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弐百四拾  まっ、いいか(2006/4/8)
弐百参拾九 SPネットワーク再構成(2006/4/1)
弐百参拾八 長谷川穂積:凄い奴が現れた(2006/3/26)
弐百参拾七 年度末(2006/3/19)
弐百参拾六 マイクル・コナリー(2006/3/12)
弐百参拾五 SPセッティング奥の手(2006/3/4)
弐百参拾四 ヒエロニムス・ボッシュ(2006/2/25)
弐百参拾参 旧海軍との出会い(2006/2/18)
弐百参拾弐 障害者の生き様(2006/2/12)
弐百参拾壱 「生きる」の凄み(2006/2/12)
弐百参拾  スピーカー・セッティングの難しさ(2006/2/5)
弐百弐拾九 東洋発スーパースター(2006/1/29)
弐百弐拾八 『ファンタジーワールド ジュン』(2006/1/22)
弐百弐拾七 二人の魔術師(2006/1/14)
弐百弐拾六 更生しました(2006/1/7)
弐百弐拾五 ディア・ハンター(2005/12/31)
弐百弐拾四 大晦日のオーディオ(2005/12/31)
弐百弐拾参 本命「LAND OF THE DEAD」(2005/12/24)
弐百弐拾弐 最近の世相(2005/12/17)
弐百弐拾壱 旧海軍の責任(12月8日に思う)(2005/12/11)




弐百四拾  まっ、いいか(2006/4/8)
 先週のこと完成したスピーカーは、順調に調教が進んでいます。

 私好みのバランスに仕上がりました。つまり、両端だら下がりのF特です。もちろんフラットに越したことはありませんが、通常のシステムでは無理です。特に低域フラットは、当たり前のシステムでは不可能でしょう。高域の場合、フラットだとハイ上がりに聴こえるはずです。そこをバランスよく聴かせるとなると、かなり質の高いツィータが必要でしょう。私のような廉価な機器では、ないものねだりというものです。音域の高低による音像のぶれもないことから、音圧調整は成功していると思われます。

 スピーカーのネットワークはこれでいきます。若干の不満があるものの、スピーカ本来の能力以上のことを望んでも仕方ありません。不満は次の点です。
  • 5KHzから10KHzあたりで、盛り上がりを感じる。ここらの帯域は耳につきやすいのではないか。そのため、ボーカルの子音が耳につくことがある。
  • 抵抗を多用したため、アッテネータを外した当初に比べ、鮮度が若干落ちている。これもまた仕方のないことである。オーディオ用の抵抗で以って、しかも最少の抵抗構成でやり替える方法もあるが、有意な差があるか疑わしい。
 思い出すに、以前使っていたLo-D/HS-530の改造版は、ボーカルの子音が耳につくなんてことは一切ありませんでした。やはりONKYO/Monitor2000の中高域は、解像度以外についてはHS-530に及びません。
 逆に、低域は圧倒的に上回っています。特に超低域まで再生されるので、空間の圧力まで再現されます。難点は素直なだら下がりでなく、250Hzあたりが上昇していることです。バスレフによる味付けかと思われます。試みにダクトへタオルを詰めてみたものの、変化はありませんでした。この味付けは、私にとって余計なものです。

 ここに書いた不満はCDについてです。アナログには、なんの文句もありません。全域ハイスピードで、透明感があり、繊細で肌理が細かく、深みのある音です。

 どうやらCDプレーヤーの限界も見えてきたようです。CDプレーヤーの更新を本気で検討しなきゃならんかなあ。


 音の確認の意味もあって、この一週間というもの音楽三昧でした。で、以前から欲しかったディスクを手に入れました。



 チューリップの未発表音源を集めたレア・トラック集です。実に興味深い曲ばかりです。チューリップ・ファン必聴の貴重な音源です。
 ボツ音源、練習曲、お試しバージョンなどなどです。「ぼくがつくった愛の歌」は、財津が歌っています。歌詞も未完で、メロディも確定していません。トチって「すみません」の謝罪つきです。また、ディレクターの「OKです」やら「よかったよ」などの台詞もあり、スタジオの雰囲気が伝わってきます。

 最大の注目曲は「たえちゃん」です。「たえちゃん」はアルバム「無限軌道」のA面4曲目に収録されていますね。福岡に伝わる春歌を下敷きに、財津がアレンジした大作です。春歌とあって、放送禁止歌になっています。アルバム収録時に学校名や卑猥な言葉はまずいということで、当該部分にピアノと絶叫を被せています。このディスクには、マスクする前の完全バージョンが収録されているのです。
 ○○女子高→ふたわ女子高
 ○○たえこ→中村たえこ
 涙知らずの○○→桜貝
 これ最高 !!
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弐百参拾九 SPネットワーク再構成(2006/4/1)
 仕事が一段落したので、ネットワークを再構成しました。

 ネットワークに使用したコンデンサのエージングは、まだ完了していない模様です。昨夏あたりで馴染んだかとも思われたのですが、今年に入ってからもかなりの変貌を見せています。明らかに中高域のレベルが上昇しています。ある程度以上の音量だと耳が痛いほどです。それが日時の経過とともに、きつさが強烈になってきました。SP台のセッティングを以ってしてもリカバリが及びません。
 ちなみに、SP台のセッティング変更の効果には目覚ましいものがあります。50Hz以上に変化はありません。もっぱら超低域レンジだけが上昇しています。これはまさに望むところです。

 で、ツィ−タのレベルを大幅に下げました。下図のとおりトータルで6.5dBの減衰になっています。スコーカは3dBです。


水魚堂さん回路図エディタBSch3Vで作成しました。感謝 m(__)m

 これで、かなりいい線のバランスが得られました。ただ、それでもディスクによっては高域が耳につくケースがあります。
 困ったことに、ユニットそのもののバランスの悪さが露呈し始めました。特にツィ−タは、4KHzから受け持っているだけに無理があります。サイン・スィ−ブを流すと、F特が上下するのが聴き取れます。Lo-DのSPはもっと低いクロスでしたが、Lo-Dはピークキャンセラーで平坦に整えていました。
 そこで、上図にある予備の1Ωの抵抗も生かしました。スコーカもバランスを取って、0.5Ωの抵抗を1.0Ωに差し替えました。


 今、これを書きながら試聴しています。
 これよ、これ !! 私はこのバランスが欲しかったのよ。

 結局、減衰量はおよそスコーカが3.5dB、ツィ−タが7.5dBになりました。アッテネータを外してより、1年4ヶ月目にしての完成です。長い道のりでした。スペアナがあれば減衰量を一発で確定できます。それが耳に頼っての判断だけに、余計な試行錯誤を強いられました。加えてコンデンサの変化が顕著だったため、さらに難しい調整を強いられました。
 やっと開放されたかな‥‥いや、コンデンサが本当に落ち着いたかどうか。
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弐百参拾八 長谷川穂積:凄い奴が現れた(2006/3/26)
 昨夜のWBCバンタム級タイトルマッチは、日本人ボクサーではめったに見られないハイレベルな試合でした。ちょっと感動してしまいました。長谷川 穂積に前王者のウィラポン・ナコルアンプロモーションが挑んだ一戦です。

