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宇和島ヨットクラブのルーツを探ってみました。画像、資料は1983年舵、セイルによるものです。
宇和島のヨット乗りのルーツがここにある!宇和島ヨットクラブの歴史は自作の歴史でもある!
宇和島ヨットクラブ゙のルーツは、「宇和海ヨットクラブ」にはじまる。宇和島のヨット乗り=自作者(当時はヨットに乗るには自作するしかなかったのである。)で、自作者を中心に16人が集まり、宇和海を帆走するのだから「宇和海ヨットクラブ」と名前も決まり、宇和島の地に初めてヨットクラブなるものが誕生したのである。昭和47年4月のことである。(部分的に登場人物の氏名の敬称は省略しました。)
宇和島市内に住む3人の青年(上甲 弘氏・・・上甲家具)(佐藤完治氏・・・ドックでお世話になっている佐藤造船)(松田秀雄氏・・・松田造船)があいついでY-15の自作艇を完成させた。3人ともお互いに顔も名前も知らなかったという。
- 昭和40年 佐藤完治 Y15自作、進水
- 昭和41年 上甲弘 Y15自作、進水
- 昭和43年 松田秀雄 Y15自作、進水
3人はそれぞれ自作艇のY-15でひんぱんに海に出た。何度も海上で顔を会わすうちに、3人は自然と声を交わすようになる。 |
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昭和43年、佐藤完治氏が次の艇、キングフィッシャー級の自作を開始する。何しろこれが完成すれば、宇和島に初めて浮かぶクルーザーということで、けっこう地元では話題になり、見学者もかなりあった。このキングフィッシャー[青嵐]は、翌年の昭和44年に進水、美しくしっかりとしたできあがりだった。佐藤完治氏は当時23歳の若者であった。この艇は高松の方へ譲られた。 |
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佐藤完治氏のキングフィッシャーの姿は、宇和島の自作愛好者達を刺激し、彼らの間に自作熱が高まった。昭和45年前後から、あちこちでクルーザーの自作建造が始まった。上甲弘氏の横山25、上甲龍之典氏のキングフィッシャー、石丸兄弟のK20などがそれであった。ディンギー自作も新しい人たち(徳田文昭氏、梶原哲夫氏、加藤勝延氏など)が手をつけはじめた。
- 昭和44年 石丸氏 ミラーディンギー自作、同年進水
- 昭和44年 上甲 弘氏 横山25自作開始、昭和51年に進水
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昭和44年から51年にかけて、上甲 弘氏が建造した(雲華)横山25。
木造完全自作、その後、艇名はオイツカミとなる。 |
- 昭和45年 石丸兄弟K20自作開始、昭和47年進水
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石丸昭治氏、順一郎氏兄弟が作ったガイアナT(K20)ハルは合板の上にFRPコーティング。 山へ木を切りに行き、ただでもらったヒノキをマストにしたが、フシがいっぱいある間伐材だった。 のちに高知のヨットグループに売却 |
- 昭和45年 上甲龍之典氏グッピー自作、進水
- 昭和46年 上甲龍之典氏キングフィッシャー自作開始、昭和47年進水
- 昭和46年 松田秀雄氏自設計33ft自作開始、昭和59年現在未完
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松田秀雄氏が昭和46年からとりかかっている自設計33ftのバウスプリット。FRPのハルを簡易メス型からぬくまでは早かったのですが、デッキ、内装などを作るだんになり、どんどん変更を加えて行ったため作業ははかどらず12年も たってしまった。その間、家ができたがバウスプリット優先で、ご覧のとおり壁に穴を作った。
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- 昭和46年 徳田コテンダー自作開始、昭和49年進水
- 昭和46年 加藤、梶原FC自作
(陰の声・・・皆さん力入ってますよ。このパワーの源はなんでしょうか。私は受験勉強も手につかず、何をしようか悩んでいた頃です。当時は、中古艇を買って乗ろうという現在のような手軽さはなかったんですねえ。偉い!) |
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昭和47年4月、セーリングクラブを作ろうということになり、(もっとも、宇和島のヨット乗り=自作者という図式しかなかった。)自作者を中心に16人が集まった。宇和海を帆走するのだから「宇和海ヨットクラブ」と名前も決まり、ここに宇和海ヨットクラブが誕生した。初代会長は、10年近く南氷洋でくじらを追いかけていたこともある石丸昭治氏であった。 |
