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第12章:夢の轍

 明け方近く、純は夢を見ました。
 彼は、真っ暗な中を、どこまでも落下していました。上も下も見えず、どこまで落ちて行くのかも分かりません。ただ、わずかに頬に当たる風が、彼が落下し続けていることを教えてくれました。
 不思議に、恐怖感はありませんでした。落ちて行く先も分からないのに、彼の心はほっとしたものを感じていました。寒くもなく、暑くもなく、ぽつんと立っているような感じです。このままずっとこうしていてもいいなと、彼はぼんやり考えました。
 やがて、目の前に愛用のパソコンが現れました。画面には、いつも使っている作曲ソフトが立ち上がっています。まっさらの五線譜が、誘うように画面から浮き上がって見えました。彼はマウスを手にして、ツールボタンをクリックしました。
 いつものように、キーボードを操作して、想いを刻み込んでいきます。メロディは次々と泉のようにあふれ、キーボードを叩く指が追いつかないぐらいです。彼は、落下しながら夢中で作業を続けました。
 画面の中で、順調に曲が仕上がっていきます。
 澪とともに、丘の上で感じた想い。鎮守の森の光景。雨に煙る小川のほとり。そして、空いっぱいにかかった鮮やかな虹。いくつもの想いが織り成され、美しい旋律となっていきます。ディスプレイがたちまち音符で埋まり、画面が目まぐるしくスクロールしていきます。それにつれて、彼の胸にさまざまな光景が蘇り、優しい想いで満たされていきます。
 幸せな思い出の数々。澪の無邪気な笑顔。そして、樹の優しいまなざし。熱い想いに、彼の指は飛ぶようにキーボードの上を走りました。

 「あっ?!」
 不意にディスプレイが真っ暗になり、純は悲鳴にも似た声を上げました。
 バッテリーが切れたのでしょうか。それともどこか故障したのでしょうか。レジュームスイッチやメインスイッチをいじってみますが、全く反応がありません。幸福なひとときが唐突に断ち切られ、急に孤独と圧迫感が迫ってきます。
 彼は、叫ぼうとして口を開きました。けれども、どうしたことでしょう。喉が痛むほど力を入れても、声が出てこないのです。そればかりか、胸の奥から何かがこみ上げてきて、息が詰まりそうになります。彼は、なにもない空間をかきむしり、必死に助けを呼ぼうとしました。
 その瞬間、彼の口から、どっと音符が飛び出しました。まだ五線譜に記録されていない無数のフレーズが、次々と闇に吸い込まれていきます。彼は、それをつなぎ留めようと、虚しく手を伸ばしました。
 「あ・・・あああ・・・。」
 全ての音符が心の中から消えてしまった時、やっとかすれた声が彼の口を衝いて出ました。言いようもない絶望が、彼の胸を締めつけます。生み出すことのできなかったメロディたち。掴みきれなかった想い。彼は深い後悔とともに、音符たちの消えて行った方向を見やりました。

 「純。」
 その時彼は、かすかに自分を呼ぶ声を聞きました。途端に、ポケットの中の石が焼けつくように熱くなります。取り出して手の平に載せると、それは燃えるような光を放ちました。
 気を呑まれて見つめていた純は、その光の遥か向こうに、小さな淡い輝きが現れたのに気づきました。
 「澪。」
 ぽつりとつぶやくと、その光はゆっくりと点滅を始めます。誘うように瞬く蛍のような光。それに応えるかのように、手の平の石が強く燃え上がります。しばしそれに見入っていた彼は、意を決して光の方に歩き出しました。
 空を踏んでいた足の裏が硬いものを捉え、純は落下が止まっていることに気づきました。強い風が顔に当たり、煽られた髪の毛が目にかかります。彼はそれを無造作に掻き上げ、片手に石を握りしめたまま歩いて行きます。進むにつれて、周囲がぼんやりと明るくなり、風はますます強くなりました。彼は一瞬顔をしかめ、立ち止まろうとしましたが、手の中で輝く石の光に励まされて、身体をやや前のめりにすると、強風の中を泳ぐようにして、ひたすら点滅している光を目指しました。
 暗闇に目が慣れてきたのでしょうか。周りの光景が少しずつはっきりしてきます。かすかに蝉時雨とヒバリのさえずりが聞こえ、風が治まると、純はいつしか慣れ親しんだ道を歩いていました。
 次第に、塞いでいた気持ちが明るくなってきます。さんさんと降り注ぐ陽射しが爽やかに感じられ、吹き出してきた汗も気にかかりません。靴の下で地面が弾み、それにつれて心が浮き立ってくるようです。空っぽだった心の中に、新たなメロディが湧き出し、彼はそれを口ずさみながら歩き続けました。
 だらだら坂を登りきり、小川に沿って歩き始めると、土手の向こうに大きな楠が見えてきました。足取りはますます軽く、小走りになった純は、木陰に二人の人影を認めると、一気に駆け出しました。それに気づいて、相手が手を振ります。胸の中に熱い想いがあふれ、彼は思わず声を上げました。

 「純、純ってば!」
 強く体を揺さぶられて、純は目を覚ましました。
 「あ・・・。」
 ぼんやりと目を開けると、澪が覗き込んでいます。その瞳に映った自分の顔を見た時、彼は胸がいっぱいになりました。
 ゆっくりと手を差し伸べると、澪はにっこり笑って体を預けてきます。ふわっとした感触が腕の中に感じられ、顔を胸に押しつけてくる澪に、彼はたまらない愛しさを覚えました。
 「夢・・・か。」
 ふっとため息をつき、彼は天井を見上げます。窓から入って来る陽射しが、陽炎のように躍っています。陽だまりの匂いがする澪の髪を撫でながら、ゆっくりと夢を反芻していると、顔を上げた澪が悪戯っぽく尋ねました。
 「純、会えたか?」
 一瞬目を見張った彼は、無邪気なその顔に微笑みかけると、こくりと頷きました。

 純が三好信吾に電話をかけたのは、その日の午後でした。

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