? そう言われてしまうと身もふたもないんですが、まあ暇な人だけ読んでください。

 まず、神様に不完全性定理を適用するには、 神様というシステムが不完全性定理の前提条件を満足する必要があります。 つまり、自然数論を含み再帰的に公理化可能で無矛盾なシステムなのかということです。 神様も計算はするでしょうから自然数論を含むことはまあいいでしょう。 問題は、神様は再帰的に公理化可能なのかということです。

 再帰的に公理化可能というのは、 おおざっぱに言ってコンピュータで計算可能ということです。 もう少し説明すると、必ず有限な計算に帰着できるということです。 つまり、有限な計算の繰り返しで到達できる範囲が再帰的に公理化可能な範囲です。 しかし、 曲がりなりにも神様と呼ばれる存在が有限の繰り返しの範囲に収まるでしょうか? 神様なら無限だって使い放題のはずですよね。 ようするに、神様が再帰的に公理化可能とは到底思えないということです。 この段階で、 もう神の存在証明や非存在証明に不完全性定理は適用できないことが分かります。

 この再帰的に公理化可能という条件は、 数学以外に不完全性定理を適用しようという人たちによく無視されるそうです。 まあ、気持ちは分かります。 他の条件が日常言語でもなんとか意味をくみ取れそうなのに比べて明らかに、 再帰的に公理化可能は何を言っているのか分かりませんよね。 分からないものはどうしても無視しがちです。 そういう私も数学の本を読むときとかよくやります。 後になって理解が進むと、何故こんな重要なものが見えていなかったのかと、 不思議で仕方がなくなるんですが。

 さて、あとはおまけみたいなものなのですが、 残る無矛盾性についても考察してみましょう。

 一部の宗教家や哲学者は、 矛盾という言葉の印象が一般人にとっては悪いものであることから、 神様は無矛盾であるとしたがるようです。多分、神様が無謬であると言いたくて、 同じようなイメージで無矛盾と主張するのでしょう。 しかし、神様に無矛盾性を期待するということは、 神様の能力に制限を加えることになります。 つまり、神様は矛盾することができないということになります。 これでは神様の万能性が否定されてしまいますよね。 詳しくは全能のパラドクスでググってみてください。

 ようするに、神様の万能性を信じるなら、神様は矛盾している方が都合がいいのです。 また、神様の矛盾は我々人間の矛盾とはスケールが全く違っています。 人間の矛盾とは言葉にした内容に論理的な一貫性がないことですが、 神様の場合、物理的現実そのものを矛盾させることができると考えるべきです。 つまり、物理的にはあり得ないはずのことを起こすことが可能ということです。 奇跡を起こすことができるのですからこれは当然でしょう。

 まあ、我々人間の論理から見て神様が矛盾しているように見えているだけで、 神様の論理では何の問題もなく、万能かつ無矛盾なのかもしれませんけどね。 2次元ユークリッド空間では平行線でない2直線は必ず交点を持ちますが、 3次元ユークリッド空間ではねじれの関係にあれば交点を持たなくできます。 つまり、次元などが上がると不可能だったことが可能になります。 神様は人間より高次元の存在でしょうから、 人間の論理では不可能なことも神様の論理では可能かもしれません。

 しかし、3次元のねじれの関係を強引に2次元に投影しても、 やっぱり交点を持つようにしか見えないでしょう。 つまり、高次元のものを低次元から見ても本来の姿は見えません。 何にしても、人間から見れば神様は矛盾していると考える方が無理がありません。 実際、宗教家の主張する神様が論理的に無矛盾だったことなど、 歴史上一度たりとてなかったでしょう。

 不完全性定理は人間世界の定理ですから、人間から見た判断で適用すべきです。 つまり、神様は矛盾しているとして不完全性定理を適用すべきです。 しかし、不完全性定理は無矛盾なシステムにしか適用できませんので、 ここでも、神の存在証明や非存在証明に不完全性定理を用いるのは無理筋となります。

 あるいは、矛盾はいやだから万能はあきらめるという人もいるかもしれません。 つまり、神様は人間を超越したすごい存在だけど万能ではないという立場です。 しかしそれでも、再帰的に公理化可能かという問題は依然として残ります。

