白梅
成15年の2月も終わる暖かい日に是竹(高松市鬼無町是竹)の家に行った。この無人の家に来るのはまことに久しぶりであった。ところがこの日、家の北東部、鬼門の方角に見事に咲いた白梅を発見して驚いた。昨年には、雑木だと思って、機会があれば抜いてやろうと思っていた邪魔な樹が、実は父が生前植えてくれたと思われる、この美しい白梅の原木だったのである。  小さな庭のある是竹の家は、十数年前に、鬼無町佐料の実家に近く、手ごろな値段ということで、父の強い勧めで購入した家だった。私の妻はあまりこの田舎に俗する家の購入に乗り気ではなかったが、しぶしぶ賛成してくれた。しかし、それから数年たっても、この家に移り住むことはなかった。妻は2人の子供の教育があるからといって、手ぜまになった番町の借家に強引に住み続けていた。その妻は、急病で平成4年12月31日午後10時16分に死亡してしまった。まさに除夜の鐘を聴きながらの野辺の送りであった。  途方にくれた私と中学1年の娘は、この家から500mほど南の私の実家に、やもめと難しい年頃の女子中学生としてやっかいになることになった。中学を卒業した息子は松山の私学の高校に合格し、寮生活を送る別居生活となった。  それからは、是竹の家には時々、500mほど離れた佐料の実家の父が、室内の風通しと、猫の額ほどの庭に、趣味の花や観葉植物などを植え育てるのに月に数回、自転車で通っていた程度であった。父が腰を痛めてからは、自転車の荷台に、小さな庭の、手入れ用具一式を段ボール箱に積み込んで通った。  その父も昨年、平成14年5月17日夕刻に88歳の天寿を全うして他界した。彼は、実際には血圧が高いのに、「俺は低い」と頑固に主張して、辛いものを思う存分食べ、左大脳半球と脳室に超大量の出血をきたし、2日と4時間の後に天国へ旅立ったのであった。父は、他人にはわからないようなところで自分の体の状態を把握し、軍人(彼は大東亜戦争で終戦時に善通寺丸亀に駐留していた陸軍憲兵准尉であった)だったとき心得で、醜い姿は後世に残さないという理由で、合法的に塩分によって自殺を遂げたかのようであった。今でも陸軍中野学校の訓練中の写真や、戦時下で丸亀のどこかで憲兵である父が馬上から交通整理(青柳号という名前だったと記憶している)をしている白黒写真が残っているが、その写真のごとく、まさに昔の武士道の王道を歩くような死に方であった。彼は戦後、昭和22年の東京裁判で、GHQにより公職追放になり、われわれ一家は途方にくれる生活になった。  私は毎年B5大の帳面を父にプレゼントしていた。かれはその帳面に、お気に入りの万年筆で日記を付けるのが習慣であった。当然、私を含めた家族も彼のこまごまと記載競れた日記の存在を知っていた。  彼は2002年5月17日の夕方になくなったのであるが、告別式の当日、納棺のときに入れようと思っていた20年以上にわたる大量の日記が見当たらない。数ヶ月前に彼は死の兆候を察知し、徐々にたまっていた日記を焼却炉で焼き尽くしたのかもしれない。  それにしても死してからメッセージを残すとはよく言ったものである。この白梅は、これからは父の身代わりとして、この家を守って、毎年この時期に見事な花を付けてくれることであろう。日記は意図的に処分して残さなかったが、この白梅を、自然を愛するすばらしさを、このような風流な形で息子に残した彼は、まさに当地、鬼無の園芸の元祖、鬼無甚三郎半山南郷の孫としてふさわしい人物であったことを再認識させる見事な一生であったことを再認識させる驚きであった。今は娘の息子も自立しようとしている。彼らの前途を必ず父が見守っていてくれることであろう。 自然界を見渡すとき、人為的に作られた生き物と自然に作られた生き物を区別する時代が来るのであろう。  

物質の認知に関して
しい科学とは、さらに、「もの」の認知とは
私は、鏡にものを映し、自分の丸い眼球レンズで鏡の虚像を見ると「実像とは左右だけが逆になって上下は逆にならない」という訳がいまだに不思議でならない。解剖学で習ったdecussatioで神経が交差しているからだというがよくわからない。本当は「学習という行為で、上下の逆転を補正しているのではないか」といまだに疑っているほどである。 『認知するものと存在するもの、自分と他人における認知の違い』  現代人の多くは自分で認知するもの以外のものの存在を肯定したがらない。幽霊しかり、電磁波しかり?いや電磁波は測定器ができているので近世では存在を否定する人はいないでしょう。このように、自と他において、お互いに肯定したものを、普遍的なこの世に存在する「物質」というらしい。何故なら彼らは自ら「認知し得ないものの存在を肯定する」という事は「自らの認知能力の無力さを暴露することにほかならない」と勘違いしているからである。しかし人体で感じるものには限界がある。例えば大きな世界、小さな世界、透明な世界、抵抗を感じない世界は存在するにもかかわらず、多くの人体で同様な感覚で感じ取るには困難な世界である。さらに眼耳鼻舌身意で感じ取る世界には限界があるということを認識して、物事の存在の有無を判断しなくてはならない。自分が感じ取っている存在物と他人が感じ取っている存在物の間には認識または記憶方法に大きな隔たりがあることを常に考えて認識物の共通化をしなくてはならない。それでも多くの人々の間で、ある物の存在を共通の話題として認識しあえたように話し合えるのは、ひとえに幼児期からの学習という洗脳作用による賜である・・。  物の存在を公平に認識する事は、現在まで我々が周囲から学習により享受した知識なる既成人間約束協定を破棄する前操作が必要である。常識とは恐いもので、たとえば、アマゾンのセルバスのジャングルに紛れ込んで先住民族に出合い、愛想笑いの顔をしただけで、それではと、煮て焼かれて食われた探検家も多いと思う。先住民族は、現れたヒトを愛したが故に、最高の敬意を持って、嬉しそうな顔を食べて自分に同化するのかもしれない。先住民族の世界では、われわれのような俗世間で教えこまれたような常識は通用しない。未来科学は、人間が今まで学び取ってきた五感により認識する科学を、一部または全部否定する科学、また否定されている世界を肯定するものかもしれない。  我々の体で感じえないものを含めた森羅万象の存在を考えるとき、哲学的、宗教的な考え方を導入すると容易かもしれない。森羅万象は相反する世界の集合的相補的概念であって、すべてのものは色(しき=色とりどりのもので森羅万象の事)であり空(くう=この世界を支配する超次元のもので宇宙のようなものの事)である。目に見えることは、目に見えないものが見える物の中に存在するという事であり、だから「そこにものが見えるという事は、そこにほかの目にみえないものがあるいうことも否定し得ない」ということであろう。好きなものは、すきでないものが混ざっている事が普通であって、うれしいことは、うれしくないものが混在していることなのである。般若心経の集合的な考えは具象のみを追求する現代科学の欠点を見事につく統合された思想哲学であり、2000余年にわたり人々に支持され続けてきた考え方で傾頭する。私は仏教徒であるが般若心経を第一に唱える真言宗ではない。でも般若心経の考えには少なからず傾倒している一人である。  我々の五感の能力は時間的なものに関しては微力である。ただ大脳という器官のみが認識をある時間、維持する事ができる高次元の力を有する事ができる。時間という、操りもできず、規則的でなければならないものを、勝手に我々の都合で決めたのが悪かったのかも知れない。しかし時間を規定することにより、物の順序が決まりすなわち混沌(kaos)から秩序(order)が生まれ、整理とか序列化という操作がなされ、比較対照ができる現在過去未来の3つの概念ができてしまった。それは時間と光の相関関係がなければ、われわれはものを認識することができないための不可欠な前処理だったのであろう。  時(とき)という概念が生活に及ぼす影響は多大である。ある現象を視覚で把握しようとすれば、この瞬間に認識しうる対象は視野の「ほんの一点の目に見えるもの」に限られてしまう。厳密に対象を認識する事を考えたとき、対象物の一方を確認してさらに他方を確認しようとすれば、もう、その瞬間の環境は過ぎ去っており、全く違う瞬間の環境になってしまうのである。だから、誰一人として、視野の及ばない2点間の同一時点でのその出来事の単純比較さえできないのである。これほどまでに五感というものはわれわれがつくった時間という観念に対して無力なのである。ましてや再現性のない事象に関しては、現代科学はたとえそれが真実であったとしても、それは根拠にかけるという事で嘘ということになりこの事象は否定されてしまうのである。再現性という言葉自体、時間を度外視した、非科学的用語と考える。時間の再現に事象の再現を加えて較正しなければ、本当の意味の事象の再現ではないのである。事実が異なった時間で全く同じ視覚で認識できる形で起こらなければこの事実は否定されるのである。さらに今の科学では、その事実が全員に近い大多数によって確認されなければならないのである。これを今の科学は『一般的、非芸術的』と称して『特殊的、非科学的』な要素の多い芸術と区別している。この一見常識的にみえる科学の普遍化が実は文明の進歩を大きく閉ざすものであるかもしれない。かなりの確率でそれは新しい考え方を摘み取る事実であると筆者は考える。  それでも我々の精神・知能はこれ程までには時間に対して無力ではないこともある。それは現代科学が、時間と言うものを神様のように祭り上げたことによる人為的要素がかなりわれわれの思考過程を組み立てる知能に入り込んで思考の発達を妨げているといえよう。  現代具象科学の成立ちは4次元からなり立っている。第一次元として点がある。このときこの点を規定する他の要素として漠然とした時間という概念がある(この時間が自由に操作できれば第四次元の世界が形造られるのであるが・・・)。第二次元として、点があり時間とともに動く。これが線である。第三次元は曲線でも直線でもよいがこれらが自由に変化をしながら時間とともに動くと、空間が閉鎖しているにしろ開放しているにしろ立体が形作られる。漠然としていた時間の要素を正確に加え四次元といえるであろう。現代科学は視覚による四次元の見地から物の存在についての確認が基礎となって成り立っている。これは実像を眼または耳で認識する学問であるので、認識に当たっては物体が放つ光速と認識する事象における時間が深く関与する。時間を度外視する思考過程の科学は社会混乱を招くという理由で禁止される。立体認識のやりかたは、我々に近い一端の点を視覚はまず認識し、その後で我々に遠い一端を認識しようと線をたどるように求めていくのがやりかたである。一端の点から他端の点に視覚を移している瞬間に、追いかけるべき他端は時間の影響をうけ、もしこの立体が光速で遠ざかるような運動をしているような場合であれば、遥かかなたに遠ざかりあたかも無限遠にあるように見える、いや、認識できないので見えない。一端が近くにあるのに他端が無限大の距離にあるのであるからその立体の質量は無限大になる(ようになる)。うつろな無限大の質量?! 目に見える物ではないが、たとえば引力とはなにか? 物が存在したがいに影響し合う力とはどのようにして存在するのかという疑問にたって解決した結論は、アインシュタインによれば、引力とは光のような物ではなく、存在による空間のゆがみに影響されて存在する力であると結論づけた。なんとも摩訶不思議な結論ではあるが、相対性理論、空間の歪みの提唱発見のきっかけとなったこの疑問は単に「引力または斥力が働くとき、対象となる2物体が存在したときにすぐに働くものであるか?それとも光とか音のようにある時間を要するものであるか?」であった。アインシュタインはこの力は即座に働き、単なる空間のねじれで生じる現象で力とは異なるものであると提唱した。簡単に言えば、引力とは互いの物質が存在するとき、何万光年離れていても、存在していることのみで即座に働く力なのである。 引力をどう感じるかに話を移そう。我々において、見えもしない、聞こえもしないのに「モノの気配を感じる」というのはよくあることである。視覚でもなく聴覚でもなく触覚でもなく、体のどこで感じるともなく、モノの存在を感じることがわれわれにはあることは、否定しがたい事実であろう。対象物の存在は目にも見えず、音でも聞こえず、振動(これは周波数の低い音波そのものなのだが)でも伝わってきてはいないが、われわれはこれを認識することがある。場合によっては、これが引力、モノが存在するためにすぐに働く力、ヒトにおいては感覚器がないために、「第六感」と呼ばれているものかもしれない。そこには微力ながら、対象物と人体との間に働く力を、体内の何かが認知しているからに違いない。この種の力で大きなものは、地球と人体に働く重力である。重力は体内のどこで認識するのであろうか?血管の圧受容体?内耳の三半器官?脳の圧縮具合?だろうか。なかなか体内の知覚器に関しても不明な点が多く、体外の情報を如何に認識し処理するかは個人間で異なっているのかもしれない。霊感のあるヒト、ないヒトなどの差もそれが原因なのかもしれない。  ところで、個人個人で持っている時間の進み型はそれぞれで異なっているのは科学では常識となりつつある。個は、当然ながら独自の時間尺度をもっている。たとえまったく同じ時間尺度を持っていたとしても、平地と高地での時間の進み方には個の速度が多少なりとも影響し、高地のほうが時間の進みかたが遅いのは周知の事実である。速度ではなく引力または重力も時間に関与している。引力または重力が強く働いている平地での時間の進みかたは引力が強く働かない高地での時間の進み方に比べて遅いことが知られている。速度と引力の影響による時間の進み方の差が、個々の時間差になってくる。この些細な出来事、は何万分の1秒を問題にしなければならないような宇宙関連の場合に、設計ミスの原因となるらしい。もっと卑近な例では、原子が光に近い速度で運動していると原子の寿命は外部からみると延長する。このことを利用して半減期の短い放射性同位元素の保存に用いる。最近ではあまり好まれなくなったが、放射性同位元素による測定および治療手段としての同位元素のエネルギーの保存として、半減期を延長するための手段としての有名な装置「サイクロトロン」という手段で用いられている。 Aが「Bは優秀なひとだ」というのを聞いて「AはBよりもっと優秀だ」と理解する。なぜなら、Aが、Bを優秀であると評価するには、AはBよりもっと優秀でないとできないから。 このように、ものの認知、評価というものは理屈ぬきで難しいものだと考えているのが私の本音です。それでも認知とか評価というものは、ヒトが生きていくうえでは必要不可欠なものなのですから、生きていくことは難しいことのように思えます。そういう私は、認知、評価ということは、あいまいにやることの多いアナログ要素の多いファジーな人間と認知しているのであります。 

進化と分化と文化
【プロローグ】成3年の梅雨は、予想にもました『快晴』という置きみやげを残して7月19日の水曜日に日本列島から去って行ってしまった。半日で外来診察というくたびれる勤務の終わった私は、一人で東讃の有名な遠浅の海岸に梅雨というベールをはぎ取られた新品の真夏を見つけにでかけていった。煩わしいポロロンと鳴る電話の音とピーピピピーと体の近くでわめくポケットベルから開放されて、海辺で海岸の風景を見ながら砂浜と沖の間を往復する若者の生気を吸収して残された半日をのんびりと過ごそうと思ったのである。  目的の海岸で目的に適したポイントは砂浜に近い松の木陰であった。キャアキャアと若者が海水浴に興じる声と周期的に繰り返される潮騒を子守歌として、私は軽い眠りに陥ってしまっていた。その状態で数十分たっただろうか。ときどき我にかえる私の眼は周囲を虚ろに眺めていた。少し尻の辺りの焼けた砂が熱いが、その他の部位はなんとも気持ちのよい昼下がりではないか。適度の塩っぽい浜の香りと湿度を含んだ浜風がやんわりと私の顔と髪を撫でていく。 ときどき、私の若かりし時代の海岸での思い出を呼び起こすかのように過ぎていく何物かの気配がある。なんだろう。なんとそれは私の居眠りしている砂浜のすぐ眼の前を通り過ぎるまばゆい純色の水着姿の女性が無意識に私に落とした影だった。私ははっきりと眼を覚ました。さらにわくわくするような気持ちでバッチリ眼を開いた。彼女の長い足を見た解答は「格好いい足だなあ」のつぶやきと、若さとは縁遠くなってしまった女房の短い足に対する恨めしさであった。数分後に今度は反対方向から別の若い女性が海から上がったばかりのみずみずしさをみなぎらせて私の前を通りかかる。美形としか表現のできないように完璧に成長した彼女のスタイルの高いところにある腰の線を認めては自分の長い胴と比較してみる。「脚の長さも、外人さんと変わらないようになったもんだ」と驚嘆とも諦めともつかないため息を自分のやや出っぱりかかった腹にもらしてお互いに慰め合う。
【本論】日本人若者の体型が西欧化している現象は私のような中年にとって奇異とも思えるし外国との交流の自然な結果として見流すこともできるであろう。ともあれ現代の若者の脚が中年のそれに比べて長くなっているという事実は、我々の頭の中に素直に浸透している常識ではなかろうか。  一方、病院でときどきまじめに?患者さんを診察していると、若い男女にアレルギー性鼻炎、アトピー性皮膚炎の多いのに気づく。いままでアレルギーの症状のなかった中年の男女までが鼻炎に苦しみだした事実を認めることもある。別に私はクームス・ゲルの分類における1型アレルギー専門医でないので、上記の様な疾患に対して深く言及する能力も権利も持たない。だがこれらの現象がしめす人類に対する警鐘、我々に課せられた宿題をなおざりにはできないという思いでいまペンをとっている次第である。  私の知る限りでは、そもそも免疫とは自己と非自己(異物)を認識し排除するように巧妙に生体に備えられた防御機構である。この異物は目に見えるものであってもよいし音や湿度や雰囲気やストレスのように目に見えないものであってもよいようだ。  ところで、生体は現在までのわれわれの祖先が築いてきた環境に適合するよう分化している。特に日本は周囲を海に囲まれたせいもあり日本独特の文化が花開き我々はこれに同化して日本人としての進化、分化をとげてきた。日本人の生体は着物・正座・米飯・下駄という日常生活を学習することで日本人特有の生活習慣とそれに順応する肉体を備えてきたということができよう。理屈っぽくいえば、つきなみの環境刺激に対する学習が生体の免疫を発動しそれらの刺激を処理する力を蓄えてきた。ただしこのような機構が働くのは刺激の種類が少なく緩徐な場合である。生体に対する刺激が大または種々雑多になると、生体は免疫異常反応(allergy)・・それは過剰反応(hypergy)と無反応(anergy)なる二種類の相異なった異常反応を意味する・・を示すことになる。そして近年の大気、土壌、食物なども含めた生活環境の急激な変化が人類の免疫機構に重大な変化を与えつつあるように思われる。  我々の生活環境の急変は130年前の4隻の外国船の浦賀沖への渡来に始まった。船団を見た三浦半島久里浜港付近の住民はあやしげな黒いものに一種の過敏反応をも越えた麻痺反応を示したであろう。米国使節団は強引に日本に鎖国の解除並びに外国船の安全を守るための主要港開港という確約を取り付けた。外国文化による日本封鎖の強制撤去である。それまでの日本は外国との交流は非常に疎遅であり島国独特のいい意味での島国体質ができつつあった。この時代の日本人の生体(いや現在の生体もそうであろうが)はのんびり環境に対して反応するようにつくられ、かような機構を持った日本民族が淘汰されて子孫を繁栄させていたと思われる。そこに異物文化の急速な流入である。食物住家衣類の流入、見慣れぬ習慣の移入。動植物の貿易も始まった。船倉に落ちていた1粒の小麦が実を結び、花の種子がブタクサと化した。西洋スギがいたるところに植林され芽を出した。百年後には大きな幹となり充分な花粉をばらまく。新しい機械、電気も全く異質のものであった。この時期から日本人の生体は急峻な社会変化に順応していけなくなり始めたようだ。  現代においては事態はもっと深刻である。現代は明治維新にもましてより刺激の数が多く強大である。多人口。多ストレス。速スピード。さらにはフロンガスによるオゾン層の破壊と透過紫外線量増加による生物内変質DNAの出現増加、乱獲による食物連鎖の破綻、無節操な建物の乱立による大都市の砂漠化、森林の伐採後の緑地の減少による炭酸ガス濃度の増加と地球温度の上昇など自然現象の変化も非常に多様である。地球単位で考えると自然現象は数十年前と比較して確実に北に移動している。温帯であるべき日本南方に熱帯低気圧が発生する。台風が北海道を直撃する。確実に今の温帯が熱帯化してきているのだ。  我々の生体の免疫機構は今までに祖先から学習してきたものが基礎となっている。しかし現代の刺激は今までの我々のファイルにはない新しい即刻変化する刺激が主である。ゆえに我々の体はそれらの刺激にまともに反応する物質も常備しないし常備する抗体を産生する暇もないのが現状であろう。抗体ができあがる前に抗原である刺激の方が変化している。この現象は、まるでエイズ抗原と抗体のいたちごっこにも似ている。挙げ句の果てには、急激な変化をする刺激に生体が対応する際に、過剰反応・無反応となる以外に、免疫監視機構そのものをみだしてこれらの調子を狂わしてしまう可能性がありうる。  免疫監視機構の変調は、生体に無用な有害な物質が侵入発生した場合に生体が早期にこれを見つけ自浄する作用が弱まる、という深刻な現象を意味する。それは今日から将来において生体の異物認識力の低下、自浄作用の低下、行き就くところは悪性新生物を増加させる可能性を意味する。なぜなら現在の生体内で悪性新生物の発生が非常に限られているのは、変異細胞を早期に免疫監視機構がキャッチして処理するからと考えられている。悪性新生物の発生が高頻度となりこれらを持った人種が淘汰され、悪性新生物をもたない頑強な小数の人類が新たにあらわれ繁栄を極めるには、数十世代を要すると思われるが・・・。やはりどうもすっきりしない困った話になる。私なりのこれらの問題への解答、対策を述べてみたい。  「それぞれの種族が馴染み親しんできた生体環境の開放もしくは変革は急激に行われるべきものではないと思う。金魚を守るための金魚鉢の水の交換のように古い水を大半残し新しい水を少しずつそそぎ込んでやる。これが正しい環境変革のやり方であろう。このことが正しく慎重に行われないと生体の環境に対する適切な『順応と拒絶』はおこなわれないだろう。ところが現実はどうだ。現代の我々を取り巻く社会は金魚鉢の慣れ親しんだ水をすべて空け、馴染むとも馴染まないともわからない新しい水という環境をぞそぎこんでいるような気がしてならない。環境変革はもっとゆっくりやってはどうか。日本で歴史を刻んできた農耕民族の我々にとってはバターとパンとコーヒーより米飯と菜っ葉と味噌汁が馴染んでいるかも知れない。ともかくも我々の生活環境の変革は時間をかけてやるべきと思う。フランクフルト駅からマイン川をはさんで北側の繁華街であるザクセンハウゼンのアップルワイン屋で、トイレにいった後であわてて手を洗っているときにとなりで並んで手を洗っていたゲルマン人に注意された。彼日く『langsam,langsam』 あらゆる生物が、文化をそして次の世代を守ろうとすれば、万事『ゆっくり、ゆっくり』やらなくてはならない。環境交代劇も交流劇もゆっくりと自然に近い状態でやるべきであろう。今は人類が地球を意のままに操り人為淘汰を近視眼的な都合だけでおこなっているのだが、いずれは自然淘汰に屈する運命に人類はあるのだから。造り上げてきた文化を大事にして安意に崩さないこと、崩すとしても徐々に崩して時間をかけて築きなおすことが生命系の進化を守ることではなかろうか」  脚は長くなったがアレルギー性鼻炎で鼻をクシュクシュ、しわぶきしながら学校に通っている学生たち(足の長さは外国文化に順応した部分、アレルギー性鼻炎は外国文化に過敏反応を示した部分)を見ながら私の思い過ごしが現実にならなければよいが・・・と痛感しないではいられない今日である。 【エピローグ】確かに人類は分化はしている。しかし、より繁栄をなしうるべき文化に適応すべく進化の道をもたどりつつあるといえるのだろうか?それとも・・・?・・・!

