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第8章:水鏡

 二人は、手を取り合って鎮守の森に向かいます。言葉を交わすこともなく、ただ時折顔を見合わせて微笑みながら歩いて行く二人の後ろに、長い影が伸びていました。あたりはひっそりと静まり返り、かすかな虫の声と二人の足音だけが聞こえています。見上げると、降るような星空に、白い月が煌々と輝いていました。しっとりとしたその光を浴びていると、体の中のもやもやが消えていきます。頭が冴え冴えとしてきて、美しい曲のフレーズが、泉のように湧き出してきます。純は、思わずそれを口ずさみました。
 「あ、いいなそれ。何ていう曲?」
 澪が嬉しそうに尋ねます。彼はちょっと考えて答えました。
 「月光・・・かな。」
 「純が創ったのか?」
 「うん。」
 「すごいんだ、純って。」
 「そんなこと・・・ないさ。」
 純が照れて笑うと、澪は首を振って言います。
 「ううん、澪は感動した。もっと聴かせて。」
 彼は頷き、先を続けました。不思議なことに、メロディは途切れることなく、次々に口をついて流れ出してくるのです。周囲の雰囲気が彼の中に溶け込み、曲となってあふれ出ているようでした。歌っても歌っても、歌い尽くせない美しいものが、彼の心を大きく揺さぶりました。握りしめた手から、澪の想いが伝わってきます。声は次第に大きくなり、いつしか彼の目には涙が浮かんでいました。この感動を、誰かに伝えたい。彼は切実にそう思いました。

 いつしか、二人は森の中の道を歩いていました。遠くで、トラツグミの声が聞こえます。かすかに涼しい風が頬を撫で、梢が揺れました。
 ふと傍らを見た純は、澪がいなくなっていることに気がつきました。
 さっきまで確かに手をつないでいたのに、いつの間にいなくなったのでしょう。振り返って見ましたが、どこにも姿が見えません。彼の隣に、ぽっかりと穴が開いたような感じでした。急に周囲が翳ったような気がして、彼はぞくっと体を震わせました。
 「澪?」
 そっと呼びかけてみます。その声がかすれ、震えていることに彼は驚きました。一体どうしたというのでしょう。こんな気持ちは初めてでした。心細さと似てはいますが、それとは明らかに違うもの。それは説明のつかない、奇妙な感情でした。自分が一人ぼっちになったことが、ひしひしと胸に迫り、いたたまれない思いに、彼は叫び出しそうになりました。

 「ふふっ。」
 その時、森の中で密やかな声が聞こえました。斜め後ろの方で、さやさやと葉ずれの音がします。純は、思わずその方へ歩み寄り、声をかけました。
 「澪?」
 返事はなく、くすくす笑う声がするだけです。梢がかすかに揺れ、木の間隠れに何かがふっと浮かんで消えました。
 「澪!」
 下生えをかき分け、森の中に分け入ろうとした時、今度は真後ろで笑い声が聞こえました。さっきより少しはっきりした声。それは明らかに澪の声でした。
 「澪っ!」
 純は踵を返し、反対側の森に踏み込みます。真っ暗な森の奥に、ぽうっと光るものが現れ、枝の間を縫うように動いて行くのが見えました。
 「こら、澪っ!」
 顔に当たる枝を跳ね除け、下生えを踏みしだいて、彼はそれを追いました。淡い光は、誘うように瞬きながら、十メートルほど向こうを漂って行きます。それは、蛍が舞うように、枝から枝を伝って、ゆっくりと点滅を繰り返していました。何の不思議さもためらいも感じることなく、純はそれが澪だと信じ、ひたすら森の奥へと分け入って行きます。
 足元は真っ暗だというのに、彼は躓くことはありませんでした。彼方に瞬く光だけを拠り所に進む彼は、いつしか枝が顔や体に触れなくなり、下生えに足を取られることがなくなったことにも気がつきませんでした。