 ちなみに、 神様が矛盾していることは決して神様に不利なことばかりではないんですよ。 宗教家は神様が完全であることを望むと思います。私もそうだろうと思います。 そして、数学的には矛盾している理論は完全なんです。 どうです、神様は矛盾していると考えた方が都合がいいでしょ? もっとも、極大無矛盾な理論は無矛盾かつ完全なので、 矛盾していなければ完全ではないというわけではありません。

 さて、ここまで読んでくださった方は、私が宗教家に好意的ではないことから、 私が不完全性定理を神の存在証明に使うことに反対していると思ったかもしれません。 もちろん、不完全性定理は神の存在証明に使えるようなものではありません。 しかし、実際により問題なのは、不完全性定理を神の非存在証明に使う人たちです。

 これらの人たちは、科学的・論理的な手法の価値を認めておきながら、 不完全性定理の前提条件を無視して議論しているように見えます。 それは全く科学的でも論理的でもありません。 不完全性定理の内容を理解せず盲目的に信仰しているだけです。 不完全性定理は神様の存在や非存在に関して何も語ってくれません。 前提条件が成り立たないからです。あえて言えることがあるとするなら、 神様がいないことは不完全性定理では証明できないということです。 ここで、私の宗教観を開陳するなら、 人間が神様に対してできることは、おそらく信じることくらいでしょう。

【補足】

 宗教家の中にも、 必ずしも神様が論理を超えた万能性を有するとは考えない人もいるらしいです。 また、哲学者や科学者の中にも神様の能力に現実的な制限を設ける人がいるそうです。 ひょっとすると、そういう人たちは、 神様を再帰的に公理化可能な範囲で考えているのかもしれませんね。 そうだとすると、そういう神様なら不完全性定理の対象となるかもしれません。 その場合、神様は形式的理論とみなせないといけませんが。

【余談】

 ところで、数学の中には不完全性定理よりよっぽど神様っぽいものがあります。 選択公理と言います。どんなものかおおざっぱに説明すると、 無限を使った数学的構造は有限な人間には構成不可能だけど、 神様ならきっと構成できるよねという公理です。 定理じゃなくて公理なので、もはやその正しさは信じるしかありません。 なんか信仰が試されてるみたいで神様っぽいでしょ。現代数学の中には、 選択公理を仮定しないと存在が保証されない数学的構造がたくさんあります。 もちろん、無限を使った数学的構造を作るのが神様である必要はないので、 無神論者の人とかは、 人間には不可能だが論理的には可能だという立場でも構わないわけです。 ですから、選択公理イコール数学は神様を必要としているというわけではありません。

 選択公理を使って作られる数学的構造の例には、先に紹介した真の算術があります。 真の算術は無矛盾かつ完全なんですけど、これは不完全性定理とは矛盾しません。 真の算術は再帰的に公理化可能ではないので不完全性定理の対象外なんです。

 他にも、暗号とかに使える真の乱数なども神様っぽいです。 決定論的アルゴリズムでは決して真の乱数は作れません。 人間に作れるのは、あくまで疑似乱数です。 電気回路の熱雑音とかひろえば真の乱数だろうって? そうですね、自然の中には神様が潜んでいるのかもしれません。 アインシュタインさんは神様はサイコロを振らないと言ったそうですが、 サイコロをサイコロたらしめているのは実は神様なんじゃないでしょうか。

 私が何故、個人的には神様がいるんじゃないかと思っているのかというと、 その理由の半分は、 選択公理とか真の乱数とか、人間には不可能な超越的なものを説明するためです。 もう半分は、初もうでに行くとマジで神様にお願いしちゃうし、 妖怪とかもいるような気がするし、 日本で新型コロナが感染爆発しなかったのは、妖怪アマビエのせいかもとか思ってるし、 まあ、そんなオカルトな理由ですけどね。

【神話に関する考察】

 私は自分のホームページを Google Search Console で分析しているのですが、 それによると、このページを訪れる人の多くが、 神様関連のキーワードから訪れているんですよ。 私はパっとした思いつきから神の非存在証明の話題を取り上げたのですが、 何だかこのままではコンテンツが足りないというか、左舷砲撃手、弾幕薄いぞ、 何やってる!というブライトさんの声が聞こえたような気がしたので、 少しばかり書いてみることにしました。これが神の啓示ってやつだろうか?

