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六拾   祝:裏会員(2002/12/29)
五拾九  ソフトウェアの思い出(2002/12/22)
五拾八  平静だった12月8日(2002/12/15)
五拾七  俺って馬鹿(2002/12/8)
五拾六  廃物再利用サーバ・マシン(2002/12/1)
五拾五  恥ずかしながら(2002/11/24)
五拾四  凍土の共和国(2002/11/17)
五拾参  Macデータ(2002/11/10)
五拾弐  一人一台パソコン(2002/11/3)
五拾壱  ご当地獅子舞(2002/10/27)
五拾   イニシエーション/4(2002/10/20)
四拾九  イニシエーション/3(2002/10/15)
四拾八  イニシエーション/2(2002/10/13)
四拾七  イニシエーション/1(2002/10/9)
四拾六  スキャニング三昧(2002/10/6)
四拾五  こんなものいらない(2002/9/29)
四拾四  NETの猥雑さの原点は『ウィークエンド・スーパー』(2002/9/22)
四拾参  妄想:Alpha Macありせば(2002/9/15)
四拾弐  TV買い換え(2002/9/7)
四拾壱  一体どうなっているのか(2002/9/1)




六拾   祝:裏会員(2002/12/29)
 私が訪問するボクシング関係HPは、例えば以下のようなものです。
 むえ左近(旧:月間若僧)
 ジョー小泉のひとりごと
 我´MAX
 いや〜んな日々
 MY FAVORITE ROOM
 それぞれにもち味があり、重宝しています。で、トップに掲げた「むえ左近」ですが、以前からボクシング・ファンの間で謎めいた存在でした。裏会員制をとっていて、裏会員に対しては、表に出せない危ないネタを配信しているとのことでした。管理人の言によると「裏会員にするかどうかは管理人の一存で決める」。私はずっと、知り合いが対象になっているのかと思っていました。そうではなく、通りすがりの者に声をかけるというのは、HPの内容について発言をした者に対して、その気があれば勧誘するとの趣旨でした。

 最近、ふとしたことから管理人さんにメールを出したところ、嬉しいことに裏会員にどうかとのお誘いがありました。いやあ、もう願ったり叶ったりで、即受諾しました。裏会員などというと怪しいですね。正確には“こっそり会員”だそうです。ただ、この会員は永久資格でなく、活動が低調だと切られてしまいます。“こっそり頁”にアクセスするパスワードが配布されなくなるのです。パスワードは毎月変更しているそうです。

 送られてきたパスワードでこっそりを覗くと、濃い頁がどっさりこでした。なかには業界裏事情の類もありまして、たしかに表のHPには書けないものでした。管理人さんは小さい頃からボクシングに親しみ、後にキックを本格的にやっています。タイのジムに長く在籍し、向こうで試合を相当数こなしています。ホントにおいしい話です。私は、ボクシングだけでなくキックも大好きでしたから。過去形なのは、もはやキックのTV放送がなくなり、縁遠くなっているためです。まあ、K-1などというイベントが大人気ですけど。しかし、昭和40年代〜50年代頃のキックに夢中になった身としては、K-1は物足りないかぎりです。K-1はヘビー級選手を中心に成立しています。そのため、日本人スター選手がいないのです。サッカー・ワールドカップでも書きましたが、やはりスター不在が痛いですね。かつてのキックは、タイの強豪との対戦が眼目でしたが、それ以前に日本人選手同士の激闘に熱くさせられましたからね。

 TBSが放送を打ち切ったのが55年3月でした。このときは、しばらく放心しました。これで終わっちまった‥‥って。ちょうどその頃、なにかの番組でシュガー・レイ・レナードの試合を観ました。そして驚きました。ウェルター級でありながら、まるで軽量級のような、いえ、それ以上のスピードでした。それまで見たこともないようなコンビネーションとボディ・ワークを軽々こなしていました。いっぺんで魅せられてしまいました。「世界のボクシングはとんでもないレベルになってんぞ !!」おかげでキック放映終了のショックから立ち直りました。

 来年も楽しみなビッグ・マッチが目白押しです。いい試合を見ると、生きていてよかったと満腹感を覚えます。ボクシングは私にとって生きる活力剤なのです。
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五拾九  ソフトウェアの思い出(2002/12/22)
 今、職場のソフトウェアの整理をしています。購入年月日、シリアル番号、プロダクトID、ユーザID、サポート権行使履歴、Web登録IDなどなど。整理してみて驚きました。Adobeのライセンスが山ほどあります。予算化の兼ね合いで、必ずしもアップデートに馴染まないケースがあったためです。まあ、どちみち教育ライセンスですから、お得な購入ですけどね。

 そんな中、もはや使い道もない懐かしいソフトが出てきました。SAPIENCEがリリースしていた「Super Tableau Premium HR」です。HRは富士通のFM-R対応版のことです。このソフトには思い出がたっぷり詰まっています。

 「Super Tableau」は、1989年にPC-98用DOSソフトとしてリリースされました。私がこのソフトを知ったのは1990年のことです。どこかの大学教授がパソコンでのCG利用のセミナーを行い、そのときにプラットホームとして推奨していました。残念ながら仕事の都合で聴講できませんでしたが、参加者の話を聞くと魅力的なソフトのようでした。

 翌年、担当業務が替わり、新しい職務のための長期研修を受けました。某大学の研修寮に半年間缶詰になり、酒と勉強の日々でした。研修カリキュラムの中にパソコンCGというのがあり、提供されたのがPC-9801VM2と「Super Tableau」の組み合わせでした。このときは狂喜しました。噂に聞いていたソフトを無料で使えるとあって興奮しました。
 ちなみにこのときがDOS初体験でもありました。講義はほんの数時間でしたが、「Super Tableau」の素晴らしさを実感しました。こんなチャンスは滅多にありません。教授にお願いして、空き時間での使用許可を得ました。そのために、教授のご機嫌伺いもたっぷりしました。教授は合気道の藤平光一師範 ※注1 の門下生でした。
 大学の近所にある相模原の体育館で週一で練習をしていました。メンバーは教授と、藤平氏とは違う師範の門下生の二人でした。基本練習と合気業を中心に研究していました。それを聞いた私は、半年の研修期間中ずっと参加させていただきました。もともと合気道には興味をもっていました。まあ、合気道というより大東流の方ですけど。なにせ私、網走に住む大東流宗家の武田時宗氏のホームである大東館を訪ねたくらいですから※注2
 身体が鈍っていたので結構辛い稽古でしたが、いい経験になりました。訓練生にいうことを聞かせるのにも役立っています。おかげで教授の覚えもめでたく、気持ちよくパソコンを使わせていただきました。年末年始の研修期間外にも職場に頼んで休暇を取りました。宿泊費を自費負担して大学に残り、「Super Tableau」の勉強をしました。勉強というか作品作りをとおしてオペレーションをマスターしました。このときの画像は5インチフロッピに収まっているので、もはや再現不可能です。なにぶん時間がなかったので、少しでも時間節約のために、操作方法は暗記方式でマスターしました。マニュアルをコピーさせてもらい、寮でベッドに横になりながら、頭の中でのシミュレーションで憶えました。

 教授の私物であるシャープ製スキャナも個人的好意にすがってお借りしました。今でこそEPSONとCanonの評価が高いですが、当時はシャープのスキャナがベストでした。これで画像処理の醍醐味も覚え、癖になってしまいました。

 研修後も「Super Tableau」が忘れられず、マジでPC-98の購入を検討しました。でも結局買いませんでした。古くからのユーザはご存知のことでしょうが、ずいぶん高かったもんねえ。それでも同時期に発売されたMacのAciが100万円だったのに比べたら安いものですがね。


 そして1994年、職場でのCAD用パソコン新規導入案件に一枚かみました。このときに「Super Tableau Premium HR」を一本導入したのです。今にして思えば実に馬鹿馬鹿しい選択だったのですが、あの当時は無知でした。憧れの「Super Tableau」−それも業務用バージョンということで完全に舞い上がっていました。そのあたりの馬鹿さ加減はDTP帖に書いています。思い出すと冷や汗モノです。でも、「Super Tableau Premium HR」はさすがというべきでした。DOS用ペイントソフトとしては、文句なしに最上のものだったでしょう。

 そのプログラムは1.4MBフロッピ一枚に収まるコンパクトなものです。整理中、手にとってみて感無量でした。導入当初に訪れた営業のAさんは、「Win版の開発は行わない。今後は新聞情報配信技術開発にシフトする」とか言っていました。HPを拝見すると、積極的な事業展開を行っていますね。2次元画像処理ソフト開発で培ったノウハウを、衛星通信での画像配信ビュワーやファイリング技術に発展させているみたいです。設計技術者のHさんには、当方のシステムへのカスタマイズでずいぶん無理なお願いをしました。そもそもサピエンスはFM-R版の製品を出荷したくなかったのです。カタログにはリストアップされていましたが、数が出なけりゃ開発がペイしませんから(嫌なら最初から載せなきゃいいのに)。それを強引に発注し、苦労をかけました。その節はごめんなさい。 m(__)m 貴社のますますの発展を祈っています。

 Super Tableau Premium HR がどのようなソフトであったのか。そのうちDTP帖で整理してみたいと考えています。

注1: 藤平光一氏は合気道開祖の上芝盛平門下です。「氣の研究会」を主宰しています。たしか、ハワイ警察に対しても指導を行ったはずです。
注2: このときすでに武田氏は高齢で静養中でした。家族の方には申し訳ながられ、かえって恐縮しました。
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五拾八  平静だった12月8日(2002/12/15)
 先週の日曜日は日米開戦の日でした。世間の耳目に注意を払っていなかったので断言できませんが、開戦特集の類はなかったように思うのですが。WOWOWで「パール・ハーバー」が放映されたくらいしか心当たりがありません。静かなものでした。

 「パール・ハーバー」は評判がいまいちでしたね。私もCGシーンに注目したくらいで、あとはろくに観ていません。「トップ・ガン」のノリで日米開戦を描かれてもしらけてしまいます。2機のP-40(主人公コンビ)がゼロ戦5機の攻撃をかわし、逆に全機を撃ち墜とすのにもアメさんの映画だなあと苦笑させられました。また赤城を米空母で代替していたのはちょっとね。CGシーンはさすがです。もともとメカモノはCGに最適です。空中戦もすべてCGです。停泊中の戦艦群に対する雷撃、水平爆撃もすべてCGです。今のCGソフトは爆発炎や水しぶきも簡単に表現してしまいます。一体どれが実写でどれがCG映像か判別がつきません。なかでも本作の白眉はアリゾナの爆沈です。第一砲塔の弾薬が誘爆し、内圧で船体が膨れあがる様子までリアルに再現していました。


 1998年に刊行された小林よしのりの「戦争論」が若い読者に与えた影響は、結構大きなものだったのではないでしょうか。「戦争論」は文句なしの力作ですが、影響を受けるのは問題だと思います。作品中での歴史事実の検証作業は有益ですが、戦争賛美に通ずる描写が多々あります。同様の流れで、8月18日放映の「サンデープロジェクト」で衆議院議員の高市早苗氏が「満州事変以降の戦争はセキュリティの戦争」の旨の発言をしました。対して、田原総一郎氏が「下品、無知」と暴言を投げかけました。この件は、以後も何かと尾を引いているみたいです。まあ、後日譚はどうでもいいのですが、気なるのは高市氏の発言です。国会議員ともあろうものが、前の戦争は防衛上のものであるとの認識をTV放送で語るのには正気を疑います。このような暴言を前にすると、中国の執拗な歴史認識に対する内政干渉まがいの行為もやむなしです。高市氏も歴史の事実を知らないわけではないと思います。想像ですが、遺族会の票や一部の若者の間に澎湃するナショナリズムに迎合しているのではないでしょうか。こういう行為は却って日本を不利にしかねないのですがねえ。

 私も、太平洋戦争はアジアの解放を実現した面があると認めます。でも、それで正当化できるはずもないし、免責される点は一分もないと思います。当時の大陸における日本人居留民に対する迫害、虐殺、恣意的な法の適用が行き過ぎたものであるのはそのとおりです。中国に対する日本人全般の敵愾心の高まりは理由のないことではありません。ただ、反日運動が行き過ぎたものになったのにも、前段階と原因があります。1915年の対華二十一ヶ条要求は過酷なもので、中国国民の反日を決定的なものにしました。歴史の if やターニング・ポイントを語るのであれば、この二十一ヶ条要求こそが反日の転回点だったでしょう。以後、歴史は悪い方へと転がっていきました。
 このあたりのことは、イスラエルの振る舞いにも似ています。イスラエルは軍事力でパレスチナの領土を拡大しました。もともとパレスチナのアラブ人は、ユダヤ人の入植に好意的で共存を許したのです。本来ならユダヤ人はパレスチナの民に感謝すべきなのです。ところが逆にパレスチナの好意に報いるに、各国で実戦体験をもつ軍人の帰参者と近代的な兵器で軍隊を整備しました。本格的な戦争経験のないアラブに勝利し、パレスチナ人をヨルダン領に押し込めてしまったのです。このあたりのことは周知のことと思います。イスラエルは国連決議で撤退を何度も勧告されていますが、完全に無視しています。第二次大戦後のイスラエルを見ていると、戦前の日本の大陸での振る舞いと重なってしまいます。日本の場合は一応正規の条約を締結してのことではありますが、没義道な行為であったのは同様でしょう。

 歴史を語るには、その経緯すべてに触れたらいいと考えます。日中双方に問題があり、より根本的な原因と責任は日本が負っています。これを免責できる理由は皆無です。高市氏は現在も言説を改めていません。かつての左翼言論の自虐もおぞましいものですが、高市氏のごとき言説もまた日本の不幸を象徴しています。

 まあ、太平洋戦争評価でアメリカに正義面されるのは理不尽ですけどね。真珠湾攻撃を日本による侵略行為などと批判されると、それは違うだろうと突っ込みたくなります。1991年(年が明けてだったかな?)、オアフ島で大統領を招いて50周年記念式典が行われました。アメリカ・マスコミは日本の卑劣な侵略行為と繰り返しアピールしていましたが、大嘘ですね。日本はオアフ島の軍事施設を攻撃したのであって、侵略などという種類のものではないでしょう。歴史の事実として、ハワイを侵略したのは紛れもなくアメリカです。それも昔の話でなく、二十世紀初頭のことです。そもそもハワイがアメリカの州として認められたのは、1959年のことですから。まったく誰がハワイを侵略したのでしょうかねえ。

