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第7章:もう一つの空間

 「どうだ、似合うか?」
 買ってもらったばかりの服を身に着けて、澪がくるっと回って見せます。ぱっとそのあたりが明るくなったようでした。何ということもない普通の遊び着なのですが、それは澪にとても良く似合っていました。純は、目を細めて頷きながら、新鮮な喜びに打たれていました。
 「ああ、良く似合ってるぞ。」
 しかし、子供服が思っていたより高かったのには驚きました。白いストライプの入ったブルーのTシャツと薄いブルーのGパン、それにブルーの運動靴。あとは下着の上下を買っただけなのに、たちまち財布の中が淋しくなってしまい、結局帰りに立ち寄ろうと思っていたパソコンショップにも寄らずに、真っ直ぐ帰って来たのです。
 定職についていない純にとって、この出費はかなりの痛手でした。けれども、澪が喜んでいるのを見ると、それも気にならなくなってしまいます。やはり無理をしてもデパートに行って良かった。彼は、ほのぼのと湧き上がってくる暖かな想いに、幸せを感じていました。

 「なあなあ、どっか遊びに行かないか?」
 澪は、上機嫌ではしゃぎ回っています。立ち上がって窓を開けた純は、ぎらぎらと照りつける陽射しにたじろぎました。昼間の疲れがどっとぶり返し、ぐったりと椅子に座り込むと、彼は答えました。
 「まだ日が高い。涼しくなるまで待とう。」
 「えー、何でー?」
 「今日は、日中外出してくたくたなんだ。少し休ませてくれ。」
 「おっさんくさいなー。」
 澪は、ぷっとふくれています。純は構わずベッドに体を投げ出すと、タオルケットを引っかぶりました。
 「夜だ、夜。涼しくなったらな。」
 「ちぇっ。」
 目を閉じると、まぶたの裏で光の輪がゆっくりと回ります。ぼんやりとそれを見ていた純は、ほどなく眠りの世界に引き込まれていきました。つまらなそうにそれを見つめていた澪は、彼が規則正しい寝息を立て始めると、その傍らに潜り込んで丸くなりました。