 まあ、既に語り尽くされた話題ですし、 どこかで聞いたようなありきたりな考察しか書けませんが、 枯れ木も山の賑わいということでひとつお付き合いください。

 私は「神様は存在するのか?」という問は科学で扱う問題ではないと考えています。 神様の存在が科学の問題ではないとしたら、神様をどのように考えるべきでしょうか? これから書くことには、科学の問題ではないと言いながら、物理学の話は出てきます。 しかし、私は物理学に関してはど素人なので、かなりオカルトなことを書くと思います。 自分でも知ったかぶっていると思いますが、 私は神様に関して以下のように考えています。

 我々は世界を観測という方法でしか知ることはできません。 これは、光を当てた反応を見たり、電子を当てた反応を見たりしているわけで、 コンピュータの話で考えると、 ブラックボックスの入力と出力の関係を見ているのだということになります。 つまり、世界のデバッガーなるものがあって、 世界のプログラムや内部状態をのぞき見ることはできないということです。 もしかしたら、神様なら持ってるかもしれませんけどね。世界のデバッガー。

 理論物理学者の人とかは、入力と出力の関係から逆算して、 物理法則という世界のプログラムを特定しようとしているわけですが、 それによると、世界を構成する究極の要素は小さなヒモなんだそうですね。 しかし、そうやって究極の要素が見つかったように思えても、 ヒモはあまりに小さすぎて直接観測できるわけではないので、 結局、ブラックボックスの入力と出力の関係を調べるしかないわけです。

 中国語の部屋のところで触れましたが、 入力と出力の関係を見るだけでは、 それが知的であるのか偶然というデタラメなのかは区別できません。 つまり、何者かの意思によるのか偶然なのかは区別できません。 中国語の部屋のところでは、知的であるかのように見えるものが、 実は偶然かもしれないと説明しました。しかし、これは逆に考えることも出来て、 我々が偶然と思っているものが、実は何者かの意思なのかもしれないわけです。

 たぶん、多くの物理学者は、 世界は物理法則に従っているが、なぜ物理法則が成り立つのかに関しては、 それは偶然に過ぎないと考えているのではないかと私は勝手に思っています。しかし、 世界をブラックボックスの入力と出力の関係でしか見ることができないということは、 物理法則が神様の意思なのか偶然なのかは区別できないのです。 こればかりは、神様が宇宙を創造している現場を現行犯逮捕でもしないことには、 確実なことは何も言えないでしょう。

 もし世界が偶然なら、 この世界を説明する唯一にして究極の法則は混沌かもしれません。 つまり、我々はたまたま我々がよく知っている物理法則が成り立つ時空間に居る。 しかし、その時空間の外側には全く違う物理法則やデタラメの世界が広がっている。 それだけのことなのかもしれません。

 あるいは、こんな風に考えることもできるでしょう。 偶然の中を生きる私たちにとっては、その偶然こそが神様の意思なのだと。 そうすれば、世界が今の姿をしていることが、 神様の意思なのか偶然なのかは区別する必要はなくなります。 つまり、私たちが今この時この場所に生まれたのは神様の意思であり、 私たちは神話の中を生きているのだと。 そして僕はひとり思うんだ。世界はなんて素晴らしいんだろう。

 What a wonderful world のパクリなのはバレバレでしょうけど。 実はこれ、 中二病でも恋がしたい!というアニメのオープニング Sparkling Daydream の 「同じ星に生まれたこんなチャンスほかにない」って歌詞の受け売りなんですよね。 ここまで引っ張っておいて、元ネタはアニソンです。ええ。 邪王真眼とダークフレイムマスターにより紡がれし暗黒神話に刮目せよ!

 オタクがひとりで盛り上がってないで、もっと簡単に説明してよって? むむ、そうですか。ならば誤解を恐れず大胆に行きましょう。 要するにこういうことです。

 大阪城を建てたのは誰でしょうか?そう大工さんですよね! 何をくだらないトンチを言い出すのか。 豊臣秀吉に決まってるだろと思うかもしれませんが、 神様の意思など存在しないと言う人は、 このトンチを言っているのと同じではないでしょうか。 確かにこの世界で起きることは、おおむね人間の仕業だったり自然現象だったりします。 これは事実でしょう。 でも、それって神様の意思ではないの?と思えば、そういう風にも解釈できますよね。 もちろん、この解釈は科学的に証明できるものではありません。 しかしまた、科学的に反証できるものでもありません。

 もう一つ、面白い思考実験を紹介しましょう。世界5分前仮説というものがあります。 世界は実は今から5分前に創造された。ただし、全ての状況証拠や人間の記憶は、 世界が百数十億年前にビッグバンで誕生したかのように神様によって捏造されている。 果たして、我々は世界が5分前に始まったことに気付けるだろうか?