テクノロジカル・イノベーション
事中」“men working” またか?!行動を走っていて私はつぶやく。しかも日常茶飯事のことなのである。 私の場合、あまり車の運転が得意なほうではないのだが、一般道路を走っていると、必ずといっていいほど、どこかで工事中という看板に出会う。そして車線が狭くなり、不快感この上ないじょうたいに陥ってしまう。この工事って本当に必要な工事なのであろうか。不況対策、失業対策の苦肉の策ではなかろうかと勘ぐってしまいたくなる多さなのである。 道路を作るときまたは補修する際に、工事する業者はどこまでの耐久性を考えて工事しているのであろうか。まさか次の工事を見越して粗悪な設計と材料でその場しのぎで急場をしのいでいるとは思えないのだが・・・ それにしても、「まだきれいじゃないか」という、鏡の状態といっていいほど良好に整備された道路をまた掘り返して舗装しなおしている。僕の乗っているようなオンボロ車でも、道の継ぎ目さえ感じられなくなって、居眠り運転をやりそうである。 それでも日本、いや地球は道路でいっぱいである。ヒートアイランド現象もこれほどまでに道路が舗装されるとおこるであろう。挙句の果ては、道路の舗装率を文化の高さの指標にまでしようとする統計さえ見られる。 大勢の方がお解かりのように、これからの文化も環境を破壊しない文化である。これからの改良は環境を破壊しない便利さである。ま平らにきちんと舗装された道路で、オンボロ車でもスピードが出るのは当然である。このスピード違反を取り締まり、違反金をまた道路工事費用に当てる。まさに矛盾だらけである。 本当の平等とは、性能のよい車は最新のテクノロジーを駆使して、舗装をしていない悪路でもラクチンにしかもスピーディに走れる。性能の悪い車は悪路では速く走れない。しかし足の代わりとしての車としての最低の条件は満たしている。足が悪くて歩いては遠方に買い物にいけない老人などにはいくら遅くてもこれらの類の車が必須である。 ゆえに性能のよい車は値段が高い。性能の悪い車は値段が安い。悪路でも速く走れる車は耐久性を気にしなければ安く買えるが、すぐ壊れてしまう。この原理が、平等の原理であろう。今からは道路の補修は要らない。もっと末梢の改善改良が必要である。舗装していない悪路のままで砂埃を巻き上げて、高級車はそれでも速く、低級車はそれなりに遅くは走れればいいのではないか? 国民の健康まで犠牲にして、道路族の術中にはまり、瀬戸内海に大きな端を3つもかけてしまったり、開発途上国やイラク支援だといって、紛争の元さえわからぬ、とある国の大統領の機嫌を取ったりするのはもうやめにしよう。消費に比例した間接税の原理は、妥当な方法だと私は考える。自国の経済を棚上げして他国に裕福そうに振舞うのはやめにしよう。日本国は資源もなく中小企業の経営努力のみでようやく体裁を保っている多大な借金を抱えた貧乏国なのだから。 大量の荷物運搬を迅速におこない、しかもコスト削減をしなくてはならないトラックは、悪路を高速で走っても荷が傷まないような構造と技術を開発することがテクニカル・イノベーションではないのだろうか?最高速を競うだけの時代はもうとっくに終わっている。ラリーには悪路がつきものだが、もっと発展して、車の競技にも卵を割らないラリーとか、100トンの荷物を如何に効率よく運べるか、など、最高速度のみならず、実用的なスピードとテクニックを取り入れてコンペティションをもらいたいものである。 「小さな技術革新で大きな効果を得る」今後の科学に課せられた命題である。 個人および公共の予算の作成も大事である。その日、その月、その年、10年間、いや100年間の予算や構想を立てることも今からの政治には必要不可欠なことなのである。

寿命  
常組織の細胞はいかに培養条件を改善してもその分裂回数のある一定の数値以上に増やす事はできない。分裂する回数には限度があるといえる。癌細胞をのぞく系代培養細胞は分裂回数の上限に達する死滅する。この現象をヘイフリック(Hayflick 1961)の限界と称する。ワクチンをつくるプロジェクトに参加していた彼が、正常の細胞の分裂回数は「ヘイフリックの限界仮説」と称されている。かれはワクチンの材料となるヒト線維芽細胞の継代培養の実験の中で何度やっても細胞の増殖が途中で止まってしまうことを発見した。このように全ての正常細胞の分裂回数の上限は動植物の種、細胞の種類によって決まっている。命がここでその細胞を出て行くのである。寿命の長い組織細胞ほど分裂回数の上限が高い。分裂の回数券の発行は数10枚に限られている。そしてもっと詳しく言えば細胞分裂の度に、染色体末端部位の「テロメア」という部分が徐々に消失していく。  一般には細胞の分裂の上限が寿命になるのではなくこの限界に達するまでに命がつきるのである。命がつきるという言葉は適切ではないかもしれない。命の「生体離脱」という言葉がこの際には妥当なのかもしれない。生体が細胞分裂回数の上限の時期において命の生体離脱を起こす事を寿命がつきるという。簡単には「寿命がつきた」という。  個体から細胞を取りだしイン・ビトロで培養すると、その細胞の分裂速度は初期の時期においては分裂速度が遅いが(第1期)その後はやや安定し速くなる(第2期)その後に分裂速度は遅くなり、ついに細胞は分裂しなくなり細胞の死を迎える。   同一の種においても必ずしも細胞の分裂速度は決まったものではない。それほど年を取っていないのに皮膚の皺、白髪、白内障、動脈硬化などの老化の症候が早期に出現し実際に寿命が短い疾患が人類においても存在する。ハッチンソンとジルフォー(Hutchinson&Gilford)が報告した早老症(progeria)がそれである。これらの患者は20才そこそこの若さで老化現象により死亡する。ウェルナー(Werner)症候群は早期に動脈硬化症などの老化徴候を示す。

雷鳴とマッハ
ロゴロとなる雷鳴。偉大な科学者アシモフによれば、これは雷の静電気エネルギーにより空気もしくは水蒸気が急速に膨張してその膨張速度が音速(マッハ)を超えたときに発生する衝撃波音なのである。雷の源が静電気であることは、1752年、アメリカのフランクリンが、凧(たこ)を使った実験で証明した。マッハの単位の語源となったエルンスト・マッハ(1838〜1916)は、オーストリアの物理学者である。ウィーン大学で物理学を専攻し物理学の学位を取ったが、彼の学問的な功績は、18世紀にニュートンが提唱した絶対空間の概念をアインシュタインに先がけて否定し、相対性理論の構築に大きな影響をおよぼした。彼は空気流の実験をおこない、空気中を動く物体の速さが音速を超えたとき、その物体に対する空気の性質が急激に変化することに気づいた。現在、与えられた温度での空気中での音の速さはマッハ1と呼ばれ、音速の2倍がマッハ2、3倍がマッハ3と呼ばれる。現代の超音速飛行機が飛ぶ時代に、マッハの名前は脈々と生き続けている。ゴロゴロは大気中の気体が静電気のエネルギーによりその物性が変わる音である。雷鳴にあっても、あっけにとられず、ついでに、おへそもとられないようにしよう。くれぐれも雷の音を追わないように。「雷」は「神なり」だから。またその雷撃電流の大きさについては、5kAから稀に200kAに達するものが報告されているので、人体の抵抗がある程度大きければ大量の熱が発生して黒焦げになってしまう。

センタ-試験・平均値からとろう
差値、難しい問題だ。入学試験、厳しい関門だ。本当にそうであろうか?私は入学試験においては、志願者の標準、すなわち平均点の受験生からその上下を定員分取ればよいと提案するものである。現在のような偏差値の高い、別の言葉で言えば平均ではない志願者を上から取っていったのであれば、教育は偏るし、平均の人間から見れば異常な人間も多く入ってくるであろう。平均を取るというのも難しいことだが、自分が学ぼうとする特徴ある学校が、自分に妥当だと証明するよい方法ではなかろうか。 おそらく教育関係者は、「なんと馬鹿なことを」とつぶやかれるだろうが、彼らとて、標準の人間を教えるほうが、やりがいがあり、やりやすいのではなかろうか。平均値をとる学校を選ぶのは、よっぽど自分の現在の能力の把握と将来の展望を持っていなければ困難なことである。学校というところは今、どのような能力があるから入学するところではなく、将来どのような能力を発揮できるかを期待して入学するところなのである。 さらに、その中にいて教育に携わる先生という職業のかたがたは、自分を追い越せるような人類の頭脳の進化に貢献する授業をやっているか今ここで振り返ってみることである。教師を学生が追い越せなければ社会の進化はありえない。学校は志願者が選ぶ時代になってきている。私が経営者ならこの方式で入学者を選ぶであろう。非の打ち所のない選抜方法であると自認しているのであるが・・・・


ドーピング・競争するならむしろ促進を・コントロールが知性だ
ポーツ競技会の多い中、薬物ドーピング(dop・ing 【名】 ドーピング:競走馬・運動選手に興奮剤などの薬物を与えること)はよくない、この程度の薬、この種類の薬までなら血中または尿中から検出されてもよろしいとか、なんと複雑な規制になっていることか。日本オリンピック協会の警告によると、ドーピングは以下の理由からよろしくないという。 日本オリンピック委員会からの引用------------------------------------- ドーピングとは ドーピングとは競技能力を高めるために薬物などを使用することで、ルールで禁止されています。実際には、リストで表示された禁止薬物たとえばエフェドリン、コデイン、メタンジエノン、テストステロン、マリファナ、ナンドロロン、メタンフェタミン、ダーペポエチン、アンフェタミン、アルコール、カフェイン、コラミン、プロプラノロール、ペモリン、フロセミド、スタノゾロール、ストリキニーネ、フェニルプロパノールアミン、フェニルプロパノールアミン、クレンブテロール、メソカルブなどを使用することがドーピングに当たり、尿検査で禁止物質が検出されると処罰されます。ドーピングの意図がなく、治療目的で禁止物質を使用しても処罰されますので注意が必要です。  ルールは知っていなければならないし、ルールは守らなければならないものです。 ドーピングが禁止される理由  ドーピングはなぜいけないのかを考える前に、私たちはなぜスポーツをするのか、なぜ多くの人がスポーツを称賛するのかを考えてみましょう。  スポーツをする理由は、好きだから、自分を最も表現できるから、挑戦と喜びがあるから・・・・、というようにさまざまです。しかしそのすべての基盤になっているのが、「一定のルールでフェアに競い合う」ということです。ルールが違えば、レースにもゲームにも試合にもなりません。ルールがなければ、単なる争い、ケンカのようなものになってしまいます。同じルールで競い合うこと、互いにフェアであること、これはスポーツの基盤であり、それゆえにスポーツを見る人は勝者も敗者も、最大限力を発揮した選手に感動を覚え拍手を送るのです。ドーピングは、この精神に反するものです。 1.スポーツのフェアプレーの精神に反する  薬物を使用することは公正な競争を損ね、フェアプレーの精神に反します。また、スポーツが薬物に汚染されることは、スポーツの社会的価値を損ねることになります。 2.ドーピングは社会悪になる  ドーピングで勝利を得ることができるとしたら、それはルール違反を認めることになります。スポーツ、特に多くの人が見るオリンピックなどの大きな舞台ではそれがまかりとおるようなことがあれば、社会にもたらす影響ははかりしれないものになります。スポーツの価値自体もおとしめられ、スポーツをやろう、見ようという人もいなくなるかもしれません。  また社会への悪影響ということでは、ドーピングのために使われるくすりの乱用にもつながります。実際に、欧米ではスポーツを目的にしないでも、有名選手のようなカッコイイからだになりたいとくすりをのむ青少年の問題があげられています。薬物乱用自体が違法行為であるだけでなく、場合によっては、くすりほしさに罪を犯すということもあるでしょう。ドーピングが社会悪につながるというのはそういうことなのです。 3.ドーピングは選手の健康を害する  ドーピングの代表的な方法は「くすり」をのむことです(その他、禁止されている「方法や操作」もあります。)  よく知られているのは筋肉増強剤(正確には蛋白同化剤)や興奮剤ですが、摂取したくすりを早く体外に出すための利尿剤も禁止されています。これらは、本来はれっきとした「くすり」です。つまり、病気を治すために開発された薬剤なのですが、その効果を競技力向上のために使うのがドーピングです。くすりが悪いのではなく、くすりの「悪用」というわけです。  そしてそこに大きな問題があります。くすりには病気を治す効果もありますが、一方で副作用という歓迎できない"効果"もあります。加えて、ドーピングのためにくすりを使用する場合は、通常の10倍、50倍、あるいは100倍という量が使われることもあります。筋力や持久力など競技力向上につながる部分はあっても、その反面からだへの害も大きいのです。ドーピングが原因で、選手生命どころか生命そのものを失ってしまったり、さまざまな後遺症に悩む例が数多く報告されています。選手のからだを守る意味でも、アンチ・ドーピング運動を進めていかなければならないのです。 ドーピングは心とからだ、そしてスポーツ界全体をむしばむ悪いもの  人類がつくりあげた文化の1つであるスポーツ。そのスポーツがドーピングによってむしばまれる。私たちが愛するスポーツが、いまわしいものになってしまうことのないよう、アンチ・ドーピング運動を展開し、ともにスポーツを守っていく必要があるのです 。-----------以上 確かにドーピングのやりすぎは副作用のあるものだが、適切なドーピングはそれなりに人類の潜在能力を引き出す。この複雑さを解消するひとつの方法は、規制を撤廃し妥当な限りの極限まで人体をドーピングさせて競技に参加させることである。副作用を招くような極端なドーピングは理性の欠如を招くであろうし、適当なドーピングは最上の人類の能力を引き出すであろう。 別の視点で考えれば、有名校受験生などが風邪引きの時には風邪薬禁止とか特別な勉強すなわち塾・家庭教師禁止にしてみれば面白いのだが・・・逆に、オリンピックでドーピングクラスとノン・ドーピングクラスをつくり、差別化して競わせてもよし。 何はともあれ、いかなる手段を用いてもよく、人間らしさを失わないようなドーピングは妥当と思われる。わずらわしい規制は撤廃して、体に悪影響を与えない範囲で(即死してもかまわない人は致死量までドーピングすればよろしい)しっかりドーピングしよう。

上記は私が撮ったオリンピアの陸上競技のスタート地点です。男のみで裸で走ったそうな!!



