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玄関に入ると、純はそのまま上がり込もうとする子供を小脇に抱え、真っ直ぐ風呂場に向かいます。 「はなせよー何すんだよー。」 「うるさいっっ、大人しくしろっ。」 じたばた暴れる子供を小声でしかりつけて廊下を急ぐ彼に、台所から声がかかりました。 「純、帰ったの?」 「あ、ああ、ただ今母さん。・・・ちょっと風呂に入ろうと思って。沸いてる?」 「沸いてるけど・・・もう朝ごはんだよ。」 「体が汗でべとべとなんだ。すぐ上がるから。」 見られなくて良かったと胸を撫で下ろしながら、純は脱衣室に飛び込むと、手早く服を脱ぎ捨て、子供の服を脱がせにかかりました。 「放せってばー、自分で脱げるよー。」 「大人しくしろったら」子供の服に手をかけた彼は、思わず顔をしかめます。「何でこんなに臭いんだ、お前はっ?」 「来る途中で蛇沼にはまっちゃってさー。」 「蛇沼? あんな遠くから来たのか?」 「うん。」 「自転車か何かで?」 「ううん。歩いて来た。」 ここから蛇沼までは、二十キロもあります。子供の足で来られる距離ではありません。それをこの子は、歩いて来たというのでしょうか。それにしては、ちっとも疲れていないようです。もっとも、お腹は空いていたみたいですが。 浴室に入ると、純は子供を椅子に座らせて、頭からお湯をかけました。 「うあっ!ぺっぺっ! 何すんだよぉ。」 「いいから目をつぶってろっ。」 棚からボディソープを取り、子供の全身にたっぷりつけると、スポンジでゴシゴシこすります。すぐにスポンジがバスタブ掃除用のものだと気がつきましたが、この際そんなことは構っていられません。とにかくこの汚れと臭いを何とかしなくては。たちまちどす黒くなっていく泡とスポンジにぞっとしながら、純はひたすらこすり続けました。 「・・・ふう。」 やがて、子供が泡の中に見えなくなってしまうと、彼は雑巾のようになったスポンジを投げ捨て、シャワーのコックをひねりました。お湯の温度を調節して、ボディソープを洗い流していきます。 真っ白い肌が真っ黒な泡の下から現れた時、彼は嬉しさで声を上げそうになりました。しかしそれは、次の瞬間喉に引っかかり、飲み込んだ息とともに胃の中に落ちて行きました。 「・・・お前・・・」純は、やっと声を絞り出しました。 「女の子だったのか?!」 「何で?」 子供は濡れた髪をかき上げ、無邪気に尋ねます。黒い瞳がきらきら光り、彼は何故か頬に血が昇ってくるのを感じて狼狽しました。 「何でって、お前・・・あるべきものが、その・・・。」 自然に目が下に行ってしまいます。こらこらっ、僕は何を考えてるんだ。女の子っていったって、まだ十かそこらじゃないか。何で僕が赤くならなきゃならんのだ。これはただの臍の下じゃないか(をぃ 「あるべきものって、何だ?」 「そりゃ・・・子供には分からんものだっ。」 「ふーん。な、もう出ていいか?」 「ち、ちょっと待てっ。ちゃんと肩までつかって十数えろっ。」 純は慌てて女の子をバスタブに押し込み、数え始めました。 「いーち、にーい、さーん・・・。」 数えながら、彼の頭は目まぐるしく回転します。 まずい。どう考えても、この状況はまずい。こうしている間にも、家族は食卓に揃っているだろう。取り合えずこの子は部屋に押し込めておくとして、そこまでどうやって見つからずに連れて行くかだ。・・・うあっ、しまった。この子の着替えはどうするんだ? 素っ裸のまま廊下を歩いているところを見つかったら?・・・あああ、考えたくない。しかし、それ以外にどんな方法がある? 僕の服を着せて抱えて行けば・・・でも、途中で暴れ出したらどうするんだ? そんなところを見つかったら、どう弁解したって信じてもらえないだろう。下手をしなくたって変態扱いだ。うう、家族の表情が目に浮かぶ。くそ、僕は一体どうしたらいいんだ? 「なあ、あといくつだ?」 額に汗を浮かべて唸っていた純は、不意に声をかけられて、ぎくっと顔を上げました。 「あ、ああ、いくつまで数えたっけ?」 「九九,九九九。」 「う、嘘つけっっ。」 「じゃあ、いくつだよ?」 「う・・・それは・・・。」 「もう出る。ゆだっちゃうよ。」 「あ、ああ。」 「純は入らないのか?」 「え?」 「お前も肩までつかって十数えろ。」 「ぼ、僕はいいんだ。」 「何で? 結構汚れてるぞ、それ。」 そう言って、女の子は純の顔を指差します。 「よ、余計なお世話だっっ。」 「あのさ、純?」 「何だっ?」 「名前、決まった?」 「えっ? あ、ああ・・・。」 純は、女の子を見つめました。きらきらと輝く大きな目。長いまつげ。桜色の唇。ふっくらした頬。思わず眩暈がして、彼はぎゅっと目をつぶりました。 その時、自然に一つの名前が口をついて出たのです。 「・・・澪(みお)。」 何故その名前を口にしたのか、彼自身にも分かりませんでした。けれど、それはごく自然に彼の口から洩れ、その瞬間、暖かなものがふわっと全身を包み込みました。ひどく懐かしいものに出会ったような、何かとても身近なものが、その響きから感じられたのです。それが何なのか、良くわかりませんでしたが、彼にはそれが女の子に一番ふさわしい名前に思えました。 「みお・・・澪かぁ。いいな、うん、気に入ったぞ。」 女の子は、にっこりして頷きます。立ち上がって純の手を握り締め、柔らかな頬をすり寄せて、耳元でささやきました。 「・・・純。」 ぞくぞくっと電気が走り抜け、純はのけぞりそうになりました。頭の中が真っ白になり、危うく抱きしめそうになります。彼は理性を総動員して必死にそれをこらえ、女の子の手を取ってバスタブから引き上げました。 「さ、さあっ、上がるぞっ。」 |