プロフィール
永和書道会主宰(会長)
香川県美術家協会 会員
(公益社団法人)毎日書道学会 理事
古高松コミュニティーセンター 書道講師
浅野コミュニティセンター 書道講師
むれスポーツクラブ 顧問
高松市文化協会 副会長
高松市牟礼社会福祉協議会 理事
高松市少年育成委員
文化協会むれ 会長
(公益財団法人)栗山顕彰会 代表理事
牟礼地区自治会連合会 副会長
むれコミュニティ協議会 副会長
牟礼コミュニティ祭り 実行委員長
牟礼北小学校学校運営協議会 会長
懐かしの写真←クリックしてください
■これまでの龍仙の経緯
10歳(小学4年)のとき近所に出稽古においでていた青木研碩
(当時53歳)に入門する。
中学3年のときに『龍仙』という雅号を師匠よりいただく。その時、
先生自身が私に落款印を刻してくれる。(今も大切に持っている)
念願の『高松商業高等学校』に進み師匠の了解のもと、書道部
に入部。青木研碩が懇意にされていた書道部の顧問『上田晩雲
(専門は前衛)』に3年間「白と黒」の芸術論を徹底的に教わる。
その間も毎日曜日は本来の師匠青木研碩のご指導をいただく。
高校2年のとき師匠に『自分の勉強になるから近所の子供を教え
てあげなさい。もしなにかあったらわしがいつでも後押しするから
安心して教えればいい〜』 初めて近所の小学2年生2人を教え
たのは師匠の薦めからであった。高校卒業後「伊豫銀行」に勤め
るも転勤の為に書道継続の危機に。やむなく10ヶ月で退行。
銀行で仕事を教わった先輩とその後、20歳になって結婚。父の石
材加工業(庵治石)を手伝いながら、土・日曜日に子供の書道教室
をする。22歳で長女が誕生。4年後次女誕生。本格的に志度の青
木研碩の教室に『書』の勉強に毎木曜日の夜に通う。(30年間)
■第1回個展 『書のある空間』 奥谷龍仙習作展の開催
(平成元年 4/29〜5/1)年男になった『36歳』で師匠のご了解
のもと、初めての個展を志度の青龍書道会館にて開催。
初個展をやるということには、いろいろありました。当時(今も)の
「青龍書道会」で個展を開いたのは師匠以外誰もいませんでした。
ある意味タブーだったようです。先輩が誰もやらないのにお前如
きが・・・と思われていたのは痛いほど感じました。
なぜ私が36歳という若さで初個展を開いたかをお話します。
私が36歳にこだわったのは年男という歳周りでした。生涯を掛けて
12年目の年男の歳周りに合わせて個展を開こうと・・・。
36歳で初個展か48歳で初個展かを考えた時、当時私は36歳で
師匠の年齢は80歳を迎えていました。12年後の48歳となると師匠
の年齢は90歳を超えます。勿論弟子として師匠にはいつまでも
長生きして欲しいと願うのは当たり前のこと。ただ今日まで育てて
いただいたご恩はなんとしても師匠がお元気なうちに形として
残したかったのです。
誰もやったことのない個展ということで、師匠に絶対恥をかかせては
ならない。個展を開催するために綿密な計画を練り、会場の模型図
をハッポースチロールで作って師匠にお見せしました。私の決意を
ご理解いただいて師匠は大きな心で快諾して下さいました。
個展は奇しくも昭和が平成に変わった元年にたまたま開催する
ことになりました。なによりも師匠がとても喜んで下さった事を嬉
しく思いました。
それから12年後に師匠とお約束をした2回目となる個展を開催
しました。
最も見ていただきたかった師匠は前の年に永眠されました。
実は師匠が私たちの稽古をして下さったあくる日に体調を崩されて
高松中央病院に入院されました。弟子たちみんな師匠には稽古に
ついては、「体調が良くない日はお休みにしましょう〜」
と口酸っぱくお願いしていたのですが、その都度師匠から
「私は稽古が出来るから元気でいられるんです」と逆に叱られ
ました。
既に90歳を越えていたのに、細字で楷書を書いても凛として線質は
鋭く、震えることもなく姿勢は常に正座。手本に使う墨は墨液は
一切使用せず弟子が墨を磨りながら稽古をしたことを想いだします。