科学から芸術へ・芸術から文明へ
気になると、国民皆保険制度が通用している現代においては、だれもがどの医療機関においても標準的な医療が受けられる、いや受けられなければならないと信じるであろう。その原因のひとつに医療の均一化、科学化があまりにも浸透し過ぎ、治療まで同一ではなければならないという固定概念がある。医師及び患者の双方に自然に浸透してきた結果であろう。医療が普遍的でなければならないという固定概念が浸透し過ぎている結果は現実として、理想の医療は実はもっと特殊なものを含んだものであると考える。  一方、医療行政関係者によって医療費のマルメ化、削減がおこなわれている。医師の代表として当該患者を診療をしていないが経験は豊かな医師の目により、これらの診療報酬の出来高払い請求の過誤調整が執り行われている。医師のやったことを他の医師が確認し糾すというのは医師間の自浄作用としてある程度はあっていいと思うが、その行為が行き過ぎると、医師が医師自らの首を絞めるという、奇妙な遺憾の感覚を拭いきれないようになる。  この出来高払い保険医療過誤調整の作業の本質が、現在の医療体制内の、多くは過去に出現した不良医師の職業意識を越えた欲望と怠惰に起因するインモラルを抑制するための医師間の自浄作用である、と認識してやっている関係者がはたして何割いるのであろうか。私が考える限り、この制度がある限り医師の人格は上がらないであろう。医師の自己裁量権などだんだんと減っていく一方である。それでも頑張ろうと職業に価値を見いだし、過酷な労働の割には収入の少なくなった(それでも多いではないかと単純な頭の人々は言うであろうが)現況においても働いている医師が、愛相をつかしすべてが保険診療外の予防医学の領域に鞍替えしたときにここで大パニックが起こるであろう。  医療を受ける患者側にとっては、挙げ句の果てに現在の保険診療でまかないきれない部分が多い病気になり過酷な経済負担を経験した国民においては、自費診療を網羅する、現在の保険に頼らない自己積立保険に将来の自らの医療費ねん出を求めるであろう。医師の予防医学への過当なまでの進出意欲、国民の自費診療への準備というこの二つの現象はもうそろそろ現れ始めている。厚生福利を国家形成の主体と考えたとき、これらの現象は国勢の後退であり、国をひとつのまとまりとして考えたとき、この国の文明は没落している。  現在の医学は科学の重要なパートを占めている。しかし、理想の医療は科学を基礎にしてはいるが、より洗練し科学を越えた領域が要求されてくるであろう。この部分が、FW Peabodyの(JAMA 88:887-892,1927)の提唱するところの、医療が科学と芸術との混合文化であるという芸術の側面に一致する。どこでも同じ医療サービスがうけられるというのみでは患者は満足しない。個々の医者により洗練されたところの特殊で速く的確な治療が理想の医療には要求される。医療サ−ビスがより多様となり、普遍から特殊へ、万人のなす領域から特殊な個人の領域にゆだねられた瞬間に、医療は科学のみではなく芸術の領域をも含んだ崇高な文明に高められるのである。しかし、洗練された特殊な能力は次第に科学され、医療従事者間で伝承ならびに淘汰され、特殊なものから普遍的なものに共有化されるべき運命を持ったものが文明であろう。  芸術は、科学と比較して、「特殊」とか「賭け」という表現がよく似合う。すそ野が広い大山というより、ツエルマットから見えるマッタ−ホルンという表現が当てはまる言葉の響きである。ハイリスク、ハイリタ−ンかもしれない。一般的ではない、玄人でなければわからないという側面を持っているかも知れない。  そこで医療行政の存在が、医療における芸術という特殊性の関与を緩和するために重要性となる。医療行政には、それは単なる不良医師の取締などの規制を行うのみではなく、医療情報に疎い病人に、詳細に集めたデ−タベ−スによる医療情報を提供するという重要な役割がある。医療体制は充分とはいえないものの医師過剰といわれている矛盾に満ちた現代にまで、医師に関する情報や患者個人に関する医療情報を告知せず医療を神秘化し医師主導として患者を確保する医師の集団ができつつあったのも残念ではあるが事実であった。  我々医者という職業をしているプロの多くはどの医者がどういう分野に造詣が深いかはある程度の経験と情報を通じて知っている。しかし医療に全く関係のない分野の患者の多数は医師といえば皆同じにみてしまう。病に陥った悩み迷える人々には、医療行政者のみでなく医師も積極的に医療情報を提供する努力を払うべきである。日本医師会雑誌に次のような文章を発見した。「患者は実は眼の前にいる医師がどれほどの医学知識と技術を持っているのかを見抜いているわけではない。にもかかわらず無防備、無抵抗の状態で接し生命までもあずけるほどの医療を乞うのは患者自信それほど意識していなくても、いろんな階層の人と接してきているだけに、眼の前にいる医師の態度表情言葉づかい服装などからその医師の人格(人柄・品性)だけは見抜き、『この医師ならば・・・』と信頼してこそであろう.ならばこそ『医師である前に人間であれ』と強調されるわけである。人間であれと強調される人間とはいかなる人間を指しているのか.それは人間らしい人間にほかならない。・・・・省略。しかし『率直でまじめな挙動が、誠実によるものであるか、それとも、狡さに由るものであるかを判定することはむずかしい』・・・とされるのをよいことにして医師が利己主義や享楽主義の奴隷になっては医師を自由に選択できる患者側は、かかる医師から必ず遠ざかってゆくにちがいない。それゆえ『人間らしい人間になること』つまり人間形成への努力自己収容をも怠らない人間となるように努力する事が必要だ。そして『本当の優しさを持つ事のできる人は、しっかりした心構えのある人だけだ』と。参考文献:高間直道 医療と人間「私と患者」か「私の患者」か 日本医師会雑誌 101:1042−1046,1989。  理想として求められる医療は、医療情報の制限による医療の神秘化は意味がない、社会を混乱させるものとして医療行政担当者において必ず改められるべき運命を持ったものであろう。医療が病人や健康の増進のためにあるのなら医師自体も生涯教育に励み、自分の情報を素直に公表し変な見栄をはらず、できれば自分の欠点や不得意な分野も公表した方がよい。(ここまで書くと無節操だと怒って本を投げ出すひとがほとんどであろう。しかし時代は着実に変化しており、医療経営も競争から共同へと変化しなければ成り立たない時期にきているようだ)。  本来なら病気は病人自らの努力で克服すべき試練である。医師はその手助けをする重要な役割を受け持っている。それでも、病気は病人のものだから医師が無責任になり、さしさわりのない医療をしてお茶を濁すことは決して許されない。医師は科学を基礎として独自の医療における芸術を磨く。さらにさまざまな患者教育をおこなう。医療行政はそれらの多様性を持った医師と協力して、最善とおもわれる医療情報を病人に提供する。このような医療関係者の努力によって二重診療の防止、患者のたらい回し、病院または医薬関連会社の過当競争が防止され、有効な医療費の活用が可能になると信ずるものである。  前述もしたが、最後に医療費に関して苦言を厚生労働省ならびに財務省にいわせてもらおう。『福祉や医療の予算をもっと増やしてください。そして安心して病気や老後になれる社会にしてください』。第二次世界大戦以外は外敵の侵入にあまり国家を荒らされなかった日本人は、かなり外国人びいきである。そして同じものを食べるにしても、収入の多いものが収入の少ないものより多く払うのが当然であるという変な慣習を植え付けた。さらに強そうにみえる人々には財産を進呈してでも媚びへつらい、弱そうに見える人々にはないがしろにする傾向が他民族よりもやや強い。そこで日本の政府は強いように見える米国に対して、日本の医療費は削減しても、国連という隠れ蓑に姿をかくした米国主導の侵略軍団の破壊行為には一年間の医療費も何のその、にこにこして献上する。たとえば、平成15年の時点において、23万人を抱える日本の優秀な透析医療に供される予算は一兆円程度でここ数年は患者さんの増加にももかかわらずその枠は、イラクをさらに支援するために小泉首相がブッシュやラムズフェルドに密約をしている百何億ドル、一兆何千億円よりも少ないのが現状である。地方は地方でいまだに中央から予算をもらう目的で、わけもわからない講演者を、イベント会社と結託して高値で招請して帳尻を合わせている。交通の邪魔になるのに、車で5km走ると道路のどこかをいじって渋にしているのが景気回復に貢献しているのであろうか?そもそも景気がいいとか悪いという概念がおかしいのである。金銭や物の流れが少ない時期もあれば多い時期もある。これらは、国民の自主に任せていただきたい。  米国は日本の貿易黒字に対して、国内需要を拡大することにその解決策を見つけるように要求している。それは人間の活動とは単に物質を作ったり求めるのではなく、人間との深いかかわりに関して意義があることを認識せよと暗示していると私は考えるのである。ところが日本の頭のかたいお役人の一部は、内需拡大とは公定歩合を下げることや国内建設予算前だおしによる建築しか思い浮かばないのが現実であり、嘆かわしいところである。国家予算に占める医療費の比率が高くなったので医療費や福祉厚生費をけずって建物とか道路とか橋に代表される『もの』の完成作業に予算を費やす。確かに結果は残るであろう。しかし成果は残らない。そして国民の幸せも残らない。  ところで、このようなことで内需拡大としての国民の積極的な消費活動への連鎖反応が導けるのであろうか。答は否だろう。福祉予算を削られ自分の将来に不安を感じ始めた国民は、支出を削ってでも将来の生活保障のために国に頼らない貯蓄もしくは保険にはいり、その結果、日本国内での消費の拡大はおろか消費の減衰にこの国家計画は貢献?している。多少回復はしたものの現在の株価の不安定、政局の不安定の要因の一部はこのような将来の不安を国民が切実に感じとり出した一現象ではないだろうか。2兆円の巨額の融資を無利子で、ある銀行におこなっても、23万人が慢性腎不全により透析治療を受けているが、彼らの医療費の総額は1兆円以下に抑えるとの暗黙の指示がある。なんとも矛盾した予算配分ではないか。  健康および命はかけがえのないものである。日本の自然は文化という大義名分のもとに人類により変化させられてしまった。いや人類は人間だけの都合の良い環境に自然を変化させてしまったのかもしれない。自然環境の改革はもうやり過ぎている。道路は泥道であってもよい。いまからは目に見えないものに対して国家予算を投資をし人間生活の改善をはかるべきである。  国家文明の発達観点からみると、極論を言えば、医療費を始めとする福祉厚生費が国の予算の99%をしめたところで、その現象は文明の後退ではない。さらに、好意的にとらえれば、『貿易黒字を解消せよ、内需拡大せよ』という米国の要求は、「日本国民を大事にするということを国策にたずさわる人々は忘れていませんか? 外国ばかりに目を向けて良い格好して、その結果、自国の文明を粗末にしていませんか?」という内容の米国のつぶやきに聞こえる。


日常診療における付加価値とは?
 「だいじょうぶ」といって本当に大丈夫?

は、とある病院の内科医である。免許のあるブラック・ジャックなら、無言でオペをして患者さんという顧客に治癒という高い満足度をさしあげることができるが、私にはそんな技術はないし経験がない。内科医としては、ついつい処方とムンテラという手段に頼らざるを得ない。患者さんにとって「大丈夫」という一言の保障は、これが真実であれば、かけがえのない安心である。
「先生、大丈夫でしょうか」と患者さんが聞く。
「大丈夫です。よくなります。この薬で様子を見ましょう」と安易に答えていることが私の場合は多いのである。いや、ほとんどのケースでといってよいだろう。
この場合、患者さんとの本当の応答と心理合戦は次のようである。
「先生、大丈夫でしょうか?私は先生から大丈夫という言葉を引き出して、安心という保障を得たいのですが?せっかく初診料も払うのだし、ちょっと待たされたしねえ・・・でも、この先生、大丈夫かなあ。偽医者ではなさそうだけど、あまり勉強しているようにみえないぞ、ちょっと不安」
「大丈夫です。いや大丈夫でしょう。大丈夫かもしれない。自信がないけれど、この患者さんをほかに診察している医者がいないので、大丈夫じゃないかもしれないけれど、大丈夫といっておいたほうがよいだろう。・・・よくならないかもしれないけれど、よくなりますと言っておいたほうがよいだろう。この薬がこの患者さんには合うかどうか不安だが、一応、経験上から出してみよう。この薬で様子を見ましょう。こういっておけばまずクレームのつくことはないだろう」
日常診療では、こういうやりとりで、ODS(お客様・第一・主義)、CS(顧客満足)の代わりにしているのだから、医療に信頼関係の大事さがわかる一場面ではある。
昔の日本医師会雑誌に下記のような教訓を発見した。
【患者は実は眼の前にいる医師がどれほどの医学知識と技術を持っているのかを見抜いているわけではない。にもかかわらず無防備、無抵抗の状態で接し生命までもあずけるほどの医療を乞うのは患者自信それほど意識していなくても、いろんな階層の人と接してきているだけに、眼の前にいる医師の態度表情言葉づかい服装などからその医師の人格(人柄・品性)だけは見抜き、『この医師ならば・・・』と信頼してこそであろう。ならばこそ『医師である前に人間であれ』と強調されるわけである。人間であれと強調される人間とはいかなる人間を指しているのか.それは人間らしい人間にほかならない。しかし『率直でまじめそうな挙動が、誠実によるものであるか、それとも、狡さに由るものであるかを判定することはむずかしい』・・・とされるのをよいことにして医師が利己主義や享楽主義の奴隷になっては医師を自由に選択できる患者側は、かかる医師から必ず遠ざかってゆくにちがいない。それゆえ『人間らしい人間になること』つまり人間形成への努力自己収容をも怠らない人間となるように努力する事が医師には必要だ。そして『本当の優しさを持つ事のできる人は、しっかりした心構えのある人だけだ』と。参考文献:高間直道 医療と人間「私と患者」か「私の患者」か 日本医師会雑誌 101:1042−1046,1989】


分散と収束
日、近日公開予定のリクルートという洋画の試写会にワーナーマイカル高松という映画館に行った。コリン・ファレルという売り出し中の個性派男優がジェームスという父親譲りのCIA二世の主役という配役設定であった。さらにアル・パチーノがCIAの裏切り役で名演技の脇役であった。結局、私にはどこからどこまでが練習(CIA演習?)で、どこからどこまでが実戦だか、映画が終わってもわからなかった。なぜなら、どこからどこまでが真実で、どこからどこまでが嘘かが、わからない映画であったからだ。逆転につぐ逆転で、その嘘が真実になったり、また、さらなる虚になったりする。最初から最後まであらゆることでこの現象が続く1時間45分の佳作であった。
 さて現実に戻って、嘘が、さらに嘘になると事態はどうなるであろうか。その事態は尾ひれが付き更なる重大な嘘になるか、うまくいけば真実に戻るかのどちらかであろう。電子回路で言えば、前者は発信回路、後者はネガティブ・フィードバック回路である。前者は低周波という音声を発信回路を利用した超高周波に情報の変化として載せ、電気線(アンテナ)から磁界を作るとともに放出する送信機の前終段回路、具体的には、安定した固有振動を持つ水晶発信回路として知られている。後者はオーディオ・アンプの音声信号増幅の際に生じるひずみを修正するための回路として、ダイナミックレンジや忠実度を犠牲にしても、なめらかな聴きやすい音を作るのに利用されている。
おっと閑話休題、われわれの世界で嘘が生じた場合には、その嘘は都合の悪い嘘であれば分散で飛んでいってほしいし(忘れる)、本職である医療実践の場合に限っていえば、修正しなければいけない嘘は、ネガティブ・フィードバックで真実に戻したいものである(やり直すか謝る)。常にこれらを使い分ける精神力と器量の研鑽に勤め、困難な現代の医療を取り巻く諸問題に対処したいと痛感しているこのごろである。

 
パソコンづくり(同居する規格違いのネジたち)
こ数年、診療の合間にデスクトップのパソコンの自作にいそしんでいる。その理由は完成までに費やした努力が比較的短時間で報われるという、本業の医療とはまったく違う満足感を得られるからである。
事件は、7-8年ほど前、秋葉原の末広町駅近くの「プロサイド」という小さなビルの一角にある会社で、DOS/Vパソコン(PC)を組み立ててもらったことから発生した。私にとって秋葉原は、無線の部品調達のジャンク屋が未だ残り、アマチュア無線が趣味の私としては30年来通いつめているお馴染みの地区であった。「プロサイド」においては、PC組み立てという工程が新鮮で興味深く、50万円近くの私費を投じたが、会社の窓際に設けられた作業台において、2時間程度で部品購入から組み立て、OSのインストールまでの実際を見せていただくという経験をした。この時期はMS-Windows95がOSのNEC-PCが現在の購入価格の5倍程度もする時代だったからこれでも組み立てのほうが安価だったのかもしれない。この製品は数年間、活躍したが、酷使したためハードディスクとマザーボードが駄目になり泣く泣く、ケースのみを残し、パーツをすべて入れ替えることにした。
それから、秋葉原のある大手の通販ショップを通じて、部品購入してPC自作の生活が始まった。OSがうまくインストールできないとPCを足でけったり、徹夜でLANカードのプログラムをインストールしたり(今でもLAN設定はもっとも困難な作業ですがWindowsXPになってからはオートマチック化され、かなり容易になりました)、はたまた、初歩的なBIOS設定ミスでハードディスクが認識されないという不幸な目にもあった。ディスプレイの設定では設定周波数を高くしすぎ、ディスプレイに何も映らないまま、手探りで設定を変更したこともあったが、今となっては懐かしい。安価なテレビのほうが便利なのに、PCにTVチューナーカードをPCIスロットにいれて、「やった・・・」と、他の基本的なプログラム作動を犠牲にしてさえも、悦に入っていたこともあった。
今、午前7時半であるが私は病院に出勤し、かようにワープロを打っている。私の自室は狭いのだが、合計9台のタワー型の自作PCが並び、院内のLANにすべてがつながれている。PCのそれぞれに、異なったソフトや機能が織り込まれ、負荷のかからないように心がけている。一台に多機能を搭載すると、指数関数的にプログラム処理速度が落ちるのである。そこで10の機能を持たせるためにはその機能2つを5台のPCに分けて演算速度を落とさないようにしている。この関係でLAN(local area network)は必須のアイテムなのである。
PC製作で重要なのはその目的とパーツ選びであるが、PCは主として下記のパーツで構成されている。
@ケースおよび電源(1万円以内で静音400W電源付ケースが入手可能。私のマシンでは、その多くはミッドタワー型)
Aマザーボード(Intel815、845、865規格などがある。サウンドおよびビデオチップが一体になった高性能なものも2万円以内で入手可能)
BCPU(CPUチップとクーラー。チップは数千円から10万円以上のものまでピンキリあり。Socket478が現在の主流。もちろんビット処理の早いものほど高性能)
CRAM(SDRAM PC133とかPC2700など。なるべく処理能力の高いRAMをつけたい)
DI/O機器(キーボード、マウス、スキャナー、デジカメ、ディスプレイ、プリンタ、モデム、LANなど。一般のPC でも取り替えて使っていることが多い)
E外部記憶装置など(ハードディスク、フロッピー,MO,ZIP,DVD,DVR,CD,CDRドライブ。媒体の記憶能力の進歩は指数関数的に飛躍している)
PCは上記の各部品さえそろえば、プラス・ドライバーとラジオペンチのみで組み立てることができる。本体が完成してBIOS設定をしてOSをインストールして成功すれば、これで終了である。しかし、各工程を分析すると、以外にも奥が深い、産業の歴史を感じさせる項目がある。
たとえば、ネジの種類にしてもISO規格とかJIS規格とかが同居している。これは、ネジで固定されるドライブ部品を作る会社が、日本からシンガポール、台湾、マレーシヤなどにシフトしていることも関係しているようだ。コンピュータ関係では「No.6-32UNC×6mm」というインチネジがよく使わる。No.6はネジ部の太さを表わす番号であり、約3.5mmの太さに相当する。32UNCは、1インチあたり32山(=1山あたり約0.8mm)というピッチを持つユニファイ並目ネジを表わしている。6mmはネジ部の長さを表わしている。コンピュータではこれ以外にもミリネジ(メートルネジ)が使われることも多いが、インチネジとは各部のサイズが異なるので、お互いに流用することはできない。ハードディスク・ドライブやケース各部の取り付けネジとして使われることが多い。そのほか、ブラケット固定用のネジでも、ケースによってはミリネジだったりインチネジだったりする。ネジ頭部の形状はさまざまだが、ネジの部分の太さやピッチは規格化され、統一されかけている。ミリネジはネジのピッチが細かく、インチネジはピッチが粗いので、2つ並べると簡単に見分けることができる。ISO規格のミリネジには頭部に小さな丸いくぼみ(矢印の先)が付けられることがあるが、何もないミリネジも多い。右側のセルフタッピングネジは最近ではほとんど使われない。
私は、過去に数多くの過ちをネジに関して犯してきたが、くれぐれも、パソコンを組み立てるときに、ネジが合わないといって、強引にねじをねじ込まないように。冷静になって規格違いのあることを思い出すべし。今日も、通販会社から自宅に、1個8000円足らずのCeleron CPU(2.4GHz)3個入りパッケージが届いているのを確認した。いったい何台PCを作れば気がすむというのだろう?この中毒症状は自分ながら不思議で驚いている。


あなたは草食派それとも肉食派
(工事中)

類はオルドバイ渓谷でルーシーと称されるホモエレクトスが発見されて以来、人類の歴史は350万年、その生態は雑食動物といわれていはいるが、果たしてすべての民族が平均的に雑食なのであろうか?トラは肉食、ウマは草食であるのは明らかである。ここで簡単にヒトにおける傾向とその見分け方、対処の仕方を考えてみよう。
外観からの判別
肉食の場合 眼は前方についている。前方注視型       耳介は固定され小さいか垂れている       堂々と匂いをかぐ
草食の場合 眼は側方、後方も見られるよう外側についている 広角概視型 耳介は大きくピンと立ちピクピクと敏感に動くことが多い。 わからないように、しかし神経質に匂いをかぐ
行動からの判別
肉食の場合 ほぼ直線的に突進する       人のいうことは聞かない       行動の速度が速い
草食の場合 モジモジ周りを気にしながらつまらなさそうに動く。時々道草をする  人間ウオッチングをするのが好きだ 噂話を聞くのが大好きだ


瀬戸大橋料金に、一工夫を
-与島の活性化との関連-
戸大橋の料金は高いといわれています。本当に高くて高松に住む私としては本州に車で渡ることはほとんどありません。 瀬戸大橋の中間に風光明媚な与島というところがあり。昔は休憩SAになっていましたが現在は観光客が激減と聞きます。 そこで提案。 与島発着の切符を発行する。 具体的には坂出→早島、早島→坂出間は片道が4000円程度に据え置くが、坂出→与島間は1000円とする。与島→早島間も1000円とする。早島→与島間も1000円とする。与島→早島間も1000円とする。 こうすれば一番安く坂出から早島に行こうとすれば、与島経由で2000円で行くことができる。与島に立ち寄って料金所をくぐるわけだから、みやげ物店も潤うかもしれない。讃岐うどん各店の屋台を並べればかなりの集客力があるだろう。屋台程度の開設資金もさしてかからないのでは?ここで、ミニ讃岐うどんめぐりができるわけだ。  平成16年にJRグループの○○家が、トルコのイスタンブールに、讃岐うどんの店舗を開店するという。しかし、需要の見込まれる日本人の何人が、シルクロードの出発地点、カッパドキアやノアの箱舟のアララト山のあるトルコ共和国に行くことができるのであろうか。まあ、新しい麺類のない遊牧民族に讃岐うどんは新鮮でおいしいであろうが・・・もっと近くにもいろいろ需要はあると考えるのだが。 時間に余裕のある人々、料金を節約したい人々はこのような方法で、多少面倒ではあるが安価に通行料金を提供できるように。料金体系を工夫してもらいたいものです。
後日談---その後、祝祭日、土曜日が時限であるが1000円料金となった。エコには逆行するが、一時的な経済活性効果はあるだろう。はたして人類は、何を目指して生きればいいのだろうか?---


