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    @ 懐恩の碑
    A お台場
    B おいべっさん
    C 津田港築港の碑
    D 水神さん
    E 津田八幡神社
    F 穴観音
    G 山瀬佐蔵の墓
    H 入船地蔵
    I お旅所
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津田の町は歴史が古く、史跡も数多くある。平成14年11月10日 徳島市コミセン祭りが
開催され、津田の町の史跡が紹介された。
このページは、そのときのパンフレットを掲載する。
@ 懐恩の碑 A お台場 B おいべっさん C 津田港築港の碑 D水神さん
E 津田八幡神社 F 穴観音 G 山瀬佐蔵の墓 H 入船地蔵 I お旅所



徳島市コミセンまつりで旧津田海岸堤防
松林の中を歩く参加者。
@ 懐恩之碑
昭和10年海浜地区の蜂須賀地五十町歩を小作人に破格の価額をもって払い下げた蜂須賀家顧問(番頭役)青木盤雄翁(青木岩覆う)称賛の碑である。
A 御台場(おだいば)砲台場
  この「トリデ」は藩命により、海岸線から3間半(6メートル)沖に突き出した台地に「カノン砲」20門(30門説あり)を据え、沖の洲の副砲台と共に黒船に備え訓練していた。時折チャンバラもあり士気の高揚に動めていたが、幸いにも実戦に使うこと無く、明治4年万代新田(現在のニチイのあたり)に野覆みされた。今は、「三和土」(松やに、石灰、小砂利をまぜたもの)で造った弾庫の壁が往時の名残を止めている。
B おいべっさん
  浦浜漁業者の信仰があつく、豊漁、海上安全の神様である。文久2年、漁師が寄進した手洗鉢(ちょうずぱち)が残っている。この時期が阿波国一の港町を誇ったのであろう。なお、この辺が民族芸能をはじめ町の文化の中心地であった。
C 津田港築港の碑
  「鯛になりたや鳴門の鯛に阿波与一兵衛にとられたい」この句で分かるように大和屋与一兵衛は、文化3年、津田浦の網元の家に生まれ、漁業開発の先駆者であり、また津田港築造の先覚功労者でもある。


津田のもうひとつの顔、六右衛門
たぬきも洞穴から出てきて愛嬌を
振りまいた。
D 水神さん(覗竜石)
  昔、津田島の往来の起点は、岩のはなであった。文化年間までこの岩に波が打ちかけ、干潮時に麓の岩づたいに渡し場(西裏川・西裏入江ともいった) に出て舟を利用していた。江戸末期の安政以降に自然発生的に水神(水波女命ミコト)さんが祭られ漁業者の崇敬があつい。
覗竜石
横の岩肌に波ざれの跡あり、岡本呑洋先生、「覗竜石」と名づけ、立て札を立てたが今はない。
E 津田八幡神社
八幡さんの参道の側に、人間が生死の境にあるとき、船が遭難して、「助けてくれ、生きとれよう」というとき、千べんまいりをした石柱がある。神木は楠で樹齢500年を超える巨木で根本には空洞があり、寄生植物がついて威厳がある。
F 穴観音
昔の貝塚であり、古来より石仏が安置されており「穴観音」と呼ばれ「女人信仰」の象徴として崇められてきた。伝説「阿波狸合戦」の勇将六右衛門狸の本拠である。


津田の町をほぼ半周する行程
で3時間もかかりましたが
皆さん元気に歩かれました。
G 山瀬佐蔵(ヤマセスケゾウ)の墓
天明の生まれ、徳島藩測量方となり、文化5年幕命により伊能忠敬が阿波沿岸の測量に来たときに助手を務める。文政11年、阿波国517村精密全絵図を完成さす。
H 入船地蔵(与茂田のお地蔵さん)
昔は勝浦川を通る船の安全を祈願して、ほとりに建てられていたが、土手の改修工事により、この地に移転された。またコックリサンとも関係があり、人の障害を幸せに導く本尊である。
I お旅所
八幡さんの祭りに御神体が渡御する場所。与茂田の直線道路に津田の競馬があり、旧国道55号線(現県道120号線)から大正中期にこの地に移され、この競馬場の決勝地点が津田のお旅所である。
       ○ お旅所:江戸時代からあり、村境に設けるのが普通。
       ○ 渡 御:御神体がお宮を離れて、お旅所に行くこと。
       ○ 競馬場:道にポプラ並木があったが、昭和9年の室戸台風により倒れる。

