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第3章:澪(みお)

 玄関に入ると、純はそのまま上がり込もうとする子供を小脇に抱え、真っ直ぐ風呂場に向かいます。
 「はなせよー何すんだよー。」
 「うるさいっっ、大人しくしろっ。」
 じたばた暴れる子供を小声でしかりつけて廊下を急ぐ彼に、台所から声がかかりました。
 「純、帰ったの?」
 「あ、ああ、ただ今母さん。・・・ちょっと風呂に入ろうと思って。沸いてる?」
 「沸いてるけど・・・もう朝ごはんだよ。」
 「体が汗でべとべとなんだ。すぐ上がるから。」
 見られなくて良かったと胸を撫で下ろしながら、純は脱衣室に飛び込むと、手早く服を脱ぎ捨て、子供の服を脱がせにかかりました。
 「放せってばー、自分で脱げるよー。」
 「大人しくしろったら」子供の服に手をかけた彼は、思わず顔をしかめます。「何でこんなに臭いんだ、お前はっ?」
 「来る途中で蛇沼にはまっちゃってさー。」
 「蛇沼? あんな遠くから来たのか?」
 「うん。」
 「自転車か何かで?」
 「ううん。歩いて来た。」
 ここから蛇沼までは、二十キロもあります。子供の足で来られる距離ではありません。それをこの子は、歩いて来たというのでしょうか。それにしては、ちっとも疲れていないようです。もっとも、お腹は空いていたみたいですが。

 浴室に入ると、純は子供を椅子に座らせて、頭からお湯をかけました。
 「うあっ!ぺっぺっ! 何すんだよぉ。」
 「いいから目をつぶってろっ。」
 棚からボディソープを取り、子供の全身にたっぷりつけると、スポンジでゴシゴシこすります。すぐにスポンジがバスタブ掃除用のものだと気がつきましたが、この際そんなことは構っていられません。とにかくこの汚れと臭いを何とかしなくては。たちまちどす黒くなっていく泡とスポンジにぞっとしながら、純はひたすらこすり続けました。
 「・・・ふう。」
 やがて、子供が泡の中に見えなくなってしまうと、彼は雑巾のようになったスポンジを投げ捨て、シャワーのコックをひねりました。お湯の温度を調節して、ボディソープを洗い流していきます。
 真っ白い肌が真っ黒な泡の下から現れた時、彼は嬉しさで声を上げそうになりました。しかしそれは、次の瞬間喉に引っかかり、飲み込んだ息とともに胃の中に落ちて行きました。
 「・・・お前・・・」純は、やっと声を絞り出しました。
 「女の子だったのか?!」

 「何で?」
 子供は濡れた髪をかき上げ、無邪気に尋ねます。黒い瞳がきらきら光り、彼は何故か頬に血が昇ってくるのを感じて狼狽しました。
 「何でって、お前・・・あるべきものが、その・・・。」
 自然に目が下に行ってしまいます。こらこらっ、僕は何を考えてるんだ。女の子っていったって、まだ十かそこらじゃないか。何で僕が赤くならなきゃならんのだ。これはただの臍の下じゃないか(をぃ
 「あるべきものって、何だ?」
 「そりゃ・・・子供には分からんものだっ。」
 「ふーん。な、もう出ていいか?」
 「ち、ちょっと待てっ。ちゃんと肩までつかって十数えろっ。」
 純は慌てて女の子をバスタブに押し込み、数え始めました。
 「いーち、にーい、さーん・・・。」
 数えながら、彼の頭は目まぐるしく回転します。
 まずい。どう考えても、この状況はまずい。こうしている間にも、家族は食卓に揃っているだろう。取り合えずこの子は部屋に押し込めておくとして、そこまでどうやって見つからずに連れて行くかだ。・・・うあっ、しまった。この子の着替えはどうするんだ? 素っ裸のまま廊下を歩いているところを見つかったら?・・・あああ、考えたくない。しかし、それ以外にどんな方法がある? 僕の服を着せて抱えて行けば・・・でも、途中で暴れ出したらどうするんだ? そんなところを見つかったら、どう弁解したって信じてもらえないだろう。下手をしなくたって変態扱いだ。うう、家族の表情が目に浮かぶ。くそ、僕は一体どうしたらいいんだ?

 「なあ、あといくつだ?」
 額に汗を浮かべて唸っていた純は、不意に声をかけられて、ぎくっと顔を上げました。
 「あ、ああ、いくつまで数えたっけ?」
 「九九,九九九。」
 「う、嘘つけっっ。」
 「じゃあ、いくつだよ?」
 「う・・・それは・・・。」
 「もう出る。ゆだっちゃうよ。」
 「あ、ああ。」
 「純は入らないのか?」
 「え?」
 「お前も肩までつかって十数えろ。」
 「ぼ、僕はいいんだ。」
 「何で? 結構汚れてるぞ、それ。」
 そう言って、女の子は純の顔を指差します。
 「よ、余計なお世話だっっ。」
 「あのさ、純?」
 「何だっ?」
 「名前、決まった?」
 「えっ? あ、ああ・・・。」
 純は、女の子を見つめました。きらきらと輝く大きな目。長いまつげ。桜色の唇。ふっくらした頬。思わず眩暈がして、彼はぎゅっと目をつぶりました。
 その時、自然に一つの名前が口をついて出たのです。
 「・・・澪(みお)。」
 何故その名前を口にしたのか、彼自身にも分かりませんでした。けれど、それはごく自然に彼の口から洩れ、その瞬間、暖かなものがふわっと全身を包み込みました。ひどく懐かしいものに出会ったような、何かとても身近なものが、その響きから感じられたのです。それが何なのか、良くわかりませんでしたが、彼にはそれが女の子に一番ふさわしい名前に思えました。
 「みお・・・澪かぁ。いいな、うん、気に入ったぞ。」
 女の子は、にっこりして頷きます。立ち上がって純の手を握り締め、柔らかな頬をすり寄せて、耳元でささやきました。
 「・・・純。」
 ぞくぞくっと電気が走り抜け、純はのけぞりそうになりました。頭の中が真っ白になり、危うく抱きしめそうになります。彼は理性を総動員して必死にそれをこらえ、女の子の手を取ってバスタブから引き上げました。
 「さ、さあっ、上がるぞっ。」


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