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第6章:ある一日

 その日、朝食を済ませて少し眠った後、純は澪を連れて町のデパートに出かけました。いつまでもワイシャツを着せておくわけにはいかないので、何か服を買ってやろうと思ったのです。
 「これ、気に入ってるんだけどな。」
 入口横のエレベータホールで、澪がだらんとたれた袖をひらひらさせながら言います。
 「そんな服じゃ、動きにくいだろ。第一・・・。」
 目のやり場に困ると言いかけて、純はどぎまぎしました。小さな手を預け、こちらを見上げている澪を見ると、形容し難い感情がこみ上げてきます。それが何なのか、掴みかねている彼は、戸惑いながら懸命にそれを抑えようとしました。
 僕はロリコンぢゃない。僕は倒錯者ぢゃない。僕は幼児フェチぢゃない。僕は・・・
 考えているうちに顔が赤らんできます。心なしか、周囲の視線が集中しているような気がして、彼は、ドアが開くなり逃げるようにエレベータを降りました。

 子供服売り場は三階の一番奥でした。その手前は婦人服売り場です。平日の日中ということもあって、フロアにいるのは女性ばかりです。自分がひどく場違いな所に来ているようで、純は顔を真っ赤にしたままフロアを大またで横切って行きました。
 「さあ、ここだ。澪、どれがいい?」
 カラフルな子供服がハンガーにずらりと並んでいるところまで来ると、彼はほっと一息ついて澪に話しかけました。
 『女児子供服・十〜十二歳』と書かれたプラカードが、天井から吊り下げられています。ミニスカートやワンピース、ブラウスが種類毎に揃い、母親らしい人たちが何人か、手に取っては材質やデザインを確かめています。彼は売り場の端に突っ立ったまま、それを見ていましたが、澪がまだ傍らにいるのに気づくと尋ねました。
 「どうした? 気に入らないのか?」
 すると澪は、彼の手を引いて言うのです。
 「一緒に見てくれなくちゃやだ。」
 「ってもなー。」
 「純が一緒じゃなきゃやだ。」
 純は、困ったようにあたりを見回しました。売り場にいるのは女性ばかりです。人付き合いが苦手な彼が、気後れしてためらっていると、澪はその腕をつかんで、ぐいぐい引っ張っていきます。
 「あ、待てっ、ちょっと、こらっ。」
 声に驚いて、店員たちが純を見つめます。傍から見ると、及び腰で売り場にじりじり近づいて行く彼の姿は、相当怪しく見えるに違いありません。せめて澪が人目に見えればと、一瞬考えた純ですが、見えたとしても素肌にワイシャツだけという恰好では、何を言われるか分からないと思い直し、諦めて店員の方に歩いて行きました。

 「いらっしゃいませ。」
 若い店員は、明らかに引いているようでした。タイトスカートの前で組み合わせた手が、ちょっと震えているようです。ぎこちない営業用の微笑を浮かべながら、瞳がチタンフレームの眼鏡越しに同僚を捜して落ち着きなく動いています。それを見て、純の額にも冷や汗が浮かんできました。用意した言葉が喉元で消えてしまい、彼は一瞬棒立ちになりました。
 「あちっっ!?」
 その時、ポケットの中が火傷しそうに熱くなり、思わず純は飛び上がりました。
 慌てて手を突っ込むと、指先に硬いものが触れました。何だろうと指先でつまんでみると、どうも小石のようです。彼は、昨日の晩、丘の上で澪からもらったもののことを思い出しました。息づくように淡い光を放って点滅していた、星の欠片。純はそれをポケットに入れたままだったことに気づきました。
 取り出そうとして握りしめると、火傷しそうなほど熱かったはずのそれは、すうっと冷たくなりました。それと同時に、慌しく鼓動を刻んでいた胸が落ち着いていきます。そして、あれっと思う間もなく、純の口から言葉が飛び出していました。
 「すみません、女の子の服を買いたいんですが。」
 「は、はい。」
 「十歳ぐらいの女の子で、背丈はこのくらい。何着か見せていただきたいんですけど。」
 店員は、安心したように頷きました。二十歳ぐらいでしょうか、あどけなさの残る顔に、見る見る吹き出しそうな表情が浮かびます。
 「贈り物ですか、お誕生日か何かの?」
 「は、はいっ。あ、あの・・・姪に。」
 「かしこまりました。それでは、二・三着見繕って参ります。」
 長いポニーテールを翻して店員が去って行くと、純はほっと息をつきました。どうやら勘違いをしてくれたようですが、とにかくこれで怪しまれることはなくなったようです。