 この思考実験は、不完全性定理に至る歴史のところで触れた、 ラッセルのパラドクスで有名なラッセルさんが考案したものです。 この人は不思議な人で、当然、論理学者・数学者だったのですが、 ノーベル文学賞を受賞していたりするんだそうです。

 つまり、科学的に考えると世界はビッグバンで始まったと説明できるけれど、 本当は神様が5分前に創造したのかもしれないということです。 もちろん、この仮説は科学的に証明できるものではありません。 しかしまた、科学的に反証できるものでもありません。 この屁理屈を使えば、 聖書とビッグバンの年代のずれを説明できるという人もいるそうです(^^; そこまで拘らんでもええやん。なーなーで OK でしょ。 と思うのは、私が日本みたいな無宗教な国に住んでるからなんでしょうね。 海の向こうじゃ、学校で教える教えないで大論争だったりするんだろうか。

 最後に少し脱線すると、 これって科学は真実を語っているだろうかという疑問にもつながりますね。 科学者が研究データを捏造して結論を導き出したら、 果たして、それに気付けるだろうか? まあ、大抵は追実験や他の理論との矛盾を指摘されてばれるでしょうけど。 理屈は間違っているけど結果は正しいとかだったら気付かないかもしれませんよね。

【いいわけ】

 いや、おじさん最近ね。鬼滅の刃とやらが流行りまくってるっていうから、 遅ればせながら、無限列車編からアニメを見たんですよ。 そしたらさ、煉獄さん死んじゃうじゃないですか。おじさん号泣ですよ。 えー煉獄さんが炭治郎くんを無敵の柱に鍛えてくれるんじゃないの?

 何の話をしてるのかって? いや、このページを読んでくれた人が、 鬼滅の刃のあるやり取りが不完全性定理に似てると感想を書いてくれたんですよ。 おじさんは新鮮な驚きと共に、 そうしたやわらかい感性の人たちとの心の距離を感じた気がして、 なんだか少しさみしい気持ちになりました。

 おじさんもあと30年若ければ、 鬼滅の刃で不完全性定理を熱く語れたのかもしれない。 しかし、50過ぎのおっさんはもう引き返せないところまで来てるんですよ。 だからこれからも進むしかないのよ修羅の道を。 金毘羅船々追い手に帆かけてシュラシュシュシュー。

 だから何が言いたいのかって? うん、感想を書いてくれた人がやっぱりこのページは難しいって言ってたんですよ。 不完全性定理のすごく簡単な説明とか期待して、 このページを訪れて、ちっとも簡単じゃないじゃないか嘘つきー! となった人にはごめんなさい。 でもね。大人はみんな嘘つきなんだよ。と、大人の私が申しております。はい。

【あとがき】

 さて、不完全性定理のための傾向と対策はお楽しみいただけたでしょうか。 最後に、私がインターネット上の不完全性定理について感じていることを、 取り留めもなく書き綴りたいと思います。

 不完全性定理をめぐる状況を観察していると、 科学に信頼を寄せるということの意味について考えさせられることがあります。 多くの人は科学は宗教と違って信頼できると無邪気に信じているかもしれません。 しかし、インターネット上に見られる不完全性定理に関する状況は、 その無邪気な期待を裏切っているように思います。

 もちろん、ちゃんとした科学者は、自らの主張を反証可能性という試練にさらして、 客観的な真実を追求していると思います。 しかし、例えば私のようなインターネットで適当なことを発言している人に、 そのような厳格な検証を期待するのは無理というものです。

 実際、インターネットでよく見かける不完全性定理の普及版は、 典型的にはこんな感じです。曰く「この世に完全なものなど決してない」 何だか何かの宗教の教義みたいに聞こえませんか?

