目次に戻る 前のページ 次のページ

第5章:月光

 部屋に戻ってから純は、澪にいろいろと尋ねました。住まいのこと、両親のこと、あそこにいた理由。知りたいことは山ほどありました。けれども澪は、口をつぐむばかりで、問い詰めると、「知らないもん」と言って布団に潜り込んでしまいます。布団を引き剥がそうとすると、澪はネコのように暴れました。何回かそんなことを繰り返した後、とうとう純は諦めて、むっつりとパソコンの前に座りました。ところが、ゲームを始めると、女の子はむっくりと起き出して来て彼にまとわりつき、逆にあれこれと尋ねるのです。
 「なあ、この女の子、誰?」
 「キャラの一人。」
 「このきれいな部屋は?」
 「ホテル。」
 「なあなあ、何でこの子は服を脱いでるんだ?」
 「男と寝るから。」
 「男と寝る時って、服を脱ぐのか?」
 「人それぞれだろ。」
 「澪も脱いだ方がいいか?」
 「お、お前は脱がなくていいっ」
 「何か随分痛そうだぞ。何で泣いてるんだ?」
 「悦んでるのっ」
 「何で喜んでるんだ?」
 「気持ちがいいから。」
 「ああすると、気持ちがいいのか?」
 「し、知らんっ。」
 「純は、気持ちよくならないのか?」
 「う、うるさいっ! 黙ってろっ。」
 「なあなあ、どうしてあそこだけぼやけて・・・。」
 「あーーーーっ!もうっっ!」
 これではゲームに集中できません。純は、ヘッドホンをむしり取って、澪をにらみつけました。けれども女の子はけろっとしています。目が合うと、彼を見上げてにっこり笑い、長い髪をかき上げてみせます。その仕草に、彼は思わず萌えそうになりました(をぃ
 ば、ばかっ。相手はただの子供じゃないか。何で僕がこんなにどぎまぎしなくちゃならんのだ。僕はロリコンぢゃないっ。う・・・でも、この状況はまずい。とにかく、もうゲームはやめだ。純は、マウスをカチカチとクリックして、扇情的な画面をスキップし、適当なところでセーブすると、ゲームを終了しました。
 パソコンを終了すると、急に眠気がこみ上げてきます。そういえば、昨日は徹夜でした。今のうちに少し眠っておこう。純は、ベッドに潜り込むと、タオルケットを被って目を閉じました。
 大分疲れが溜まっていたようです。慌しい一日と暑さが、疲労となって体の底に淀んでいるようでした。純はたちまち、引き込まれるように、ぐっすりと眠り込みました。

 「純、外へ行こう!」
 体を揺さぶられて、純は目を覚ましました。
 部屋の中は、すっかり暗くなっています。枕元の時計を見ると、もう夜中の一時でした。信じられないことですが、十七時間も眠ってしまったことになります。お腹がぐーっと音を立てました。
 寝返りを打って起き上がろうとすると、目の前に澪の顔がありました。いつの間にか、タオルケットの中に潜り込んできて、純にしがみついています。ほのかな甘い香りが鼻腔をくすぐり、彼はどきっとしました。
 「外って、もう夜中じゃないか。」
 「月がとってもきれいなんだ。」
 ベッドから降りて窓を開けると、降るような星空です。白い月が中天にかかり、煌々とした光を投げかけていました。家々の明かりは殆ど消え、小さな町はひっそりと静まり返っています。夏には珍しい、空気の澄みわたった夜でした。
 「行こう、純!」
 言うなり、澪はサッシをひらりと飛び越えます。一瞬ふわりと宙に浮かんだ彼女の姿は、次の瞬間ふっと見えなくなりました。
 「み、澪っ!」
 狼狽した純が体を乗り出して見下ろすと、庭に降り立った澪が元気に手を振っています。二階から飛び降りても、怪我一つしていないようです。ほっと胸を撫で下ろした純は、窓を閉めて階下に降りて行きました。