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懐恩の碑
(イラスト提供:清崎邦博氏)
徳島市営バス津田行き 津田回転場バス停前
旧津田海岸入り口
 この付近の土地は、蜂須賀家が所有していましたが、昭和10年この土地を譲り受けるために、小作人一同が蜂須賀家に対する交渉を市当局へ陳情に行ったり、郡茂吉さんほか3名の代表者が上京して懇願したりしました。
 その結果、田7町4畝、畑20町17畝、宅地8,800坪、雑種地21町35畝合わせて約50町歩(約15万坪)の土地を小作人のために破格の価格で譲り受けることができ、更に原野20町歩(6万坪)余りは、無償贈与を受けることができました。
 この原野6万坪というのは、海浜公園にする約束で贈与され松林の後ろの堤防から渚まで200メートルもあったそうですが、南海地震などで地盤が沈み、砂浜は半分の3万坪にまで、減少したそうです。
 それでも、昭和30年代後半には、一日3万人もの海水浴客で賑わったそうです。
 41年から木材団地にするため、埋め立て工事が始まり、45年には完全に姿を消してしまいました。
 その土地交渉の際の、蜂須賀家側の交渉人が顧問の青木盤雄校翁で、この青木翁の慈悲と恩恵に対して心からの感謝の意を込め小作人達が、後生に伝えようと昭和11年9月に登記完了したのがこの碑でこざいます。


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懐恩の碑



(イラスト提供:清崎邦博氏)
津田町二丁目7あたり


史跡公園に残る弾薬庫の一部



ここは地元では「御台場」と慣れ親しんで呼んでいる砲台場跡の一部が昭和59年に津田文化財保護会や地元の皆さまの協力で史跡公園として整備されたところです。
嘉永6年(1853年)ペリー提督が黒船4隻を率いて浦賀に来航し、幕府に開港を迫ってきました。
幕府は、急いで海の防備策を立て各藩に厳重に防備の命令を下しました。
その時徳島藩では、海の玄関、津田浦に砲台場を作ることとなりました。
砲台場は海岸線より3間半沖に突きだして台地が築造され、工事の資材は主に津田山の土石と松丸太が使われたようです。
その台地の上に「カノン砲」20門を据え、対岸の沖の洲の副砲台と共に黒船に備え、訓練していたそうです。常駐の兵士は40名位いて、属に「キジ兵」と呼ばれていたようです。
そして発射訓練の時も「隊長、撃ちまひょか。どうしまひょか。」「あいやー、待て待て」といった具合で、悠長だったようです。また、干潮の時には、訓練兵たちが、海中に飛び込み砲弾を拾い集める光景も珍しくなかったようです。
幸いにも、津田のお台場の大砲は、実戦に使うことなく明治2年の版籍奉還の翌年に廃止となり、明治4年に取り壊され、その後永年万代町(現在のサティ)に野積みされていたそうです。
今残っているのは、弾薬庫の一部で三和土(だたき、松ヤニ、石灰、小砂利を練り混ぜた堅固なもの)部分です。
この公園は、当時のお台場の広さの11分の1の面積だそうです。
この付近は、宅地化が進みすっかり様子は変わり、その頃の面影は全く残っていません。

