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第13章:家族の樹

 翌日の夕暮れ、純は楠の木陰で物思いにふけっていました。
 「純、何を考えてるんだ?」
 傍らに寝転んでいた澪が、起き上がって見上げます。まっすぐ見つめる澄んだまなざしに、不思議な光が宿っています。彼は吸い込まれるようにそれを見つめながら、ふっと吐息を洩らしました。
 「ん・・・昨日からのことを、思い出してた。」
 「そうか。」
 澪はにっこり笑って立ち上がりました。楠の幹に触れ、寄りかかって、夕焼けに染まった雲の方を眺めます。白い頬が美しいばら色に輝き、長い髪に光の輪が現れました。見るともなくそれを見つめていた純は、慌しく過ぎ去ったこの二日間のことを思い浮かべ、また小さなため息をつきました。

 わずか二日間の間に、一気に時間が加速したようでした。今思い返しても、信じられないような気がします。周囲を取り巻く景色さえ、これまでとは違っているようでした。しかしそれは、決して不快なものではなく、彼はむしろ心地良さとわずかな驚きをもって、過ぎ去ったいくつかのことを回想することができました。
 承諾の意思を伝えた時の、三好信吾の反応。電話の向こうから、喜びがひしひしと伝わってきて、純はくすぐったいような気持ちでした。友がそこまで自分を認めてくれていたということが意外でもあり、また嬉しくもありました。
 定時に退社した三好信吾とデパートの二階にある喫茶で待ち合わせ、これからのことを打ち合わせたのですが、彼は既にいくつかの手を打っていて、話はとんとん拍子に進み、夢心地のうちに計画がまとまっていきました。新しい会社の前途は茫漠としていましたが、不思議に不安は感じませんでした。自分達の目指すものが、必ずこの道の行く手にあることを、何故か純は確信を持って感じたのです。
 「新会社の名称は、『十河オトグラフ・スタジオ』にしよう。」
 友がそう言った時、彼は眩暈を覚えました。記憶がフラッシュバックし、夢で見たオフィスの佇まいが目に浮かびます。夢と現実がないまぜになって戸惑った彼は、口ごもりながら言いました。
 「ち、ちょっと待てよ三好。それって僕が代表者になるっていうことか?」
 「うん。クリエイティブなイメージを前面に出す方が、俺は良いと思うんだ。心配するなって、営業はきっちりやって見せるから。お前は創作に専念してくれればいい。」
 「いやしかしそれは・・・。」
 「その代わり、駄目なものは駄目と、はっきり言わせてもらうぞ。あくまで二人は対等だからな。」
 「も、勿論だ。けど・・・。」
 「なあ十河。俺は、一緒に働いていた時から、お前の才能を信じていた。それが、経営戦略にマッチしなくて、押しつぶされたことも知っている。だから新会社では、そんな思いをさせたくないんだ。俺がお前に代表権を譲るのは、お前の創るものがきっと多くの人に受け入れられるという確信があるからだ。もっと自分に自信を持てよ。それと、俺に遠慮なんかするな。決してボランティアなんかじゃないぞ。俺は、そんなお前の作品を世に問うことで、自分の才能を試したいんだ。」
 三好信吾と別れた後、純は茫然と通りを歩いていました。
 まるで雲の上を歩いているように、ふわふわした気持ちです。舞い上がってはいけないと自分を戒めながらも、彼は嬉しさを抑えることができませんでした。先のことはまだ見えませんでしたが、この夢に自分を賭けてみようと彼は思いました。

 「十河さん。」
 突然声をかけられて、純は飛び上がりそうになりました。はっと振り向くと、細川 樹が微笑みかけています。仕事の帰りなのでしょう。オフホワイトのワンピースとシックなバッグが良く似合っています。彼は一瞬どぎまぎして、ぼそぼそと挨拶しました。
 「あ・・・今、お仕事の帰りですか。遅くまで大変ですね。」
 「ええ、今日からセールが始まったもので、帰りが遅くなってしまって。・・・昨日はどうも有難うございました。」
 「いえ、こちらこそ、傷の手当てまでしていただいて。」
 「あの、お怪我はいかがですか?」
 「え、ええ、もう大丈夫です。」
 「良かった・・・今日は、お買い物ですか?」
 「あ、いえ、友人と打ち合わせを。」
 会話が途切れ、話の接ぎ穂を探そうとした時、純はポケットの中が熱くなったのを感じました。思わずポケットに手を入れた彼は、思いもよらない言葉が自分の口を衝いて出たことに狼狽しました。
 「あの・・・お茶でもいかがですか?」
 咄嗟に彼は、断られると思いました。我ながら、何てずうずうしいのだろうと、舌を噛み切りたくなります。恐る恐る視線を戻した彼は、彼女の顔が優しくほころびるのを見て、ほっと胸を撫で下ろしました。
 「嬉しい! 私もまた音楽のお話をお伺いしたいと思っていたんです。ケーキのおいしいお店があるんですけど、甘いものはお好きですか?」
 「は、はいっ。好きです、大好きですっ!」
 「うふっ、十河さんったら。」
 吹き出した彼女に、彼もつられて笑ってしまいます。二人の間に、暖かなものが通ったようでした。胸の中でみるみる想いが膨らんでいきます。彼は、ポケットの中の石を握りしめると、幸せな気持ちで彼女と歩いて行きました。