師匠が入院されて私がお見舞いに行った際にこんな話をしました。
当時私は作品作りに悩んでいました。県展(香川県美術展覧会)に
出品した作品が初めて漢字部門では最高の「高松市教育委員会賞」
を戴いたのでそのご報告をベッドで横になっている師匠にしました。
師匠は殆ど声にならない状態で
「そうか、そうか。それは良かったのう〜君のことは心配しとったん
じゃ。ほんまに良かったのう〜」
師匠の目にはうっすらと光るものがありました。その数日後師匠は
永眠されました。次の年は私が2回目の個展を開催する予定の年
だったのに…
こんな素晴らしい師匠に指導を得られたことを誇りに思っています。
もし36歳で初個展を開いていなかったら師匠に対して、なんの
お礼も出来ていませんでした。
若い年での個展開催は、厳しい決断でありましたが、きっと師匠は
天国で喜んでくれていると思います。
■ 『永和書道会』の設立 (平成2年4月当時) 会員数約100名
会の名前の由来は中国書道史上最も有名な王羲之が書いた蘭亭序
の始まりの、「永和九年・・・」から引用する
平成2年4月に正式に永和書道会を立ち上げる。永和書道会:現在
会員数約50名(令和4年4/1現在)
師範合格者30名(退会者を含む)
■ 『奥谷龍仙社中書作展』として、第1回展を「ヨンデンプラザ2階」で開催。 (師匠に賛助出品)
3回展、4回展は1階で行い5回展から「高松市民ギャラリー」へ
移動。
10回記念展は「高松市美術館2階」の一般展示室で開催(図録発行)
12回展からは県立の「文化会館1F、2F」での開催が決定。それと同時
に展覧会名も『永和書道会展』と変更
15回記念展は「県文化会館1F,2F、3F全館」で開催(図録発行)
20回記念展は「県文化会館2F、3F」で開催
(回顧作品展並びに選抜7人展を併催) (図録発行)
■毎年、社中展を香川県文化会館にて発表 (通算32回、開催)
■個展の開催:
● 36歳(1989年春)の年男で初個展の開催(志度青龍会館にて)
● 48歳(2001年春)の年男で第2回個展の開催(高松市民ギャラリーにて)
● 60歳(2013年春)の年男で第3回個展の開催
2013年4月18日(木)〜21日(日)県文化会館3Fにて
● 72歳(2025年春)の年男で第4回個展の予定〜
青木研碩 龍仙の師
■明治42年 香川県志度町に生まれる
■昭和7年 故辻本史邑に師事
■昭和22年 青龍書道会を結成、会長に就任
■昭和24年 (社)日本書芸院創立に当り参事としての役員を委嘱される
■香川県展に書が第5部として参加以来、連続出品、入選、入賞後審査員を歴任、
運営委員を経て招待作家となる
■昭和25年 天皇陛下香川県行幸の砌、市立高松美術館において作品が天覧の栄に浴す
■昭和27年 県立志度商業高等学校講師拝命。20年勤続
■昭和30年 関西総合美術展入選、以後3回入選(以後出品中止)
■昭和31年 日展初入選、以後4回入選 (以後出品中止)
■昭和43年 中華民国台北市において日中書法国際会議に日本代表(評議員)として出席
日・中書法国際展に日本代表として出品、作品は国立歴史博物館に永蔵される
■昭和44年 月刊書道雑誌「青龍」発刊
■昭和46年 高松藩儒青葉士弘先生の200年祭に当たり、栗林公園20有詠詩の釈分を
元内閣総理大臣佐藤栄作氏の題字により六曲屏風に揮毫、香川県文化会館に永蔵される
■四国書道展の運営委員・審査員を委嘱さる
■昭和48年 毎日書道学会の設立に参画、副会長に就任
■昭和51年 日本書道美術館参与を委嘱さる
■昭和52年 日本教育書道連盟より書道教育功労賞を受与
■昭和53年 青龍書道会台湾支局開設記念式典を台北市にて挙行、青龍書道会幹部
19名と共に訪台し書道交流を行う (龍仙も随行)
■昭和57年 香川県教育文化功労賞受賞
■昭和60年 紺綬褒章受賞 (内閣)
■平成8年 平成8年度地域文化功労者文部大臣表彰受賞
■平成12年7月30日 逝去 享年90歳
■私龍仙は10才(小学4年生)の時に初めて青木研碩に筆の持ち方