 長谷川選手の試合を観るのは初めてです。ウィラポンからタイトルを奪ったのですから、文句なしの実力者であるのは間違いのないところです。その確認の意味もあって、VTRに録りながらの観戦でした。
 一番印象的だったのは、左のパンチが多彩なことです。サウスポーですから、右が多彩であるのは当然でしょう。でも、左クロスから左フックへの連続コンビネーションなんか滅多に見られるものじゃあありません。さらには、左フック4連打なんていう見せ場も提供してくれました。サウスポーでありながら、あれほど左フックを多用したら、ウィラポンは決め手の右クロスを迂闊に出せないと思います。ウィラポンはなかなかペースを取れませんでしたね。左を警戒したウィラポンは、身体を沈めての右クロスをボディに放っていきました。対するに長谷川は、左右のアッパーで冷静に迎え撃ちました。試合運びも憎らしいばかりでした。ウィラポンが攻めに逸れば、脚を使ってはぐらかしていましたもんね。

 また、パンチの打ち方が素晴らしいものでした。リーチは長くありません。実況解説によると、ウィラポンより短いそうです。でありながら、むしろ長谷川の方が距離が長く感じられました。理由はいろいろあるでしょうが、長谷川のパンチの打ち方によるものでしょう。ウィラポンは肩の位置を据え、そこを支点にして腕を振るスタイルです。これは一般的なパンチでしょう。対して長谷川は、肩ごと放り出すような打ち方でした。つまり肩の位置がより相手側に近づくわけです。これが長谷川のパンチの距離の長さの秘密でしょう。ある方(元ムエタイ日本人選手)の説明によると、ロイ・ジョーンズはパンチを打った瞬間、肩がかなり前に出るそうです。

 WOWOWで世界のトップ試合を観ていると、素晴らしい技術を見せつけられます。国内試合との間には、大きな隔たりを感じていました。でも、昨夜の長谷川からは、世界トップレベルの技量が強く匂ってきました。
 特に利き腕側のパンチ(フック)の多彩さは、世界トップレベルでもそうそう見られるものではありません。今思いつくボクサーといえば、ミゲ−ル・コットくらいです。もちろん他にもいるでしょうが。

 長谷川選手は今後も活躍を続けるでしょう。そして将来的には、偉大なボクサーと称される地点まで到達できる可能性があると思います。応援のし甲斐があり、楽しみが増えました。ボクシングファンでよかったと実感しています。
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弐百参拾七 年度末(2006/3/19)
 年度末とあって、多忙な一週間でした。ほとんど職場で過ごし、家には寝に帰るくらいでした。週末も例によってサービス出勤で、不毛な日々です。

 世間ではWBC大会の話題が耳目を集めています。トリノ冬季五輪の終幕とともに、マスコミは新しいイベントを取り仕切っています。あと数ヶ月もすれば、サッカーWC一色になるでしょう。でも、私にとってはどうでもいいことです。私の興味はボクシングに尽きます。

 先日行われたシェーン・モズリー vs フェルナンド・バルガスの試合の放映も近いですし、来月上旬にはフロイド・メイウェザー vs ザブ・ジュダ−の世紀の一戦が控えています。6月にはアントニオ・ターバー vs バーナード・ホプキンスという興味深い試合も決定しています。


 年度末の繁忙が一段落したら、モニタのキャリブレーションに挑戦します。ついにというか、悲願のキャリブレーション・ツールを購入できました。恒陽社グラフィックスが取り扱っている業界定番の Eye-One Design です。これでまともなカラーマネージメントが実現します。
 今までは、モニタ・メーカーが提供しているプロファイルを元に調整していました。ところが、各メーカーともにまともなプロファイルを提供していません。三菱にしても、9,300Kの色温度のものしかアップしていません。飯山に至っては、プロファイルそのものを無視しています。これでどうやって色合わせをしろというのか。その点、EIZO(ナナオ)はさすがです。プロファイルはもちろん、キャリブレーション・ソフトまで準備しています。ナナオ製品が割高なのにも意味と価値があるわけです。

 で、当方の施設では機器整備の予算縮減を受け、飯山の安価なモニタを使用しています。使われているブラウン管がダイヤモンドトロンなので、三菱の同時期のプロファイルを(9,300K)を使用してごまかしていたのです。これではカラー調整もくそもありません。
 さて、やっとまともなキャリブレーションが可能になります。楽しみなことです。


 もう一点、暇ができたらスピーカーの抵抗値の再設計を試みる予定です。現在は屋上階を重ねる式の回路構成なので、これをすっきりさせます。スコーカ−の抜けや透明感に若干の不満がありますが、解消されるのではないかと期待しています。また、ツィータのレベルを2dBくらい下げ、きつさを緩和したいと考えています。

 ああ、早く暇になって取組みたいものです。
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弐百参拾六 マイクル・コナリー(2006/3/12)
 先月のこと、マイクル・コナリーの「エンジェルズ・フライト」を読み、見事にはまりました。だからコナリーを読むのを避けていたんだなあ。はまってしまうと、否応もなく全作読破に挑んでしまいますから。

 で、とりあえず「夜より暗き闇」と「暗く聖なる夜」を読みました。どちらも傑作です。「夜より暗き闇」は「わが心臓の痛み(クリント・イーストウッド主演『ブラッド・ワーク』の原作)」の続編でもあります。以前にも書いた、主人公のネーミングを殺人事件の状況作りに援用しています。久しぶりに面白い小説を堪能させて頂きました。でも、嬉しくもある反面、著作の残り十余作を読む時間をどうやってひねり出すか頭が痛いです。まあ嬉しい心配ですけど。

 次に読んだのが「暗く聖なる夜」です。ロス市警を辞めたボッシュが私立探偵となり、かつての迷宮入りした事件を掘り起こす物語です。この巻は、私立探偵モノにふさわしく一人称の叙述で綴られています。やはり探偵小説は一人称に限ります。
 コナリーの小説は綿密なプロットで構成されています。その点ではロス・マクドナルドの衣鉢を継ぐ作家の趣があります。主人公のはじける様にはジェームス・エルロイを髣髴させられ、女性関係の難しさにはディビッド・ハンドラーのひねりを感じさせられます。
 ボッシュは極めて有能な警官(探偵)に描き出されているので、スーパーマン的な主人公像となっています。でも正解です。70年代からこちら、やたらに屈折したハードボイルドばかりが氾濫しました。かえってボッシュの有能さは新鮮です。読後感の爽やかさは格別で、ボッシュ・シリーズが圧倒的な支持を受けているのを納得しました。安心して他人に薦めることのできるハードボイルドです。

 このボッシュ・シリーズは9作が翻訳されており、私の未読分は6作です。楽しみがあるのはいいのですが、睡眠時間を削るしかないのが辛いところです。
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弐百参拾五 SPセッティング奥の手(2006/3/4)
 スピーカーを僅かに内向きにしたことで、中高域の張り出しが強くなりました。これを緩和するには、ネットワークに仕込んだ抵抗値を大きくするのが王道です。でも、もうネットワークをいじる元気がありません。
 そこで、とっておきの奥の手に頼ることにしました。台にしているブロックの向きを変えるのです。それが下図です。

 

 左が以前のもので、右が変更後のセッティングです。
 ブロックの側面を前面バッフルの延長とする手法です。低域増強の特効薬ですね。ツィータとスコーカのレベル補正をやらないのなら、逆に低域のレベルを上げてやればいいわけです。その効果の大きさは、以前使っていたスピーカーでも実証されています。ただし、低域にかぶりがでる惧れもあり、MONITOR2000に対しては避けていました。保護ネットも外しました。ネットの木枠が、下方への音の放射を邪魔すると思われるからです。

 私見ですが、音量というものは低域のレベルで決定するように思われます。セッティング変更後は、ボリュームが以前より2dB低い位置で同等となっています。結果として、中高域のレベルを2dB下げたのと同じ効果が得られました。ただ、危惧していたとおり、中低域に若干の混濁が生じています。まあ、聴き慣れたソフトで、しかも注意を払ってのことです。そのうち慣れて、気にならなくなるんじゃないかと楽天的に考えています。