 いつものように冷蔵庫から食べ物を取り出すと、音を立てないように靴をつっかけて外に出ます。駈け寄ってきた澪にパンとハムの包みを渡すと、彼女はにっこりして走り出しました。長いワイシャツの裾が翻り、きゅっきゅっと赤いサンダルの音を立てて、女の子の姿はたちまち角を曲がって見えなくなります。純はペットボトルを手にして、その後を追いました。
 夏とは言っても、この時間になると暑さはうすれ、心地良い風がかすかに吹いていました。澪は、その風に長い髪をなびかせて、今朝来た方向とは逆に、道を走って行きます。その向こうに、黒々とした鎮守の森が見えました。森の背後の小高い丘に、白い月が大きくかかっています。雲一つない空は、星でいっぱいでした。耳を澄ますと、星の瞬きが音楽になって聞こえてくるようです。純は、足を早めて歩きながら、じっとそれに耳を傾けました。
 やがて、道は上り坂になり、さすがの純も息が上がってきました。澪はどこまで行くつもりなのでしょう。疲れも見せず、走り続けています。ヒラヒラと翻るワイシャツが、白い蝶のように見えました。十字路を突っ切り、彼女は鎮守の森に向かっているようです。純は魅入られたように、その後を追います。いつしかその足は小走りになっていました。それなのに、二人の距離は一向に縮まりません。かといって、どんどん離れて行ってしまうのではなく、澪は常に彼の前を、一定の距離をおいて走っていました。
 森の中に入ると、あたりは一層暗くなり、足元も見えないほどでした。けれども、純には澪の姿がはっきりと見えていました。白いワイシャツを着ているからではなく、女の子の全身がぽうっと淡い光を放っているようでした。サンダルの音がしなければ、まるで蛍と錯覚するほど、それはふわふわと宙を漂うように丘の上へと続く坂道を昇って行きます。純は夢中でそれを追いかけました。

 坂を登り切ると、いきなり視界が開け、月光が降り注ぎました。眩しいほどの青い光。思わず手をかざした純は、立ち止まってあたりを見回しました。
 丘の上は、小さな広場のようになっていて、ささやかな社がありました。澪はその前に立って、純に笑いかけています。ワイシャツがそよ風をはらんで、ふわっと翻り、青白く光りました。
 月の光に照らされた澪の顔は、生き生きと輝いています。それは、どこかで見たことのある、懐かしい面影を宿していました。どこだろう? 純は乱れた息を整えながら、漠然と記憶の糸をたぐりました。
 爽やかな夜風に、みるみる汗が引いていきます。純は社の前に座り込むと、持って来たペットボトルを開けて、立て続けにドリンクを流し込みました。

 「・・・澪、どんどん行っちまうから・・・。」
 手の甲で口を拭って言うと、澪はくすくす笑います。
 「ほら、純!」
 指差す方を追って天を振り仰いだ純は、一瞬息を止めました。
 満天の星空が、すぐ上にあります。あるいは青白く、あるいは赤く瞬く星が、彼を包み込むようでした。宝石を撒き散らした中に、迷い込んだような錯覚に捉われて、彼はせわしなくまばたきました。
 すうっと、その視界の隅を澪が横切ります。やや離れた所で立ち止まった女の子は、赤いサンダルを脱ぎ捨てると、うっとりと天を仰ぎました。目をうっすらと閉じ、両肩を抱きしめるように両手を胸の前で交叉させて、澪は月の光を全身に浴びています。不思議な感動に打たれて、純はその光景に見入りました。
 やがて澪は、星を掴もうとするかのように、両手を高々と上げました。手の平を天にかざし、心持ち口を開いて、何かを受け止めようとしているようです。その横顔は、神々しいほどの輝きに満ちていました。そして、白い喉元がこくりと鳴り、ゆっくりと手を下ろすと、澪は踊りだしました。
 裸足の足が、草地の上を音もなく滑っていきます。両手がさまざまな表情を作り、ゆるやかにワイシャツの裾が広がります。薄く目を閉じたまま、その全身が波のようにたゆたい、透明な音に乗って、澪は踊り続けます。足元から密やかな虫の声が湧き上がり、白い足は時折地を離れて、まるで体重などないかのように、その中をふわりふわりと飛んで行きます。
 不思議な、心躍るひとときでした。時間の止まった空間を、ただ澪だけが動いて行きます。その体は次第に輝きを増し、純の心は温かなもので満ちていきました。夏の夜は静かに更けていき、彼はいつまでもその光景に見とれていました。

