長宗我部元親

長宗我部元親 初陣像

○若宮八幡宮境内に建つ長宗我部元親初陣像

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○1560年、22歳で初陣を迎えた長宗我部元親。本山勢の立てこもる長浜城を攻めこれを打ち破る

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 (高知市長浜 若宮八幡宮境内)

浦戸城天守跡

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○長宗我部元親は、一度は四国を制覇するが、豊臣秀吉に敗れ、土佐一国となり岡豊城から大高坂城(高知城)へと移転するもその後浦戸城を改築し、1591年、元親は、浦戸城へと移る。

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○復元されている石垣

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○浦戸城天守跡を示す石碑

【以下引用】引用元:城跡サイト『古城址探訪』 

<沿革>
鎌倉時代から南北朝時代までの間に、在地領主の城館が営まれていたと考えられているが、詳しい起源は不明である。建武三/延元元年(1336)に、この地を巡って南北朝勢力が争ったことが記録に残っている。浦戸城の本格的な中世城郭としての歴史は、北から勢力を伸ばした本山茂宗(梅慶)が、天文年間(1532~55)にこの城を整備したことにはじまる。梅慶は、浦戸湾を挟んで対岸の種崎城に進出した長宗我部国親と対峙するため、浦戸城を取りたて、長浜城を新たに築いた。永禄三年(1560)、兵糧を積んで種崎城へ向かった長宗我部氏の船が、本山氏側の潮江城の兵に襲われたことから、両氏の関係は悪化し、五月二十七日の長浜戸の本の戦いへと発展した。長宗我部元親の初陣でもあったこの戦いで、長宗我部軍が勝利し、梅慶の子茂辰は浦戸城へ逃げ込んだ。国親は、陸には柵を設け、海には船を並べて浦戸城を包囲した。たちまち城中の兵糧は窮乏したが、国親はやおら囲みを解いて種崎城へ引き上げ、岡豊城へ戻った。囲みを解かれた茂辰も、兵をまとめて朝倉城へ退却した。浦戸城には国親の次男親貞が入ったが、国親はそのまま岡豊城で歿し、跡を元親が継いだ。親貞は、永禄六年(1563)に吉良峰城の吉良氏を継いだため、その後の浦戸城についてはしばらく空白の期間がある。一度は四国を手中に収めたものの、豊臣秀吉に敗れ土佐一国を安堵された元親は、天正十五年(1587)に岡豊城から大高坂城(現在の高知城)への移転を図った。しかし、普請途中の同十七年(1589)から浦戸城の改築へシフトし、同十九年(1591)に元親は同城へ移った。元親の没後、跡を継いだ四男盛親は、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍についたため、改易された。代わって山内一豊が土佐国主となるが、長宗我部氏の遺臣たちは一豊の入国を拒み、浦戸城の受け取りに派遣された井伊直政の家臣を追い返した。この後、一領具足と呼ばれる半兵半農の長宗我部旧臣らを中心に、50日に及ぶ「浦戸一揆」が起こった。一豊側が謀略をもって一揆の首謀者を討ち、一豊は新たに高知城を築いた。同八年(1603)には、一豊は高知城へ移り、浦戸城はここに廃城となった。

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浦戸古城は、海を臨む山城・・

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○浦戸古城之図(高知市民図書館蔵)を掲載した表示板

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○山城跡からの眺望は圧巻の光景

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○ここに城が築かれていたのは遥か昔のこと。今は、木漏れ日のさす遊歩道が山の尾瀬伝いに本城、三ノ下、ホリ切跡をつないでいる。

堀切跡

○堀切は、敵の攻撃から本城を守るために構えた施設で尾根を横に切断している。

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○堀切跡は木々が育ち、その根元は苔むし長い年月の経過を感じさせる。

浦戸城井戸跡

○浦戸古城の地図では、「水」の記載がある。山城にあって貴重なであったであろう。

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○浦戸城井戸跡

六体地蔵

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○一領具足の六体地蔵

若宮八幡宮

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○清涼な空気に包まれ大きな鳥居を抜けると本殿だ。長宗我部元親は、初陣前夜この地に陣を構え、一夜、戦勝を祈願し長浜城をせめ落とす。(高知市長浜 若宮八幡宮)


浦戸城天守跡

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○浦戸城古城跡地は、年月の経過で木々が生い茂り天守があったと知らせてくれるのは案内板のみとなっている。