 PSE(電気用品安全)法が世上を賑わせています。私にとってはどうでもいい法律ですが、中古販売業者には死活問題でしょう。今日、HARD-OFFを覗いたら案の定でした。以前から展示されていたCDPやアンプが、さらに半額になっていました。AccuphasenのP-800、EsotericのP-30、D-30が信じられない値づけでした。特にEsotericのプレーヤーとDAコンバーターの安さに、心がふらついています。販売価格はちょっとここには書けないほどです。こんなお買い得商品にありつけるチャンスは二度とないでしょう。PSE法さまさまかな。
 さてどうするか。

 明日は、IBF/WBO世界S.ミドル級王座統一戦がイギリスのマンチェスターで行われます。ジェフ・レイシー(IBF)vsジョー・カルザゲ(WBO)の一戦です。両者ともに無敗の王者であり、8割ほどのKO率を誇っています。KO決着は必至です。
 長い距離でのジャブ、ストレートの展開ではカルザゲ有利、近い距離でのフックの打ち合いは互角かレイシー有利かな。いずれにしても、先にフックを当てた方の勝ちでしょう。
 この一戦は、ジェームス・トニーvsロイ・ジョーンズ戦、ジェラルド・マクラレンvsナイジェル・ベン戦、ナイジェル・ベンvsクリス・ユーバンク戦に並ぶS.ミドル級の歴史に残るスーパーマッチです。
 こういう試合が行われることそのものを知らない人が多いです。お気の毒なことです。
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弐百参拾四 ヒエロニムス・ボッシュ(2006/2/25)
 私はアメリカン・ハードボイルドのファンです。でも、マイクル・コナリーは読んでいませんでした。嫌いとかじゃなく、逆の危惧からです。読めばきっと、コナリーに嵌ってしまうと思われたからです。同様の理由で、宮部みゆきや高村薫も避けています。

 先日のこと、「エンジェルズ・フライト(『堕天使は地獄へ飛ぶ』改題)」が文庫になったのを機に、ついにコナリーを読みました。期待通りでした。警察小説というか、クライム・ノベルというか、ジェームズ・エルロイに通じる物語でした。エルロイの「LA コンフィデンシャル」を髣髴させるような、警察内部の権力機構から弾けようとする刑事が主人公です。もっとも、エルロイ描くところの破滅の美学に遠く及ぶものではありませんけど。コナリーがつまらないというのでなく、エルロイが凄すぎるのだけどね。

 コナリーの小説群は、その大半がヒエロニムス・ボッシュ(主人公の刑事)シリーズです。物語の面白さとは別に、主人公の名前に強く惹かれました。いうまでもなくボッシュのネーミングは、15世紀頃にネーデルランド(オランダ)で活躍した画家の名です。ボッシュには思い出もあります。


 私は大学で美術を専攻しましたが、趣味で国語教師の資格も取りました。必須科目のひとつに「現代文学」があり、戦後文学がテーマでした。これは演習科目であり、教授は学生ごとに作家を割り当て、指定作品を中心に論ずることを求めました。私に割り当てられたのは野間宏であり、指定作品は「暗い絵」でした。他に「真空地帯」と「わが塔はそこに立つ」を読んで、野間論をまとめました。内容はきれいさっぱり忘れていますが、「暗い絵」が示すところのブリューゲルの絵を論じたのは憶えています。

 そのときまで、ブリューゲルやボッシュについてはその詳細を知りませんでした。ブリューゲルなど、単なる農村の日常を描いた作家くらいにしか考えていませんでした。それが寓意をテーマに幻想的な絵を描いています。そしてブリューゲルのお手本たるボッシュは、ブリューゲル以上に不可思議な世界を描き出し、またグロテスクな怪物を描いています。そのようなことを、図らずも文学からのアプローチで知ったのです。美術系学生としては失格ですね。

 野間は「暗い絵」の冒頭で、ブリューゲルの絵の構図や登場人物や怪物を詳細に説明しています。私は画集の中から苦労して、冒頭の説明に該当する絵を見つけ出しました。発表会では野間宏そっちのけで、該当するであろう絵の解説に時間をかけた記憶があります。私の野間宏論を面白くもなさそうに聞いていた教授も、ブリューゲルの絵の解説だけは、身を乗り出して画集に見入っていました。うろ覚えだけど、成績はお情けの「可」だったかな。

 ブリューゲルについて調べたとき、ついでにボッシュも調べました。で、ボッシュの方がより幻想性が高く、より悪魔的な画想でした。決して額に入れて飾っておきたい作家ではないにしろ、同時代の凡百の宗教画とは一線を画す魅力に満ちているのではないでしょうか。


 ヒエロニムス・ボッシュ−これからはネーデルランドの画家というだけじゃなく、マイクル・コナリーの小説の代名詞として記憶に留めなくてはね。
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弐百参拾参 旧海軍との出会い(2006/2/18)
 昨年の秋より、本屋の棚に大和がらみの雑誌や本がいい場所を占有しています。角川映画の上演に合わせての商売でしょう。もはやこういうものに興味を失くしているので、無視していました。たまたま今日のこと、そのうちの一冊をめくってみました。内容はやはりの陳腐な大和賛歌でした。大和のカタログスペックだけを抽出して、いかに素晴らしい艦であったかをこれでもかと書き連ねていました。


 私が旧海軍に興味をもったのは、小学6年生の時分です。太平洋戦争の本を読んで、いたく感銘を受けたのがきっかけです。それからというもの、凝り性の性分を存分に発揮し、現在までに購入した関係書籍は数百冊に及んでいます。
 最初に買ったのは、中学1年生のとき母親にねだった「日本軍艦写真総集」です。光人社から1,800円で出版されたものです。貧しかった私は、おもちゃなんぞ買ってもらった記憶はないものの、こうやって本だけはたまに買ってもらいました。この写真集は、子供時代の私のバイブルでした。ほぼすべての艦種の写真と要目、戦歴が網羅されていて、これ一冊で旧海軍艦艇の概略を知ることができました。今みたいに脳味噌がまだ腐っていなかったので、内容はほぼすべて諳んじていました。



 この本の記述は、極めて真面目な態度での考察が為されています。それでもやはり手前味噌の内容が散見されます。その後、私も大人になって艦艇設計の細部や機関などの機械装置にまで目を向けるようになりました。すると、知れば知るほど日本の技術の低さを思い知らされました。そもそも戦前の日本は農業国家なのですから、致し方ないことです。

 で、今本屋の店頭に並んでいる大和関連書籍はといえば、まるでゲーム感覚のスペック自慢になっています。愚かなことです。
 装甲帯の厚みが世界一だと言っても、現実にはアメリカ主力艦の主砲に対する抗堪性は得られていません。戦後、米海軍は大和の装甲帯の予備を16インチ砲で試射して貫通させています。
 ボイラーに限らず、当時の日本の内燃機関のレベルは欧米から大きく劣っています。ボイラーの場合、圧力、燃焼温度ともにかなり低く、結果として缶室重量とスペースが無駄に大きくなっています。それでもガソリン・エンジンやディーゼルのお粗末さに比べればまだしもですけど。

 挙げていけば、ほとんどの点で問題があります。そしてなにより、プロダクト・オペレーション・マネージメントが致命的でした。
 福田烈氏は造船技官として、海軍工敞のリベット工法を電気溶接に更新した人物であり、大戦中の製造現場を構築指揮した方です。用兵側の気ままともいえる要求に応えるため、福田氏らは実に苦労しています。建艦管理するうえで、同一艦の建造は抜群の効率を発揮できます。ところが、用兵側はちまちまと要目の変更を行い、スケジュールの大幅な後退を招いてしまいました。アメリカなんか、徹底した大量生産方式を採っています。福田氏ら造船官の苦悩と怒りは極めて大きなものでした。

