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翌日は雨でした。昼近くに目を覚ました純は、屋根に当たる雨音を聞きながら、物憂げに寝返りを打ちました。 傍らでは、澪がすやすやと寝息を立てています。長い睫毛が、桜色の頬の上に、薄い影を作っていました。無邪気な笑みが、口元に浮かんでいます。見つめていると、言いようもない安心感が込み上げてくるのは何故でしょう。彼は、何かが自分の中で育ちつつあるのを感じました。それが何なのか、今の純には分かりませんでしたが、胸の中に空いていた隙間を埋め、乾いていた彼の心に潤いを与えてくれたことは分かりました。穏やかな感情とともに、自分の心が外に向かって広がっていくようです。彼方にある何かを、彼は漠然と感じました。 そっと体を起こすと、ベッドがかすかにきしみました。 「ん・・・。」 澪の睫毛が震え、ぱっちりと目を開きます。小さな手がタオルケットを押しのけて現れ、目元をこすりました。 「あ・・・おはよ、純。」 「ごめん、起こしちゃったか?」 「ううん。・・・今、何時?」 「十二時・・・十五分前かな。」 「起きよっか、純?」 「うん。」 澪は、ベッドから降りると、四つん這いになって、猫のように伸びをしました。気持ち良さそうに欠伸をすると、目元ににじみ出た涙を拭って笑いかけます。いつの間に着替えたのか、純のワイシャツを着ています。 「何だ、またそんなものを着て。」 「これ、純の匂いがするんだもの。」 そう言って、ワイシャツの中に顔を埋めます。その仕草に、純はどぎまぎしました。 「雨?」 「うん。朝からずっと降ってるみたいだ。」 「そっか。少し涼しくなるかな?」 「多分ね。」 「純、お腹空いた。」 「分かった。今何か持って来てやる。」 純は、手早く着替えると、階下に降りて行きます。父親と涼は、もう仕事に行ってしまったようでした。母親は買い物にでも行ったのでしょうか。部屋の中はしんとして、時計の音だけが聞こえています。 洗顔を済ませて冷蔵庫を漁っていると、いつの間にか着替えた澪が傍に来て、覗き込んでいます。 「何だ、来たのか。」 「へへ、待ちきれなくて。あ、純、あれは何だ?」 「これか? サラミソーセージだけど。」 「それ、うまいのか?」 「まあな。」 「食べたい。」 「オッケー。後は何にしようか?」 「えーと・・・あれは?」 「プリンか?」 「うん。それとこないだのあれ。ハムだっけ? それとパン。」 「腹を壊すぞ、あまりたくさん食うと。」 「大丈夫。今朝はすごくお腹が空いてるんだ。」 「そうか、それじゃ。」 純は、澪の選んだ物をコンビニの袋に入れると、パックのポテトサラダと半切りのレタスを追加しました。ラックからペットボトルを抜き出し、小脇に抱えて扉を閉めます。ダイニングの食器棚を開け、スプーンを取り出していると、澪が尋ねます。 「今日は、どこで食べようか?」 「え? 外は雨だぞ。」 「好きなんだ、雨の匂いって。」 「ふ、ふぅん。」 「なあ、あの小川に行ってみないか? ほら、純と出会ったあそこ。」 「ああ、いいけど。」 「それじゃ行こう。すぐ行こう。」 そう言って、純の後ろに回り、腰を押すようにします。彼は苦笑して、押されるままに玄関まで行くと、傘立てから傘を二本抜き出しました。 小ぶりのこうもり傘を澪に渡し、靴箱を開けてみます。涼が子供の頃使っていた長靴があるはずでした。体を低くかがめ、奥を覗き込んでいた純は、ようやくほこりを被った青いゴム長靴を取り出すと、澪の前に置いてやりました。 「足が濡れるから、今日は運動靴はやめて、これを履きな。」 「ありがと、純。」 外へ出ると、鉛色の空から振って来た雨粒が、ぱらぱらと顔に当たりました。先ほどより雨脚が衰えているようです。このままでいけば、一時間ぐらいで止むかも知れません。純は傘を開き、戸締りをすると歩き出しました。 ぱしゃぱしゃと水溜りで跳ねを上げて、澪が追いついて来ます。彼の差し出した手を握り締めると、澪は嬉しそうに笑いました。つないだ手と手を振りながら、二人は土手に続く道を歩いて行きます。つられて、彼の心もうきうきと躍りました。 久しぶりの雨に、草木は生き生きとして見えます。にじむような緑が目に沁みました。見慣れた風景が、いつもと違っているように思え、彼は思わず目をぱちぱちさせました。 息を大きく吸い込むと、濡れた草木の匂いがします。みずみずしい青葉と空気の匂い。それは新鮮な驚きでした。