 「純・・・純ってば!」
 茫然と座り込んでいた純は、その声にはっと我に返りました。
 いつの間にか澪が傍らに座って、笑いかけています。その顔には悪戯っぽい表情が浮かび、黒い瞳がきらきらと輝いています。
 「寝ちゃってたのか?」
 「い、いや、起きてるよ。」
 「星、きれいだろ?」
 「・・・うん。」
 「星の音・・・聞こえたか?」
 「うん。聞こえた。」
 それを聞くと、澪は嬉しそうに身を乗り出しました。
 「純、手を出せ。」
 「え?」
 「いいものをやる。」
 純が訝しそうに手を出すと、澪は握り締めていたこぶしを重ね、そうっと指を開きました。白い指の間から淡い光が流れ出し、手の甲がぽうっと明るくなります。小さなものが彼の手に乗せられ、そこからほのかな温もりが伝わりました。
 恐る恐る見ると、石の欠片のようなものが、淡く瞬いています。その輝きは蛍の光より強く、まるで息づいているかのように点滅を繰り返しているのでした。光が瞬くたびに、覗き込んでいる純と澪の顔が、ぽうっと輝きます。純は息を呑んでそれに見入りました。
 「これ・・・何だ?」
 彼が喘ぐように尋ねると、澪は右手の人差し指を立てて見せます。その指し示す方向にあるのは、ただ満天の星だけでした。
 「・・・って、それ・・・?」
 「純、お腹が空いた。」
 なおも尋ねようとする純に笑いかけると、澪は傍らの包みから、パンとハムを取り出し、いそいそとサンドイッチを作り始めました。それを見て、彼のお腹がぐーっと音を立てます。そういえば、昨日の朝から何も食べていなかったのでした。
 「ほら、お前の分。」
 澪から差し出されたサンドイッチを頬張ると、舌の上にハムの味が広がります。彼はそれをじっくり味わうと、ペットボトルを開けて、ぐっと飲み下しました。握り締めてきたせいで、ドリンクはすっかりぬるくなっていましたが、純にはこの上なく美味しく感じられました。
 「澪。」
 口を拭ってボトルを渡すと、女の子はサンドイッチを一口噛み取って、同じようにドリンクで流し込みます。二人は顔を見合わせて、にっこり笑いました。
 「うまいな、純。」
 「ああ、美味い。」
 「来て、良かっただろ?」
 「うん。」
 それきり会話は途絶え、二人はしばらく食べることに専念しました。

 月がゆっくりと中天を過ぎて行きます。それにつれて星空が二人の上で回転し、見上げていた純は、自分も一緒になって動いているのを感じました。虫の声が小さな広場を包み、かすかな風が頬を撫でていきます。目を下に巡らせると、いつの間にか家々の明かりはすっかり消えて、町はひっそりと夜の中に沈んでいました。世界中に二人きり。そんな思いがふっと彼の心に浮かびます。空間を通して澪の温かみが伝わり、彼は心を開いてそれを受け入れました。

 東の空がうっすらと白む頃、二人は丘を後にしました。疲れて眠り込んでしまった澪を背に負い、純は森の中をゆっくり歩いて行きます。背中に伝わる温もりが、彼をほんのりと幸せな気持ちにしました。
 ふと、彼は思います。澪は一体何者なのだろうと。それはこの二日間、何度も頭に浮かんできた思いでした。普通の子供のような姿をしていながら、澪は全く子供とは違っていました。確かに、お風呂場で見たところでは、一応女の子のようですが、男の子や女の子につきものの色や匂いが、澪には全くありません。かといって、中性的であるかというと、そうでもないのです。中性的というのは、両性をともに備えているものですが、彼女が身にまとっている雰囲気は、それとは正反対のものでした。強いて言えば、無性的というのかもしれません。『性』というものとは無関係な生き物。しかし、そんなものが、この世にいるのでしょうか。そして何故、そういう生き物に、彼はときめきを覚えたのでしょうか。
 そういえば、澪の体がひどく軽いものであることに、純は気づきました。背に負って初めて分かったのですが、それはとても十歳前後の子供とは思えないほどでした。どう考えても、ノートパソコンを少し重くしたような感じです。せいぜい三キログラムといったところでしょうか。これは不自然なことでした。
 純は、先ほど丘の上で澪が踊った光景を思い浮かべました。うっすらと目を閉じ、滑るように踊り出した澪。ふわりと宙に跳んだ身体。全身を包んでいた淡い光。草を踏む音さえ聞こえなかったことに、彼は気づきました。
 不思議に、気味悪さは感じませんでした。それは、澪を見た時に感じた、懐かしいような気持ちのせいかも知れません。あの時何故、彼は『澪』という名を口にしたのでしょう。その名はふっと彼の頭に浮かび、よく考えてみる暇もないうちに、口をついて出たのです。そして、例えようもない懐かしさが、その時胸に込み上げてきたのでした。
 フクロウとヨタカが、静かに夜の歌を歌っています。それと交錯するようにして、小鳥たちの鳴き声が、あちこちで聞こえ始めました。もう夜明けが迫っています。黒い塊だった木々の梢が、くっきりと姿を現わし、足元の草が見えてきます。森を抜けると、まだ眠っている家並みの背景に、かすかな赤みが見えました。
 やがて東の彼方から一条の光がさし、二人を捉えました。まぶしいのでしょうか、背中の澪が身動きします。
 「ん・・・純・・・。」
 純は肩越しに振り返りました。澪はそれきり何も言わず、安らかな寝息を立てています。彼の口元に微笑みが浮かび、ほっとため息が洩れます。彼は、背中の澪をちょっと揺すり上げると、次第に明るさを増していく光の中を歩いて行きました。

目次に戻る 前のページ 次のページ