附録 橋本左内の啓発録
本左内著(『大日本思想全集』第十八巻〈昭和8年。大日本思想全集刊行会発行〉による)
啓発録
◎稚心を去る  稚心とは、をさな心と云事にて、俗にいふわらべしきこと也、茶菜の類のいまだ熟せざるをも稚といふ、稚とはすべて水くさき処ありて物の熟して旨き味のなきを申也、何によらず稚といふことを離れぬ間は、物の成り揚る事なきなり。  人に在ては竹馬紙鳶打毬の遊びを好み、或は石を投げ虫を捕ふを楽み、或は糖菓蔬菜甘旨の食物を貪り、怠惰安佚に耽り、父母の目を竊み、芸業職務を懈り、或は父母によりかゝる心を起し、或は父兄の厳を憚りて、兎角母の膝下に近づき隠るゝ事を欲する類ひ、皆幼童の水くさき心より起ることにして、幼登の間は強て責るに足らねども、十三四にも成り、学問に志し候上にて、此心毛ほどにても残り有之時は、何事も上達致さず、迚も天下の大豪傑と成る事は叶はぬ物にて候。  源平のころ、並に元亀天正の間までは、随分十二三歳にて母に訣れ父に暇乞して、初陣など致し、手柄功名を顕し候人物も有之候、此等はみな稚心なき故なり、もし稚心あらば親の臂の下より一寸も離れ候事は相成申間敷、まして手柄功名の立つべきよしはこれなき義なり、且又稚心の害ある訳は、稚心を除かぬ時は、士気振はぬものにて、いつまでも腰抜士になり候ものにて候、故に余稚心を去るを以て士の道に入る始と存候なり。 ◎振気  気とは、人に負ぬ心立ありて、恥辱のことを無念に思ふ処より起る意地張の事也、振とは、折角自分と心をとゞめて、振立振起し、心のなまり油断せぬ様に致す義なり、此気は生ある者にはみなある者にて、禽獣にさへこれありて、禽獣にても甚しく気の立たる時は、人を害し人を苦しむることあり、まして人に於てをや。  人の中にても士は一番此気強く有之故、世俗にこれを士気と唱へ、いかほど年若な者にても、両刀を帯したる者に、不礼を不致は、此士気に畏れ候事にて、其人の武芸や力量や位職のみに畏れ候にてはこれなし、然る処太平久敷打続、士風柔弱佞媚に陥り、武門に生れながら武道を亡却致し、位を望み、女色を好み、利に走り、勢に附く事のみにふけり候処より、右の人に負けぬ、恥辱のことは堪へずと申す、雄々しさ丈夫の心、くだけなまりて、腰にこそ両刀を帯すれ、太物包をかづきたる商人、樽を荷ひたる樽ひろひよりもおとりて、纔に雷の声を聞き、犬の吠ゆるを聞ても、郤歩する事とは成にけり、偖々可嘆之至にこそ。  しかるに今の世にも猶未だ士を貴び、町人百姓抔御士様と申唱るは、全く士の士たる処を貴び候にて無之、我。  君の御威光に畏服致し居候故、無拠貌のみを敬ひ候ことなり、其証拠は、むかしの士は、平常は鋤鍬持、土くじり致し居候共、不断に恥辱を知り、人の下に屈せず、心逞しき者ゆへ、まさか事有るときは、吾 大御帝、或は将軍家抔より、募り召寄せられ候へば、忽ち鋤鍬打擲て、物具を帯して、千百人の長となり、虎の如く狼の如き軍兵ばらを指揮して、臂の指を使ふごとく致し、事成れば芳名を青史に垂れ、事敗るれば、屍を原野に暴し、富貴利達、死生患難を以て其心をかへ申さぬ、大勇猛大剛強の処有之ゆゑ、人々其心に感じ、其義勇に畏候へども。 今の士は勇はなし、義は薄し、諜略は足らず、迚も千兵万馬の中に切り入り、縦横無碍に駆廻る事はかなふまじ、況んや帷幄の内に在て、運籌決勝之大勲は望むべき所にあらず、さすれば若し腰の両刀を奪ひ取候へば、其心立其分別尽く町人百姓の上には出申まじ、百姓は平生骨折を致し居、町人は常に職業渡世に心を用ひ居候ゆへ、今若し天下に事あらば、手柄功名は却て町人百姓より出で、福島左衛門大夫、片桐助作、井伊直政、本多忠勝等がごとき者は、士よりは出申さゞるべきかと思はれ、誠に嘆かはしく存る。  箇様に覚のなきものに、高禄重位を被下、平生安楽に被成置候は、偖々君恩のほど男す限りなきこと、辞には尽しがたし、其御高恩を蒙りながら、不覚の士のみにて、まさかのときに、我君の恥辱をさせまし候ては、返す返す恐入候次第にて、実に寐ても目も合はず、喰ても食の咽に通るべき筈にあらず。  ことさら我先祖は国家へ奉対、聊の功も可有之候得ども、其後の代々に至りては、皆々手柄なしに恩禄に浴し居候義に候へば、吾々共聊にても学問の筋心掛け、忠義の片端も小耳に挟み候上は、何とぞ一生の中に粉骨砕身して、露滴ほどにても御恩に報い度事にて候、此忠義の心を撓まさず引立、後還り致さぬ様に致候は、全く右の士気を引立振起し、人の下に安ぜぬと申す事を忘れぬこと、肝要に候、乍去只此気の振立候而已にて、志立ぬ時は、折節氷の解け酔のさむる如く、後還り致す事有之者に候、故に気一旦振立候へば、方に志立候事甚大切なり。 ◎立志  志とは、心のゆく所にして、我こころの向ひ趣き候処をいふ、士に生て、忠孝の心なき者はなし、忠孝の心有之候て、我君は御大事にて、我親は大切なる者と申す事、聊にても合点ゆき候へば、必ず我身を愛重して、何とぞ我こそ弓馬文学の道に達し、古代の聖賢君子英雄豪傑の如く相成り、君の御為を働き、天下国歌の御利益にも相成候大業を起し、親の名まで揚て、酔生夢死の者にはなるまじと、直に思付候者にて、此即志の発する所也、志を立るときは、此心の向ふ所を急度相定、一度右の如く、思詰候へば、弥切に其向きを立て、常々其心持を失はぬ様に持こたへ候事にて候。  凡志と申は、書物にて大に発明致し候か、或は師友の講究に依り候か、或は自分患難憂苦に迫り候か、或は憤発激励致し候歟の処より、立ち定り候者にて、平生安楽無事に致し居り、心のたるみ居候時に立事はなし。  志なき者は魂なき虫に同じ、何時迄立ち候ても、丈けののぶる事なし、志一度相立候へば、其以後は日夜逐々成長致し行き候者にて、萌芽の草に膏壌をあたへたるがごとし、古より伐傑の士と申候んとて、目四ツ口二ツ有之にてはなし、皆其志大なると逞しきとにより、遂には天下に大名を揚候なり、世上の人多く碌々にて相果候は他に非ず、其志太く逞しからぬ故なり。  志立たる者は、恰も江戸立を定めたる人の如し、今朝一度御城下に踏出し候へば、今晩は今荘、明夜は木の本と申す様に、逐々先へ先へと進み行申候者也、譬ば聖賢豪傑の地位は江戸の如し、今日聖賢豪傑に成らん者をと志し候はゞ、明日明後日と、段々に其聖賢豪傑に似合ざる処を取去り候へば、如何程段短才劣識にても、遂には聖賢豪傑に至らぬと申す理はこれなし、丁度足弱な者でも、一度江戸行き極め候上は、竟には江戸まで到着すると同じき事なり。  偖右様志を立候には物の筋多くなることを嫌ひ候、我心は一道に取極め置き不申候はでは、戸じまりなき家の番するごとく、盗や犬が方々より忍び入り、迚も我一人にては、番は出来ぬなり、まだ家の番人は随分傭人も出来候得共、心の番人は傭人出来不申候、さすれば自分の心を一筋に致し、守りよくすべき事にこそ。  兎角少年の中は、人々のなす事致す事に、目がちり、心が迷ひ候て、人が詩を作れば詩、文をかけば文、武芸とても、朋友に鎗を精出す者あれば、我今日まで習ひ居たる太刀業を止て、鎗と申す様に成り度きものにて、これは正覚取らぬ、第一の病根なり、故に先づ我知識聊にても開候はば、篤と我心に計り、吾所向所為をさだめ、其上にて師につき、友に謀り、吾及ばず足らはぬ処を補ひ、其極め置たる処に心を定めて、必多端に流れて、多岐亡羊の失なからんこと、願はしく候、凡て心の迷ふは、心の幾筋にも分れ候処より起り候事にて、心の紛乱致し候は、吾志未だ一定せぬ故なり、心定まらず心収まらずしては、聖賢豪傑には成られぬものにて候。  何分志を立る近道は、経書又は歴史の中にて、吾心に大に感徹致し候処を書抜き、壁に貼し置き候か、又は扇抔に認め置き、日夜朝暮夫を認め咏め、吾身を省察して、其不及を勉め、其進を楽み居り候事、肝要にして、志既に立候時は、学を勉むる事なければ、志弥ふとく逞くならずして、動もすれば聡明は前時より減じ、道徳は初の心に慚る様に成り行くものにて候。 ◎勉学  学とは、ならふと申す事にて、総てよき人すぐれたる人の善き行ひ、善き事業を迹付して、習ひ参るをいふ。故に忠義孝行の事を見ては、直に其人の忠義孝行の所為を慕ひ傚ひ、吾も急度其人の忠義孝行に負けず劣らず、勉め行き候事、学の第一義なり、然るに後世に至り、宇義を誤り、詩文や読書を学と心得候は、笑かしき事どもなり。  詩文や読書は、右学問の具と申すものにて、刀(キヘン+「覇」)鞘や、二階梯の如きものなり、詩文読書を学問と心得候は、恰も柄鞘を刀と心得、階梯を二階と存候と同じ、浅鹵粗麁の至りに候。  学と申すは、忠孝の筋と文武の業とより外には無之、君に忠を竭し、親に孝を尽すの直心を以て、文武の事を骨折勉強致し、御治世の時には、御側に被召使候へば、君の御過を補ひ匡し、御徳を弥増に盛んになし奉り、御役人と成り候時は、其役所役所の事、首尾能取修め、依怙贔屓不致、賄賂請謁を不受、公平廉直にして、其一局何れも其威に畏れ、其徳に懐き候程の仕わざをなし可申義を、平世に心掛け居り、不幸にして乱世に逢ひ候はば、各々我居場所の任を果して寇賊を討平げ、禍乱を克定め可申、或は太刀鎗の功名、組打の手柄致し、或は陣屋の中にありて、謀略を賛画して、敵を鏖にし、或は兵糧小荷駄の奉行となりて、万兵の飢渇不致、兵力の不減様に心配致し候事抔、兼々修練可致義に侯、此等の事を致し候には、胸に古今を包み、腹に形勢機略を諳し蔵め居らずしては、叶はぬ事共多く候へば、学問を専務として勉め行ふべきは、読書して吾知識を明かに致し、吾心胆を練り候事肝要に候。  然る処、年少の間は兎角打続き業に就き居候事を厭ひ、忽読忽廃し、忽習文講武といふ様に、暫く宛にて倦怠致すものなり、此甚だ不宜、勉と申すは、力を推究め、打続き推遂候処の気味有之字にて、何分久を積み、思を詰不申候はでは、万事功は見え不申候、まして学問は物の理を説、筋を明かにする義に候へば、右の如く軽忽粗麁の致し方にて、真の道義は見え不申、中々有用実着の学問にはなり申さぬなり、且又世間には愚俗多く候故、学問を致し候と、兎角驕謾の心起り、浮調子に成て、或は功名富貴に念動き、或は才気聡明に伐り度病、折々出来候ものにて候、これを自ら慎み可申は勿論に候へども、茲には良友の規箴至て肝要に候間、何分交友を択み、君仁を輔け、吾徳を足し候工夫可有之候。 ◎朋友を択ぶ  交友は、吾連朋友の事にて、択とはすぐり出す意なり、吾同門同里の人、同年輩の人、吾と交りくれ候へば、何れも大切にすべし、乍去其中に損友益友候へば、則択と申す為肝要なり、損友は、吾に得たる道を以て、其人の不正の事を矯正し可遣、益友は、君より親みを求め、車を詢り、常に兄弟の如くすべし、世の中に益友ほど難有難得者はなく候間、一人にても有之ば、何分大切にすべし。  総て友に交るには、飲食歓娯の上にて附合、遊山釣魚にて狎合は不宜、学問の講究、武事の練習、士たる志の研究、心合の吟味より交を納れ可申事に候、飲食遊山にて狎合候朋友は、其平生は腕を扼り肩を拍ち、互に知己知己と称し居候へ共、無事の時、吾徳を補ふに足らず、有事の時、吾危難を救ひくれ候者にてはなし、これは成り丈屡出会不致、吾身を厳重に致し附合候て、必狎昵致し吾道を褻さぬ様にして、何とか工夫を凝して、其者を正道に導き、武道学問の筋に勧め込候事、友道なり、偖益友と申すは、兎角気遣な物にて、折々不面白事有之候、夫を篤と了簡すべし、益友の吾身に補ひあるは、全く其気遣なる処にて候、士有争友雖無道不失令名と申すこと、経に有之候、争友とは即益友也、吾過を告知らせ、我を規弾致しくれ候てこそ、吾気の附ぬ処の落も欠も補ひたし候事、相叶候なり、若右の益友の異見を嫌ひ候時は、天子諸侯にして諫臣を御疎みなされ候と同様にて、遂には刑戮にも罹り、不測の禍をも招く事あるべきなり。  偕て益友の見立方は、其人剛正毅直なるか、温良篤実なるか、豪壮英果なるか、俊邁亮明なるか、濶達大度なるかの五つに出でず、此等は何れも気遣多き人にて、世間の俗人どもは甚しく厭弃致し居候者なり、役損友は、佞柔善媚、阿諛逢迎を旨として、浮躁弁慧、軽忽粗慢の性質ある者なり、此は何れも心安く成り易き人にて、世間の女子小人ども、其才智や人品を誉居候者なれども、聖賢豪傑たらんと思ふ者は、其所択自ら在る所あるべし。  以上五目、少年学に入るの門戸とこゝろえ、書聯申候者也。  右余厳父の教を受け、常に書史に渉り候処、性質疎直にして柔慢なる故、遂に進学の期なき様に存じ、毎夜臥衾中にて涕泗にむせび、何とぞして吾身を立て、父母の名顕し、行々君の御用にも相立、祖先の遺烈を世に耀し度と存居候折柄、遂々吾身に解得致し候事ども有之候様、覚申すに付、聊書記し、後日の遺亡に備ふ、敢て人に示す処にあらず、嗚呼如何せん。  吾身刀圭の家に生れ、賤技に局々として、吾初年の志を遂る事を不得を、然れども所業は此に在りても、所志は彼に在り候へば、後世吾心を知り、吾志を憐み、吾道を信ずる者あらん歟。  嘉永戊申季夏                        橋本左内誌 禅の道 


道元禅師からのメッセージ ---------------------------
まれたものは死に 会ったものは別れ 持ったものは失い 作ったものはこわれます 時は矢のように去っていきます すべてが「無常」です この世において 無常ならざるものはあるでしょうか ---------------------------- 生まれて死ぬ一度の人生を どう生きるか それが仏法の根本問題です 長生きをすることが幸せでしょうか そうでもありません 短命で死ぬのが不幸でしょうか そうでもありません 問題はどう生きるかなのです --------------------------- 人生に定年はありません 老後も 余生も ないのです 死を迎える その一瞬までは 人生の現役です 人生の現役とは 自らの人生を 悔いなく生ききる人のことです ---------------------------- ひとの価値は 地位・財産・職業に関係ありません 知能・能力だけでひとを評価すると 過ちを招きます 知識を生かす心と行いこそ大切です ひとの価値は心と行いから生ずるのです --------------------------- 知る」ということと 「わかる」こととはちがうのです 知ってはいても 実行されなければ わかったことにはなりません 薬の効能書きを読んだだけでは 病気は治りません 禅も実行してはじめて わかることなのです ---------------------- 米も野菜もいのちです 肉の魚もいのちです これらのいのちのおかげで 私たちのいのちも生かされています 「いただきます」「ごちそうさま」 尊い命に感謝して 食事をいただきましょう ---------------------------------