 気がつくと、純はパソコンに向かっていました。
 カタカタと音を立てて、指がキーボードの上を走ります。ディスプレイには、愛用の作曲ソフトが立ち上がっていました。五線譜に、今打ち込んだばかりの音符が並んでいます。心地良いファンの音が聞こえていました。
 いつの間に起きたのだろうと首をひねった彼は、ふとパソコンが愛用のノートではなく、デスクトップになっているのを見て驚きました。しかも、ディスプレイは液晶のワイド画面、キーボードとマウスはワイヤレスです。
 「あれ?」
 思わず指を止めて声を上げると、傍らに来ていた澪が尋ねます。
 「どうしたのさ?」
 「これ・・・このマシン・・・」
 「パソコンが、どうかした?」
 自分のパソコンではないと言おうとした時、デスクの上の電話が鳴りました。自分でも気づかないうちに、純はごく自然な動作で受話器を取り、短く応答します。
 「はい、十河オトグラフ・スタジオ。」
 言ってしまってから、彼はおやっと思いました。一体自分は何を言っているのだろう。『十河オトグラフ・スタジオ』って何だ?
 けれども、そんな気持ちとは裏腹に、口は落ち着いて応対しているのです。相手が何か言っていますが、するすると耳を通り抜けていってしまいます。それなのに、彼は「分かりました」と言って受話器を置きました。
 程なく、FAXからカタカタと動き出します。『発注書』と書かれた一枚の紙が送り出されて来るのを、彼は茫然として見つめていましたが、周囲を見回して目を見開きました。
 雑然としていたはずの自分の部屋が、整然とした広いオフィスになっています。壁紙は落ち着いた色調で統一され、部屋の中央には同系色の応接セットが置いてあります。左手奥にはコピー機とホームバーが設置され、コーヒーメーカーがコポコポと音を立てています。一方の壁には、作り付けの書棚があり、書籍と資料ファイルがぎっしり並んでいます。反対側は大きな窓になっていて、明るい陽光が差し込んでいました。窓の外には、高層ビルが肩を並べ、その奥にテレビでしか見たことのない都庁の巨大なシルエットがかすんでいました。
 思わず立ち上がった純は、窓から見下ろして、眩暈がしそうになりました。額に手をやって振り返ると、澪がにこにこしています。尋ねようとした彼は、澪の様子が変わっていることに気づきました。
 そこにいるのは、制服を着た一人の少女でした。それは確かに澪なのに、ずっと大人びて見えます。年齢は十五歳ぐらいでしょうか。腰まで届きそうな長い黒髪を、薄いブルーのリボンで留めています。すらりと伸びた美しい肢体に、紺色のブレザーとタータンチェックのミニスカートが良く似合っています。純は茫然として、それを見つめました。
 「どうしたの?」
 「澪・・・お前・・・?」
 かすれた声で言いかけた時、また電話が鳴りました。
 「はい、十河オトグラフ・スタジオ。」
 受話器に向かって言うと、穏やかな女性の声が聞こえてきます。
 「もしもし。今日も遅くなるの? だったら外でお食事しない?」
 『え?・・・あ・・・?』
 「銀座の『オールド・ムービー』なんかどう? 六時に和光前で待っているわ。」
 落ち着いた女性の声に、純はどぎまぎしました。一体、この人は誰でしょう? 話し方からすると、三十五・六歳ぐらいです。かなり彼と親しいようですが、彼には全く心当たりがありませんでした。けれど、それはどこかで聞いたことのあるような声でした。それがどこかは分かりませんが、確かにどこかで会ったことがあるような気がしました。
 心の中の戸惑いとは裏腹に、彼は自分の口元がほころびるのを感じました。そして、間違いようもない自分の声が、こう答えるのを聞いたのです。
 「ああ、それじゃ久しぶりに息抜きしようか。予約は僕が入れておくよ。うんとおしゃれしておいで。じゃ、六時に。」
 受話器を置いた途端、純は思わず声を上げました。
 「一体どうなってるんだ、こりゃ?」
 その途端、彼は自分がぎょっと振り向いたのを感じました。広々としたオフィスが視界いっぱいに広がります。澪が首をかしげて、こちらを見つめています。
 「誰だ、君は?!」
 彼は、自分で自分に問い掛けました。えっと思った瞬間、何かに肩を掴まれ、彼の背筋に冷たいものが走りました。
 「ぼ、僕はっ・・・は、放せっ!」
 彼は肩を掴んだ手を振り放そうと、夢中でもがきました。
 「純!純!」
 遠くで澪が叫んでいます。彼は、声のする方に精一杯手を伸ばしました。やがてその声が近づいて来たと思うと、周囲がいきなり暗くなり、「あっ!」と声を上げて純は目を覚ましました。

 暗がりの中に、ぼんやりと天井が見えます。誰かが、覆い被さるようにして、こちらを覗き込んでいます。目が慣れてくると、心配そうな澪の顔が、すぐ前にありました。両手で彼の肩を掴み、揺さぶっています。
 「あ・・・澪。」
 純は、ぱちぱちとまばたきをして、体を起こしました。見慣れた部屋のたたずまいが、目に飛び込んできます。手探りすると、タオルケットが掛けられているのが分かりました。枕元の時計を見ると、午前三時です。彼は天井を見上げ、ほっとため息をつきました。
 「・・・夢か・・・。」
 「どうしたんた、純? ひどくうなされてたぞ。」
 「あ・・・ああ。」
 「嫌な夢でも見たのか?」
 「・・・嫌な夢じゃないんだけど・・・。」
 「そうか、良かった。」
 ベッドから降りた純は、ペットボトルからぬるいお茶をぐっと飲みました。ようやく胸が落ち着いてきます。それにしても、何というリアルな夢だったことでしょう。
 「な、純。月が綺麗だぞ。散歩に行かないか?」
 澪が純の手を取って言います。窓から誘うような優しい光が差し込んでいました。今夜も、綺麗な星空が広がっていることでしょう。気分直しに散歩するのも、悪くないかも知れません。純は、一つ大きな伸びをすると、澪に笑いかけました。
 「うん、行こうか。」

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