注 : アメリカのハワイ併合は歴史判断の難しい点があります。
 近代的立憲君主制国家として原住民が平和に暮らしていたのを、アメリカは地政学的要衝に位置することから介入していきます。アメリカ宣教師が疫病を持ち込んで人口の大幅減をもたらしました。次いでアメリカ資本家のプランテーションと白人の移民によって政治的イニシアティブがアメリカ人の手に渡りました。彼らは強引な併合を推進します。さらにこれを背後でサポートしたのが後の大統領のルーズベルトだったのです。このような経緯を一般のアメリカ国民は知りません。1991年の「朝まで生テレビ」で、デープ・スペクター氏は日本のハワイ侵略を言い募りました。これをたしなめたのはハワイ出身のジャーナリスト(学者だったかな)です。「実は、ハワイを侵略したのはアメリカである」と熱弁を奮ったのが印象的でした。
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五拾七  俺って馬鹿(2002/12/8)
 先週セットアップした2000Serverですが、ボツにしました。GT-9000(EPSONスキャナ)はWin2000に対応していません。知ってはいましたが、インストールに夢中でころっと忘れていました。ドライバを入れる段になって思い出しました。おまけにLP-9200PS3も未対応でした。あ〜俺って馬鹿。LP-9200PS3はMacからの出力が主なのでかまわないのですが、スキャナが使えないと意味がありません。あらためてNTServerを入れました。FMV-6300T7AはSCSIブートなので、セットアップ時にSCSIドライバを組み込まなければなりません。これに手間取りました。Adaptec AHA-3940 AUWD相当のチップがオンボードで載っていますが、NT起動ディスクのドライバは駄目で、Adaptecのサイトにあるドライバでも認識しません。仕方なくマシンを提供して頂いたYさんを訪ね、ドライバを借りてセットアップしました。富士通さんには、HPでのドライバ・サポートをもっと充実させて欲しいところです。

 さらに同僚が17インチCRTを提供してくれました。この同僚は以前使っていたCOMPAQマシンも提供してくれた神様です。私とは対照的に、日本経済に対する貢献度大です。ここ4年間に5台のパソコンを買っています。その間、モニタもすべて液晶に買い換えています。それでCRTが余ったのです。太っ腹というか、毎年のように新製品を買っています。
 PentiumB/300MHzのノートを2台(夫婦それぞれ用)、CoppermineコアのPentiumBマシンがリリースされるやすかさず購入。私が雷鳥マシンを買うや雷鳥1.2GHzを購入。そして先週、Pentium4/2.4GHzを購入。
 他にも携帯、プレステ、モデルガン、ラジコン・カーと次々にモノを買っています。そうだ、これからは彼のことを物欲番長と呼ぼうかな。つい最近、Bフレッツにも加入しました。フレッツADSLにも加入したままのはずです。まったく呆れてしまいますが、彼のような男がいるからこそ、日本経済もなんとかやっていけるのでしょうね。感謝 !!
 ちなみに、その同僚のHPは“本音のCAD・CAM”です。


 2年余ぶりに自宅のOSを再インストールしました。
 AcrobatからIEをコントロールする設定で、間違ってOKボタンを押してしまったのです。結果、セキュリティの「‥‥を表示する」が表示されなくなりました。これでは状況に応じた選択ができません。どうしてもこの解除ができず、Acrobatを再インストールしても直りません。一旦IEをダウン・グレードしてから再アップ・グレードしても直りません。Acrobatフォルダ内のOCXファイルに設定が保存されていると睨んでいますが、削除もできません。で、仕方なくOSの再インストールを余儀なくされたのです。幸いドライバやパッチをバックアップしていたので順調にかたづきました。再インストールは正解でした。起動がかなり早くなり、印刷の不調も直っています。おかげで今は幸せな気分を味わっています。
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五拾六  廃物再利用サーバ・マシン(2002/12/1)
 当方のサーバ・マシンはDTP帖に書いているとおり、COMPAQのPentium/100です。分解見本になっていたのを借りてきて、廃棄FM-Rの余りメモリを差し、秋葉原に出張したときに購入したジャンクHDDを載せています。哀れなサーバですが、ないよりはマシです。

 先週、長いつき合いの建築パース屋のYさんが不要マシンを提供してくれました。結構いいものなので、謝礼はするつもりです。
 機種はFMV-6300T7Aで、これは完全なPCワークステーションです。PentiumA300MHz/デュアル対応マザー/512MBに増設/Ultra Wide SCSI 2チャンネル 9.1GB&4.3GB/FIRE GL1000 PRO/100Base-Tという当時としては贅沢なものです。今の5万円パソコンにも劣る内容ですが、旧マシンに比べれば贅沢そのものです。さらに外付け用としてI・Oデータの SC-UPCIも増設していました。

 建築パースも今は手描きが少なくなりました。Yさんも見事なテクニックをもっていますが、CADに切り替えてからは、もう手描きは馬鹿らしいと言っています。CADソフトはFormZです。最初は、PC-98のPentium/133を導入し、あまりの遅さにFMV-6300T7Aに買い替えました。それもすぐに不満がでて、Xeon/500へ、さらにDellのPentium4マシンへと次々に買い替えています。3Dを仕事でやるとなると、マシンへの投資は世間の常識と違ってきます。スピードが仕事の効率に直接反映するからです。たとえ、最速のPCを買っても十分ではありません。下手をするとレンダリングに数時間も待たされる世界ですから。視点を変えて再描画するだけで、またまた数時間待たされるなんてこともあります。でも、そのおかげで当方はおいしい目に合えたわけです。

 今回はNTServerでなく、Windows2000Serverにしました。さすが新しいOSだけに、デバイス・ ドライバ類はすべてOSが標準でサポートしています。例によってカスタムでセットアップし、さらに不要なサービスはすべて停止させました。Macとのファイル共有もウィザード形式で一発です。ホントにあっけない。簡単すぎてつまらないくらいです。モデムやサウンド・カードは外しました。すっきりしたものです。不思議なことに富士通のHPによると、Win2000ではFIRE GL1000 PROをサポートしないとありますが、問題なく動作しています。
 これからはスキャニングが大助かりです。Photoshopにメモリをたっぷり割り当てられますから。今まではメモリが少なかったので、フィルムをずらりと並べても、連続取り込みができませんでした。もう困ることがありません。
 でも、やはりファイル・サーバにするのは無理です。かつて憧れのUltra Wide SCSI(Adaptec AHA-3940 AUWD相当)も今となっては物足りません。ATA/100を使い慣れている身にとっては、遅〜い。しかも起動時にSCSIチェックを行うため、イライラさせられます。
 セットアップ後、Macと同じアプリケーション、フォント環境を構築し、ファイルのやりとりをシームレスにできるようにしました。

 さて、余ったCOMPAQをどうするか。当方では事務室の一コーナーで、生徒が求人情報や資料収集にWebを利用できるようにしています。ここに2台のPCを置いていましたが、1台を事務処理用に引きあげました。そこで、生徒用に提供することにしました。
 Win98では重過ぎるし、NTServerでは無駄です(ライセンスがもったいない)。そこで、私の余っているNT Workstationをインストールしました。Pentium/100にWin98は重荷です。もっさりした動きでイライラさせられます。その点、NTは32ビット・ネイティブなので実にキビキビしています。モニタはやはり遊んでいた(というか誰も使おうとしない)FMV466DS3のものを繋ぎました。しょぼいモニタですが、ビデオ・カードがいいものなので結構いけました。さらに、モデムやサウンド・カードを外してすっきりさせています。COMPAQは昔からHP上でのドライバ・サポートが充実していました。以前は大半の機種の全OS用ドライバを置いていました。こういうところは他メーカーも倣って欲しいです。

 ここまで使い倒せば、COMPAQさんも喜んでくれるかな。いや、きっと嫌がるだろうな。
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五拾五  恥ずかしながら(2002/11/24)
 このホームページを開設して一年が経ちました。もっと以前から始めるつもりだったのですが、当初からある程度のボリュームを確保したかったのでグズグズしていました。私が作りたかったのは「闘わないプログラマ」や「今日の必ずトクする一言」のようなHPです。この両HPは超有名で、私なんぞが目標にするのもおこがましい限りです。目標云々はともかくとして、HPを構成するうえでいろいろ参考にさせていただきました。「闘わないプログラマ」の管理人であるLepton さんには、参考にさせていただくことについて断わりもいれています。
 「Leptonさんのページ構成や考え方を参考にさせて頂きました。パテント料は勘弁してくださいね」
 「『パテント料』は…いただけるなら拒みませんが(笑)」
 また「今日の必ずトクする一言」の“ウナギの寝床”式スタイルを採用させてもらっています。

できるだけ軽く
 ご両者ともに、とにかく無駄のない構成です。今でこそADSLが普及してダウンロードも速くなりました。しかし、56Kモデムあたりまでは、重いHPにうんざりさせられていましたから。特にデザイナーの個人HPに重いものがあります。大きな画像を使っているわけでもないのに、やたら表示に時間がかかるケースさえあります。あれってなんなのでしょうか。

スクリプトは使わない
 また、ご両者はスクリプトの類を一切使っていません。私もブラウザのセキュリティ設定でActiveX関係やJavaScript関係は無効にしています。それで表示されないページは見ないようにしています。見積りや注文、資料収集の目的で、どうしても必要なときだけ有効にしています。Javaを使わずに、一ヶ所だけCGIを使用しています。私が契約しているプロバイダはCGIをサポートしていません。そのかわり契約者に対して、外部のMediaMixで無料CGIサービスが受けられるようになっています。

判りやすく
 サイト・マップに英語は使わないことにしました。私は英語が苦手で、訪問HPの内容が分からないことがあります。いえ、日本人の日本語HPであってですよ。現実にそのようなHPが数多く存在しています。トップページすべてが英語であったり、聞き慣れない単語だとか、とりあえずクリックしてみなきゃ内容が判別できないというものです。それでドキュメントすべてが英語で書かれているなら違和感を覚えることもありません。世界を相手に発信しているのでしょうから。ところが、洒落た英語トップ・ページをクリックするとベタな日本語ページが出てきます。まるで金髪に染め、青いコンタクトを入れながら、鼻は低いわ、彫りは浅いわの似合わないファッションみたいです。この英語好きのHPというやつ、やはりデザイナーに多いと思います。デザイナーの場合、それで仕事のPRも意図しているのでしたら逆効果だと思うのですがねえ。例えば、デザイン・オフィス・エスケイさんは英語を使用していないので実に明確です。このような判りやすさを提供するのが嫌いなのでしょうか? 謎です。
 私の場合は和風HPとあって、そもそも英語は不似合いですけど。その分、漢字が多くて読みにくいとの文句を言われました。どうせいっちゅうんじゃ。

文字は大きく
 小さな文字はページの雰囲気を上品で洒落たものにしてくれます。でもさあ、そういうのって、眼の悪い人のことをこれぽっちも考慮していないんじゃないかな。私も文字をワンサイズ小さくしたい誘惑と闘いました←そんな大層なもんか。
 Macでデザインした場合は、Winでの表示確認が必須でしょう。やたら小さい文字のページを見かけますが、あれはMacでのみ確認しているんじゃないかな。

配色はうるさくしない
 これもねえ、葛藤がありました。主張する色を使いながら、なおかつハイセンスにまとめる。やってみたかったのですが、結局のところ“見やすさが一番”の結論に達しました←いちいちご大層ですみません。悪い実例を挙げれば説得力もありますが、個人が楽しみとして運営しているHPをあげつらいたくはありません。

結論
 要するに「闘わないプログラマ」や「今日の必ずトクする一言」みたいに素晴らしいHPを作るには、“内容”これがすべてでしょう。で、それが問題なんだなあ。こればっかしは、私にはどうにもならないです。

 ひとつ気になっているのは「ぬばたま秘帖」です。開設当初はファイル・リンクをしていましたが、どうにも恥ずかしくて解除しました。公開しないのに掲げたままなのは目障りでしょう。そこで一年目ということで、短期間だけ一部リンクします。短編だけを公開します。なお、印刷やテキスト・コピーができないようにPDFにします。PDFはファイルそのものに対してセキュリティをかけることができます。In Design2.0.1Jに配置してPDFに書き出しました。さすがIn Design はページレイアウト・ソフトです。きれいに文字を組んでくれます。本文組をヒラギノにしたいところですが、フォントを埋め込むとファイル・サイズが大きくなるのでMSゴシックのままです。もし読んだ方は感想をお願いします。
 まるで裸を晒すような恥ずかしさです。
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五拾四  凍土の共和国(2002/11/17)
 このコラムでは時事ネタや政治向きのネタは避けてきました。ここ8年ほど、私自身そういう類の問題に興味を失くしていて、勉強していないのが一番の理由です。それ以前はいわゆる国際関係学とかいうものに関心があり、10数年にわたって世界中の時事ネタをウォッチングしていました。近年はさっぱり無縁です。

 最近の旬は拉致問題でしょう。昔の私であれば夢中になったでしょうが、とりたてて興味も湧きません。一時期は北朝鮮ネタが面白くて仕方なかったものですが。きっとハマリすぎて飽きてしまったのでしょう。本棚を眺めるとあるわ、あるわ。
 「凍土の共和国」金元祚 亜紀書房
 「どん底の共和国」李佑泓 亜紀書房
 「暗愚の共和国」李佑泓 亜紀書房
 「金日成の野望」(上中下)柴田穂 サンケイ出版
 「ゴジラが見た北朝鮮」薩摩剣八郎 ネスコ
 「謎の北朝鮮」柴田穂 光文社
 「北朝鮮『恨』の核戦略」佐藤勝巳 光文社
 「お笑い北朝鮮」伊藤輝夫 コスモの本

 韓国ネタや中国ネタも興味深いですが、北朝鮮の夜郎自大っぷりは別格です。
 「お笑い北朝鮮」はテリー伊藤さんらしく、最初っから面白ネタに走っています。
 対して「どん底の共和国」「暗愚の共和国」は、帰国同胞を身内に持つ在日朝鮮人が著者です。これは「お笑い北朝鮮」を上回る面白ネタ満載です。著者は共和国の現状をつぶさに観察することによって、その病根の深さを心から憂えています。でありながら、一級のギャグ本に仕上がっています。こんなふうに言うのは不謹慎ですが、現状をありのまま伝えるだけで冗談のような話になってしまうのです。この本が未だ出版されているかどうかは知りませんが、もし興味があれば読んでください。ここで内容を紹介したいところですが、著作権を尊重します。
 「金日成の野望」は柴田さん入魂の大冊です。20年ほど前、産経新聞に504回連載した「脅威の構造−朝鮮半島」を三冊にまとめたものです。金日成がソ連をバックにライバルを粛清しながらいかに権力を手にしたかに始まり、金正日への権力委譲まであらゆる事象を網羅しています。連載当時にも大反響を呼んだそうです。私は産経新聞をとっていないので、友人から熱心に読むのを薦められました。白眉は下巻「望郷の日本人妻」です。この巻は涙なくして読めません。夫の帰国に同行した日本人妻6,000人の血涙流るる物語です。彼女らは未だに日本国籍を手放していません。日本国籍だけが、自分たちをいずれ地獄から救い出してくれる唯一の頼みだと信じているからです。