 以前にも大和の防御設計の問題点について書きましたが、大和に限らず旧海軍艦艇の技術レベルはかなり低いものです。店頭に並んでいる大和賛歌の書籍を見ると、頭が痛くなってきます。

 ちなみに福田氏は、大戦中の民間造船会社に対して戦時協力への強制を行った中心人物でもあります。戦後は民間会社に強制した戦時工法を標準工法に戻すために尽力しています。また、民間造船会社を渡り歩いて、電気溶接の普及指導にも尽力しています。戦後の日本造船業界が世界一になったのも、福田氏ら旧海軍造船技官の力が与ってのことです。

 今から14年前、相模原にある某大学で研修を受けたときのことです。受講科目に「表面工学」があり、指導教官は旧帝国大学出身の教授でした。かつて日本の自動車メーカーは、北米での塩害で錆に苦しんでいた時期がありました。その教授は、日産からの依頼で錆対策の研究を行った有名な方です。
 で、指導期間中にいろいろ雑談を聞かされました。教授は大戦中の学徒動員によって艦政本部に配属され、設計の一部を受け持たされたことが自慢でした。幸い、私は海軍工廠の知識があったので、雑談が盛り上がったのはいうまでもありません。

 福田烈氏の記述については、飯尾憲士著「艦と人」(集英社)を参考にさせて頂きました。
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弐百参拾弐 障害者の生き様(2006/2/12)
 今まで何度か技能をテーマにコラムを書きました。価値あるイベント“技能五輪”では、技能労働者たちが都道府県や所属会社の名誉をかけて競技に挑む姿をレポートしました。
 で、健常者の技能競技大会とは別に、障害者の技能競技大会もあります。所謂、アビリンピックがそれです。平成18年度は香川県において、技能五輪とともに開催されます。そのための代表選手選出が行われています。
 今日のこと、本県においても“障害者技能競技大会地方予選”が実施されました。14職種にわたる競技会です。そのひとつに「DTP」があり、私が課題作成と審査員を務めました。

 もちろん本来業務ではないにしろ、労働政策の一環なので断れません。課題作成には四苦八苦しました。なにせ、全国大会の課題が不明なので手探り状態だったのです。技能検定をベースに、デザイン面を付加する手法を採りました。技能検定はサンプルを元に、それとまったく同じ作品を構成するのが趣旨です。つまりオペレータ向けの内容なのです。今回の課題には、デザイン構成の目標が掲げられているので、あくまで選手のクリエイティビティを問う部分を設けました。

 参加者は下図の2名です。左の方は聾唖者です。言葉の訊き取りや発声に難があるので、日々の業務におけるハンデは大きなものでしょう。今回の競技でも、手話通訳のボランティアがつきました。右の方は重度の障害を負っています。電動の車椅子での参加です。そのうえ手指がまったく不自由なため、野球のボール大のトラックボールを駆使しての操作です。キーボードも指が使えないため、棒を掌で握ってキーを押すやり方でした。そんなハンデを負っていながらも、彼らには気負いも、憾みも、僻みもありません。あるがままの自分を受け入れ、生きていくために努力で以って生計(たつき)を得るだけのこととしています。つまり生き様として、プライドを持っているのです。



 世間はトリノ・オリンピック一色です。以前にも書きましたが、スポーツ五輪やスポーツ大会出場選手をそんなにもて囃す必要があるのでしょうかね。あれは趣味の世界のことです。むしろ、技能大会に挑む彼らこそがヒーローであるべきです。障害者にしても、障害者五輪ばかりがニュースになり、障害者技能五輪は捨て置かれています。私はなんか間違っていると思うのですがねえ。

 大会最後の演目は表彰式でした。競技職種ごとに順位発表が行われ、表彰状が手渡されました。普通の表彰式と違うのは、授与する側が、表彰者の前に移動することです。表彰状を受け取るときの、障害を負った彼ら、彼女らの晴れがましい表情を見るにつけ、胸が熱くなりました。
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弐百参拾壱 「生きる」の凄み(2006/2/12)
 総務省による地上波デジタルの受信対策が進行中です。私は受信チャンネル変更工事の問い合わせに対して、必要なしの返答をしていました。周波数変更くらい大したことでもないし、自分でやればいいと思っていました。ところが対策業者の話を聞いて、早とちりしたことを悔いています。私の従妹の旦那が電気屋を営んでいまして、先日会ったときに話を聞いて後悔した次第です。
 単に周波数を変更するだけでなく、それで映りが悪い場合にはアンテナ調整、アンテナ変更、ブースター変更まで含めて対応してくれるそうです。しかも、すべて無料とのことです。私はこれを聞いて、説明書をよく読まなかった自分が憎くなりました。まあ、受信対策センターに直接申し込めば、以前の工事不要の返答に対する変更が利くそうで、とりあえずひと安心しています。

 従妹の旦那の話によると、デジタル放送の画質は極めて高いそうです。ですから、調整がきちんとできていないと不満が出るだろうとのことです。で、我家での周波数変更後の画質が完全ではないのです。TVによってはかなり荒れています。この機会に申し込まなくては。


 先週のこと、黒澤明監督の「生きる」をレンタルしました。この映画のなかのワンシーンが無性に観たくなって借りたものです。えてして語られるのは、ラストの公園で志村喬扮する主人公がブランコに揺られながら「ゴンドラの唄」を歌うシーンでしょう。あれも悪くはないのですが、私が最も好きなシーンは、ダンスホールでピアノの伴奏で歌うというか、誦す場面です。このシーンを再び観たくてたまらなくなったのです。







 胃癌で余命幾ばくもないと知った主人公は、自棄に駆られ、自ら命を絶とうとさえ考えます。自殺行為でさえある深酒に溺れるため、立ち寄った酒場でデカダン作家と知り合います。その作家に導かれ、今までの人生に無縁であった歓楽の世界に耽溺します。そのなかの一軒であるダンスホールでのシーンが上の写真です。私はこの場面こそが、本作の白眉であると思っています。役者の演技、カット割、主人公の凄惨さが周囲に伝播していく様が、「ゴンドラの唄」を通して見事に描かれています。
 この前のシーンで闊達さを表現していたダンサーが、志村の無惨さにたじろいでいく様。ホールで踊る客たちが踊りを止める様。連れの作家が志村に向けた視線を外していく様。なんとも見事な演出です。私はこのシーンが好きで、数年ぶりに何度目かの観劇をしてしまいました。
 それと志村の口ずさむような歌の味わいがたまらないのです。もちろん「ゴンドラの唄」そのものもいい歌ですしね。

 ゴンドラの唄
 作詞 吉井 勇/作曲 中山晋平

1 いのち短し 恋せよ少女
  朱き唇 褪せぬ間に
  熱き血潮の 冷えぬ間に
  明日の月日は ないものを

2 いのち短し 恋せよ少女
  いざ手をとりて 彼の舟に
  いざ燃ゆる頬を 君が頬に
  ここには誰れも 来ぬものを

3 いのち短し 恋せよ少女
  波に漂う 舟の様に
  君が柔手を 我が肩に
  ここには人目も 無いものを

4 いのち短し 恋せよ少女
  黒髪の色 褪せぬ間に
  心のほのお 消えぬ間に
  今日はふたたび 来ぬものを
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弐百参拾  スピーカー・セッティングの難しさ(2006/2/5)
 昨年秋に更新したシェルターのカートリッジは快調です。結局、針圧計は買わずに、お古の軽いシェルに装着しています。音の差はあるのでしょうが、私には聴き分けられないので問題ありません。

