屋嶋城(やしまのき・やしまじょう)

最終更新 3013.3.11

1.巻頭言 幻の屋嶋城発見のその瞬間(とき)

100%予想外のでき事でした。『これは何だ!こんな事があっていいのか?』と目を疑いつつ茫然と眺めていました。 お城の話を聞いたときは信じがたい夢物語。

※最初に出あった高石垣

しかし、この頃には歴史背景を理解して屋嶋城の値打ちを知っていました。 天然の断崖を城壁に利用した山上部には、お城の遺構はないと言われていました。
山上外周を踏査して、登れる所が少なければ『心の中にお城を描けるかも』と思ったわけです。
屋島に魅せられた男の5年計画の遊びです。
そろそろ山頂かなと見上げた瞬間に、高さ5mほどの石垣が目に飛び込んできたんです。

高石垣の南の石垣

この日は、この場所で休みながら観察しただけ。 写真も写さず、場所を覚えることに注力しました。

学術面では素人。喜びよりも、驚きと偉い物に出あったという心の重荷の方が勝っていた様に思います。数日後に、『屋嶋城跡の石垣は、私を待っていた』と。仕事ではないけれど、いつの間にか重荷を背負う覚悟が生まれていました。
(城門発掘の切っ掛となった、城門石塁を発見したときの平岡岩夫氏の様子)

2.屋嶋城について

(1)屋嶋城の概要

屋島全景の航空写真

香川県高松市の屋島(南嶺の標高292m)に築かれた古代山城。667年(天智6年)高安城(たかやすじょう)・金田城(かねだじょう)と共に築城された。 1917年(大正6年)に発見され、1922年(大正11年)に北嶺~南嶺間の浦生(うろ)の石塁(せきるい)・物見台(ものみだい)が屋嶋城の遺構として報告された。
1980年(昭和55年)初めて発掘調査が行なわれる。浦生の石塁は、標高100m付近にある。長さ47m、基底部幅約9mを誇るが、外壁は大きく崩壊している。近年までこの遺構が屋嶋城唯一の遺構であった。山上の外周部はメサ地形(注)の急崖を利用して城壁は築かれなかったとされていた。
1998年(平成10年)平岡岩夫氏により南嶺山上の南西斜面で石塁が発見された。
新発見の石塁は、標高270m付近に南北約150mにわたって断続的に続き、残存の良好な石塁は長さ6.5m高さ4.7m。 城壁上部の城内側に車道(くるまみち)状の平坦面も確認された。 これにより南嶺には、山上急崖線の切れる部分に城壁遺構があることが判明した。
南嶺全周は約4㎞である。

城門遺構の空中からの写真

2000年からは、南嶺北斜面外郭線(がいかくせん)の発掘調査が開始され、土石混合状の土塁(どるい)であることが判明した。

2002年、南嶺南西斜面石塁の北側で、城門遺構が検出された。城門幅5.4mの国内最大級の規模。

門道(もんどう)中央に排水溝が設けられ、床面は四段の階段状である。 城外と城門前面の床面に2mの段差を設け、戦闘時は昇降設備を撤去して城壁に戻す、懸門(けんもん)構造。

城門正面(城外より)

門道床面で柱穴が確認され、上屋の存在も実証された。 城門内で築城年代の土器も検出。 敵の侵入を容易に許さない種々の工夫が見える城門である事が解明された。学術調査は継続中。
(出典:東アジア考古学辞典)
(注)山上近くが断崖となる卓状地形

(2)歴史的背景

7世紀後半、朝鮮半島では新羅(しらぎ)の統一が進み、660年には唐と連合して百済(くだら)を攻め滅ぼした。

わが国は百済再興の援軍を送ったが663年、、「白村江(はくすきのえ)の戦い」で唐・新羅の連合軍に大敗した。以後わが国は朝鮮半島から全く手を引くことになった。新羅は668年、唐とむすんで高句麗(こうくり)をも滅ぼしたが、676年には唐の勢力も排除して朝鮮半島の統一が完成した。
国内では、斉明(さいめい)天皇の没後、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が皇太子のまま政治を執っていたが、やがて即位し天智(てんじ)天皇となった。 天皇は、唐・新羅の来攻に備えて対馬(つしま)・壱岐(いき)や九州北部の各地に防人(さきもり)と烽(とぶひ)をととのえ、筑紫(つくし)に土塁と水濠(すいごう)からなる水城(みずき)を築いて大宰府(だざいふ)をおき、九州から大和(やまと)に至る要所に、山城を築いて防備を固めた。
(出典:新詳日本史図説)

(3)古代山城について

飛鳥時代に西日本各地に造られ、「日本書紀」・「続日本紀(しょくにほんぎ)」等になんらかの記載が有る山城、およびその系統の山城。特に663年の白村江の戦いの後、唐や新羅による侵攻に備え、天智天皇の命で水城と各地に山城が建設された。
日本書紀における大野城(おおののき)、基肄城(きいのき)等の記事に「亡命百済貴族が築城の指導に当った」とあることから、これらを含め築城年代・構造など共通性が見られるものを「古代山城」と称する。文献に記述のない遺構として、香川県坂出市(さかいでし)の城山城(きやまじょう)・岡山県総社市(そうじゃし)の鬼ノ城(きのじょう)・愛媛県西条市(さいじょうし)の永納山城(えいのうざんじょう)など、西日本各地で22城発見されているが未調査の遺構もある。 文献に記述はあるものの、まだ場所が確認されていない城もある。新たな発見も予想されている。大規模である古代山城跡の解明には、まだまだ年月が必要な様子である。