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懐恩の碑

蛭子神社
津田本町1丁目

おいべっさんと言えば、通町が有名ですが、津田のおいべっさんは通町より古く、文久2年頃に社ができています。昔から豊漁、海上安全の神様として、漁師の信仰心が厚いことで知られています。
 昔は沖まで出て行かなくても、魚などが豊富で、地引き網とか、一本釣りが中心で、その人達が寄進した手水鉢が今も境内に残っています。この時期が阿波の国で一番の港町として津田がもっとも栄えた頃です。
 おいべっさんの前を東へ通るこの路筋は、三味線、浄瑠璃の興業が盛んで津田の文化の中心地でありました。
 戦前まで賑わいのあったこの通りも敗戦を境に急激に衰退してしまいました。



津田漁民に親しまれた手水鉢
(文久年の銘)

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懐恩の碑


築港の碑
現在の津田港の様子の説明、ちょうど風の強い日で休漁の日なので港は大小の漁船が繋がれていました。しかしこの港にも今までにどの様な、変遷を経てきたのでしょうか。
江戸時代、弘化、嘉永の年間には阿波と上方との間に、二百石船が出入りするようになりました。この様に江戸時代から大正にかけて、阿波の国第一の港町として知られていました。阿波藩としても藩の表玄関として、津田河口御番所が設けられて、常時4名の役人がつめて、城下に出入りの舟の監視にあたり、出船は阿波特産の塩、藍、砂糖、煙草、反物、玄米などあり、その量は莫大な物でした。又、入船に関しては、その船の船籍地の庄屋の発行した手形により、行き先積荷乗船者の人数、又職業まで厳しく検査され手形の提出があったようです。
出入りの船は関西のみならず、関東からの出入りが多く、港が繁栄すればするほど、港の土砂の移動、堆積も激しく、港の修復が必要となり築港が迫られてきます。時は幕末藩政末期の混乱時代、申請して代官所よりの許可は下りたものの、藩としても財力なく助成金の一切もありません。この時にこの築港の碑に刻まれている6名の人達世話人の資金と、住民達の労力によって、慶応元年の丑年に完成しました。
その功績をたたえた為に出来たのがこの碑です。
十四軒屋次良兵衛
大和屋虎蔵
湊屋茂兵衛
濱屋庄作
團弥助
大和屋与一兵衛
この様に苦労の末に築港した港も、明治末期大正の初期には、貨物は福島から中洲に出来た徳島港へ、又、旅客は小松島へと移り現在のような漁港になったのです。
津田港の最盛期には四十数軒の回船問屋があり、白壁の倉が並び船会社の倉庫もあり、又風待ちの為船宿、料理茶屋も出来て港の周囲は大変賑わっていました。
出船入船の数が少なくなるにつれ、それらの家も少なくなりました。余談になりますが、その頃残っていた家並みを使って、「阿波の踊り子」の映画ロケがあり、往年の大スターの方々の話も出来ました。
團弥助のことも少々知っていましたのでちょうど水神様の左側がその旧屋敷があったと説明をしますと、年輩の男の方が「それでこの上のあたりをダンと云う旧名があるんだな」とかおっしゃっていました。
十四軒屋次良兵衛さんは、旧町名で十四軒屋と云う所があったので、屋敷があったのかも知れませんね。大和屋さんは、津田には大和姓の方が多いのでその子孫の方ですとはなしました。湊屋さんと、濱屋さんは私の不勉強でわかりませんと申しました。
大和屋与一兵衛さんは、盆唄に「鯛になりたや鳴門の鯛に、阿波の与一兵衛さんに釣られたい」と唄われているくらい有名な方です。
又女の方で「三景楼」のことを聞かれたので指さして、あった場所をお教えしました。
小さな時に来られたそうです。私も「三景楼」の事は良く知っているので懐かしく話し合いました。


築港の碑(拡大)



築港の碑(さらに拡大)

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懐恩の碑



(イラスト提供:清崎邦博氏)