これまでは鬱陶しいとしか思えなかった雨の日が、不思議にしっくりと優しいものに感じられます。雨に煙った風景、ぱらぱらと傘を叩く雨音、地面で跳ね踊る雨滴にさえ、リズムがありました。彼はそこから得た着想を組み合わせ、いくつかのフレーズを編み上げました。 砂利を踏みしめ、だらだら坂を登りきる頃には、雨脚はさらに衰えていました。どこかで小鳥が鳴いています。もうすぐ雨が上がるのでしょう。 坂の上から見た水田は、美しい緑に輝いていました。緑の海が雨を受けて艶やかに光り、その中から賑やかな蛙の声が湧き上がっています。いつもは耳につくその声が、今日は爽やかに聞こえました。二人はそれに迎えられるように、石橋を渡り、土手に沿って歩きました。 小川は、少し水位を増しているようでした。この前見た時より茶色に濁った水が、勢い良く流れています。ざあざあという瀬音に、しぶきを上げる濁流。それは、純が忘れて久しい、小川のもう一つの顔でした。岸辺に立っている川舟繋留用の杭も、わずかに顔を覗かせているにすぎません。河原に降りて行くのは、無理なように思えました。 澪は、こうもり傘をくるくる回しながら、あたりを見回していました。その視線が、土手の中ほどに枝を広げている楠の大木に止まると、いきなり純の手を振りほどいて駆け出していきます。 「澪!」 「純!こっちこっち。あの木の下なら、きっと座ってお弁当が食べられるぞ。」 「滑るから、足元に気をつけろ!」 「大丈夫!早く!」 うさぎのように土手を駆け降りた澪は、木陰に乾いたところを見つけると、長靴を蹴飛ばすようにして脱ぎ捨て、ぺたりと座り込みました。重心の高い純は、そうもいきません。ともすれば滑りそうになる草の上を、足場を探りながら、危なっかしく降りて行きます。水面がぐっと近づいて来るような気がして、眩暈を感じた彼は、途中から中腰になって進み、やっとのことで澪の傍らにたどりつきました。 「あははっ!おかしい、純ったら。変な恰好!」 「わ、笑うなっっ。」 草の上に腰を下ろすと、彼はほっと息をつきました。傘の柄に縛り付けてきたコンビニの袋を開けると、澪が素早くその中に手を突っ込みます。 「こ、こら待てっ。」 「へへっ、いただきっ。」 そう言ってサラミソーセージのパックをつかみ出した澪は、顔中をにこにこさせて純に差し出します。 「開けて。」 「あ、ああ。」 パックを開けてやると、澪はスライスしたソーセージを一切れ口に放り込み、もぐもぐやっていましたが、満足そうに「うまい!」と言って、もう一切れつまみました。 「純!うまいな、これ。」 「そうか、うまいか。」 「純も食え。ほら。」 「あ、ありがと。」 二人は、それきり黙々と食べ続けました。 いつもの光景に、雨のアクセント。肌に触れるみずみずしい空気。木の葉を叩く雨音と小川のせせらぎ。穏やかな時間が、ゆっくりと過ぎていきます。純は、心ゆくまでそのひとときを楽しみました。 やがて、持って来た物を食べ終える頃、雨はすっかり上がって、雲の陰から薄日が射してきました。風が雲を吹き払うにつれて、空の色は灰色から次第に青さを増していきます。二人が寄りかかっている幹の上の方で、セミが鳴き始めました。水田から次々とヒバリが飛び立ち、囀りながら舞い上がって行きます。 「あ、純・・・虹!」 澪が叫びました。指差す方を見ると、うっすらとした虹が、空をまたぐ橋のように掛かっていました。最初はぼんやりとしていた四色ほどの帯が、見る見る鮮やかな七色のアーチとなっていきます。目に沁みるような自然の造形に、純はしばし見とれました。 「純、虹の音楽も聞こえるか?」 澪の問いかけに、彼は頷きました。目を閉じると、頭の中でいくつもの色が渦を巻き、そこから純粋な色彩をもったフレーズが湧き出してきます。彼はそれを整理し、並べ直すと、そっと口元に載せました。 美しい旋律が純の唇から流れ出します。澪がにっこりしたのに元気づけられて、彼は少しずつ声量を上げました。曲が紡ぎ出されるにつれて、彼の胸は温かな想いでいっぱいになり、まぶたの裏に澪の顔が映ります。その瞳はきらきらと輝き、口元には優しい微笑が浮かんでいました。純は、そのあどけない笑顔に想いの全てを込めて、歌いかけます。 澪が手を握り締めてきたのを感じて、彼はその手を強く握り返しました。澪の想いが流れ込んできます。それは彼の想いと一体になって、さらに美しい旋律を生み出しました。彼はうっとりとそれに心を預け、幸せな気持ちに浸っていました。 |