 今回の拉致被害者の身柄はもう大丈夫でしょう。でも、日本人妻たちの確保の道は未だ見えません。マスコミの過熱報道を見るにつけ、共和国に目を向けるなら数10年来の課題である日本人妻たちの帰国に触れて欲しいところです。


 金丸訪朝団の件でも面白いネタがありましたねえ。NHKのNC9時の取材では、平壌の街の夜景がTVで流れました。カメラは固定で一ヶ所だけをひたすら映し続け、しかもアップのみでした。電力不足の北朝鮮にとって、精一杯の局所ライトアップだったのでしょう。
 別の番組ではレコード店に取材班が入り、店員がヒット曲をアピールする場面を紹介しました。取材班が「そのレコードを店内設置のプレーヤーで聞かせてくれ」とリクエストしたために悲劇が起こりました。多分、店員は生まれて初めてレコード・プレーヤーを触るのでしょう。どうしていいか分からないまま、むんずとアームを掴んでレコード盤に置きました。見てて可哀想になりました。彼女にしてみれば、ヘマをすれば懲罰ものでしょう。生きた心地もなかったのではないでしょうか。作り笑顔を浮かべてはいましたが、明らかにパニクっていました。

 「週刊ポスト」の取材班もいい仕事をしました。訪朝団を港で迎えたのは、質素な白シャツの一団の熱狂的歓迎でした。ポストのカメラマンはその一団を望遠レンズで捉えました。肉眼では見えない距離とあって、彼らは油断していたのでしょう。一同は完全にふて腐れていました。いずれも、忌々しそうな表情を隠そうともしていませんでした。今考えると、あの号は永久保存しておくべきでした。残念。


 とりとめのないことを書いています。北朝鮮については語りたいことがありすぎてまとめられません。最後に私の意見を述べます。経済援助が政治課題に上っていますが、果たして今の体制に援助してよいものでしょうか。近い将来、必ずや現体制崩壊の秋はくるでしょう。そのとき、日本の経済援助は逆に批判の対象になる危惧があります。金体制延命に手を貸した非道な国家であると。あるいは北の同胞を苦しめた敵であると。そして、すでに行った援助をご破算にして、あらためて新体制への援助を要求されるのではないでしょうか。中国との国交回復における蹉跌を繰返してはなりません。あのとき、きちんと戦争被害補償を行うべきでした。当時高校生であった私でさえ、中国の賠償放棄は必ずや将来に禍根を残すと確信をもちました。そして国交回復後、現在に至るまで終わりのない経済援助を強いられています。
 植民地経営が賠償の対象になるという話には違和感を覚えます。もし迷惑料の趣旨で払うのであれば、その旨を明確にして払うべきです。曖昧な経済援助は二度とやらないことです。
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五拾参  Macデータ(2002/11/10)
 私は某地方公共団体職員です。正確に言うと行政職を務めています。前回書いたように、今月から全庁でWindowsベースの文書管理システムが稼動を始めました。以前はMacを業務に使用している部署も一部ありました。Mac版MS Officeで事務処理を行っていました。そのような部署でもデータの融通性の問題から、Macは徐々にフェードアウトしていきました。ちなみに当方では、不要Macを貰って再活用していました。今ではMacを置いている部署はなく、当然のことMacデータは扱えません。それで困ることはありませんが、唯一デザインを外注したケースで必要になることがあります。外部デザイナーが作成したデータを読めないのです。


 具体例を挙げると‥‥
 ある仕事を立ち上げる、あるいはキャンペーンを実施する場合、一般への周知・啓発や業務の属性を表示する目的で、シンボル・マーク/ロゴタイプ/キャラクタ/キャッチなどを、公募あるいはデザイナーに外注します。公募した場合でも、プロにリ・デザインを依頼します。他にも、パンフレットやリーフレットなど多くの印刷物が外注されます(予算がない場合は、私もよく頼まれます。私なら内部の人間なので、ロハで済むというわけです。大迷惑ですけど)
 ここで問題が起こります。デザイナーはMacでデザインします。作成されたデータは当該部署では開けません。デザインを煮詰める検討段階では、デザイナーがプリントアウトしたものが利用されます。でも、後々Webに展開したり、文書(Word)に挿入したりができないのです。

 そんなとき当方のことを知っている部署は、MacデータのWinデータへのコンバートを依頼してきます(大半のデータはIllustratorで作成されています)。そこで、依頼部署がWin版Illustratorを持っている場合は、Win版Illustratorに変換します。まあ、これは稀ですけど。まず、プロ用グラフィック・ソフトを所持していることはありません。そこでPDFファイルに書き出して渡すことが多いのです。でもさあ、本当はこのようなことは納品デザイナーがやるべきことなのです。しかもふざけたことに、Macフォーマット(HFS)のMOで納品するという念の入れようです。MacサイドのMOは、付属ツール類でFATフォーマットに対応できます。何故、対応しないのか? 私も業界とはつき合いが広いのですが、大半のデザイナーはWindowsについて本当に無知です。たしかにWindows95以前であれば、Windowsは印刷・出版に遠い存在でした。でもねえ、今やWindowsを知らないんじゃ仕事に差し支えると思うのですがねえ。そもそも、あらかじめPDFに変換して添付しておけば、なにも困ることはないのです。

 私がPDFに変換するのでは完全なデータが作成できないのです。問題は二点あります。
 一点はフォントです。当方はヒラギノの角ゴ/明朝/行書とダイナフォントを用意しています。ところがそれ以外にも、モリサワやフォントワークスがよく使用されています。こうなるとお手上げです。画像やべージェ・イメージであれば問題ありませんが、文字がテキストのまま(アウトライン化していない)だと、当方で開くと文字の置換が行われてしまいます。時間さえあれば印刷物を参照して、置き換えフォントで元原稿に近似したレイアウトを再現します。でも完全ではありませんし、著作物の同一性保持の原則に抵触しますから、できればやりたくないことです。現行Acrobatはフォントの埋め込みが可能ですから、デザイナー・サイドでPDFにすれば何の問題もないのにねえ。

 PDFに関しては、どうもMacデザイナーは全般的に弱いです。もともとこの業界はMacデータが問題なく流通できることもあって、PDFへの関心が薄いです。その点、Windowsユーザは昔から苦労が多く、PDFの恩恵が身に沁みています。また、ビジネス現場でもPDFが広く活用されています。PDF MLに参加すれば、そのあたりの事情がよく判ります。

 もう一点、色再現性の問題があります。色の件はとにかく難しい問題を抱えています。PDFに変換する場合でも、一番問題が少ないのはデータを作成した機器側で変換するのがベストでしょう。私もやるたびに頭を抱えます。デザイナーが参照用にプリントアウトしたものと、私が開いたドキュメントの色は必ず異なっています。同じになることは絶対にありません。さてどうするか? 見た目が違っていても、CMYK値を揃えてよしとするか、印刷物に合わせて補正するか悩みます。これは結論の出ない話です。デザイナーの環境、私の環境、担当部署の環境、ユーザの環境すべてが異なっています。どこに合わせても、必ず別の部分に齟齬をきたします。少なくともデザイナー側がPDFを作成すれば「これが作者の意図したものである」と胸を張って言えるでしょう。


 昨日も、介護をテーマにしたシンボル・マークの画像化を頼まれました。マークをホームページに載せたいという要望からです。デザイナーがIllustratorで作成したデータを開いて頭を抱えました。多分、このデザイナーはIllstrator 5.5を使っているのでしょう。Ver 5.5 はカラー・マネージメントに対応していません。ために、CMYK値をカラー・チャートで確認するのが必須です。ところがこのデザイナーはモニタで色を検討したのでしょう。プリント・サンプルと本来のCMYK値が表現する色とがかけ離れています。カラーチャートを参照すべきか(当方の画面表示はこれに近い)、プリント・サンプルを参照すべきか悩みました。結局、デザイナーの意図を尊重しました。EPSファイルをPhotoshopでラスタライズした後、色を補正しました。これをGIFで保存して渡しました。

 結論:デザイナーさんたち、Windowsユーザから仕事を請けたなら、データはWindowsでも読めるようにしてあげましょう。Acrobatを利用すれば、どうってこともありませんから。
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五拾弐  一人一台パソコン(2002/11/3)
 私の所属する組織でも、やっとというか遅まきながらというか、職員全員にパソコンが配布されました。本庁では5年前から実現していましたが、出先機関への手当ては遅れに遅れていました。また全庁会計システムもWindows95ベースのものがすでに稼動していました。このシステムの基幹部分は富士通が担当しています。本庁職員への配布ノートパソコンは入札で日立が落としましたが、今回の出先へのノートは富士通のBIBLOでWindows XP Professionalです。ちなみにCeleronの1066MHz/256MBです。

 全職員に行き渡るのと同時に、行政文書を一括管理するグループウェアも立ち上がりました。IEベースのアプリケーションで、結構実績のあるソフトの由です。これで起案/決済/閲覧がパソコン上ですべて可能になりました。他にもメール/掲示板/参照法規集など多彩な機能を提供してくれます。ここ数ヶ月かけて職員の研修も行われました。でも、年配の方にはきつい話でしょうね。以前、本庁勤務職員で、パソコンで仕事は無理だと辞めた方もいるそうです。確かに便利だけど、ややこしいです。慣れるまでは戸惑うことの連続でしょう。いずれにしても、この11月初頭から稼動を始めました。

 先月、私の勤務する事務所にLAN敷設工事が行われました。事務所までは光ファイバーで結ばれています。既存のLANとは独立したイントラネットです。新しいシステムは厳しいガイドラインが適用されています。いえ、ごく普通の運用基準なのでしょうね。そのため、配布パソコンだけでは仕事になりません。大半の職員は従前のモノをそのまま同時利用しています。ケーブル敷設後、富士通の下請け会社がパソコンの設定にやって来て、丸一日がかりで25台の設定を行いました。このSE会社は、現在当校CAD/CAM科のサポートも請け負っています。知らない仲でもないので少し話を聞くと(じっくり聞きたかったけど、忙しそうにしてたので気がひけた)、導入グループウェアはWindowsアプリなので、サーバもAdvanced Server じゃないかとのことでした。なにぶん担当SEも端末の設定だけしか関わっていないので、基幹システムの構成は判らないとのことでした。
 使用ガイドラインは次のようなものです。
  • アプリケーションのインストールは許可しない:CD-ROMドライブは付属していません。そもそも一般職員には管理者権限がありませんから無理ですけど。どうしても職務上必要があれば、管理者に申請してインストールしてもらう手順です。導入による効果の事前評価までは問われません。
  • 使用可能アプリケーションはOffice XP/IE/Acrobat Reader/IBM HPビルダーのみ:これじゃあ、事務文書処理とメール以外に用はないなあ。
  • 職場の規模に応じてレーザー・プリンタを設置:当方には二台設置されました。ご時世から、両面印刷や印刷済み用紙の使用が励行されています。
  • 設置機器以外の機器をネットワークに繋ぐのは絶対不可:これは当然でしょうね。でも切り離した状態でならいいんじゃない。従来のLANではファイルサーバを立てていましたが、新システムには用意されていません。文書管理システム上のデータはグループウェアがデータ・ベース化してくれます。でも、個人作成データはローカルHDD上で管理せよとのことです。旧環境で作成したデータの移行にはFDを使用せよとのことですが、FDに入りきらないデータもあるし、私なんか膨大ですもん。すでに空き時間をみつけてFDでシコシココピーしている職員もいます。私はやってられません。クロスケーブルで個人ノートと繋いで一気に‥‥
  • OSやアプリケーションの設定変更は不可:これも当然でしょう。でも、デスクトップのデザインや視覚効果などのインターフェイスをカスタマイズするのはOKみたいです。許可するとはどこにも書いていませんが、マルチユーザなら禁止する理由もないし、端末設定SEもいいんじゃないと宣っていました。私は速攻でクラシック・スタイルに戻し、視覚効果の大半を外しました。う〜ん、速い。
  • 内部メールシステムのログインには、ユーザIDに職員番号、パスワードは初期設定でIDに同じ。ログイン後、任意のパスワードに変更:しかし、この手続きを強制としていません。これは問題じゃないかなあ。職員番号は開示されています。そのうち、他人のメールを盗み見るスキャンダルが起こるかも。
  • 添付文書は、Word、Exel、PDF、TEXTのみ:ジャスト・システムが可哀想。未だに馴染んだ一太郎を愛用している方が多いのですが、こうなるともう駄目ですね。当方の組織からは完璧に駆逐されるでしょう。
  • 端末ログインは機器ID名で:おいおい、個別IDをラベルにしてノートに貼付してるじゃないの。これじゃ業務ファイルの機密なんて守れないじゃないのさあ。他人の席のノートを勝手に使ってると怪しまれるけど、残業して他に人がいない隙に‥‥あり得るけどねえ。
  • Web検索など、インターネット利用は大幅な制限:プロキシが認証許可して利用できます。きつい制限をかけているので利用価値は少ないです。これじゃあ仕事にならんぞ、ゴルァ。
  • 文書管理システムの目指す点は、文書の共有、決済/閲覧の電子化、紙の節約である:このうちの省資源については効果が疑わしいです。結局、添付ファイルを印刷する人間が多く、むしろ紙が余計に費消されています。ところでこのシステムの面白いのは、印刷命令を出すと自動的にPDFに変換して出力します。これは上手いアイデアだと思います。
 杞憂すべき点もありますが、問題が起こればすぐに対処することでしょう。
 MS Officeの評価は巷間散々な言われようですね。私のように単純な文書作成や単純な表組(表計算)に使う程度であればなにも問題は起きません。私がWordで気にくわないのは、画像解像度を任意にコントロールできない点と作表に細かい融通が利かない点です。表については、表そのものをオブジェクトとしてコントロールできるのは優れていると思います。
 凝ったレイアウトの文書を作成するときは専用レイアウトソフトを使います。ですからWord一本で文書を作成している方のような不満を持つことはありません。そもそも最初から諦めていますから。
 で、Word最大の欠点として、ドキュメントの座標指定をプリンタ・ドライバに依存する問題があります(Wordも2002からプリンタ・ドライバに依存しないとの話も聞いていますが、確認していません)。これについては、全庁でプリンタ機種を統一することによってクリアしています。これまでは文書を送り先側で開くと、レイアウト崩れ(改行位置、文字リフロー)が日常的に起こっていました。もう心配ありません。アプリケーションの欠点を力技で解決しています。でもさあ、いずれ問題が再燃する懸念もあるけどねえ。設置プリンタが壊れて機器入替えをした場合、現行機種生産中止→新型機種導入→ドライバ新設計、でレイアウト崩れがおこる可能性があります。プリンタ・ドライバが同一で動けば問題ありませんけど。ちなみにリコー製です。