 スピーカーのセッティング形態はいろいろあります。私が昔から気に入っているのは、江川式平行方式です。まあ、これは別に江川氏の考案ではないし、一般的な設置方法でしょう。ただ、リスニングポイントを三角形の頂点に置くのが一般的だった時代に、豊かな音場再生を目指すなら、並行方式のほうがよいとあえて提案したのが江川氏でした。あるいは左右の間隔を充分取れない場合に有効であるとしていました。もう30年も前の話です。と同時に逆オルソン方式も提示しました。これは左右のスピーカーを外向きに配置する手法です。試したことはないけど、意図するところは理解できます。
 学生時代に「SOUND MATE」という雑誌記事で読んだのだと思います。さっそく、内向きに振っていたスピーカーを平行に配置しました。すると音の分離がよくなり、スピーカー左右の外側にも音場が広がりました。以後は平行配置一筋できました。

 現在の部屋のレイアウトは、パソコン関係機器のために厳しいことになっています。かなり大型のデスクを置いているので、スピーカーの音の放射の邪魔になっていると考えられます。そこでこれを緩和するため、スピーカーを僅かに内向きに振りました。角度でいうと10度以下で、目視では分からない程度です。そんな僅かな変更なのに、音はかなり違っています。
 やはり好みに合いません。まず、ツイ−タの直接音が大きくなったので、レベルが合わなくなりました。ミッドレンジもきつく感じるようになりました。そのかわり低域のエネルギーも上がっています。しかし、微妙なバランスを取っていたのが僅かに損なわれました。一方で分解能は上がって、ハイファイ調が強められました。SN感も向上しています。やはり音の放射エリアから余計なモノをなくすのは正解です。悩ましいところです。若い頃なら、あっさり現状が気に入ったことでしょうが。

 理想を目指すなら、パソコン机を動かして、放射エリアをクリーンにするのがベストでしょう。で、移動する余地がないのです。二番目は内向きのままで、ツイ−タとミッドレンジの抵抗値を大きくしてレベルを下げることです。これをやればいいのは分かっているのですが、とにかく面倒臭くてやる気が起きません。もう少し聴き込んで、今後の対応を検討してみます。
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弐百弐拾九 東洋発スーパースター(2006/1/29)
 先週の日曜日、瞠目すべきできごとがありました。
 WBC世界S.フェザー級挑戦者決定戦、エリック・モラレスvsマニー・パッキャオが行われました。結果は、パッキャオが10回2分33秒KO勝ちを収めました。まったく意外な結果でした。私は前回と同じく、モラレスの判定勝ちを予想していたのですが。

 試合内容は完全にパッキャオ優勢で進みました。主武器の左ストレートの威力はもちろん、右が冴えていました。特にボディへの右フック、アッパーが効果的でした。明らかにダメージを与え、モラレスは次第に上体を折って、ボディへのパンチを嫌がるようになりました。10回、完全に動きの鈍ったモラレスはダウンを喫し、追い討ちをかけるパッキャオの連打に力尽きました。完勝といっていい内容でした。小柄なパッキャオが上の階級のモラレスを真っ向から叩き潰した格好です。

 バレラに勝ったのも偉業でしたが、その後マルケスにも引き分けました。ドローながら、マルケスから3度のダウンも奪っており、パッキャオの攻撃力が評価さえされています。そして今回のモラレス戦です。もはやパッキャオこそが、軽中量級の中心に位置するスーパースターになったと思います。次回は王者バレラへの挑戦です。バレラにすれば、前回の無様なTKO敗の雪辱戦になります。バレラとしてもこの再戦には期するものがあるでしょうから、きっと前回を上回る激戦が予想されます。もしパッキャオが勝てば、間違いなくボクシング界の頂上に君臨するスーパースター誕生となるでしょう。アジアのボクサーが初めて立つポジションです。それほどの偉業なのに、一般マスコミの扱いは完全無視です。冬季W杯のニュースに割く時間があるなら、フィリピンの英雄が全世界に与えた感動を報じて欲しいものです。


 読売新聞によれば、「麻生外相は28日、名古屋市で開かれた公明党議員の会合で、靖国神社参拝について『英霊は天皇陛下のために万歳と言ったのであり、首相万歳と言った人はゼロだ。天皇陛下が参拝なさるのが一番だ』と述べ、天皇陛下の靖国神社参拝を実現することが望ましいとの考えを示した」とのことです。

 困ったものです。あまりにも不見識というものです。陛下が靖国に参拝できるかどうか、この点は明白です。中国との外交問題になっている以上、陛下を関わらせていいはずがありません。天皇の政治的利用になるからです。麻生外相はこんな常識問題に対してさえ、まともな判断ができていません。政治家失格でしょう。


 オーストラリア滞在中の元教え子と連絡がつきました。デヴィッド・ヒギンズの画集を物色してくれることになりまして、ほっとひと安心しているところです。入手できたら、サイト上で内容を公開しますので楽しみにしてください。オーストラリアの大使館は、ヒギンズの本を日本で出版したい意向をもっているので、サイト上での紹介を許容するでしょう。なにより、私が一番画集をめくるのを楽しみにしています。
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弐百弐拾八 『ファンタジーワールド ジュン』(2006/1/22)
 私はお宝本をいくつか所持しています。以前にも書いていますが、その一つに「章太郎のファンタジーワールド ジュン」があります。この実験的作品は、COM(漫画雑誌)に1967年から2年余連載されました。COMは、白土三平が「カムイ伝」を描くために刊行されていた「ガロ」に対抗して、手塚治虫が発刊した玄人向け漫画雑誌です。当時小学生であった私は夢中になりました。その頃の私は石森章太郎の大ファンでした。石森のキャラクタの模写ばかりやっていたので、今も絵を描くと石森風キャラになってしまいます。

 このジュンが単行本になるや、どうしても欲しくて母親に無理を言って購入しました。下図はその表紙です。



 豪華な箱入りハードカバーの装丁です。

 10話が収められていて、トップは「少女との出会い」です。各話ごとにカラー扉があり、この第1章の扉が口絵を兼ねています。それが下図です。



 物語は作者自身を投影した漫画家志望の青年ジュンが、謎めいた少女と出会って体験する不可思議なイメージを描出したものです。まったく制約のない仕事だったのでしょう。各話ごとのテーマに沿って、自由にイマジネーションを羽ばたかせています。


 これは第1章での少女との会話です。


 これは第3章「たそがれの国・遠い日のジュン」の1頁です。



 これは第6章「ワガ心ニモ雨ゾフル」です。この章は60年代らしく、梅雨のイメージから始まって、ガリバー、公民権運動、ベトナム、アメリカ、中東などの人間の諍いをテーマにしています。

 章によっては、会話がまったくありません。ジュンの体験する非現実的な場面を抽象的な絵で表現しています。また、逆に漫画らしいコマもあります。下図は父親とのやりとりを描いた「やがて秋がきて冬がくる」です。



 また、最高傑作の呼び声高い「時の馬」では、ジュンの人生を未来まで鳥瞰しています。



 本作を紹介しようとページをめくるたび、懐かしい絵が次々に現れてきます。小学生時代、将来は石森のような漫画家になりたいと考えていた私は、この本(というより画集)から多くのものを吸収しようと飽かず眺めたものです。今もその当時の感覚が甦ってきます。もはや失っている創造への欲求です。たまにはこういう本を見て、感性のリフレッシュを図るのも必要ですね。