 翌日、朝食の席で、純は家族に就職のことを告げました。父も母も涼も、心から喜んでくれ、会話は明るく盛り上がりました。出勤する父を玄関に見送った時、彼は和らいだ表情を浮かべた父親の顔に、いつの間にか皺が目立つようになったことに気づきました。
 朝食を済ませた後、純は母親と一緒に町のデパートへ買い物に出かけました。お祝いに、背広を新調してくれるというのです。大げさなことはと純は辞退したのですが、母親は聞き入れず、いそいそと売り場を回っては、細々した物まで買い整えていきます。彼は、苦笑しつつもその後に従い、半日を買い物に費やしました。帰りの荷物のかさばることには辟易しましたが、彼はこのプレゼントを素直に受け入れる気持ちになっていました。樹と前の晩に話をした喫茶店でお礼にケーキをおごり、コーヒーを飲みながらおしゃべりを楽しんだ後、二人は山ほどの荷物を抱えて、夕暮れ近くに帰宅しました。
 それにしても、何という慌しい二日間だったことでしょう。文字通り、飛ぶように過ぎ去った二日間でした。いくつもの事が一度に動き出し、ゆっくりと考える暇もないうちに、時間が経っていきました。
 夕食前の散歩に出て、木陰に腰を下ろし、一つ一つ思い出していくと、じわじわと幸せが湧き上がってきます。純は、うっすらと目を閉じて、それに浸っていました。

 「純、何を思い出し笑いしてるんだ?」
 回想に浸っていた純は、澪の声に引き戻され、はっと我に返りました。
 いつの間にか、澪が傍らに立っています。翳り始めた夕日を浴びて、瞳がきらきら輝いていました。気のせいか、その姿がぼやけているように見え、彼は体を起こして目をこすりました。
 「あ・・・そろそろ夕食の時間だな。澪、お腹空いただろ?」
 立ち上がって、Gパンについた草を払い落としながら言うと、澪は微笑んで首を振ります。
 「お腹、空いてないのか?」
 それには答えず、澪はきらめく瞳で彼を見上げて尋ねました。
 「・・・純、幸せか?」
 「ぶ、ぶぁかっ。急に何を・・・?」
 照れ隠しに、彼がぶっきらぼうな返事をするのを遮り、澪は真顔になってもう一度尋ねます。
 「純、澪に答えてくれ。・・・幸せか?」
 その表情には、必死なものがありました。冗談に紛らすことのできない、張りつめたものが浮かんでいます。純は思わず顔を引き締め、こくりと大きく頷きました。
 それを見て、澪の顔にほっと微笑みが戻ります。女の子は、二・三歩離れると、嬉しそうに何度も頷きました。瞳には、うっすらと涙が浮かんでいます。その姿がまたぼやけたように見え、彼は首をかしげました。