日本書紀に築城年が明記された山城(出典:フリー百科事典『wikipedia』)

名 称 読 み 建設年 所       在
高安城 たかやすじょう 667年 奈良県生駒郡平群町久安寺・大阪府八尾市高安山
屋嶋城 やしまのき 667年 香川県高松市・屋島地区
長門城 ながとじょう 665年 山口県山口市(詳細は不明)
(※)大野城 おおのじょう 665年 福岡県太宰府市・大野城市
(※)基肄城 きいじょう 665年 佐賀県三養基郡基山町小倉
(※)金田城 かねだじょう 667年 長崎県対馬市美津島町黒瀬城山

(※)大野城、基肄城、金田城の読みは、史跡指定名称に基づき記載。

3.浦生地区の城跡について

浦生の石塁(城外側より)

平成22年の春、近年まで未確定の遺構であった浦生(うろ)の石塁の城内で、屋嶋城が築かれた年代に作られた土器が発掘されたと報道されました。

この遺構が発見された後、現在に至るまで90年強の年月を要して、いろいろと紆余曲折がありました。浦生の石塁は、大正6年に東京帝国大学の関野貞(せきのただす)教授(建築史学者・平城京の大極殿の発見者・法隆寺金堂の非再建論者)により発見された屋嶋城跡で、学会誌には「断崖のところは城壁を省略するものの南嶺と北嶺を城内に取り込み、浦生の谷を包括する山城」と、発表されています。発見された時代は山上を取り囲む列石遺構に関して、霊地を取り囲む境界石で神籠石(こうごういし)と称した「霊域説」と、「山城説」に意見がわかれました。歴史地理学・考古学の学史に残る「神籠石論争」になりました。論争の結論は時期尚早であるとの理由で休止されましたが、不思議なことに大正〜昭和時代の文化財の指定名称に「神籠石」が採用されています。

浦生の物見台(左上部)

関野先生が屋島を探索した時、讃岐の人々は城跡遺構の存在を知りませんでした。しかし、明治初期の「浦生洛中地理絵図」には、浦生の石塁の絵が描かれています。城に関した文言はありませんが「休場」と記述されています。城の事柄は時の流れとともに風化した様子ですが、この時代の浦生の人々は巨大な構築物の存在を知っていたのです。

昭和9年に「屋島」が国の「史跡・天然記念物」に指定されました。指定理由の一項に「天智天皇六年外寇防備の為に築かれたる山城の一なり」と明記され、浦生の石塁は屋嶋城跡でした。

昭和38年に発掘調査が行われた「おつぼ山神籠石」と、翌年の「石城山(いわきさん)神籠石」は山城跡であると報告されました。山上を取り囲む列石遺構は城壁の土塁の根石であることが判明したのです。
文化財の指定名称に採用された神籠石は誤りで、関野先生などの「山城説」が確定しますが、先生はこの世にいませんでした。

昭和55年の浦生の城跡調査の時点では、山上遺構は未確認で浦生の石塁が屋嶋城の唯一の遺構でした。そして、古代山城の谷を取り込む構築物は山上の城壁に繋げるのが標準の型であると解釈し、異論を唱える研究者もいました。詳細な遺構図が作成されましたが、石組では築城年代が実証できません。また、平安時代の土器を発掘したものの、飛鳥時代の遺物に出あっていませんでした。この調査は屋嶋城跡の根拠を弱める結果となった様子で、疑問視する意見も多くなりました。少なくとも考古学の視点では、「文献史学の屋嶋城は存在しても考古学での屋嶋城跡は存在しない」との状況になりました。城跡を実証できる遺構や遺物が存在しないため、肯定説・未完成説・否定説などの諸説がありました。日本書紀の9文字の「讃吉國山田郡屋嶋城(さぬきのくにやまだのこほりのやしまのき)」は、何人も明確に説明のできない「幻の城」でした。
城跡調査の4年後の昭和59年に、中世山城研究の権威、村田修三先生(元奈良女子大学教授〜大阪大学大学院教授)が南嶺山上の北斜面の土塁遺構を発見され、学内誌に発表されています。
しかし、この発見はごく少数の研究者が知るに止まっていました。
平成10年に平岡岩夫氏が城門遺構の周辺の石塁を発見します。このことが切っ掛けとなって北斜面の土塁遺構の調査や城門の発掘に繋がり、山上の屋嶋城の実在が確定しました。山上に城の遺構が認められなかった前回の調査時点では、山上の城との関連が読めませんでした。しかし、近年は国内と朝鮮半島の山城の調査と研究が進み、新たな事柄が判明しています。その中に敵軍の侵攻が予想される交通路や城への進入路に、遮断施設を築いた事例があります。築城年代の明確な遮断施設は、後の時代の大宰府地域を守るために築かれた巨大で長い堤に堀を併設した「水城」に続いて、浦生の石塁が2例目となる希少な遺構です。浦生の石塁は誠に価値のある史跡に変身したのです。瀬戸内海の西方から屋島を見れば、山上に通じた大きい谷筋と、上陸に適した砂浜が広がる浦生の海岸が目に入ります。浦生の石塁は、この谷筋から山上の城を攻撃してくるだろうと想定した城外の遮断施設で、屋嶋城の第一次の防御施設です。物見台から西方の海路を眺めたのちに、石塁の周辺の地形を含めて詳細に観察すれば、意図して敵を迎え入れても良いと思われる、山上の城への進入路を遮断した、堅固な城が見えてきます。
(出典:讃岐の宝「屋嶋城」・香川経済研究所 調査月報№301)

※ 本文中の掲載写真(*印を除く)は、高松市教育委員会の提供です。

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