 この本は今となっては貴重品です。多分、欲しがっている方も多いのではないでしょうか。私は永久保存するつもりです。
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弐百弐拾七 二人の魔術師(2006/1/14)
 現代作家で一番好きなのは、ホアキン・トレンツ・リャド(1946-1993)です。
 スペイン生まれのリャドは、“現代の印象派”とか“光の収集家”とか呼ばれています。早熟・早逝の天才画家です。9歳から絵を描きはじめ、19歳のときサン・ホルへ高等学校の助教授に推薦されるという早熟ぶりでした。 1990年に日本で初の個展を開催し、大人気を博したものの、3年後に47歳で逝去しました。

 私はリャドの原画を見たことがありません。何故か縁がないのです。2年くらい前に、当地のデパートでリャド展が開催されました。愚かなことに、私は閉会してから気づいたのです。このときはショックでした。また、淡路島の洲本市にミュージアムパーク・アルファビアができたとき、リャドの作品40点ほどが展示されていました。ところが、アルファビアは2002年に閉鎖しました。私がアルファビアのことを知ったのも閉鎖後のことでした。

 リャドの絵は原画を見るべきです。作品集はオフセット印刷であり、オリジナルの鮮烈な色彩の再現は不充分でしょう。また、業者が販売しているシルク印刷も、原画の色合いの再現性に問題があるそうです。その点は業者自身が認めています。
 リャドの原画が欲しいけど、シルクでさえ数十万円ですから、原画ともなれば見当もつきません。ここの業者が原画を扱う予定なので、値段に注目しています。ページの下端に「原画入荷予定」の記載がありますから。

 私なりにリャドを称すとすれば、“光と影の魔術師”のキャッチが最もしっくりきます。


 もう一人好きな作家がいます。その作家は日本では完全に無名です。多分、日本のサイト上にその名を記すのは、私が最初ではないでしょうか。いえ、他にもいるかもしれませんが、私は寡聞にして知りません。一応検索をかけましたが、何も引っかかりませんでした。
 オーストラリアのイラストレーターのデヴィッド・ヒギンズです。今はディーキン大学で教鞭をとっているそうです。独特な細密画で、動物を描いています。特にオーストラリア固有の動物に力を入れているそうです。

 画集「TRIBE-together we grow」は、日本では入手不可能です。でも、私はなんとしてもこの画集が欲しいのです。で、たまたま数年前の教え子が、ワーキング・ホリデーを利用してオーストラリアに滞在しています。そこで、画集購入の依頼メールを送っています。でも返事が還ってきません。煩わしい依頼ごとが嫌で無視しているのか、あるいは私を嫌っているのでしょうか。
 まだメールに気づいてないんじゃないかと、都合のいい解釈で返答を待ってるところです。

 このデヴィッド・ヒギンズは、“細密画の魔術師”と呼ぶことにします。もし、画集を入手できたら、作品のさわりくらいWebで紹介したいと考えています。
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弐百弐拾六 更生しました(2006/1/7)
 私の通勤距離は25kmばかりです。公共交通機関が一切ないため、車に頼るしかありません。以前にも書きましたが、道路交通法改正以後は酒断ちしています。せいぜい乾杯プラスアルファ程度のものです。おかげで酒席の場のつまらないこと。いい機嫌に酔っ払った同僚たちが、憎くたらしく見えてきます。

 昨年末の職場の忘年会も、料理を片づけるや、さっさとばっくれました。プライベートな忘年会では少々飲みましたが、酔い醒ましにえらいこと時間をかけました。

 あと、生徒とのつき合い酒があります。これも断りつづけています。なにぶん未成年者が混ざっているので、同席するわけにはいきません。参加せざるを得ない場合には、未成年者の飲酒喫煙を許しません。きっと、煩い先生だと思われていることでしょう。今は未成年者たちも当たり前のように酒を飲んで、煙草を喫いますから。普段から訓練施設内での未成年者の喫煙は、当然のこと厳しく指導しています。

 しかし、私も調子のいいことを言ってます。自身の学生時代の無軌道ぶりは棚に上げてさあ。高校に通っていた頃から、日常的に校内で隠れて煙草を喫っていました。他の生徒たちは屋上とか、松林に隠れて喫ってました。私の母校は、校内に松林があったのです。その風景は、喜国雅彦氏の漫画「月光の囁き」に登場しています。喜国氏はご当地出身であり、主人公たちが通う中学の設定を、何故か我が母校(S高校)にしつらえています。ひょっとすると、喜国氏は私の後輩なのかもしれません。
 で、私の在籍していた2階の教室と和裁教室が隣り合っていまして、離れたベランダを跳び越して移ることができました。まさか孤立したベランダから侵入するとは考えられず、先生方も窓の施錠をしていませんでした。空中で隣のベランダに飛び移る私を、友人たちは忍者と呼んでいました。入りこむと、内鍵を開けて友人たちを招じ入れ、喫煙タイムと相なりました。まったく、ろくでもなしです。
 大学生の喫煙に干渉する先生はいないでしょうね。でも、受講中に堂々と喫煙していた私は少数派でしょうか。逆に私の訓練指導中に煙草を吹かす生徒がいれば、きっと大目玉を食らわせるでしょう。ホント、調子いいわ。

 私の通っていた高校も、ご多分に漏れずバイク通学を禁じていました。でも、私は毎日バイクで通っていました。友人の一人に、高校の隣に住んでいる奴がいまして、その親父さんに話を通してもらい、友人宅の軒先に3年間バイクを停めさせてもらいました。で、今はといえば、生徒に対して通学方法に不正な申告があってはならないと厳しく指導しています。なんのこっちゃ。
 ちなみに、私の友人たちは軒並みバイク通学が発覚し、全校生の前で説教を食らっています。私だけ無傷で、友人たちに散々詰られました。

 また、遅刻、欠席は厳しく咎めます。真面目くさった顔で説教しながら、内心では『俺、他人のことはとやかく言えないんだけどな』と呟いています。なにせ、私、高校時代は遅刻回数 and 早退回数最多記録者でしたから。
 寒い日なんか、朝の出席点呼が済むや、仲間と早退し、寿司屋で熱燗で一杯やってましたから。あるいは、授業途中で抜け出して、学校近くの友人宅で麻雀をやってました。で、何食わぬ顔で終礼に出席していました。ホント、碌なもんじゃないです。

 仕事柄、とても真面目くさった私です。生徒にはアナクロニズム丸出しで、仁智を説いたりしてます。あるいは、ストイシズムの大切さを宣ったりしています。ホント、よく言うわ。
 そこで冒頭に書いた酒席の話です。若い頃は友人ともども、コンパで隣に女性が座ったら、お触りするのが礼儀だと心得ていました。なにもしないのは、女性に対して失礼だと冗談抜きで思っていました。馬鹿だったのか、あるいは律儀だったのか。
 やがて社会人になって深く反省し、むしろ石部金吉を目指しています。それに今どき、そんなことをすればセクハラで訴えられますから。とにかく今は、真面目一徹な私です。←本当にそうか

 年の初めにあたり、今年も真面目に生きていこうと誓っての文章です。よろしくお願いします。
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弐百弐拾五 ディア・ハンター(2005/12/31)
 暇つぶしに「ディア・ハンター」を観ました。ずい分前にもビデオで観ましたが、今回はより胸を打たれました。この作品は1978年のアカデミー賞受賞作品です。私の遠い記憶では、日本TVの「11PM」の洋画紹介コーナーで知ったはずです。そのときの番組中で、評論家連中が口を揃えて絶賛するなか、作家の田中小実昌氏だけが否定的見解を述べました。
「こんなの嫌いだ。ベトナムを舞台にすれば、何をやってもいいとしている。アジア人を馬鹿にしているんだ」
 氏の言う“何をやってもいい”とは、演出のことです。本作のポイントであるところの、捕虜に賭け遊びのためのロシアンルーレットをやらせることを指しています。確かにこの意見は見識です。北ベトナム軍の内部で、捕虜を対象にした賭け事なんか絶対なかったはずです。もしやれば、その兵士は間違いなく粛清(総括)されるでしょう。そのあたりの共産軍の軍規の厳しさは徹底していますから。