 週末、早速主管課から重要な依頼文書がメールで送られてきました。やはりこまめにチェックする必要があります。私の職務内容からすると、メールチェックと決済文書処理以外に配布パソコンは使い道がありません。私が仕事で使うソフトはIllustrator、Photoshop、In Design(PageMaker)、Acrobatです。仕方なく、私の机上には2台のノート・パソコンが並べてあります。あ〜邪魔だ。
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五拾壱  ご当地獅子舞(2002/10/27)
 二週間前、当地の秋祭りはすべて終了しました。無信心な私も、祭りの期間中だけは氏子としての使命感にかられたりします。今は現役を退いていますが、かつて獅子組のメンバーでした。今年は私の地域の当番ではありませんが、家でじっとしていられずに獅子舞を見学しました。

 当地の祭りは二段階で行われます。

 小祭り−3つの大字ごとにある神社が執り行う。私はそのうちの王子神社の氏子である。この王子神社を3つの小字グループが持ち回りで祭礼を担当する。

 大祭り−3つの神社を統べる八坂神社が執り行う。

今年、10/14の大祭りの獅子舞奉納風景。獅子6頭の競演。本殿正面前の席は晴れ舞台です。私も一度やりました。

 祭りのやり方は地域によっていろいろでしょう。当地では、春と秋に執り行われます。祭礼の受け持ちには、頭屋と獅子当元(とうもと)の二つがあります。つまり、3年にニ度は役が当たることになります。頭屋が当たると、小字(今でいう自治会)の氏子全員で協力します。ぬばたま家は既に両役ともに果たしているので、私の存命中は頭屋が割り当てられることはありません。獅子当元が当たった場合は、獅子組が協力します。

 さて、大変なのは獅子舞です。獅子舞を完遂するには、最低でも獅子遣いが8名と師匠役(世話役)が数名必要です。毎回、獅子遣い集めに四苦八苦します。昔は村人に氏子としての責務の自覚がありましたが、最近の若者にそんな理屈は通用しません。「なんで、俺がそんなことをしなけりゃならないんだ。絶対参加しない」の一言で拒否されます。無理強いできることではないし、きついもの言いをしようものなら「そんなら、氏子を辞める」となります。ところがよくしたもので、獅子舞には魔力があります。獅子にしろ、神輿にしろ、奴にしろ、浦安の舞にしろ、祭りの奉納ごとにはすべて共通の魅力があります。経験者には分かってもらえることでしょう。祭りのハレがもたらす興奮と快感は例えようがありません。嫌々参加した連中も本祭りを体験すると、獅子の魅力に取り憑かれてしまいます。かく言う私もそうでした。ガキの頃から獅子舞の大変さは承知していて、嫌で嫌でたまらなかったものです。それが体験後は、秋になって鉦太鼓の音が聞こえてくると身体がむずむずするようになりました。

これは隣の小字グループの獅子。隣とあって、当方の演舞と酷似しています。

 私が初めて獅子遣いを勤めたのは26歳のことでした。その3年前も当たりだったのですが、内部のゴタゴタで勤められませんでした。獅子をやるとなると、自治会内でいろいろ揉め事が起こります(息子を参加させたくない馬鹿親が、わざと揉めさせて話をぶち壊そうとしたりね)。最初の獅子は辛かったです。なにせ、獅子舞に使う筋肉は普段使わないものばかりです。9月初めから練習を始めますが、新人のときは祭りが終わるまでの一ヶ月間筋肉がパンパンに張りどおしでした。一度マッサージを受けましたが、マッサージ師が驚いていました。こんな凝り具合は見たことないと。肩と脚を揉んでもらいましたが、ほぐれた筋肉も代金の支払いをする頃には元のカチカチに戻っていました。

 小祭りの前日、村遣いといって、80軒ほどの氏子の家すべてを回ります(さらに宮総代や希望者の家も加わえます)。二チームで回りますが、早朝5時から夜の9時までかかります(それでも全部は無理です。獅子組関係者の家をあらかじめ済ませておきます)。もう、体力の限界などという次元ではありません。夕方頃には腕は上がらず、脚は前に出ず、それでも無様な獅子は遣えません。私なんか、胴幕(ゆたん−着物のこと)の中で涙をポロポロ流しながら遣っていました。それがどういう涙なのか自分でもよく判りません。辛いのか、情けないのか、口惜しいのか‥‥とにかく、もう二度とやりたくないです。っていうか、この年ではやろうにもできませんけどね。

金毘羅保存獅子に最も近いスタイルを維持している毛獅子。かつて私の義兄が、ここの獅子の名手でした。

 当地の獅子には“曲”“五段”の二通りの遣い方があります。それが長年月の間に各獅子組ごとに変化して、かなりの違いを見せています。一度、小祭りに金毘羅保存獅子を招待したことがありますが、それを見て実感しました。我が獅子組はオリジナルとは別物に変貌していました。対して、上の黒い毛獅子はよく似ています。さすが似ているだけあって見事なものです。おかげで県内各所の祭りにゲストで招かれています。

 日本全国には、あらゆる獅子が存在しています。当方の獅子は前獅子/後獅子の二人による演舞です。前は頭を振り、後ろは胴幕を支えます。一人で遣い切るのは体力的に不可能なので、途中で“寝獅子”を入れて交代します。通常15〜20分の演舞ですが、本番の奉納では1時間に及びます。本来、こんなに長くする必要はありません(というか、獅子組以外の祭礼関係者にとっては大迷惑なのですが)。よその獅子組より早く終わるのを恥としているのです。本番前の師匠連中の説教−他より先に終わったら、承知せえへんぞ−無茶なんだよなあ。上の毛獅子なんか、胴幕に毛を植えているので耐えがたい重さです。後獅子に回った者は、30分間腕で差し上げ続けなければいけません。苦行以外の何ものでもありません。

 獅子遣いを卒業すると師匠に昇格し、その師匠役も勤めあげると大お師匠(名誉役)に祭り上げられます。私はすでに獅子組そのものを卒業しています。大お師匠ともなると顔役です。練習には参加せず、本番の奉納にひょっこり顔を出して、ちゃっかり鉦を叩いたりしました。こういうのは顰蹙ものですが、大お師匠ともなれば文句を言わせません。

 獅子については面白いエピソード満載なのですが、祭りに興味のある方は少ないんじゃないかと思いますのでやめときます。
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五拾   イニシエーション/4(2002/10/20)
 今回で宗教ネタは締めくくりにします。新藤冬樹の「カリスマ」に触発されて書き始めましたが、随分長くなってしまいました。
 タイトルを“イニシエーション”としたのは、宗教ネタ向けのためです。本来、イニシエーションは宗教用語で、人格の変容プロセスを指しています。宗教においては、通過すべき関門があります。例えば、プロテスタントにおける洗礼などが代表でしょう。仏教における出家は頭を剃ることによって、外形さえ新たにして変容を明確にします。

 ちなみに、ぬばたま家の帰依する一向宗(浄土真宗)では、剃髪の必要はありません。妻帯もかまわないし、戒律も特にないんじゃないかと思われます。そのうえ世襲制で、修行を問われることもありません。私は一向宗の緩やかさが好きです。人によっては、有難味がないと嫌うこともあるでしょう。
 対して、禅宗系や密教系、あるいは日蓮宗系などは厳しい修行を課しています。日蓮宗では、加持祈祷を行う資格は百日行を修めたものだけに限られます。この荒行は半端じゃないです。オウムの事件が世上を賑わせたとき、オウムの修行の厳しさを紹介していましたけど、百日行の厳しさはあんなもんじゃないです。私だったら一日も保ちません。きっと、バッくれるでしょう。真冬に水を一日七回被ります。でも、修行僧はこれが楽だったと言います。なにせ、それ以外はひたすら正座して読経しなければならないのですから。睡眠時間は3時間程度で、食事は朝と夕に水っぽい粥と味噌汁のみです。当然、声帯は潰れるわ、下肢は傷めるわ、痩せさらばえるわで過酷この上ないもののようです。想像ですが、これほどの厳しい修行をやり遂げれば、きっと自分の裡で高まるものを実感できるのではないでしょうか。これなんかは、実に明確なイニシエーションでしょう。

 以前、NHKで禅宗の修行を見たことがあります。寺の後継ぎ(中学を出たばかりの少年)が出家し、修行を重ねる日々を記録したドキュメンタリーです。本山を一人で訪ねた少年は、まだガキですからまともな挨拶もできません。すると監督僧は、やる気がないなら帰れと締め出します。真冬の越前は身を切る寒気です。堂外で、素足に薄物を纏っただけの少年は帰ることもままならず、手足を擦り合わせて震えます。数時間後、やっと部屋に入ることを許されます。この厳しい対応も、イニシエーション・プロセスの大切な初段階なのでしょう。それまでの娑婆生活との別離を自覚させることを目的としているみたいです。


 ところで、イニシエーションは宗教学上だけに使われる言葉なのでしょうか。私は、いまや一般的な慣用語になっていると考えています。宗教の場だけでなく、同様の変容プロセスはあらゆるところに応用されていると思うのですが。
 最近はあまり聞かなくなりましたが、かつて合宿形式の新人研修を取り入れる企業がありましたね。学生気分を抜き取って、逞しい企業戦士を育成するとかなんとか言って。ハードなメニューで社員の判断力を鈍らせ、そこへ都合のよい新しい考え方や方針を刷り込む手法です。街頭で大声を出させたり、夜遅くまで徹底的な自己反省を追求したりします。そうすることによって自意識や自尊心を破壊して、一旦自我を空っぽにします。この状態は刷り込みをする場合の基本的な準備作業です。企業研修にせよ、自己啓発セミナーにせよ、やってることは新興宗教と同じです。違うのは、信仰の対象たる本尊を用意しているかどうかくらいじゃないでしょうか。

 そういえば、連合赤軍も自己批判の総括テクニックを得意としていました。浅間山荘事件のメンバーは、山中で仲間を殺すところまでいきましたね。とにかくロクなもんじゃないです。さらに遡ると、ソ連はシベリア抑留捕虜に対して同様の手法を実施しています。資本主義、階級社会に染まった自身を見つめさせ、徹底的に自己批判を迫ります。逆らうことはできません。従わなければ帰国できない惧れがありますから。さらに念を入れ、面従腹背を排除するため、密告制を導入していました。こうなると仲間も信用できません。ひたすら口を噤み、マルクス主義への帰依を演じます。
 中国における文化大革命でも、やはり同様の手法が採られ、自己批判を迫られました。文化大革命では仮に従っても許されず、多くの人々が殺されました。一説には数千万人とも言われています。
 もっと遡って中華民国時代、蒋介石は共産党の浸透に対して、囲剿作戦を実施して排除しようと試みました。そのときの周恩来らによる赤化手法は、今日の新興宗教の洗脳プロセスそのまんまです。貧しい農民たちを集め(逆らうと殺される)、共産主義の素晴らしさを啓蒙する映画会を開催します。そして飴やお菓子を一人一人にプレゼントする巧妙さです。当時の辺境の農民の貧しさというのは半端じゃないですから、この程度のことでも感激したのです。

 このように自己の変容を迫る手法は、あまりぞっとしません。しかし、否定できるものでもありません。振り返ってみると、私自身、他人に対して変革を迫っていることがあります。「こんなことでは、社会人としてやっていけないぞ」とか、「そんないいかげんな考えが社会で通用すると思っているのか」などとね。実はこれも同じ理屈なんだなあ。えてして、それが本人のためだからいいんじゃないかと正当化しますが、難しいところです。新興宗教の洗脳担当者だって、それが被勧誘者のためだと真剣に信じ込んでいることでしょう。突き詰めて考えると、難しい問題を孕んでいると思います。

 軍隊でも、やはりイニシエーションが行われます。しかし、否定できるでしょうか。別の価値観を刷り込まれなければ、とても人を殺せるものではないでしょう。刑務所では自由と行動を大幅に制限されます。当然、別の価値観によってのみ生きられる場所でしょう。こういう例はあらゆるところに当てはまります。仮令誰であっても、自分自身は自由に発想し、自由に生きていると信じていても、実はある固有の世界に生きるに相応しく、自分自身を規定していることでしょう。また長年月の間に、そのように変容(適応)してきているのではないでしょうか。

 何を言ってるか自分でもよく判らなくなってきました。今回は、結論じみたことは書けません。
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四拾九  イニシエーション/3(2002/10/15)
 前回までは、統一協会との係わりについて書きました。今回はそれ以外の新興宗教との係わりについて書きます。宗教ネタにとっととけりをつけたいので、日を空けずアップします。


 私の伯従母(これってどう読めばいいのかな)が霊友会にどっぷりでして、私もよく誘われました。なにぶん身内ですから強引な勧誘ではありません。
「いろんな問題を抱えているのは、前世の因縁の為せることなのよ。因縁を断ち切るには、ひたすらお縋りしなければならないのよ」
 お祖母さんが亡くなったときの葬儀は見ものでした。読経を二段階でやりました。最初は、家の宗旨である一向宗の「正信偈」「仏説阿弥陀経」「無量寿経」をやり、旦那寺の僧が帰った後、会員が一堂に会して「法華経」を輪読しました。いやあ、霊友会の読経は見事です。輪読という呼称が適当かどうかは知りませんが、まるで合唱隊の趣でした。伯従母さんは地区の支部長を担当しています。盆暮れには必ず挨拶に伺いますが、たまに会員と顔を合わせることがあります。会員の中には小学校の同級生がいたり、昔つき合っていた女性がいたりで、そのような場合は早々に退散します。冷や汗ものですから。


 創価学会の会員は、どなたの周囲にも大勢いることと思います。私の場合、教え子で二人いました。選挙があると、住民票を移していました。まったくご苦労なことです。公明党に投票してくれと電話をかけてくるのだけは勘弁して欲しいです。
 内藤国夫さんの名前なんか出そうものなら、シカトされました。マスコミなどで散々叩かれている諸問題をぶつけると、「池田先生が困難に遭われているのは試練なのです。私たちは団結して、この試練に立ち向かっていかなければならないのです」などと返ってきました。
 その教え子と10数年ぶりに会ったときのことです。
「まだ学会に入ってるの」
「目が醒めましたあ」
 屈託なく笑って応えました。
 同僚にも会員がひとりいますが、この男は無信心です。
「ひょっとして、仏壇に鶴のマークがあるの(笑 」
「へえ、見事にあります(笑 」


 大きな声では言えませんが‥‥って、書くとまずいんだけどなあ。昔、黒住教の本部で巫女を勤めていた女性とつき合ったことがあります。
 さすが、本職です。祝詞なんかすらすらでした。
「高天原に神留り坐す、皇親神漏岐、神漏美の命以ちて八百万神等を神集へに集へ賜ひ神議りに‥‥」