江戸時代の古地図の津田
昔、津田島の往来の基点は岩ノ鼻であった。
江戸時代文化年間(190年昔)までは、今の岩ノ鼻に波が打ちかけ干潮時に山麓の岩石づたいに渡し場(西裏川)に出て、舟を利用して南斉田(昭和)にあがりました。
この岩ノ鼻の北に有名な津田の立岩という細かく切り立った波ざれの岩礁が二基あり、特に津田山に映える風情は、阿波の自慢であったが、おしくも安政の大地震で崩れ、姿を消ししまった。
そのあと崇りを恐れた住民の心のよりどころとして自然発生的に水神(水波女命)さんが、津田島の基点に祀られ航海の安全を祈ったことは当然と考えられる。
昔の富田、斉田、津田の延縄漁業者等の崇敬があつく、大正年間、地元の有志によって今の本堂、鳥居などが建造され、現在に至っている。
毎年5月に沖行司(漁業者)により祀られている。


拡大すると安政の地震
で崩れたといわれる立岩
が見える



水神さん
覗竜石

岩の鼻の下、水神さんを祀ってある所に、波ざれの跡があり岡本呑洋先生が「覗竜石」と名付け、立て札を立てたが、今はありません。
このめずらしい海洋食は歴史を物語り、大正の頃までは、岩目から清水が湧いていました。
その上には、古い榎の巨木があり、養生植物をつけた、たくましい枝を大空に張り出し、県下7番目の榎といわれる銘木の下で行商人の絶好の憩いの場でありました。

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懐恩の碑

(イラスト提供:清崎邦博氏)



津田八幡神社
 奈良時代に春日領となった、この八幡神社は藩主参勤交代の海上安全を祈り、今から200年前(1705年)蜂須賀綱短公の時に社殿が再建なると伝わっています。
また古来より氏子の敬神の念あつく、五穀豊穣、海上安全、漁民の信仰を集め、大漁祈願と、津田一円の信仰あつい社です。(最近では平成8年に改修工事がされています。)
また7月25日、10月26日の大祭は、多くの露天商が立ち並び今も賑やかですが、昭和11年ごろは学校も全休で好漁が続きとても賑やかなお祭りだったようです。
当時はいなせな格好の担ぎ手も多く、5台の屋台が町中をねり歩き「ヨイヤー、チョウサジャーチョウサジャー」の声と太鼓の音が鳴り響いたようです。

A大楠

大楠
次に大楠をご覧下さい。
この大楠は樹齢約600年の巨木で(昭和4年の斉津村誌で500年)徳島市指定保存樹木第8号になっています。目通り(目の高さでの幹の太さ)9.92m樹高20m枝張29.2mあります。(インターネットより)根本には大きな空洞があり、着生植物が付いたたくましい枝を大空に振りだし、社地の象徴になっています。
すぐ裏に大楠大明神(お元大明神)として親しまれています。

B百度石、千度石


千度石

これが百度石と千度石です。
「百度石」は県下各地のお宮やお寺にありますが、「千度石」はなかなか珍しいものです。
石の掘りに発願者、柳屋六兵衛、安政6年9月、石工当、浦久吉とあります。たとえば、病人の病が思い時は百度石に願いをかけ、船が遭難してその安否を気遣うような大がかりな事が起きたときには願いを込めて「助けてくれ、生きとれよー」と千遍参りをし、その奇跡を神仏にすがったものです。
それでは階段を上がって下さい。
本殿左に大正4年に作られた「数取り板」があります。当浦北、中松原、有多瀬組とあり、なかなか珍しいもので、百度参りや千度参りに使われたようです。(上段に19枚、かだんに50枚あります。)

Cその他
右奥に阿波の狸合戦で有名な六右衛門方の大将として奮戦し、戦死をとげた権右衛門大明神というたぬきの社があります(名もない狸は「よろ大明神」として祭られているそうです。)この権右衛門、生前は津田寺の本堂下に住み、時の住職に可愛がられて愛嬌をふりましたと言います。
 古老の話によると、家内安全、商売繁盛、交通安全、特に入学試験などに霊験があると言われています。

この慰霊塔のところが観音堂で、そこを明治6年「化成校」(現在の津田小学校)として発足し、明治37年には絵馬堂も使って校舎にしていました。明治39年まで教育の場となっていました。