 ロシアンルーレットの件はともかく、この作品の発する重圧感は半端じゃありません。ロバート・デ・ニーロはこの2年前に「タクシー・ドライバー」に出演しています。いずれもベトナム帰還兵の悲劇を描いた作品です。タクシー・ドライバーもいいけど、私はディア・ハンターの清澄なまでのメッセージが好きです。監督は凝り性のマイケル・チミノです。「天国の門」でも、やたらに凝った映像と演出をやってましたなあ。本作でも主人公のマイクの変質を描くために、ペンシルバニア州の田舎町の生活を丹念になぞっています。
 帰還後の狩で、照準に収めた鹿を逃がすシーンは秀逸です。



 上の画が、北の捕虜となって、賭け事のためにロシアンルーレットを強いられる場面です。ベトナムの実態とはかけ離れていますが、戦場に放り込まれた若者が遭遇する悲劇を緊迫感たっぷりに描いています。

 反戦映画は数あれど、「ディア・ハンター」は私の一番好きな映画です。多分、何年か後にまた観劇するでしょう。
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弐百弐拾四 大晦日のオーディオ(2005/12/31)
 オーディオ系超有名サイト「船長の戯言」にCD販売サイト「MUSIC AREA MYU」の紹介がありました。12月中に商品を5,000円以上注文すると、下端の「2005年生録サンプラー」がオマケで付いてくるということでした。これは買わないわけにいきません。早速注文しました。
 注文したのは、下のいかにもなディスク群です。このようなオーディオ系音源以外にもいくつか買いました。一昨日届きまして、ひととおり聴いたところです。



 ゼロ戦の栄エンジンの音を初めて聴きました。さすが大排気量エンジンの排気音は迫力です。栄エンジンは星型複列14気筒で28リットルです。ひとつのシリンダーだけで2リットルもある計算です。そりゃ半端じゃないです。
 エンジン単体を回転させた後は、実際に飛行するためのアイドリングにかかります。当然プロペラが装着されていますので、プロペラの回転音が加わります。また、エンジン単体の場合と比べ、負荷がかかるので音も異なっています。
 また音場が凄い。右奥から発進してきたゼロ戦が、左手背面(私の後方)に飛び立っていくシチュエーションでしょう。近づいたゼロ戦は、私の聴取位置までせり出してきます。本物の音場スピーカーであれば、せり出して、そのまま背後に消えていくんじゃないかな。
 滑走路の脇で録音している模様で、おそらく原っぱでしょう。かなり草深いと思われ、バッタやコオロギなんかがたくさんいます。ときどき、バッタが羽ばたくのが目に見えるようです。
 こりゃあ面白いディスクだわ。



 有名なディスクです。優れたスピーカーで再生すると、打ち上げられた花火が頭上で炸裂するそうです。ONKYOのMONITOR2000では、そのような上下の広がり感が出ません。覚悟はしていたものの、ちょっと寂しいものです。



 尺八とピアノ、ベース、ドラムの演奏をホールで録らえたディスクです。この録音はワンポイントではありません。ですから、もうひとつホールらしさが感じられません。



 これは凄いの一言。「富士総合火力演習」のディスクも持っていますが、同様の実弾射撃です。いつも感心するのは機関銃の射撃音です。映画などで聴く空砲の発射音とは別物です。空砲であれば、ガスの噴出エネルギーだけの発射音です。ところが実弾だと、鉛弾が高速で空気を切り裂きます。小さな弾丸でもそのエネルギーは大きく、音に質量があります。典型的なワンポイント録音なので、左右の広がりと奥行きが尋常ではありません。
 大太鼓はライブな空間での演奏でしょう。たっぷりした量感が、同時にハイスピードで炸裂して快感です。
 ジャズ・ライブはデッドな空間での録音だと思われます。歪み感がなく、シャープな切れ込みを感じさせます。といっても、私の装置は大した機器でないので、本当のところは分かりません。一度、ハイクラスのワイドレンジ・システムで聴いてみたいものです。
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弐百弐拾参 本命「LAND OF THE DEAD」(2005/12/24)
 暮れのお愉しみ用にとレンタルDVDをどっさり借りました。すると、思いもかけず、観たかった新作にありつけました。ジョージ・ロメロ監督の「Land Of The Dead」です。
 今夏公開された本作も、当地では上映されませんでした。ですから、レンタルされるのをひらすら待っていたのです。ロメロ監督のゾンビシリーズは全作VTRに保存しています。
 「Night Of The Living Dead(ナイト・オブ・ザ・リビングデッド)」「Darn Of The Dead(ゾンビ)」「Day Of The Dead(死霊のえじき)」のゾンビ3部作はいずれも傑作です。ゾンビ映画の亜種は数あれど、ロメロ監督のオリジナルは別格です。亜種はすべて、単にホラー映画として企画制作されたものばかりです。対して、ロメロ監督はオリジナルの新しい映画を作ろうとする過程において、ゾンビというアイテムを選んだという違いがあります。
 本作の狙いは、明らかに現代アメリカに対する皮肉でしょう。マイケル・ムーア監督の持つ怒りと同種の熱が感じられます。

 人工の楽園に逃れて住む人々は、ゾンビが徘徊する田舎から生きるための物資を調達しています。当然のこと、ゾンビたちは邪魔者として駆逐されます。冒頭のゾンビ虐殺シーンは、人間たちの行為をイラクやパキスタンを暴圧するアメリカに擬しているのが明白です。一方的な虐殺に遭うゾンビたちに、人間に対する怒りの感情が生まれます。その感情はゾンビそのものの生態に変化を生じさせ、ラストの悲劇へと雪崩れ込んでいきます。ゾンビの変質については、前作の「Day Of The Dead」のパブ(元軍人のゾンビ)がネタ元なのでしょう。
 楽園を支配する権力者たちは、さしずめネオコンやボボズに連なる象徴だと思われます。ボボズというのはアメリカの新しい上流階級のことです。かつての上流階級はWASPに代表される既存勢力ですが、ボボズは新しいビジネスチャンスに乗って天文学的富を得た人々のことを指すそうです。才能とインテリジェンスに恵まれた実力者のことです。




(C) UNIVERSAL
 ラストのゾンビによる復讐の殺戮シーンで、上の人物を見つけました。ゾンビファンならお馴染みのトム・サビーニです。格好も第二作「Darn Of The Dead」に登場したときの暴走族ルックとまんま同じです。多分、意図的に同じファッションをしたのでしょう。もともと特殊メイク担当だったのが、今は役者としても成功しています。
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弐百弐拾弐 最近の世相(2005/12/17)
 建築物の構造計算偽装が大問題になっています。つい先ほどのNHKのニュースでは、公的機関による厳しい審査が望ましいとの意見が多いと報じられていました。さてさていかがなものでしょうか。国土交通省サイドとしては願ったり叶ったりかな。仮に外郭団体に審査させるにしろ、実質ポストの増設というか、天下り先の拡大というか、予算や人員の増額を要求できます。本当にその線で対応を進めていいものでしょうかねえ。そんなことを言い出すと、あらゆる部署で該当する話があるはずです。例えば、自動車の車検にしても、陸運局でのチェックは全体の一部です。基本的には認証工場での有資格者のチェックに任されています。今回のような建築物の審査と構図は同じです。公的機関にすべてチェックさせるとなると、これはおおごとです。このような考え方はひとつの見識ではありますが、所謂大きな政府への回帰であり、適切な方向であるか疑問です。