 学生時代、後輩に牧師の息子がいました。将来は聖職(牧師)に就くと、幼少時より定めていたそうです。正真正銘のキリスト教徒です。人生を信仰に捧げているとあって、戒律に縛られた生活を送っていました。よく言えば真面目、悪く言えば朴念仁です。私なんか、悪魔と呼ばれました。プレイボーイを見ることさえ許せなかったみたいです。私がヌードの載った雑誌を置きっ放しにしていると、席を外した隙にごみ箱に捨てられていました。
 悪魔呼ばわりされたのは嫉妬からだと想像されます。私が当時つき合っていた女性に、どうやら横恋慕していたみたいです。そのときの彼女がちくってくれました。
「ぬばたまさんとつき合うのは止しなさい。あの人には魔が憑いているのです」
 懇々と説諭されたそうです。そうか、俺には魔が憑いているのか。まあ、いいんですけどね。別に気にしていませんから。どうせ、私は悪魔だよ。

 その彼女が教会のクリスマスの儀式に招待され、なんか怖いので一緒に参加してと頼まれました。参列して感心しました。信徒たちは、本当に敬虔という言葉がピッタリでした。賛美歌斉唱、牧師(父親ね)の説教、寸劇と盛りだくさんのプログラムでした。特に劇は、主の奇跡を顕現するというものでした。主人公は当然息子(彼ね)が演じていました。奇跡の瞬間、会場の参列者全員が声を合わせて祈りを捧げ、神の振る舞いに感謝を捧げました。瞬間的に照明をスポットライトに切り替えたり、効果音を使ったりの演出も決まっており、彼女は感動のあまり涙を流していました。クリスマスに女を口説くなら、夜景を眺めるより、教会に連れて行くのが正解かもね。


 前々回、私の友人が原理運動の勧誘に対して、生長の家を騙って議論した経緯を書きました。生長の家については面白い話があります。
 私が大学一年時、同じ美術の課程に五年生がいました(早い話が留年です)。このH先輩が、実はとんでもない大物だったのです。H先輩はもともと神職の家の出身で、早くから神道に帰依していました。そして大学で「生長の家」と「日本文化研究会」の二つのサークルを発足させたのです。当時の大学自治会は民青(民主青年同盟−共産党系)が牛耳っていました。その中での発進とあって、随分注目されたようです。というか、敵対視されていました。私や友人たちは、右翼は嫌いですが、共産主義はもっと嫌いでした。そのうえ先輩、後輩の関係ですから、自然にお近づきになりました(別に、生長の家に入信したのではありません)。
 サークルの面々と美術課程の面々は、H先輩を仲立ちにして酒を酌み交わしました(女性は抜きでね)。そして意気投合し、以後行動を共にするようになりました。

 昭和50年度の日教組全国集会は神戸で開催されました。当日のニュースによると、右翼が会場に乱入して大混乱になったそうです。この日、H先輩は学校を休んでいました。翌日もしやと訊ねると、日本青年行動隊の一員として、サークルのメンバー全員は乱入に参加していたそうです。なかでもKさんは剣道部の主将であり、超保守主義者でした。でも、とってもいい人で気が合いました。このKさんには面白い逸話があります。街頭アジテーションを行ったとき、演説の最後にアドリブで「それでは歌を歌います」と“愛国の花”を熱唱したそうです。
  真白き富士のけだかさを
  こころの強い楯として
  御国につくす女(おみな)等は
  輝く御代の山ざくら
  地に咲く匂い国の花
 仲間たちも、突然のことに引いてしまい、恥ずかしさに顔を上げられなかったそうです。

 ところで、誤解しないで下さい。彼らは保守主義というべきで、決して巷間いうところの右翼ではありません。現に、右翼の街宣車が彼らに対して「日本青年行動隊の皆様、ご苦労様です」と挨拶しても、そっぽを向いて無視します。

 私が2年の春、日本文化研究所の副所長を大学に招いて講演会を開催しました。今なら、それなりに人も集まるでしょう。でも、当時は保守とか伝統とかはまったく流行らなかったのです。特に大学生にはアピールしませんでした。聴衆が集まらないと具合が悪いので、我々美術の面々も奔走しました。結局、身内以外には誰一人参加しませんでした。
 この講演会は、もともと内々の集まり前提だったのでいいとして、秋に行った講演会は焦りました。講師としてK山さんという、保守論壇の大物を招くことになりました。K山さんはN崎大学生時代、自治会を民青から奪還した大物なのです。講演会場も前回の小教室でなく大教室を確保しました。でかい垂れ幕も準備し、万端整えました。そんな中、数日前から学内に不穏な空気が流れ始めました。民青の連中も講演を聴きに来るとか、殴り込みがあるとかの噂です。なんとしてもK山さんの身の安全を確保しなければなりません。そこで、当日は私が入り口に最も近い席に座り、乱入者を取り押さえる、あるいは排除する役目を受け持ちました。結局、民青関係者は現れず、乱入もなく平穏に終わりました。私はホッとすると同時に拍子抜けしました。

 H先輩といい、会員たちはいい人ばかりでした。生長の家に勧誘されたこともなく、思想を押しつけられたこともありません。宗教関係者も皆、彼らのようであればいいのですがねえ。
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四拾八  イニシエーション/2(2002/10/13)
 この日は平日でしたが、午後から休暇をとって落ち合いました。早い時間から会ったのは、じっくり話がしたかったためです。

 統一協会への入信には驚かされたぜ、の台詞をとっかかりにいろいろ話をしました。説教じみたことは言わないことにしました。普通の説得は無駄ですから。
「国際勝共連合も系列やろう。あそこが出版しとる『知識』は、俺も愛読しとんやぜ」
 従兄弟はパッと顔を輝かせました。まずは愛想を振りまき、機嫌をとることにします。原理に対する反感を剥き出しにしては絶対に心を開きませんし、こちらの言葉に耳を藉しませんから。
「あれは、とても真面目な雑誌でしょう。きちんとした言論誌も出版しているのに、世間の人は知らないで、マスコミの面白おかしい記事ばかりに飛びついて誤解しているんですよ」
「そやな、浮世離れした左翼言論と違ごうて、リアルな実相を捉えとると思うぞ。『世界日報』もそうやったっけ」
「そうです、そうです。是非、購読してください。お兄ちゃん、よく知っていますねえ」
 もう、喜んでくれました。もっと喜ばせることにします。
「世間の宗教に対する攻撃は間違ごうとると思うぞ。信教は個人の自由やし、信仰ゆうもんは、世間の常識やあり方と違うとって当然や」
 などといった世間話を続け、一段落したところで訊ねました。
「ところで、電話でゆうとった入院費に困っとる人のことやけど、二十万円とか言いよったやろう。何の治療なんや」
「私もよく知らないんですけど、とにかく困っているんです」
 だからあ、詐欺なら詐欺らしくもっともな話を考えておけよう。拍子抜けしちゃうんだなあ。話が具体的であれば、医療保険のことを突っ込もうとてぐすねをひいていたのですが。
「あんのお、事情も判らんのに金を貸すゆうわけにはいかんぞ」
「じゃあ、今度会って詳しい話を訊いておきますから」
 私は手帳を開きながら。
「おまえが訊くことやないぞ。俺がその人に会うて話をするきん、どこの病院なん」
「○○病院です」(かなり遠い病院)
「その人の名前は」
 一拍の間があって、大声でいきり立ちました。
「お兄ちゃんは私の話を信じていない !! 」
 私も、手帳をパタンと閉じて大声で応じました。
「当たり前やないか。こんなええかげんな話、どう信用せえちゅうんじゃ」
「じゃあ、今日はお金も持ってきていないんでしょう」
「そらそうや。仮に金を貸すにしても、それはおまえやのうて、その人に対してや。それも、本人だけやのうて、身内の方とちゃんと話をしてからじゃ」
「私のこと、信用していないんですね」
 従兄弟は眼にうっすらと涙を浮かべ、憤然と席を立とうとしました。
「ちょう待て。話は終わっとらんきん。席に着け !! 」
 私のきついもの言いに、黙って従いました。洗脳されているとはいえ、長年身についた兄貴分と弟分の関係が精神的拘束力を残しているのでしょう。
「俺も仕事サボって、わざわざ足を運んどんじゃ。思うようにならんきんゆうて帰るなや」
 ここから本格的に攻めることにしました。
「さっき、信仰は自由やゆうたやろ。ほんだけど、原理は違うぞ」
 信仰の話になったので、従兄弟はまっすぐにこちらを見ました。
「おまえ、勧誘の仕事しとるゆうたやろ。よお考えてみい。おまえのやっとることは、例えば女衒が家出娘をうまいこと誑しこんで水商売に沈めるんとおんなじやぞ」
 今の風俗意識で判断しないで下さい。バブル景気前のことですから。
「それは違いますよ。協会の信者は皆、信仰生活に満足していますよ。そんなやくざの話とは違いますよ」
「アホ、どこも違わんわ。それどころか、水商売はええ商売やきん、やっとる本人は原理以上に満足しとるわ。それに実際、ええ給料で、ええ暮らししとるきんの。あんなん一遍やったら、もうまともな堅気の仕事やあほらしてやっとれんくらやぞ」
 これには反論しませんでした。
「おまえ、違うゆうんやったら、おまえが勧誘して引っ張り込んだ会員の親の前で、一遍それゆうてみい。言えるんか」
 段々、私も押さえが利かなくなってきました。
「親がどれほど泣いとるか、おまえ知らんとは言わさんぞ」
 もう一点、次のような趣旨のことをぶつけました。信仰は自由だが、その選択はフェアな状況でなされなければならない。原理の洗脳プログラムは、まともな判断力を奪ったなかにおいてなされる。それは、おまえが一番承知していることだろう。それで、よくも会員が自ら選んだなどと言えるなと。
 最後に、こうたたみかけました。
「おまえが稼ぎを協会に寄付するのは自由や。しかし、他人を巻き込むな。他人を不幸にする権利はない。おまえは、勧誘した人たちの人生を償えるんか。できんのなら、二度と勧誘だけはするな」
 このあたりでは、眼を真っ赤に泣きはらしていました。もう反論もできない状態で呆然としていました。私も心が痛みました。従兄弟が私を慕ってくれていたのはよく承知しています。それを逆手にとって、きつい攻撃をするわけですから。我ながら嫌な人間です。
 別れ際も、従兄弟はまともに喋れませんでした。でも、その甲斐があったみたいです。翌年、従兄弟は『世界日報』の仕事を希望し、その関係で韓国に行きました。そこで韓国の女性と結婚して、今は帰国して二児をもうけています。協会とも切れているみたいです。本来の夢であった、設計の仕事に就いています。ホテルでの一件以来、統一協会がらみの話には互いに一切触れていません。


 従兄弟との一件の翌年、またしても原理の毒牙にかかった青年がいました。実は、教え子だったのです。このときは本当に悔やみました。何故、もっと早く気づかなかったかと。初期の段階で気づけば、洗脳を解くのは可能です。深入りした時点では、他人にどうこうできるものではありません。従兄弟の場合は、私と従兄弟との間に特別な関係があったので、例外的なケースでしょう。
 生徒は4月に入校し、翌3月に卒業します。秋頃から、授業中に居眠りすることが多くなりました。居眠りは別に珍しいことではありません。バイト、ゲーム、その他もろもろで若い連中は居眠りをよくします。まあ、この時点で気づけというのは無理でしょう。後知恵ですが、これはもろに洗脳の結果だったのです。洗脳は、寮(原理においてはホームと称ばれる)において夜遅く、あるいは朝方まで寝かせずに行われます。先輩信者の感動的な宗教体験の講話や「原理講論」講義や、自己批判の追及やらを徹底してプリンティングします。これでは眠くてフラフラになるのも当然です。
 卒業前、就職が決まったとの報告を受けました。それまで私が就職活動の段取りをしようとすると、何故か拒みつづけていたのです。それもあっての報告でしょう。よく判らない職務内容で、本人に尋ねても曖昧です。暫くして、ポスターやPOP表示物やらを担当させてくれると答えました。多分、入れ知恵だったのでしょう。それが、会社の詳細を提出させて、疑問がむくむくと湧きました。繁華街のど真ん中にあるのです。この繁華街は、通常は店舗が多いところです。もしやと市街地図で確認して氷解しました。原理の事務所所在地だったのです。
 すぐに生徒と話し合いをもちました。結果は徒労でした。まったく聞く耳を持たず、そもそもまともに喋ろうともしません。ただ、5月頃に勧誘されて、以後日曜日にピクニックなどのレクレーションに参加した経緯だけは判明しました。固く口止めされているわけですが、洗脳具合は完璧です。つけ入る隙が一切ありません。かといって放っておくわけにもいかず、親に連絡しました。母親がすぐに学校に来ました。話を聞くと、両親の説得にもまったく耳を傾けず、学校を卒業するとすぐに家を出る予定とのことでした。母親には、私ではどうしようもないので親が頑張るしかないと伝えました。例の従兄弟の件も話して参考にしてもらいました。それ以外に、ポイントとして次の点を伝えました。
  • 単純な統一協会攻撃は無意味である。教義を理論的に論破しないと効果がない。
  • 原理サイドは洗脳プロセスに大変な手間暇をかけている。洗脳を解くためには、それ以上の手間をかけなければならない。
  • 原理の教義と、これに対する反論・反証のテキストは出版されている。出版物を紹介し、勉強の必要性を訴える。
  • 世間では親類縁者が協力し、力ずくで連れ帰って隔離し、洗脳を解くことまでやっている。
 母親の憔悴ぶりは気の毒なほどでした。残念ながら、この青年は家を出たそうです。以後のことは私も知りません。
 なお、次回も宗教ネタを続けます。
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四拾七  イニシエーション/1(2002/10/9)
 先月、“ぬばたま捕物帖”に新堂冬樹の「無間地獄」の感想を書きました。これが私の新堂初体験です。面白かったので「カリスマ」にもチャレンジしました。「カリスマ」はオウム真理教をモデルにした新興宗教ものとかで、興味を惹かれて読みました。読中、読後ともに随分考えさせられました。


 ぬばたま家は一向宗の興正寺派です。なにぶん田舎なので、私も読経には慣れていますし、仏教には日常的に親しんでいます。いえ、田舎は関係ないですね。一向宗も歴史を紐解くと、越前や長島の激しい一揆を指導した過去があります。でも現在においては、むしろ穏やかな宗派の代表ともなっています。そんな一向宗に帰依している私にとっては、一部の新興宗教は不可思議なものです。新堂は「カリスマ」において、新興宗教の邪悪な面を強烈にアピールしています。これを大袈裟ととるか、真実味があると受け止めるかは人によって異なるでしょう。少なくとも私は、おおいに頷かされました。私は一部の新興宗教に対して不快感を抱いていますが、それにも理由があります。今回は「カリスマ」に触発されて、平日ですがアップします。ちょっと危ないネタです。