 冷静になって考えれば、この教義がどこかおかしいことはすぐに分かります。 もし、この世に完全なものが決してないのなら、 「この世に完全なものなど決してない」という主張も完全ではないということです。 すると、完全なものもあることになってしまって文面と矛盾します。 しかし、多くの人が不完全性定理をこのように理解して、 *科学的*な考察を発表しています。 これが一般人の人生哲学レベルの話であれば、 固いことを言うなよで済ませられるんですけれど。 それなりの科学者が誤用していたりするところが、 不完全性定理の怖いところです。 つまり、伝統的な宗教の権威が下がった隙間を埋めるように、 科学という名前の新興宗教が普及していると見ることもできます。

 こんなことを書くと、まじめな科学者の皆さんから、 そんなデタラメは素人が勝手にやっていることだ我々と一緒にするな。 おまえに科学を語る資格などないと怒られてしまうかもしれません。 しかし、そうした中核の科学者への信頼が厚ければ厚いほどこの問題は深刻になります。 実際、不完全性定理を証明したゲーデルさんへの一般の評価は極めて高く、 アリストテレス以来の天才と言われています。不完全性定理周辺のひどい状況は、 このゲーデルさんへの厚い信頼が一因となっているのは間違いないでしょう。

【追記】後から読み返すと、上記は全般的に煽りすぎですね。 私が参考にさせてもらったまともなWebページもたくさんあったのに。 しかし、私がひしひしと感じたことをお伝えするためにそのままにしておきますね。

 まあ、科学理論が誤解を受けるのは仕方のないところもあります。 例えば、 私が不完全性定理に興味を持ったのはかなりミーハーな理由です。 不完全性定理を極めれば異次元への扉が開くかもしれない。 そんなノリで不完全性定理を勉強し始めたのも事実です。 当時の私が書いた不完全性定理に関する文章には、 ウルトラマンがどうのヤプールがどうの異次元がどうのと、 中二病というか黒歴史というか、 対角線論法で矛盾が出るあたりが秘儀というか異次元への扉だったな。 初学者がこんなノリなのは仕方がないでしょう。 ただ、私の場合、異次元への扉が開くだけでは満足できなかったので、 いろいろな入門書をはしごして、何とか今の解釈にたどり着きましたけどね。 「この世に完全なものなど決してない」 も不完全性定理の神秘に魅せられた中二病ですが、 これもやむを得ないところがあります。 宣伝する側も理性の限界とかさんざん煽ってますからね。 こうした誤解が生まれるとしても、 初学者を引きずり込むためには、科学の持つ神秘的な魅力も大事ではあるんでしょう。

 ちなみに、初学者とは必ずしも若い人とは限りませんよ。 例えば経験を積んだ科学者でも、自分の専門外のことについては立派な初学者です。 私と同じように異次元への扉を開こうとしたとしても不思議ではないでしょう。

 ならば、現状をましにするにはどうしたらよいんでしょう。 話を不完全性定理に限って考えると、私の経験では、初学者向けの解説で、 不完全性定理と真の算術をセットで解説するようにすればいいのではと思います。 真の算術は無矛盾かつ完全で、不完全性定理の例外になっています。 少なくともこの例外を知っていれば、「この世に完全なものなど決してない」 に端を発する様々な誤解を防止できるのではないでしょうか。 え、プレスバーガー算術が完全でもいいだろって? それだと自然数論としては弱いでしょ。

 しかし、不思議なことに、不完全性定理の入門書やWebページで、 真の算術に言及しているものはそれほど多くないんですよね。なんでだろ。 (訂正。私の探し方が悪いだけでした。たくさんあります。 あまり初学者向けのものは無さそうだけど)

 後は、私みたいに異次元への扉を開く段階は無事に通り過ぎた学習者が、 高い志を忘れずに情報発信していくことですかね。 中央にいる教祖様がいかに立派でも、 辺境の村々で実際に村人に説教をするのは一介の坊主の仕事ですからね。

 私のホームページは間違いは多いし、 勝手な独自理論もあるので、正しい啓蒙には程遠いですが、 それでも、異次元への扉を開くよりはましなことは書いてあります。 皆さんも参考程度と思って読んで、自分で検証してくださいね。

【追記】「異次元への扉」でググってみたら、 そんなタイトルのまじめな数学の本が(^^; いやあ、スキのない文章を書くというのは難しいですね。 本気で異次元への扉を開いてみたい人は是非 こちらへ どうぞ。