 「純、時が来た」唐突に澪が言いました。「澪は、もう行かなくちゃならない。」
 「え?!」純は驚いて尋ねます。「突然何を言うんだよ? 澪はずっとここにいるはずじゃなかったのか?」
 「うん、そのつもりだよ」澪は、静かに答えます。「でも、今は行かなくちゃならないんだ。」
 「言ってることが、さっぱり分からないぞ。」
 「いいんだ、今は分からなくても。」
 そう言うと、澪はちょっと笑いました。
 「純、短い間だったけど、とても楽しかった。澪は、純を選んで、ほんとに良かったと思ってる。・・・また会おうな。」
 「ま、待てよ! どういうことなんだ?!」
 澪は、何も言わずに純に抱きつくと、頬をすり寄せました。そして名残惜しげに体を離すと、二・三歩下がって、ぺこりと頭を下げます。夕暮れの土手を背景に、その姿がみるみるかすんでいきました。次第に透き通っていく、澪の身体。儚げなその姿を通して、遥か彼方の山々が、鮮やかな夕焼けの色が、見えてきます。
 「澪!」
 純は、消えていく澪を捕まえようと、懸命に手を伸ばしました。けれども、その手は空を掴むだけです。澪は、そんな彼を限りなく優しいまなざしで見つめて、小さく言いました。
 「さよなら・・・お父さん。」
 「えっ?!」
 純が思わず声を上げた時、澪の姿はかき消すように夕闇に溶けていきました。周囲の音が消え、にじむような赤が、徐々に色あせていきます。純は茫然として、しばし佇んでいました。
 かすかに優しい風が彼を包み、吹き過ぎて行きます。密やかな虫の声が、足元から湧き上がってきました。時間が動き出し、小川のせせらぎが、鳥たちの声が、耳元に蘇ってきます。いつもと変わらぬ、夏の夕暮れでした。
 純は、思い出したように、Gパンのポケットを探りました。指先に硬い感触があり、そっと掴んで取り出すと、手の平に載せてみます。澪がくれた小さな石は、ただの石ころのように見えました。
 「澪・・・。」
 純は、そっとつぶやいてみます。突然目の前に現れた女の子との一週間が、次々と彼の脳裏に浮かんできました。澪の弾けるような笑顔が、小石に重なります。その瞬間、石はぽうっと淡い輝きを放ち、彼の手の平が白く浮き上がりました。
 「澪・・・!」
 彼は、いとおしむように小石を握りしめると、女の子の消えて行った方を見つめました。ゆっくりと夕焼けが消え、宵の明星が瞬き始めます。暖かな想いがあふれ、胸が詰まった彼は、放心したように楠の幹に寄りかかりました。

 一つ、また一つと、夜空に星が増えていきます。静かな星座の音楽が、聞こえてくるようでした。純はそっと目を閉じ、それに心を預けます。澪のいなくなった空間が、ぽっかりと胸の中に口を開けていました。けれども、何故か今は淋しさを感じません。澪の言葉の一つ一つが、そこに間違いなく澪が戻って来ることを確信させてくれたからです。
 いつかまた、澪は彼の前に現れることでしょう。その時、この石は再び輝くのでしょうか。彼は心を震わせて、未来に想いを馳せました。
 きっと、きっと、いつかきっと!
 この樹の下で、再び楽しい語らいを持てる日が来ることを思って、彼は歌を口ずさみました。
 透明な旋律が、次々と口を衝いて流れ出します。四方に張り出した楠の梢がかすかに揺れ、さやさやと穏やかな風が吹いてきました。ゆっくりと月が昇り、木の間隠れに柔らかな光が降り注ぎます。純は、その中に全身を浸し、ひたすら歌い続けました。
 そうして、どのくらい経ったのでしょう。ふと自分を呼ぶ声が聞こえたような気がして、純は目を開きました。
 口を噤んで耳を澄ますと、握り締めた石がぽうっと光を放ちました。彼は、幹から体を離し、声のした方を見上げます。月の光を浴びて、土手の上にすらりとしたシルエットが浮かび上がりました。手を振りながら危なっかしく坂を降りて来るその姿に、澪の笑顔が一瞬重なり、彼は思わずあっと声を上げました。
 「純・・・。」
 澪の声が、優しく呼びかけてきます。石はまばゆいばかりに輝きを増し、彼の胸を暖かなもので満たしました。目に見えないものが二つの空間を結びつけ、相手の想いが流れ込んできます。次の瞬間、勢い良く手を上げた彼は、樹の名を呼びながら、坂を駆け登って行きました。
 目の前でよろめいた彼女を抱き止めた純の耳に、楽しそうな澪の笑い声が聞こえます。はっと顔を上げた樹の美しい瞳に、澪の笑顔が映っていました。二人の視線が結び合い、周囲の光景が消え去っていきます。高鳴る二つの鼓動が、一つになった空間の中でこだまし、純は思わず腕に力を込めました。
 あふれる想いに衝き動かされて、彼の口から一つの言葉が洩れ、一瞬間をおいて同じ言葉が返されます。涙を浮かべた彼女の顔が近づき、ふっとその瞳が閉じられました。純は、限りなくいとおしい存在になった女性を抱きしめ、そのふっくらした唇に、そっと自分の唇を重ねていきました。

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