 私が初めて原理運動(統一教会)に接触したのは19歳のときでした。大学一年生だった私と友人の二人で商店街を自転車で流していたときのことです。二人の若い女性に呼び止められ、アンケートに答えて欲しいと持ちかけられました。暇だった私たちは応じました。
 世界の不幸な人々に対して、あなたはどのように考え、どう応えていますかと問う内容だったと記憶しています。
 この時点で原理の勧誘だと気づいた私は、もうワクワクしました。週刊誌などで散々叩かれていましたから、この性質の悪い新興宗教の勧誘を実体験できるとあって、もう大感激でした。
「今、このときも世界中で苦しんでいる子供たちがいますが、あなたは自分自身の現在の生活を、この現状と比べてどう思いますか」
 この問いかけに対して。
「私にどうこうできることではない。私自身の途を精一杯生きればいい。ところで、あなたは自分の道を見失っていない?」
 と、逆に問いかけて、後は原理運動の問題点を指摘しまくりました。そのときの相手がえらい真面目な方で(20代半ばの別嬪さん)、私の原理攻撃に対して、生真面目に反論してくれました。しかし、私があんまり詳しいものだから、そのうち諦めてぼやきが混じってきました。私もこのままでは将来の展望が見えないとか、現実にあなたの指摘するような面があるとか渋々認めました。あげくに身の上の不幸を嘆き始めました。そうなると、私も拍子抜けで、後は互いに気まずい沈黙気味になりました。
 友人はといえば、こいつはもう私以上に嬉々として議論していました。自分は“生長の家”の会員であると嘘八百を並べ、原理の思想は間違っていると真っ向から挑んでいました。隣で聞きながら笑いを抑えるのに四苦八苦しました。
「日本人は、すべて神の子です。天皇陛下の大御心に導かれるのが、あるべき相です」
 相手(20過ぎの娘)は、うんざりした口調でぼやいていました。
「○○県は右翼が多いと聞いていたけど、本当ね」
 この友人、声がでかくて、道行く人たちが皆こちらを見て恥ずかしかった。商店街の真ん中で一時間以上やり合っていたものだから、人波が避けて流れていくんだなあ。後で知合いに、一体何をやってたんだと聞かれること頻りでした。友人が“生長の家”を名乗ったのには理由がありまして、それはそれで面白い話なので後日書きます。この件は笑い話ですが、後年笑い話で済まないことが起こりました。


 私には3歳年下の従兄弟がいまして、彼はガキの頃から、私を“あんちゃん”と呼んで慕ってくれていました。上の件から10年ほど経った頃には、ほとんど顔を合わせることもなくなっていました。
 某夜、突然その従兄弟から電話がかかってきました。
「おう、○○か。一体なんや」
「あのう、お兄ちゃんは、今、世界中で苦しんでいる人たちについてどのように考えていますか」
 “あんちゃん”でなく“お兄ちゃん”と呼ばれたのは、このときが初めてです。で、この問いかけです。私は反射的に聞き返しました。
「なんやおまえ、原理運動に入っとんか !! 」
 従兄弟は絶句していました。そして、なにやら電話の向こうでごしょごしょ相談を始めました。いきなり原理運動と言い当てられて吃驚したみたいです。勧誘や物売りのマニュアルにない展開に戸惑って、方針変更の相談をしていたみたいです。
 しばし私の原理運動攻撃と反論のやり取りがありました。私も深追いはしません。電話で説得してどうこうなるものでもありませんから。そして、一段落後。
「実は、今夜電話したのはお願いがあってのことなんです」
「おう、なんや。ゆうてみい」
「こんなお願い、お兄ちゃんにするのは筋違いだとは判ってはいるのですが、他に頼る人もなくてお電話したんです」
 来た来たああ。
「うん、かまんぞ。俺にできることならやってやるきん」
「私の知人で入院している方がいるんですが、その方は入院費が払えなくて困っているんです。昔から散々お世話になった方で、こういうときこそ力になってあげたいんです。言いにくいことなんですけど、私もお金がなくて払って上げられないんです。そこで‥‥略‥‥」
 後は見当がつくと思いますので略します。
「じゃあ明日、○○で待ち合わせしよう」
「あの、お金はそのとき持ってきてくれるのですか」
「それは、とにかく会って詳しい話を聞いてからだ」
 電話の向こうで落胆していました。判りやすいやつ。あげくに、またもや誰かとごしょごしょ相談していました。
「じゃあ、それでいいです」
 おいおい、それでいいですって‥‥。もう、俺の金を貰って当然と決めているのか。詐欺をやろうっていうのならもっと完璧にやれって。声に出さずに、突っ込みをいれました。


 電話を切るや、すぐに従兄弟の両親を訪ねました。いろいろ話をして事情が判りました。
  • 数年前から、○○市へ出かけて行き、帰宅が遅くなっていたこと。しかも、所用の内容は一切喋らなかったこと(洗脳する側は、絶対喋らせないようにコントロールする)。ちなみに○○市は某県の県庁所在市で、中心繁華街のど真ん中に原理運動の事務所がある。なお、夜っぴいて洗脳プログラムを実行したり、会員が寝泊りする寮は○○町にあった。さすがに怖くて実名は書けない。
  • それまで親の仕事を手伝っていたのが、今は統一教会系列の仕事をしていること。仕事といっても、宣伝広報−早い話が原理への勧誘を担当−である。
  • 初期の段階で肉親、親類、知人らの氏名、職業、資産を報告する。そして、次々に係累に物売りや借金を申し込んでいた。
  • 売り物の値段が徐々に高くなっていき、断られると安いものでもいいからと泣きを入れること。安いといっても、朝鮮人参は結構なお値段である。
  • 電話で詐話をするとき、私の場合と同様に、常に会話の流れをコントロールする人間が傍に控えていること。
 聞けば、かなり以前から両親や親類縁者に無心を重ねていたそうです。さすがにあんちゃんだけは避けていたと思っていたが、ついに触手が伸びてきたかと両親に謝罪されました。明日会うことになったので、無理だろうけど脱会を説得してみると伝えました。親からは、是非にとの懇願と、もし金を払うような成り行きになれば、その金はこちらで持つと言われました。その心配はないと安心させて退散しました。

 翌日、某ホテルの喫茶店で待ち合わせをしました。その経緯については次回。
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四拾六  スキャニング三昧(2002/10/6)
 一昨日、自宅にてスキャニングで日が暮れました。暮れたというか、夜中までやっていましたけど。
 職場の行事の関係で、職場の作業風景をプリントアウトすることになりました。A4サイズでフォト印刷です。そのための画像をポジ・フィルムからスキャニングしました。一昨日は平日(金曜)ですが、年次休暇を取っての不毛な作業でした

 職場のスキャナ(EPSON/GT-9000)は、G4Macに対応していません。そこで、Pentium/100(NT Server)に接続しています。このマシンはメモリを64MBしか積んでいません(そのメモリも廃棄パソコンから拝借したもの)。64MBのメモリで高解像度画像の取り込みは無理です。そこで、仕方なく自宅でお仕事となったわけです。自宅の雷鳥とEPSON/GT-9700Fと512MBのメモリなら心強い限りです。GT-9700Fは透過原稿用オプションが豊富です。ストリップフィルム、スライドフィルム、4×5、120/220用各種ガイドが用意されています。今回はストリップとスライドの両方を使いました。
 総数250枚ほどですが、結局3割弱しか取り込みませんでした。最初はとりあえず全数スキャニングの予定でしたが、すぐにやってられないことに気づきました。撮影シチュエーションのコンディションが悪いため、バランスの悪いフィルムが大半です。屋外のものは良好ですが、暗い作業場を撮影したものが多いのです。作業内容によってはフラッシュを使用できませんし、フラッシュを焚いたものもカラー・バランスが相当偏っています。それらを補正するため、いろいろな入力設定を試みました。おそらくスキャニングのプロは、一発で設定を決めるのでしょうね。当方は素人のため、試行錯誤を繰り返さざるを得ません。あとでPhotoshopによる画像補正を行いますが、できるだけ最初からベスト・バランスを得るべきでしょう。特にひどいフィルムは、まるで赤鬼のような肌に赤紫の白衣です。苦労のほどがしのばれるでしょう。一枚をスキャニングするにも、あれやこれやで結構な時間がかかりました。カラー設定は基本的にICMによる色補正を選択します。このときソース・プロファイルはEPSON標準を、ターゲット・プロファイルはモニタ・プロファイルを指定します。これで画面表示とこれを元にした出力結果の整合性が取れます。

 GT-9700Fは文句なく高画質No.1でしょう。そのかわりスピードは遅めです。そこで入力解像度を抑え、250dpiで仕上げることにしました。まあこれでも過不足ないでしょう。
 夜半には終えましたが、それからもう一仕事です。すべての画像を280mm×195mm(250dpi)にトリミングしてサイズを揃えました。

 翌朝、担当者にセレクトしてもらうためのサンプルを作りました。長辺45mm(150dpi)のサムネールを作成し、Illustratorに配置して印刷しました。サムネール作成は簡単です。Photoshopは4.0からバッチ処理に対応しています。指定作業用アクションを作成すれば、コマンド一発で勝手に処理してくれます。

 しかし、こういうのは間違っています。職場にまともな機材がなくて、自宅でお仕事というのはねえ。まあ、昔はデザイナーもMacのUci(メモリ32MB程度で使っていたユーザが多かった)で作業していましたから、贅沢を言う私が悪いのでしょう。
 出力は職場でOKです。今年の夏にEPSONのPM-3500Cを購入しました。これ速くて綺麗です。口惜しいけれど、私のPM-3000Cより綺麗です。スーパーファイン印刷でも大抵の用途に間に合います。まったく、インクジェット・プリンタの進歩はとどまるところを知りませんね。


 ところで、以前撮っていたはずのフィルムが相当数見当たりません。しかも肝心なやつです。職場のHPを作ったとき、スキャニングした覚えがあります。
 さてさて困ったぞ。あらためて撮影する必要があります。ポジ・フィルムでの撮影は面倒だから、デジカメで撮ろうかな。しかし、私のPowerShot S30は、最大2048×1536画素しかありません。これだとA4サイズにすると185dpiくらいにしかなりません。パネル表示に使うので、これでも差し支えはないでしょうが、心配なのはレンズの歪です。周辺画像がかなり歪むので、本来なら周辺部は捨てるところです。でも今回はそんな贅沢は言っていられません。PowerShot S30唯一の欠点でしょう。

追加:2002/10/7
 今日のこと。
 各担当者から、さらにおまけのスキャニングを頼まれました。どうやら印刷枚数は、なんだかんだで100枚近くになりそう。←ゲンナリ
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四拾五  こんなものいらない(2002/9/29)
 昨年より、通勤途上で痛ましい光景が見られるようになりました。
 下の写真がそれです。
 カーブ全景
 運転席からの眺め
 皆さんはこれを見てどんな感想をもつでしょうか。写真ではそのおぞましさがもうひとつ伝わってきません。カーブ手前に墓所があり、駐車場及び憩いスペースが確保されています。問題は道路と憩いスペースを遮る巨石モニュメントです。これって一体誰のアイデアなんでしょうかねえ。勘違い、無知、非人道的、危険−あらゆる言葉で罵倒したくなります。まさに脅迫的な風景です。
 緩いカーブはオーバー・スピードによる飛び出し事故が多いところです。道路設計者はいかに飛び出しを防ぎ、いかに衝撃を緩和するかに腐心するところです。かつての日本の道路設計は、人命軽視、非効率の問題を抱えていました。人命軽視の代表的例として、分岐路にコンクリート柱を配置するなどが挙げられます。アメリカは車社会の経験が長いので、昔から見映えを気にせずにクッション材を多用して人命に配慮してきました。日本でも最近は、緩衝帯としてクッション材や深い奥行きスペースを設けています。今回紹介したカーブであれば、通常はガードレールを設置してクルマの飛び出しと衝撃緩和を図ります。或いは美観を考慮して植樹するケースも多いでしょう。木もまたクッションの役割を果たしてくれますから。
 で、巨石モニュメントです。スピード・オーバーで道路を飛び出したドライバーは、巨石に衝突してぺちゃんこになれという意図なのでしょうか。ここより向こうには行かせないという障壁のメッセージなのでしょうか。好意的に解釈すれば、憩いスペースを守るための防壁の意図なのでしょう。
 この道は町道ですから○○町の管轄です。用地買収時の墓地移転がらみで、憩いスペースをサービスで整備したのでしょうか。設計は○○町の土木課の技術職か外注の手になるものと想像されます。素人でも判る危険性をはらんだ設計を何故? あるいは、こういうタイプの設計コンセプトはありなのでしょうか?