江戸のリサイクル
歴史上で東京が現れてくるのは、源頼朝が兵をあげた地の近くの「江戸氏」に関する資料からである。江戸氏は地元の武将である。江戸氏のほかに、豊島区に勢力を誇っていた豊島氏という武将もいる。東京が江戸らしい風格を持ってくるのは、室町時代中期に、大田道潅がこの地に江戸城を築いてからである。当時、鎌倉には、足利氏一族がいたが、家臣の上杉氏が関東の実検を握り、主君の足利氏を追い払った。足利氏はいまの茨城県西端の古川市に逃れた上杉氏はこの時期にすでに2家系に分かれていたが、その重鎮が太田氏で、大田道潅がこの地に入ってきた。豊島氏や江戸氏は、この太田氏によって滅ぼされた。豊島氏の築城した多くの城は太田氏のものになった。大田道潅は主君である上杉定正に比較しても能力が上であった。道潅は兵法に優れ、足軽の集団戦法を編み出し、実戦でも強く勝利を収め、関東の武士の信頼を集めつつあった。主君の上杉定正にしてみれば道潅が自分に対して危険な存在になりかけたので、彼を神奈川の上杉屋敷に呼び出して、風呂場で切り殺したのである。
 それまで大田道潅は30−40年の間、江戸の地にいたので、この地に長禄元年(1457年)に城を作り大勢の学者を招いた。太田道潅の城は、後の本丸になった場所は開放されている。東御苑の場所である。梅を多く植えた「梅林」という場所も残っている。東御苑の梅林坂である。堀の名前に道潅堀というのも残る、
 道潅が没後、上杉氏の治世となった。その後、上杉氏は小田原を本拠とした北条氏によって滅ぼされた。その後、北条氏が江戸城を中心に関東を治めた。北条氏は今日の、神奈川県、東京都、埼玉県、群馬県、常陸、房総半島の一部まで勢力下に置いた。北条氏は豊臣氏に滅ぼされた。大田道潅没後100年少し経った1590年(天正18年)、江戸は豊臣氏の支配下になった。
 徳川家康は豊臣秀吉に勧められ江戸城に住んだともいわれるし、徳川氏の本拠の三河、尾張、遠江を追われ、江戸に本拠地を移さざるを得なかったという説も有力である。家康は江戸に来ると、側近の家臣は遠くの地、たとえば群馬県、茨城県、千葉県に赴任させられた。赴任した家臣の領地は大きいとはいえども、せいぜい最高、10万石であった。それよりも家禄の少ない旗本(一万石未満)が江戸の周辺に居を構えた。
 江戸という地名は、どこから由来しているのであろうか?江戸の江は(江=こう)である。中華人民共和国では江といえば揚子江、河といえば黄河を意味する。一般的には江は大きな河を意味する。水辺に臨んだ場所が多いという意味もある。入り江という意味である。戸は水門を意味する。入り江に臨んだ門になる地域というのが「江戸」という地名の本来の意味かもしれない。江戸は海上交通にも恵まれ、四方が広い平野であり、利根川を中心として、さまざまな物産を運ぶ中心地として、西暦1590年、天正18年8月1日に江戸城が完成した。ちょうどこの時期、わが四国、讃岐の国の鬼無では、鬼無兵庫(香西兵庫ともいう)の居城、香西氏の出城である袋山の山頂にあった鬼無城が豊臣方の四国制圧の大将であった長曽我部元親によって焼き払われ、消失した時期でもある。皮肉にもこの年の城の完成により毎年、8月1日が、後にではあるが、徳川家の祝日になった。この10年後に関が原の合戦が生じた。豊臣秀吉はこのときすでに没していたので、家臣の石田光成が西軍の中心となり戦ったが、西暦1600年、慶長5年9月15日に西軍が壊滅した。大阪城には、毛利輝元を補佐役とした、豊臣秀頼がいたので、家康は毛利輝元を大阪城から去らせ豊臣の権力を失墜させた。慶長5年終わりごろには、徳川家康は全国を制覇したことになった。
 3年後の慶長8年、徳川家康は征夷大将軍になった。兵権と政権を掌握したものに与えられるこの称号は平安時代の初期のその端を発するといわれる。家康は徳川幕府を開いた。
幕府とは幕を張った府を意味する。これは戦陣の中で張るテント、仮小屋の意味だが、一般に「幕府」というと鎌倉時代からの将軍を意味する代名詞になった。家康の初居城である江戸城の周りは荒れ放題で、書物によれば、城に入る堀に丸太や板を渡しておいてあり、この粗末な板をわたって、城に入ったという。今の皇居が当時の西の丸にあたる。その付近は江戸時代になってからは、周囲が自然に富んだ場所であり野山であって町に住んでいる人が草花を摘みに遊びに来たところである。
日比谷は、当時、海水がこの地まで入り込んでいて、海の中に立てた、海苔を絡み付ける棒=これを竹冠に浜と書いて「ひび」と読むのであるが、ひびがおおくたてられていた場所だったという。いずれにしても、江戸時代の初期には、江戸城の近くまで海水がきていたということであろう。江戸城と交通する道は、城の西を廻った道と、日本橋と江戸城の間、すなわち東を通った2つの道があった。小田原北条時代に、江戸の宿場という言葉や、浅草へ行く道があったという記録があるので、城の東に道があったという証明にもなる。神田川は、今の神田方面を流れて隅田川に合流していたが、氾濫に備えて家康は、この河川の流れを変える工事などをしたともいわれる。現在神田川の直下には、神田川以上の水処理能力を持つ巨大な排水溝、もしくは核時代のシェルターにもなりうる巨大な地下豪が存在している。今日の皇居から新橋、日本橋、浅草への街道を作り上げたのはまさに家康の交通路変更の賜物である。慶長8年の工事では、日比谷の入り口を埋め立て、下町の造成の基礎を造った。このときに東海道の基点である日本橋が架橋された。この工事は、主として、西日本の大名を動員して行われ「天下普請」と呼ばれた。日本橋の街道としての基点の価値は、その間にあった山を崩すことにより成し遂げられた。江戸城の付近にあった丘陵を崩し、海を埋め立て、江戸城の東側に埋立地を造ったのである。今日残っている駿河台、神田の台、湯島の台などが丘陵を崩した名残である。家康は1616年に、いろいろ(1616)あって死去した。家康の死骸が、久能山から日光山に移されたのは元和3年4月8日のことであった。元和2年4月2日、家康は家臣の崇伝、天海、本田正純に遺言を残した。「御大漸(病気がだんだん悪くなること)の後は久能山に納めたまわり、御法会は江戸増上寺にておこなわれ、霊碑は三州(三河の国)大樹寺に置かれ、ご周忌をへて後、下野の国日光へ小堂を営造し祭尊すべし。京師には南禅寺中今地院へ小堂をいとなみ、進拝せしむべし」
 駿河台の由来は、駿河出身の家康が没してのち、駿河の地から江戸を開くために来た地方の人々が駿河台に住んだために名づけられたという説が強い。家康から三代将軍家蜜の間までが江戸城をより完成させ、江戸の町の基礎をつくっていく過程の時代であった。利根川の洪水から江戸を守るため、文禄3年から寛文5年(西暦1665年)にかけて、数回にわたる土木工事により、関東平野を乱流し洪水を起こしながら東京湾に注いでいた利根川の流れを東のほうに変え、銚子で太平洋に注ぐように改修した。一方、江戸城は徐々に大きくなり、本丸の後、西御苑のほうから今の宮殿のある西の丸の方面までが城の区画となった。だんだんと城の区画を広めたので、今の外堀を含む広い範囲が、江戸城の区画に入った。城の近くにあった町は、新しい下町に移された。今日の日本橋の通りは度重なる江戸の大火(特に明暦の大火)の後で区画整理して奥行き20間と表は60間の売店を道路沿いに作る区画整理をして、よりきれいな町並みづくりをした。下町には江戸城の近くにあった町も前述のごとく移されてきた。交通の要所となる大手町、南伝馬町ももとあった場所から移された町であるという。新しい町を作ったということが徳川氏の覇権を維持する礎になったのかもしれない。徳川氏は諸大名の妻子を江戸城の近くに住まわせた。いうまでもなく諸大名の妻子を人質にして江戸に参勤交代をさせたということも覇権を長く維持できた理由かもしれない。この制度により諸大名は徳川氏に忠誠を誓わなくてはならなくなった。三代将軍家光の代には、大名の正妻と15歳以上の子供(小人)は江戸に住まわせることが大名の慣習として定着した。家光は子供を取り締まる役として、小人奉行を置き、大名の子息を厳しく管理した。この制度は参勤交代制度が定着した家康の没後、四代将軍家綱の時代に、やっと廃止された。このとき、31の諸大名が子供を人質として江戸に住まわせていたという。

東海道五十三次
1.日本橋〜品川
2.品川〜川崎
3.川崎〜神奈川
4.神奈川〜程ヶ谷
5.程ヶ谷〜戸塚
6.戸塚〜藤沢
7.藤沢〜平塚
8.平塚〜大磯
9.大磯〜小田原
10.小田原〜旧道
11.旧道〜箱根
12.箱根〜三島
13.三島〜沼津
14.沼津〜原
15.原〜吉原
16.吉原〜蒲原
17.蒲原〜由比
18.由比〜興津
19.興津〜江尻
20.江尻〜府中
21.府中〜丸子
22.丸子〜岡部
23.岡部〜藤枝
24.藤枝〜島田
25.島田〜金谷
26.金谷〜日坂
27.日坂〜掛川
28.掛川〜袋井
29.袋井〜見付
30.見付〜浜松
31.浜松〜舞阪
32.舞阪〜新居
33.新居〜白須賀
34.白須賀〜二川
35.二川〜吉田
36.吉田〜御油
37.御油〜赤坂
38.赤坂〜藤川
39.藤川〜岡崎
40.岡崎〜知立
41.知立〜鳴海
42.鳴海〜宮
43.宮〜桑名
44.桑名〜四日市
45.四日市〜石薬師
46.石薬師〜庄野
47.庄野〜亀山
48.亀山〜関
49.関〜坂下
50.坂下〜土山
51.土山〜水口
52.水口〜石部
53.石部〜草津
54.草津〜大津
55.大津〜三条大橋(京都)

それでは、参勤交代によって江戸はどのように変わったのであろうか。大名は江戸城の周辺に大きな屋敷を構えるようになった。諸大名の上屋敷は、将軍から拝領した土地に建てたので「拝領屋敷」と呼んだ。諸大名の妻子を住まわせた下屋敷はこの上屋敷から少し離れたところにあり、墨田川の江戸城側、本所、深川などがこの地の中心となった。しかし尾張、紀州、水戸の御三家の下屋敷は、江戸城に近いところにありこの御三家は上屋敷、中屋敷。下屋敷、かかえ屋敷など30もの屋敷を有していた。これらの面積をあわせると途方もない面積になる。上屋敷だけでも10万坪という大きな屋敷がいくつもあった。今日の東京大学のある場所は、加賀前田氏の上屋敷である。前田氏は板橋の近くに下屋敷を持っていた。今日の加賀町である。現在、この地には大学や研究所が多く作られている。水戸の屋敷跡は現在の東京ドームの場所である。この向こうの春日町から富坂方面までが水戸徳川氏の屋敷であった。この中にあった庭園は後楽園として国の名称史跡に指定されている。
江戸庶民の町はどこかというと、新橋から浅草に至る町並みが日本橋を中心に構成されていた。もちろん大名屋敷の間にもいくつかの町並みができた。町民の大部分は、下町とよばれる海に近い、または海を埋め立てて作った土地に居住した。江戸の町は江戸城の築城をはじめとし、@大名の集住A徳川家臣団の集住B江戸城と大量の武士団の居館建設や、その消費をまかなうため商工業者の集住を目的として建設されていった。
徳川幕府は江戸に江戸町奉行を置いた。この職は今日の東京都知事、東京地方裁判所長、警視総監、東京消防総監、東京駅長にあたる。さらに老中、寺社奉行、勘定奉行などで構成された今の最高裁判所とも言うべき評定所の重要な一員であった。町奉行は通常2人が任命された。天正18年(西暦1590年)徳川家康の入府とともに板倉四郎右衛門勝重と彦坂小刑部元正が初代江戸町奉行になった。しかし町奉行が専業となったのは慶長9年(西暦1605年)からで八代州河岸(南)と呉服橋内(北)に番所を設けて月番制をとり、各月交代で勤務した。月番の町奉行所は表の大門を八文字に開いてその月の訴訟を受けた。現在の地名で言えば、南町奉行所は数寄屋橋、朝日新聞のある場所である。北町奉行所は常盤橋、日本銀行のあるところである。元禄時代には江戸はもう少し広くなったので、中町奉行所が置かれたことがある。

右上の日本橋が江戸時代にはこんなに優雅であった(右上は私の写真、上記はWikipediaWikipedから参照、紹介)



町奉行の下には与力が南北あわせて25x2=50騎(与力は馬に乗ることが許されたので馬の数で数えた)と100x2人の同心がいた。たったこれだけの町方で江戸の町一切のことが支配された。享保8年の江戸人口調査によると、江戸町数1676町、家数12万8505軒、男女人数53万1400人となっている。犯罪なども町方によっていっさい調べられた。財政の調査も彼らによりおこなわれ、庶民の生活の細かいところまで彼らの手に掌握されていた。しかし江戸町奉行は庶民の担当である町方のみを支配した。武家屋敷には町奉行は近づけなかった。
寺院、神社ならびにそれに関連する門前町は寺社奉行が支配した。勘定奉行は現在の財務大臣であるが、全国の幕府領地400万石を支配した。町奉行、寺社奉行、勘定奉行を3奉行と称した。そのうち寺社奉行は大名から選ばれた。町奉行、勘定奉行はいずれも家禄が一万石未満であるところの旗本から選ばれた。与力、同心は旗本より身分が下の御家人から選ばれた。旗本と御家人の違いは、将軍に拝謁できるか否かの違いである。旗本はお目見え以上、御家人はお目見え以下と称した。
町には5人組制度があり、その地域に見知らぬ人が侵入するとか事件があると町方取締りにはすぐわかるようになっていた。江戸外から江戸に入るためには、南から入るには、現在のJR田町駅近くにある大木戸という木戸番を通過せねばならなかった。現在は大木戸の西半分のみが残っている。西には、四谷と新宿の間に大木戸があった。今、この大木戸は消失している。さらに、それぞれの町に木戸があり木戸番がいたので、江戸の下町への侵入はまことに困難なものであった。治安の維持は江戸において重要な要素を占めていた。
江戸のもうひとつの特徴は、江戸が大消費地であるという面である。幕府直轄および旗本領地双方を合わせると、700万石に達するといわれていた。そこから得られる租税は米または金で徴収したが、大部分は江戸に送られた。その収入は幕府および旗本の報酬ととして支払われた。旗本の中でも上のものは領地を持ち一万石未満ではあるが石高があったが、下位の旗本は、米をサラリーとしたれっきとしたサラリーマンであった。蔵前には幕府の米倉が100以上並び、この倉の間には堀が入ってきていた。江戸湾に大きな船で入ってきた米を、小さな船に積み替え隅田川を遡り、この蔵前の地まで運んだといわれる。下位旗本や御家人の給料はこの米倉から支払われた。給料は一年に3回支払われた。
諸大名は寛永年間、三代将軍家光の時代から参勤交代が義務付けられたため、この行事のためにかなりの出費を余儀なくされた。大名は生涯の半分を江戸で過ごすようになった。遠くの大名は一年を江戸で、一年を国元で過ごした。関東の大名は半年交代で江戸と国元を往来した。大名行列は大きなものは1千人から2千人に及ぶものもあれば、数十人の小規模の大名行列もある。江戸屋敷では大きな大名では、何千人もの配下を住まわせ、その家族もいた。それに要する費用は莫大なものに上った。たとえば加賀前田家では税金の6割がこれらの費用に使われたし、庄内藩酒井氏では9割が使われたという。日本中でえられた税金の6〜7割が江戸にて消費されたことになる。
家事は江戸の華であった。明暦の大火では4万人以上の町民が志望した。保科雅之が残した巻物によると、江戸の町では、明暦大火のあと大勢の人々が死んだままになっていた。この死骸を集めて無縁仏のお寺を建立したのが回向院である。回向院は諸総山もろもろのお寺で、その名の通り宗派を問わず、寺の名を無縁寺という。宗派を問わないあらゆるひとがその寺に穴を掘って埋められ葬られたのである。無縁仏を埋めた後が山になり、その上に回向院が立てられた。
 目黒駅の近くにあった梅村用人坂の寺から出た火災、安政の大地震などで江戸は甚大なる被害をこうむった。この復旧のため全国、特に木曾から材木が集められ、材木屋、大工、左官などの仕事は休む暇がなかった。このことがさらに江戸の経済を活性化する要因になった。復興のために多くの金が流出した。それは大名や旗本にとっては、莫大な支出を意味した。江戸の大火はその風向きの方向から、火の手が北か北西から南か南東に延焼する場合が多く、火除空き地および日除土手などの防火帯は東西に設けられる傾向があった。
 利根川と荒川の出水による洪水も江戸の悩みであった。江戸は災害都市の最たる場所で、天災、火災で全財産を失うものも少なくなかった。たとえば弥右衛門は安永4年(西暦1775年)22歳で本所柳原に家を借り、酒、醤油の販売を始め、その後、茅場町、吉田町と住居を移りながら経営を拡大した。母親のために小梅代地町に家屋敷を買い求めた。しかし天明6年の洪水で全財産ならびに家屋を流してしまった。そこで母親とともに、小梅代地町に母親とともに暮らすことになったが、この地でも、寛政2年に類焼して再び全財産を失った。そこで松坂町に裏店を借り、長屋住まいの味噌の担い売りとなってしまった。
 後に日本一の大富豪になった伊勢出身の河村瑞賢は一文無しで江戸にやってきた。彼は東北地方の米を江戸に運ぶための阿武隈川下流の荒浜から江戸へ米を運ぶ東回り航路を開発した。さらに西回り航路として、最上川下流酒田から下関、瀬戸内経由で江戸の運ぶ西回り航路も開発した。後に河村瑞賢は旗本に取り立てられ代官職などを賜った。さらに彼は、火災のときに山を買占め、木材を売りさばき莫大な財を得たという。運輸業で江戸時代に有名なのは紀伊国屋文左衛門であろう。彼は紀州の蜜柑を江戸の運び莫大な利益を得たとあるが、彼も江戸の大火の際に大もうけをした。この時代には所得税や営業税などの税金はなく、ましてや所得に比例する累進課税などは存在しなかった。税といえば土地保有者にのみ課せられた。地租という税金である。三井家は越後屋から現在の三越を築いた財閥である。税制が緩やかなことが江戸の商人の間で、緩やかで自由な雰囲気を作っていた。江戸が大都会、大消費地となると各地から人々が流入しようとした。大名は家臣を伴い、家臣は家族を伴い江戸に流入した。さらに江戸の近県の大名においては、飢饉などで年貢が払えないとなると、農民は中元として江戸へ奉公に来て、払えなかった年貢の代わりとした。その他、江戸に来て一儲けしようとか、家督相続の際、農村の次男、三男が農耕の土地を分けてもらえず、出生地を追われ、一旗上げようと江戸に出てきたものも少なくない。
 季節労務者で江戸に出てくるものも現れた。今日の品川や大森は海苔の産地であった。海苔の栽培には、前述のごとく、海岸に「ひび」を立て、海苔が巻きつたところで冬寒季に収穫する。大田博物館にこれらに関する資料の多くが残っている。これらの労務者は農閑期の出かせぎとして、信州の諏訪からやってきたものが多かったという。農民が江戸に来て、本来の地元の農業がさびれるといけないので、幕府は農民江戸労務を禁止した。これが寛政や天保の改革で叫ばれた「人返し政策」である。この政策にはもうひとつの狙いがあり、常に飢餓と災害に苦しんでいた江戸の町民から、出稼ぎ人口増加により食い扶持を減らさない、食糧確保政策でもあった。しかし飢饉の際に実際に被害をこうむったのは、天下の台所であった大阪町民であった。幕府は飢饉の際には大阪の米を江戸へ持ってきたため大阪で飢え死にするものが多数出た。民衆の苛酷な環境の中で、莫大な利益を上げたのは、やはり幕府に大量の冥加金をおさめた一部の限られた商人たちであった。これらの商人の一方的な行動に怒りを爆発させた大阪与力であった大塩平八郎は一日のみの反乱を起こした。大塩平八郎の乱である。さらに物価高騰が一部の商人によって起こると察した老中水野忠邦は、遠山左衛門金四郎景元(遠山の金さん)に命じて元禄7年以降150年以上つづいた株仲間の解散に踏み切らせた。今日でもヘッジファンドという一部金持ちグループが先物取引において、石油の利権をめぐり原油の値を操作しているという現実をご存知だろうか。
 天保13年、大阪町奉行阿部遠江(とおとおみ)守正蔵は、天下の台所大阪で買占めをして物価上昇を操る商人以外に、物価が上昇するその他の原因を突き止めた。それは 大阪24組問屋の菱垣廻船商品運送ならびに江戸10問屋為替支払い16万1173両の滞納であった。この滞納が原因で大阪から江戸への商品の輸送が減少した。菱垣廻船は幕府の保護を受けていたが、幕府の保護下にない運送業者、内海船が暗躍し始めた。大阪に送られる荷は、日本海から入る際に、長州の赤間が関をはじめとする海上交通の要所で、比較的高値で買い占められるようになっていた。内海船はその数、数千艘で、豊富な数千両の現金を持ち、海上交通の要所で幹線の荷物の現金バッタ問屋買を破廉恥にもおこなったのである。手に入れた荷物は需要に応じて内海船の裁量の元で各地に売りさばくことができた。内海船の地元は愛知県知多半島内海地区であったので、この地域はまたたく間に裕福な村へと生まれ変わった。
 江戸の人口に関しては、ジョン・ロドリゴ(スペイン)の記述が最初である。彼は上総の国に漂着して江戸に来たが、彼の記録によれば、江戸の人口は15万人ぐらいである。非常に町がきれいである。スペインの町よりもゴミがいっさい落ちていなく美しいと絶賛している。江戸の町方は個々に各家庭をしっかりとは掌握していたものの、江戸の人口調査が一斉におこなわれたのは八代将軍吉宗の時代からであった。享保8年の最初から6年ごとに全国の人口調査がおこなわれた。この調査は農民および町民のみであった。武士の人口調査はまだおこなわれなかった。18世紀半ばの江戸の人口は町方で前述のごとく53万人(50万人から55万人)であった。これに武士の旗本、御家人、大名の関係武士を含めると50万人以上いたと推測される。ゆえに、この時期の江戸の総人口は100万人以上であったと推測できる。ヨーロッパでこの時期のロンドンの人口が80万人に満たなかったので江戸は世界最大の人口を持つ都会であった。この時期のパリは50万人、アメリカは建国以前で人口は極端に少なかった。19世紀には江戸は京都や大阪を追い越して日本最大の都市となり大きな力を持つようになっていた。一極集中の傾向は江戸時代にすでに始まっていた。
 庶民の生活は裕福から貧困までさまざまであった。土間がありその向こうに6畳の間がある。ここで食べたり寝たり日常生活をする長屋住まいをする人々もたくさんいた。「てやんで。こちとら江戸っ子デイ。宵越しの銭など持てるカイ」というような具合に気風のいい人間が多かった。彼らは宵越しの銭は持たなかったが、宵越しの金はほしかったという。
ここで金貨と銭のちがいについて述べよう。
江戸時代に通用した通貨は主に金貨、銀貨、銭貨の三種類があった。
江戸時代においてはそれぞれの単位がばらばらっであったが大きく金貨、銀貨と銭に区別していた。
金貨
単位は両・分(ぶ)・朱(しゅ)の三通り。
四進法になっている。
一両=四分
一分=四朱
一両は四分となり四分は十六分。
すなわち 一両=十六分。