○この神社の裏へ廻ると、境内の外に江戸積み回船の海上安全を祈願した石柱1対「江戸積み海上安全の碑」があります。この津田の町は阿波国一の海運の港町で、江戸まで当時40日かかったそうです。

○その内側に5角柱の土地の神様「地神さん」と、津田新浜では一番古い石造文化財の船型の石造に馬の絵のある牛馬の守護神「野神さん」が並んでいます。

春には桜の名所として親しまれている津田山の登り口が神社の左にあります。機会があればまたゆっくりお越し下さい。


楠大明神
一名お六大明神


絵馬堂


江戸積み海上安全の碑


野神さん

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四国総大将・
六右衛門大明神の銘
穴 観 音

(イラスト提供:清崎邦博氏)


左右の2本ののぼりが
六右衛門まつりで活躍
しています。
ここは昔の貝塚でありまして、紀伊水道を一望に見渡す津田山の、一角のこの小さな洞窟の中には、優しいまなざしで、満面に笑みをたたえたふくよかな表情の石仏が安置されております。その台座には、江戸末期の天保14年5月18日當浦女人講(とううらにょにんこう)の文宇が刻まれております。古来より、この石仏が安置さ1れている洞窟は、r穴観音」と呼ばれ、地元津田町だけでなく、近くの多くの人々から慣れ親しまれ、特に「女人信仰」の象徴として崇められてきました。
154年前に、津田浦漁師のおかみさん達が、海で働くわが主や男達の安全を祈願し安置されたのが、この津田浦穴観音像です。
ここは、映画や本になったりして有名な、伝説「阿波狸合戦」の勇将、六右衛門狸の本拠いわゆる根城でもあります。伝説「阿波狸合戦」は、小松島の金長狸が、津田の六右衛門狸のもとで修行し、覚えがとても早かったので、修行が終わって返すことを惜しみ、娘の鹿の子姫の婿養子にしてこの穴観音にひきとめようとしたが、断られたため、金長と六右衛門の間で合戦が繰り広げられ、六右衛門は金長に殺されてしまい、金長もその時の傷でまもなく死亡してしまったというお話です。くわしくは、その言われ板に書かれています。
また、ここは、さきほど行かれた水神さんの所へ、洞窟がつながっているということで、それを確かめるために、この穴からにわとりと犬を入れたところ、にわとりだけが、水神さんの方へ出てきたという話が残っていま,す。犬はどうなったのでしょうか。
一時は、津田の子どもたちがホッとする場所として、時々ここを訪れていたということもききました。
それから、4月第一日曜日に行われております地域のお祭り「六右衛門祭り」では、この二本ののぼりが会場に運ばれて、活躍しているということです。来年も、4月初めになろうかと思います。コミュニティセンター近くのみどり公園で行われますので、また足をお運びください。


「阿波狸合戦」の勇将
六右衛門狸の娘、鹿
の子姫がおまつりさ
れています。
(鹿の子大明神)

「穴観音」言われ板
「海長山穴観音」といって、霊験あらたかな観音様をまつってあり、伝説「阿波狸合戦」の勇将、六右衛門狸の本拠である。
天保の頃、六右衛門は、阿波狸界の総師として羽振りをきかせていた。
修行中の弟子、小松島日開野の新進気鋭の「金長狸」をわが娘「鹿の子」の婿養子とし跡目をつがせようとしたが、受け入れられず、六右衛門は、これに奇襲をかけて打ち破り、金長は危うく逃げのびた。その後、多数の味方を得た金長は、六右衛門と対決することになり、千代が丸、勝浦川原、津田浦一帯で大合戦を展開した。阿波国内外の諸狸は、それぞれ、この両将に味方して、総勢六百余匹、一晩中死闘を続け、死屍累々として目をおおうばかりであった。六右衛門は、一敗地にまみれて討死にし、金長もまた戦傷のためまもなく死亡した。
のちそれぞれの代になって和睦をした。この合戦の際、両将に加勢した主な狸は、佐古の庚申の新八、妙長寺のお睦、臨江寺のお松、高洲の隠元、淡路の芝右衛門、屋島の八毛狸などであったという。