 クルマ雑誌に「ドライバー」(八重洲出版)があります。今から二十数年前、「ドライバー」誌に評論家の和田垣雄三さんが“クルマ社会を斬る”とかいった内容のレポートを月一で連載していました。和田垣さんは車社会のあらゆる側面にスポットを当て、問題点を掘り起こしていました。以後、今に至るも和田垣さんを超えるモーター・ジャーナリストにはお目にかかっていません。連載時、ガキであった私は和田垣さんの書かれたものにずいぶん触発されました。例えば完成直前の道路を閉鎖するという、住民エゴを採り上げたことがあります。私は“地域エゴ”“住民エゴ”という言葉を和田垣さんに教えられました。和田垣さんは、地道なフィールド調査からクルマ社会が抱える問題点を提示してくれました。他にも公害問題、道路のアクセス効率、アメリカ警察のパトカーの実戦的ドライビング・カリキュラム、北米の道路凍結防止剤の影響等の興味深いレポート各種がありました。そのひとつとして今回のコラムに書いたような、人命重視の観点に立った道路設計のあり方も俎上に上げていました。
 日本の道路設計も人命重視に転換したと考えていましたが、身近なところで破綻を目にしました。


 再び小ネタ
 42回のコラムでもうひとつ小ネタを書きました。これはG4MacのHDDの不具合報告です。今は快調に動作しています。このMacは2001年夏モデルです。
 その一年前に買った同じG4/400(500MHz版が突然販売中止になり、500→450、450→400、400→350にクロックダウンした。当方は、問題顕在化前に買ったので助かった)の一台に同様の症状が出ました。HDDからカッチャ、カッチャと異音を発して、まともにアクセスできません。幸いマウントはできるし、超低速ながらアクセスもできています(起動に10分かかる)。もちろんこれでは使い物にならないので、あれこれ手を施してみました。結果、完治していません。
 PCに繋ぐとまったく問題ありません。前回はこれで復旧しましたが、こやつは変化なしです。HDD側の問題だけでもないようなので(いや、HDDを交換すれば多分直るとは思うのですがお金がありましぇん)、ケーブル関係で試行錯誤してみました。
 1.IDEケーブルの二口あるコネクタのもう一方を接続→大幅に症状緩和。それでも引っかかるようなアクセスで少し遅い。
 2.ジャンパ・ピンを single position から master に差し替え→認識せず。
 3.別のIDEケーブルを使用→変化なし。
 当分1.で辛抱しようと思います。
 さて、どうにもMacintoshのボードの品質には問題があるように思われて仕方ありません。IDEを安定させられていないのではないでしょうか。数年前に買ったPowerMac 6300/160 でもIDEがらみの不具合を経験しています。起動時、SCISIバス上でSCISI機器がアクティブになっていると、そちらがシステム検索で優先され、内蔵IDE HDDから起動できないというものです。例えば、スキャナ電源オンだと永遠に起動できません。この頃のMacはSCSIからIDEへの切り替え時期だったので仕方ないとは思いますが、未だにうまくこなせていないのではないでしょうか。というか、IDEの仕様向上のペースが速いので、十分安定できないままリリースしているのではないかと危惧されます。MacがPCと異なった独自仕様時代は、内部First SCSI、外部標準SCISIでのんびりと時間が流れていました。今はPCの速い変化を追いかけているため、どうしてもこなれないまま製品化しているように思われます。
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四拾四  NETの猥雑さの原点は『ウィークエンド・スーパー』(2002/9/22)
 今回は人名が多いので敬称を略させていただきます。

 インターネット上では、あらゆる人があらゆる情報をあらゆるスタイルで提供しています。メーカーのようなフォーマル・スタイルもあれば、怪しい個人のアングラ・タイプのものまであります。世界中の人士が参加するため、情報の対象は森羅万象に及んでいます。かつて、マス情報が印刷媒体や公共電波媒体に限られていた時代は、多数の興味を惹かない情報は発信されませんでした。出版社や放送局も商売でやっていることですから、採算ベースにのらないことは採り上げません。そんな状況のなか、少数の読者(視聴者)を対象としたサブ・カルチャー※注1も存在してはいました。

 今から20数年前、セルフ出版から『ウィークエンド・スーパー』という映画情報誌(?)が出版されていました。若い方は当然ご存知ないでしょう。年配の方でも、知っている方はツウというか、変人というか、偏屈というか、変態というか‥‥伝説のアングラ・カルチャー雑誌です。あらためて考えると、『ウィークエンド・スーパー』はインターネットの混沌をはるか昔において、雑誌という印刷媒体上で実現していました。当時のマス媒体が顧みないようなサブ・カルチャーにスポットを当て、世間の価値観とのズレを照射するカウンター・カルチャー※注2の趣もありました。その面白さは太鼓判級で、なにせ業界関係者が夢中になったくらいです。それも当然で、編集発行人である末井昭は他誌編集者を唸らせてやろうとばかり考えていたそうです。
 保存状態抜群
 『ウィークエンド・スーパー』は77年7月号(創刊)から81年9月号まで刊行され、81年10月号から『HEAD LOCK』と誌名を替え82年3月号(廃刊)まで、通算57冊が出版されました。誌名変更の理由ははっきりしませんが、警視庁に睨まれたのではないかと推量します。変更前の誌面には、ここに書けないようなヤバイものが載っていましたから。
 私が『ウィークエンド・スーパー』を知ったきっかけがどのようなものであったか、もう覚えていません。とにかく最初に見たとき衝撃を受けました。「これぞカウンター・カルチャーの総本山だ !! 」と驚いたものです。以後、80年12月号から廃刊まで欠かさず買いました。結局、41冊は見のがしたことになります。それが残念で悔しくてね。実は私、購入した16冊を今も手元に置いています。上の写真がそれです。一番上に置いているのが廃刊記念号です←廃刊記念というのも変な話ですが、執筆陣は洒落のめしています。
 このコラムを読んで「是非譲ってくれ、金に糸目はつけない」とおっしゃる方もいるんじゃないかと思います。手放しませんけどね。一時、神田の古本屋で一冊二万五千円程度で売られていたことがあるそうです。ちなみに『ウィークエンド・スーパー』の前身に当たる『NEW SELF』は三万円もしていたそうです。しかも発禁になった最後の三冊は値段がつけられない状態であったそうな※注3。この情報を得た十数年前、『ウィークエンド・スーパー』16冊を手提げ袋に入れ、飛行機で東京に飛んで神保町を訪ねたことがあります。残念ながら、売値と買い取り値は別物です。二束三文にしかならないので、重い荷物を下げて帰りました。←取らぬ狸の皮算用でした。
 末井昭はもともとビニ本をつくっていました。その経験から『NEW SELF』が生まれました。『NEW SELF』の表紙は、すべて写植文字を使用していたそうです。従来のエロ雑誌とは一線を画す構成だったわけです。売上は8割にも及び、自信を深めた末井は自分が面白いと思う雑誌作りに邁進します。その延長線上にあるのが『ウィークエンド・スーパー』です。写真から分かるように、若者向け総合雑誌の趣です。映画雑誌といわれてもピンときません。で、雑誌取り扱い上はエロ雑誌だったのです。当時、本屋のエロ本コーナーで浮いていました。店頭風景を想像してみてください。ページをめくると、どこがエロ本やねんと突っ込みを入れたくなります。

 私が荒木経惟を初めて知ったのは本誌によってです。「荒木経惟激写」「荒木経惟の偽日記」の二本の連載をもっていました。ちなみに現在は『噂の真相』で「荒木経惟写真日記」を連載しています。荒木がメジャーになったのは、末井との仕事によってではないでしょうか。「センチメンタルな旅」や「写真への旅」などの仕事をこなしていた荒木は、“激写−女優シリーズ”で羽ばたいたように見受けられます。

 「差○別七色対談」平岡正明vs上杉清文は、私が『ウィークエンド・スーパー』でもっとも楽しみにしていた連載です。後に抜粋されて単行本「どーもすいません」として出版されました(私はこれも買ってしまいました)。
 「恋は味つけ、そして気分はトロッキーだぜ」は、この対談の白眉です。この回は大反響を呼んだそうです。ベルリンの壁が崩壊し、ソビエト連邦が解体し、中共が資本主義にどっぷり浸かった現在では笑い話ですが、当時はマルクス主義をマジで唱える人がいた時代です。共産主義の夜郎自大は世間周知のことでしたが、ここまで身も蓋もない断言が活字になったのは画期的でした(清水幾太郎の「核の選択」よりもね)。編者の末井は「眼から鱗が落ちるのでなく、頭から頭蓋骨が落ちる」と感想を述べています。
 「五木はダサイ」では、五木寛之を徹底的に虚仮にしています。
 「つまり仏教って、はじめからもう滅茶苦茶なアレなんです」では、僧侶でもある上杉がトバシています。
 「カタカナ職業はナウいか」では、糸井重里への本音インタビューや“劇写”商標問題なんかでトバシています。
 「とにかく さだまさしは 死んだほうがいい」では、さだまさしを徹底的におちょくっています。
 他にも「日本プロレスに未来はあるか」「SMよ思想であれ」「戒厳令の夜は立ったままで濡れている」「私たちは百姓を憎む」「転向論快刀乱麻」「さあ来い ! 俺達ゃ河内音頭やでぇ」「走れ ! 大東亜歌謡曲」「幻視のなかの花見」「畸形が好きでどうもすいません」「団鬼六緊縛淫虐SM談義」「バカッチョ出船、中東革命へ出撃す !」「我々はキンタマを愛す ! 」「芸能界を差○別する ! 」etc.
 年末には恒例の、その年のニュースをまな板に上げて差別(評論)します。ルポライターの朝倉喬司が、普通のメディア上では活字にできなかったネタを提供しています。
 いかがです? 読みたくて仕方なくなってきたでしょう。私が夢中になったのもご理解いただけますね。

 後年自殺した作家、鈴木いづみによる「無差別インタビュー」も素晴らしい連載でした。単なるインタビュー形式でなく、随想のなかにインタビューを入れ込んだ形式です。ですから鈴木の考えや感想がメインになっています。対談相手にとっては怖いスタイルでしょう。しかも、とことん救いがないインタビューをやっています。
 五十嵐浩晃−「ペガサスの朝」をヒットさせた−のインタビューなんか路上でやっています。本人が喋った音楽のことなんかひとつも書いていません。ひたすら、このインタビューが失敗であったとばかり書いています。会話における齟齬や互いに共感できない経緯ばかり綴っています。皆さんは、こんなインタビュー記事を読んだことありますか。
 田原俊彦には断られますが、予定変更せずに妄想を綴っています。いいんですかねえ、対談エッセイなのに。でも、鈴木はさすが作家です。音楽やミュージシャンについて田原俊彦をからめて毒のある一文をものしています。
 あのねのねとの対談には、いろいろ考えさせられます。彼らの世過ぎに対する計算はしたたかです。普通のインタビュアーでは絶対引き出すことのできない本音でしょう。
 高信太郎(漫画家)のインタビューなんか無茶苦茶です。ここにはかけないネタのオンパレードです。
 そして、この連載の最高傑作はツービートです。ツービートは毒舌を以って人気者になりましたが、あれはあくまで営業トークです。ツービートの本当の毒はあんなものではありません。きよしはインタビューを無視して一切喋りません。とにかく温かみを一切殺ぎ落としています。たけし自身が、仕事をやっていくうえで自己中心になることの必要性を語っています。こんな会話は他のどのインタビューでもお目にかかれないでしょう。
 ジャガーズのメンバーやゴールデンカップスのエディ藩へのインタビューは、明らかに本人の趣味というか希望でしょう。鈴木はゴールデンカップスのルイズルイス加部の大ファンなのです。鈴木さん、よろめいています。

 他の執筆陣は、倉田精二の写真+文、赤瀬川原平の身辺ルポ、渡辺和博のルポ、南伸坊/巻上公一のコラム、板坂剛の妄想新聞、高平哲郎の映画エッセイ、岡留安則のコラム(『噂の真相』の真相)、朝倉喬司の事件簿等です。
 加藤芳一らによる「流行歌通信」は、毎回興味深い切り口で芸能界やタレントを分析しています。テーマはサブカルチャー雑誌に相応しく、植木等/市川雷蔵/ミニスカート/ピンクレディ/GS/B級アイドル/歌謡曲ソウル/水前寺清子/ザ・キングトーンズ etc.
 また、新人アイドル紹介ページがあり、この撮影は若き日の小暮徹が担当しています。さすが小暮は単なるポートレートとせず、芸術風というか広告写真風というかチャレンジングなビジュアルを追及しています。
 表紙写真は田宮史郎が担当しています。

 いかがでしょう。ちょっと信じ難い執筆陣と撮影スタッフでしょう。これで一応エロ本だったんですよ。値段は600円でした。本当に安い。たった600円ポッチの雑誌に、刺激と毒が充満していました。今なら、同様の刺激や好奇心をインターネットが充たしてくれるでしょう。いつでも知りたい情報にアクセスできますし、参加や発信さえできます。でも、二十数年前は『ウィークエンド・スーパー』に替わるものが他になかったのです。これに触れることのできた私は幸せ者だったと思います。

注1:大衆文化程度の意で使っています。
注2:反体制、旧套打破程度の意で使っています。

注3:「素敵なダイナマイト」末井昭/角川文庫に記述あり。末井氏は、『ウィークエンド・スーパー』廃刊後は『写真時代』を出版し、今はパチンコ誌を編集しています。知る人ぞ知るの有名編集者です。
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四拾参  妄想:Alpha Macありせば(2002/9/15)
 つい最近、興味深い記事を見かけました。Gartner Column 栗原潔(ZDNet JAPAN)です。筆者の栗原さんは“エコシステム的戦略”と称する、仕様や製品供給をオープンにすることによって、より価格を安価にしたり、市場でトータル・シェアを大きくしたり、開発費を分担したりで大きなメリットを享受できる手法を論じています。一方、独占的な囲い込み戦略の欠点をAlphaチップのフェードアウトに触れながら論じています。詳細は元記事を読んでください。記事の最後で、AlphaチップとAppleとの関わりについて書いています。私はこの件について、まったく初耳です。栗原さんも伝聞としています。皆さんは知ってましたか。

 記事によると、1991年、AppleはDECに対して、当時開発中であったAlphaの採用を打診したそうです。ところが、残念なことにDECは断ったそうです。栗原さんは、この決断がDECにとってマイナスではなかったかと考えています。冒頭の“エコシステム的戦略”を採っていれば、Alphaは延命できたのではないかと残念がっています。一方のApple側に立つと、Alpha Macintoshは魅力的で、その可能性は激しく妄想を刺激します。今回のコラムは「もし、DECがAppleにAlphaを供給していたら」という妄想ネタです。
 現在、PPCはクロックが頭打ちで先の見通しも明るくありません。1999年秋、G4/500MHzの突然の販売中止の悪夢以来、PPCは性能アップに四苦八苦しています。もしAlphaを採用していたら、Macはどのような道を辿っていたか興味津々です。


 Alpha Macintoshのアーキテクチャはどのようなものになっていたか? パソコン用Alphaを別設計にするか? また、128/256ビットの外部バス、EVバスの導入はどうするか。PCIバスやIDEインターフェイス導入の時期はいつなのか。疑問は多々あります。そのあたりには触れず、単純に妄想を膨らませてみます。


 DEC、Apple、Motororaの三者は合意を得る
 ・より安価な製造を可能にするための設計見直し
 ・DECはMotororaにAlphaの製造を許可する
 ・MotororaはDECにAlphaを供給する
 ・Appleは、AlphaMac上でTrue64の動作を可能とすること
 ・Alphaプラットフォームを公開し、チップセットを外販する
 ・同時にAppleはMacOSをライセンスし、互換機生産を許可する

 1994年
 5月 全世界が注目するなかニューMacintoshが発表された。
     Alpha Mac/200MHz(Alpha21064A)
 年末 IntelのPentiumは90MHz。
  • 発表会場、M.スピンドラ―とR.パルマ―が壇上で肩を組み、Alpha Macintoshについて語った。
    M「今日から、パーソナル・コンピュータは真にワークステーションと肩を並べることができる。栄えある第一歩を踏み出すのは、やはりMacintoshである」
    R「DECはAlphaプロセッサーをスーパー・コンピュータからミニコン、ワークステーション、ビジネス・サーバまで提供している。そして今日より、パソコンまでがAlphaファミリーに名を連ねることとなった」
  • MacOSの外部ライセンスと互換機製造が発表された。すでに断片的な情報は漏れ聞こえていたが、発表内容はあまりに衝撃的であった。Macユーザは狂喜、業界関係者は唖然。
  • IntelはAlpha対抗のため、P6の開発に拍車をかける。
  • AppleはAlpha上で680x0エミュレーションを成功させる。
  • エミュレーションながらAlphaのFPU性能のおかげでPhotoshopが超高速で動作し、DTPユーザが大挙AlphaMacに買い替える。
 1995年
 8月 System7.5発売。
 9月 Alpha21164の新コア投入で300MHzに達する。
    IntelのPentiumは133MHz。
  • System7.5はAlphaネイティブを進めるため、リリースが遅れに遅れたが、あまり成果がなくユーザの失望を買う。
  • Windows95発売。Windowsが爆発的に売れるが、Alpha+MacOSの評価には遠く及ばず。
  • 国内では『Windows World』誌がパフォーマンス面に一切触れない提灯記事“さようならMacintosh”を掲載し、失笑を買う。

