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隋・唐・五代                                      書道史トップページに戻る


  隋〜南北朝の統一
        

   隋王朝は、北朝周の名族楊堅ようけん(文帝)が、581年に周の静帝から帝位を受けて建てた王朝である。

   文帝は江南の陳を滅ぼし、南北朝を統一した。その子楊廣(煬帝ようだい)が605年に帝位につき、大運河の建造や外国遠征の

   ために苛酷な政治を行った。そのため農民の反乱がおこり、618年に部下に殺された。文帝の即位後38年間という短い隋王朝は

   滅んだ。


 隋代の書

   隋代は六朝から唐への過渡的な時代だと言われ、書体の上では楷書が整理され、すでに完成期に入ったと考えら れる。

智永(王羲之七世の孫、出家して永欣寺に住む)
龍蔵寺碑(隋・586)

真草千字文


美人董氏墓誌(隋・597)

蘇孝慈墓誌(隋・603)


唐・・・文化の栄華


   隋の武将李淵(りえん)(唐の高祖)はその子李世民(太宗)のすすめで隋に叛逆して唐王朝を建てた。

 太宗は政治的手腕にも優れ、文化事業にも積極的であった。太宗の治績は、その年号により、「貞観の治

 じょうがんのち」と称される。歴代の帝王が治世に励み、唐王朝は約290年続いた。
  
 唐の太宗と王羲之崇拝


  太宗は即位するとすぐに、宮中に弘文館を設け、五品以上の文武官に書を学ぶことを許し、欧陽詢
  (おうようじゅん)、虞世南(ぐせいなん)に楷書を教授させた。

 
初唐の三大家と楷書の完成


  欧陽詢(おうようじゅん) 557-641


 虞世南(ぐせいなん)  558-638


  ちょ遂良(ちょすいりょう) 596-658


   の3人を「初唐の三大家」という



    楷書は六朝時代におこり、基本的な形ができ、隋代に整理されて、初唐に完成された。

   初唐の三大家は、その推進役であった。  ( 虞世南は欧陽詢より1才年下 )

欧陽詢ー九成宮醴泉銘(背勢)632ー


点画に無駄がなく楷書の極則と言われる
ー孔子廟堂碑(向勢)627ー


均整の中に優美な品格を備える

 ちょ遂良 (孟法師碑642) 

(雁塔聖教序653)


筆勢が強く楷書の中に行意を含む