 私の職場の同僚で、数年前まで某大手ゼネコンの設計部署で構造計算を担当していた人物がいます。興味深い話をいろいろ聞きました。必要強度をクリアするとなると、どうしてもコスト高になります。営業や企画からは、常にコストダウン目的の手抜きを迫られるのが常であったそうです。しかし、構造計算に関わる人間にとっては、とても怖くて手抜き設計などできなかったそうです。姉歯氏のようなことをしでかしたら、責任の取りようがないという理由です。しかも、それで建物倒壊でも引き起こしたら、殺人に繋がりかねませんから。同僚が言うには、姉歯氏のような人間はごく一部だろうとのことです。構造計算に関わっている人間は、その多くが重大な責任を自覚しているそうです。
 ただ、施工レベルでいいかげんな対応が多かったそうです。ですから、できるだけ脚を運んで目を光らせていたそうです。おかげで、現場では煙たがられていたそうです。


 同じNHKのニュースで、台湾がアメリカのキッド級駆逐艦2隻を購入したと報じていました。NHKはこの駆逐艦の排水量を約1万1千トンと説明していましたね。もう、嘘ばっかり。
 キッド級は、あの名駆逐艦スプルーアンス級の発展型です。もともとイランの発注に応えて建造した艦です。満載排水量は9千トン前後といったところでしょう。スプルーアンス級は、アメリカ海軍が新時代のプラットフォームとして設計した駆逐艦です。兵装の発達や更新に対応できるように、艦型に余裕をもたせた大型艦です。キッド級は上部構造物の防御を強化したため、搭載ウェポンに余裕がありません。つまり、トマホークを搭載せず、ハープーンだけが水上打撃力のはずです。一方の防空能力は一級です。スタンダード・ミサイルが設計時から組み込まれています。NHKの記者のレベルなんて、ホントお粗末です。


 民主党の前原氏、一体どうしたんでしょうか。“中国脅威論”をアメリカ訪問時のみならず、中国の講演でも遠回しに触れています。さすがにこれはまずいんじゃないかと思います。仮に中国のミサイルが日本に照準を合わせていても証拠がありません。日本に対する軍事的脅威とは何かと問われたら、答えようがありません。もっと理論武装してください。
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弐百弐拾壱 旧海軍の責任(12月8日に思う)(2005/12/11)
 第二次世界大戦の戦後処理を語るとき、「日本は反省していない。対して、ドイツは明確にしている」という言説をよく耳にします。これ、大嘘です。ドイツは自国の歴史を反省してなんかいません。すべてナチスの責任に帰しているのです。つまり、周辺国に対する責任はもちろんのこと、ドイツ国民自身がナチスの被害者であるとしています。これって変でしょう。ナチスは合法的な政権であり、ドイツ国民が熱狂的に支持して成立した政府です。つまり、民主主義の手続きと責任論から云えば、ナチスの責任はドイツそのものの責任であってしかるべきです。ただ、ドイツはもとより周辺国にとっても、すべての責任をナチスに押しつける方が都合がいいのです。これならドイツ国民は遠慮なく責任を明確にできるし、ナチスを批判する態度に容赦がない所以です。

 それに比べ、日本人はなんとまあ愚直なことか。先人のしでかした責任を我がこととして捉え、自分の責任において考えようとしています。いったい、ドイツと日本のどちらが戦争責任をより購っていることか。補償にしても、これまた大盤振る舞いをしています。オランダはインドネシアを植民地化し、搾取しつづけました。インドネシアは、戦後の独立戦争を経てオランダとの間で和解が成立しましたが、オランダの投資に対して賠償金を支払っています。そのうえ、なんかよく分かりませんが、日本自身がオランダに賠償金を支払っています。で、韓国に対しても賠償金を払っていますね。オランダ式でいくなら、韓国は日本に膨大な賠償金を支払わなければならないのですがねえ。
 この点に関しては仕方ないでしょう。敗戦国の憂き目というもので、勝てば官軍、敗れれば得るものは何もないの典型でしょう。

 この敗戦責任に関して、日本は一切の総括をしていません。開戦責任については、東京裁判において“平和に対する罪”として、実に作文のような共同謀議でたっぷり裁かれています。私は敗戦責任について、法的責任を問うのが無理であれば、道義的にでも追求するべきだと思っています。関係者のすべてはもやは鬼籍に入っているので、今となっては手遅れですが。もっと早くに手をつけるべきでした。

 私が大きな疑問を感じるのは海軍の責任です。陸軍の責任は東京裁判で裁かれ、教科書にもこれでもかと書かれています。ところが、海軍はえてして善玉で語られているように思われます。曰く「陸軍主導の三国軍事同盟に反対であった」「陸軍の大陸政策に関知していなかった」等々です。じゃあ、対米開戦の責任は誰にあるかと問えば、これはもう海軍がすべての元凶です。そしてさらに、あの戦争の敗戦責任は誰かと問えば、アメリカを戦争に巻き込んだ海軍です。日本人は海軍の責任を強く問うべきです。

 先週のNHKの番組で山本五十六が採り上げられていました。山本の軌跡と日米開戦に向けての取組みを辿るドキュメンタリです。不思議なことに、この番組中でも日米開戦は不可避というばかりで、その根拠は示されていません。
 経済封鎖を受けての南進作戦が、対英蘭豪戦であって何の不都合があるのでしょうか。南進作戦を実施する場合、たしかにフィリピンの米軍が目障りでしょう。でも、そんなものに囚われる必要はないはずです。もちろんアメリカの常として、日本に対して露骨な挑発や、場合によっては威嚇攻撃さえ仕掛けてくるでしょう。そのような謀略はアメリカの常套手段ですから。でも、それに耐えるべきでした。現にドイツは、対英戦を闘うなかで、アメリカの不当な干渉と露骨なまでの挑発にひたすら耐えています。ヒトラーは、アメリカがどのように不当な手段を弄してきても絶対に手出しするなと厳命しています。
 同じことを日本の戦争指導者もやればよかったのです。ところが海軍は嬉々として対米戦に取組んでいます。私が言うようなことは、所謂歴史の後知恵というものなのでしょう。当時の海軍関係者にしてみれば、アメリカ海軍は日露戦争以降の第一仮想敵です。そのような教育を受け、海軍の意志のすべてが対米戦指向で動いていた状況から、他の選択というものが働かなかったのでしょう。だからといって不問に付していいものでしょうか。あれほどの戦争を引き起こしておきながら、結果責任を問われないということに納得がいきません。

 東京裁判において、ことさらに“平和に対する罪”を強弁するため、日本国家による共同謀議を証明する必要がありました。そこで、満州事変に始まる陸軍の大陸政策を日本の計画的侵略政策とするため、陸軍の関係事項をのみ取出し、海軍は蚊帳の外になりました。結果として、陸軍関係者は多数戦犯となって絞首刑や銃殺で処刑されました。で、海軍関係者で死刑になった者はいません。皆さんは、この点に納得されるのでしょうか。私はどうにも釈然としないのです。
 日本人に与えた惨禍に対して、誰が責任を取るべきか。戦争に突入する状況作りを為したのは、紛れもなく陸軍でしょう。でも、悲惨な戦禍を招いた責任は、紛れもなく海軍にあるのです。そして、未だこの罪は清算されていません。
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