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第9章:友の背中

 「純、お客さんが見えたよ。」
 その日の夕刻、母親に呼ばれて階下へ降りて来た純は、玄関に立っている人物を見て声を上げました。
 「やあ、三好じゃないか。どうしたんだ?」
 以前勤めていた会社の同僚、三好信吾でした。会社帰りなのでしょう、この暑いのに、ライトブラウンのスーツをきちんと身に着け、鞄を下げています。母親が手にしている紙袋は、手土産でも持って来たのでしょうか。
 「久しぶりに、顔が見たくなってな。」
 「純、お土産をいただいたんだよ。」
 「いいのに、そんな気遣いをしなくても。・・・有難う、上がれよ。」
 「おう。お邪魔します。」
 純は先に立って、二階に案内します。部屋に入ると、彼はエアコンのスイッチを入れ、ベッドに座っていた澪に人差し指を立てて、その隣に腰を下ろしました。
 「一年ぶりだな、ま、座れよ。」
 三好信吾は、背広を脱いで椅子に腰掛けると、ポケットからハンカチを出して、首筋の汗を拭いました。程なく、母親が冷たい飲み物と水菓子を、お盆に載せて入って来ます。
 「ゆっくりしていって下さいね。」
 「あ、母さん、そこへ置いてくれる?」
 パソコンの脇とベッドの上にお皿を置いて母親が去ると、純は身を乗り出して尋ねました。
 「最近はどうだ?」
 「相変わらずさ」三好信吾は苦笑いして答えます。「お前がいた頃と、何も変わっちゃいない。さすがの俺も、最近窮屈になってきた。」
 「そうか・・・。」
 純はため息をつきました。前の会社で働いていた頃のことが、苦い記憶とともに思い出されます。
 ぎくしゃくした人間関係。硬直的な組織の体質。いくたびか衝突を経験し、いくたびも幻滅を味わい、働くことに挫折した純でした。組織の中で生きることの虚しさ。気持ちの伝わらない歯がゆさ。人間関係の煩わしさ。彼は、自分自身を守るために、退職願いを出すしかなかったのです。
 自分の採った道が、間違っていたとは思いません。一度は遺留した両親も、今はそっと見守っていてくれます。わずかながら蓄えもありましたし、雀の涙ほどの退職金も支払われました。息苦しい日常と訣別して、ゆっくりと傷を癒す日々。いつしかそれが当たり前のようになっていくのを、彼は無感動に意識していました。

 「なあ、一緒に仕事、やらないか?」
 追憶の糸をたどっていた純は、我に返って顔を上げました。三好信吾が、真剣なまなざしで見つめています。
 「・・・え?」
 「俺、会社を辞めようと思ってる。自分で会社を立ち上げようと思うんだ。けど、俺は営業畑一筋で来たから、クリエイティブなことが分からない。十河、お前の力を貸してほしいんだ。二人で力を合わせれば、きっとすごいものが作れると思う。俺の会社に来てくれないか?」
 純は戸惑いました。正直に言って、今はまだとても働く気にはなれないのです。やっと訪れたこの平和なひとときを、彼は手放したくありませんでした。確かに、二人で会社を経営すれば、組織特有の息苦しさはないかも知れません。けれども、二人だけということは、逆に何もかも自分たちだけでやっていかなければならないということです。経営から営業、対外的な折衝までが、彼らの肩に圧し掛かってくることでしょう。それは、ひどく煩わしいことのように思えました。前の会社で深く傷ついた彼は、そんな煩わしさの中でまた傷つくことを、恐れてもいました。
 それならいっそ、もう少しこのままでいたい。淡々と過ぎていく日々。起伏はないけれども穏やかな日常。何を好きこのんで、この空間から出る必要があるでしょうか。しかし、元同僚であり友人でもある三好信吾からの申し出を、無下に断るのもまた気が引けます。二つの気持ちの間で、純はしばし迷い、決断しきれないままに重い口を開きました。
 「三好・・・僕は・・・。」
 「待った」三好信吾は、素早く彼を遮って言います。「今すぐ答えをくれというわけじゃないんだ。・・・お前の気持ちも良く分かる。けど、じっくり考えてみてくれ。決して悪い話じゃないと思う。」
 「三好・・・。」
 「決心がついたら電話をくれないか。良い返事を期待しているよ。俺にはお前だけが頼りなんだ。」
 そう言って純の肩を叩くと、笑って立ち上がります。部屋を出て行くその後姿には、重い疲労がにじみ出ていました。きっと毎日、つらい思いをしているのでしょう。そんな友の様子を見ると、純の心はちくちくと疼くのでした。

 玄関まで見送った後、考え込みながら戻って来た純に、澪が話し掛けます。
 「純、今の人、誰?」
 「あ?ああ、前に勤めてた会社の友達。」
 「ふうん。随分疲れてたみたいだけど・・・。」
 「うん・・・今の会社が、肌に合わないんだ。自分で会社を作るんだって。」
 澪は、ベッドに腰かけて頷いていましたが、純の様子を見て尋ねました。
 「純は、助けてやらないのか?」
 「え?」
 「友達なんだろ?」
 「う、うん。」
 それきり何も言わず、澪は純を見つめていましたが、やがてぴょんとベッドから飛び降りて彼の手を取り、言いました。
 「純、散歩に行こう。」

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