からご指導を受け2000年の夏7/30)に逝去されるまで師事
(私の師匠は、生涯唯一の師青木研碩で今後もその教えを遵守)
■青木研碩は辻本史邑(しゆう)を師とした
辻本史邑の門下に村上三島、廣津雲仙、花田峰堂、今井凌雪、
青木研碩、榊莫山先生等の近代の日本を代表する大家がいる
■龍仙のルーツ
巻 菱湖→日下部鳴鶴→近藤雪竹→辻本史邑→青木研碩→
奥谷龍仙→永和書道会会員
■巻 菱湖(りょうこ)・市河米庵(べいあん)・貫名菘翁(すうおう)を
幕末の三筆という。
市河米庵は中國宋時代の米ふつの「米」の字を自分
の号に付けるほど米ふつを敬愛していた
市河米庵は昌平坂学問所(昌平校)で、なんと柴野栗山の弟子であった
辻本史邑:(本名 勝巳) 明治28年―昭和32年(1895―1957) 青木研碩の師
■奈良県磯城郡に生まれる。近藤雪竹、中村春堂に師事、大正4年奈良師範学校卒業。
■同6年文検合格
■昭和23年日展に書道部門創設とともに審査員となる
■同28年芸術院賞受賞。日展参事、日本書道院 (現日本書芸院)初代会頭、日本書道
作振会幹事
■奈良学芸大学講師をつとめた
■辻本史邑(しゆう)は日下部鳴鶴門(くさかべめいかく)四天王の1人
近藤雪竹を師とした
※日下部鳴鶴門 (四天王)
丹羽(にわ)海鶴・渡邊沙鴎・近藤雪竹・比田井天来を指す
鳴鶴門四天王・・・大正から昭和初期の書道界に大きな足跡を残した
あとがき
青木研碩を生涯の師と仰いで『青龍書道会』で活動してきたが…・
師匠亡き後、意を決して「永和書道会」として青木研碩の考え方を
受け継いで、あくまでも中央展覧会出品のための作品制作に追わ
れることなく、古典の臨書をベースとした正当な書の方向性をめざ
すこととした。
青龍書道会には永い間、大変お世話になったことに対して、今でも
心から深く感謝している
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生年:1953年1月 職業:書家 住所: 四国(香川県高松市)
永和書道会主宰(会長)
香川県美術家協会 会員
(公益社団法人)毎日書道学会 理事
古高松コミュニティーセンター 書道講師
浅野コミュニティセンター 書道講師
むれスポーツクラブ 顧問
高松市文化協会 副会長
高松市牟礼社会福祉協議会 理事
高松市少年育成委員
文化協会むれ 会長
(公益財団法人)栗山顕彰会 代表理事
牟礼地区自治会連合会 副会長
むれコミュニティ協議会 副会長
牟礼コミュニティ祭り 実行委員長
牟礼北小学校学校運営協議会 会長
懐かしの写真←クリックしてください
■これまでの龍仙の経緯
10歳(小学4年)のとき近所に出稽古においでていた青木研碩
(当時53歳)に入門する。
中学3年のときに『龍仙』という雅号を師匠よりいただく。その時、
先生自身が私に落款印を刻してくれる。(今も大切に持っている)
念願の『高松商業高等学校』に進み師匠の了解のもと、書道部
に入部。青木研碩が懇意にされていた書道部の顧問『上田晩雲
(専門は前衛)』に3年間「白と黒」の芸術論を徹底的に教わる。
その間も毎日曜日は本来の師匠青木研碩のご指導をいただく。
高校2年のとき師匠に『自分の勉強になるから近所の子供を教え
てあげなさい。もしなにかあったらわしがいつでも後押しするから
安心して教えればいい〜』 初めて近所の小学2年生2人を教え
たのは師匠の薦めからであった。高校卒業後「伊豫銀行」に勤め
るも転勤の為に書道継続の危機に。やむなく10ヶ月で退行。
銀行で仕事を教わった先輩とその後、20歳になって結婚。父の石
材加工業(庵治石)を手伝いながら、土・日曜日に子供の書道教室
をする。22歳で長女が誕生。4年後次女誕生。本格的に志度の青
木研碩の教室に『書』の勉強に毎木曜日の夜に通う。(30年間)
■第1回個展 『書のある空間』 奥谷龍仙習作展の開催
(平成元年 4/29〜5/1)年男になった『36歳』で師匠のご了解
のもと、初めての個展を志度の青龍書道会館にて開催。