 1996年
 年末 500MHzに達する。
     IntelのPentiumProは200MHz。
  • WintelはPentiumPro+NT3.51で反撃を開始する。前年発売のWindows95は、早くも近い将来でのNTへの統合を予告される。
  • 前年発売のPhotoshop3.0が早くもAlphaネイティブ版3.05にバージョンアップされWintelに大差をつける。
  • Microsoft、WindowsNT4.0発売。Windows95とのインターフェース統合を果たす。MIPS/Powerのサポート廃止。

 1997年
 6月 MacOS8.0発売。
 年末 566MHzに達する。
     IntelのPentiumAは300MHz。 
  • MacOS8.0は機能アップ最小であるが、7.5時の反省から大幅にAlphaネイティブに書き換えられる。
  • 前年AppleのCEOに就任したG.アメリオは、Alphaプラットフォームを磐石にするため、DEC、Motorora、MicrosoftとAOP(Alpha Open Platform)の策定を急ぐ。
  • Microsoftは486emulaterを完成させ、NTのAlphaプラットフォームへの本格サポート態勢を整える。このことからMicrosoftとIntelとの間に不協和音が流れ始める。
  • DECもまたFX32をリリースし、NTサポート整備を果たす。
  • DECとIntelのチップ訴訟は、10年間の特許クロスライセンス契約を結ぶことで合意に達する。

 1998年
 4月 AOPマシンが発売される。第一弾はPower CCであり、遅れてMotorora、U-Max、国内からはパイオニア、アキアから互換機が発売される。
 8月 Appleからマルチブート対応のAOP Macが発売される。同時にTrue64をベースにしたMacサーバを発表。次期MacOSはUNIXベースではないかと噂される。
 年末 666MHzに達する。
     IntelのPentiumAは450MHz。
  • 互換機の仕様は、PCアーキテクチャそのものであった。そのためApple製AOPに比べ、安価で高性能であった。
  • Microsoft、Windows98発売。最後のWindows9xとなる。

 1999年
 2月 Genesisから2/4ウェイMPシステムが発売される。
 年末 Alpha21264の新コアで1GHzを達成する。
     PentiumB/733MHz Athlon/750MHz。
  • 互換機の販売は好調であるが、Alpha Macのシェアは横ばい。
  • GenesisマシンはAOPファミリー中最速であり、最高価格機となる。CGプロダクションのスタンダードとなる。
  • MacOSのライセンス規定が厳しくなる。ユーザの激しい反発にあい、Appleは一週間後に変更(元どおり)する。
  • クロックアップ競争激化。P6コア、K7コアともに激しく追い上げる。
  • AOP上でMacOSとWindowsNTをマルチブートで使用するユーザが増加。
  • IntelはLinuxサポートを強化する。

 2000年
 4月 MacOS9.0βが配布される。
 年末 Alpha/1.33GHz Pentium4/1.5GHz Athlon/1.2GHz。
  • MacOS9.0は予想どおりUNIXであり、ユーザの賛否を浴びる。
  • WindowsNT5.0発売。
  • 各CPUともに0.18μmでの製造にかかる。これによって1GHz時代を迎える。

 2001年
 3月 MacOS9.0が発売される。
     G.アメリオ退任。後任にE.ハンコックが就任する。HPとならぶ女性CEO誕生に沸く。
 4月 Alpha21364の投入。最大4個のスレッドを管理する機能「Simultaneous Multithreading(SMT)」を搭載する。
 年末 Alpha/1.2GHz Pentium4/2.0GHz Athlon/1.6GHz。
  • かつて無敵のクロックを誇ったAlphaも等外者となる。しかし、SMTによって4ウエイのマルチプロセッサシステムと同じ並列処理をワンチップで実現できるため、最速の座は揺るがず。
  • Appleのシェア低下。一方、互換機のシェアは増加する。PCアーキテクチャを半年遅れで取り入れる互換機メーカーのステータスが高まる。

 2002年
 1月 S.ジョブズがアドバイザーとしてAppleに復帰する。
 8月 AppleはOSのライセンス停止を発表する。
 年末 Alpha/1.6GHz、Pentium4/3.06GHz、Athlon/2.26GHz。
  • IT不況のなか、シェアを低下させ続けるAppleは、40パーセントに及ぶ互換機のシェアを刈り取る暴挙に出た。Macユーザ・コミュニティは反発し、対立深まる。
  • 各CPUともに0.13μmでの製造にかかる。これによって2GHzオーバー時代を迎える。
  • Intelは、SMTに対してHyper-Threadingで対抗する。

 2003年
 1月 E.ハンコック退任。後任CEOにS.ジョブズ就任。
  • ハンコックの退任理由は、ユーザの信頼を裏切ったことに対する責任をとるためであった。しかし、ライセンス停止を強引に推進したのは、実はジョブズであった。
  • ジョブズ復権とともに暗雲が広がり始める。


 妄想はきりがありません。我ながら、ばかげたことを書いています。でも、AppleがAlphaを獲得していれば、DEC、Appleともに違った歴史を刻んだことでしょう。それがどのような経緯を辿るかは神のみぞです。
 今回の妄想ネタは記憶を頼りに書きました。間違った記述が散見されることと思いますが、妄想ネタということでご寛恕を。
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四拾弐  TV買い換え(2002/9/7)
 以前、貧乏性にも書いたNECのモニタが、先週の日曜日突然死しました。電源関係の故障と考えられます。修理するとなれば、分解、チェック、部品発注、組み立てと、かなり時間がかかりそうです。日曜の午後、見たい番組があったので、思い切って買い換えました。

 急いでいたので(故障に気づいたのが番組一時間前)、近所のDIYショップで購入しました。私が欲しいのは15型のコンパクトなやつです。理想はチューナーつき液晶TVですが、7万円前後といったところでしょう。(>_<)<高くてとても買えましぇ〜ん 次候補はチューナーつき15型モニタですが、該当商品は製造されていないと思います。仮にあったとしても、発注していては今日の番組に間に合いません。

 店頭で確認すると15型は相対的に高く、21型がお得です。価格差は1万円弱でしかありません。TVをボックスに収納する都合から15型にせざるをえません。ただ、スペースの問題がなくても21型は別段欲しくもありません。TVはパソコン・モニタに比べ、ドットがあまりに粗くて見るに耐えません。同じ15型で比較すると、蛍光体のサイズが5倍くらい違います(印象比較です。アバウトなもので)。特に21型は余計に粗さが拡大されます。文字や直線部分がガタガタでジャギーだらけです。距離を空ければ目立たなくなりますが、それだと大きな画面サイズの意味がありません。私は昔から大画面TVを嫌っていました。高価、占有面積が大きい、電気代がかさむでいいところがありません。大画面の迫力ったって、上に書いたように適切な視野角を確保すれば、相対的に小さな画面にしかなりません。一体、どんなメリットがあるというのでしょうかね。

 私が買ったのはシャープ製のけったいなTVです。ままごと玩具風というか、iMac風(背面に取っ手まである)というか、ノスタルジックとモダンの融合というか、いかにも女子供向けコンセプト商品です。好みではありませんが、画質評価で多少ともましな本機に決めました。
 壊れたモニタはパソコン用とあって、実に高機能でした。ロートルながら捨てられなかったのもそのためです。まず、画像表示エリアがTVに比べて二周りくらい広大です。ソース映像発信側は、あらゆるTVでの再現性を考慮し、セイフティ・ゾーン内に収まるように構成します。15型TVのブラウン管の大半は、セイフティ・ゾーンをクリアするのがやっとです。廉価機の中にはクリアできていない機種も存在します。例えば、洋画の字幕が表示エリアから外れかけになっているものなどがそうです。本来なら若干の余裕をみているはずです。旧機を使用することによって、セイフティ・ゾーンを実感しました。通常のTVでは、アナウンサーの胸元までしか見えないケースでも、手元のテーブルまで見えます。CMや番組のフリップは、必ずセイフティ・ゾーン内に収めます。それが周囲に広大な余裕エリアが確保されています。加えて、表示エリアを移動できました。左右に移動すると、通常のTVでは絶対に見ることのできない映像の端っこを拝めました。例えば、アニメ放映画面を移動すると、セル画の端から端まで確認できました。アニメータも端の方は適当に描きとばしています。

 下の写真は、新型TVが自室のシールド・ボックスに鎮座した図です。ご覧のように、大げさな防磁ケースに収めています。最近のTVが地磁気の影響を受けることはまずありません。薄い鉄板で組み、ラッカーを吹きつけています。防磁ケースが載っている台は、オーディオ用につくった自作ラックです。外装をクロスで仕上げ、木口に薄板を貼っているので判りませんが、実は厚板の端切れを貼り合わせたものです。オーディオに詳しい方なら、長岡式ラックだと見破ったことでしょう。下段のVTRプレーヤーが現役で、上段のモノはダビング用です。三菱のHV-S65といって14年ほど前に買ったものですが、未だに現役です。これは名機といっていいでしょう。再生ヘッドにセンダストを採用しています。私、センダストのファンなのです。カセット・デッキも二代にわたってセンダスト・ヘッドを愛用していました。パーマロイやフェライトに比べ、明らかにワイドレンジです。VTR再生でも、ディティールまで分解してみせます。
 なんだかんだと能書きをたれていますが、要するに貧乏性なだけです。
 NEC/PC-TV352
 シャープ/15C-FM1

 もうひとつ小ネタ
 数日前、職場のG4MacのHDDが異音を発してアクセスできなくなりました。まったくマウントされずに「カッチャ、カッチャ」という音を発するばかりでした。こりゃあかん−保証も一年前に切れてるし、買う金はないし−どないしよう。諦める前に念のためにと、HDDをPCに繋いでBIOSでチェックしました。最初は認識しなかったものの、指定バス上をオートでチェックさせると見事に認識しました。そこでMacに再接続すると、あら不思議、快調に動作し始めました。
 Macのブラックボックス化もよしあしです。初心者に優しいのは結構なことなのですが、ハードウェアに直接アクセスさせてくれれば、PCのようにローレベルでチェックできるのにねえ。
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四拾壱  一体どうなっているのか(2002/9/1)
 DTP帖で、カラー・マネージメントについていろいろ書いています。その中で、私もよく分からない、疑問だらけだと書きました。そのいくつかについての説明をみつけました。大日本スクリーン製造(株)の関係者で、業界有名人の郡司秀明氏のコラムです。
 郡司氏は、以前スキャナ開発に携わっていたそうですが、現在はマーケティング部に在籍している模様です。マスター郡司と称して「DTP WORLD」誌創刊より(正確には2号から)連載をもっています。また、ZDNet にも連載をもっており、興味深いコラムを提供してくれています。マスターのつぶやき(ZDNet JAPAN)がそれです。

 疑問その1:モニタの色温度はモニタ側で調整できる。しかし、設定色温度ははたして正確なのか?
 郡司さんのコラムによると、正確に測定するとかなりのズレがあるそうです。詳しい内容の引用は遠慮しておきます。詳細は上のURLを辿ってください。結論だけ書くと、DTP用のCRTはともかく、普及価格帯のCRTでの5000Kは無理があるそうです。低い色温度設定はブラウン管の負担になるそうで、故障の原因になったり、寿命を縮めたりするそうです。しかも指定色温度を正確に再現できていないことが多いので、無理をせずに6500Kでいいんじゃないかということです。
 なるほどです。その差は小さなものだから、あえて無理をしなくていいと言っています。しかし、5000Kと6500Kでは色再現性に相当な隔たりがあると思うのですが‥‥当方の環境に問題があるのかなあ。う〜ん、余計に悩みが深くなってきました。どうすればいいんだろう。

 疑問その2:カラーバランス(ゲイン)調整をすると、諧調に偏りが生ずるのでは?
 RGBのゲイン調整をすると、場合によっては諧調の一部がスカスカになったり、逆にリッチになるのではないかと想像していました。特に液晶パネルの調整をすると、偏りを実感することがあります。郡司さんのコラムによると、どうもこの危惧はアリみたいです。プロは縮退とかスキップと呼ぶそうです。同じく詳細は元を読んでください。

 他にも私が読んで参考になったのは、液晶パネルについての説明です。私は、単純に液晶パネルはDTP向きでないと考えていました。でも、モノによっては液晶の方が優れているケースもありそうです。液晶の色温度はバックライトの色温度です。たいていの液晶は9000K程度で、当然のことながら紙白とかけ離れています。当然、キャリブレーション・ツールで調整しなければいけませんが、上に書いた諧調の損失が問題になります。特にBで顕著でしょう。ただ、ごく少数ながら5000Kの製品があり、これは完全に5000Kが安定して保証されているそうです。例えば、IBMの22.2インチ液晶モニタは、D50/γ1.8で、抜群の表示性能だそうです。3,840 x 2,400ドットの超高精細で話題になったヤツです(http://www-6.ibm.com/jp/pc/option/obi/nob13/9503dg1/9503dg1a.html)。これ欲しいけど125万円なんだなあ。しかもビデオカードが対応できていないし、そもそもWindowsOSもこの解像度に対応できていません(細かくカスタマイズすればいいんだけどね)。画面描画にPDF(ディスプレイPostScriptの発展型)を応用しているMacOSXでさえ、204ppiは想定していないそうです。

 カラー・マネージメントとは関係ないのですが、やはり疑問氷解の説明が書かれていました。下に配置した画像ですが、誰もが一度は目にしているでしょう。これはSCID(Standard Color Image Data)と呼ばれる画像評価用標準データだそうです。雑誌や製品カタログの画質評価に使われていますね。これらは一体何ものなのか、長いこと疑問に思っていましたが納得しました。郡司さんは画質評価のポイントを記しています。是非とも一度ご覧になってください。
    
 郡司氏のコラムを読むと、カラー・マネージメントは専門家にとってさえ未知の部分があったり、或いは疑問の宝庫みたいです。それだけに好奇心を駆られもするし、面白くもあります。印刷会社のように、色再現性がクレームの対象になるところでは、そんな呑気なことは言っていられないでしょうが。
 今回はカラー・マネージメントについて触れていますが、疑問符のついた話であり、確定的な内容ではありませんので通常のコラムに書きとめました。
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