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このあと、ディンギー、クルーザーの自作熱は衰えることを知らず、何杯もの自作艇が海に浮かぶようになる。上甲龍之典のK25、加藤、梶原OKディンギー、石丸兄弟のK30などである。
昭和48年、泊地を何とか確保しようということになり、宇和島市大福浦に土地を借りた。ここでもメンバーみんなの自作の腕が発揮され、30uのクラブハウスと、5tクレーンを作り、ディンギー置き場を整地する。半年でホームポートが完成。活動も活発になり、毎週、クルージングやクラブレース、飲み会、ヨット教室などイベントを行っていた。
昭和52年頃から、ホームポートの地主とのトラブルや、メンバーの仕事の制約から、クラブのディンギーのほとんどを売り払う。クルーザーの泊地も吉田町や津島町へ移動。
- 昭和47年 上甲龍之典氏K25自作開始、息抜きにカヌーも自作、昭和58年進水
左(瑞鶴)建造中2週間で作った自設計カヌーと上甲氏、右 進水し宇和島市三浦に浮いている瑞鶴(K25)
(陰の声)・・・そう言えば、家の近くの海にあったなあこの瑞鶴(K25)、自作艇とは全く知りませんでした。
- 昭和48年 クラブハウス完成
- 昭和48年 加藤勝延氏、梶原哲夫氏OKディンギー自作
- 昭和49年 石丸兄弟K30自作開始、昭和50年進水
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石丸兄弟のガイアナU(K30)
FRPのハルを買ってきて、デッキ、内装を自作した。 |
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まさに、宇和島ヨットクラブ(宇和海ヨットクラブ)の歴史は、自作の歴史でもあるのです。
昭和58年現在のクラブの状況は、クルーザー12杯、クラブ員約30人というメンバーである。メンバーの中には、WSFの中四国チャンピオンもいれば、WSFのインストラクターもいる。中には、自腹を切ってOPを4杯購入、宇和島ジュニアヨットクラブを作った人もおり、それぞれ宇和海を味わい、楽しんでいる。毎月のミーティング(飲み会)のほか、オールシーズン最低月2回は乗っていて、整備とデイクルージングのほか、八幡浜、三瓶グループとの交流レース、九州の別府のグループも交えて、日振島(海賊、藤原純友の根拠地として有名)でのミーティングを行っている。
昭和58年のメンバー(敬称は略)
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現会長、毛利征二氏 トリマラン40ft はる風自作開始、平成6年?進水。何しろ、今でも言われていますが、毛利氏の奥様は進水式までヨットを作っているのをご存じ無かったとか・・・・。
(陰の声・・・そう言えば、南風Uの泊地の無月漁港付近にしばらくあったなあ。建造にはだいぶ苦労されたんでしょうね。苦労話は直接聞いて下さい。おもしろい話が聞けるかもよ) |
第1回宇和海フューチャーカップヨットレース(愛称:明浜レース)を開催 |
第1回宇和島パールカップ宇和島市長杯ヨットレースを開催、初代会長体調をくずし、2代目会長に、毛利征二氏就任
クラブ名を宇和島ヨットクラブと改称する。 |
宇和島ヨットクラブの歴史は、まさに自作の歴史でもあるが、クラブレースもさかんである。その仕掛人が宇和島ヨットクラブ事務局の徳田文昭氏である。宇和海で行われるレースの仕掛人は、今もばりばりの仕掛人で、独自のレーティングでレースを仕切っている。
1983年セイル5月号より
理髪店の若ダンナ、徳田文昭さんは、宇和島だけでなく、宇和海のレースの必殺仕掛人。かなり、ユニークな徳田式レーティングの考案者だ、このレーティングは過去のレース結果により各艇のハンディを決め、さらに風によって大型艇有利、小型艇有利が出ないように風速によって微、中、強の3段階に分けてレーティングを用意している。もちろん、これらは全て徳田さんの独断と偏見で決める。みんなにトロフィーを行きわたらせるために考え出されたルールだ。
このルールで前回のレースキャナル19がK30に着順で勝ったが修正で負けるというおもしろい結果が生じることとなる。なんとあたたかみのあるルールだろうか。フィニッシュを途中の島にして上陸し、浜で宴会を始めるというのも、またあたたかい。
三瓶ヨットクラブがある三瓶港まで機走で約3時間とかなり近いので、毎年宇和島と三瓶とで交流レースもやっている。八幡浜からも来るので10艇前後のエントリーになる。
宇和島で行うときは、赤松をスタート。沖の浮標を反クロックでまわって来るコース設定だ。もちろん本船航路なのだが、保安庁の許可は得ているとのこと。許可を得たコミッティーも、許可を出した保安庁も”エライ”と言い切りたい。
各レース艇のレーティングは彼の胸先三寸で決められるため、シンセイにしておかすべからず。
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