初個展をやるということには、いろいろありました。当時(今も)の
「青龍書道会」で個展を開いたのは師匠以外誰もいませんでした。
ある意味タブーだったようです。先輩が誰もやらないのにお前如
きが・・・と思われていたのは痛いほど感じました。
なぜ私が36歳という若さで初個展を開いたかをお話します。
私が36歳にこだわったのは年男という歳周りでした。生涯を掛けて
12年目の年男の歳周りに合わせて個展を開こうと・・・。
36歳で初個展か48歳で初個展かを考えた時、当時私は36歳で
師匠の年齢は80歳を迎えていました。12年後の48歳となると師匠
の年齢は90歳を超えます。勿論弟子として師匠にはいつまでも
長生きして欲しいと願うのは当たり前のこと。ただ今日まで育てて
いただいたご恩はなんとしても師匠がお元気なうちに形として
残したかったのです。
誰もやったことのない個展ということで、師匠に絶対恥をかかせては
ならない。個展を開催するために綿密な計画を練り、会場の模型図
をハッポースチロールで作って師匠にお見せしました。私の決意を
ご理解いただいて師匠は大きな心で快諾して下さいました。
個展は奇しくも昭和が平成に変わった元年にたまたま開催する
ことになりました。なによりも師匠がとても喜んで下さった事を嬉
しく思いました。
それから12年後に師匠とお約束をした2回目となる個展を開催
しました。
最も見ていただきたかった師匠は前の年に永眠されました。
実は師匠が私たちの稽古をして下さったあくる日に体調を崩されて
高松中央病院に入院されました。弟子たちみんな師匠には稽古に
ついては、「体調が良くない日はお休みにしましょう〜」
と口酸っぱくお願いしていたのですが、その都度師匠から
「私は稽古が出来るから元気でいられるんです」と逆に叱られ
ました。
既に90歳を越えていたのに、細字で楷書を書いても凛として線質は
鋭く、震えることもなく姿勢は常に正座。手本に使う墨は墨液は
一切使用せず弟子が墨を磨りながら稽古をしたことを想いだします。
師匠が入院されて私がお見舞いに行った際にこんな話をしました。
当時私は作品作りに悩んでいました。県展(香川県美術展覧会)に
出品した作品が初めて漢字部門では最高の「高松市教育委員会賞」
を戴いたのでそのご報告をベッドで横になっている師匠にしました。
師匠は殆ど声にならない状態で
「そうか、そうか。それは良かったのう〜君のことは心配しとったん
じゃ。ほんまに良かったのう〜」
師匠の目にはうっすらと光るものがありました。その数日後師匠は
永眠されました。次の年は私が2回目の個展を開催する予定の年
だったのに…
こんな素晴らしい師匠に指導を得られたことを誇りに思っています。
もし36歳で初個展を開いていなかったら師匠に対して、なんの
お礼も出来ていませんでした。
若い年での個展開催は、厳しい決断でありましたが、きっと師匠は
天国で喜んでくれていると思います。
■ 『永和書道会』の設立 (平成2年4月当時) 会員数約100名
会の名前の由来は中国書道史上最も有名な王羲之が書いた蘭亭序
の始まりの、「永和九年・・・」から引用する
平成2年4月に正式に永和書道会を立ち上げる。永和書道会:現在
会員数約50名(令和4年4/1現在)
師範合格者30名(退会者を含む)
■ 『奥谷龍仙社中書作展』として、第1回展を「ヨンデンプラザ2階」で開催。 (師匠に賛助出品)
3回展、4回展は1階で行い5回展から「高松市民ギャラリー」へ
移動。
10回記念展は「高松市美術館2階」の一般展示室で開催(図録発行)
12回展からは県立の「文化会館1F、2F」での開催が決定。それと同時
に展覧会名も『永和書道会展』と変更
15回記念展は「県文化会館1F,2F、3F全館」で開催(図録発行)
20回記念展は「県文化会館2F、3F」で開催
(回顧作品展並びに選抜7人展を併催) (図録発行)
■毎年、社中展を香川県文化会館にて発表 (通算32回、開催)
■個展の開催:
● 36歳(1989年春)の年男で初個展の開催(志度青龍会館にて)