小判の種類・
大判(二十両)
小判(一両)
二分金
一分金
二朱金
一朱金
銀貨
単位は貫、匁(もんめ)・分(ふん)・厘・毛の五通り。
四進法ではない。
一貫匁=千匁
一匁=十分
一分=十厘
一厘=十毛
銀貨には丁銀・小玉銀があった。
それらを組み合わせて秤にかけて目方で通用させていた頃があったらしく
ゆえに銀貨はちぎって使うことができた(江戸初期〜十八世紀半ば)が、十八世紀の後半にもなると銀貨の計数貨幣が現れた。
明和(めいわ)五匁銀、南鐐(なんりょう)二朱銀
二分銀
一分銀
二朱銀
一朱銀
このような計数貨幣が出てきたことには、江戸幕府が金貨を中心とする
経済政策をとろうとしたからである。
銭貨
いわゆる銭、江戸っ子の「宵越しの銭派はたない」というのもこの銭。単位は貫・文。
もっとも江戸庶民になじんでいた貨幣。
一貫=千文
銭貨にも何種類かの銭がある。
永楽銭(江戸初期に使われていた明国からの輸入銭)
寛永通宝(一文銭。これにより銭は統一)
天保通宝(四文銭、百文銭など)

 江戸の都市計画の下にできた長屋は現在のアパートとは異なる合理的な機能を持っていた。長屋の中には江戸の都市計画の元に確保された空き地を持っていた。その場所には、共同便所、共同風呂が備えられていた。しかし、この長屋が火災の温床になっていた。長屋の構造は、表通りに面して平均2間から3間の表店が4軒あり、この間に割長屋に入る一間の路地がある。表店の木戸を開けると、割り長屋、棟割り長屋が表通りと反対側に3棟から4棟存在する。この路地がそれぞれの棟に通じている。この路地の真ん中にドブが長屋から流れてきて表通りの川に注いでいる。ゴミタメ、便所、井戸が一箇所の表店に近いところに集まっており、反対側に小さな2間四方の庭がある。長屋の一個あたりの総面積は7畳半であるが土間があるので座敷は4畳半である。この狭い部屋で食う、寝る、暮らすの日常生活を送った。料理は皆、表に出て井戸の周りで井戸端会議をしながらおこなった。この間取りから見ても江戸の町民の生活は質素なものが感じ取れるであろう。
 原因不明の放火事件は頻繁に生じた。火事の多さは火災による職人の仕事の増加、ひいては手間賃の高騰につながり、この面が放火犯罪と関連があったと指摘する学者も多い。
 越後屋のように几帳面な仕事をしている商家は、収支は年に2回、盆、暮れに勘定した。盆暮れが一度に来たということは、一年分の収入が大量に一度に入ってきたという意味である。江戸時代はこのような掛売りが通常であった。医家などは、明治の終わりまでこの制度を導入していたというからすごい。掛売りの店には大福帳という帳面があって各家庭で半年毎の消費金額の計算をしてその額を請求するという方法である。井原西鶴の作品には、有名な日本永代蔵がある。この話は、暮れの集金の時期に各家庭で、どんなにか厳しい集金を免れたかという逸話をまとめたものである。料金をキャッシュで払う際には現在でも「現金掛け値なし」と領収書に記することがある。三越の前身である越後屋は、他の商家と異なり、その時払いの「現金掛け値なし」商方であり確実な利益を上げることができた。このようにすると年に2回、盆、暮れの勘定の取りこぼしが少なくなるわけである。番頭とか小僧がこの現金係を努めたようである。
 商家ではよく見えるところに役割を示すものの名前を書いた木札を壁にかけてあり、店に入ってきたお客によくわかるようになっていた。越後屋は、現金で商売をした、大名に金を貸さなかったという2つの点で後の成功につながったという。大名に金を貸して、その取立てができずに潰れていった商家はこの時期後を絶たなかった。越後屋は出身地の松坂が紀州徳川家の支配下にあったので、徳川氏と徳川幕府の雑用を取り扱っていた長岡牧野氏とは、ある程度の付き合いはしたという。越後屋は伊勢商人、近江商人らと競い合った。越後屋が競り負けた事例に西川という呉服屋と番殿という蚊帳屋があった。越後屋がのれんわけをしたその主人の身元と性格がはっきりせず、越後屋としてはふがいない失敗例を出したというわけである。できの悪い手代は越後屋にもいたわけである。
 江戸は上方、および関東一円からも物資が流入し商業的にも発展した。周囲の産物を中心地で処理する商業を「地回り経済」と呼ぶが、これにより関東全体の経済も高揚した。町方にも余裕ができた。隅田川の本所、深川に遊ぶ地域も生まれた。舟遊び、桜見物、亀戸、神社めぐりなどなど。南では品川駅の近くの御殿山が桜の名所になった。品川宿の中に海安寺があり紅葉の名所となっていた。庶民は遠くに一泊か二泊して鎌倉や江ノ島に出かけた。浅草観音、神田明神なども栄えた。回向院は正午から本尊を開帳した。日光の東照宮(これは武士だけであったが)や信濃の善光寺の開帳がしばしばおこなわれた。見世物小屋もできた。中心の両国橋は繁華街となった。珍動物、軽業師などが民衆を和ませた。歌舞伎座ができ市川団十郎というような名優も輩出した。京都の俳優で唐十郎というひとは柔らかな芝居で女性に人気があった。江戸に楽しむ場所ができ、庶民は明日の芝居を予想して楽しんだ。それでも江戸の人口増加のため18世紀前期には江戸市中からホタルが消えた。八代将軍吉宗は品川御殿山、飛鳥山、隅田川東堤上に桜を植樹し、中野村に桃園を開設し行楽の場所とした。
「天下泰平五穀豊穣」を眼目とする旅行は巡礼として出入りの厳しい江戸から出ることのできる数少ない手段であった。金のない庶民のことでもあるので、講や代参と称して集団で、お伊勢参りに出かけたのである。東海道はその交通の要所であった。
五十三次とは日本橋から京都までの間にある53の宿場のことである。すなわち、品川から大津までの宿場の数である。宿場は約10km間隔で設けられていた。宿場間で最も短距離にあるのは御油と赤坂間でこれは1.6km、宮(熱田)と桑名の海上距離を含めた28kmが最も長い。
 江戸は、ジョン・ロドリゴの記載にもあるように、塵ひとつ落ちていないきれいな街であった。その理由は、江戸にはある程度の上水道(水の処理がうまくいく設備)があったこと。物質やエネルギーの再利用、再生(リサイクル)が行き届いていた点にある。江戸では表店の裏にある裏店に各長屋を作り、各長屋を管理する大家を置いた。大家にとって裏長屋の店子は子も同然であった。各長屋で空き地をこしらえ、ごみため、井戸、便所を3点セットで一箇所に置いた。この場所にゴミを捨てていたのだが、江戸幕府が町方にゴミを隅田川の永代島(永代浦)に捨てるように指示したのは、明暦元年(西暦1655年)11月のことである。ゴミ処理に関して、芥集、運搬、処分という役目の業者が決められた。さらに長屋の空き地は必ず設け、集会場として利用することも禁じた。いわゆる遊ばせる土地を、江戸幕府は意図的に作っていたのである。@町中の者、川筋へはきだめのゴミ捨てまじく候、船にて遣わし、永代島に捨て申すべく候。ただし夜はご法度にて候間、昼ばかり申すべく候Aくあいせん(廻船)の船、むざと懸けおき申すまじく候、船道を空け候て、通し船つかへ候はぬ様に懸けおき申すべき事Bめんめんのかしばた、少しも川を埋め、突き出し申すまじく候事。この時期の将軍は徳川家綱、老中は酒井忠清であった。それでも明暦の大火、振袖火事は明暦3年に発生している。前記のような火付けがあった理由もある。江戸幕府は町奉行のみならず火盗あらためなる役職まで作らなければなかった。
 海運の発達のために水路の浚渫(しゅんせつ)がおこなわれ、その土砂は、どこかに捨てなければならなかった。元禄12年(西暦1699年)から永代浦の埋め立て干拓がはじまり築地が誕生した。やがて千田新田、石小田新田、平田新田などが誕生し、現在の東京都江東区北砂町、南砂町、東陽町などとなった。ゴミと水路の浚渫土が新しい東京の土地に変わり、この地に新五兵衛、甚兵衛らにより新田が開墾され江戸の食糧の供給に一役買ったのである。
 同時期、ヨーロッパの町パリには悪臭が漂っていたという。16世紀のパリの人口は40万人だったが、彼らは屎尿(しにょう)処理に便器を利用していた。しかし市街地内には適当な屎尿を捨てる場所がなく日没を待って、彼らは「ギャルデ・ロー(水にご注意!)」と叫んでから窓から街路に便器の汚物を捨てたという。このような習慣が、伝染病の蔓延をも助長したのに違いない。
 江戸の生活はまさに合理的なものであった。衣類は新品でなく夏物冬物ふんどしまですべてレンタル、旨いもので飽食するでなく腹が減ったら大根飯、住居は9尺2間の棟割り長屋住まいがほとんどで質素であった。町のリサイクルを本業として生計を立てるものが多くいた。多少はリサイクルの重要性が見直されてきたが、いまだに使い捨てが当たり前の現在と違って、鎖国で物資をとことん利用しなければならないという生活の知恵が、このようなクリーニング、レンタル、屑拾い、廃品回収、目立て、包丁磨ぎなどの職業を発展させたのであろう。
 シーボルトは次のように記録している。編み物にしたり、むしろにしたりする藁の消費は日本では非常に多く、ことに人馬がはくのに用いるのが主であるが、街道でしばしば旅行者が落としたり捨てたりした草鞋靴の山を見かけるが、集めて肥料にするのである。ゴミとなったものが、即、捨てるものとはならなかったのである。歴史読本1992年8月号の大江戸の環境にやさしい生活術から引用してみよう。リサイクル職業名とその役割をあげる。桶なおし:輪替え、竹輪なおしともいう。桶職人は桶を作る他に桶を修繕した。民家の庭先で古い桶を直した。鏡磨き:曇った鏡を磨き再生する。紙くず拾い:紙くず買い商人と違って紙くず拾い人は資本を持たず身なりも浮浪者に近い。拾い集めた紙くずは紙問屋に売った。再生紙である。古着屋:享保年間には江戸に千軒を超える古着屋があった。古夜具を扱う店もあった。露天で「馬」と呼ばれる台に古着や、古着の切れ端を掛けて売る商人も多かった。古傘買い:破れた古傘を4から12文で買い取り、古傘問屋が集めて下請け、失業した武士の副業でもあったが、に張りなおさせた。はがした古い油紙は、ももんじ屋(鳥獣の肉を売る店)に売ったという。肉の包み紙として用いた。湯屋の木拾い:銭湯の従業員にとって燃料になる木などを拾い集めるのは重要な仕事であった。火事場にある燃え残りの材木はよい燃料となったので、取り合いにならないように縄張りが決まっていた。ゴミ取り:農村からまきなどを運んできた帰りに、彼ら農民はおもに生ゴミを集めて持ち帰った。その生ゴミを地面に埋め、醗酵熱をつくり野菜の促成栽培などに用いた。馬糞拾い:宿場は馬が集まり馬糞も多かったが、農家の人が集めて持ち帰り肥料にしたため馬糞公害は起きなかった。下肥取り:汲み取った糞尿は部切船(糞尿運搬船)で農村に運ばれた。下肥問屋、肥料専門の商社もできた。灰買い:燃え残った灰を買い取り、綿紡ぎや肥料に用いた。江戸の庶民のほとんどは「リサイクル賢者」の暮らしをしたのである。
 その町民文化は、元禄時代までは上方京都の文化の影響が強かったが、18世紀末から19世紀(文化文政時代)にかけて江戸独自の文化を形成した。文学者や芸人を多く排出した。狂歌で有名な大田稙南畝(なんぽ、蜀山人とも称す)は御家人であったが、狂歌やいろいろな遊びを楽しんだ。山手馬鹿人というパンネームで洒落本も書いた。浮世絵は文化文政時代には錦絵として多色刷の絵となってきた。その錦絵は今日手に入れると何十万円もする。その錦絵は参勤交代に便乗して地方にも広まっていった。
 江戸には話しにでてくるだけでも、青大将、蛇、狸、オオカミ、イノシシ、鯨、カワウソ、鷹、ツキノワグマ、トキ、キツネ、昆虫、ウナギなどが生息した。マミ、イクジ、クワッシャ、ウワバミ、ミョウガサメなど絶滅した動物たちも動物図鑑に形態が掲載されている。江戸時代の動物は概して大きかったようである。1m以上もあるイタチとか一尺もあるクモとか、何丈もあるウワバミとかがいたという。シカやイノシシも現在のものより大きかったようである。東京湾の漁獲量も多かった。江戸時代の全国の内海における漁獲量をみると、1位、東京湾、2位、三河湾、3位、広島湾、4位、伊勢湾、5位、駿河湾である。天保3年に日本橋の魚市に集まった魚種はカレイ、スズキ、カツオ、マアジ、ボラ、タイ、キス、クロダイ、ショウサイフグ、アンコウ、ヒラメ、カナガシラ、ホウボウ、メバル、タチウオ、カサゴ、トビウオ、アナゴ、サヨリ、マグロ、ハモ、コチ、サワラ、イシモチ、アイナメ、タカノハダイ、ハゼ、カガミダイ、カイワリ、エイ、コノシロ、イワシ、サバ、サメ、シラウオ、ギンボウ、マルタ、ウグイ、ウナギ、サケ、タラなど種類に恵まれていた。
 江戸時代の文化が200年間続いたことはきわめて稀といえよう。鎖国による物質の不足が民衆に省資源の概念を植え付けたのである。質素、倹約、リサイクルの生活の知恵により、物質的には乏しかったが精神的には豊かな工夫の時代であったのかもしれない。日本の人口は江戸時代を通して2千7百万人程度だったという。幕末、文明開化になった3千万人となったが、江戸時代の安定した人口や、リサイクルの発達とともに質素な食や堅実な文化の発展に寄与した、現在が学ぶべきよい点を見逃してはならない。


