徳島市コミセンまつりで旧津田海岸堤防
松林の中を歩く参加者。 |
@ 懐恩之碑 |
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昭和10年海浜地区の蜂須賀地五十町歩を小作人に破格の価額をもって払い下げた蜂須賀家顧問(番頭役)青木盤雄翁(青木岩覆う)称賛の碑である。 |
A 御台場(おだいば)砲台場 |
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この「トリデ」は藩命により、海岸線から3間半(6メートル)沖に突き出した台地に「カノン砲」20門(30門説あり)を据え、沖の洲の副砲台と共に黒船に備え訓練していた。時折チャンバラもあり士気の高揚に動めていたが、幸いにも実戦に使うこと無く、明治4年万代新田(現在のニチイのあたり)に野覆みされた。今は、「三和土」(松やに、石灰、小砂利をまぜたもの)で造った弾庫の壁が往時の名残を止めている。
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B おいべっさん |
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浦浜漁業者の信仰があつく、豊漁、海上安全の神様である。文久2年、漁師が寄進した手洗鉢(ちょうずぱち)が残っている。この時期が阿波国一の港町を誇ったのであろう。なお、この辺が民族芸能をはじめ町の文化の中心地であった。
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C 津田港築港の碑 |
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「鯛になりたや鳴門の鯛に阿波与一兵衛にとられたい」この句で分かるように大和屋与一兵衛は、文化3年、津田浦の網元の家に生まれ、漁業開発の先駆者であり、また津田港築造の先覚功労者でもある。
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津田のもうひとつの顔、六右衛門
たぬきも洞穴から出てきて愛嬌を
振りまいた。 |
D 水神さん(覗竜石) |
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昔、津田島の往来の起点は、岩のはなであった。文化年間までこの岩に波が打ちかけ、干潮時に麓の岩づたいに渡し場(西裏川・西裏入江ともいった) に出て舟を利用していた。江戸末期の安政以降に自然発生的に水神(水波女命ミコト)さんが祭られ漁業者の崇敬があつい。 |
覗竜石 |
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横の岩肌に波ざれの跡あり、岡本呑洋先生、「覗竜石」と名づけ、立て札を立てたが今はない。
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E 津田八幡神社 |
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八幡さんの参道の側に、人間が生死の境にあるとき、船が遭難して、「助けてくれ、生きとれよう」というとき、千べんまいりをした石柱がある。神木は楠で樹齢500年を超える巨木で根本には空洞があり、寄生植物がついて威厳がある。
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F 穴観音 |
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昔の貝塚であり、古来より石仏が安置されており「穴観音」と呼ばれ「女人信仰」の象徴として崇められてきた。伝説「阿波狸合戦」の勇将六右衛門狸の本拠である。
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津田の町をほぼ半周する行程
で3時間もかかりましたが
皆さん元気に歩かれました。 |
G 山瀬佐蔵(ヤマセスケゾウ)の墓 |
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天明の生まれ、徳島藩測量方となり、文化5年幕命により伊能忠敬が阿波沿岸の測量に来たときに助手を務める。文政11年、阿波国517村精密全絵図を完成さす。
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H 入船地蔵(与茂田のお地蔵さん) |
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昔は勝浦川を通る船の安全を祈願して、ほとりに建てられていたが、土手の改修工事により、この地に移転された。またコックリサンとも関係があり、人の障害を幸せに導く本尊である。
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I お旅所 |
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八幡さんの祭りに御神体が渡御する場所。与茂田の直線道路に津田の競馬があり、旧国道55号線(現県道120号線)から大正中期にこの地に移され、この競馬場の決勝地点が津田のお旅所である。
○ お旅所:江戸時代からあり、村境に設けるのが普通。
○ 渡 御:御神体がお宮を離れて、お旅所に行くこと。
○ 競馬場:道にポプラ並木があったが、昭和9年の室戸台風により倒れる。
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