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第1章:日常

 薄暗い部屋の中に、静かなファンの音が聞こえます。カチカチとマウスをクリックする音が時折それに混じり、ディスプレイに向かっている純の顔が、バックライトの光に浮かび上がって見えました。
 やがて、カーテンの隙間から差し込んできた朝の光が、顔に白い線を描き、それに気づいた純は、目をぱちぱちとしばたたきました。
 「ん・・・」  純は、ヘッドホンと眼鏡をはずし、椅子の背に寄りかかって、大きく伸びをしました。首をぐるぐると回し、こわばった指をほぐすと、物憂げに傍らの時計を眺めます。時刻は五時を少し過ぎたところでした。
 ふーっとため息が洩れます。ディスプレイには、ゲームのエンディングが表示され、スタッフロールがゆっくりと流れていきます。無機質な黒い画面に、滲むように光る白い文字。それは意味を持たない記号のように見えました。しばらくそれを見つめていた純は、画面がタイトルメニューに戻ると、立ち上がってカーテンを開けました。
 まぶしい光が、部屋いっぱいに降り注ぎます。純は一瞬目を細め、顔をしかめました。
 今日も良いお天気のようです。東の空にはまだうっすらと赤みが残り、それを覆い隠すように、入道雲がむくむくと盛り上がってきていました。山々は青くかすみ、鳥のさえずりが聞こえます。澄んだあの声はキビタキでしょうか。
 目に沁みるような青と緑。物憂くそれらを眺めていた純は、また一つため息をつくと、空になったペットボトルを持って、階下に降りて行きました。
 家の人たちはまだ寝ているようです。足音を忍ばせて台所に入り、冷蔵庫から新しいペットボトルを取り出すと、純は棚の上を物色するように見渡しました。カップ麺とレトルト食品がいくつか、それにビニール袋に入った食パンがふた切れ。あとは缶詰が一つ。また冷蔵庫を開けて、スライスハムとレタスの半切れを取り出した純は、ビニール袋にそれを放り込むと、そのまま玄関に向かいました。
 サンダルをつっかけて外に出ると、家の前の道をゆらゆらと歩いて行きます。反対側の雑木林からは、もう降るような蝉時雨が聞こえました。聞いているだけで汗ばんでくる、鬱陶しい蝉の声。純は、ぼさぼさの髪をかき上げ、首筋に浮かんできた汗をカットソーの袖口で拭って、歩き続けました。
 そうして、どのくらい歩いたでしょう。いつしか家並みは途切れ、かすかなせせらぎの音が聞こえてきました。だらだら坂の向こうに、入道雲が盛り上がっています。足の下で砂利が乾いた音を立てました。
 坂を登りきると、いきなり視界が開け、一面の水田が遠くまで広がっているのが見えます。青々とした稲穂のうねり。それは眩暈がするほど鮮やかな光景でした。緑の海から舞い上がったヒバリが、高らかに謳いながら、雲を目指して昇って行きます。しかし純は、それに気づかないかのように、俯いたまま小さな石橋を渡りました。
 せせらぎの音が足元から湧き上がってきます。涼しい空気がふわっと全身を包み、汗が蒸発していきます。それは、火照った体をほどよく冷まし、疲れて尖った神経を和らげてくれました。彼は橋を渡りきると方向を変え、小川の流れに沿って歩いて行きます。
 やがて純は、しばらく行った所で道からはずれ、くるぶしまである草を踏み分けて土手を降りて行くと、大きな楠の木陰で腰を下ろしました。
 持って来たビニール袋からパンを取り出します。それにレタスとハムを無造作に載せてかぶりつくと、そのままペットボトルのふたを開け、パンを左手に持ち替えて、ぐっと一息飲みました。レモンの香りが口の中に広がり、荒れた口の中がぴりぴりします。純は手の平で口元を拭うと、また一口、パンを噛み取りました。
 静かな朝です。小川のせせらぎと鳥の声の他は何も聞こえない、ぽっかりと開けた空間がそこにありました。純はじっと目を閉じて、それに耳を傾けます。体の中に、音が沁み込んでくるようでした。色のない心に、周囲の色彩が映り込んでいきます。彼はそれを短い曲に変え、そっと口ずさんでみました。
 毎日が退屈なだけの日曜日。明日は今日の次の日というだけに過ぎない日々が、漫然と流れていきます。することもなく、それでいて一日の終わりに疲れを感じる日々。時折自分に向けられる、ある種の視線。次第に落ち着きを失い、空回りしながらも動けない自分。純はそれに嫌気がさし、朝の散歩以外には殆ど一日、部屋に引きこもっていました。
 しかしここは、何という別天地でしょう。心地良い雰囲気の中に、自分だけがいます。ここに来ると、自分が違うものになったように思えました。彼はいつもここで心を広げ、体の中に入って来るものを曲に織り上げたのです。自由に呼吸できる唯一の空間。彼は、心ゆくまでそれに浸って、放心したように時を漂いました。


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