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第11章:扉は開く

 「きゃーーーーーっっっ!!」
 穏やかなひとときは、時ならぬ悲鳴によって、唐突に終止符を打ちました。
 純は、ぎょっとして目を見開き、慌てて立ち上がりました。傍らでは澪が、きょとんとして見上げています。
 「純、どうしたんだ?」
 返事をする間ももどかしく、彼は楠の陰から走り出ました。途端に、くるぶしまである濡れた草に足を滑らせ、危うく転倒しそうになります。片足を踏みしめて体勢を立て直し、顔を上げると、土手を誰かが転げ落ちて来ます。クリーム色のブラウスに紺のタイトスカート。ベージュのハイヒールが、片足から離れて宙に舞うのが見えました。急な傾斜に、転がるスピードが見る見る上がります。このままいけば、川に落ちてしまうでしょう。純は、全速力で駈け寄ると、夢中で飛びつきました。
 柔らかな感触が手に触れたと思った瞬間、ぐっと両手に体重がかかり、彼はもつれるように倒れ込みました。甘酸っぱいコロンの香りが鼻をくすぐり、腕の中に華奢な身体が飛び込んできます。彼は思わずそれをぎゅっと抱きしめ、足を突っ張りました。がくんがくんと衝撃が全身に伝わり、周囲の光景が目の前で回転します。肘が擦りむけて、痛みがつんと突き抜けました。
 二人は、もつれ合ったまま、土手を滑り落ちて行きました。「純!」遠くで澪が叫んでいる声が聞こえます。必死に足を踏ん張るのですが、一度ついた勢いはなかなか止まりません。目の隅に河原が見えたと思った瞬間、二人の体はちょっとバウンドして、河川敷の砂利に当たりました。
 「いたたたたっっ!」
 背中に食い込む石の痛みに、純は呻き声を上げました。もう後がありません。彼は顔をしかめながら、無我夢中で四肢を踏ん張ります。ポケットの中に、焼けるような痛みを感じた途端、がくんとスピードが落ち、二人はようやく水辺ぎりぎりで止まりました。

 「純、大丈夫か?!」
 澪が駈け寄ってきます。純は、しばしぐったりとしていましたが、やおら跳ね起きると、抱きかかえていた女性の肩を揺さぶりました。首がかくかくと揺れ、耳からぶら下がっていた眼鏡が石の上に落ちて、小さな音を立てました。
 「しっかり!しっかりして下さい!」
 長い髪の毛がほつれて顔にかかっています。脳震盪を起こしたのでしょうか。意識を失っているようです。ブラウスのボタンがちぎれ、襟元が大きくくつろげられて、白いふくらみの上端が覗いています。自然に目がそこに行ってしまい、純は真っ赤になって顔をそむけました。
 二十歳ぐらいでしょうか。ノーメイクの丸顔に、どこか幼さを残しています。どぎまぎしてそれを見ていた彼は、どこかで会ったような気がして首をひねりました。どこで会ったのでしょう。記憶をたどってみますが、思い出せません。ただ、それとは別に、たまらなく懐かしい感情が、湧き上がってくるのです。それは、澪を見た時に感じたものと同じ気持ちでした。澪と違うのは、腕に掛かる重さと、首筋からほのかに香る甘酸っぱいコロンの匂いでした。そしてそれは、腕の中にいるものが現実の女性であることを、彼に強く意識させました。

 「ん・・・。」
 女性がかすかにつぶやきました。まつげが震え、うっすらと目を開きます。ぼんやりとした瞳がわずかに動き、純の顔に焦点を結びました。一瞬けげんな表情を浮かべた彼女は、次の瞬間はっと身体を起こしました。
 「あっ!」
 ふわっと甘い香りがただよい、腕が軽くなりました。胸元を押さえて起き上がった彼女の白い首筋に、見る見る血が昇って行きます。それを見た純も、思わず真っ赤になりました。
 「あ、あの・・・お怪我はありませんか?」
 「え? あ、はいっ。すみません!」
 慌てて立ち上がろうとする彼女を支えると、体の節々に痛みが走り、彼は顔をしかめました。ぺこりと頭を下げた彼女は、それに気づくと心配そうに尋ねました。
 「あのっ、お怪我をされたんじゃありませんか?」
 「あ・・・大丈夫です。ただの擦り傷ですから。」
 「でも、こんなに血が出て・・・すみません!」
 「大したこと・・・あっちっち!」

