坂本龍馬

坂本龍馬像

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 潮騒の音を聞きながら松並木の遊歩道を緩やかに上っていくと龍馬の背中が見えてくる。遥か彼方を見ているであろう後ろ姿は何を言わんとしているのか・・・。(桂浜 坂本龍馬像)

☆坂本龍馬の横顔☆ 

引用:「~坂本龍馬は高知の城下町に住む郷土の次男として生まれた(1835年)。脱藩して勝海舟に師事して海軍建設を計画し、又長州の桂小五郎、薩摩の西郷隆盛を説いて慶応2年(1866年)薩長両藩の同盟協約を成功させ長州に押し寄せた幕府軍を撃破した。これを機会に討幕運動が高まったが。龍馬はこの薩長に同盟の勢力に土佐藩を加え。これを背景とする王政復古を考え。土佐藩の参政後藤象二郎を説き、立憲的な議会制度を基とする新政府の出現を期した。山内容堂(15代藩主)は後藤の提案を受け入れて慶応3年(1867年)10月3日将軍慶喜に大政奉還を建白した。将軍も時勢を察し、10月14日に政権返上を朝廷に上奏した。龍馬はこれを喜び新政府創立に奔走したが、11月15日京都河原町近江屋で幕府方の刺客に襲われ、同志中岡慎太郎とともに凶刃に倒れた。龍馬は海援隊長として土佐藩の遊軍をつくり、その活躍が期待されたが、幕末の新旧対立の犠牲となった。時に龍馬33歳、慎太郎は30歳であった。」


坂本龍馬先生銅像建設由来記

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☆坂本龍馬先生銅像建設由来記☆ 

引用:「海の男としてたくましく生きた坂本龍馬先生の永遠の姿をわれわれはこの銅像にみる。海援隊を創設し、薩長同盟を成立させて土佐藩を倒幕派陣営に誘い、将軍の政権奉還による王政復古を見るまで33年の生涯を凶刃のために血潮に染められたが、先生の起案した船中八策は新日本建設の柱として残された。その立憲会議制の提唱は明治の自由民権運動として展開され、日本近代化への道を大きく開いたのである。先生の夢は後代の青年の魂を揺さぶり続け、大正の末年本県青年たちの提唱によって、銅像建設のことも立案推進された。~~~~~像身5.3メートル、台座8メートル、製作者は郷土出身の本山白雲である。除幕式の当時は軍艦「浜風」が銅像の下に投錨参列して祝意を表した。青年の力によって建設されたこの銅像は青年のシンボルとして雨の日も風の日も力強く若者たちの魂に話しかけるであろう。」