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第2章:新しい風

 不意に、左手に重量がかかり、純はぎょっとして目を開けました。
 何か大きなものが、手の上に覆い被さっています。川面の眩しい照り返しに、彼はせわしなくまばたきをし、それから慌てて立ち上がりました。
 「うあっっ?!」
 思わず、食べかけのパンが手から滑り落ちます。一瞬飛び退った黒い生き物は、目にも止まらぬ速さでそれに飛びつくと、ものすごい勢いで食べ始めました。
 「もぐもぐ、くちゃくちゃ、がつがつ、んぐんぐ」
 呆然としている純の前で、たちまちパンを食べ終えると、『それ』は二本足で立ち上がりました。そして、後ずさりする純の、洗いざらしたデニムのGパンをぎゅっと掴んで言ったのです。
 「もっと」
 「な、なにぃっっ?!」
 これは人間か? 危うくのけぞりそうになった彼を、真っ黒な顔で見上げ、『それ』はにっと白い歯並びを見せて言いました。
 「もっとくれ」
 山姥?ホームレス?それとも水子霊?いやいやそんな月並みなものじゃない。何というか、もっとこう・・・うう、とにかく汚い。それにこの臭いといったら、鼻が曲がりそうだ。何とかこいつをどこかへやらないと。このままじゃ、せっかくの朝のひとときが台無しになってしまう。
 純は、ずり落ちかけた眼鏡を直し、息を止めてかがみ込むと、残ったパンを取り上げました。手早くレタスとハムを載せて折り曲げながら、何でこんなことまでしてやるのだろうと、彼は自分の几帳面な性格を呪いました。
 「ほら」
 恐る恐る差し出すと、『それ』はぼさぼさの髪の毛をかき上げて笑い、サンドイッチにかぶりつきました。こちらに背を向けてしゃがみ込み、がつがつと食べ始めた背中が、不意にぎくっとなり、「んぐぐ」という呻き声が洩れます。純は慌てて駈け寄り、背中をさすってやりながら、ペットボトルをその口元にあてがいました。
 「けほっけほっ!」二つ三つ咳き込むと、『それ』は純の手からペットボトルをひったくり、息もつかずにぐびぐびと飲み始めました。「んくっ、んくっ、んくっ・・・ぷはぁっっ!けほっけほっ!」
 今度は、ドリンクが気管に入ってむせています。純は頭を抱えて呻きました。
 「何てこった」

 純が持って来た食べ物をすっかり食べてしまうと、『それ』はまた白い歯を見せて笑いかけました。
 「ふぅ・・・うまかった。」
 「そ、そうか、良かったな。」
 純は胸を撫で下ろして言います。しかし、これで立ち去ってくれるのではという彼の期待は、次の一言で粉みじんに打ち砕かれました。
 「うん、お前に決めた! 時がくるまで傍にいてやる。」
 「な、なにいっっ?!」
 ずずずずず。鼻をすすり上げる音に、彼は眩暈がしました。何で僕が『こんなもの』に取り憑かれなきゃならんのだ? 僕は悪夢を見ているのだろうか。それとも昨日やったゲームの影響で白昼夢を見ているのか?
 思わず引こうとする純のGパンをぎゅっと掴み、『それ』は体をすり寄せてきます。ぞっと冷たいものが彼の背筋を駈け抜けました。
 「なあお前、名前、何ていう?」
 「そ・・・十河(そごう)純。」
 「純、かぁ。うん、気に入った。いい名前だな。」
 「お、お前は?」
 固まったまま純が尋ねると、『それ』はにやっと笑います。
 「何でもいいや。お前がつけてくれ。」
 「何でもいいって・・・何だそれ?」
 「いいよ、お前の好きな名前で呼んでくれ。」
 「って、お前なー」呆れて言いかけた純は、首をかしげて尋ねました。
 「お前・・・男の子なのか、それとも女の子・・・?」
 「どっちでもいいさ、そんなこと。」
 「よ、よかないっ。それじゃ名前がつけにくいだろっ。」
 「だから何でもいいって言ってるだろ。」
 「そ、そう言われても・・・。」
 「ふん、じゃ名前は後でいいや。」

 結局、その子は純の家までついて来てしまいました。相変わらず押しに弱い自分の性格を呪いながら、とぼとぼと歩く純。そんな彼の気持ちなどお構いなしに、子供は上機嫌です。彼の手を握り締めて、きょろきょろと物珍しげにあたりを見回しながら、鼻唄まじりにスキップしています。純はため息をついてそれを見つめていました。
 時刻はもう七時を過ぎています。両親も弟も、そろそろ起き出していることでしょう。こんな子をつれて帰ったら、一体何と言われることでしょうか。まさか捨てて来いとは言わないまでも、一騒ぎ持ち上がることは間違いありません。取り合えず、警察に届け出た方が良いのではないだろうか。それよりまず、両親に対する説明が先だろう。しかし、どう説明したら良いのだろう。いろいろ考えているうちに、とうとう家に戻って来てしまいました。

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