 その時、ポケットの中が焼けるように熱くなり、純は飛び上がりそうになりました。手を突っ込んで取り出すと、石はまばゆいばかりの光を放っています。それは、今まで見たことのない、強い光でした。炎のような白い光に照らされた二人は、顔を見合わせて同時に叫びました。
 「あなたはあの時の・・・!」
 「あっ!」
 それは、デパートの子供服売り場で会った店員でした。土手を転がり落ちて来る時に、眼鏡がずり落ちてしまったのでしょう。後ろで束ねていた髪も、ほつれて広がり、肩にかかっています。けれども、それは間違いなく、あの女性でした。
 「純、先に帰るぞ!」
 いつの間にそこまで登ったのか、土手の上で澪が叫んでいます。純が声をかける間もなく、にっこり笑って手を振った澪は、土手の向こうに消えてしまいました。
 「あの子が姪御さんですね?」
 彼女がそれを見て、微笑みかけます。どうして澪の姿が見えたのだろうと訝りながら、彼は頷きました。
 「あ・・・は、はい。」
 「良かった。あの服、とても似合ってます。」
 「そ、そうですね。」
 「あ、自己紹介を忘れていました。私、細川 樹(いつき)といいます。大樹の樹と書きます。」
 「僕は・・・十河 純。」
 「危ないところを、有難うございました。」
 「い、いえっ。当然のことをしたまでですっ。」
 どぎまぎする純の手を取って、彼女は言いました。
 「あの・・・私の家、この近くなんです。傷の手当てをさせて下さい。」
 「は、いえっ・・・あ・・・はいっ。」

 二人は、散らばったものを捜しながら、ゆっくりと土手を登りました。眼鏡とショルダーバッグとハイヒール。登りきったところで身づくろいを済ますと、彼女は髪をかき上げて、ちょっと舌を出しました。
 「そそっかしいんです、私。雨の日にハイヒールで外出するなんて。」
 「雨に濡れた草は滑りますから。」
 「ええ、ちょうどここまで来た時に、きれいな歌が聞こえてきたものですから。もっと良く聞こえるようにと、土手を降りかけた途端に・・・。」
 「あ・・・。」
 それではこの人は、僕の歌を聞こうとして土手から転げ落ちたのか。自分の創った曲が事の原因になったことに、純は驚きました。咄嗟に謝ろうとすると、彼女は首を振って言いました。
 「十河さんが歌っておられたんですか?」
 「え、ええ。」
 「きれいな歌ですね。透明感があって、素敵なメロディでした。何という曲ですか?」
 「あ、いや、まだタイトルはないんです。」
 それを聞いて、彼女は驚いたようでした。
 「あの曲、十河さんがお創りになったんですか?」
 「ええ、まあ。」
 「作曲家をしておられるとか?」
 「い、いえ。そんな大そうなものじゃないです。ただ趣味で・・・。」
 「勿体ないわ。あんなに美しい曲をお創りになれるのに。」
 尊敬を込めたまなざしで見つめられて、彼の胸が高鳴りました。人づき合いの下手な自分が、ごく普通に話していることが不思議でした。彼女の言葉は、砂地に水が沁みこむように、しっりとりと彼の心に沁み通り、そこから暖かいものが湧き上がってきます。自分が必要としている『何か』を、それは持っていました。そしてそれは、空に掛かる虹のように、彼の心を幸せな彩りで満たしたのです。
 彼女と並んで歩きながら、純は自分の饒舌さに唖然としました。自然に心が開き、堰を切ったように言葉があふれてきます。彼は、これまで周囲のものと語り合ってきた言葉で、彼女と話せることに気づきました。
 彼女はまた、素晴らしい聞き手でもありました。一つ一つの言葉に込められた彼の想い。その重さを、彼女はごく自然に理解し、熱心に耳を傾けてくれました。彼は夢中で話し続け、いつの間にか彼女の家に着いていることさえ気づきませんでした。

 夕方、家に帰って来た時、純の瞳は興奮で輝き、顔は上気していました。食事もそこそこに二階へ上がって来た彼を見て、澪はベッドから飛び降りると尋ねました。
 「純、顔が真っ赤だぞ。」
 「あ、ああ、そう?」
 「いいことがあったみたいだな。」
 「う、うん。」
 「あの人とたくさんお話できて、良かったな。」
 「う、うん。」
 「あの人が好きか?」
 「ば、ばかっ。そんなんじゃ・・・。」
 慌てる純にだきついて、澪は楽しそうに笑いました。顔を押しつけ、肩を震わせていた澪の声が、次第にすすり泣くようなものに変わります。彼が驚いて抱きしめると、澪は涙で濡れた顔を上げ、にっこりして言いました。
 「・・・良かった。」
 「えっ?」
 「ううん・・・何でもない。・・・純、お腹が空いた。」
 「あ、ごめん。下から何か持って来るよ。」
 彼は、涙を拭きながら泣き笑いしている澪をそっとベッドに腰掛けさせると、再び階下に降りて行きました。

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