 ふと気がつくと、澪がGパンを引っ張っています。
 「な、何だよ?」
 「『おくじょうすてーじ』って何だ?」
 澪が指差す方を見ると、壁にポスターが貼ってありました。『屋上ステージにてサマーイベント開催!』と書いてあります。アニメヒーローのショーが開催されているようでした。
 「屋上っていうのは、このビルの一番上だよ。ステージってのは舞台のこと。ショーか何かをやってるみたいだ。」
 「ふーん、面白そうだな。純、行こう。」
 「行こうって、お前・・・。」
 「純は嫌いなのか、『ぱらさいとまんしょー』?」
 「い、いや、嫌いってわけじゃ・・・。」
 「じゃあ、行こう! な?きっと面白いぞ。」
 「う、うん。」
 人ごみは苦手な純でしたが、屈託のない澪の笑顔を見ていると、行ってみようかという気になりました。毎日家でゲームをしているのにも飽きてきたところです。たまには童心に返ってみるのも良いのではないかと思いました。

 そこへ、両手に何着かの洋服を抱えた店員が戻って来ました。
 「お待たせ致しました。何着かお持ち致しましたが、いかがでございましょう?」
 そう言って順番に手渡してくれるのを、純は澪に見せます。キャラクターもののTシャツにキュロットスカートの組み合わせから、ちょっと大人っぽいミニのワンピースまで、五着ほど見終わったところで、澪が言いました。
 「どれでもいいや。純の気に入ったのにして。」
 「気に入ったのって、お前なぁ・・・。」
 言いかけた純は、店員の視線に気づいて、慌てて口をつぐみました。
 不思議そうなまなざしが注がれています。これ以上澪と話していたら、きっと不審に思われるでしょう。彼はやむを得ず、自分の好みで決めることにしました。とは言っても、女の子の服など彼には良く分かりません。第一、どれもこれも同じに見えます。
 迷っている純を、店員は根気良く待っています。彼女に申し訳ないと思えば思うほど、却って思い迷ってしまう彼でした。澪は、そんな彼を、呆れたように見つめています。
 とうとう思い余った純は、店員に言いました。
 「済みません、女の子の洋服って、よく分からなくて・・・あの、決めてもらえますか?」
 すると彼女は、にっこりして白いストライプの入ったブルーのTシャツと薄いブルーのGパンを差し出しました。
 「これはいかがでしょうか? 遊び着にもなりますし、この年頃の女の子は、結構服を汚してしまうこともありますから。汚れを気にしないで駈け回らせてあげたいですものね。」
 純はなるほどと思いました。傍らを見ると、澪も頷きます。
 「うん、これがいい。気に入った。」
 「じゃ、これを下さい。あと、靴も買いたいのですが、売り場はどちらでしょう?」
 「有難うございます。靴でしたら、この売り場に取り揃えてございますので、こちらへどうぞ。」
 店員は、彼を子供靴の並んでいる所に案内すると、他の服をハンガーに戻しに行きました。
 「純、靴ならあるぞ。」
 澪が口をとがらせて、足を上げて見せます。赤いサンダル靴が、つま先でブラブラ揺れました。
 「ぶぁか、服と色が合わないだろ。それにその靴、泥水が入ってるじゃないか。」
 「澪は気にしないぞ、そんなこと。」
 「ぼ、僕が気にするんだっ。」
 「そうか、そんなら靴も買ってもらおうかな。へへ、純、優しいなお前。」
 「い、いいからさっさと選べっ。」
 「うん。」
 澪は、手を後ろに組んで、棚に並んだ靴を順番に覗き込んでいきましたが、ふと一足の青い靴の前で立ち止まると言いました。
 「純、これ、履いてみていいか?」
 それは、地味でオーソドックスなブルーの運動靴でしたが、履き心地が良さそうでした。棚から取り下ろしてやると、澪はそれに足を差し入れ、二・三歩歩いたり跳ねたりしてから満足そうに頷きます。
 「これがいい。純、これ買って。」
 「お、おう。」
 折りよく戻って来た店員にそれを差し出すと、純は会計を依頼しました。
 「リボンをお掛けしますか?」
 「あ、いえ・・・はいっ、お願いします!」
 ここで着ていくと言いそうになって、彼は危うく思いとどまりました。危ない危ない。つい澪が他の人には見えないことを忘れてしまいます。着替えは屋上でするしかないでしょう。あとは下着ですが、さすがにここで買うのはためらわれます。いくら何でも、下着までプレゼントするわけもありませんし、純としては、できるだけ早くここを離れたかったのです。結局下着類は、帰りに近くのスーパーで、他のものと一緒に買うことにしました。
 カウンターで支払いを済ませ、大きな紙袋を受け取ると、純は澪を促してエレベータホールに向かいました。