 そうして、どのくらいの時間が経ったのでしょう。鬱蒼と茂った木々の間に、星空が見えてきました。それは、まるで切り取ったように、生い茂る葉の向こうに現れ、進むにつれて次第に大きくなりました。周囲の木々がだんだん色彩を取り戻し、月明かりが彼の体を包みます。かすかに水の流れる音が聞こえ、純はそれに勇気づけられて、歩みを早めました。
 森は突然途切れ、あたりが開けた瞬間、彼は胸を打たれて立ち止まりました。
 そこは、鎮守の丘の中腹でした。森に囲まれた小さな空き地に、泉がこんこんと湧き出しています。澄んだ水の流れが、森の反対側に続いていました。そしてそのほとりに張り出した岩の上に、澪が座って笑いかけています。
 「澪!」
 「純、遅いぞ。」
 澪は、岩から飛び降りると、駆け寄って純に抱きつきました。彼の心にぽっかり空いていた空間が、暖かなもので満たされていきます。彼は思わず、澪をぎゅっと抱きしめました。
 「じ、純っ、苦しいってば。」
 「心配したんだぞ、澪!」
 たまらない愛しさがこみ上げてきます。出会って幾日も経っていないのに、腕の中にいる女の子が、かけがえのない存在になっていることに、彼は気づきました。何故かは分かりませんが、ずっと昔からこうしていたように、こうして澪を感じていたように、彼には思えました。
 「こんな所に泉があるなんて、知らなかった。」
 純がつぶやくように言うと、澪は彼の手を引いて、泉のほとりにつれて行きます。岩の間から湧き出している清水は、月の光を散らして輝いていました。かがみ込んで両手に水をすくい上げ、口に含んでみます。冷たく、爽やかなものが口の中に広がり、喉を駆け下って行きました。体の隅々まで、澄んだ清浄なものが沁みわたっていきます。彼は目をうっすらと閉じ、その感触を味わいました。

 やがて、時間が早送りになったような不思議な感覚に、純は目を開きました。一瞬、また澪がいなくなったのではという危惧に襲われ、はっと傍らを振り向くと、澪が首をかしげて見上げています。ほっと胸を撫で下ろした彼は、何気なく泉に視線を落とし、驚きに目を見開きました。
 泉の水面に、誰かの顔が映っています。それは絶え間なく湧き出す水の動きに揺らいでいましたが、見知らぬ少女の顔でした。年齢は十五歳ぐらいでしょうか。腰まで届きそうな長い黒髪を、薄いブルーのリボンで留めています。すらりと伸びた美しい肢体に、紺色のブレザーとタータンチェックのミニスカートが良く似合っています。しばらくそれを見つめていた彼は、あっと声を上げました。
 これは、さっきの夢の中に出てきた澪ではありませんか。水面が揺らぐたびに映像が乱れるので、表情がつかみにくいのですが、間違いありません。成長した澪の姿です。
 「み、澪・・・これ・・・?」
 言いかけた彼は、次の光景に息を呑みました。
 少女の後ろに、一人の女性が映ったのです。三十五・六歳に見えるその女性は、少女の肩に手をかけ、何かささやいているようです。その手にそっと手を触れ、見上げた少女の顔が、にっこりとほころびます。純は胸を打たれたように、それに見入りました。すると二人は、その視線に気づいたかのように彼の方を見て、微笑みながら手を振ったのです。
 純は、ごしごしと目をこすり、それから澪を振り返りました。女の子は、傍らに膝をついていましたが、彼の問い掛けるようなまなざしに首をかしげました。
 「どうかしたか、純?」
 「・・・って、これ・・・これは・・・?」
 「ん?」
 もう一度確認しようとして水面に目を戻した彼は、ほかんと口を開けました。そこにはもう何も映ってはいず、ただ静かな音を立てて水が湧き出しているだけでした。
 呆然とそれを見つめていた彼は、ポケットの中に焼けつくような熱さを感じて跳び上がりました。慌てて手を突っ込み、澪からもらった石の欠片を取り出すと、それはぽうっと淡い光を放っています。白い輝きの向こうに、澪の瞳がきらめいて見えました。
 「澪・・・?」
 澪は、純を見上げてにっこり笑うと、ぴょんと立ち上がって手を差し出しました。
 「帰ろうか、純?」

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