● 48歳(2001年春)の年男で第2回個展の開催(高松市民ギャラリーにて)
● 60歳(2013年春)の年男で第3回個展の開催
2013年4月18日(木)〜21日(日)県文化会館3Fにて
● 72歳(2025年春)の年男で第4回個展の予定〜
青木研碩 龍仙の師
■明治42年 香川県志度町に生まれる
■昭和7年 故辻本史邑に師事
■昭和22年 青龍書道会を結成、会長に就任
■昭和24年 (社)日本書芸院創立に当り参事としての役員を委嘱される
■香川県展に書が第5部として参加以来、連続出品、入選、入賞後審査員を歴任、
運営委員を経て招待作家となる
■昭和25年 天皇陛下香川県行幸の砌、市立高松美術館において作品が天覧の栄に浴す
■昭和27年 県立志度商業高等学校講師拝命。20年勤続
■昭和30年 関西総合美術展入選、以後3回入選(以後出品中止)
■昭和31年 日展初入選、以後4回入選 (以後出品中止)
■昭和43年 中華民国台北市において日中書法国際会議に日本代表(評議員)として出席
日・中書法国際展に日本代表として出品、作品は国立歴史博物館に永蔵される
■昭和44年 月刊書道雑誌「青龍」発刊
■昭和46年 高松藩儒青葉士弘先生の200年祭に当たり、栗林公園20有詠詩の釈分を
元内閣総理大臣佐藤栄作氏の題字により六曲屏風に揮毫、香川県文化会館に永蔵される
■四国書道展の運営委員・審査員を委嘱さる
■昭和48年 毎日書道学会の設立に参画、副会長に就任
■昭和51年 日本書道美術館参与を委嘱さる
■昭和52年 日本教育書道連盟より書道教育功労賞を受与
■昭和53年 青龍書道会台湾支局開設記念式典を台北市にて挙行、青龍書道会幹部
19名と共に訪台し書道交流を行う (龍仙も随行)
■昭和57年 香川県教育文化功労賞受賞
■昭和60年 紺綬褒章受賞 (内閣)
■平成8年 平成8年度地域文化功労者文部大臣表彰受賞
■平成12年7月30日 逝去 享年90歳
■私龍仙は10才(小学4年生)の時に初めて青木研碩に筆の持ち方
からご指導を受け2000年の夏7/30)に逝去されるまで師事
(私の師匠は、生涯唯一の師青木研碩で今後もその教えを遵守)
■青木研碩は辻本史邑(しゆう)を師とした
辻本史邑の門下に村上三島、廣津雲仙、花田峰堂、今井凌雪、
青木研碩、榊莫山先生等の近代の日本を代表する大家がいる
■龍仙のルーツ
巻 菱湖→日下部鳴鶴→近藤雪竹→辻本史邑→青木研碩→
奥谷龍仙→永和書道会会員
■巻 菱湖(りょうこ)・市河米庵(べいあん)・貫名菘翁(すうおう)を
幕末の三筆という。
市河米庵は中國宋時代の米ふつの「米」の字を自分
の号に付けるほど米ふつを敬愛していた
市河米庵は昌平坂学問所(昌平校)で、なんと柴野栗山の弟子であった
辻本史邑:(本名 勝巳) 明治28年―昭和32年(1895―1957) 青木研碩の師
■奈良県磯城郡に生まれる。近藤雪竹、中村春堂に師事、大正4年奈良師範学校卒業。
■同6年文検合格
■昭和23年日展に書道部門創設とともに審査員となる
■同28年芸術院賞受賞。日展参事、日本書道院 (現日本書芸院)初代会頭、日本書道
作振会幹事
■奈良学芸大学講師をつとめた
■辻本史邑(しゆう)は日下部鳴鶴門(くさかべめいかく)四天王の1人
近藤雪竹を師とした
※日下部鳴鶴門 (四天王)
丹羽(にわ)海鶴・渡邊沙鴎・近藤雪竹・比田井天来を指す
鳴鶴門四天王・・・大正から昭和初期の書道界に大きな足跡を残した
あとがき
青木研碩を生涯の師と仰いで『青龍書道会』で活動してきたが…・
師匠亡き後、意を決して「永和書道会」として青木研碩の考え方を
受け継いで、あくまでも中央展覧会出品のための作品制作に追わ
れることなく、古典の臨書をベースとした正当な書の方向性をめざ
すこととした。
青龍書道会には永い間、大変お世話になったことに対して、今でも
心から深く感謝している
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