徳川の政治改革

パート1・亨保の吉宗・寛政の定信
1.徳川吉宗(徳川第8代将軍 在職1716-1745)
 三代将軍徳川家光は家康の孫、家忠の息子で世襲制で征夷大将軍についた。彼は江戸城に大名を集め「余は生まれながらの将軍である」と威張った。逆に、御三家ではあるが、思いがけぬ経緯で紀伊の大名第2代藩主徳川光貞の第4子、農民妾の子から将軍になった徳川吉宗(初名 頼方)は穏やかな人間で、決して怒鳴ったりしなかった。
 吉宗は将軍職につくとまず老中を集め、彼らの仕事分担を聞いた。老中は将軍に直属し、幕政を総理し、朝廷、大名のことを扱い、遠国の役人などを直轄していた。定員は4名または5名で月番の交替勤務で2万5千石以上の譜代大名から補任され、執政、宿老、奉書連判、加判、年寄の役割があった。しかし老中の仕事分担はあいまいであった。木綿の寝間着姿の吉宗は老中たちに静かな態度で仕事内容を聞いた。質問をうけた老中は井上正岑(いのうえまさみね)、土屋政直、久世重之、阿部正喬、戸田忠真の5人の老中であった。「まず聞くが、江戸城に櫓(やぐら)、鉄砲、幟(のぼり)は何本あるのか」たった1名のにやにやと笑っている老中、水野忠之(1669-1731)を除いて他の老中たちは一同に「わかりません。部下が細かいことを存じている」と答えた。「きみは何の仕事をしているか」「私は人事担当です」「では幕府直属の武士は何人か。現在、江戸城に何人登城して何人病気で欠勤しているか」「全部、部下に任せていますので詳しい数字は申しかねます」吉宗は平然と「そうか」とうなづいた。「きみは何をしているのだ」「私は財政担当です」「幕府の年間予算と現在の支出はいかほどか。支出の多いものの順に挙げよ」「部下に任せておりますので、何でしたら、彼をここに呼びましょうか」吉宗は「財政は政治の基本である。私はこれから財政を中心とした政治を行う」といい「入るを図って出るを制す政治を行う」とも言った。
 吉宗はこのときから勝手掛老中を設けた。大蔵大臣である。この時期、幕府には経済観念が根付いてなかった。しかし吉宗は幕臣にあえて紀州から連れてきた人物を用いようとはしなかった。しかし彼の口頭試問に答えられなかった幕臣たちは徐々に自主的に老中を辞職し怠慢な幕臣たちは淘汰された。
 吉宗は「大奥の美しい女性を50名挙げよ」ともいった。このとき幕臣たちはやっとほくそえんだ。「今度の将軍様もやっぱり男であるわい。将軍職についたらすぐに大奥で美女とお戯れになるに違いない」ところが名簿を手にした吉宗は「持ってきた名簿はみなくてよい。名簿の女性たちをそっくり家に戻してやってはくれないか。器量がよい娘であれば大奥にいなくともきっとよい縁談があるだろうから」幕臣たちの態度は徐々に変わっていった。「今度の将軍は変わっているぞ。うかうかしていられないぞ」
 家康は御三家を作った。御三家は尾張の徳川家(尾州家)、紀伊の徳川家(紀州家)、常陸の徳川家(水戸家)の総称である。諸大名の上に位し、将軍に嗣子のないときには三卿(さんきょう)と共に尾張、紀伊両家から継嗣を出した。水戸家はその特典がなく、代々副将軍であった。すなわち御三家は親藩の中でも最高位をしめ水戸家以外は田安、一橋、清水の御三卿とともに世継ぎのない将軍家を継ぐ家柄であった。
 徳川家康は次男の秀忠を将軍にしたが、秀忠の弟は年代が離れており、家康の九男義直を尾張、十男頼宣を紀伊、十一男頼房を水戸の城主にした。これが御三家のできた訳である。御三家の中でも尾張藩第7代藩主の徳川宗晴(1696-1764)は将軍を相続できなかったがゆえに思いもかけないいきさつで将軍になった吉宗にことごとく対立し亨保の改革を批判した。江戸時代には3回の景気の山と谷があった。元禄、明和から安栄、文化文政時代は高度成長時代であった。その反対に経済の象徴的な谷である不況は、亨保、寛政、天保時代であった。
 最初の亨保の不況期に最初の改革を行ったのが吉宗であり「亨保の改革」とよばれた。徳川吉宗は紀州藩主徳川光貞の四男である。彼は兄の相次ぐ死去により紀州藩主となり、徳川家継の後、第八代将軍となった。幕府中興の祖となった。すなわち徳川日本株式会社の和歌山支社長であった彼が突然社長になったようなものである。新社長は重役に向かって家光とは異なった一発をかました。君達が状況を把握しないから、赤字経済になったのだ、もっと仕事に専念せよ、私の方針にしたがえないものはやめてもらう、ことを暗に申した。彼は自らは幕臣の罷免はしなかった。しかし幕臣は自らの無能力をさとり職を去った。吉宗は顔では笑っているが心では恐い人間だ、暗に僕らを戒めているぞ、と幕臣たちは緊張の日々を送った。
 はたして亨保の改革は吉宗のみでなされたのか。この改革は国民の権利と義務をはっきりさせたものであったといえよう。吉宗の考えは「意見はどんどん将軍に届けてほしい」これが目安箱である。和歌山では彼はこの制度は大手門の前で実験すみであった。目安箱の原則は次の通りであった。投書者の住所氏名をはっきりかくこと。投書の内容で人の不幸になるようなものは受け付けない。社会のプラスになる建設的な意見を求む。ただし役人の不正に関してはどんどん投書して欲しい。
 目安箱の投書人に小川笙船(1672-1760)という医師がいた。彼は「身寄りのない老人が病気になったら看る人がいず、の垂れ死するので病人が公の費用でみれる治療院をつくってほしい」という意見を取り上げた。大岡越前守忠相に命じて1722年に小石川に養生所を作った。赤髭のモデルにもなった気骨ある小川笙船は真心を込めて診療に当たった。養生所は東京都養育院として残っている。
 ある侍は「吉宗将軍はすべて節約でけちけち政治である。江戸町民の心がすさんでしまう。活力がなくなってしまう。あなたは和歌山城主でしかない。日本の城主ではない」という内容を目安箱に投書した。吉宗はこの文書を快く受け入れ、再び大岡に命じて桜の名所を作った。当時造られた明日香山、墨田川、小金井などは今も桜の名所である。
 吉宗はさらに鎖国を一部解除し天文、地理、船舶、食べ物、時計、望遠鏡、医学書、絵画、動植物などを西洋から移入した。科学好きの彼は暦や雨量にも関心があった。そこで江戸城にオランダの観測器を据え付け天体観測所を設けた。それまでの中国の天文の知識では不正確であった暦を改良し神田に天文台、暦局をつくり西洋天文学による新しい暦をつくった。
 倹約だけでは赤字へらしで終わってしまう。吉宗はこの面を考慮し増反(ぞうたん)政策をとった。多くの新田が亨保年間に開墾された。神奈川、埼玉、千葉にある新田の多くはこの時代に造られたものである。新田開発を主とした農政に手腕を発揮したのも大岡であった。
 大岡は飢饉の際の代用食物の栽培も考えた。彼は農学者であった青木混用とともに甘藷(かんしょ=さつまいも)の栽培実験をした。確かに飢饉の際にこの甘藷が代用食として多いに役だった。
吉宗が将軍になる以前まではオランダの商館長が江戸城を訪れると、将軍は御簾(みす)の中から彼らに応対していた。彼らは珍しい動物を将軍に持参した。ヒクイドリ、ジャコウネコ、クジャク、ダチョウ、シチメンチョウ、ガチョウ、インコ、ベニスズメ、ブンチョウ、キュウカンチョウ、ワシなど日本にいない珍しい動物を持ってきた。吉宗が特に関心をしめしたのは西洋のウマと象であった。日本の馬は馬質改良が行われていなかったのでどちらかというと「ポコポコ馬」が多かったのである。サラブレッド(thorough-bred=完全に育てられたという意味)はこの時代の日本にはいなかった。西洋にはすでにサラブレッドがいた。吉宗はサラブレッドに非常な関心を示した。そして1頭のサラブレッドを手にいれた。象にも同様の関心を示した。京都の天皇が同様に象を見たいと言い出した。京都の御所にはいるには何がしかの位がないとはいれない。入り口で「ゾウ」モスミマセンでは御所にはいれてくれない。幕府は公家や大名がもらうと同様の従何位とかいう官位をこの象に付けて御所にいれた。さらにこの象は江戸に来たが吉宗はこの象を見てその大きさに驚いたという。吉宗はこの象を他の大名や江戸町民に公開した。
吉宗のなした前述の行政改革の中の権利と義務の明確化は次の点に現れている。亨保3年の江戸の市民消防の設置が挙げられる。それまでの消防の役割は大名火消しとか旗本で構成する定火消しが火災の鎮火に当たっていた。これでは町民に町を愛する意識、火災の際の意識が行き渡らないと考えた吉宗は、「いろは四十八組」の江戸消防、町火消しを作り彼らの財産を自ら護らした。吉宗はこの様にして義務の履行を町民に迫った。以外にも町民はこの様な義務を吉宗に対する恩義であると解釈して喜んで役に当たった。神奈川の大岡越前守の墓には毎年消防隊が「けやり」を唄い、お参りを続ける風習がある。
 吉宗の積極的なリストラをささえた補佐役として、岡崎藩主水野忠之の徴用がある。彼こそが吉宗の行った口頭試問で合格した唯一の無任所老中であった。吉宗の口頭試問の際、平老中であった水野忠之は役付きの老中のはしでにやにや笑っていた。吉宗は彼に訪ねた。おまえは笑っているけれども江戸城内の櫓の数とか今日江戸城に勤務している武士の数とか徳川幕府の年間予算額とかを知っているのかと聞いた。忠之はこれらの答をすらすらとだした。吉宗は感心した。「彼は出すぎない男だ。おまけにいろいろな事情をよく把握している。数をよく把握し強い」
 吉宗は水野忠之を財政担当のお勝手方として取り上げた。今の大蔵大臣である。江戸城の勘定所とよばれたところには年末になると多くの贈り物が運び込まれてきていた。例えば鮭がはこびこまれてきたとしよう。その部署の長である勘定奉行は、老中の許しを得てこれらのもらいものを分けてもよいという習わしになっていた。賄賂でも何でもない普段の感謝の現れである品物だからである。
 鮭をこの様にしてもらった武士たちがその始末に困っていたとき、突然大蔵大臣に任命された水野忠之がその場にはいってきた。武士たちはびっくりしたあわててその鮭を隠そうとした。適当な隠し場所がないのでその武士は着ていた裃の背にあわてて鮭をつっこんだ。そして彼らは水野にむかいうやうやしくおじぎをした。一緒に背中にいた鮭もおじぎをした。それを見てハハハと笑った水野は「これからは裃で仕事をするのをやめなさい。羽織を着て仕事をしなさい」と語ったという。それを聞いたその部署の長たる武士は「そんなことをすれば勘定所の権威が薄れます。そうでなくても武士はくわねど高楊枝で金の計算をするわれわれを他の武士は馬鹿にしております。羽織などを着ればなおさら馬鹿にするに決まっています」と反論した。ところが水野忠之は「そんなことはないよ。本当の権威とは行う仕事によって生まれるものだよ」と諭したという。羽織を着ていようと裃を着ていようと権威というものには変わりがないのだということを彼は言ったのである。変わりものの指導者が来たものだとその場に居合わせた武士たちはいぶかしがった。しかし彼らたちは後で水野が言ったことは、裃を着ているより羽織を着ていた方が鮭が隠し易い。進物はありがたくお受けなさいよ、ということを遠回しに言ったことに気がつき、下々の心がよく判る大蔵大臣が来たものだと感心し、水野の家臣への評判は一気に高くなった。
 水野は自分ではものを決めなかった。家に戻ると気骨のある武士、松本三左衛門という番頭と議論をする。「吉宗公はこのようなことをおっしゃったがこの点はどうか」「それはおかしいので反論なさい」などの要領である。きたんのない意見交換がこの場でなされた。彼が公正に誠実に吉宗政治を補佐しえた一面である。
 台風で江戸城の塀や石垣が壊れた。武士たちは早くこれを修繕しようといったところ水野は「いや修繕しなくてよい。もともと塀は家を囲むものでこの様なものはない方がよい。吉宗公はもっと気さくなお方なので塀がなくともよい。世間とよく交流ができるではないか。塀の壊れたところには松の木を植えよう。石垣の壊れたところには芝生を植えよう」といったという。江戸城を厳めしい城ではなく、江戸町民からも親しまれる城に変えようと図った言葉に違いない。今日皇居にのこる松の木の群れや芝生はこのときに水野によって江戸城の塀が取り払われこれらが植えられた名残にほかならない。江戸城は石垣が少なく芝生が多い温かみのある城であるといわれるのは水野の発案のおかげである。
 しかしその後水野は亨保15年(1730年)吉宗に罷免された。その理由は米価の安定に失敗したこと、和歌山の氷川様という神社の江戸移転にかかわる幕府財政出費の方針に反対したという2つの理由があった。水野は将軍といえども幕府の金を特定の宗教に使うのは憲法違反であることを知っており、正当な理論を通したので、吉宗に罷免された。この夜、水野忠之は「やっと自由な生活がおくれる」と一夜、家臣とドンチャン騒ぎをしたという。
 吉宗が期待をしたもう一人の家臣が大岡越前である。今にのこる大岡政談はその多くが作り話か中国の逸話のコピーにすぎない。大岡が手腕を発揮したのは民政面、農政面、福祉面であった。江戸庶民の生活の豊かさを願ってやったことが多かった。江戸町奉行は現在の東京都知事、警視総監、消防総監、東京地方裁判所長の職を兼ねていた。江戸町奉行になる以前の大岡は山田奉行つまり伊勢山田の奉行であった。この山田を囲むのが紀伊藩であった。山田に住む人々と紀州和歌山藩に住む人々の間で土地争いがよく起こっていた。それまでの山田奉行は紀州藩を立てて御三家のうちの一つの紀州徳川家のご意向を聞くという方針で、山田の住民に利があっても彼らに味方しなかった。徳川家の言いなりになって常に山田の住民に不満をいだかせ続けていた。しかし大岡は違っていた。山田に利があるときには大岡は「これは紀州がまちがっている。山田の言っていることが正しい」と毅然たる態度で対応した。これを聞いた紀州藩主徳川吉宗はこの態度に感心した。「気骨のある山田奉行がいたものだ。今までの山田奉行はこっちの言いなりになっていたが今度の大岡は違う」と吉宗は大岡に好感を抱いた。紀州藩で材木を切り出したときに、川に材木を流した。紀州側から流した材木が川の橋にドーンと当たって橋がよく壊れた。山田側の住民たちはこれをなんとかしてくださいと山田奉行によく申し出た。大岡はこの件に関して次のような判決をした。「材木の所有権はその存在する土地にある。したがって山田の橋にぶつかった紀州藩の材木の所有権は山田にある。だから山田の住民は材木が橋にぶつかる前に川から引き上げて自分のものにしろ。売ってもよろしい」これにより山田の住民は多くの利益を挙げた。紀州藩の住民はこれに抗議したが大岡はこの抗議を受け付けなかった。吉宗はこのころから山田奉行の大岡は非常にみどころがある人物と評価していたのである。吉宗は大岡を権威に屈しない公正な裁きを行う人物であると見破っていたのである。
 将軍の政策の実権が現れるのは江戸のみである。大阪には城代、京都には所司代、名古屋には尾張家があり彼らの裁量がこの地には発揮されていた。将軍がなした亨保の改革といっても実際に現れるのはまづ江戸である。その影響をもっともうけるのは江戸町民である。逆に言えば江戸町奉行は単に江戸の奉行ではない。将軍の政策を忠実に実行する要職であった。将軍の実力を見るために日本中の目がこの江戸にあつまっているともいえる。その責任は重大であるが大岡は吉宗の政策を忠実に実行した。またその政策を忠実に大名に伝えるのは水野忠之であった。大岡は自分のやっていることはすべて吉宗公の身代わりなのだという自覚のもとに江戸で行政に携わった。自分が失敗すればそれは吉宗公の失敗であると自覚していた。命がけで誠実な大岡は心暖かく江戸町民の心を理解しながら政治にあたった。権利と義務の使い分けというむずかしい職務を大岡はなしとげたといえる。はい、いいえをはっきり言えた政治家といえる。これは彼の江戸を愛する人柄による。吉宗が所持し誰にも渡さなかった目安箱の鍵をあけるときには大岡が必ず立ち会ったという。吉宗と大岡の信頼関係をこれでも推測することができる。
 吉宗の統治下に困難な時期がやってきた。西の国のイナゴの災害で江戸に米が不足した。そして高間伝兵衛という米問屋が襲われた。米俵が盗み出された。狂歌に「こめはたかまあ(米は高間=こめはたかない=かゆでしかすすれないという意味)、おおくわくわねい、たったいちぜん(大岡くわないたった越前=多くは食べられないでたった一膳である)」これを境に大岡は寺社奉行に転任し、水野忠幸は引退した。
 確かに吉宗と大岡、水野は亨保の改革を遂行したトリオであった。しかし亨保の改革で吉宗のめざした米価の安定は物価の安定とならなかった。吉宗が重要であると錯覚させた米経済の無理がここで破断を生じたのであった。時代はすでに貨幣経済に移行しつつあったのである。 