 屋上に出ると、彼はほっと息をついて伸びをしました。
 圧迫感から解放されたような感じです。じりじり照りつける太陽さえ、気持ちを落ち着かせてくれました。人ごみが苦手な純にとって、この解放感は嬉しいものでした。ステージの人だかりを眺めやった彼は、ふとこのまま金網にもたれていたいと思いました。
 けれども、澪はそんな彼の気持ちに気づかないかのように、はしゃいでいます。
 「あっ、あそこだ! 純、早く行こう。始まっちゃうぞ。」
 「待てよ、その前に着替えて・・・。」
 「そんな時間ないって!ほら、純!」
 「あ、ああ。」
 自販機で冷たい飲み物を買うと、二人は空いている席を見つけて座りました。母親に連れられた小さな子供たちが、足をぶらぶらさせながら開演を待っています。殆どが幼稚園児のようでした。母親たちも一様に若く、きらきらと明るい陽射しに輝いているようです。純はどぎまぎして、せわしなくまばたきしました。若い男が、『たった一人』でその中に座っているのは、ひどく場違いな感じです。うろんな目つきで見られるのではないかと、縮こまるようにしていましたが、幸い誰も彼に視線を向けてくることはありませんでした。

 「なあ純、いつ始まるんだ?」
 澪が尋ねた時、ステージの両側に設置されたスピーカから、おどろおどろしい曲が流れ出しました。それに合わせて、黒装束に身を包んだ悪の怪人達が、変な声を上げて現れます。中の一人、飛びぬけて凶悪そうな怪人が、マイクを手にして大声を上げると、客席から悲鳴と歓声が湧き起こりました。
 「純、あれは何だ?」
 「悪の怪人。」
 「悪い奴らなのか?」
 「ああ。」
 「じゃ、何で純はやっつけないんだ? みんな怖がってるじゃないか!」
 「いいの。あれはショーなんだから。」
 むきになって純を揺さぶる澪を、適当にあしらっているうちに、怪人達はステージを降りて、客席にやって来ました。嫌がる子供たちを抱き上げ、さらって行こうとします。子供たちは泣きわめきながら、怪人達の背中で足をばたばたさせています。澪はそれを見ると、必死の形相で純に詰め寄りました。
 「純!純!大変だ、子供たちが連れて行かれちゃう!」
 「黙って見てろって(^^;」
 「ばか!こんなこと、放っておけるかよ! お前が助けないなら、澪が行く!」
 ジュースを一気に飲み干した澪は、ワイシャツの袖で口元を拭うと、目を怒らせて駆け出しました。
 「み、澪っっ!」
 慌てて純も後を追います。澪は、うさぎのように敏捷に通路を駆け抜け、今しも泣きじゃくる女の子を担いでステージに上がろうとしている怪人の一人に、体当たりをかけました。
 「どわっ?!」
 黒マスクがのけぞり、子供が腕から滑り落ちます。純は、猛烈なスライディングで滑り込み、危ういところで女の子を受け止めました。ところが、ほっとしたのもつかの間、勢い余って、怪人に蹴りを食らわしてしまいます。澪の体当たりでよろめいていた怪人は、つんのめるようにステージ奥までころがりました。
 どっと客席から歓声が上がります。子供たちが立ち上がって、盛んに手をたたきました。ステージの反対側では、出番を奪われたヒーローが、呆然と突っ立っています。いつの間にか曲が変わって、賑やかなヒーローのテーマが、固まったステージに鳴り渡っています。
 「あ・・・あんたなぁぁっ!」
 跳ね起きた怪人が、憤慨して喚きました。マスクをかきむしり、あばさかるネコのように地団太を踏んでいます。ぼんやりしていた純は、その声に弾かれたように飛び起き、子供を傍らに下ろすと、澪の手を取って駆け出しました。客席から湧き起こる惜しみない拍手に送られて、彼はばたばたと走って行きます。

 「純、どうしたんだよっ?」
 ようやくエレベータホールまで逃げてくると、澪が訝しそうに尋ねました。こんなに一生懸命に走ったのは久しぶりでした。純は、上がって来たエレベータに乗り込むと、息を切らして壁に寄りかかりました。
 「かっこ良かったぞ、さっきの純」澪は上機嫌です。
 「澪は見直したぞ、お前のこと。」
 「あ、あのなぁ・・・(^^;」
 叱りつけようと見つめた純でしたが、にこにこ見上げている澪を見ていると、気が抜けてしまいます。恐らく、イベントショーなどを見るのは、初めての経験だったのでしょう。澪は頭から、あれが現実のことだと思い込んでいるようでした。ステージの上を転がって行った、怪人役のアルバイトの姿が目に浮かびます。あの人、怪我をしていないだろうか。ふと心配した純でしたが、呆然と突っ立っていたヒーロー役のことを思い出すと、思わず吹き出してしまいました。
 つられて澪も笑い出します。エレベータが一階に着いた時、二人はまだ笑い続けていました。ドアの前で待っていた人たちは、一人でくすくす笑いながら降りて来た純を、気味悪そうに見つめていました。

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