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懐恩の碑



山瀬佐蔵の墓

測量家である山瀬佐蔵について今から少し説明させていただきます。
今までは、津田地区の方や、それにまつわる話ばかりでしたが、この方は、津田出身ではありません。
現在の鳴門市撫養町黒崎の出身で、天明6年(1786)に生まれています。
父親の次作さんは農夫でしたが、測量の優れた技術を持っていて、六甲山の測量に行ったり
村では、用水や田畑の改修工事には、欠かせない存在でした。
一人息子の佐蔵は、子供の頃より、とてもかしこくて、父親は跡をつがせようと、測量を学ばせてやりたかったのですが、お金がありません。そこで17歳の時、庄屋の馬場七郎左衛門の口利きで、徳島藩の測量方、岡崎三蔵の手伝い人となりました。
彼の仕事ぶりがすばらしかったので、22歳の時には、三蔵の推挙によって測量方下役に出世し名字帯刀を許されて、山瀬の姓を名乗るようになりました。
有名な伊能忠敬が、日本全図作成のために、阿波沿岸の測量に訪れた際に、三蔵と共に助手をつとめました。また、忠敬に測量について教えて欲しいとお願いしましたが、聞き入れてもらえなかったので、人夫に混じって接近し測量船のこぎ手となり、勤勉に働いたのが忠敬の目にとまり、師弟の契りを結んでくれたそうです。
27歳の時に小島田村の智恵さん結婚して、子供をもうけ、仕事は順調、家庭は円満と、人生の中で一番幸せな時期だったようです。
この頃、藩の命令により、阿波の測量に架かっておりました。
吉野川上流などの難所も多数ありましたが、23年の年月を費やし、阿波517か村の全絵図「阿波全図」を文政11年に完成させました。43歳の時のことです。
この絵図は、驚くほど精密なので、藩の重役達は改めて彼の測量技術の素晴らしさを知り、「千里眼の佐」とおそれうやまったそうです。
この阿波全図は、伊能忠敬の絵図の阿波の部分よりすばらしいものと聞いております。
その後17年を費やし、津名・三原両郡の230か村の淡路の地図を完成させました。
「この測量は、ほとんど若い働きざかりの佐蔵の一人舞台だったそうです。」
その時にはすでに還暦をむかえていました。
晩年は、家庭運にあまり恵まれなかったのか、一人さびしく76才の生涯を閉じました。
今から140年ほど前1862年のことです。
孫の親長も測量家でしたが、明治45年彼が亡くなり山瀬家は途絶えました。
津田山のふもとで、一族の方と一緒に静かに眠っています。

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お参りする人が多く、きれいにされているお地蔵さん
懐恩の碑
入船地蔵さん(子安地蔵)徳島市津田町3丁
「入船地蔵」という名前を聞いたことはありますか?
私が今回説明させていただく「入船地蔵」は、現在徳島市津田町3丁目に鎮座しています。名前の通り、何か船、それも商いや交通に関係するものなのかなと考えられますよね。
津田町は園瀬川と勝浦川に囲まれており、一般的には漁業の町というイメージでしょうか。
この「入船地蔵」ば今から約170年前の江戸時代後期に勝浦川河川沿いに設置されたものだそうです。当時、勝浦川の河口にあたる現在の大原町、論田町、前原町は自然の恵みをうけ、阪神方面より海上輸送にて搬入される肥料の中継地区として重視されていました。
搬入された肥料は百石積帆船より問取船へと中積され、勝浦や打樋を漕ぎあがっていました。その頃は川幅も狭く、施肥の夏期には百数十隻がひしめきあい、無理な運航、取引が一隻満載積み取り単位で行われることによる過剰積載のため衝突、沈没等事故が絶えなかったとのことです。
そのような頃、津田の漁師の網に偶然にもお地蔵がかかり、事故防止と立ち寄る帆船の安全な航行を祈願し、「入船地蔵」と名付けられ、設置されたとのことです。
それでは、このお地蔵は誰の手によって作られ、いつ頃現在の時点に移されたものなのかということです。地域の方の話しでは、昭和63年にこのお地蔵にダンプカーが突っ込み、破損。修復の過程で「島田嘉平」氏が勝浦川の大改修工事に伴い、現時点に移されたということが判明したとのことです。島田嘉平氏は現在津田地区コミュニテイー協議会の会長をされている島田和男氏の御先祖に当たるそうです。
勝浦川の河口に設置され、川筋の船の運航安全に努めていましたが、現在は津田町3丁目の四つ辻角に般置され、行き交う子供達の護り地蔵として信仰を集めています。