パート2・寛政の定信、その後の田沼
2.松平定信(1758-1829)
 徳川幕府老中筆頭として、また徳川吉宗の孫として1787年(天明7年)から1793年(寛政5年)にかけて7年間にわたって30歳から幕府の要職を占めた。彼は白河楽翁(しらかわらくおう)として隠居してからも年寄りを大切にした。老中、大目付、若年寄り江戸幕府の重要なポストに付く人は別なところで領地を持つ大名か旗本に限られていた。彼は今の福島県、白河郡の白河城の城主であった。現在わが国では老人の日は9月15日のみであるが、当時の白河、松平定信の治世では、老人の日が毎月あった。老人の日には城下に住む老人は白河城への入城を許された。老人たちは城に招かれ、彼らの皺と皺の間には経験というなにものにも替えがたい宝を持っていると褒めたたえられた。城の中で腰の悪い老人には杖をつかせることも許した。このため白河の城下町では若い人々が老人に関してはびびったという。「今日も年寄をいじめたので殿様にお小言を賜るぞ」こういう言葉が白河の城下ではよく聞かれた。白河藩が住民の住みよい、よりよい藩になるために松平定信は建設的な意見を集めるために目安箱をおいた。彼はまた農業を重んじたので、米づくりを盛んにするために農村を歩いて廻った。贅沢を禁じ質素を重んじた。それによって余った金を農村の共益金として差し出させた。その金で皆でいい仕事をしようと農民に訴えかけた。治山治水をおこなうことが河や水を治めることにつながると説いた。植樹を奨励した。農民の家では子沢山に困って女の赤ちゃんが生まれると間引きをしたりしていた。定信はこれを禁じた。しかし農民は実際経済的に貧しかった。定信は農家に児童手当を与え少しでも貧困を救済しようとした。彼の政治は住民思いの暖かいものであった。定信が目安箱をもうける前に将軍吉宗が同様の目安箱を江戸城の門前にもうけていた。
 松平定信は徳川吉宗の孫に当たるのである。松平という白河の大名に定信は養子に入ったのである。彼はもともとは田安家の田安宗武の三男坊であった。徳川家には御三家がある。尾張、紀州、水戸がそれである。徳川吉宗は紀州徳川家から徳川家を継いだ。その子、家重は将軍を継ぐには不向きな人間であった。
 そこで徳川吉宗は御三家以外に御三卿を設けた。吉宗の子田安宗武に江戸城田安門内(今の九段坂の途中にある)に邸宅を与え田安家を起こし参議・権中納言とも呼ばれた。吉宗の第4子宗ただには江戸一橋門内に邸宅を与え10万石の一橋家を興した。さらに息子家重の子重好に江戸城清水門に宝暦8年(1758)に清水家を興させた。この御三卿の家の名は御存知のとおり江戸城の門の名前である。御三卿の住んでいる場所が田安門、一橋門、清水門の処であった。
 松平定信は田安家の三男坊の田安定信であり、できがよく「江戸城でも徳川本家にもしもの事があった場合には田安定信様が次の将軍様になられるに違いない」という噂もあった。この噂をとんでもないと憤慨していたのが一橋家の治済(はるさだ)であった。治済には家斉という息子がいた。彼は家斉を将軍にしたてたいという野望を持っていた。
 定信に対抗する幕臣に、老中であった田沼意次という静岡県相良の藩主がいた。彼はどちらかというと汚れた政治家であった。彼によれば定信のような潔癖なものが将軍になれば自分のような汚れた事をしている老中はすぐに失脚してしまうと心配し田安定信が絶対に将軍になれないようにしてやろうと常にたくらんんでいた。田沼家には賄賂の使者が朝から晩まで匹を切らずにきていた。江戸城役人志望のもの、入札を逃れて仕事を得ようとする業者らがひしめいていた。「田や沼や汚れた御代を改めて清く澄ませ白河の水」という狂歌があらわれ、一橋と田沼のたくらみにより定信は奥州白河の松平家の養子にならされた。結果はしかし国民の総意を受け継いだ松平定信は田沼意次のあとを継いで老中筆頭になった。
 はたして田沼意次のやった事はすべて悪かったのであろうか。この件に関しては非常にむづかしい要素が多く存在する。江戸時代は二百数十年続いたのであるが、経済の消長が3回存在した。経済成長期は元禄、明和安永、文化文政時代、経済不況期は亨保、寛政、天保があった。亨保、寛政、天保時代には治世者により強力なリストラがおこなわれた。
 亨保の不景気を吉宗は回復させるまでにはいたらなかったが、田沼意次は明和安永の高景気へと導いた。堅実な吉宗は米将軍と呼ばれ、米作こそが経済の基本であると信じていた。減反政策ではなくむしろ新田開発などにみられるように増反政策をおこなった。吉宗のこの計画を見た田沼は「この政策で果たしてよいのかな?」と感じていた。米の収穫料を持って経済単位とする当時の経済は不安定であると感じていた。亨保時代は田沼は6万石、吉宗は3百万石などと表されたのである。しかし実際は米経済よりも貨幣経済が進んできているのではないかと感じていた。 武士においては何石という米を給料としていただくとそれを商人に売り、まづ金に替える。その金でいろいろなものを購入する事に田沼は気がついていた。すなわち経済は米経済から金経済になっていた。金経済の進行と商人の存在を彼は認めていた。彼は農業も重んじたが(重農主義)、商業も重んじた(重商主義)。
 あわび、ふかひれ、いりこ、昆布など海産物は中国料理のメニューであるがこの様な物産は日本でもとれる。これらを生活に取り入れば、国民の生活はもっと豊かになるであろう、と田沼は考えた。徳川幕府がこれらの産物のめんどうを見て、中国に輸出しよう、そうすれば日本から中国に輸出した金、銀、銅がふたたび日本に戻ってくるであろう。漢方薬は中国から輸入していた。その原料たる薬草まで中国からその当時は輸入していた。気象、地理条件が同様な土地が日本にあれば同様な薬草がとれるのではなかろうかと田沼は考えた。そこで讃岐(香川)出身の日本のレオナルド・ダ・ビンチとよばれる平賀源内を呼び日本中を探索させ、国内にある漢方薬草を調査させた。源内は薬草を千種以上採取し田沼を驚かせた。さらに薬草の展示会を開き、この宣伝効果により国内でも3千種以上の漢方薬草があることがわかった。輸入一辺倒であった漢方薬の国産化ができる。朝鮮人参のような高価な漢方薬も日本で生産できることがわかった。田沼意次は筆頭老中であったので、オランダの商館長や朝鮮からくる使者、中国からくる陳使に対して積極的に接した。 田沼はあるとき人体の解剖図の入った蘭書本をもらった。当然の事ながら解剖の説明はオランダ語で書かれていた。田沼はこれが読めないので、当時オランダ医学を身につけた杉田玄白、前野良沢に翻訳を依頼して解体新書の日本語訳ができあがった。
仙台藩の医師、工藤平介は田沼に意見書を出した。「当時のロシアがピョートル大帝以来凍らない港を求めて南下政策を執っている。そして日本の北方領土に侵略の野望を持っていて非常に危険だ」
田沼は、江戸城の旗本の次男三男坊でぶらぶらしているものを当時蝦夷といわれた北海道の地に送り込み、普段は開拓をさせながら、しかも、いざというときには国防軍にしたらどうかという案を考えた。ところが工藤平介は「私はロシアと戦争をしろと言っているのではない。函館のような港を開いてロシアと貿易をしては如何ともうしている」と反論した。「さらに他の港も開いて英国、フランスとも貿易を行ってはどうか」と加えた。当時としては画期的な開国論を田沼に申し出たのである。田沼はこの案に載った。その仕事に手を付けようとしたときに、田沼はいかにも国民の評判が悪いという理由で罷免されてしまった。
 それに代わって登場してきたのが松平定信であった。彼は田沼の積極政策のあとにきれいな政治家として政治改革を行うために期待されて登場した人物である。定信は吉宗のやったことを手本にしようとした。先ほど挙げた目安箱の設置もそのあらわれであった。明らかにおじいさんであった徳川吉宗のやったことを取り入れたものであった。彼は白河藩で目安箱を試行した上、老中筆頭になると江戸でも実行した。吉宗には江戸町奉行大岡越前守忠相がいた。大岡は江戸町火消しなどをつくり町民の権利と義務をはっきりさせた。 定信は町会費を取っている江戸町民を町の自治としてまことに結構なことだとした。その費用のうち7%を福祉費として積み立てさせた。ちょっと最近登場した国民福祉税ににている。町方はこの積立を承知した。そこで積み立てられた金を七分金と名付け福祉のためのみに使用を限定した。市民の福祉のみに限る目的税のようなものであった。1793年(寛政5年)定信は筆頭老中を去ったが、1863年大政奉還されるまで90年間7分金は積み立てられ、その額は百万両を越えていたといわれる。この金は幕府の財政が困窮した幕末の時代にも積み立てられ、徳川家茂が上洛したときの費用がなかったにもかかわらずこの七分金には手をつけなかった。官軍においてもこの七分金は町民によって伝統的に積み立てられた福祉金であるので決して軍事費に使われることはなかったという。さらに明治維新においても渋沢栄一を始めとするものたちによってこの七分金は東京市民のために使われた。水道、道路、庁舎、老人病院の資金となった。今の東京都養育院の院長は渋沢栄一が就任した。彼は他に様々な役職を兼任したが、この養育院の院長の名だけは90歳で彼が他界するまでおいてほしいと懇願したという。栄一の東京市民にもった大きな愛情をここに感じる。
 定信は江戸町民に災害用の食糧貯蔵庫をつくるように指導した。もみをこの貯蔵庫に保存したので「かこいもみ」とよばれた。当時江戸の人口は百万人であったが、世界でも最大の規模の都市であった。武士ならびにその家族の数は50万人であった。町民は残りの50万人であったので彼らが1カ月食べられる米を保存しようとした。この「かこいもみ」も明治維新までずっと続けられ保存された。この様な政治をかいまみると幕府は単に町民に対してふんぞりかえっていたのではなく、定信のように本当に民のことを思っていた政治があったことも忘れてはならない。「江戸町民の生活よ、豊かなれ」ということを願った人もいたわけである。
 吉宗や定信の政治は、町民の要望を受け入れ実行する代わりに、町民にやれることはなるべく彼らでやって欲しいという、権利と義務の政治であった。幕府がおこなう公助と町民がお互いにおこなう互助、自らがおこなう自助の三位一体の制度がここで確立されたのである。
 定信は石川島に犯罪人の寄せ場をつくり手に職を付けさせ社会復帰を助けた。寄せ場の仕事に対しては食費を差し引いたのちに賃金が払われた。反省の強いものに対しては火災などの時にはときはなしの制度を設け期日までに牢に帰ればよいことにした。現在の社会福祉の中の何本かの柱が定信によって立てられた。
さらに定信は町民にばかり義務の履行を迫ってはダメだと考え、江戸城の武士、役人が質を変えなければならないと考えた。改革を行うに当たってはまず武士が見本とならねばならない。定信は江戸城内で学問吟味を行った。学問吟味は中国の科挙の制度ににている。国家公務員の上級試験のようなものである。役職についた武士の再試験をおこなった。今ついているポストに見合うだけの知識と技能をもっているか。あるいは公務員(public servant)として国民に対するロイヤリティー(忠誠心)があるかどうかを試験した。定信は中国の儒学に造詣が深かった。外国知識にも明るかった。しかしあまりに外国かぶれになることは好まなかった。外国は科学技術は優れているが精神の保ち方は日本人のほうがいいのではないかと考えていた。日本人はまじめで誠実でうそをつかず、弱い人や苦しむ人に対しては優しさや暖かさをもっている、こういう精神は物万能、技術万能の世界でも十分保つべきだと考えた。幕臣には2つのグループがあった。1つは旗本である。他の1つは御家人である。旗本は将軍の顔がみられる。将軍と挨拶をしたり意見を述べることができる資格をもつ。御家人は将軍の顔を遠くからながめるのみである。旗本と御家人にはこの様なステイタスの違いがあった。旗本の学問吟味のトップの合格者に遠山金四郎景道、御家人のトップが太田尚次郎であった。金四郎は天保の改革の際に桜のいれ墨をしていた金さん景元の父である。金四郎という名は遠山家の長男が継ぐ名前なのである。この試験で遠山金四郎景道は幕臣のエリートとなった。景道は試験がよくできたのみならず実務能力も抜群であった。特に外国との交渉に優れていた。そこで景道は長崎奉行を命じられた。あるいは外国奉行のようなこともつとめた。今の外務大臣である。くしくも彼の長男景元(遠山の金さん)が天保の改革の水野忠邦の補佐役として江戸町奉行となるのである。
 御家人のトップの太田尚次郎は50歳を過ぎ定年間近であったがこの時代は定年がなく子息に家督をゆずるまでは現役でいられた。たとえば家光の治世で天下の御意見番であった大久保彦左衛門は他界するまで現役であった。定信は江戸城内で文武をすすめた。この時代武士は徐々に贅沢な暮らしに染まりかけていた。本のかわりに艶本をよみ、竹刀の代わりに三味線のばちを握るものも多かった。 文武文武と定信が叫ぶものだから蚊の鳴き声にたとえて江戸城内では「よのなかに、かほどうるさきものはなし。ぶんぶぶんぶと夜も寝られず」という狂歌がうまれた。その作者は誰だと問われればそれは御家人のトップで合格した太田尚次郎だった。彼は太田蜀山人というペンネームをもっていた。定信は太田を長崎に左遷した。この後、太田蜀山人は断筆したという。彼は今後幕府の仕事一途に生き抜くことを断筆宣言によっていおうとした。文化の日によいことをした人を表彰する、例えば親孝行な子供、亭主が死んだ後も操(みさお)を守り抜いたという節婦(せっぷ)らの名簿作りにいそしんでいた時期もあるという。江戸町民の飲み水を確保するために多摩川の上流の羽村から河口の羽田にかけて水質検査をして歩いたともいう。
定信は完全に田沼政治を否定した訳ではなかった。徳川幕府の政治というのは譜代大名という万年与党がずっと続けた政治ではないのか。そうすると同じ政党が2百数十年間同様の政治を続けたのだから当然政策の連続性、継続性があったはずだ。一人のトップの人間が入れ替わったからといっていままでやってきたことの全部がひっくり返ることはありえない。必ず前代からの引き継がれた政策があるはずだ。したがって田沼意次も同じではないだろうか。彼が汚れていたために彼の政策をすべて否定するのは間違いである。彼の政策の中には、例えば彼が尊敬していた徳川吉宗の亨保改革の時に減量経営ではない攻めのリストラ、吉宗が積極的に行った外国との交易、輸入品の国産化などは田沼にも受け継がれたのだが、これらは田沼のオリジナルではないではないか。「田や沼や汚れた御代を改めて清く澄ませ、白河の水」とよばれた松平定信にしてもやはり前代の田沼の政策を一部は引き継いだことであろう。これは至言(しげん)であろう。
 定信が田沼以上に力を入れたのが国防問題であった。田沼の時代の仙台藩の医者であった工藤平介の意見書に端を発するものではあるが、定信は「これは単なる北方問題ではない。日本は四面海である。だから北方のみならずどこからでも外国の侵略はありうるのだ」と考えた。彼はこのことをもっと国民的課題として日本国民に関心をもってもらう。さらに国防を考えるにしても日本の地図がないので、日本各地の地図をつくることにした。各地に測量を命じた。この全国の測量に中心となって活躍したのが伊能忠敬、間宮林蔵、益田伝十郎、近藤十蔵であった。近藤十蔵が北方商人であった高田屋嘉兵衛の船に乗り択捉(エトロフ)島に渡り大日本府であると標識を立てたという話は有名である。伊能忠敬は佐原市の出身であったが町の名主を五十歳までやっていた。家の本業を立て直した後、彼は自分の好きな天文学を学んで天体の観測やあるいは測量を行いたいと二つめの人生を生き抜いた。間宮林蔵は有名な間宮海峡を発見し樺太(サハリン)は大陸から続いた半島ではなく島であることを証明した。サハリンとロシア大陸との間にはオホーツク海があることを発見した。
 松平定信が行った国防問題、産業政策は前代の田沼意次が行った積極面を引きついだものである。ひいてはこれは定信の祖父に当たる徳川吉宗の政策であった。これらは時代を越えた江戸の継続性を保った政策であったといえよう。
 寛政五年、定信は老中を辞した。実際には彼は辞したのではなく、辞めさされたのであった。辞めさされた理由は、松平定信が老中になったときの将軍第11代徳川家斉が一橋治済の息子であったということ、これは定信側に問題があったのではなく将軍家斉に一橋家の田安家への遺恨があったのではないかという原因が強い。
 ある時、尊号(そんごう)事件があった。ある人に付けられる尊い称号のことである。家斉の父は一橋治済である。家斉は父を江戸城の一橋門にいる父を二の丸におむかえをして大御所という名を付けたいと思った。大御所という名は将軍職を退いたものが隠居したのちにもらう称号である。それ以外の場合には大御所と名乗る風習は江戸にはなかった。隠居して退いた家康は大御所様、家光に位を譲って退いた秀忠も大御所様とよばれた。江戸城の風習からして、一橋治済を大御所と呼ぶのは無理である。治済には将軍の経験がないのである。同様の事件が京都御所でも持ち上がっていた。定信はこの二つの事件に関して拒否し、大御所、または賀上天皇と名乗るに値しない彼らに尊号を与えることに反対した。「大御所であるには将軍を経験した者でなければならない。家斉様がご隠居されたときには私は喜んで大御所様と呼びましょう。京都の例も同じでございます」と定信は言った。家斉はこの発言を定信が幼少時代の田安家への一橋家の仕打ちをこのことによって恨みをはらしたのではないかと勘ぐった。家斉の父と田沼意次の謀略によって定信は将軍職を逸したとも言えなくはないのであるから。気まづい空気が将軍家斉と老中定信に流れた。これを機会に定信は老中は将軍の意見を執行する者であるがこのような気まづい関係になってしまっては老中職は勤まらないと悟り老中を辞した。
 定信は再び白河に戻り藩主としての仕事をしはじめた。革新的な産業の開発も奨励した。桑(養蚕)、こうぞ(製紙)、柿、栗、梨などの農産品の栽培の奨励、商業の抑圧の撤廃、牧場の造成によるウマの飼育、馬市の設立などである。ガラス、陶芸品の生産を農民のみならず武士にも勧めた。立教館という学校も設立した。本校主義ではなく分校主義のどんな田舎にいても学問ができるという学校であった。武士外の庶民の入学も大いに勧めた。定信は第一次白河政治改革から老中職で寛政の改革からの経験を生かして第二次白河政治改革をおこなった。異学の禁(朱子学以外の学問を禁じた)のために何人かの犠牲者が出たことも事実であった。その筆頭が林子平で彼の著書にある「江戸湾の水はロンドンのテムズ河にもつながっている」という意見は当時の徳川幕府の「言わしむべし(政治はプロにまかす)、知らしむべからず(国民は知らなくてよい)」という政策にそぐわないとして六無才として葬り去られた。これは不幸な事件であった。
(NHK文化講演会 作家 童門冬二氏の講演より)
江戸幕府将軍一覧(代、名、(在職期間)、没年)を下記にあらわす。広辞苑より
1.家康(1603-1605)1616,2.秀忠(1605-1623)1632,3.家光(1623-1651)1651,4.家綱(1651-1680)1680,5.綱吉(1680-1709)1709,6.家宣(1709-1712)1712,7.家継(1713-1716)1716,8.吉宗(1716-1745)1751,9.家重(1745-1760)1761,10.家治(1760-1786)1786,11.家斉(1787-1837)1841,12.家慶(1837-1853)1853,13.家定(1853-1858)1858,14.家茂(1858-1866)1866,15.慶喜(1866-1867)1913.
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江戸時代年号

慶長 1596-1615 元和 1615-1624 寛永 1624-1644 正保 1644-1648
慶安 1648-1652 承応 1652-1655 明暦 1655-1658 万治 1658-1661
寛文 1661-1673 延宝 1673-1681 天和 1681-1684 貞享 1684-1688
元禄 1688-1704 宝永 1704-1711 正徳 1711-1716 享保 1716-1736
元文 1736-1741 寛保 1741-1744 延享 1744-1748 寛延 1748-1751
宝暦 1751-1764 明和 1764-1772 安永 1772-1781 天明 1781-1789
寛政 1789-1801 享和 1801-1804 文化 1804-1818 文政 1818-1830
天保 1830-1844 弘化 1844-1848 嘉永 1848-1854 安政 1854-1860
万延 1860-1861 万久 1861-1864 元治 1864-1865 慶応 1865-1868

|飛鳥時代| |奈良時代| |平安時代| |鎌倉時代| |南北朝・室町時代| |安土桃山時代| |江戸時代|

江戸時代年表
1597慶長の役
1598-醍醐寺三宝院 表書院・同庭園
1599-慶長版本「日本書紀」刊行
1598-仏、ナントの勅令
1600関ヶ原の戦い(徳川氏の覇権確立)
1602-二条城完成
1600-英、東インド会社設立
1602-蘭、東インド会社設立
1603家康、征夷大将軍となり、江戸に幕府を開く「江戸幕府確立」
1603-出雲阿国☆歌舞伎踊り創始
1603-英にステュアート朝
1612直轄領にキリスト教禁止令☆俵屋宗達「風神雷神図屏風」
1616-ヌルハチ後金建国
1615大坂夏の陣,豊臣氏滅亡武家諸法度・禁中並,公家諸法度制定
1609-姫路城完成
1617-日光東照宮建立☆狩野山楽「牡丹図」
1618-独、三十年戦争
1619御三家成立,菱垣廻船を開始
1620-桂離宮建立
1619-蘭、バタヴィア市建設
1629長崎、踏絵始まる
☆貞門派俳諧盛ん
1628-英、権利請願
1637島原の乱,五人組強化
1637-本阿弥光悦没
1636-後金、国号を清と改称
1641鎖国完成
1641-探幽『大徳寺方丈襖絵』池田光政花畠教場設立
1642-英、清教徒革命
1643田畑永代売買禁止令
1645-久隅守景『夕顔棚納涼図屏風』
1644-李自成、明を滅ぼす,清、李を倒し、北京に遷都
1649慶安の御触書
1657-徳川光圀「大日本史」
1648-ウェストファリア条約
1671宗旨人別帳
1665-山鹿素行『聖教要録』
1671-山崎闇斎垂加神道を唱える
1660-英、王政復古
1685徳川綱吉,生類憐みの令 発布,弘安の役
1682-井原西鶴『好色一代男』
1684-渋川春海貞亨暦作成
1686-熊沢蕃山「大学或問」
1689-松尾芭蕉「奥の細道」
1690-湯島聖堂落成
1692-西鶴「世間胸算用」
1687-ニュートン、万有引力の法則発見
1688-英、名誉革命
1689-英、権利章典
1694☆江戸に十組問屋成立☆大坂に二十四問屋成立
1694-芭蕉没
1708-貝原益軒「大和本草」
1709徳川家宣、新井白石らを途用「正徳の治」
1709-新井白石、シドッチを尋問
1700-北方戦争
1701-スペイン継承戦争
1707-英、大ブリテン王国建国
1715☆海舶互市新例
☆白石『西洋紀聞』
1716徳川吉宗、将軍となる,亨保の改革
1716-尾形光琳没
1719相対済し令☆荻生徂徠『政談』
1723上げ米の制,足高の制
1724-懐徳堂設立
1742「公事方御定書」制定
1740-オーストリア継承戦争
1758宝暦事件☆出雲「仮名手本忠臣蔵」☆安藤昌益「自然真営道」
1756-七年戦争
1782田沼意次、側用人となる「田沼時代」天明の大飢饉
1765-鈴木春信、錦絵創始
1774-「解体新書」
1769-英、ワット、蒸気機関改良
1772-第1回ポーランド分割
1775-アメリカ独立戦争
1776-アメリカ独立宣言
1787寛政の改革
1787-円山応挙『雪松図屏風』
1789棄捐令
1789-米、初代大統領ワシントン,フランス革命勃発
1793大御所時代
1802-十返舎一九「東海道中膝栗毛」
1804-ナポレオン皇帝即位
1808フェートン号事件☆滝沢馬琴『椿説弓張月』☆式亭三馬『浮世風呂』
1828シーボルト事件
1818-平田篤胤「古史徴」☆葛飾北斎『富嶽三十六景』
1814-ウィーン会議
1823-米、モンロー宣言
1830-仏、七月革命
1832-英、第1回選挙法改正
1837大塩平八郎の乱☆渡辺華山『鷹見泉石像』
1837-ヴィクトリア王女即位
1838村田清風、藩政改革に着手
1838-中山みき天理教を開く
1839蛮社の獄
1840-アヘン戦争
1841天保の改革
1842-南京条約
1853ペリーの艦隊来航
☆椿椿山『渡辺華山像』
1852-仏、第二帝政
ナポレオン3世即位
1853-クリミア戦争
1854日米和親条約
1855-日蘭和親条約
1856-吉田松陰、松下村塾を設立
1856-アロー戦争
1858安政の大獄
1859-金光教を開く
1857-セポイの反乱
1860桜田門外の変
1860-河竹黙阿弥「三人吉三廓初買
1860-清、英・仏と北京条約、露と北京条約
1862生麦事件,黙阿弥「弁天小僧」
1861-露、農奴開放令
1863薩英戦争
1863-米、奴隷開放宣言
1864四国艦隊下関砲撃事件


潮待ちと省エネ
万葉集 額田王(ぬかたのおおきみ)
熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜
熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
,にぎたつに,ふなのりせむと,つきまてば,しほもかなひぬ,いまはこぎいでな

661年斉明天皇の船団が伊予の熟田津(にぎたつ)、石湯(いしゆ)の地に停泊していたときの、船出の歌だといわれています。大伴旅人(おおとものたびと)は大酒飲みであったので、潮待ちの皆と、鞆の浦に滞在したときには、額田王のような合理的な歌を詠う瞬間がなかったのであろうが、「にぎたつに,ふなのりせむと.つきまてば,しほもかなひぬ,いまはこぎいでな」は現在のエネルギーと時間利用を古人に学ぶ絶好の句である。
熟田津(にぎたつ)の港は松山港のことである。 
国土交通省のHPによれば、松山港は、古くより万葉集に詠まれた「熟田津(にぎたつ)」の港として広く知られています。「天与の運河」ともいわれる瀬戸内海の要衝として船の出入りが頻繁で、高質の行幸も多かったことから、内港地区は「御津(みと)」と呼ばれ、後に「三津(みつ)」とあらためられました。現在の「三津地区」がこれにあたります。慶長八年(1603年)、加藤嘉明が松山15万石の城主となり、市のほぼ中央にあたる勝山山頂に松山城を築造した際には、西港山に御船衆を置き、宮川河口の三角州に船溜まりをつくって洲崎町を形成。「御津」は、伊予水軍の「海の拠点」でした。松山港が港としての形態を整えたのは、当時、松山の象徴といわれた坊っちゃん列車の開通、阪神航路の就航が実現した明治21年。高浜に大阪商船の専用桟橋をはじめ、高浜桟橋と埋立護岸、倉庫等が建設されました。昭和15年には、津浜町と松山市が合併したのを受けて、港名を「松山港」と改称。戦後の昭和26年には、国の利害に重要な影響を与える「重要港湾」に指定され、さらに昭和29年には、愛媛県の管理する県管理港湾となりました。引用終了。
瀬戸内海は干潮満潮により潮位が2回上下する・・・というより、瀬戸内海の流れが西から東、東から西、また西から東、東から西へと4回も変わるのである。風もない凪の多い瀬戸内海では潮の流れによって各地の名産を大阪まで船で運んでいた。運送のほとんどのエネルギーは潮の流れ、地球と月の引力である。
たとえば東行きに、下関から東行きに船で潮に乗る。6時間乗ると鞆の浦、大崎下島御手洗、牛窓もしくは熟田津、例外的には、その他下記の港のいずれかに近くなる。潮待ちの港は瀬戸内海にはさらに整備され、ほかに室津、韓泊、魚住、大輪田、河尻、方上(片上)、那ノ津(福岡)、児島、敷名、長井浦、風早、門司、富田、上関、深溝、揚井(柳井)、尾道、田島、院島(因島)、難波津、川尻、兵庫、堺、尼崎、天保山、雑喉場があった。潮流が弱くなると、前記の近くの港で停泊(潮待ち)をする。潮流が逆になるからである。逆の潮流の時にはあくまでも逆らわない。次に順潮流になるまで、この地で停泊して6時間潮待ちすれば、また再び東行きの潮流に乗れ大阪に到達できるという自然の規則的な現象を利用した、単純な理論の航行法である。熟田津での6時間の合間には、道後温泉が発見されていたかどうか検証していないが、聖徳太子も入った石湯温泉も近くにあったから、きっと温泉に浸かって潮待ちを過ごしたはずである。瀬戸内海海運が主流の当時においては潮待ち茶屋や潮待ち酒場がこれらの地域では発達していたようだ。
時間を待てば、流れが変わり、エネルギーを使わなくても目的を達成できる。これは、ややもすると現代人が忘れそうな省エネ生活の知恵だと思う。

を作って読んでいただいてありがとう。今度は読みやすくしておくので、また、お立ち寄りください。

つぶし読本の作者 杉太郎: この他の著書:科学閑話

記の 4冊は会図書館献本 01 02 03 04川県立図書館 1 2 3 4 松市立図書館 11 12 13 14納本済み

著書  科学閑話      和風呂出版 

著書  続科学閑話     和風呂出版 ISBN990028422 C0040

著書 新科学閑話      和風呂出版 ISBN990028430 C0040

著書 科学閑話(改訂版)  和風呂出版 ISBN990028449 C0040 

編集者略歴:和25年香川郡上笠居村鬼無(現在の香川県高松市鬼無町)に生まれる。無の盆栽で有名 線通信JA5DWY(since1968AD)
ISBN978-4-9900284-6-6(完本予定)
2007年1月1日からISBNは13桁のコードに改定されました。和風呂出版もこの改定に従います。


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