津田町3丁目にある
「入船地蔵」さん

「はやり目にきく」与茂田のお地蔵さん
もう一つ、このお地蔵さんには昔からの言い伝えで「はやり目にきく」という話しがあり、与茂田のお地蔵としても有名です。
このような話しが残っています。四つ角にはコックリ、さんが居るといわれていました。
或る目の闇夜の晩に提灯を片手に、与茂田に住んでいるおばあさんが杖を頼りにソロリ、ソロリと歩いて北張(津田町)の孫娘の家に行く途中、ごのお地蔵さんの近くで目に挨が入り、目の前が見えなくなりました。
当時のことですので、現在のように舗装されているわけではありません。
いくら目をこすっても挨は取れず、涙ばかりが出てきて、どちらの方向へ進んでいいのか全く分からなくなりました。
その時です。誰かがトントンと肩をたたいてくれて、親切にも手をとってお地蔵さんの前まで連れてきて、そこにある舟形の洗水鉢の水で目を洗うよう勧められたとのことです、するとどうでしょう、目のかすみがすっきりとれ、'夜道がはっきりとみえるようになりました。
お礼にと辺りを見廻しますが、おぱあさん以外だれも.居ません。おばあさんは、お地蔵さんがコックリさんを呼んでくれたと思い、お地蔵さんに手を合わせて拝み、無事に孫娘の家までたどり着きました、それから、おぱあさんは人に会うたびにこの話しを繰り返すので、たちまち評判となり、お参りする人も多く、与茂田の地蔵として有名となりました。
昭和のはじめ頃にははやり目で目を悪くした人がこの洗水鉢で目を沸うのをよく見かけたとのことです。
現在、この洗水鉢は新しいのに造り返られており、ご利益がないのか、近年この洗水鉢で目を洗う人はあまりみかけないとのことです白皆さんが到着するまでに、このお地蔵に手を合わせている方の姿もみかけましたし、参加されている方の中にも幾人か手を合わせている方をみかけました。

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懐恩の碑



お旅所跡


競馬の石碑
秋の祭りに、津田八幡神社の御神体が、お旅所に行くことを渡御といいます。
祭りの見どころは、何といってもこの行列です。

まづ獅子舞、つづいて悪霊払いの天狗さんから始まり、おみこし、ダンジリ、サッセが暴れながら行進する勇ましい姿が町衆の心意気であったようです。しかしこの渡御は、大正6〜7年まで津田本町筋(現剣道120号線)で行われていましたが、諸般の事情により、大正8年与茂田に移されました。
道路事情の悪い時代の渡御は、馬の背に御神体を乗せ、そのあとに、関係者がお供したものです。
昭和初年まで、この祭りと並行して、与茂田で競馬があり、ともに津田の名物でした。
その馬場の両側に「ポプラ」並木がありましたが、惜しくも昭和9年の室戸台風により、全て横倒しになってしまいました。
このように町民が一丸となった津田の祭りも、太平洋戦争を境に消えていったのは、町民の知るところであります。
楠の下に、大正6年に建立された競馬の石碑が、昔を物語っています。

このページのお問い合わせは
津田コミュニティ協議会
徳島市津田町四丁目5−55
TEL088−662ー0599